スクリプトシート2007年度版


 



  

犬神家の一族 

 ひさしぶりに大作映画を観た、という気がする。
 金のかかったセット、ちゃんとしたカメラワーク、奇麗なライティング、まっとうな演出。

 ただ古い、時代設定が昭和20年代というだけでなく、映画から出てくる気配が古い。
 役者が全部老人なのはいかがなものか。

 観たところ前作となにも変わっていない(何も足さない、何も引かない)感じがするのだが(役者から若々しさが消えただけ)前のやつをもう1回観てみたいと思った。

 あと、ストーリーに若干納得出来ない部分があったので原作ももう一度読んでみようと思っている。


 

スーパーマン リターンズ
DVD鑑賞



 数年のブランクを経て作ったのに、まるきり続編ですってのも強気な話だと思う。

 まあ普通に面白いが、スーパーマンに人間的な悩み方をさせるのはどうなのだろうか。
 ブランクの間に台頭したバットマンやスパイダーマンを意識したのかもだけど、彼は一片の曇りもないスーパーヒーローでいいのじゃないかしらん、異星人なんだし。

 飛行シーンは爽快だがナイトシーンが多いのでビデオだとよくわからない部分があった、この映画を満喫したければ大スクリーンでみるべきでした。

 ところで、敵にやられてヨレヨレになってくずおれるものの少年(または仲間)の「頑張って〜」という声で復活、今度は敵を圧倒、勝利。ってのはウルトラマンによくあるパターンだ。

 私は常日頃から 一度やられる>なにかしら状況に変化がある>今度は勝利 という工夫がないとご都合主義すぎるだろ!と思っていたのだが。この映画で、 クリプトナイト(スーパーマンを弱体化する放射性物質)でヨレヨレ。 人間にも簡単にぶちのめされる>ロイス・レイン「頑張って〜」>復活・活躍、になるのでちょっと驚いた。
 



 

サウンド・オブ・サンダー
DVD鑑賞


 広いはずの舞台を無理して狭いセットに組んだため無理(ホリゾントを隠すためなど)をしてその無理が観客にも見えている、ということがよくある。

 NHKのスタジオドラマの町は、道がすぐに折れて先が見えないとかとか、道の正面が土手になっているとかいうことがよくあるが、ああいう貧しい工夫だ。

 「クリフ・ハンガー」というスタローンの映画がある、テロリストと山男が高山で激突する山岳アクションだ。
 けっこうな大予算映画らしく山のロケーションも多用し、話もなかなか面白い(凶悪冷酷さらに武装しているテロリスト集団に対し、徒手空拳の山男が地の利を生かして戦う、というシナリオが良くできている)
 しかし、後半氷の張った池(?)でのアクションのシーンになるとこの池がセット丸出しで「おいおい」という絵になってしまうのだ。

 かなり大きなセットではあるのだが「抜けて」いるところがない、つまり回りが全部山肌で空が一カ所も見えていない、そこにいたる通路は細く、すぐに折れ曲がっていて先がない。

 スタローンを本物の雪山で氷の張った池に落とすわけにはいかなかったのだろうが、このシーンだけはまるでNHKのようだ。

 まあこの時代の映画としてはこれが限界だったのだろう。しかしこの「サウンド・オブ・サンダー」はデジタル映画だ、にもかかわらずジャングルが同じようなセットの限界を感じさせる狭さなのである。

 ホリゾントが近いのをごまかす不自然に重なりあった熱帯雨林、一ヶ所抜けている遠景もカメラアングルを限定してバレを極力減らしている(ようにしか見えない)絵作り、道もセットを出外れたところで曲がっている。
 これは完全に前デジタル時代のセットデザインだ。

 フルCGになって恐竜が出てきてもそのイメージは継承されていて(マッチングはいいとも言えるが)「恐竜はセットの端ギリギリに立っているので、密林をこれ以上まばらにするとホリゾントがバレてしまいます」といわんばかりだ。

 これが低予算臭である。

 また、街の風景はいわゆるパストフューチャーで、主人公が街を歩くと背景がフルCGになるのだが、スクリーンプロセスの前で足踏みしているような違和感がある、デジタル時代になってこんな映画を見ることができるとは思わなかった。

 このこんにちの映画とは思えない古さと安っぽさはまさか狙いじゃないだろうな。



 


パイレーツ・オブ・カリビアン
パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズチェスト

DVD鑑賞



 どうせディズニー映画だし(ファミリー向けだし)
 企画ものだし
 ジョニーデップだし(?)
 と思って劇場で観なかったのだが、これはこれは思わぬ拾いもの。

 ちゃんとした海洋アクション映画になっているではないか、おまけにあのCG!

 私はCGに関して、ハリウッドは先駆者なわりにはダメダメ(スターウォーズでいまだにあれ?)と思っていた、あえて言うならピータージャクソンのとこが一番出来がいいと思っていたのだが、パイレーツ・オブ・カリビアン全般に素晴らしい出来だ。

 特にタコ船長、まさかこれ特殊メイクでやってんじゃないだろな(そのわりには動きがいい)と一瞬思ったほどだ(ただし大ダコはダメ)
 これくらいやってくれると先が楽しみだな。
 



 

ソーラ・ストライク
DVD鑑賞



 太陽からの大規模なコロナ放射が地球に到達、オゾン層を突き抜けて地上を焼きニュージーランドは壊滅する。
 更につづくコロナ放射はやがて大気中のメタンを発火させ全世界の空が火に包まれる。酸素は急速に消費されこのままでは生物は48時間で死滅するだろう。
 助かる方法はただ一つ、北極の氷を核爆弾で蒸発させ消火することだけだ。

