そして更新するんだったら1つ2つでなく、最低でも4つくらいは。 ・・などと考えているとかえって手が出なくなり、2005年ももう半年近くすぎてしまいました。 これではイカン、というわけでとりあえず観た映画、読んだ本のタイトルだけでも書くことにします。 内容に関しても、あまり筋道だったことでなくても書いてゆくことにしよう。 ほっとくうちにどこまでが2004年度分で、どこまでが2005年度分かもわからなくなったので 未処理のものは(「報復」はあきらかに昨年読んだのだが・・) すべて2005年度に回すこととにしました。 フロリダで若い女性をレイプしては殺していた連続殺人鬼がほんの偶然で逮捕される。 この殺人鬼を長く追っていた女性検察官はそれが12年前自分をレイプしそのまま逃げおおした犯人であることに気がつく。 しかし自分の件はすでに時効であってそのことで男を裁きにかけるわけにはいかない、それどころかその事実が知られれば彼女は担当からはずされるだろう、この事件を担当するに自分をおいて適任者はいない。 彼女は過去を秘匿し、よみがえった悪夢を抑えながら裁判に臨む・・しかし。 というお話だ、設定もお話の運びも、登場人物の描写も申し分なく、上質のサスペンス小説に仕上がっている。ただ一点を除いては。 というのもこの小説は全編緊張感にみちあふれ、心理サスペンス、スリラーとして一級の出来であるのに、最後の最後になっていきなりアクション仕立てになってしまうからだ。 これはジョン・グリシャムの「法律事務所」や「依頼人」ジェフリー・ ディーヴァーの「ボーンコレクター」あるいはパトリシア・コーンウェルの「検死官シリーズ」にも言えることなのだがなんで最後を安手のアクションで締めくくるのか? 検死官が検死の技術で、四肢麻痺患者が科学捜査だけで凶悪な犯罪者を追いつめる心理サスペンスのほうがよほどおもしろいと思うんだが。 これはあるいはエージェント制を取るアメリカの出版界事情によるのかもしれない。 ハリウッド映画などはもうすっかりメジャー的映画製作法に犯されてしまっていて 「開幕何分以内に登場人物の紹介をすませろ」とか「何分目に最初の事件が、何分目に××が」とかフォーマットが決まっている。 シナリオ判定ソフト(フォーマットに即しているかどうか自動的に判定)まであると言う。 登場人物が世界の各人種に配慮したものであるのは言うまでもない。 小説においてもベストセラーをねらい、さらに映画の原作にもなってさらなるヒットをもくろむエージェントは一定のフォーマットを小説にも要求するのかもしれない。 最後のしょうもないアクション(ネタバレになるのでどういう風にしょうもないかは書かないが)は、つけたりということで無いことにしてもまったく問題はなく、さすればこれは充分に傑作と言える一品でしょう。 (注「P・コーンウェルも裸足で逃げ出す・・」ってのがオビの宣伝文句、ま逃げないとは思うけど「検死官」と比べればこっちが上かもしれない)
魔術師 ジェフリー・ディーバ
2大スターの対決ってもんは、双方に見せ場を作ったあげくに痛み分けと相場が決まってるもんなー、と思いつつ、さしたる希望も持たずに観にいったのがよかったのか結構楽しめました。 そもそも竜虎の対決とも言える2大モンスターの対決に人間が一枚噛むってアリなの?という疑問もあったわけですが、なんとかギリギリお話を持たせています。 シナリオの勝利というべきでしょう。 いかなる大作であれ、いかなる大スター主演の映画であれ、つじつまの合わないストーリーのおかげで全てがブチ壊しということがありうるもので、大作なんだから、多くの人の手が入っているんだから、、大きな穴など当然のようにふさがれている筈・・と思いきやこれは意外とよく見かける現象であったりするわけです。 (ここで私が昨年公開の超大作アニメーションを思い浮かべていたりするのは秘密) 巨額の資金つぎ込む前にちょっとでもいいからアタマ使って穴くらいふさいでおけよ、完成度高めろなんて贅沢言ってるわけじゃない、ふさぐのは大穴、トラックが出入り出来るような大穴、ふさぐのに知恵も時間もいらないだろう?と私はいつも思うわけですが、そういう意味でこの作品はちゃんとしていると言えるでしょう。 大スペクタクル(&大バカ)映画というものは、構造的に穴が開きやすく出来ているものなので、意外と知恵を絞ったらしいこのシナリオには私は感心しています。 また、これもシナリオの勝利の一環ではありますが。エイリアンに華を持たせようなどと欲張ったことはせず、やっぱりいつでもどこでも奴らは悪役、という扱いに徹したのも成功の一因でしょう とても暇で、気楽に楽しめる娯楽作品はないか?とあてもなくレンタル屋に行った時ならばこれは候補の一つに挙げてもいいと思われます。 ・・・ところで、終わりがあからさまにトゥビイコンティニューなのですが次はヤバイと思うな、なんとなくね
そもそも30年前から世界中の人がその結末を知っているお話を作るというのは難しい。 古典を映画化するというのも言ってみれば同じであるが(ノートルダムの怪人とかロミオとジュリエットとかスルースとか)それらは「結末を知っていようとなんであろうと面白い」名作なわけだ、しかしスターウォーズはそうではない. うむを言わせぬおもしろさが保証されているわけではなく、話が主人公の堕落で終わると決まっていて娯楽映画に必須のカタルシスを観客に与えられない、しかしディティールに関してはああでもあろうかこうでもあろうかという観客が想像力を発揮する余地が残っている(つまり一番面白い映画は個人個人の頭の中にある)となればどうにも面白くなりようがない。 それを巨額な予算とそれによるデジタル合成の力業でかろうじて目だけは楽しませる作品となっているわけだ、ある意味飽きさせないだけでも立派なものだと言えよう。 スターウォーズの1作目が当たった時、これは全9部作の予定であるとブチあげたのは良いアイデアだったと思うが、考えてみれば前3作が至難の道であることは約束されていたわけだ。 前に言ったことだが私はこのシリーズが全9作で構想されていたなどとは1ミリも信じていない(その理由は1999年度のスクリプトシート「ファントム・メナス」の項で詳しく書いたので読んでいただきたい)そもそもルーカスは、ファントム・メナスの頃には「後ろの3部作はもう作らない」と言っていたが、今や「最初から9部作だとは言ってない」と言ってることが変わっている。 しかもこれはダースベイダーの物語なのだとか言っている。 外見だけを見ればたしかにアナキン・スカイウォーカーの一生を描いているようにも見える、しかしジョージは忘れているのかもしれないが1作目のダースベイダーは単純な悪役であり「悲劇」や「運命」の香りなど微塵もない。 (むしろ役者の格<ピーターカッシングとかぶり物>から偉大なるモフ・ターキン提督の方に重心がいっている) 「トイ・ストーリー」では帝王ザーグがバズ・ライトイヤーに突然、何の脈絡もなく、「私はおまえの父親なのだ!」と言い出すというギャグを飛ばしていた、つまり誰がみてもこれは唐突だったてことだが、映画そのものにせよ設定秘話(?)にせよ、そのときそのときに考えていたということだろう。 なにが言いたいのかと言えば、この前3部作は、後先考えずに吹きまくった法螺、広げまくった風呂敷をたたむだけのシリーズになってしまったということだ。 オチをつけなくてはならない事が多すぎてがんじがらめになり、新たな冒険、斬新な設定、あるいは遊び(ポッドレースのような)など望むべくもない。 そしていよいよ待ったなしのこの作品ではただひたすら「説明」に終始している。 銀河皇帝はどうやって全宇宙を掌握したか、ジェダイナイツはなぜ壊滅したのか、アナキンはなぜダークサイドに落ちたのか、ルークとレイアの誕生となぜ2人が分かれて成長するハメになったのか、そしてアナキンはどういう経緯でベイダーマスクを付けるハメになったのか。 あらかじめこれだけ「やらなければならない」事柄が決まっていたら映画が息苦しいものになるのは必至である。 さて映画の続編は面白くないという話がある。 (「スクリーム2」は登場人物たちが大学の講座でそんな話をしているところから始まる、もちろんそのスクリーム2も面白くないのだが) 私に言わせればそれは当然のことだ。 映画を面白くするためにはどんな工夫も可能だった1作目と違って、舞台、登場人物、その他の設定を変えることが許されずしかも、1作目と同じネタを使うことが許されない2作目以降は面白くなりようはない。 「設定」は1作目のネタを面白く語るために特化しているのだ。 