ゲノムの方船
日本の小説にはめずらしく世界を舞台にした国際謀略小説、本の腰巻きによれば「ヒトゲノムを巡る陰謀劇(中略)衝撃の近未来国際サスペンス」ということになる、トム・クランシーかマイケル・クライトンが書きそうな感じだ。
ウイルス兵器をめぐる陰謀物で遺伝生物学に関する蘊蓄が多く語られるのだがそういうハイテクがネタの小説にもかかわらず科学的裏付けが怪しいのではないかという疑いをいきなり抱かせてくれたおかげで私の腰は一気に引けてしまいました。
この小説の主人公はMITに教授として招聘された遺伝学専門の日本人、この分野では国際的に評価されている天才という設定なのだが、この人物が冒頭いきなりサブリミナル効果について一席ぶつ、いわく「むかしアメリカの映画館でコーラの売り上げを伸ばしたいと思った男がフィルムの間に砂漠のカットを挟み込んだところコーラの売り上げが飛躍的に伸びた」と。
これは「濡れたネコを乾かすために電子レンジに入れた人がいる」と同じ程度のヨタ話で都市伝説に近い。
実際にはこれは1957年「ピクニック」という映画に「DRINK
COCA-CORA」「EAT POPCORN」という文字を6秒置きに挟みこんだところ6週間の上映期間中コーラとポップコーンの売り上げが伸びた、と「言われている」話が発端なのだがこの「実験」と称する物は一度も論文になったことがなく、データが公開されたことがなく、実験した当人が後に「データは少なすぎて意味がなかった」と言っている怪しい代物なのだ。
この技術は「サブリミナルカット」と言われるものなのだがその後の追試でもそれが人間の行動に影響を与えたという客観データは出ておらず今や「効果ナシ」と見なされている理論なのである。
サブリミナル効果にはこの「サブリミナルカット」や「だまし絵」を使った視覚系の他に、小さな音、早回し、録音の逆回転を使った聴覚系があってこちらには効果があるという話もあるのでまるでウソとも言えないのだが、すくなくとも学問上価値がないのが明らかな「コーラの売り上げ云々」伝説を(しかも間違って)引用する作者って何? と思ってしまうわけです。
しかもこの「サブリミナル」ネタは雑談の一部などではなく、小説中重要な意味を持たされているわけなので事は重大です、調べて書いてないのか?
自分の知らない多くのことが語られている中で知っていることの一つが科学的に怪しいとわかった場合、他の部分も同様に怪しいのではないかと疑うのは当然の成り行きであり、これがハイテクスパイ小説であれば一気に熱が冷めるというものでしょう。
この小説において遺伝生物学やウイルス兵器について語られる多くの事柄はヒッチコック言うところの「マクガフィン(どうでもいいもの)」ではありません、主人公がスパイに追われる過程こそが大事であって何故追われるハメになったかはどうでもいい(多少科学的にインチキでも問題ない)というわけではありません、遺伝子工学発展の延長にある脅威そのものがこの小説の核であり面白さであるからです。
残念ながら私は早い段階でこの部分に疑いを抱いてしまったため、この小説にのめりこむことが出来ませんでした、そのスタンスが影響したのかどうか登場人物達がどうにも書き込みの甘いステレオタイプに見えて仕方ないのも評価を下げています、アメリカ大統領や世界的大財閥の長、あるいはキューバの革命評議会議長などという普遍的日本人からはかけ離れた世界に住む人々をそれらしく描くにはどうにも資料が乏しく作者の力量も足りないのではと思わせます、なんというか表現に困るのですが表現が通り一遍というか、役者がそれらしい芝居をしているだけのように見えると言うか、現実味が薄く血が通っておらず魅力がないのです。
2000枚という長編を一気に読ませるのですから失敗とも言えませんがそういった全体に漂う底の浅さが気になるので傑作とは言えません、2400円という値段はそのボリュームからすれば当然でしょうが満足感からすると高すぎます、お勧めは出来ません。
コフィンダンサー
「ボーンコレクター」に続くリンカーン・ライムシリーズ第2作、作者ジェフリー・ディーヴァーはこれから一作おきにこのシリーズを書いていくという(すでに3作目「The Empty Chair」はあがっているとか)
「ボーンコレクター」は「羊たちの沈黙」に迫ると言われた作品で、確かに首から下が動かない四肢麻痺の天才鑑識技術者が狡猾な連続殺人者と「微細証拠物件」を通じて知力の限りをつくして戦う様はミステリー&サスペンス小説に新たな地平を築いたと言ってよい。
しかし警察組織全体に対する挑戦と思われたボーンコレクターの犯行が終盤ひどく個人的な動機に収束していって、最後には「アクション」でカタがつく(!)というのはいただけなかった。
これはジョン・グリシャムの「法律事務所」やパトリシア・コーンウェルの「検死官シリーズ」を読んでも感じたことなのだが、若き弁護士が自分の法律知識を生かし知力の限りを尽くして悪の組織に戦いを挑んでいるのに何故ラストはアクションになってしまうのか? 検死官が検死から得られた証拠をもとに科学的に犯人を追いつめる知的サスペンスであるはずなのに何故に最後はアクションでカタがつくのだろうか?
ひょっとして彼(彼女)らは映画化を念頭において書いているのではあるまいか?あるいはエージェントがそう要求するのかもしれないが、ラストが「絵」になるよう無理矢理話を作っているように思えるのだ。
日本では映画化されたからといって原作者に大金が転がり込むということはまずないので映画前提にお話を作るよりまずは自分の納得のいく小説を書くというのが作家のスタンスだと思うが、一発大当たりすれば大金が転がり込むメジャー相手では話が違うのかもしれない。
・・なんて話がずれてしまったがともかく前作は知的サスペンス-急転直下のとってつけたようなアクション、という代物であったのでやや斜に構えて読み始めのであったが、これが面白い!