 とまあ、それこそ尻に火が点いたような設定はどうみてもB級デザスター映画なのだが、そういう映画が大好きな私としては観ないではすまされない。

 どういうつっこみどころを見せてくれるのかワクワクしながら観るのもまた映画の楽しみといえよう。

 

主人公の科学者「大統領このままでは地球は壊滅します」
嫌みな科学者「大統領、彼は大げさに言っているのですよ」

主人公の科学者「たったひとつだけ方法がある」

嫌みな科学者「もうダメだ・・」
主人公の恋人「大丈夫彼はやってくれるわ」

などなど、定番のセリフ満載なのはよかったが、つかみのパニックシーンで悲惨な災害シークエンスが無いのはイカン。

 ところで、これ元ネタは「地球の危機」(1961 20世紀FOX)ではないのだろうか。
 まあ「地球の危機」は主役メカ「原潜シービュー号」をTV化させたほど出来の良いデザスター映画だし、この映画のやっつけなシナリオ、安手のSFXは「コア」に似ているのだが。



 ところで、ちなみに私のいままでに観たB級デザスター映画のベストは「地球は壊滅する」(「CRACK IN THE WORLD」 1965パラマウント)だ。

 地殻にミサイルを打ち込み穴をあけてマグマを取り出し、さまざまな産業で利用するという壮大な計画が実行される。
 成功したかに見えたが主人公の科学者が警告したとおり、地殻に裂け目が出来てしまう。
 その裂け目はマグマを吹き出しながら地下深くを進んでいく。
 その裂け目が地球を一周したら地球はまっぷたつに割れてしまうだろう(!)

 主人公の科学者は裂け目の進行方向にある火山を噴火させ、先にエネルギーを放出させてその進行を食い止めようとするのだが・・

 ラストシーン、裂け目は小さな円を描いて出発地点に戻ってくる。するとその円に囲まれた地域が一気に噴火、地上から巨大な岩塊を吹き飛ばして「第2の月」が出来るのだ(!!)。
 
 スタート地点から吹き出す真っ赤なマグマ、そこに戻ってきた裂け目から吹き出すマグマが近づいていくあたりの緊張感は尋常ではない。

 そしてその2つが合体すると主人公とその恋人の目の前(!!!)で巨大な火の玉が発生しグルグル回りながら空高く昇っていく(!!!)

 CGのある今ならなんとでも出来るし、CGならなんとでも出来るよねえ、という絵にしかならないだろうがなにしろそれらはぜ〜〜んぶアナログ特撮なのだ。

 当時の宣伝文句もリキが入っている、曰く

「地球爆発の一大圧巻!!!地学界の科学陣を総動員して、驚異の特殊撮影で、見事に描く
地下深度2900km!10メガトンの恐るべき地球体内の大爆発!!」

 ああ、もういっぺん劇場で観たい


 


ファイナル・ディスティネーション
デッドコースター
ファイナル・デッドコースター
DVD鑑賞



 『ファイナル・ディスティネーション』
 
 高校の修学旅行、主人公は自分の乗った飛行機が爆発するという幻覚をみる。
 彼は「この飛行機は爆発する!」と騒ぎ教師とクラスメート数名と共に飛行機を降ろされるハメになる。
 すると本当に飛行機は爆発、乗っていた生徒は全員死亡する、予知のおかげで7人は死をまぬがれたのだ。

 しかし、幸運と思われた7人は次々と不審な死に見舞われる、予定した死のシナリオを妨害された死に神が帳尻を合わせようと生き残った7人を殺そうとしているのだ。

『デッドコースター』

 自動車で旅行にでかけた主人公は交通事故を予知することで自分を含む8人の命を救う、しかしそこで命拾いした8人に、悲惨な死が迫る。

『ファイナルデッドコースター』

 遊園地で行われた高校の卒業パーティ、主人公はジェットコースターの事故を予知し10人の命を救う、しかし(以下同文)

 というひねりのない3部作である。

 制作者たちはうまい手を考えたものだとは思う、なにしろスーパーナチュラルな話なのでつじつまを合わせる必要はないし、殺人方法の適否を考慮する必要もない。

 とはいえ傑作「ヘルハウス」などは悪霊退治に呼ばれたエクソシスト達それぞれに過去があり事情があり、さらに悪霊自身もワケ有りで、退治は悪霊のトラウマを解明してほじくり返す(!)という理屈っぽい作品だったし。「サスペリア2」はオカルトでもあるがミステリーとしても成立するという離れ業を演じている。
 スーパーナチュラルな映画がみなこの映画のように、中身の薄い映画であるというわけではない。
 これはポップコーン片手に大騒ぎしながら映画をみるティーンエイジャーをターゲットにした志の低い映画といっていいだろう。
 制作者たちは「スクリーム」を見るような観客を想定したというが「スクリーム」はこれまでのスプラッター映画・ホラー映画の「お約束」をすべて取り込んだうえで、それらをすべて虚仮にしてみせるというメタ・スプラッター映画である。並べるのも失礼と言うべきだろう。