2ですでに難しい、ましてや4作目5作目となればこれは絶望的だ。 誰かジョーズ4のストーリーを覚えているだろうか?13日の金曜日の5作目のタイトルを覚えているだろうか? 設定を引き継いで連作していくといずれ無理がくる、そして誰がなんと言おうと(後づけで付けたサブタイトルが何であろうと)この映画が「スターウォーズ6」であるのは間違いないのだ。 (※ 時代がループしていることはこの際無関係だ、最初から全6作で企画された映画の3作目を都合によって最後に撮影したのならここで無理がくることはない。しかしそうではあるまい。2作目以降は、1作目がヒットしたので制作が決定したのだろうし、2〜6もそのときその時で、つまり走りながら考えてきたのだろうということは何度も言ってきたとおりだ。 これがスターウォーズサーガ3作目であると言うのは「新・猿の惑星」を猿の惑星シリーズの1作目であると強弁するに等しい) そういうことを考えれば、つまりこれが「スターウォーズ6」であると思えば、この映画が破綻しなかっただけマシと言うべきかもしれない。 実のところ私としてはこの前3部作はアナキン・スカイウォーカーが次第次第に悪の道に進む、というありきたりな話ではなく、あれは彼なりに銀河の平和を考えた末の行動だったとか、その過程に壮大な悲劇があったのだ、というようなドラマが存在するのかと思っていたのだ、しかしそうではなかった。 エピソード1で彼はパイロットとしては一流だが生意気なガキであり。 2ではストイックであれというジェダイの教えを守れない思慮の足りない若者でしかなかった。 つまりはこれは「若者がただ普通に転落していくだけ」のお話だったわけだ。 しかしそれでもこの映画を観る前は、転落のきっかけくらいは腑に落ちるように作ると思っていたのだ。 彼の弱点がパドメであり、彼女がダークサイドに落ちるトリガーであることは明らかである、だからたとえば彼女が窮地におちいったときジェダイが手を貸さなかったため死に至ったとか、明白に見殺しにしたとか、そういった事件が元でジェダイから離反するというような。 ところがそうですらなかった、彼はただ一人で大転びに転んだだけなのだ。 深刻な悩みを抱えているアナキンに精神論ばかり説き、親身に相談に乗ってやらないジェダイも悪いとは思うが、それは「俺がこうなったのも社会が悪い」というのと同程度のものだろう、あたりまえだが多くの人は逆境にあっても悪をなさない。 まず、愛する人を死の淵から救うためならなんでもしてみせる、という態度は万人が納得するだろう。 しかし、それが他人の生命と引き替えであるとするならばためらう人はいるのではないか。 ましてやそれが恩師・友人・仲間たち、そしてなにより「多くの子供を自分の手にかけて殺す」ことと引き替えであるとするならば、そんなことは出来ないというのが普通の人間だろう。 それはジェダイの掟などという高尚な話ではなく人として最低限の倫理観だ。 いかに耐え難い苦しみであるとはいえ、それから逃れるためならなにをしてもかまわないとするアナキンにはなにか大事なものが欠落しているとしか思えない。 さてしかしこの映画を見るかぎりジェダイって何?と思わざるを得ない、念動力や読心術までも持つ超能力集団であるジェダイが、アナキンの心の闇も、宇宙の敵、諸悪の根源である銀河皇帝も見抜けないって何なんだろう。 などなど・・つっこみどころ満載で、いくらでもつっこめるこの映画、ひとつひとつつっこみを入れていては話が終わらない。 巨額の予算がデジタル合成に費やされたのはあきらかなのだが、良いシナリオを作るためには使われなかったのだろうか? その一部なりとも衆知を集めるのに費やされていれば、まちっとマシなシナリオが出来たように思うのだがまさか、メインプロットはルーカスが一人で作っているんじゃないだろうな。 とさんざんなことを言ったあげくにまとめに入る。 まずは「見に行く価値」があるかどうか? これについては「行っても損はないんじゃないかな?」 というところだろう。 何しろいちおう「飽きない」わけで、見ている最中に時計を見たくなる(で、まだ1時間もあるよ、などと思ってしまう)映画に行くよりはるかにマシだ。 そしてこれがジョーズのように、13日の金曜日みたいに、際限もなく続ける可能性のある映画なら「もうやめとけ」と言うところだが、映画史に一時代を築いたシリーズの完結編であり、これでおしまいと思えば、見ておくのも悪くないかもしれない。 ルーカスは「映画の資金回収はだんだん困難になってきており、大作映画は作りにくくなっている」と言っている。 スターウォーズはあらかじめヒットが約束された映画であるからこそ、こんな超大作映画として作ることが可能になったのであって、ことによるとこんな大作2度と見られるものじゃないかもしれない。 だから・・・ここが肝心だが・・・どうせ見るなら劇場に行かなくてはダメなのだ、なにしろ見所はハデハデなSFXだけなんだし、スクリーンで見て初めて価値があるというわけだ。 映画館へ行け、そして見て(いろいろと)驚け。 ICO −霧の城− 小説 宮部みゆき 頭にツノの生えた少年イコは生け贄として「霧の城」に連れてこられる。 断崖絶壁によって大陸から切り離された小島、その島を覆い尽くすように建てられているのが「霧の城」だ。 かつては壮大華麗であったろうその城は今や荒れ果て、城内は朽ち、外は緑が浸食し、そしていつでも霧が、朝モヤのようなうっすらとした霧がまとわりついている。 生け贄にされたイコはしかしひょんなことで生け贄の棺から脱出する。 イコは城からの出口を探すうちに檻に閉じこめられた少女ヨルダを発見する。 神秘的な雰囲気をまとう少女ヨルダ、言葉が通じないため彼女が何者であるのか、なぜ閉じこめられていたのかもわからないが「こんなところに居ちゃいけないよ、僕と一緒にここを出よう」とイコは彼女の手を取って走り出す・・・ というのがオープニングのイベントであり、このゲームにおけるイベント(人物紹介・背景説明・ストーリー)のほとんど全てである。 つまり、イコがどこから連れてこられたのか、ツノが生えた少年とは何であるのか、どうして生け贄にされることになったのかはわからない。 また同様にヨルダが何者でなぜ閉じこめられていたのかもわからない、実際のところヨルダが城を出たがっているのかどうかさえわからない。イコは少年(12〜3才といった外見である)らしい直感によってそこが悪しき場所であると感じ、どういう事情であろうと女の子(と言ってもイコより2,3才は上のお姉さんだが)が居て良い場所とは思えないために彼女を連れて行くだけなのだ。 ストーリーはさておき、ゲームとして見た場合分類するならこれはパズルアクションというものだろう(SCEIはアドヴェンチャーとしているが、アクション要素があり反射神経も要求されるこのゲームがアドヴェンチャーとは思えない) たとえばゲームはこのように進行する、とある大広間に来たとして、出口らしき扉は閉ざされている、その部屋には「クサリ」と「箱」と「階段」と「スイッチ」がある。 はじめは何をしてよいかわからない、鎖も階段も手が届かないし、箱は上部の回廊にあって近寄ることも出来ないのだ。 部屋をうろうろするうちに装飾としてレンガが出っ張っている壁があることに気づく、ジャンプしてみると手がかかりそのレンガの出っ張りに乗ることが出来た、あたりを見回すと、すこし離れた場所にもう一段レンガの手がかりがある場所がある、壁をカニ歩きで伝っていってその下に行き、またジャンプ、それを繰り返すとハシゴの下に出た。 ハシゴを登っていくと箱の置かれている上部回廊に着く。この箱を床に落とし自分も飛び降りる、箱をズリズリと押していってクサリの下に置きこの箱の上に登るとクサリに手が届く、クサリを登っていくと更に上の回廊にスイッチがあるのが見える、クサリは天井に固定されているのでそのままではそこへ行けない、そこで体を振ってクサリを揺らし、タイミングを計ってその回廊に飛び移る。 スイッチを入れると扉が開いて次のブロックへ進める。 という具合である。 ところでこのゲームをゲーム性という面から見るとこれはあまり良い出来ではない、なぜなら例として述べたように仕掛けが一本道であるからだ。 そのブロックに「クサリ」と「箱」と「ハシゴ」と「スイッチ」があればそれは必ず使うもので無駄はない、また、クサリにも手が届くが、ハシゴも登れる、箱も動かせる、どういう組み合わせで使うのが正解なのだろう・・ということも「ない」 迷うのは一見手詰まりに見えるのだがここでは次に何をすればいいのだろうか?