そもそも今回の主役はリンカーン・ライムではなく職業的暗殺者「コフィンダンサー(棺桶-コフィン-の前で踊る死に神、という入れ墨をした男)」その人であり、最初からアクション(銃撃戦はあるわ爆弾は破裂するわ)と微細証拠物件の調査による知的サスペンスの2本だてという構成になっている。
そしてこの知的サスペンスは、コフィンダンサーが警察の裏をかこうとすればライムはそれを見抜き、ライムが相手を罠にかけようと目論めばコフィンダンサーは更にその裏をかき、とチェスプレイヤー同士の手の読み合いの様相を呈していて最後までまったく飽きさせない、ラストはご多分に漏れずアクションでカタがつくのだけれど、前作と違ってアクションの要素は最初からちりばめられているので唐突な感じがなくまずはうまく終わらせていると言ってよい。
評判の良かった作品の続編というのは難しくて今ひとつなものに終わる事が多い、「羊たちの沈黙」の続編である「ハンニバル」も前作にあった耽美趣味が高じて今ふたつな出来であった。
「羊たちの沈黙に迫る」とか言われていた前作は私に言わせればまだまだ、しかしトマス・ハリスの筆が滑った「ハンニバル」と前作を上回る出来の「コフィンダンサー」では立場は逆転している。
同時期に出たのでつい比較してしまうが(つまり思うそれほどにトマス・ハリスが凄いということだが)ジェフリー・ディーヴァーはこれでレクター博士に匹敵する好敵手を想像し得たのでないだろうか(こう言ってしまうとコフィンダンサーが死なないことがバレてしまい興をそぐようだがまあ話としてライムが勝つに決まっているので死ぬか、捕まるかのラストしかないことはご理解いただけると思う、今回は捕まって終わりになるのだがいずれ再び宿命の対決編がかかれることは間違いないと私は確信する)
私としてこの本を多いに薦める、しかし前作を読んだことがない人はまず前作から入るべきだろう(でないと人間関係がよくわからない)前作とて有象無象の小説は足元にも及ばない面白い小説であるのだ。
※映画の「ボーンコレクター」を見ただけの人に申しあげます、あの映画は原作の面白さをその万分の一も伝えていません、というか改悪してつまらなくして見せています、映画とは無関係なまったく別の小説を薦められたと思って読んでみてください。
AVALON
押井作品はとりあえずディフォルトで観に行く私なのですが今回もいつもと同様若干の不安を抱いての鑑賞でした、というのは押井守の作品は耽美な自己満足的フィルムクリップに陥る可能性が高いからです。
娯楽も普遍性もそっちのけで先鋭的な映像美術の創造に走ってしまうとも言えるでしょうか、「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」という映画の法則(ディープブルーの感想でも言いましたが、スジとはストーリーのこと、ヌケとは奇麗な映像、ドウサとは芝居のことです)で言えば、スジもドウサもそっちのけでヌケを追求しているということです。
押井守の作品について触れるとき私は必ず言うのですが氏に面白い映画を撮らせようと思ったら「どうぞお好きに」とやってはダメなので、たとえば「うる星やつら」のようにティストが全然違う作品を撮らせるとスラップスティックな「ルーミックワールド」と「押井ワールド」がせめぎ合ってその葛藤から面白いものが出て来るわけです。
しかし宮崎駿いわくの「ヒットするのは良いことだ、ヒットすれば発言権が増す」ということでしょうかメディアミックスだったパトレイバーもそうとうに押井色が濃く、ムービーも1よりは2が濃く、攻殻機動隊は更に濃くなっています
そして大家になった今はもう好きに撮れるオリジナルな企画が製作されるのですがこれは実は映画にとって不幸なことです。
押井守は大変に優秀な演出家であるが故に狙いをはずしません、アニメならまったく、実写でもおそらくかなり作り込めているのでしょう、そのため本人がピンポイントに狙った映像を作ってしまうと本当に狭くて深い穴に落ち込むような世界が構築されてしまうので、はまればこれに勝る快楽もないでしょうが少しでもズレてしまうと観ているものにとって辛いものになります、簡単に言えば「ついていけない」のです。
攻殻機動隊は大変に刺激的な映像ではありましたが、観おわった後では「雨の降る香港(ですか?)の街角が延々映っていたなあ」と言う記憶しか残りませんでした、刺激的な映像シャワーのなかで私はひたすら退屈していたのです、「ケルベロス」は大変刺激的な映像ではありませんでした(!)が観終わったあとでは台湾の裏通りの主観映像が延々流れていたなあとしか覚えていません。
私にとっては攻殻機動隊はすこし、ケルベロスは大きくズレていたのです(でもピンポイントで直撃を喰った、たとえば「ビューティフルドリマー」は私の映画鑑賞ベストテンを作れば多分上位にランクされるであろう私的傑作です、話が途中で壊れていようとなんだろうとです)
さてしかし今、どんな物を見せてくれるのかとドキドキしながら映画館に足を運べる作品がどれだけあるでしょう、スクリーンが巻きあがる時ワクワクする感覚、押井守はそれを感じさせてくれるマレな監督であるのです。
・・・前説が長くなりましたが、今回の結論は「大当たり!」でした。
冒頭のバーチャルシミュレーションシーンで観客そっちのけの映像クリップをが始まったときにはこれはヤバイかもと思ったのですが、どうもこれはミニタリー趣味の監督が「本物の戦車!」 「本物のマシンガン!」で舞い上がったためのもののようです(氏の映像クリップは確信犯的行動であると思うのですが、ここに関してはどうも趣味が先行してミニタリー嗜好のない人間がどう取るかを見失ったまま編集したとしか思えませまん)
以後もまあ耽美的な映像のオンパレードではあるのですが観念的に過ぎてはおらず、スジもドウサもそこそこには描いていると言えるでしょう、娯楽映画としてスレスレながらストライクと言っていいと思います。
もっとも私自身の趣味としてもギリギリ、広がったとは言えあいかわらず間口はかなり狭いので万人にお勧め出来るものではありません、はずしたらご免ねということで、しかし私はここで宣言します、面白いです、一見の価値はあると思います、ぜひご覧ください、と。
おおっと言い忘れた、言っておかなくてはならないのが映画音楽、川井憲児の音楽最高です、映画音楽の作曲家としてもはや日本最高とまで言ってしまいましょう、***なんて目じゃないや(ってだれだヤバイこと言うな)
人工美満載(?)のアコースティックという不思議な音を聞かせてくれます、サントラCD必聴ですが、とりあえず音楽聞くだけでも映画館へ足を運ぶ価値はあります。
(だから公開終了してたらこれをビデオで観てはいけません、ブチ壊しです、DVDで良い音響環境があるならそれもいいかもしれません)
グラディエーター
モッブシーンのある歴史、コスチューム物をビデオで観た私が悪うございました、これでいいの悪いのと言ったら(いいんだけどさ)リドリー・スコットも怒るだろう。
U-571
ウォルフガング・ペーターゼンの(というかロタール=ギュンター・ブーフハイムのというか)「Uーボート」の後ではもう潜水艦映画はつらいと思う、少なくとも第2次世界大戦ものではダメで当然Uボートネタで勝負するのは無謀と言ってよい。
にもかかわらず正面きって勝負に出たからには勝算があるのかと思ったのだけれど、全然ダメ、ご都合主義が横溢していてコンバットのようであった・・というそのココロは「敵の弾はめったに当たらずヤンキーの撃った弾は百発百中、ドイツ人は悪玉という印がついた記号でしかなく、撃とうが死のうが感情移入なし(騎兵隊に対するインディアンの役どころ)主人公達は皆英雄で最後は大ハッピーエンド」というところだろうか。
だいたいにおいて私はリアルな戦争映画にヒーローが出てくると駄作の評価を下すのだがこれはそれに輪をかけてツメが甘い、そんなわけないだろうという展開が多すぎるのだ、話が多少いいかげんでも自国民が活躍さえすればヤンキーは拍手喝采なのだろうが、活躍の相手、つまり葬り去られる側の元同盟国人としては(!)とうてい共感出来ない。
戦争に負けたことのない連中にまともな戦争映画は作れないのではないかという疑いをかねてから抱いていたのであったが、今回はその印象を深めた一本であった。
ルール
原題は「Urban Legend 」日本語で言うところの「都市伝説」、これは「濡れた猫をレンジ乾かそうとした奴が居る」などといった「誰もが聞いたことがあるが本当にあったことかどうかは誰も知らない」奇妙な噂の集合体を指し示しています。
そしてこの映画は「無灯火で走っている車にハイビームで注意してはいけない-追いかけて来て殺される」などという都市伝説に従って起きる連続殺人のお話なのです、キャッチフレーズは
「知っていれば殺されずにすんだのに」
と、ここまで聞くと「どっかで聞いたような」と思う方もいるかと思いますがその通り、これはどっからどう見ても「スクリーム」3部作のマネっこなのです。