 さてしかし、そのように映画から論理性とか整合性とかいうめんどいものを全て排除したおかげで『殺し方』にだけは凝ることが出来ている。

 たとえば殺られ役の登場人物の一人。

 台所でフライパンを火にかけたところ、物を排水口に落としてしまう。
 拾いあげようと手をつっこんだら抜けなくなった。
 手の届かないところで加熱したフライパンが発火。
 火事になり広がる火の手。これで焼死か?
 と思ったところがすんでのところで手が抜ける。
 窓から外に出ようとすると超自然の力で窓が閉まる、これで脱出不能か?
 と思ったら、ガラスを割ることはできて2階のベランダに出る。
 ベランダから非常梯子で下に下りようとする
 しかし乗ると体重で降りるタイプの非常梯子が降りない、これで焼死か?
 と思ったら、ギリギリで階段がスライドして脱出成功、地上へ。
 ひと安心、と思ったら一ぺんはね上がった梯子が再び落ちてきて頭に刺さり死亡。

 という具合である。

 なんというか「着信アリ」によく似てるな。
 「着信アリ」は「リング」のあと追いなのだが、リングが死に至る方程式を探し出し、死をまぬがれる方法を探りあてようとする主人公達の活躍を主眼に置いているのに対し、ただただ犠牲者が面白おかしい方法で殺されていくのを見て楽しむ映画でしかない。

 死にたくなきゃ携帯持たなきゃいいじゃん、という当然の解決法に対して、「遠くに捨てた携帯電話がいつのまにか手の中にある」という作品内の論理性すら無効にするような超常現象が起こってしまってはもはやつじつまもなにもあったものではない。

 また踏切で轢死、エレベーターホールで墜落と来るからには、危険から身をかわせばいいわけだ、と思っていると衆人環視の中で超自然の力で体をねじ切られるわけで、なんのことはない事実上死を避ける手だてはない。だったら最初から電車やらエレベーターホールとか使う必要ないでしょ、というわけで、作品内の論理性がないばかりか、無い中でのつじつま(?)さえ合ってない。

 ま、志低い映画はどこにでもあるよね、というお話デシタ。



 

映画ドットコム


 ヤフーのトピックスで次のような見出しを見た。

『「LOST」撮影フィルムが、空港の手荷物検査機で消去される!』

 はあ? と思ってクリックしたところがそれは映画ドットコムというサイトへのリンクだった。

 曰く
 人気ドラマ「LOST」の撮影済みフィルムが、空港のX線検査装置で消去されるというアクシデントが発生した。(中略)フィルムの缶には、X線検査装置に通さないようにとの注意書きが貼られていたのにも関わらず、係員が機械に通してしまったため、すべての収録映像が台無しになったという。(以下略)

 はぁぁ・・(嘆息)である。

 ソバは打つのであってこねるでないように、映画は撮影するものであって収録ではない。

 バラエティか局制作のドラマしかやったことのない若いタレントが映画に出ると「昨日の収録は・・」とか「今日の録(と)りで・・」とか言うがそれと同レベルの間違いである。

  ジョージ・ルーカスが「クローンの攻撃」から24Pと呼ばれる高品位のビデオカメラを使いはじめ、日本映画でもフィルムを使わない撮影が増えてきた、しかしこれを収録と呼ぶ映画人はいない。

 ビデオ収録のドラマを「撮影」と呼ぶテレビマンがいるのかどうか私は知らない。 しかしフィルムを使った撮影を収録と呼ぶものはおらず、劇場公開を前提とした作品はビデオカメラを使っても撮影である。

 こんなことは関係者しか気にしないことであって、これが個人のブログにでも書いてあったのなら私はことさらに取り上げたりはしないだろう。
 しかしこれは「映画ドットコム」という映画の専門サイトであり、「映画用語辞典」などという読み物(映画人のバイブルだそうだ)も提供しているのである、足下がおろそかなことこの上ないと言うべきだろう。


 ついでに言っておけば「消去」というのは「収録」されたビデオテープにこそ当てはまる言葉だ。
 とはいえ、あてはまるだけで、ビデオテープがX線で消去されるというわけではない。
 成田空港の公式サイトには「ビデオテープは高感度X線検査装置を使用することで、データが消えることはございません」とある。

 そしてフィルムの場合だが、これは撮影/露光されたフィルムがX線によって更に露光し、つまり多重露光状態になるだけである(これを「カブる」と言う)

 またフィルムは金属製のフィルム缶に入っているのでX線のほとんどは遮断される、だからフィルム缶を横から透視機にかけたならフィルムの小口が少しカブるだけだろうし、縦に見たのなら上になった側のコマが何巻きかぶんカブるだけだ。

 もちろんちょっとでもカブったら使えないのは確かだが「消去」という言葉はまるであてはまらない。
 原文になんと書いてあったのか知りたいところだが、原文や翻訳者のせいというよりまずは編集部のチェックが甘すぎる
(というかこの編集部は映画の何を知っているのだろうか)


 
 わずか数行の記事なのに間違いと不適切な表現だらけであり、あまりと言えば目にあまるので送信フォームから指摘したのだが思ったとうり無反応である。
 なるべくおとなしく書いたつもり(?)だったが、行間から軽侮の気配が伝わったせいなのかもしれない。


 


“きよのさん”と歩く江戸六百里

金森敦子




「きよのさん」というのは天明7年(1787年)羽州鶴岡(今の山形県鶴岡市)に生まれた、豪商の跡取り娘である。
 この本は3人の子供を育てたあと31歳で伊勢参りに出かけたきよのさんの旅日記だ。
 本の構成はきよのさんの日記を1日分、そのあと筆者による解説が付くという体裁で進む。


 さて伊勢参りは当時の日本人にとってはメッカ巡礼のようなものであり・・というか公式にはそう扱われるべきものとされており、たとい奉公人といえどもお伊勢さんに参ると言えば休みがもらえたというほどの重要行事である。