と次に出来ることを探す場合だけで、基本的にはあれこれ手探りしているうちに先へ進んでしまう、つまり「こうすればいいのじゃないか? やった、正解だ!」という快感がないのだ。 これはパズルとして仕掛けに統一性がないということも影響していると思う、たとえば「扉」を開ける必要がある場所はいっぱいあるのだが、扉を開く方法はあるときは壁のスイッチを入れることであり、ある時は仕掛け床を踏むことであり、あるときは上部のロープを切ることであったりする。 やってみないではわからないので、前もってあれこれ攻略方法を考えることが出来ない、したがってどうしても総当たりの手探りにならざるを得ず、パズルゲームとして最大の魅力である筈の「頭を使う喜び」が得られにくいのだ。 さらに言えば舞台となる霧の城のグラフィックが秀逸であるにもかかわらずそれを堪能出来ないというのも残念なところだ。 冒頭「古い橋」を渡っているときに、遙か下を眺めればラストにイコが単身ヨルダを助けるために戻ってくる「パイプ」が見える。 「クレーン」をやっているとき、視線を飛ばせば中盤の大イベントである「風車」がのんびり回っているを遠望することができる。 この霧の城は内外がきちんと計算され部屋のつながりなどは3次元的につじつまが合うように構成されているのだ。 にもかかわらず、それがまるで生かされていない。 つまりゲーム自体は「古い橋」「トロッコ」「シャンデリア」などとブロックごとに進む面クリ(場面クリアー型)ゲームでしかなく、3次元のつながりはゲームに有効に取り込まれていないわけだ。 これはもったいない。 私のゲームベスト10を選べば必ず上位に入るであろうものに「ダンジョンマスター」というものがある、モンスターを倒しながらひたすら地下迷宮を下っていく一人称視点のパズル・アクション&RPGだが、このゲーム一歩歩くごとにのどが乾き腹が減る(!)ほっておくと死んでしまうので水と食料をいつも気にかけていなければならない。 地下の浅いところで遭遇する「丸虫」と呼ばれるモンスターは最初は大敵で出会うたびに恐怖する相手だが、倒すと食料になる「丸虫の肉」が手に入る(ミミズの輪切りといった不気味なグラフィックである) ゲームの後半、地下の深部で探検を続けていて腹が減ると「肉〜」と叫びながらプレイヤーは地下迷宮を駆け上がることになる(最初恐怖だったモンスターはこのころにはただの肉にしか見えない)進むのは至難だが、戻るのは容易なのだ。 最初はマッピングした手書きの地図を見ないと戻れないが、そのうち目をつぶっても走り回れるほどになる、こうしてクリアまでに何度となく地下を走り抜けるうちにまるでダンジョンは自分の家のように、なじみ深い場所になる。 まさしく「ダンジョンマスター」である、このゲームの設計は秀逸だった。 荒いドット絵でしかなかったダンジョンマスター、それでさえ楽しかったゲームの舞台が我がものになるという感覚。それがこの美しい霧の城にも存在したらどんなによかったろう。 たとえば「風車」、明るい日差しとかすかな霧、眼下に広がる海原と彼方の大陸、きしみながらゆっくり回る古びた風車と澄んだ水たまり、しばらくそこに留まってのんびりしたいのどかな風景である。ゲーム中も戻って一息つきたい気分になることがよくあった。 しかしそうなっていない、戻るのも進むのと同じくらい面倒なのでとうてい戻る気になれないのだ。 先へ進むのは難しいが一端道が開ければ戻るのは簡単という仕組みにして欲しかった。そして戻る意味を付加して欲しかった。 このゲームは面クリなもので、その面に必要なものはそこに全てそろっている。 爆弾が必要とされるブロックには必ず爆弾が置いてあるし、火を付けるたいまつも置いてある。 ここまでヌルイゲームにする必要が本当にあったのか。 なぜ「火薬庫」とかいうようなブロックを作り、必要となるたびに取りに行くという構成を取らなかったのか、城を行ったり来たりする必然性を作り、その過程で城を堪能する機会を作らなかったのか。 私には残念でならない、今でも風車の景色をもう一度見たいと思うのだが、セーブせず進めてしまった今ではもう戻れない、そのためにもう一度ゲームをする気にもなれないのだ。 ・・・・とさんざんに言ってしまったが、このゲームつまらなかったのか?と言えば実はそうではない、というよりむしろ傑作の部類に入るだろう。 このゲームにインスパイアされた宮部みゆきが小説を書いてしまうほどに。 では何がこのゲームの魅力たりえているのか?と言えば、ゲーム全体から漂う叙情性だろう。 陰鬱な城内を、あるいは一転して光に満ちた緑の多い戸外を、時の流れに置き忘れられたような古城の中を少年と少女が手をつないで走って行く、というビジュアルにはなにか大事なもの、昔は知っていたが今は忘れてしまった大事なものを思い出させるような、あるいは自分の心の柔らかい部分をつかまれるような気持ちにさせられるのだ。 このゲームでイコはスーパーマンである、ハシゴはもちろん、クサリでもパイプでも指の先がかかるだけの壁でも登ることが出来る、かなりの幅の空間を飛び越えることが出来、高い場所から飛び降りることが出来る。 いっぽうヨルダはいいとこのお嬢さん風な足弱さんであって、ジャンプ力などないに等しい、クサリも壁も登ってくれないし、ちょっと高いところからはもちろん飛び降りていただけない。 つまりイコは体を張ってヨルダのためのルート工作をしているわけなのだ。 見知らぬ少女のために、飛び移りそこねれば命のない絶壁の対岸に向かってためらいもなく身を躍らせるイコを見ていると・・ってまあ、動かしているのはプレイヤーなのだが、彼はゲームキャラクターに過ぎないはずなのだが、彼の勇気がコントローラーを通じて伝わってくるような気がしてプレイヤーである自分まで元気になってしまうのだ。 ゲームの中盤に短いイベントがある、霧の城の主である魔女があらわれイコを威嚇して「ヨルダは私の娘、彼女をおいてさっさと出ていくがよい」とイコに向かって宣言するのだ。 驚くイコ、ヨルダは何も答えない(っていうか言葉が通じない) ここで私はイコが狼狽し、あるいは逡巡する演出がなされるのだと思った、自分と同じ捕らわれ人だと思えばこそここまで連れて逃げてきた相手、それがイコを捕らえていた側の人だったとは・・と。 しかし違った、魔女が姿を消すやいなやイコはヨルダの手を取って再び走りだすのだ。 この迷いのなさ、まっすぐさ、自分を信じる心の強さはなんだ! たしかに少年に迷いは似合わない、道を見失ったり自信をなくしたり、悩んだ末にふたたび道を見いだしたりするところに真実があるなどというのは大人の美学である。 自分の直感を信じ、命までかけるまっすぐさが鬱屈している大人にはまぶしいほどカッコいいのだ。 叙情性とカッコよさこれがこのゲームの最大の魅力である。 ・・しかし、どっかで見た構図だなあこれ?と思ってみれば私の人生に重大な影響を与えた東映動画のアニメーション「太陽の王子ホルスの大冒険」ではないか。 孤児であるホルス(向かうところ敵なしのスーパーマンである)は仲間をもとめて旅をするうち、廃墟の村で見つけたヒルダ(魔王に村を焼かれ孤児になったのだという)と出会う。 ホルスたちはその後とある村に身を寄せ、その村を守るために魔王と対決することになるのだが彼女が魔王の妹であると知らされて驚愕するシーンがある。彼女は魔王が送り込んだスパイだというのだ。 しかしその事実を知ってもホルスのヒルダに対する態度に変化はない。 その後ヒルダは兄を裏切り、命をかけて村人を助ける。 ラストシーン、自分が悪魔の妹であることを知られ村人に受け入れられないのではと恐れるヒルダの手をホルスはためらいもなく取るのだ。 この映画のラストカットはホルスがヒルダの手を取って走って行くところで終わるわけでインスパイヤされてないとは思えないわけなんだがどうだろう。 (名前も昼と夜だしね) ・・という余談はさておき。このゲーム、実際にはほとんどストーリーらしいストーリーがないにもかかわらずプレイする側の思いこみによって世界が広がって行くという希有な作品に仕上がっている。 おそらく考えてあるだろう作品の設定に対して、シナリオを作りイベントを追加し、感動の大作に仕立て上げることも可能だったと思うがそれをせず、プレイヤーの想像にまかせた制作者の方針は正解だったと思う。 そしてまさしくその作戦に乗ってしまった作家がひとり、それが宮部みゆきである。 というところで小説「ICO」へつづく。 宮部みゆきが「ICO」を書いたのは、言うところのコラボレーションでもメディアミックスでもない、このゲームに惚れ込んだ当人がいわば勝手に小説化したのである。 