スクリプトシート2006年度版


 



紅一点論 斎藤美奈子

映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
紅一点論
24 シーズン1
終戦のローレライ
ローレライ浮上
ローレライ
日本沈没
続報
ゲド戦記


 アニメおよび特撮番組に登場するヒロインの立ち位置について研究した本・・かと思って読み始めたところが大間違い。

 斎藤美奈子の言いたいことはただ一つ「この世は男性優位の差別社会で、女は男に都合のいいタイプだけ持ち上げられるのよ」という事。

 作品を多く見るうちに一定の法則が読み取れたというのではなく、自分の理論(というより単なる恨みつらみ)を公言する踏み台に各作品を取り上げているだけなのだ。

 たとえばの話、斎藤は戦隊物のヒロインは父親の威光をカサにきた七光り娘であり、お飾り、マスコットでしかないと言う。
 たしかにマジンガーZ(ヒロイン弓さやかはロボット生みの親の娘)と言われるとそうである。
 しかし、秘密戦隊ゴレンジャーのモモレンジャーはお飾りではなく戦う女性である。
 するとこんどは男性隊員の中にいる女性隊員はたいてい一人で男性隊員のセクハラの対象であると言う。(ヘルメットのハートのマークは女性の記号である!と力強く言うのだがそれがどうしたというのだろう)


 ガンダムは戦う女性が3人だが、セイラは目の保養担当、フラウ古女房、ミライは母であると、つまり男の都合のいい女性を集めただけだと言う。

 エヴァンゲリオンは戦う女性がいっぱいで、そもそも男性優位社会で差別される女性の話では全然ないのだが、綾波レイを無理矢理に「男に都合のいい聖なる母」などと規定する。
 しかし映画での綾波レイを理解できない斎藤は「こういう抽象的な話をアニメ絵でやられるとトホホ感が先だって「聖なる母」のイメージも台なしだ」などと書く。前提が間違っているとは思わないのだろうか。
 (本題とは離れるが、アニメの得意技である筈の抽象的な話を「アニメ絵でやられると」などと言っている点で激しくわかっていない)

 キューティハニーは一人で戦う女性だが、これはハニーがアンドロイドなので女性とは言えないのだそうだ。
 ウルトラマンティガのイルマ隊長は斎藤の言う「男の子の国」で初めての女性隊長であり、お飾りでもセクハラ要員でもないのだが、これには「高級クラブの雇われママみたいな女」と意味不明な暴言を吐いている

 なんのことはない、どんな作品にでも自分の理屈を無理やりにあてはめ(当てはまらない作品は切って捨て)女性は虐げられているのだ、と声高に叫んでいるだけなのだ。

 あらためて言うのもバカバカしいのだが、どんな作品にも多面性があり多層な構造を持っている、その気になればどんな切り口だって可能なのだ。
 斎藤がやっているのは、作品を好き勝手に切り刻み「ほら、この作品には三角形が隠れているのです、ほらこの作品にも、この作品にも」と言っているようなものだ。

 自分に都合のいいように切って、不都合な部分を捨てればそれはどんな形にだってなるだろう。
 ガンダムなんてのは充分に複雑な物語なので切りようによっては「男性優位社会」どころか「父権の喪失」なんて話に読み解くことも可能だろう。
 論者の依って立つところによっては「資本主義の○○」とか「帝国主義の××」とか次元の違う構造だって見てとれるかもしれない。

 つまるところそんな高説には聞く価値がない、そもそも作品というものは「読み解く」ものではない。
 作品はまずはあるがままを受け入れ、鑑賞するものだ。
 音楽を楽しむことが出来ない者が音楽について何を語ろうと誰もその説には耳を傾けないだろう。
 絵画を見てもそれに感動できない者が、作者のタッチや配色、または作品が作られた背景についてどのような熱弁をふるっても、聞くものはないと思う。

 取り上げた作品をあるがままにまず見るということをせず、そればかりかその作品を良いものをすべく力を尽くした制作者、演じた役者、楽しんで鑑賞した視聴者に泥をかけるがごとき言葉を吐く斎藤には作品を語る資格はない。



 