 もちろんその実態は伊勢参りを口実にした物見遊山なのだが、一生に一度だけ切れるカードを使った一生に一度の観光旅行が当時の人にどんな感慨をもたらすものか想像するのも難しい。きよのさんの旅日記に価値があるのはそこである。

 さて当時、読み書きの出来る女性はそう多くない、居ても学者の娘か歌人、つまりインテリであって旅日記を書いたとしても俗なことは書かない。
 しかし商人の娘だけに読み書きそろばんが出来るもののきよのさんは庶民に違いなく、つまり普通の(金持ちの)おばさんが旅をして何を見、何を考え何を食べたかという等身大の記録がここにあるのだ。

 実際食道楽のきよのさんは食べたものを詳細に記録し、その値段もこまかく記録している、今となっては文学的な旅日記より価値があるだろう。


 さてこの日記を読んで驚くのは当時の文化の成熟と安定である。
 きよのさんは、ガイド兼ボディガード1名、荷物持ちの下男1名の3人で108日間の旅をしているのだが読むところ道中に危険はまったくない

 またその莫大な旅費を途中でわけて受け取っているのだが、為替というシステムが全国レベルで機能しているらしい。

 また途中ドカドカ買っているおみやげ(江戸で反物17反とか)を店から直接国元に送っているのだが、届かないという心配はないらしい(遠国の旅先で買った品物が届かなくとも当時としては苦情を申し立てるのは難しいと思うのだが)

 そしてある意味一番驚いたのが旅籠の組合である。
 当時の旅籠には客を勧誘し、食事どきになれば酌をして、夜になれば売春する飯盛り女がいるのが普通だった。
 これに対し飯盛り女を置かず、酒盛りをする客も断り、一人旅の客でも粗略に扱わない旅館、今でいう1ランク上のサービスを売りにした旅籠を組織した「講」というものが存在しているのだ。

 講に所属している旅籠はその印のついた看板を出すことが許され、旅人は講に参加して定宿帳を買い宿場ごとに宿を探す。つまりこれは「JTB」であり「るるぶ」である(最近、安心・快適・大満足の宿が満載『るるぶ安くて良い宿、大満足の宿シリーズ』という本を見たばかりだ)

 1ランク上のサービスをすれば客が付くという発想をする者があり、実際それを求める客層というものが存在し、実行して全国組織にする社会基盤があったということに私はひどく感心したのだ。

 ともかくあれこれ目を開かされることの多い本である、お勧めする。


 


フラガール
DVD鑑賞



 炭坑、きつくきたなく危険な男の職場、それを一転してハワイアンセンターというリゾート施設に変身させる。
 山ちゃんがツルハシを捨てアロハシャツを着、娘や奥さんがハワイアンダンサーとなる、というのはいったいどんな知恵者がどこから発想したものなのか。

 実際に起こった出来事だけにそこには通り一遍でないドラマがあったに違いなく、小説か映画にでもすれば面白いはずだがなあと長いこと思っていたのがついに映画化された・・・というのがこのフラガールである。

 長年あたためていた(勝手に、頭の中で)ネタだけにこれをつまらなくしたら許さん、という妙に力のはいった状態で鑑賞したのだが、充分に面白かった。

 まあ、フラダンスにのみ焦点があたっていて「どうしてハワイ?」という部分にはまったく触れられていないのは残念だったが、これはこれで正解だろう。

 よく出来ていると感じるのは普通こういう映画、先駆者が周囲の理解を得られないままに理想に向かって走って行く映画、というのは何か感動的なエピソード一発でそれまで批判的だった人々が心を開くという展開になることが多いのだが、そうなっていないことだ。

 「はいここ、感動するところです」と言わんばかりのわかりやすい演出はTVに影響されているのではないかと思うのだが、フォーマットに乗った、というかテンプレート通りな映画が最近多すぎる。

 やっていることは理解できないがその人は信じるとか、自分には出来ないがやる人がいることは理解できる、など複雑な思いを抱えながら人は他人とかかわっていくものであり、「感動的」なエピソードひとつでシャンシャンとなるはずは無いのだ。

 そういう、ある意味キレの悪い思い、中途半端な気持ちにこれという落とし前をつけないままに映画は終盤を迎えるのだが、そのいごごちの悪さに一気にケリをつけてくれるのがラストのフラダンスシーンである。

 来た!と観客に思わせるダンスシーンの華やかさと躍動感は本物である。

 そして華麗なショーと満面の笑顔で、彼女らはいずれその前に横たわる障害も軋轢も乗り越えていくだろうと観客に予感させて映画は終わる。

 個別のエピソードにありきたりの結末を用意せず、ただただ予感させて終わるというこの映画が今年の映画各賞を総嘗めにしたのは当然と言えるだろう。


 


偽書「東日流外三郡誌」事件
斉藤 光政



 東日流外三郡誌、つがるそとさんぐんし と読む。

 かつて東北に古代王朝があったことを示す古文書の名前である。
 90年代に発見され、一時は東北地方全体を巻き込んだ社会現象になった。

 しかし
 発見者が絶対にオリジナルを人に見せない。
 筆跡鑑定によって古文書の文字は発見者の手による可能性が高いとされている。
 発見者特有の誤字がそのまま古文書の文中に使われている。
 明治以降に使われだした単語が文中に登場する。
 1935年発行の画集そっくりの構図の絵が載っている。
 タイム・ライフ誌のイラストそっくりの絵が載っている。
 長持ちに入って屋根裏に長年吊されていたものがある日落ちてきた、というのが発見のきっかけとされているが後の調査により
 その民家には長持ちを吊せるような梁がない
 屋根裏にそもそもスペースが無い
 当時は板でなく茅が張ってあった(ので何か吊してあればもっと前から見えた筈である)ことがわかった。