言ってみれば2次創作物、もちろんプロの作家として大手出版社(講談社)として許可を得てから書き、出版しているのだが、好きなあまりに自分なりのインサイドストーリーを作ってしまったという意味では夏と冬ビックサイトに行けばいくでもある○○本と本質は変わらない。 ところでこの本のあとがきに「私にとって初めてのノベライズ」と書いてあるが、実際には「ゲーム本」は2作目である。 宮部みゆきはすべてのゲーム機を所有し、ゲームをしない日がないというほどのゲーマーであるらしく、ついには病コーコーにいたり「ブレイブストーリー」(あ、感想書いてないや)というロールプレイングゲームを小説化した小説を書いているのだ。 ある特定のゲームをノベライズしたわけではないが、日本に根付いたロールプレイングゲーム全般(ドラゴンクエストとかファイナルファンタジーとか)全般のノベライズといえる代物だ。 しかし長編小説を書かせればあれだけの手練れである宮部みゆきにして、この「ブレイブストーリー」の出来はひどいものだ、ゲームに思い入れがありすぎるのだろうか。 誰がどうで、これがそうとは言わないが多くのジュニアファンタジーが字で書いたアニメであるのと同様、これは字で書いたゲームでしかない。 ロールプレイングゲームというのはその名の通り、役(role・ゲームにおいては種族や職業)を演じる(playing)からこそ面白い。 それは作者が用意した起承転結を受け身で楽しむ小説や映画と違い、自分だけのストーリーを自分で作っていく面白さだ。 ゲームはそのために特化している、小説では当然要求される必然性や論理性が無視されている部分も多い(強大なモンスターをようよう倒して進んだダンジョンの先に道具屋があったりする)逆に言えば誰かがプレイした過程を聞かされてもさほどには面白くないのだ。 そしてこの「ブレイブストーリー」はまさしくゲームの過程を字に引き写しているだけだった。 わかってない・・というのかわかりすぎている、というのか、ゲームをやってない人間がそれを読んでどう感じるかまるで見誤っている作品なのだ。 そんな宮部みゆきがこの「ICO」を小説化したと言う、「ヤバイのでは?」というのが正直読む前の気持ちだったのだが・・・ 幸いにもそうではなかった。 小説の冒頭、ゲームのオープニングからヨルダに出会うあたりまで、そしてゲームとして数ブロック分までが完全にプレイ記録でしかないのを見て、これはイカン!と思ったのだが、次第次第にゲームから離れ独自の世界観を持つ「小説」となっていったのだ。 私自身が作者と同じくゲーム「ICO」にイカれてしまったクチであり、イコと書かれていればゲームに登場する少年を、城と言われれば華麗に描かれたグラフィックを思い描いてしまうので、この小説だけを読む人がこれをどう読むか、いったいに面白いのかどうかよくわからない。 ただ語られざる背景について充分な考察がなされゲームの興奮を壊さないよう配慮しつつ壮大なドラマを構築しているとは思う。 特にイコがなぜ生け贄として霧の城に捧げられなければならなかったかという設定が面白い。 つまりそれは霧の城が要求したことではないというのだ。 少年(たち)は霧の城に住む魔女を封印するためのエネルギー源であり、人間社会が自分たちを守るために、いわば人柱として霧の城に送りこんでいたというわけだ。 魔女の「私はおまえの敵ではない、おまえを生け贄にしたのはおまえの仲間だ、人を犠牲にしてまでも自分を守ろうとしている人間こそがおまえの敵だ、私と手を組んで彼らに復讐をしてやれ」というセリフには一理ある。 またイコの「ヨルダは別に逃げ出したいわけじゃないし、僕だけならすぐにでも逃げられる、だったら一人で逃げてしまおうか」という迷いも当然だろう。 それでも僕は自分が最初に信じた道を行く!となるのは王道であるのだが「私は不満だ」 なぜなら私はイコの迷いのないまっすぐさに感動したからだ。 言われてみればそのとうりとか、考えてみれば・・とか、そんなことは先にも言ったとおり大人の理屈だ、その迷いから抜け出すところが偉い、などとというのは大人の考え方だ。 悪いのはてっきり魔女と信じていたら、人の心にも魔女に劣らない暗い部分があり、 正しさなどというものは立場や物の見方で変わるものなのだ、というひねりのきいたストーリーは充分に面白いとは思う、しかしそれは私の思う「ICO」ではない。 話を進めるために仕方ないことだとは思うが、ヨルダと手をつなぐうちイコにはヨルダの記憶が見えてくるとか、いずれ言葉も通じるようになってくるとかいうのも不満だ。 (まあ言葉が通じません、ヨルダが何者で過去にその城で何があったのかもわかりません、というのじゃ、小説にしようがないのだろうが) その少女が幸せそうに見えなかったというただそれだけで、彼女のために命を賭ける少年、そんな物語でなければそれは「ICO]ではないと私は思うのだ。 放送禁止映像大全 天野ミチヒロ 自閉症裁判 佐藤幹夫 この3冊には相互に何の関係もないが、共通のキーワードがあるのでまとめて取り扱うことにした。 そのキーワードとは「つっこみの甘いドキュメンタリー」というものだ。 ではどのように甘いのか、まずはベタ甘の「トラウマの国」から。 これは「トラウマ」を始めとして「スローライフ」とか「自分史」とか現代日本におけるいくつかの社会現象をおもしろおかしく取り上げたドキュメンタリー(と言えるかどうか?)である。 まずは表題作の「トラウマの国」 内容はおおむね以下のようなものだ。 トラウマとは生命に危険を感じるような出来事に直面し、あるいは直面した人を間近で目撃することによって負う心理的ダメージを言う。 ところが最近の精神科医は何に恐怖するかは個人差がありどんな些細なことでもトラウマたりうるとし、日常生活がうまくいかない、生き生きとして暮らせない、他人の批判を恐れるなどはトラウマのせいであると言う。 思い当たるフシがないとしてもそれはトラウマがないのではなく、記憶を封印しているせいでなのであると。 トラウマの原因を思い出し、それと正しく向かい合えば本当の自分を取り戻すことが出来る。 そこでトラウマを抱える人たちが集まってお互いのトラウマを語り合うグループセラピーというものがある。 この集まりで自分がいかに深刻なトラウマをもっているか、自分がいかに悲惨な過去を抱えているか、いかに虐待されてきたか、を語る人達の顔は明るく楽しそうだ。 参加者の一人は言う「私はこういうことを勉強しているのが好きなんです、直ったらどうしようと真剣に悩んでいます」 >>>苦笑 とオチを付けてこの章終わりである。 作者のねらいはとりあえず了承可能だ、しかし一章をもうけ一冊上梓するほどのことなのかこれは? 一生懸命なあまりに本末を転倒していることって世間にいくらでもあるのではないか。 たとえば「忙しい日常から離れてリラックスするための休暇を取ったはいいが、その休暇旅行のスケジュールを分刻みで設定し、それを守るために汲々としている会社人間」とか。 「健康ですと言う医者はヤブと断定し、自分になにかしらの病名をつけてくれる医者を求めて病院を転々とする人」とか。 はたまた「健康のためなら死んでもいい」健康マニアとか。 おかしうてやがて悲しき人の性ってやつである、誰にだって思い当たるフシの一つや二つはあるただの笑い話だ、あらためて本で読まなくてもというほど内容薄い話題である。 それにこの作者、偶然そういうグループセラピーのことを知ったというのではないようだ。 何かメシの種はないか → トラウマのグループセラピー(笑)をやっている → ネタになりそうだ → もぐりこんで取材しよう・・ということらしい。 何はともあれグループセラピーに参加しているのはそれが自分に幸福をもたらすことを願っている真剣な人達だ、その中に患者のフリをして混じる、しかも「本末転倒」という予断を持って、というのはジャーナリスト(? そうか?)として倫理観に欠けすぎていないだろうか、つまらないという以前に不快である この揶揄するために揶揄する、謙虚に取材するのではなく最初からネタを考え、そのネタを補強するために取材する手法は次の章の「ふつうの人になりたい」でも明らかだ。 この章は。 「大きくなったら何になりたい? 子供達へのお決まりな質問 子供は夢を見ると決まっているのである」(本文より) という世間一般の画一的な見方を揶揄する一文だ。 本当に子供は野球選手やサッカー選手、あるいはスチュワーデスになりたいと思っているのか? 目のつけどころはいいとしよう。 