緑のキャンパスが美しい大学とそこで学ぶキャラの立った登場人物(ゴシップに強い奴、敏腕記者気どりの新聞部員、存在そのものがジョークな奴)そこで起こる一種の見立て・連続殺人事件、事件の舞台となる学生寮、主人公は美人(でノーマル)な女子学生とくればよくもまあ恥ずかしげもなく、と言わざるを得ません。
お手並み拝見、というイジワルな視線で見始めたのですがやはりこれはダメ、スプラッターマニアによるマニアのための、マニアが登場する映画であった「スクリーム」と違って「商売」で作られた映画からは「何か」が抜け落ちています。
これはノベライズ本というものが表面上どんなに面白く作ってあっても、人を感動させるなにかが決定的に抜け落ちている、という感覚に似ています、私はこれを抽象的に「魂が抜けている」と称するのですが、ひょっとしたら「映画でうけた要素を過不足なく取り入れればそれでOKなはずだ」という気のゆるみなのかもしれません。
今回の「ルール」に関して言えば、「スクリームがうけた要素を全てブチこめばいけるだろう」という計算をそこかしこに感じるのです。
映画がある一定の約束事でなりたっている以上、約束事を逆手にとった映画を作る、という作業は困難を極めます、スクリームの絶妙のバランスはマニアによるマニアのための映画という状況が奇跡的に作り出したもので容易にマネ出来るものでありません、それにスクリームとてうまくいっているのは1のみで、2,3は破綻しているのです(それでもまあ面白くはありますが)
だいたい私は「襲われた被害者がめくらめっぽうに逃げまどい、たくさんの部屋の中からたった1つを選んで逃げ込むとそこに犯人が居る」という演出を見ると「この監督には才能なし」と断じてしまいます、今回もそれに類したシーンを見て私はこの作品に引導を渡しました、これを「おかしい」と思わない感覚ではダメでしょう。
ノンちゃんに告ぐ
こういうホームページを公開していると時おり若い人から「特撮映画の仕事に就きたいのだがどうすればよいか?」というメールをいただきます・・・いただくのですがたいてい困ってしまいます、なぜと言えばたいていの相手が「困ったちゃん」だからです。
今「特撮映画の仕事に就きたいのだがどうすればよいか?」と書きましたが、多くの場合行間を読み、推測を加えるとそういうことだろうと「思われる」内容であるというだけです。
どういうことかというとたいていのメールは以下のようなものであるからです
「特撮を希望してます、メールください ノンチャン」
本名不明、性別不明、年齢不明、住所不明です、おいおいてなもんです、話を面白くしてるだろうと思われる方もいるでしょうが真実です、以下のように職に就きたいのかどうかもよくわからないメールもあります。
「特撮がやりたいです ジュン」
ひょっとして自主製作の特撮を作りたいのかもしれませんが、それで私にどうしろと? という感じです。
職に就くという話ではありませんが以下のようなメールもいただきました。
「今学校で特撮について調べています、資料があったらください、写真もお願いします サッちゃん」
学校てのが小学校なのか中学校なのか高校なのか大学なのか専門学校なのかわかりません、調べてどうするのかもわかりません、文化祭? 自由研究?(夏休みの宿題とか)
そこんとこを聞かないでは返事のしようもありません、と返事を書きましたが以後音沙汰なしです。
書くほうはメール送信フォームを使って10秒くらいで書いてよこすのかも知れませんが、こちらはえらく時間がかかります。
データがなくてはこちらも答えようがないということやそもそも人にものを頼むときはどうすべきかなどということを、あれこれ悩みつつ書いていると1時間やそこら平気でかかってしまうのです。
しかし最初からキチンとした手紙を書いてきた九州のM君以外改めてメールが来たことはありません、激しく疲労します。
聞きたいことは聞けず説教じみやことを言われてムカっときたのかもしれませんが、私としては相手の心証を害さないように(!)せいぜい心を砕いたつもりなのです・・・というわけで私としてももうヤメヤメ、という気持ちです。
とはいえ同じ特撮が好きな者として、特撮の仕事をしたいけどどうしたらいいのか見当もつかない、と悩んだことのある先輩として今後一切この手のメールに返事は出さない、と決めてしまうのにもためらいがあります、そこでこの統一見解を発表することにしました、私にその手のメールを出す方は以下の文章を読んでから改めてメールを作成してください。
*
さて私にこういったメールをよこすほとんどの方は、先に述べたように本名不明、性別不明、年齢不明、住所不明のまま自分の聞きたいことのみ書いてよこしますが、これは学生という身分にどっぷりと首までつかっているせいではないかと想像されます、ものごころついて以来ずっと学生/生徒/子供という立場に身を置いているのでそれも当然なことなのですがこれによっていつの間にか
「聞いたことには答えてもらって当然である」
という錯覚を抱いているのではないでしょうか、しかし実はあなたは(自覚はないでしょうが)授業料を払うことで物を聞く権利を得ている、先生は給料をもらうことで教える義務を負っているのです。
また親はあなたを教育する義務があるのであなたの疑問には答えてくれるはずです。
でも、私とあなたの間にその関係はありません、冷たく言えば答える義務はない、あなたの質問はあなたにとって利益があるだけです。
しかし世の中すべて損得で動いているというわけではないでしょう、同じ特撮好きとして共感できる部分がないでもありません、私としては答える気はあるのです、しかしそれは「好意」でしかないことを忘れないでください、当然のように聞く、答えを得る権利があるかのごとくに聞くというのでなく礼儀を示してくれれば答えないでもない、ということです。
自分で礼とか言うのもなんなのですが、別に礼儀を尽くせとか言っているのではありません、初対面(?)の人間には名を名乗るなどの最低限のことをしてくれということです。
ひょっとしてインターネットは匿名で事が済む世界だと思ってはいないでしょうか? それは間違いです、対面していないだけで社会のマナーやルールは同じ、どこの誰だかわからな人物には誰も本気で相手をしません。
実際問題として自分について何も語らないというのでは答えに困るのです。
先の「学校で特撮について調べています」というのもそうなのですがこういうメールをよこす人は「何も言わなければ相手には何も伝わらない」ということを忘れているのではないでしょうか。
つまり自分のことは自分がイヤというほどわかっているし、まわりの人間も友人、家族、教師、なにをどう説明せずともわかってくれている、で、つい初対面の人間にまでその関係を敷延してしまう。
「学校ったら私の**高校に決まっている」ので学校と聞いただけでは赤の他人には小学校なのか大学なのかも見当がつかないということを失念しているわけです。
職に就く話の場合もそれが小学生(希望をすてず頑張れ)中学生(高校は出るように)高校生(これが難しい、住んでいるところから親の財政状況まで関係してくる)大学(やめとけば?)専門学校(明日大映の4番ステージで9時開始だ)など大きく違います、言わなければ伝わらないこと、そしてわからないでは答えられないということを忘れないでください。
ついでに言えば「写真もお願いします」がその典型なのですが、このホームページを何か公益的なもの、あるいは営利的なものと勘違いしてはいないでしょうか。
インターネットてのは不思議な空間でインターネットショッピングサービスを提供する世界的大企業も「私の犬の写真を見て下さい」というサイトも同列に並んでいます。
前者は客からお金をいただくことを目標に活動しているので、当面お金を落とさない人間にも親切に応対してくれます、将来の顧客の可能性があるからですね、窓口もあり担当者もいるでしょう、後者はもちろんそうではありませんがインターネットの凄いところで見た目はあまり変わりありません。
現実社会でデパートの売場と個人宅の展示物を見間違える人はいませんが、インターネットでは見間違えかねないわけです。
ここは犬の写真サイトよりは普遍性があるとは思いますがそれでも一個人の趣味のサイトで私が自分のお金を持ち出して維持管理している場所です、お客様は神様だとは思っていますがそれはまったく精神的な感謝であって、代わりにサービスを提供する場所ではありません、繰り返しになりますが私がなにかするとしてもそれはまったくの好意でしかないのです。
私は職業を持ち普通に忙しく(?)暮らしており、余暇を読書や映画・音楽鑑賞やインターネットサーフィンやゲームやサイトの維持管理に費やしています、一日の大半は仕事をしており残りの大半は寝ているわけですから実のところまったく時間が足りません、観たい映画を見逃した! 積ん読の本が増え続けている! ゲームが佳境に入ったのにやる暇がない! 返事を出すべきメールが溜まっている! もう10日もホームページの更新をしてない! などと思いながら日々を過ごしているのです。