 などは、トンデモ本としかいいようはなく、その数千とも二千とも言われる物量によって今では「史上最大の偽書」とまで言われている代物だ。

 普通なら誰も相手にしないようなこの古文書はしかし出版されて以降1億はくだらないという売り上げを記録し、オックスフォード・コロンビア大学など海外の研究機関にも置かれている。
 またこれを偽書と認めない擁護派と呼ばれる熱心な研究者グループも存在するし。
 「偽書問題に決着」(←ホンモノだった)という記事が天下の朝日新聞に掲載されその後訂正されるという事態も発生している。

 つまりまごうことなき偽書なのにもかかわらず、「発見」以来十数年それは周知されず。それどころかこの古文書由来の土器・土偶・神像(出来の悪いレプリカであり、土産物レベルでしかないと専門家に切って捨てられるような物)が高価で取引されるという詐欺事件まで起こっている。
 
 それはいったい何故なのか?

 というのがこの本のテーマである。

 東北人の被差別意識が、東北にも古代文明があったという主張に共感を覚えた。
 村おこし町おこしのネタ探しをている地方自治体が怪しいと知りつつも尻馬に乗った。
 話題になれば真贋などに頓着しないマスコミが面白おかしく取り上げた。
 まともな研究者がこれを学術的価値無しとして完全に黙殺したため、かえって一般市民の耳には「価値無し」という情報が届かず、虚報だけが広まった。
 学術的な論争は裁判制度になじまない。
 そもそも偽書とは何なのか?

 など詳しく語られるこの本は事実に満ちあふれた良質のノンフィクションである。

 



DOOM
DVD鑑賞



 日本でゲーム、コンピューターゲームと言えばドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーと言ったロールプレイングゲーム(RPG)が主流だが、アメリカでゲームと言えばこれはファーストパースンシューティングゲーム(FSP)で決まりだ。

 ではFSPとはどんなゲームなのか? これを説明するのは難しい、アメリカでの圧倒的な人気に対し日本では圧倒的な不人気なので、売れず、やっている人も少なく、そのため見たことも聞いたことも無いという人がほとんどなのだ。

 説明すると、FPSとは「本人主観射撃ゲーム」とでも訳すべきものであって、画面は主人公(=プレイヤー)の主観映像である。
 主観映像であるからには、画面に「自分」は登場しない、そして常に視点は目の高さである、もちろん向いている方向しか見えない。

 これをキーボード(移動、武器の使用)とマウス(体の向きを変える、あるいは頭をめぐらす)を併用し、戦場を駆けめぐって敵兵やエイリアンと銃撃を繰り広げるのである。
 なお、駆けめぐるとは文字どおり足を使って走るのであり、足の運びにしたがって視点が上下に揺れるのはお約束である。
 これを「ヘッドウエイブ」と言うが、慣れない人がFSPをやると5分でキボチワルグナッテ吐きそうになる、ゲー。これが「3D酔い」である。
 (ヘッドウエイブはオプションで切ることが出来るが、ス〜ッと滑るような移動をするようになるので「戦場を駈ける」という臨場感を損なう)
 

 さて先に「画面に自分は登場しない」と述べたが、走っていると右手に持った武器(たとえばマシンガン)が手の振りにあわせて画面右下にチラチラ見え隠れするのが決まり事である。
 そして射撃モードにはいるとジャキーンという効果音とともに画面中央にその武器が固定される、その照星を使って敵に照準をあわせ敵を撃ち倒すのだ。

 なお武器は複数所持できるのが普通であって、キーボードで武器交換キーを押すと見えている武器が画面下にひっこみ、ジャキジャキ〜ンという効果音とともに別な武器(たとえばショットガン)に変わって再び登場する、というのも決まりごとである。

 舞台が過去であったり現代であったり未来であったりするだけで、基本システムはまるで変わらないこのFSPをヤンキーはもう10年以上熱狂的に遊んでいるのだ。いいかげん飽きないか、などと言おうものなら(言ったが)「辺境の村に住む少年が冒険の旅に出て、やがて勇者となり、魔王を倒して世界を救うゲーム」を10年以上やっていて飽きないか?とつっこみ返されそうなので言わない(言った)

 そしてこのDOOMは数あるFSPの中でも圧倒的な人気を誇ったゲームのタイトルであり、多くの続編と多くの亜流を生み、他のFSPに多大な影響を与えた・・つまりドラクエのようなゲームである、これはそれを映画化したものだ。


 ストーリーは以下のごとし。
 人類が火星に到達してみると、そこには超古代文明が存在していたことがわかる。
 そのための調査、研究グループが火星上の基地で活動しているのだが、その火星基地にモンスターが出現し人を襲い始める。
 基地を守るために主人公の所属する宇宙海兵隊(!)が地球から派遣されるのだが、調べてみるとこのモンスターが元は人間であったことが判明する。
 実は古代文明が残したテクノロジーを利用すると人間の各種能力を飛躍的に発展させた「超人」を作れることが判明しており、これを使って「超兵士」を作ろうとした軍の秘密実験が失敗して人をモンスターに変えていたのだ。