しかしその取材のためにこの作者は塾に足を運ぶ、授業の前後に小学生から話を聞くのはいいとして、塾に話をつけ作文指導の講師として彼らに作文を書かせるというのはどうだろうか? 授業料を払い、遊ぶ時間を削って塾に通っている子供達は作者のネタ元ではないのだ。 作者はその作文や聞いた話の中からおもしろおかしいものを紹介して、今の子供はクールだとか疲れている(世間一般の見方は間違っている)とするわけだが、どうみても最初に方針(揶揄)ありきの取材でしかない。 そもそも小学生というのは家と学校が全てという狭い世界に住んでいる、それ以外の事(空間的な広がりや、時間的な広がりを持つもの)については親やマスコミ(TVだ)から得たイメージしか持っていない。 よくある「将来就きたい職業」などというのも、その職に必要なスキル、求められる才能、仕事の実態を知った上で言っているわけではないだろう。 だから小学生が「会社員になりたい」「なぜ?」「ボーナスが出るから」などと老成したようなことを言ってもそれは疲れているからでも将来を達観したからでもない(自営業の親が「サラリーマンはいいよな、ボーナスがあって」とか言ったことの聞きかじりだろう) それはサッカー選手や宇宙飛行士になりたいというのと本質的には同じだ。 手に余る質問を小学生にぶつけてトンチンカンな答をさせ、おもしろおかしく取り上げて見せるこのドキュメンタリーは志が低いとしか言いようはなく、やはり倫理的にも問題が多い。 この本は全12章から成り立っているが、すべて何事か一生懸命やっている人を取材し、真面目な取材かと思って真摯に対応してくれた人を上から見て揶揄するという仕組みになっている。 私は書痴の気味があり、読みたい本は買うし買った本はまず捨てない、よほど駄作と思った本ですら、しかしこの本に限っていえば2度と読むことはないと確信出来るし、捨ててもいいかなと思っている。 その2 「放送禁止映像大全」 「封印された全263作品から知る映像の暗黒史」とかオビで煽られば。これは権力によって公開を禁止された作品を解説した本か、どんな凄い本だとか思うじゃないですか、映像にかかわる人間ならなおのこと読みたくなる。 ところがこれがとんだ腰砕け。実際問題として憲法で「出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」「検閲は、これをしてはならない」(21条)と定められている以上、現代日本で『放送禁止』なんて物はありえないのだ。 ありうるのは「放送自粛映像」だけ。 これは言うところのコンテンツホルダー(この場合は映画配給会社やTV局など映像の著作権、配給権を持っている組織)が世論におもんぱかって「こりゃ今どき流せないよね」と言って公開をしない作品を集めた本でしかないのだ。 しかもつっこみが甘い、っていうかまるでつっこんでいない。 作品のタイトルとあらすじを紹介して、最近はTVで見なくなったがさすがに今は公開出来ないだろう、とコメントを付けるのみ。 実際にその映画会社なりTV局になり行って、公開する予定はないのか?と聞くことすらしていない、つまり 最近見ない>内容はこんな>きっと自粛している「のだろう」で終わっているのだ、ある意味「放送自粛映像」ですらない。 たしかにここで取り上げられた作品の中には内容を聞けば背筋が寒くなるような自粛当然の人権侵害映画もあるが、差し障りがあるとも思えないが誰かにイチャモンつけられるとヤだからやめとこうといった事なかれ主義で公開停止の憂き目にあっている(らしい)TV・映画も多くある。 配給側の考えを聞きたいし、それが公開されたら傷つき、あるいは差別される(かもしれないと思われている)人々の話も聞きたい。教育あるいは社会秩序に悪影響があると思うなら識者(誰だ?)の意見も聞きたい、制作者にだって言いたいこともあるんじゃないかとも思う。 そういう重要なこと(面倒なこと)には一切手を出さず、作者の独断でこの作品は「放送禁止映像」であると断じ、理由を憶測で書いただけの本、それがこれである。 あまりと言えば内容薄くほとんど意味がない。 「自閉症裁判」 東京浅草でレッサーパンダの帽子をかぶった男が女子大生を刺し殺した事件を覚えているだろうか? かわいいレッサーパンダの帽子と凶悪事件というミスマッチな組み合わせから多くの人の記憶に残っているのではないかと思う。 犯人は自閉症をもつ障害者であったわけだが、自閉症患者が事件を起こした場合、現在の日本ではその処遇が当人の状態に即していないと訴えているのがこの本である。 たしかに作者の言うとおり *威圧的な強い調子で言われると、自分に非がなくとも、自分が悪いと思ってしまう *複雑なことを言われると、質問の意図を理解しないまま、うなづいてしまう のが自閉症患者の特徴であるとすれば取り調べで不利になるのは当然であろう。 法廷で自分が何を裁かれているのかも理解できていない筈だ、というのでは裁判の意義さえ失われる。 犯罪を犯した時にかぎらず彼らが日常生活で不便を強いられているのも理解できる。 しかし「ではどうすべきか」という提言が作者になにもないのだ。 前出の2冊と比べるとこの本は真面目に書かれており、丹念な取材、多くのインタビューで構成されている。そして現代の裁判や法律ではこんな凶悪犯とされてしまうが、彼(彼ら)はそういう意図で行動しているのではないのだ、と詳しく解説しているあたりには好感が持てる。 しかし「ではどうすればよかったのか?」について語らなければ事態は何も変わらないだろう。 検察官の書いたシナリオのように、女性にわいせつ目的で近づき、抵抗されるや刺し殺す冷酷な殺人鬼、というのも怖いが。 作者の言うように、自閉症患者特有の思いこみによって「包丁を見せると人は自分の意のままになってくれる=思いが通じる」と考えてしまう。相手が思ったとおりの反応を示さないとパニック障害を起こして相手を刺し殺してしまう、というのはもっと怖い。 作者は福祉関係の仕事に長く就いていた人であり本人が言うようにあちら側の人間である、そして本文中何度も「私は彼の障害の故に彼が無罪であるとか、情状を酌量すべきであると言いたいわけではない」と言う。彼らがどういう境遇にあるのか知ってもらいたいだけであると。 しかし社会は彼らをどう扱うべきなのか。犯罪を犯した場合どう処遇すべきなのかについて意見を出さず、ただただ彼らの事情を述べるだけではそう取られても仕方ない。 むしろ、彼は凶悪な殺人鬼ではなく、ごく普通のどこに居てもおかしくない軽い障害を持っているだけのただの人である・・と主張するだけでは。 成人して職につき給料を稼ぐことまで出来ていながら、包丁をちらつかせて人を意のままにしようとすることが犯罪であると認識できない自閉症患者というのは危険ではないのか? パニック障害を起こすとその意図もないのに、人を刺し殺す可能性がある自閉症患者はあらかじめ隔離しておいたほうがいいのではないか? と逆に障害者を取り巻く環境の悪化につながりかねないと思う。 ドキュメンタリーは取材し、事実を述べるだけでは意味がない、そもそも取材する時点で作者の立ち位置というものが決まるわけで、完全に公平でニュートラルなドキュメンタリーなどというものはあり得ない。 集めたデーターをただ書き連ね、自らの意見を述べないままのこの本はやはりつっこみが甘いとしか言いようはない。 ドキュメンタリーである、前出3作と項を分けるのは質が違うからだ、志が違うと言ってもいいだろう。 『映画をつくるということ、単なる人形に生命を吹き込むということが、どういうことなのか、数百本の映画をみるより1本の「キングコング」が雄弁に語りかけてくる。五十年−半世紀を経た特撮映画が、今なお観るものの手に汗を握ぎらせ、胸打つのは何故か、一度観ることだ。一度観ればわかる』 これはホラー作家菊地秀行が「魔界シネマ館」という本で語っている言葉だ、もちろん「今回」のキングコングではなく初代、つまりウイリス・オブライエン版キング・コングについての話である。 ウイリス・オブライエンはいったいになぜ人形を1コマ分動かしては撮影し、また1コマ分動かしては撮影する、という気が遠くなるような、あまりにも時間と手間のかかる映画を制作したのだろうか? 2代目のキングコング、ジョン・ギラーミン版のキングコングは着ぐるみなわけだが、これはスペシャル・メイクアップ・アーチストのリック・ベイカーが制作している。 彼は全身毛むくじゃらのゴリラの毛を一本づつ植毛するという手間をかけて(正確に言うと2つ折りにした「毛」の中央を特殊な器具でつまんで植え込むので2本づつ)エイプ・スーツを制作しているのだが、いったいにそんな手間をかけてまで着ぐるみを作るのは何故だろう? それが仕事だから? 