だからすべてに順位をつけることになります、従ってもらったメールがどれだけ本気かどうかも判断の材料です、ホントのことはわからないわけですから「本気に見える」かどうかということですが少なくとも
「特撮がやりたいです ジュン」
てな5秒くらいで書いたに違いないメールには本気を感じることは出来ません、先にも書いたとおり返事を書くのは私にとっては大事業なので、こういうものは後回しになる確率が大です。
つまり、本気ならその本気である所を見せてください。
ところで私の仕事は時に「普通でなく忙しくなる」事があります(操演日記読んでいただければわかると思いますが)何をするにしても睡眠時間を削るしかないような期間が年に何回か一定の間続くわけです、この期間は他の義理も欠きっぱなしです、本気を見せたのに返事がこない、と怒らないでください、本気であれば絶対にお返事は書きます、もちろんその手紙が本気で書かれたかどうかわからぬほど鈍感ではないつもりです。
*
若人に送る統一メールは以上です、なんか面倒なこと言ってやがらあ、と思われるでしょうが自分の一生の問題ならその面倒に耐えてください、逆に言ってそんならいいやで済むくらいなら私の手をわずらわさないで欲しいと言うことです。
最後に一言、同じ趣味を持ち同じ職業に就きたいと願う後輩には是非ともその希望をかなえてもらいたいと思っています、これは私も私の回りの知人友人も同じ気持ちです。
ゲッタウェイ
ポップ1280
「ポップ1280」が「このミステリーがすごい」2001年度海外部門の第一位を獲得し日本、アメリカ共に再評価著しいジム・トンプスンなわけですが「ゲッタウェイ」の原作者だったとは知りませんでした・・というかゲッタウェイに原作があるという事自体知らなかったので、あわてて探したのですが当然のように絶版で、かろうじて「ふるほん文庫やさん」から購入することが出来ました。
読んで映画と全然違うのにはびっくりしました。
映画はスティーブ・マックィーンとアリ・マッグローの夫婦は犯罪者ながら根っからの悪人でなく、仲間の裏切りにあって警察、悪党一味の両方から追われる立場になった一種の被害者(?)という風に描かれており、激しい暴力(銃撃)シーンも降りかかる火の粉は払わなければならない、という感じに仕上がっています、最後は両者の追撃を振り切って(悪党一味は皆殺しにして)無事逃げおおすというハッピーエンドでありつまりはこの二人は「良い者」として扱われているのです。
実際この映画は爽快なアクション映画として高い評価を得ているわけですが、今回改めてチェックしてみて
監督 サム・ペキンパー
脚本 ウォルター・ヒル
原作 ジム・トンプスン
主演 スティーブ・マックィーン
音楽 クインシー・ジョーンズ
というそうそうたる面子だったのには驚きました。
映画予告風に言えば
あの「ワイルド・バンチ」「わらの犬」のサム・ペキンパー監督。
「ストリートオブファイヤー」「48時間」のウォルター・ヒル脚本。
「内なる殺人者」「ポップ1280」のジム・トンプスン原作
「荒野の7人」「大脱走」のスティーブ・マックィーン主演
マイケル・ジャクソンのプロデューサー「スリラー」のクインシー・ジョーンズ作曲
ということになるわけです(時間軸が狂ってますが)これで面白くないわけがない。
映画の話が長くなってしまいましたが原作がこれと全然違うにので驚くという話でした、実際同じなところは主人公が犯罪者夫婦というところくらいなのですが、こいつらが根っからの悪党、もう正反対に違う。
で敵も味方も片端から裏切り、邪魔者は虫けらのように殺しまくって、ただひたすら逃げていく、主人公ドク・マッコイは稀代の犯罪者として登場するわけですが、それは地の文で説明されるだけで悪名が立つまでの話はなにもなく、最後に逃げ込んだ土地においてもこれから一波乱あるだろうと予感させつつ終わる、きわめてあっさりした読後感です、ドク・マッコイの人生の一場面をサッと切り取って見せましたという短編小説を読んだような印象の残る、ある意味しゃれた一品でありました。
そこいらへんで容易に手に入る本ではないのでお勧めしません。
さて次が「ポップ1280」
人口1280人の小さな町の保安官が主人公で、こいつが欲望のおもむくままに行動し、人を殺しまくる悪党なのですが、ドク・マッコイなんざ足下にもおよばないヤバイ奴です。
というのもドク・マッコイは少なくとも自分が悪党であり、重大犯罪を犯しているという意識を持って行動しているのに対し、この主人公ニック・コーリーは天然自然に、息をするように悪事を働く男だからです、ドク・マッコイには倫理観がありますがそれに従う気が無いだけ、ニック・コーリーには倫理観というものが存在しません。
といってニックにはそれが世間的にやってはいけない行為でありバレたらまずいという意識はあるわけで、この小説は最後にこの主人公が「俺はいったい何のためにこんなことばかりやっているのだろう?」という自問についに答えを得るところにまで行き着きます、この答えというのが天啓ともいうべき驚くべき内容なのですがそれは是非読んでいただいてその衝撃を味わっていただきたいので述べません(こちらは大きな本屋にいけば平積みになっているので是非呼んでいただきたい)
ゲッタウェイはシンプルな犯罪小説ですがポップ1280はそうではありません、ジム・トンプスンをコンスタントに支持してきたフランスでは一連の作品を「ロマン・ノワール-黒い小説」と呼んでいるそうです、私はこれを昔懐かしい「奇妙な味」と呼びたいと思います。
「奇妙な味」
江戸川乱歩が1950年に「英米短編ベスト集と「奇妙な味」」というエッセイで言いだした言葉。
いわく「あどけなく、可愛らしく、しかも白銀の持つ冷ややかな残酷味」又は「ぬけぬけとした、ユーモアのある、無邪気な残虐」
-映画 -バトルロワイヤル
小説「バトルロワイヤル」は昨年度のフィクション部門ベストテン<私家版>を作れば上位にランクインするであろう傑作です、これがどれだけ面白いかは上の方にアップされている小説版の感想を見ていただきたく思いますが、さてこれが映画化されると聞いて私がまず思ったのは大丈夫かいな? ということでした、幾多の面白い小説が映画化の過程でことごとく解体され矮小化されていく様を見続けてくれば懐疑的になるのは無理のないところです、今回かろうじて監督が深作欣二であるところに希望を持って観にいったわけですが・・・
基本的に日本映画の製作者達はウエットであること、お涙頂戴があることが映画の必須条件であると思っているらしいのですが、それじゃダメです、今回は特に。
この原作は実は良質な青春ものなのですが、その愛と友情をストレートに表現するのでなく暴力で地を埋め尽くし、埋め尽くされたあと残った部分を透かして見るとテーマが浮かびあがって見えるという凝った仕掛けになっているのです。
テーマが感傷そのものなので描写を極力ドライにしているところが作者のねらいなわけですね、たとえば片想いでロクに口をきいたこともない女の子に一言好きだと言ってから死にたいと思い、地獄の島を駆けめぐり、やっとめぐり会えた当の女の子に誤解されて銃で撃たれ、それでも今の銃声で誰かやってくるから早く逃げろ、と言って死んでいく杉村弘樹(男子11番)などはウェットに描写するつもりならいくらでもウェットになるわけですがそれをせず、ただ行動のみを淡々と描写することによってより彼の心情が見えてくるわけです。
そして悪の権化「キンパツ先生」を「教師キタノ」に変えビートたけしに配役したことも事態の悪化に一役買っています、原作者も言っているとおりキンパツ先生が失敗なのはあきらかですが(そもそもコメディでもない小説になぜキンパチ先生のパロディを出すのか?)といって、「教師キタノ」の、彼もまた心に闇を抱えた人であるなんて設定はまったく無用、設定が先なのかビートたけしに振ったおかげで役が重たくなってしまったのかわからないけれど、中学生の「愛と青春」の物語の中に中年男の悲哀が情感たっぷりに挿入されたのではもう、原作の絶妙な狙いは完全に台無しになってしまったと言えるでしょう。
原作の読み込みが足りないのか、わかっちゃいるけどそれらしい人情話を入れないではおられない従前の映画観がいけないのか、はたまた「暴力で埋め尽くしたあとに見えてくるもの」などと凝ったつくりにすると、表層の暴力にだけ過剰反応した人から非難を浴びると考えたのか、ともかくそういうわけでこの映画は妙にもっともらしい、口当たりウェットな深みのない映画になってしまいました。
はっきりいって、やれやれという出来なのですが、そのぶんあからさまに「この映画はただ中学生が殺し合いをするだけの映画でなく、友情について、人の心の闇と悲しみについて考える作品なのですよ」というメッセージは発しています、にもかかわらず映画の見方を1ミリも理解していない政治家のプロパガンダに利用され、事なかれ主義の映倫にR指定を喰らうのですから、いっそ原作通りに映画化して欲しかったですね、それともマスコミに取り上げられたぶん宣伝になって良かったということなのだろうかしらん?