24 シーズン1




 24時間の間に起こった事件をリアルタイムで進め、24時間で終わるという新趣向のTVドラマ。まあ知らない人は少ないとは思うのですが。
 (※ところで新趣向とは言いましたが、映画ならヒッチコックがリアルタイム進行の映画「ロープ」を作っています。時間はわずか80分ながら全編通じて1カット1シーンというチャレンジ-な作品ですこれ)


 さてこの作品、24時間の時間を取るのは大変だから1日1時間24日かけて見ればいいや、と思っていると大間違い。あっという間にハマって次から次へと見続け、たちまち睡眠不足になる。と聞いていたので長く手を出さなかったものです。とはいえ面白いドラマをそれと知って見過ごすのももったいないと思い意を決して見てみました。

 感想 「つ、つまらん!」

 なんでこれに熱狂する人がいるのかわかりません、これがまともなドラマに見えるって頭が論理的に出来てないんじゃないか・・てのは言い過ぎかもですが。 記憶力が無いのかも・・ってもっと悪いですか。まあ騙されやすいというか流され安いというか、はっきり言って「ちゃんと見てない」としか言いようはありません。

 最初の数時間あたりで呆れて見るのをやめようと思ったのですが、見ないで批判するのも何なので「24における論理的矛盾、演出的詐欺の収集」に頭を切り換えて見続けました。

 こういう引いた位置から見るとこの制作者達の意図がよくわかります
「視聴者の意表を突く」狙いはこれだけです。
 そしてたしかに突きまくっているとは言えますが、騙しと矛盾をあれだけちりばめればそりゃ意表くらい突くでしょう。

 すこしばかり順を追って話してみます。そこで以下はネタバレです。
 この作品見る価値ナシというのが私の意見なのですが、私の意見より世評を信ずる未見の方は飛ばしたがいいでしょう。


*
*

 冒頭、女テロリストがIDカードを盗むために、カメラマンをたぶらかし、カードをすり取ったあげくに乗った飛行機ごと爆破します。

 この作戦のためにテロリスト達はカメラマンの搭乗記録を消しています、ということはコンピュータ記録の改竄が可能な手先を航空会社内部に潜り込ませているということです。
 また、爆破に使う爆薬は消火器の中に隠されています、つまり偽の消化器を作り飛行機内部に設置できる人間(整備員?)をも抱えているということです。

 そしてこの女テロリスト、プラスチック爆弾で扉を破壊、減圧によって機外吸い出されて脱出、パラシュート降下するというジェームス・ボンドかイーサン・ハントかというハイテクニックの持ち主です。
 要するにこのテロリスト集団は、充分に組織され人材も資金も豊富なプロの集団なのです。
 ならばなぜ作戦のキモである主人公ジャック・バウアーの娘の誘拐にチンピラを使うのでしょうか?

 ※ありえません

 このチンピラ、誘拐の前に自分たちの職場に深夜侵入してどんちゃん騒ぎをやっています、仕事と遊びの区別が付いていません、ここで警察にでも通報されたらこの緻密にして用意周到な作戦はパーです。
 さらに仲間割れをして娘とその友人を逃がしてしまいます、ここで彼女らが逃げおおせてしまっても作戦はパーです、この国際的テロリスト集団がこんなアマチュアに仕事を任せるはずがありません。

 また娘を探すバウアーの奥さんにずっと娘の友人の父親のフリをしたテロリストが付いて回っています。一晩中一緒だったのに何もせず、バレたとみるやいきなり力づくで奥さんを拉致していきます。
 後から見れば奥さんを拉致、監禁するのは計画の内だったらしいのですが、とすればバレるまで何もしなかったのはなぜなんでしょう?