違う、彼らは憑かれているのだ。 答えは今回のキングコングでジャック・ブラック演ずる監督兼プロデューサーのカール・デナムが言っている。 「皆に驚異の映像を見せてやる、入場料だけで」 これだ。 映画屋は(そして特に特撮屋は)皆を驚かせたいのだ、目を見開かせたいのだ、夢を見せたいのだ、、劇場に来た人々に浮き世のウサを一時忘れて楽しんでもらいたいのだ。 観客が我を忘れて手に汗を握る映像を作るためなら何だってやってみせる、これがエンターティメントの本質であり映画屋の心意気だ。 「特撮」というジャンルすらなく、それが「金になる」かどうかさえ不確かな時代にウイリス・オブライエンは予算と時間がケタ違いに必要となる作品を制作している。彼はコマ撮りという気の遠くなるような地道な作業の先に、息を飲んでスクリーンに見入る観客がいることを信じたのだろう。 良い映画が撮れると信じたなら、何ものにもとらわれず自分の出来ることを全力で行え、それがウイリス・オブライエンが映画を作り続ける後輩に身をもって示したメッセージである。 それゆえにピーター・ジャクソンは映画のラストで自分のキングコングを初代の映画に捧げ、以下のように語っているのだ「この映画は今もなお我々を勇気づけている」と。 何が言いたかったのかというと、キングコングは映画に憑かれた男たちによって作られて来たということであり、今回の映画に特徴的なことはその「映画に憑かれた男」が主役だと言うことだ。 え?ナオミ・ワッツが主役じゃないの、っていうかキングコングだろ?という声が聞こえてきそうだがそうではない。 この映画の主役はジャック・ブラック演ずるカール・デナムという男だ。 どっからどうみてもオーソン・ウエルズを意識したとしか思えない役づくりで、映画会社を出し抜き、仲間を洗脳し、脚本家と役者と船長を騙して海図にない島へ皆を連れていってしまうブレーキの壊れた蒸気機関車のような映画監督がこの映画の主役である。 誰をどう騙しても頓着せず、仲間を危地にいざなうことにためらわず、いかなるピンチに遭ってもカメラを回し、誰が死んでも殉職であると言い切るこの男はピーター・ジャクソンの分身なのだろう。 ところで映画はストーリーが先に決まり、シナリオがあとから出来てくる、それゆえ登場人物の行動はストーリーの都合で先に決まっている、ここでシナリオ・演出が的確でないと人物の動きが観ている側にとって不自然、納得できない展開になるということがある(観ていて「それはないだろう」と思う)これはご都合主義とよばれる。 この映画は壮大な悲劇でありこの悲劇は主人公のあまりにも強引な行動が引き起こしている。 キングコングもナオミ・ワッツ演ずるヒロインもただただ状況に引きずられているだけなのだ。 ではこのブレーキの壊れた蒸気機関車のような男は映画屋以外の人が見たらどう見えるだろうか? 狂っている? 唯々諾々として従っているスタッフもどうかしてる? つまり「それはないだろう」と見えてしまうだろうか? そう見えたならこの映画は失敗だろう、ここが私には判断がつかない、私自身はこの映画を近年希な傑作だと思うからだ。 これは映画制作の・・実態・・とは言わないが、カリカチュアライズされたコメディに近いものだ。 (映画界の友人知人に聞いたところでも「あそこで(カメラを)回さない奴は映画屋じゃないよね」という反応だった) 劇中では比較的常識人と見える撮影監督でさえ主人公をまったく止めようとせず、そればかりか、肉食恐竜に襲われた時には「自分はいいからこの三脚を」と言って死んで行く、ピーター・ジャクソンの「映画屋はこうあるべきだ」という信念の発露だろう。 この男(ピータ・ジャクソンの分身)が損得で動いているわけではないというのも重要なポイントだろう、彼は映画を撮りたい=「驚異の映像を皆に見せてやりたい、入場料だけで」と思っているだけで別段一攫千金を夢見ているわけではない。 ウイリス・オブライエンもリック・ベイカーも、おそらくそうなのだと思う。 (お金が欲しいとは思っているだろうがそれは次の映画を作るために必要であるからで一発あてたらあとは贅沢三昧とは思っていないはずだ) とどのつまり監督というのはそのくらい狂っていないと誰も付いていかないということだ。 キングコングは映画に憑かれた男達が作りあげてきた映画の金字塔であり、今回は映画に憑かれた男の物語でもあるという入れ子仕立てになっている。 この映画はでかいゴリラの話ではない、3代目絶叫女優ナオミ・ワッツを見に行く映画ではない、俺たちがどれだけ映画に憑かれているか見よ、とそういう映画だ。 人のセリフだがあまりにも私の心情を代弁してくれているので、再び引用しピーター・ジャクソンとこの映画に贈りたい。 『映画をつくるということが、どういうことなのか、数百本の映画をみるより1本の「キングコング」が雄弁に語りかけてくる。一度観ることだ。一度観ればわかる』 実物大スペースシャトルとコースター「ヴィーナス」 2005年は初めての遊園地2つに足を運んだので書き留めておこう。 一つめは北九州市小倉にある「スペースワールド」 新日鐵と福岡県・北九州市が第三セクターを作り、製鉄所の跡地を使って始めた遊園地でNASAと提携し文字どおり「宇宙」をテーマに据えたアミューズメントパークだ。 そういうのってテーマパークって言うんじゃないの?って声が聞こえてきそうだがテーマパークってものは全体がある方向性に統一された施設のことを指すと私は思う(っていうか、そうだ) 具体例を挙げるなら日光江戸村とか、長崎オランダ村(つぶれた)がそうだろう、ディズニーランドがテーマパークという言葉を流行らせたため、遊園地がテーマパークと名乗るのが流行だが『遊園地=テーマパーク』では全然ない(そういう意味では総花式のディズニーランドもテーマパークではない) スペースワールドも「ここは未来の宇宙基地である」とか「ムーンベースである」とかいう視点で全体が設計してあるなら別だが、NASAの訓練が体験できる「スペースキャンプ」は園内の施設の一部でしかなく、あとはアトラクションのネーミングを宇宙ネタで統一しているというくらいのものでテーマパークと呼ぶには足りないと私は考える。 ところでここにはかつて一度映画の撮影で訪れている、その時の印象は「整備された良い遊園地だ」というものだった。 あたりまえのことなのだが遊園地は開業当時が一番美しい、ペンキは塗り立て、植え込みは手入れが行き届き、従業員もやる気にあふれている。 ところが今はなかなかに遊園地も経営が苦しく、開業人気が一段落すれば客足も遠のき落ちる金も減ってくる、そこへ機材が老朽化する。 どうしたって人件費を含む経費を削減したくなるわけだが、事故は直接に遊園地の存続に関わるので絶叫マシンの整備の手は抜けない、保健・衛生面も同じだ。 結局手を抜いても構わない(!)場所にしわ寄せがいき、切符売り場のペンキははげ、街灯の支柱はさび、植栽は枯れ、歩道がひび割れても放置ということになってしまう。 しかし遊園地は「ハレ」の場である、人々は日常のウサを一時忘れ、夢の世界で遊ぶために足を運ぶのだ、だからそういった日常の切れっ端は興をそぎ遊園地の価値を下げる、そういう負のループに落ち込んだ(そして消えていった)遊園地を私は多く見てきた。 遊園地は夢を売るのが商売なのであって、ハードウェア(遊具)があればそれでよしというものじゃないのだ。 そういう意味で「スペースワールド」は頑張っていると見えた、枯れている植栽はなく、もちろん植え込みにゴミが落ちているということもなく、キップ売り場の錆も目立たなかった(笑) 特筆すべきは・・・仕事の必要上、客の立ち入らない張りぼて山の裏に入ったのだが、そこもキチンと整理されていたということだ。 私はいくつかの遊園地(ディズニーランド・読売ランド・浅草花屋敷・西武園ゆうえんち・那須ハイランドパーク等々)などに仕事で入ったことがあるがバックヤードが雑然としている所は多い。 特にこのような張りぼての裏の空間など、観客の目にも触れなければ遊園地自体も使っていない場所というのは、古くなった機材が放置されていたりゴミが吹きだまっていたりするものだ。 しかしそれがない、これは予算云々の問題というよりは職員の士気の問題であろうと思われた。 一つくらいアトラクションに乗ってみたかったがまるでそのような余裕もない撮影であり、いつか一度遊びで来てみたいと思っていたのが実現したのだった。