リセット
北村薫はジャック・フィニイに似ている。
ジャック・フィニイは出会いが「盗まれた街」であったために、この人はSF作家であると思い、その後もそれらしい小説を書き続けてくれたためその印象を訂正するのが遅れてしまったのだが実は彼の本質はSFには無かった。
彼は人の心の機微や自分の懐古趣味を小説で表現するための小道具としてSF的な設定が必要だっただけでセンス・オブ・ワンダーにはさほど重きを置いていなかったのだ、そのために次第にあっちの方へ行ってしまい最後はSFというよりはファンタジーに足を踏み入れてしまった、SFが理屈をこねる面白さであるとすればファンタジーはいかなる不思議もそこにあるものとして扱う小説であると言えるだろう。
(余談だがSFとしてギリギリのラインで踏みとどまった作品が「ふりだしに戻る」である、これはフィニイの懐古趣味が全開している作品だが、SFとして、タイムトラベル物としても最高傑作である。
ついでに言えばタイムトラベル物の最高傑作の一つが広瀬正の「マイナス・ゼロ」である、これも懐古趣味満載だがSFとしての出来もまた良い、SF者の自覚がありなおこの2つを読んでいない人間はさがして読むべきだろう)
北村薫は「日常生活におけるささいな出来事から隠された謎を読み説く」という、私が「日常ミステリー」と勝手に名付けたジャンルの始祖と言ってよい。
それまでのミステリーが犯罪-それも主に殺人事件-を扱ったものであったのと一線を画した「空飛ぶ馬」以下の-円紫さんと私シリーズ-はその後ミステリー界に大きな影響を与えた。
しかし、その達者な文章から紡ぎ出される「人生の機微に根ざしたミステリー」を読んでいくに連れ、私はいずれこの人はミステリーを捨てどこかに行ってしまうのではないか?と危惧していた、氏の興味はまさしく人生の機微や人の心の襞にこそあり、ミステリーはその切り口を際だたせる小道具でしかないと思えたからだ。
残念ながら事態は私の怖れたとおりに進み、氏の書く物で純粋に謎解きを楽しめるものは無くなってしまった。
そしてこの「スキップ」「ターン」「リセット」の時間3部作、時間テーマと言えば言えるし実際これをSFと呼ぶ人間もたまにはいる、が、これはまあSFではない。
そしてこれらもやはり時を置くごとにどんどんとSF色は薄まっていくのであって今回の最終作「リセット」はそれこそ懐古趣味のみと言えるものだ。
太平洋戦争の末期に女学生として青春を過ごした主人公真澄の心情をみずみずしく描くことがこの小説の「ほとんど全て」になってしまっていて、リーインカーネーション-転生-という大ネタがそっちのけになっている。
「転生」などというスーパーナチュラルな概念はそのことだけでもじっくりと語る必要のある代物だと思うのだが、転生しちゃったんだから仕方ない(?)とでもいうべき扱いの軽さは「ふりだしに戻る」の「主人公はタイムトラベル出来るんだから出来て当然」という扱いによく似ている。
加えてこの絵に描いたような予定調和、手練れの技によって主人公「まあちゃん」の青春は魅力たっぷりに描かれてはいるのだが私はまったくに不満足だ。
そもそも「戦争中の女子学生の青春物語」」などというものはこれまでも多くの人が書いているに違いない、ディティールはさすがの出来であるのだがだからといって北村薫がこの分野に新たな1ページを書き加える必然性を感じられない、
ちゃんとしたミステリー書ける人はめったにいないので、こんな誰でも書けるような小説で文学してないでミステリー書いてよ、というのはわがままな読者の贔屓の引き倒しというものだろうか?
そして粛清の扉を
不良ばかりが集まったクラスを受け持った中年の女教師が、卒業式の当日、武器を持って生徒を人質にとり教室に籠城する、彼女は警察の説得にも耳を貸すことはなく、生徒は一人また一人と殺されていく。
というのがこの小説のあら筋です、どっかで最近みたような気がする展開ですが極限状態に置かれた生徒の心の動きを細かに描写することによって何かを訴えよう・・・というわけではなく、目立たず、事なかれ主義であった女教師の心の闇を鋭くえぐる・・・というわけでもなく、ブチ殺されても仕方ない、いや世のため人のためにはブチ殺しておくべき不良生徒をブチ殺してああ爽快、というお話です。
あまりといえば倫理観に欠けるお話ですがそれへのエクスキューズとして、生徒達はもうこの上ないワルに描かれています、不良というより単なる犯罪者ですね、誰もが人の2、3人は軽く殺しているというような、それが生徒だから未成年だから保護されていてけしからんと言う話にもっていって法を越えたところで裁く、というところへ落とし込んでいるわけですがこれはチト無理すぎ、そもそも殺されても仕方ない人間だけで構成されているクラスという設定からして苦しい。
結局「おとなしい女教師が生徒を皆殺しにすればインパクトがあるはずだ」という始めにケレンありきの小説だったとしか思えません、。
読んでる時はまあ飽きないけど本を閉じたら二度と開けないタイプの作品であります、どうしてこんなのが「第一回ホラーサスペンス大賞」などというものに選ばれたのかわかりません、ひょっとして問題作とか言われるのを狙った確信犯?
-映画-ウルトラマンコスモス The First Contact
きょうは映画ウルトラマンコスモスの0号試写をみてきました、0号試写というのはおひろめである初号試写のまえのさいごの技術的試写といういみあいのものです、ソフトウエア業界のひとならベーターテストといったらわかりやすいのではないでしょうか、某ロボットアニメで初号機のまえに零号機があるのはこういう意味あいのギャグです。
さて映画ですが、最近いまひとつおおきなお友達むけの作品がおおかったウルトラマンでめずらしくこどもにふった映画だとおもいました。
小学生の集団にほんろうされる特殊部隊(レッドベレー!)とか、凶悪なバルタン星人を子守歌をうたっておとなしくさせる作戦とかはおおきなお友達のひとりであるぼくにはかなりきはずかしいものであったのですが、ちいさなお友達にはたのしめるかもしれないとぼくはおもいました。
そして冒頭、主人公のムサシ少年がコスモスの手にのって空をとぶシーンは秀逸です、ガイアでも礼子さんが空を飛んでいましたがテレビという制約もあってかなりの簡略版でした、こんどはいかにも映画らしく手にのるところ宙に浮くところなどをじっくりとみせ、さらにアクロバット飛行やムサシ少年のみた目もきちんとえがいているので、それこそウルトラマンの実在をしんじているようなちいさなお友達はわがことのようにたのしめるとおもいました。
飛んでいるウルトラマンのまえにまわりこんで手元に寄るとムサシ少年がのっている、などというさりげないながらも映像的ハイテクを駆使した絵づくりもちゅうもくです、おおきなお友達はこの映画の技術的博覧会を見るだけでたのしめるとおもいました。
ジュニアファンタジー固め読み
小野不由実 著
月の影 影の海 上下
風の海 迷宮の岸
東の海神 西の滄海
風の万里 黎明の空 上下
図南の翼
黄昏の岸 暁の天
以上「十二国記」シリーズ
悪夢の棲む家 ゴースト・八ント
茅田砂胡 著
放浪の戦士
黄金の戦女神
白亜宮の陰影
空漠の玉座
異郷の煌姫
獅子の胎動
コーラルの嵐
風塵の群雄
動乱の序章
憂愁の妃将軍
妖雲の舞曲
フアロットの誘惑
闘神達の祝宴
紅の喪章
勝利への誘い
伝説の終焉
遙かなる星の流れに 上下
以上「デルフィニア戦記」シリーズ
冴木忍 著
風の歌星の道 前後
あなたに逢いたい-風の歌星の道外伝-
咲田哲宏 著
竜が飛ばない日曜日
五代ゆう 著
<骨牌使い>の鏡
荻原規子 著
西の善き魔女1~5
始めに言っておけば私はファンタジーが全然ダメだ、それはル=グインの「ゲド戦記」だろうと、スチーブン・キングの「ガンスリンガー」シリーズだろうと同じだ。
※ガンスリンガーってファンタジーなの?という人もあるいはあるかと思うのだけれどこれがまったくのファンタジー
曰く、かつて隆盛を誇った王国がありそれを守る誇り高き騎士団があったと、今やそれらは風塵と化し騎士団最後の生き残りであるローランドは敵である「黒衣の男」を追って世界の果てに聳えるという「暗黒の塔」めざして旅に出る・・とくればこれは王道です、 魔法使いの「異世界召還」など必須アイテム(?)も満載です(まあこれの場合異世界というのが現代アメリカだったりするのですが)
この物語が少しばかり毛色が変わっているとすればそれは騎士である主人公が腰に長剣ではなく2丁拳銃をぶら下げて(GUN
SLINGして)いるということだけです、いかにもヤンキーの考えたファンタジーと言えるでしょう、円卓の騎士の一人がローランという名なのも偶然ではないのではないでしょうか?