 ※意味不明

 要するにチンピラ2名は娘たちが一旦逃げ出しアクションシーンを作るために。
 偽者は「隣にいるこの男は、自分で言っている人物ではない!」と奥さんが気付くサスペンスを作るためだけに居るのです。

 続けます、テロリストの元から逃げ出した奥さんと娘は主人公の勤務先(!)テロ対策室の隠れ家にかくまわれます。護衛にエージェントが3人、漠然とした護衛じゃなく危機が迫っているのはあきらかです。
 しかしこの3人テロリストの送り込んだ殺し屋(1人)にあっさり殺されてしまいます。

 ※無能すぎ

 このテロリスト達も、重要な人質であるこの2人を拘束もせず見張りもつけず、自由に脱走の相談が出来る環境に放置します

 ※ありえません

 裏切り者はもちろん、仲間といえど役立たずはあっさりと始末するテロリストのボス。最初に述べたとおり高度に組織されたプロの集団(しかも冷血)なので当然なのですが、子分が奥さんの色仕掛けにひっかかって携帯電話を奪われます

 ※ありえません

 バウワーの情報提供者、南米(?)の安酒場の片隅でノートパソコン片手に仕事をしています。それでいいの?と思いますが、隠れ蓑としてそれもアリなのかと思えなくもないです。入り口から入ってくる者を油断なく監視しているし・・と思っていると、洗面所で後ろから首を絞められて殺されてしまいます。

 ※無能すぎ・・・・いや、笑うとこですかここ?

 バウアーの元恋人にして腹心の部下であるニーナ、実はテロリスト側の内通者だったって、途中テロリスト側の陰謀で殺されかけてませんか?、生きていたのはバウワーが危機一髪の機転を利かしただけであそこで死んでても全然おかしくないんですが。

 ※矛盾
 

 等々。

 こういうサスペンスってのは、こっちがこう行くとあっちがこんな手を打つ、しかしそう来ることは読んでいてたのでこう行くといった、上には上がある応酬が面白いところだと思うのです、しかしこの話は違います。

 そっちが馬鹿ならこっちは無能と下には下がある低レベルな争いです。
 更に加えて意味不明やら矛盾やら、まるでザル碁の観戦です。

 これだけ最善手を打たない(打てない)戦いならそりゃ意表も突かれるというものですが。意表を突かれたことをもって「スピーディでおもしろい」と思いこむのはあまりに批評眼がないとしかいいようがありません。

 そもそも制作者側がこの穴に気付いていないとは思えない、つまり「どうせ視聴者は前のことなんか覚えちゃいないから目先が変わればそれだけで騙されるさ」という確信犯ではないかと思うのです。

 配給会社はもちろん、マスコミは基本的に「話題作」を求めているので。チャンスがあれば何でも傑作と言い、アメリカで大ヒットと喧伝し、日本でも大人気と煽るわけです、その手に踊らされ作品をちゃんと見る目を失い、皆が面白いって言ってるからきっと面白いのだろうという、思考停止に陥ってはいかんと思います。

 うまうまと騙されちゃいけません。スピーディで意表を突いて、つじつまが合っていて伏線もちゃんと張られている映画はゴマンとあります。

 たとえば「24」を24時間かけて見るならウオーター・ヒルの「48時間」を1時間半で見たほうが72倍は面白いはずです。

 作品を見る目を養いましょう、そしてちゃんと鑑賞しましょう
 アイデアを練り、伏線を張り、キチンと作り込まれた作品を見て評価しましょう。
 さもないとあなたのまわりはおジャンクな作品ばかりになってしまいますよ。



 

   終戦のローレライ 福井晴敏 小説
      ローレライ浮上 福井晴敏 樋口真嗣 対談
ローレライ
 樋口真嗣 映画



  ディーゼル潜水艦がたった一隻で米国の機動部隊相手を相手に戦う(そして勝つ)というのは痛快極まりないお話である。
 義経の鵯越え(80:10000) 宮本武蔵の一乗寺下り松(1:100)スペースインベーダー(1:55)など、武器も無く数にも劣る側が知恵と度胸で敵と渡り合う「一騎当千」というのは日本人好みの活劇なのだ。

 福井晴敏はそんな冒険活劇を書こうとしたのだと思う。
 それはたとえば「レッドオクトーバーを追え」のような「沈黙の艦隊」の前半のような、あるいは小沢さとるの潜水艦物のような海洋小説だ。

 とはいえそれは事実上不可能な話ではある、そもそも駆逐艦を前にした潜水艦は猟犬に追われるウサギ同然であり、ましてや機動部隊全部を相手といえばこれは多勢に無勢、勝つ手だてなどあるはずもない。