 ザ・ロック(元プロレスラー、ハムナプトラ2のスコーピオンキング)演ずる隊長は、最初はかっこよくて頼りになる男に見えたが、実は研究者や部下の命など眼中になく、軍の意向を受けて、超人化テクノロジーを地球に持ち替えることだけしか考えていない冷血漢だった。

 ハイテクな装いながら、薄暗く狭くダンジョンのようでもある宇宙基地を舞台に海兵隊とモンスターが戦う、しかも内部には裏切り者が、と来ればこれはもうどうしたってエイリアン2を思い出すしかない。



 ところでバイオハザードという人気ゲームがあるが、これがジョージ・ロメロのゾンビ映画をベースに作られていることは言うまでもない。
 このゲームがウケたのは、いかにゾンビが怖かろうとも座って見ていればいずれ結末に至る映画に対し、自分で行動しなければ何ごとも始まらないインターアクティブ性によるものであるのも間違いないだろう。

 ゾンビが居ることは承知で部屋のドアを開ける時の緊張感、そして自分がコントローラさばきをミスればバッドエンドに至るという恐怖、これは映画に無いものである。
 しかし、その人気タイトルであるバイオハザードも映画化したらそれはただのゾンビ映画でしかない(当たり前)

 同様に「これはDOOMです」と言われても、エイリアン2の舞台に似た場所で、エイリアンみたいなモンスター相手に、エイリアン2に出てきたような宇宙海兵隊が戦っていたのではこれはエイリアンにしか見えないのだ。

 これじゃダメじゃん?と思っていたところが最後にやっとファンサービスがあった。

 主人公は隊長の悪巧みに気付き、その危険なテクノロジーを地球に持ち込ませないよう迫るのだが、なにしろ相手はザ・ロック、なんじょうたまらんあっという間に半殺しにされてしまうのだ。

 そこで主人公を助けるべく現れたのが超人化研究グループの一人であり主人公の姉、その姉曰く「このままではあなたは死ぬ、この薬を打った人間は今までみなモンスターになってしまったが、あなたが超人になる可能性はある」ということで主人公に注射を打つ。


画面暗転(気絶したという映画的表現ね)


 すると、映画のスクリーンが主観映像になる!

 主観のまま歩き回る主人公。鏡を見つけてのぞき込むとそこにはモンスターでない自分が居る。
 それだけではない、さきほどまでのケガもすっかり回復しているではないか、彼は超人になったのだ。

 隊長を止めなければ、と走り出す主人公、ヘッドウエイブして揺れる画面、画面右下からは抱えたマシンガンが出たり引っ込んだり。

 「キターーーーーーーーーーーー!」という瞬間である。

 劇場につめかけたDOOMファンがポップコーンを振りまきながら「イエ〜〜イ」と叫ぶ姿が見えるようである。

 このあとなぜか・・というかせっかくだから? 主人公とザ・ロックの肉弾戦(プロレス技の応酬)になって、見た目弱そうな主人公が超人化のおかげで勝ってメデタシ、メデタシとなる。


 そう、つまんなくはない、ちゃんと作ってるし破綻もない。見ればそれなりに楽しめるかもしれない、だから見るというなら止めはしない。
 しかしこれはDOOMファンのための映画で、主観映像になったときイエ〜イと叫ぶためにある、ゲーム特典映像(の拡大版)みたいな映画だ。
 普通に言ってやめといたほうが無難だろう。



 


遊園地2007
タワーで7回テラーする、の巻




 ディズニーシーに新アトラクション「タワー・オブ・テラー」が出来たので行ってきた。

 前回シーに行ったのは昨年(2006年)これは宙返りコースター「ライジングスピリッツ」に乗りに行ったわけなのだが、これがきわめてお手軽なアトラクションであったためその時には感想を書かなかった。

 しかし、その時見て驚いたのがアメリカンウォーターフロントエリアに建設中の異様な建物。
 高さが十数階建てのビルほどあるにもかかわらず、オーバーハング部分が異常に大きく、あまりのアンバランスさ加減に見ているとめまいがしそうになるそれに書いてあったのは「TOWER of TERROR」


オーバーハング部分の支柱が、まるでに海賊船の船長室(の下)のよう
まるでスケール感がないが、途中の工事用足場をみるとこの建物40m前後はあるはず


 これは期待だ!

 調べてみるとこれは
 『ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー』(本家ディズニーランドの第二パーク)と
 『ディズニーMGMスタジオ』(フロリダのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートにあるテーマパーク)に既に存在するアトラクションなのだった。

 とはいえこの2つは「The Twilight Zone Tower of Terror」という名で、1960年代のTV番組「トワイライトゾーン」ネタのアトラクションであり、「The Twilight Zone」が省かれている日本では違った演出になるのだという。

 演出変更に関しては、元々この建物の名が「ハリウッドタワーホテル」となっていて、ニューヨークという設定であるウオーターフロント・エリアでは使えないからだ。と言われているようだが、それよりなにより「 Twilight Zone 」というTV番組が日本ではまるで認知されていないことのほうが理由として大きいだろうと私は思う。

 もっとも、Twilight Zone 自体は日本でも熱狂的なファンは多い。

 事実、私はプロデューサーのロッド・サーリングが亡くなった時はその死を悼んで同志と共に『Twilight Zone』というサーリング特集の同人誌を出したほどだし。


センス・オブ・ワンダーとは何か、それはすべてサーリングから学んだ、と言うわけで
ガリ版刷り(!)のロッド・サーリング追悼特集、表紙は私がデザインし、リキ入れてシルクスクリーンで刷りました 