・・・で、それで何がダメかと言えばまあいろいろあるのだけれど結局は「適当なこと言ってやがら~」というのに尽きるでしょう、ある一定の世界観のためにいろいろな規則、法則をねじ曲げて舞台を作り整合性をとらない状態がどうにも落ち着かない。
整合性というのはそれなりの「つじつま」とか、物語世界内での「理屈」とかいうものです、ファンタジーはそこんとこがどうにも甘い気がするのだ。
総論を言うべき時にいきなりこまかい各論に触れるようでなんだけれど、今回の固め読み(って言葉あるんか?)の中の「竜が飛ばない日曜日」を例にあげると話が早いかもしれない。
主人公の高校生はある日世界が「竜が当たり前のように居る世界」に変わっているのに気づいて驚く、学校の屋上に竜がいても誰も驚かない、それどころか竜はこの世界の神であり人間の支配者だということになっている、生徒たちは終末の「捕食の儀式」で誰が竜に選ばれるのか-ということは生け贄となって食べられてしまうということなのだが-をうきうきとして話あっている、人間のとって最高の栄誉である生け贄に誰もが選ばれたいのだ(というあたり藤子不二男の短編「ミノタウロスの皿」にそっくりである、あっちは牛だが読んでるだろう?作者)
実は、人間によって作りだされていながら、人間によって神話や伝承という架空世界に追いやられていた竜が「虚構の牢獄」から脱出し現実を手にいれようと反撃に出たのである、というのが真相なのだが、ネタとして斬新かもしれない、でもけっこう苦しくはある、でもうまく書けばメタファンタジーにまで昇華できる可能性だってある、うまく書けばね。
この際「竜の反撃」という大ネタに関しては「あるものとする」としか言いようはない、しかしそれ以外の要素の整合性をきっちりとらなくてはお話として成り立たない、しかし作者はそこんところを勘違いしている、ファンタジーだから何でもアリじゃないのだ。
竜をこの世界から排除しようとする主人公(と何人かの仲間)の前には数々の特例(?)が立ちふさがる。まずは「人間は竜を殺せない」この世界ではそうなっているらしいのだがどういう機序でそれが発動するのかわからない、一応竜は死ぬことがあるらしいし人の手で傷つけることも出来るらしい、となると「殺せない」の意味が不明だ、でも作者は説明しようとしない、こういう法則までも「あるんだからしょうがない」と言ってはお話が成立しないのだが。
さらにこの世界では人間が死ぬ時に強く願ったことは実現する、という法則がある、主人公の親友はそれを使って主人公に味方する竜を送り込んでくる(それってどっから来たわけ? とか思う、世界観を破壊してないか)しかしヒロインの親友が願った「彼女をこの世界から抜け出させて」という願いは「無効」なのだという、何故だ。
その親友のもう一つの願い「彼女に気づく暇を与えて」という願いは発動して、ヒロインは一日を2度繰り返すことが出来るようになる、一日が終わって寝て起きるとその日に得た知識、経験はそのままで朝からもう一度同じ日を過ごすことになる、回りの人間(竜も)は前回の記憶はない、これによって一度いろいろなことを試してみてその結果をもとにベストな一日を過ごすことが出来るのだ、一日分の完全な予知能力があるみたいなものだ(実際には実験の「結果」を持ち越せるので、予知能力より強力である)
しかし「気づく暇をあたえて」という望みを「一日を二度繰り返す」というきわめてトリッキーな現象に落とし込んだのは誰?とか思う、これはつきつめればそれだけで一本小説が書けそうな大ネタで長くもない小説の一要素にするには重すぎるだろう。
さらに物語の山場になってヒロインの友人は実は竜の変身したものだったということがわかる、ある竜の一種族は人間に変身出来るんです、って急に言われても読んでるほうはそりゃないだろうと思う。
この小説は主人公達をとりまく一癖も二癖もありそな人物達のうち誰が味方で誰が敵なのかわからない、という面白さも狙っている、それが実は変身アリという設定でそれをクライマックスまで伏せられていたのでは読んでいる方はいい面の皮である、まるで何かのゲームをやっていて勝負!となった時に隠されたルールを適用されるようなもんである。
しかも、体ごと食べた人間は知識をコピー出来るので変身は完璧になるがその知識は常にひとり分しか維持出来ない(あとから別人を食べるとそれで上書きされてしまう)という「特例」のおまけつきである「勝手に言ってろ!」てなもんである。
特例をつくりその特例で生まれた矛盾を別な特例でカバーする、私がファンタジーに持つマイナスイメージをものの見事に、わかりやすく体言してくれたのがこの小説なわけだ、異世界とか魔法とか、ドラゴンとか召喚とか、アンデッドとかを小説に取り込むとどうしてもこういう歪みを生じる、そしてその調整は作者の恣意的な運用にまかされている、私がファンタジーを敬遠する原因のひとつである。
ところで私はSF者なのでどうしてSFは良くてファンタジーはダメなのか考えてみた、SFにもタイムトラベルとか超光速飛行とか超能力とかこの世にはありえない現象をベースにして書かれているものが多い、これまた「歪み」であるのは確かだ。
いろいろ考えてみたのだがその「歪み」を意識しているかどうかで決まる、というような気がする、SFは時にその「歪み」そのものを描くことでセンスオブワンダーを表現する、タイムパラドックス物などはまさしくそれだ。
もちろん「あるものとして考える」という強引なものもある、宇宙の深淵を越える知力と科学力がありながら地球を侵略する知的生物があるものだろうか? という疑問はとりあえず棚上げとしておく、あるいはそのころ人類はテレポート能力を獲得し政治経済はその能力を前提に大変革を遂げていた、として「それから先」のお話を書くわけだ、しかしSFは基本的に知的ゲームなのでストーリーに矛盾が生じたらおしまいである、矛盾とまでいかなくともそうおかしなことは書けない。
「もしエジソンが電球を発明しなかったらわれわれの生活はどうなっているだろう?」 というジョークをご存じだろうか?、答えは「われわれはロウソクの光の下でテレビを見ている」というものだ、これは良く出来たジョークだがSFを書く者への警鐘でもあるタイムトラベルが実現したら、テレポート能力を人類が体得したら、という仮定の話と変わりがないからだ。
(これほど荒唐無稽な話でなければ事はもっと難しくなる、たとえば軌道エレベーター、これは赤道から静止衛星軌道まで延びるエレベーターで別名「宇宙エレベーター」、アーサー・C・クラークの「楽園の泉」他これを扱った作品がいくつかあるが実現すれば宇宙に出るコストがゼロに近くなるので社会に与える影響は大きいと言われる、まともに取り上げるには科学的知識は言うにおよばず政治、経済の知識が必要となるだろう)
想像の翼を広げるのは作者の自由だが、広げたことによって生まれた制約もまた存在する、整合性を取らないで(「歪み」をを意識しないで)SFは書けないということだ。
逆に言えばそこんところをあいまいにしたSFはよりファンタジー色が強くなるということだジャック・フィニイの「ふりだしに戻る」が崖っぷちなのはタイムパラドックスを扱っていながらタイムトラベルの方法については「出来るんだからしょうがない」という以上の説明をしていないからであり、フレドリック・ブラウンが全般に崖っぷちなのもそのせいだ。
一方、そして、というのがファンタジーである、先に述べたように「そうなっているからそうなんだ」という行き方こそがファンタジーと言えるだろう。
魔法やドラゴンをたとえば中世ヨーロッパに押し込んで「それ以外の世界観は変わらず」ではたしていいの? とかSF者である私は思うのだけれど、どうやらそれでいい、というかそこから始まるお話こそが大事であって背景は書き割りでもいいらしい、それらしければいい、とも言えるだろうか。