ところで実のところこの3年の間に「スペースワールド」には大きな転機があった、2005年5月、新日鐵がじり貧の経営に嫌気をさして北海道の観光会社に営業譲渡してしまったのだ。 これはあるいは雰囲気が一気に変わってダメダメになっているかも?と思っていたのだが杞憂であり、あいかわらず、園内は整備、清掃され、植え込みも(←しつこい)枯れていることなく遊園地らしい楽しさにあふれていた。 実はこの観光会社は北海道でスキーヤーの聖地たるルスツ、サホロ、テイネというスキー場を運営する最大手であり、ルスツリゾート内のカントリーランドという遊園地は趣味的な絶叫マシンが8つもあるコースターフリークなら知らぬ者のない聖地であり(日本初の宙返りコースターである谷津遊園のコークスクリューを谷津遊園閉鎖後に引き取ったことでも有名)ある意味新日鐵よりレジャー施設の運営には慣れている組織なのだ。 まあ修学旅行シーズンであり中高生がいっぱいで活気があったのも印象を良くしているのかもしれないが(オフシーズンに来たらどういう感じなのか・・) さてこの遊園地で一番楽しみにしていたのが「コースターの神様」アントン・シュワルツコフの遺作である「ヴィーナス」 スペース・シャトルの実物大模型にからみつくように設計されたコースターは傑作との評判を取る有名なものだ・・・・ったのだが、どうなんでしょこれ。 ルーピング・コースターってのは「宙返りできればお客さんは満足なんでしょ?」といわんばかりの味のない(文字どおり曲のない)コースレイアウトであることが多いのだがこれはループに加えて回転系の面白さを加えた変化に富むもので見た目も楽しい(これはジェットコースターにとって重要で、遊園地の目玉であるコースターは乗るだけでなく、というかむしろ乗っている人々を見て楽むものなのだ)
しかし乗ってびっくり、神様の設計が悪いのか工作精度の問題かはたまた老朽化が進んでいるのか振動がひどい、特につなぎの部分からカーブに入る時にかなりの横Gがかかって頭が振られるのだ。コースターに乗りすぎると硬膜下出血が発生し知覚障害に至るという話があるが(2004年、日本神経学会での報告、ホントかしらと思うけど)このくらい衝撃があるとそんなこともあるかもという気になる。 実際横Gに耐えるので精一杯となり充分にライディングを楽しめない。 コースターってそんなもんじゃないの?という人は設計が良く工作精度の高いコースターに乗ってみるとよい。 関東近辺だとディズニーランドのビッグサンダーマウンテン、あるいは東京ドームシティ(後楽園ゆうえんち)のサンダードルフィンというところだろうか、特にビッグサンダーは高低差があまり無く、高速での旋回を楽しむタイプのコースターだが不要な横Gを感じることもなく、コース変化がスムースで誰が乗っても爽快感を得ることが出来る国内でも最高レベルのコースターだと思う(設計者がアメリカ本国のものよりよく出来たと言っていたそうだし、レールを造ったのが石川島播磨重工というのが良かったのかもしれない) 次に初登場時、世界最速を誇ったタイタンが・・といちいち書いていくとキリがないのでやめにするが。 ともかく小回りのヴィーナス、豪快なタイタン、室内コースターのブラックホールスクランブル、ウオーターシュートのツインマーキュリー(スリリングなアドヴェンチャークルーズとのんびりムードのファンタジークルーズ)筏による激流下りの惑星アクア、子供向けコースター、ブギウギスペースコースターとクリッパー、更に体感映像系としてプラネッツクルーズとスターシェイカーとライド系はきわめて充実、また九州で唯一のIMAXシアター、九州一の観覧車があるというのもすばらしい。 はっきり言ってしまえば、関東から駆けつけるほどの価値があるかどうか疑問だが(無いが)ディズニーランドじゃないのだからそれでかまわない、それよりこれだけ充実した遊園地が小倉という街中に、JRの駅に隣接してあることのほうが素敵だ(「歩いて5分」というのは東京ドームシティと水道橋駅の間より近い、まあ駅が後からできたのだけれども) 都会から遠く離れた観光地にある遊園地、子供がいつか連れていって欲しいと夢に思う遊園地というのもいいが、誰もが簡単にちょっと寄れる遊園地というもの捨てがたいと私は思うのだ。 新日鐵は投げ出したわけだが新体制の元でなんとか末永く営業を続けていって欲しいと願う、機会があったらまた行くから。 次は神戸のポートピアランド
ポートアイランドで撮影があり、そのロケハンに呼ばれた際ついでに寄ったのだが入ってびっくり 「人がいない」
平日の朝一番という事情もあるのだろうが、同時入場したのが私の他に親子連れ三人、カップル一組の合計6人! この遊園地はたいして広くはないのだがそれでも6人、紛れてしまえばもうその姿を見ることは出来ない。 それでも噴水は音楽に合わせて水を飛ばし、ポップコーン売り場ではポップコーンがはじけ、ゲームコーナーからは騒がしい電子音楽が流れ、ホットドックの焼けるにおいが漂い、カラのコースターが頭上を走り抜ける。
ファンタジーである、いや、ホラーか。 「ひとけのない遊園地」というのは古くはウルトラQから新しくは映画版ウルトラマンコスモスまでTV・映画に多く登場する(スペースワールドにはそのウルトラマンコスモスの撮影で行ったのだ)今あげたのはたまさか円谷プロだが、数え上げればいっぱいあると思う。 ゲームではサイレントヒルの終盤の山場というのも容易に思い出される。 普段人でにぎわう場所に人がいないというのが観客に不思議な気分を味あわせてくれるわけだ。 とはいえそれらはたいていは夜だ、昼日中人の居ない遊園地にというのは記憶にない、しかもこれはリアルだ。 このことだけでも来た甲斐がありました・・と言ってしまってはナニだが。個別のアトラクションの出来云々より人の居ない遊園地でたった一人(気分的には)遊ぶという経験のほうが貴重であり、印象の全てを決定づける。 さして多くないアトラクションに待ち時間ナシで乗れるため一時間あまりで一通り回ることが出来た。
こんなんでやっていけるのか? と思ったが案の定というべき、撮影の現地コーディネイターに聞いたところが近く閉鎖されるのだという。 ポートアイランドの集客の目玉として期待され、あの手この手の延命をはかられていたポートランドだが長引く不況でポートアイランド自体の土地利用も進まず、入場者も低迷(なんてもんじゃない)ついに諦められたらしい。 いい大人がこんな時間に一人でなにしてんだ?と思ったに違いないのに明るい笑顔で出迎えてくれた係員さんたち、たいへんに残念でした。 おまけとしてユニバーサルスタジオジャパン再訪。 ユニバーサルスタジオに新しいアトラクション「スパイダーマン・ザ・ライド」が出来たというので行ってきました、いや寄ってきましたというのか。 上記のポートピアランドはロケハンのついででこっちは撮影の帰りに寄ったのです。
USJの全体観は2002年度版の「遊園地特集」で見ていただくといして、今回はトピックスだけ。 まずは本命の「スパイダーマン・ザ・ライド」これが実に素晴らしい出来。 観客はデイリー・ビューグル新聞社(映画で主人公がバイトしているとこだ)の車に乗ってスパイダーマンの取材に出向くというストーリーで、「スクープ号」に乗ってニューヨークの街路となっている館内を巡るのだが、モーションライドと3D映像との融合がかつてないほど高度であり、どこまでがリアルで作ってあるセットなのかどこまでが3D映像なのか判別できないほどだ。 CGで作ってある映像にはリアリティが足りないのでどうしても作り物感がぬぐい去れないのが普通だが、このアトラクションのセットはアメリカンコミックのポップな世界観そのままに作られている、つまりベースがそもそもが作り物っぽいのでセットの中のスクリーンに3D映像が映写されていても質感の差が無くてつながりが良いというわけだ。 それゆえにライドの上にアニメっぽいスパイダーマンが乗ってきて観客に語りかけてきても違和感がない、これはアイデア賞ものである。 館内のセットを移動しつつ、要所で体感映像装置としてモーションするライドの出来のよさもほめるべきだろう。 これは新時代のアトラクションである。 ところで事前になんの情報もなく、当日ショウのスケジュール表を見てもなんの期待も抱いていなかったのに見て面白かったのが「ロボットQT-1」というものだ。 これは女性型のC3POといった趣のロボット(・・の着ぐるみを来た女性のパフォーマー)が一人で園内を歩き回り、居合わせた観客とからむというものだ。 何が楽しいかと言えばこのロボット動きのひとつひとつに特徴的な擬音が付いていてその音と動きがぴったり合っている感じが見ていて心地よいのだ。 言葉では説明しづらいが、まずはチャキ、チャキ小気味良い音を立てて歩いてくる、近くを通る観客に気がつき首を曲げるとキュッという音がする、その客に手を振るとヒュンヒュンという音がする、観客が手を振り返すと喜んだ仕草とともにピッポーと鳴る、突然ポーズを取って伴奏付きエコー付きの歌を歌い出す、と、足もとのこどもの頭をなでるシャカシャカという効果音、更に相手の鼻を押す仕草をするとパフパフーというクラクションの音、シャキンという音でポーズを決めたと思うと、ブッブーという音とともに手をニギニギしてさよならの合図をしまたチャキチャキと歩き出す、という具合だ。 これをまったく遊びのないロボット振りで息つく暇もなく繰り出してくる様は圧巻で見ていて飽きない。