 「ウルトラQ」はその影響を色濃く受けているし。
 少年ジャンプで人気のあった「アウターゾーン」(光原伸)もこれにインスパイアされた作品だ。
 (タイトルの「アウター」とはミステリーゾーン放映当時、よりSFティストの濃い作品として人気を博していたTV番組「アウターリミッツ」から来ていると思われる、また「ミステリーゾーン」ではプロデューサーたるサーリングが番組の前後に登場してお話を補足したり警句を吐いたりするのだが、アウターゾーンにおける案内人ミザリィは、これをモデルにしている)
 
 ・・とまあ、隠れたる人気番組ではあったのだが、普遍的な人気があったとは言い難く、また日本では「ミステリーゾーン」と呼ばれていたわけで、今トワイライトゾーンと言われても「はあ?」となってしまうのはあきらかだろうから、演出変更は理解できる処置である。


 ともあれ、早くできないかな〜と思って半年たった。
 そして、ついにオープン! しかし初日の待ち時間が260分だったという。
 
 工エエェ(@@;) ェエエ工 260分?!

 おいおいおい、いくらなんでもそりゃ待ちすぎだろ、ってそれ目当てに行ったなら並ぶしかないですか、ともあれ、私はゴメンなのでしばらく待ち。

 そうこうするうちに、待ち時間は100分台に、それでもヤですが。

 などとゴネているうちに冬になり、タワーオブテラーだけならまだしも、シーはただただ散歩してるだけでも楽しいとこなので、寒くなると楽しさ半減なのでスルー。

 年が明けて暖かくなったけど、春休みは当然混むのでパス。

 狙いは4月中旬、学校が始まって間もない頃だ。
 というのもディズニーランドは、ランド/シー共に修学旅行が多い。
 テーマパークに来てなんの修学だ、お寺いって坊さんの法話を聞けよ、と京都・奈良巡りだった私は思うのだが(意地悪で行ってるだけだが)いくらなんでも新学期始まってすぐ遊び(?)に出る能天気な学校はあるまいということだ。

 というわけで2007年4月20日、ついに私は、舞浜に足を運んだのである。



 ゲート前到着は慎重に考慮した結果9:30つまり開場30分前。
 モノレールから降りてチケットブースに向かうまではちょっとドキドキだったが、読みは的中して待っている人はかなり少ない(1000人前後か)最終的には万の単位で人が入る筈なので、これはほとんど先頭集団と言ってよいだろう。

 ところで待っている人達を尻目に、別なゲートからスイスイと入園していく人が居る・・これは??と思ったら、オフイシャルホテルの宿泊者だけの特典、通常の1時間前に入場できるアーリーエントランスというものだとか、これはうらやましい。

 待つのに飽きた子供のために、キャラクターがゲートの向こうに現れて愛想を振りまき始める。あちこちで「見た〜い」「見せて〜」という子供の声が上がり、肩車する親多数。
 私の隣に並んでいた子供が母親に「肩車〜」とねだっていたが、その母は「今日は朝から閉園まで遊び倒すんだからね、こんなことで、朝一番からお母さんの体力を奪っちゃダメだよ」と妙に冷静な説得をしていた。

 さて10時きっかり一般入場開始、ゲートクリアした人が「走らないでくださ〜〜い」という声を尻目にダッシュしていく。

 私も気がせくが、遊園地(やデパートや)で我先にと駆け出す人は見てて見苦しいと日頃から思っている都合上、余裕のあるフリでウオーターフロントエリアに歩いて行く(こういう態度を関西人は「関東モンのええかっこっしい」と言う)


 タワー・オブ・テラーに到着、まずはファストパス(並ばずにアトラクションに入場できる券、1回取るとその次は2時間くらい先になる)を取る。これが12時30分から入場の券、ついで通常の入場ゲート(スタンバイエントランス)に並ぶ、これが10分待ち。
  ディズニーランドは、ゲートから乗り物まで止まらず歩いていける状況でも5分くらいはかかるので(待ち時間表示は最低でも5分からになっている)これは事実上待ち時間無しと言うに近い。


 これで少なくとも2回は待たずに乗れるわけだ。

 ところでUSJもそうだが、最近のアトラクションは長い待ち時間の苦痛を軽減するための工夫がある。
 その一つが凝った内装・装飾だ。並んでいる間に目にするものが興味深ければ少しは時間を忘れるということである、海底2万マイルの通路にあるネモ船長の執務室などはその良い例で、通り過ぎるのが惜しいくらいである(その気になって見ていれば10分20分は飽きない作り込みになっている)「遊園地特集」参照

 このタワー・オブ・テラーは大富豪にして探検家のハリソン・ハイタワー3世(!)の持ち物「ホテル・ハイタワー」という設定になっているのだが、当然のように美術(装飾・小道具)は凝っていてスキがない。
 特に見ものなのがロビーの周囲を飾っているハイタワー3世の冒険を描いた壁画だ。
 よくみるとどれもこれもお宝を奪われて怒った原住民がハイタワー3世を追っかけている(エジプトで、マヤで、アフリカで etc)という図柄であって、なんのことはない探検家にして美術工芸品の収集家というこの人物は、実はただの盗掘屋だったということなのだが、これを冒険として自分のホテルに臆面もなく描かせているというあたりのブラックなジョークが素晴らしい。

 ネモ船長の執務室と同じでむしろもっとよく見たいと思うくらいなのだが、スイスイと進んでしまって落ち着いて鑑賞できない。

 さて、時間つぶしとしてもうひとつあるのがプレ・ショーと呼ばれるちょっとした出し物だ、USJのターミネーターなどは、本番のショーよりもその前の綾小路麗華さんのトークのほうが面白い(綾小路麗華さんのファンサイトもあるくらいだ、詳しくは「遊園地特集2005」を読んでいただきたい)
 