 そこで氏が導入したのが、海と感応し海中で起こるあらゆることを感知できるという力を持った「超能力少女」である。
 
 本来戦いとは正反対にある能力を軍事に転用された少女の悲劇。というのはガンダムオタクなら耳がピクピクするような設定であり、∀ガンダムのノベライズを書くほどのガンダムオタクである福井晴敏は胸がドキドキしたに違いない。

 そこで一般の小説読みに「荒唐無稽」であるとか「絵空事」であるとか言われないために、お話に説得力や、リアリティを持たせるために、戦争の真実といったものを書き込んだのだと思う。

 曰く、旧日本軍の無能、無策。硬直した指揮系統。それを糊塗するための精神論。上から下へ続く陰湿ないじめの構造。人命を軽視した作戦で死地追いやられ、さらに見捨てられる兵卒の悲哀。
 はたまたナチスドイツの冷酷な人種差別、そう言ったものを入念に書き込み、そして・・

 ・・書き込みすぎた。

 と私は思う。

 あまりに戦争の実態を書き込んだがゆえ小説の後半、寄り合い所帯であった伊507潜の乗組員が一つになり、一人の少女を守るために米機動部隊を相手に単騎で決戦を挑む、という胸踊るべき展開になった頃には読者の心にはすっかり厭戦気分が広がってしまっているのだ。

 これは読み違えだと思う。

 命令一つでいやおうなしに死地に赴き、消耗品のように使い捨てられる兵隊の悲惨をこれでもかこれでもかと読まされた身にとっては(南方戦線で食料の補給を絶たれた日本兵が食人までして生き延びる、などというエピソードまで語られるのだ)
 伊号潜水艦が八面六臂の大活躍をして次から次へと敵艦を屠ったからといってもう横手を打って快哉を叫ぶ気分にはなれない。
 敵といえど人間なのだ。

 つまるところ痛快な戦争物を書きたければ敵は記号でなくてはならない。
 
 戦争を礼賛するのはどうかと思うが、物事にはいろいろな側面があり「お話」というものはそのある一面を描くものでしかない。

 たとえば、新撰組は日本の近代化・民主化を希望する志士の弾圧者なわけだがそういった歴史的側面を語っていたのでは「新撰組血風録」は成立しない。
 下級武士(すまじきものは宮仕え)の悲哀を描いてしまえば、桃太郎侍の最後の立ち回りも快哉を叫ぶわけにはいかないだろう。
 道路交通法は棚上げしないと「頭文字D」は読めない。

 どんなお話も事実の抽象化から始まるのである。
 能天気に戦争を礼賛すれば軽侮されるだろうが、バランスを間違えてもお話にならない。

 この「終戦のローレライ」はロタール=ギュンター・ブーフハイムの「Uボート」(ウォルフガング・ペーターゼンの「Uボート」と言ってもよいが)のラストに「サブマリン707」がくっついたかような読後感の悪い小説である。


『ローレライ浮上』

 「ローレライ」という新兵器を手にいれたプライベート樋口と福井は、初陣ながら戦功を立てずにおくものかとに勇んで敵陣に駆け込んで行った。
 そして旗指物をひるがえしながら「われこそはガメラの樋口にして、イージスの福井なり」と叫んでいたがハッと気がつくと後続はなく補給もない、戦場のどまんなかで孤立しているではないか。

 これはいかん、このままでは玉砕してしまう、退却~じゃなくて転進、戦術的方向転換だと後退を繰り返し、やっと援軍と合流したときは前線のはるか内側デシタ、というのがこの本の内容である。
 つまりは、この本の言葉を借りれば、「実写でアニメのような映画を作ろうと思ったら、役者もスポンサーも後援者も付かず、『映画の脚本やドラマってのは役者さんのためにある』ことに気付いた」
ということなのだ・・が、本当にそうなのだろうか?