背景を「書き割り」と呼ぶのは多くのファンタジーが一定のステレオタイプに準じて恥じない傾向に対する苦情である、たとえばどこでもない割にはヨーロッパでいつでもない割には中世で人の名前は欧州風で王国があってお城があって爵位があって騎士がいる、つまりは中世ヨーロッパなのだがそこに魔法を押し込んだいわゆる「剣と魔法の世界」はファンタジーの定番だ、言葉を変えればステレオタイプ、今回読んだ小説のうち「デルフィニア戦記」「風の歌星の道」「西の善き魔女」シリーズ、そして「骨牌使いの鏡」は皆これだ、そこにたとえば斬っても突いても殺せないモンスターという特例を登場させ、しかし勇者の剣のみがそれを殺せるという例外処理を出し、さらにそれは選ばれた者にしか使えないなどという制限をかけたりする、私に言わせれば歪みまくっている。
これらの歪みをただただ「そういうことになっている」ということで割り切ることは私には難しい、そういうことに無頓着でありながらまことしやかにその世界の政治、経済あるいは風物について語られると
--たとえば「ハイ・キセレスは河口の砂州に発達した、商業と漁業の都市である、(中略)真珠や、貴婦人たちが珍重する貴石、貴重な香料などを産する他島海との貿易が、都市のふところにたえず巨万の富をそそぎ込むのである」<骨牌使いの鏡>
「小国ながら富めるリドルフィ王国には、名物が三つある。産出されるあらゆる種類の宝石類、幻の花と珍重されるリムディア。そして、リドルフィ王国を五百年に渡って支配しているフィンレック王家」<風の歌 星の道>
「セラフィールドにはなにもないがルアルゴーという、西海岸に突き出た州を言えば、この北方の地は、決してさびれても貧しくもなかった、もっともさかんなのは牧畜だが、ダーモット港はよく整備され、南北に走るファーディダッドの連山からは、良質の石炭も鉄鉱石もとれる」<西の善き魔女>
等々、私は「適当なこと言ってるだろ?」という気分になってくる。
政治、経済、風物は世界観に密接に結びついているはずのものだ、歪みに無頓着でかつステレオタイプに対して無反省で、既成のイメージに乗っている小説における背景説明をいったいどれだけ気をいれて読めるというのだろう。
「ロウソクの光でTV見てないか検証してから語ってくれ」と私は思うのだ。
・・・ いや、わかっている、私が悪いのだ、私はきっとすこしばかり偏屈で頭が固いのだろう、なにしろ私は銀の弾でないと狼男は殺せない、と書かれていると純度はどのくらい必要なのだろうとか、すこしばかり鉛が混じった合金だったらどうなるのだろうと思う、首を切り落とせば復活しない、と言われると「首の皮一枚つながっていた」場合はどうなるのか、と思ってしまう口なのだ。
「剣と魔法」などと言われれば、飛び道具たる魔法と近接武器である剣は同列じゃない筈だと真剣に思ってしまう、武田騎馬軍団が種子島に勝てなかったのと同じだろうと。
といって魔法が万能じゃない理由をくどくど述べられれば矛盾を別な矛盾で粉塗しようとしてると思う、こんな人間はそもそもファンタジーを読むべきじゃないのだ、それはわかっている、だから長いことファンタジーは敬遠していた、当然ながら偏見とともに、それが今回なぜにファンタジー、それもよりによってジュニアファンタジーをを固め読み(←だからそういう言葉ってあるのか?)するにいたったのかというとそれは・・・
・・・とやっと本題に入ろうとするところで気が付くと書き出してすでに10日、字数で8000、更新もベタ遅れでこのままじゃいつになって終わるか見当も付かない
のでこの話は続きものとさせてください、まとまらないお話をながながと読ませて申し訳ない、でも必ずまとめますので許してくださいまし、To
be continue
千と千尋の神隠し
華麗なるイメージの乱舞。
豪華で絢爛ですこしばかりキッチュな21世紀の「ねじ式」
美術<デザイン、色彩設計、作画、CGも含めて>は感嘆するしかない出来で世界に冠たるジャパニメーションのそのまた最高峰を充分に堪能出来る、これを体験するだけでも見る価値はあると言えるだろう。
ただし、そのかわりといっちゃなんだけどストーリーはけっこうダメダメ。
映画は時にドラマなどなくとも構わない、映像が映画を支えきれるならお話などはつけたりであっても構わない、イベントだけで出来ている映画があってもいいのだと、そういう立場をとる私としては(これほどの映像であれば)ストーリーなんてどうでもいいのだけれど、妙に説教くさいところは気になるかな。
この映画は主人公「千尋」の成長ものがたりだ(宮崎駿は「これは成長ものがたりではない」なんて発言をしているようだけれどこれは韜晦というべき)
もし「成長」というと話が大きくなりすぎるようなら、世間知らずの少女が社会で揉まれて少しばかり「目が開く」お話と言えるだろう。
最後の試練が豚になった両親を多くの豚の中から見分けるというものであること、そして千尋が少しの迷いもなくその試練を乗り越えることはこの「目が開く」ということ、つまり本当に大事なものを見分けられるだけ成長した、という明白な比喩と言える。
しかし、成長を描くということは使用前/使用後を描くことではなく、その過程を描くことで、それはとてもむずかしい、それは人がすこしばかり成長することさえ容易でないこととイコールであって、一本の映画の中で描ききるのは至難の業であるわけだ、ましてやこういう映画、つまりイメージが乱舞する映画で、映像主導で、お話はイメージをつなぎ止める接着剤みたいな役割でしかない映画ではむずかしい。
という目で見るとこの映画はいろいろと強引なのだな、まずイントロからして怪しげな建物に強引に踏み込む両親には説得力がない(子供連れですることじゃないでしょ?)
それなりの常識を備えていそうなお二人なのに無人の食堂で商品を勝手に喰い始めるあたりの違和感もけっこうなもの、「異世界の空気に当てられている」ということなのかもだけれどそういう表現は特にないので強引な展開というイメージを持たざるを得ない。
まあこれなどはささいなことでこの映画最大の問題は千尋とハクの心の交流が全然描けてないことだろう。
それらしい配置で出てきながら何もないで終わるというのはナウシカとアスベル、アシタカとサンにも見られた現象で宮崎映画ではめずらしいことではないのだけれど、「ナウシカ」「もののけ」ではこの2人に心の交流があってもなくてもお話には関係なかった(!)のに対し今回はそこが肝要であること、そしてどうも制作者たちはそれを描いたつもりらしいところが困っちゃうわけだ。
で、ここが「すべって」いるおかげで傷ついたハクを助けようとした千尋が半狂乱になるのについていけない、人喰い魔女的なイメージの銭婆のところへ単身乗り込む千尋の悲壮な決心に感情移入出来ない。
「なんでやねん」と思っているところへの釜爺の「愛だ」というだめ押しの一言、 このセリフを聞いたときに私の映画的感受性の全てが「そんなわけね~!」と声を上げました(?!)
ここで力強く宣言してしまうけれど、この映画では千尋とハクの心の交流なんて描けていない、ましてやこの2人の間に愛があるなんてどこでも言っていない、「成長」の時に言ったけど「愛」だって過程を描かなくちゃ描いたことにはならないのだ。
この場合始めこそ千尋はハクの世話になっているけど、この時は殻にこもった状態で「交流」どころではない、中盤は風呂屋の暮らしとオクサレさま、カオナシのエピソードに終始していてハクなんて出てきやしない、ハクが再び舞台に上がってきた途端に「愛だ」って言われてもねェ?
ここで千尋は大ラブロマンスに登場するけなげなヒロイン的行為「この身がどうなっても彼を助けてみせるわ」(「雪の女王」のゲルダみたい?)に身を投じるわけなのだけれど、動機に疑義があるので予定調和に向けてまっしぐらという印象を持たざるを得ない。
そのため地の果てに向かうような、陰鬱でかつ美しい列車の旅が効いてこない、制作者達としてはここで「秘めたものがある人間は強い」という具合にもっていきたかったのだと思うけど、思い入れ出来ない分そういった意図が透けて見えてしまう。
カオナシについては「戻る」過程が説明不足、食べたものを吐いていくとだんだんおとなしくなっていく(らしい)が、それらしく見せるにはなんとしてもカットが足りないのではないか、あと「河の神
」からもらったダンゴが悪いものを吐き出させる効果があるって誰が言った?