いったいに音をどうやって動きにシンクロさせているのかも不明だ、ステージなら前もって決めた動きをすればいいのだが、これは客に合わせたパフォーマンスなのだ、両手とも使っているわけだし、当意即妙の動きに合わせてさまざまな音を出す仕組みが私にはわからない。 舞台はストリート、観客は居合わせた人、全ては中のおねえさんの技一つというミニマムなアトラクションだが巨費を投じたアトラクションに劣らないエンターティメントだった。収穫。 さてもうひとつ再訪したいところがあった、それは「ターミネーター2 3−D」メインの出し物は劇場で見る生身のスタントマンと3Dメガネをかけて見る立体映像の掛け合いアクションなのだが、私が見たいのはそこではなくエントランスとウエイティングルームにおける演し物だ。 このアトラクション、観客はサイバーダイン社で行われる新製品発表会を見に来ているという趣向になっており、待ち時間中客はサイバーダイン社の社内向けあるいは訪問者向けのアナウンスを聞くことになる。 これがハイテク会社のオペレーターならかくもあろうという知的で落ち着いた声の女性で「三時間以内にカフェテリアで食事をした方の中で皮膚に発疹が出来た方はただちに診療室においでください」とか「××将軍、おいでになりましたらお近くの電話をお取りください・・・・××将軍、連絡をお取りください・・・××将軍の姿を見た者はただちに報告するように!」(××将軍、何があった?)とかブラックなジョークがずっと流れていてちゃんと聞くと飽きない。 また天井や壁面のTVモニターでは一流のTVCMのクオリティでスカイネットのCMが流れているのだが 「スカイネットは人間の手をまったく借りることなく、ミサイルを発射することが出来るのです」とか 「あなたがスカイネットを見ているときスカイネットもあなたを見ているのです」と か、スーパーブラックな内容になっていて楽しい。 そしてこのアトラクションの神髄、綾小路麗華さんのご挨拶である。 ウエイティングの最終段階、このあとすぐに劇場に入るというところで「私サイバーダイン社のメディアコントロール主任ディレクター綾小路麗華でございます」というお蝶夫人みたいな高飛車な女性が真っ赤なスーツにキメキメのメイクで出てきて客に挨拶をするのだ。 そしてしばらく客をいじって時間をつぶす、もともとは客を飽きさせないための仕掛けだったと思うのだが劇場でのド派手な3D映像にまけじと面白い。 「それでは皆様がどこからおいでになったのか、ちょっとお聞きしてみようかしら・・・あ〜らまだナニも言ってないのに勝手に手をワイパーのように動かしているそちらのおじさま、そうア・ナ・タ! どちらからおいでになりましたの?」 「ま〜あ、山形!、中途半端に遠いところからよくおいでになりましたわねえ、で、時間はどのくらいかかりましたの? え? 半日? は・ん・に・ち!? どのようなルートをとったら山形からここまで半日もかかるのか私には想像もつきませんわ、お〜〜ほっほっ」という具合だ。 一段高いところに陣取って高飛車、高慢チキに客をもてあそぶ「綾小路麗華さまオンステージ」というアトラクション(と呼んで過言でない)はこの役者さん(だと思う)の腕一つにかかったパフォーマンスだがこれが最高、USJで一番面白いかもしれないと思うほどだ。 ところでこの綾小路麗華さん、一人である筈がない、メインのアトラクションである劇場パートにも顔を出しているので休息時間等の問題を抜きにしても一人で回せる筈がないのだ、では各人についてパフォーマンスに違いがあるのか?と思って2回入ってみた。 ・・・・え〜〜っと、違いがわからない。 同じようなきっつい化粧で目を食う真っ赤なスーツを来てハイテンション、2度目は私の立ち位置が遠かったせいもあって違いがわからない・・と思っていたら 「それでは大阪以外からいらした方手をあげてくださる?」と言って自分でも手をあげる。ここまでは同じ、でも客が手をあげると「は〜い回して」と意味なく手首をぐるぐる回させるところが違った、あたりまえだが最低2人はいたわけだ。 ところで劇場でのパフォーマンスだが、サイバーダインに侵入したコナー親子(役のスタントマン)が天井からザイル降下してきて、新製品発表会の妨害を試みるという趣向になっている。 この2人がロボット兵の登場でピンチに陥るとそこへ大型バイクに乗ったシュワちゃん(のそっくりさん)が舞台に乱入してくるのだが、このバイク、走るフリをしていて実は舞台上に作られたベルトコンベアの上に乗っている(室内でエンジンふかすわけにはいかないので当然なのだが) とは言え、けっこうなスピードがあり、コンベアに固定されているのは前輪だけなので後輪はカーブでドリフトしなかなかカッコ良い・・・しかし! 2回目はシュワちゃん走って出てきた(笑)壊れたのね。 実のところ今回はジョーズでも似たようなことがあった。
監督不行届 安野モヨコ 失踪日記 作品の行き詰まりと二日酔いから鬱を発した作者は自殺するために家を出る。 自殺こそし損なうもののそのまま失踪、いわゆるホームレスとなって雑木林で生活を始める。 捨ててあった毛布と穴の空いたビニールシートを布団にして、夜となれば住宅街に出没して、ゴミ箱をあさる。 シケモクを拾い、捨てられた天ぷら油を飲み、腐った鯛を食っては腹をこわし、タバコの入ったうどんを食う。 悲惨の極致ではあるが、その自分をあくまで客観し、感傷を廃した明るい絵柄で描いたこの作品は一流のギャグマンガとして成立していて、さらに読む者に生きる喜びを味あわせてくれる。描かれたいきさつといい完成度といい奇跡的な一冊といってよいだろう。 今、感動、癒しなどというキーワードで売られる本やドラマばやりだが本物を見たければこれを読むがよい。 ちなみに、このマンガは平成17年度(第9回)「文化庁メディア芸術祭」マンガ部門の大賞を受賞した。 参考までにその選評を この作品は「私マンガ」というジャンルに属する。それはすでに新しいジャンルではないが、多くのそうした作品がどうしても「エッセイマンガ」になることが多いのに対して、この作品が作品としての品格をしっかりともっていることに注目してほしい。むしろ自分の感情・感想を排し、乾いた目でシビアな状況をギャグに仕立てている。(以下略) 強くお勧めする。 監督不行届 安野モヨコの描く女性はいつも頑張って生きている(悪く言えばてんぱっている) そもそも作者自身の家庭環境が複雑なものらしく(TVのドキュメンタリー番組になったくらい)だからこれは作者の体験が投影されているのだろう。 そういう人の描くものであればこそ人の心を打つ作品たりうるのかもしれないが、逆に言えばコメディは無理。 吾妻ひでおのように、自分がいかに逆境であろうとその状況を客観できる視点が持てなければ、少なくとも自分が出てくるマンガをコメディには出来ないだろう。 このマンガは映画監督の庵野秀明と結婚した作者がその旦那の変人さ、趣味・文化の違いに驚きかつ振り回される様を描いている・・という体裁を取っている。 しかし、てんぱっている作者としては浮世離れした変人である庵野氏との結婚はむしろ福音であるに違いないのだ。 実際、やたらと幸せそうな結婚生活が描かれている、困ったフリをしちゃいるが別段困ってもいないのはあきらかである。 つまるところこれは安野ファン、庵野ファンにとっては楽しいエッセイであるというだけで、一個の作品として見てみればかなりお手軽なものでしかない。 作品のテーマは「私の旦那ってこんなに変わり者」ってことだが、人と違っていてナンボのクリエイターは変わっていて当たり前、これはつまりは旦那を自慢しているのだ。 作家のファン向けブログで読むならともかく、お金払って人の旦那の自慢話を読まされてもなあと思う。 |