 「映画の脚本やドラマってのは役者さんのためにある」はとりあえず間違ってはいない、実際多くの映画はそのように作られているだろう。
 しかし希にそうでない、役者をまるで将棋の駒のように扱っている映画があり、マニアな監督によるマニアのための映画がある、そういった映画にももちろん傑作はある。

 樋口真嗣はそういう映画を撮るべき人ではないのだろうか?
 役者を見せるための映画を撮る監督はいっぱいいるが、キレのある映像だけで観客を魅了できる監督はほとんどいない、樋口真嗣はその数少ない監督の一人であり日本映画の希望の星なのだ。
 
 彼が映像美を捨て、オタクティストを捨て、普通の映画を撮るというのは、好きなコースに来ればホームラン間違いなしの長距離バッターが、苦手コースを克服するためにフォーム改造をしたあげくに並のアベレージヒッターになるようなものだ。
 つまりもったいない。

 一見まっとうな作品であるかのごとき企画書でスポンサーを騙し、抜き差しならなくなったところで好き勝手をやる、というのはガイナックスの得意技だがその一味(元一味?)である樋口真嗣であればなんとしても最初の志の通り「実写でやるアニメのような映画」を撮って欲しかったと思うのである。

 というところでなしくずしに映画評に入る。

 そのようにオタクティストや映像美を捨ててかかった映画だがしかし有名どころの役者陣はさすがに新人監督には手にあまったのか芝居がアンコントロール気味である。
 しかも何故か各エピソードの内容やその演出が「お約束」で出来ている。

 新人特撮監督の時あれほどに特撮のお約束を嫌い、すべてのカットについて「それしか方法はありませんか?こんなことは出来ませんか?こうしたらどうなりますか?」と1から撮影方法の見直しを要求した人間とは思えないのだ。

 ここはお涙ちょうだい、ここはしんみり、ここは・・と紋切り型の演出なのはどうしたことだろうか?

 また主人公の親友が死ぬシーンなどは悲劇というよりまるで「壺の中に入ったバナナを取ろうとした猿が手が抜けなくって焦っている」ようにしか見えず、私は「これは笑うところなのか?」と怪しんだほどである、これを客観視できないのってまずくないか。

 またそのように映像美は捨ててかかっているために映像的に見るべきところはなく、しかも特撮シーンに出来不出来の差がありすぎる。
 基本的に伊号潜水艦の描写はいいが水上艦艇はもう目を覆うばかり。フルCGなのだが俗に言う「ゲームのイベント映像」みたいなレベル(スクウェアエニックスならもっとマシなイベントムービーを付けてくるだろう)私は樋口映画でこのような映像を見るとは思わなかったので、かなりのショックを受けたと言っておこう。



 



日本沈没



 ひとつ聞きたい。
 映画のラストシーンで大地真央演ずる危機管理担当大臣が声涙ともにくだる大演説を行うのだが
その中に「犠牲者と遺族のご冥福を祈ります」という部分がある。

 冥福ってのは冥土に行った人(死者)の幸福を祈るということで、遺族に祈っちゃまずかろう。

 超大作映画のシメ、トリを勤める人のキメゼリフで何で??

 脚本家も監督も並み居るプロデューサーもカメラマン他メインスタッフも当の役者もこれに気付かなかったの?
 それとも編集で間がカットされておかしなことになったの?
 だとしても試写で誰も気付かないのはおかしいよね?

 順子さん(誰だ)なんでですか?


続報

 インサイダー情報が寄せられました。
 撮影終了後にセリフの大改変をやって、編集で足したり引いたりしたあげく、うっかりしてああなってしまったそうです。
 気がついた時には遅く、まあいいかで公開したそうな。
 
 よからんと直しを入れたあげくに『て・に・お・は』を間違ってしまったわけだ。
 「僧は推すや月下の門」にしようか、「敲くや月下の門」にしようか、悩んでいるうちに象が門を叩いたようなもんかな(全然違う)

 なにはともあれ「意外と気付かれないかもって思って」・・ってそんなわけないだろ!

 そもそも見てておかしいんだから、演説の内容がブツ切れだし、セリフ回しのトーンに統一感ないし・・・
 編集で途中を切ったせいだと思ってたんだが、切った貼ったしてるとは思いませんでした。
 
 なにはともあれ直しておいたがいいんじゃないですか、今からでも遅くない。



 ところで内容についてはあえて触れませんでしたが、この災害で殉職した人は山のようにいる筈なんで、潜水艇パイロットだけ賞賛するのは手前ミソじゃないですか、ここはまず難民を受け入れてくれたり地質調査船を貸してくれた他国に謝意を示すべきでしょう、大臣。



 


ゲド戦記


http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse


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