銭婆は大悪役風に作っておいていざ会ってみたら実はいい人でした、という意外性を見せたつもりなのだろうがこれは俗にいうアンフェア。
だって盗みに対し死をもって報いて省みない人なのだよこの人は(ハクが助かったのは千尋の持っていたダンゴのせいで、これはほとんど偶然)
妹にたいする意趣返しとして息子を動物に変えていくし(「坊」に罪はありません)この時点でいい人かと問われたら誰もが違うと言うだろう。
会ってみたら思っていたのと違っていい人でした、というのはよくある効果的な手なのだけどこの場合は「思いこみ」じゃなく「行為」という裏付けがあって悪い人というイメージを作っていたわけなので、会ってみたらお茶を入れてくれて、なんだこの人って好々婆(←?)では済まないのだ。
またここでカオナシを銭婆のところへ置いてっちゃうんだけど、カオナシにとって銭婆のところに居ることがベストであるという理由は示されていない。
一癖ある脇役の「片づけ方」として太っ腹な親分が「こいつは俺んところで面倒見よう、なあに心配するな、ガッハッハ」という風な展開がよくあるんだけど、たいていは「動物だけには心を開いているから牧場だ」とか「料理だけは好きみたいなのでコックだ」とか一応の理屈づけはなされるものだ、でもここはそうでない、そろそろ邪魔になってきたのでステレオタイプなやり方で退場させただけとしか思えない。
・・・等々だ。
すべてに通じて言えることは、結果だけがあって過程が描かれていないということで、何故かと言えば「そんな暇はなかったからだ」と言うことだろう。
たとえば「トトロ」はイノセントな姉妹が曇りのない目ゆえに精霊/妖精を見ることが出来、それゆえ猫バスに乗ってお母さんに会いに行くことが出来ました、というシンプルなものだ、そこには成長だの愛だの(労働だの)という説教くさいことは一切ない、あるのは「不思議な体験」だけで観客は五月、メイと共にその体験を共有する、観客との間に乖離はなく2人の不思議も驚異も爽快感もストレートに伝わってくる、「千と千尋」もそれでよかったんじゃないのと思う。
観客が千尋と共に異世界へ迷い込み、奇妙な体験をして戻るだけのお話であったら「トトロ」を越える傑作であったかもしれない、余計な(内容空虚な)ドラマが足をひっぱってくれた分だけ私は世界にのめりこめなかった、それでも見る価値アリだからたいしたもんなんだけどね、惜しい。
-映画-ファイナルファンタジー
「ここまでCGで出来るんだったら人間で撮ってもよかったんじゃない?」という倒錯した感想を述べた映画評論家がいたけれどまさしくそんな感じ、現在のデジタルエフェクトを駆使すれば役者を使った実写映画でもいけるだろう。
ということはこれこそはフルCGでなくちゃダメだ、という部分を出さなくちゃいけなかったのだと思うけど、今回は実写に見劣りのしない映像を作ることに精力を使い果たし、そんな余裕はなかったって感じだろうか。
半透明のエイリアンなんぞはCGならではなんだけど「CG使えばなんでも出来る」(!)というのは今日の観客のコンセンサスとしてもはやあるわけなので、特に感銘を受けるわけではない、CGモンスターと役者が切り結ぶ「ハムナプトラ」とか見ちゃえばもはや日の下に新しきものなしという感じなわけだ。
唯一これはアリだなと思ったのが無重力表現、これを実写でやろうとしたら「アポロ13」みたいに本物の無重力実験室使うしかないが、あれは広いセットは組めないし(飛行機の中だから)といって合成処理などでは部分にかかる重力をキャンセル出来ない(服とか髪の毛とか)ところがCGなら物理シミュレーションすれば理論的に間違いのない表現が(広いセットで)出来る、これはいけると思ったし、だからこういうシュチェーションを作ったんだろうと思ったんだけどあまり生きていない(狭い、見所がない、合成でもいけそう)のは何故だ?
ストーリー的な部分について言えば、ファイナルファンタジーは元はゲーム、映画に同じ名前つけたってそれは全然別もんだろうと思っていたところが大きくはずれてこれはゲーム、というのも「映画みたいなゲーム」を目指したスクウェアが、ゲーム性をどんどん薄めて「美麗なCGムービーのあいだを時間稼ぎの戦闘で埋めました」のが近年のファイナルファンタジーで、それがいくとこまで行ってついに戦闘はやめましたって感じだろうか。
妙なヒネリを効かせた世界観を説明なしで始め、観客がついてこなくてもおかまいなしで、勝手に激しく盛り上げて終わるあたりもそっくりで出自は争えません。
というわけで全体として「なんだかな~」という映画ではあるのですが、逃げも隠れもせず「映画」をフォトリアリスティックにCGで構築しようと試みた、志の高い映画ではあります(「トイストーリー」なんかはよく出来ているけど、CGで出来る範囲をきっちりと計算し冒険はしませんという「納まった」感じが好きではないです、私は)
ど真ん中の剛速球でまっこう勝負かけた(つもり、でも外角低めにはずれた)この映画は現在の映画シーンの中の一極北ではあるわけで、映画マニアには一見の価値はあるかもしれないと言っておきましょう。
役者で出来ることをフルCGでやる映画、CGの特色を生かすのではなく実写映画とリプレイスするための映画、それは予算のためであったり、理想の容姿を持つ(そして永遠に老いない)スターを作るためであったりする場合もあるでしょうが、そんな映画はやがて多く作られるはずです、この映画はその嚆矢として記憶にとどめる価値はあると思うからです。
PLANET OF THE APES 猿の惑星
前作は猿と人間が逆転した世界を描いて観客に衝撃をあたえ、しかもこれなら猿社会の方が少しはマシじゃない? というあたりがセンスオブワンダーだったんだけど、今回は猿も人もかわらねえ、というか、人の方がマシみたいな扱いでこれじゃ蛮人の国に漂着した白人の冒険活劇です。
前作の場合、猿にシンパシーがある日本人にとっては「人間が猿よりバカになっちゃんたんなら猿が世界を支配してもしょうがないよね」という考え方もあり得たのに対し、西洋人(キリスト教圏人)にとっては神がその姿をマネて作られた人間(そして唯一魂を持つ動物)が下等な猿に支配されるというのはとうてい容認できるものではなかったはずなのです。
ところがその人間は地球を滅ぼし、言葉を失って退化し、猿は「まだまし」な社会を作っているという強烈なアイロニーがあの映画を支えていたと思うわけです。
ところが今回はそのバランスを微妙に(でも決定的に)崩し、猿は猿でしかない、という西洋人にとっては納まりやすいところで勝負している、これじゃダメね(内なる価値観に抵抗できなかったのか)ティム・バートンわかってないな。
ドリブン
シルべスター・スタローンとレニー・ハーリンが組んだらこれはもうマッチョなバカ映画に違いないと、何も考えず疾走する娯楽大作に違いないと誰もが思いますわな。
おまけに予告編ではつぎからつぎにレースカーがクラッシュし、つぎからつぎにとカメラ前に吹っ飛んでくるので「これはいける」と思っていたわけです、スローモーションで宙に舞った車がリアルスピードの車に追突されるという、あまりといえば見た目主導に走っっているカットも素敵。
で、うきうきと見にいったら妙におさまりのいい映画なんでびっくり、スタローンはガンガン飛ばして、ガンガンクラッシュする筋肉マンかと思ったら一度もクラッシュしない、それどころか若くて青いレーサーと追い上げられて焦燥するベテランレーサーの間に立って、互いの力を出し尽くさせるために努力する老成した役、これはイカンです。
寅さんが騒動を起こさなくなり、甥っ子の満男の恋を見守るようになった「男はつらいよ」みたいなもんでしょうか(?)
性格俳優に転身しようったって無理なんだから(!)もっとガンガン行って欲しいなあスタローンには。
ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃
<東京国際映画祭特別招待作品をオーチャド・ホールにて>
面白かったっす、いや自分で言うのもなんなんだけど。
実際現場ってのは調理場に素材送り込んでいるようなもので、味付け次第で映画ってのはどうにでも変わるから、1スタッフとしては完成品を見るまではどんなものに仕上がるか見当もつかないのです。
(今度の大根は出来がいいぜ!ってことは自分でもわかるけどバカヤロな板前が台無しにしないとも限らないし、逆に味付けで見違えて良くなることもある)
見終わったあと自分がかかわったことを忘れてこんな面白い映画は久しぶりだぜと思ったんだからまず大成功ではないでしょうか?(このscript
sheetでホメている映画はめったにありません)
わざわざ招待作品を見にくるくらいなので観客は相当のマニアと思われ、劇中でも何かと言えば拍手喝采してはいたのですが、最後のタイトルロールで本編スタッフのタイトルがロールアウトしたところで音楽がフェードアウトし、新たに「怪獣大戦争のマーチ」が鳴り響く中を特撮スタッフがロールして来た途端一段と大きな拍手がわき起こったのにはちょっと感動しました、(この映画のタイトルロールから名前をはずしてくれ!と思う映画もたまにはありますから)
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