 このタワー・オブ・テラーでは、ハイタワー3世の最後のインタビューの録音を彼の執務室で聞く、という趣向になっている。
 インタビューというのは、彼がアフリカから持ち帰った「シリキ・ウトゥンドゥ」という呪いの像のお披露目を行った時のもので、最後のというのは、お披露目があった晩、彼は乗ったエレベーター内から消失、以後行方不明という設定になっているからだ。

 3〜40人ばかりの小グループに分かれた見物はその執務室に通される、中央には古い蓄音機が置いてあって、片隅には当の「シリキ・ウトゥンドゥ」が置いてある(高さ50センチほどだろうか)
 案内人が蓄音機のハンドルを回すと当時のインタビューが流れるが、やがてどこからともなく「シリキ・ウトゥンドゥの呪いは本物だ!」というハイタワー3世の声が聞こえる。
 一瞬部屋が暗くなり、シリキ・ウトゥンドゥの像にレーザー光線が当たってちかちかと光り、すぐに部屋は明るくなる・・と、その時すでに像はない。

 居合わせた誰もが「え・・・」と言う。


 像有る
 部屋暗くなりレーザー当たる(有る)
 部屋明るくなる(無い)

 という流れの中に像があるかないかわからなくなる瞬間はなく、まさしく目の前で像が消失するのだ、これはビックリである。

 実はこのことは私は事前に知っていた。先に入ると像から離れて見えにくくなるという話も聞いていたので執務室には遅れて入り、シリキ・ウトゥンドゥの真向かいに立っていたのだ。

 消えるたってこの私が見れば仕掛けなんぞ一発で、と思っていたので他の人以上に私はびっくりしていた、なにしろ「消えたようにしか見えない」のだ。
 こんなにも現象があざやかだとは思ってなかった。

 頭の上に?マークを3つくらい出しながら私は先へ進み「業務用エレベーター」に乗り込む。
 椅子があってシートベルトのあるこれのどこが「業務用エレベーター」なんだ、と思わないでもないが、乗るとエレベーターは暗闇の中をバックし、やがて上昇に転ずる、途中ハイタワー3世の最後を目撃し、シリキ・ウトゥンドゥの呪いを受け

そして、更にグイングインと上昇して行き

上昇して

更に上昇して


 目の前の扉がサッと開く、とそこはハイタワーホテルの最上階(という設定だが、上には機械室があるのか実際の建物の2/3あたりだ)

「まぶしい! 高い!」と思った瞬間エレベータがガクンと落ち、「うぉ」と思ったところが1フロア下で停止し、と思った瞬間再度落下、闇の中に落ちて行く。

「ひょぇ〜〜〜〜」と落ちていってエレベーターは停止、再び上昇に転ずる。

 今度は暗いままで、しかも頂点で停止せずそのまま降下にうつる、これが怖い、ジェット機を使った無重力実験室と同じで降下する瞬間だけでなく、減速から降下に至るまで無重力感があるのだ。

 闇の中で停止したエレベーターは3たび上昇を開始する、2回目の落下がけっこう怖いので「またか!」という思いもあってここで悲鳴があがる。

 しかも、演出がうまい。

 エレベーターはグイン、グイ〜ン、グイイイ〜〜ンと、3段階で加速しながら上がっていくのだが、その暴力的な加速感にいやがおうでも恐怖感は高まる。

 3回目は今度は外が見える、頂点で一瞬停止するが一旦停止はせず下まで一気に落ちて終わる。
 つまり落下は3回、その3回とも落下のパターンが違うというわけだ。
 エレベーターのドアが閉まってから開くまで2分30秒だった。


 ということで、これはいわゆるフリーフォール型のアトラクションなのだった。
 もっとも、その動きから見て「落下」はフリーでもフォールでもなく、動力でコントロールされているらしく、落下感がヌルい気もするのだが単に落ちるだけでなく「演出」というものが存在するぶん、怖さ、面白さのある凝ったアトラクションである。


 これで1回め終了。
 ファストパスの時間まで2時間はあるので、他で遊ぶことにする。


 今回もシーは端から端まで遊び倒したのだが、その感想については以前詳しく書いたのでここでは記さない。タワー・オブ・テラーを中心に話を進めようと思う。

 ところで、実はせっかく取ったファスト・パスだがこれは使わなかった、何故といえば時期の選択が的中したというべきでシーがやたらと空いていたからだ。

 園内のあちこちに各アトラクションの待ち時間が表示されているのだが、どこも5分から15分程度、先に言ったとおりこれは待ち時間ナシというに等しい。

 12時過ぎに私はロストリバーデルタ・エリアをうろうろしていたのだが、たいして待たないならアメリカンウォーターフロントまで戻るのは面倒なのだ(ロストリバーデルタとアメリカンウォーターフロントはシーの中で一番距離が離れている)
 お気に入りのショー「ミスティック・リズム」を見るのに時間的にちょうど良かったということもある。

 ともあれ再びタワー・オブ・テラーまで戻ったのは午後も遅い時間だった、待ち時間は10分。

0分は無い待ち時間表示、いきなり30分から表示するアトラクションもあるそうです(内通者よりの情報)


 2回目、こんどこそシリキ・ウトゥンドゥの謎を解いてやると誓って中に入る。
 今度も像のすぐ前に立つ、前回は「ああ、像だな」と思っただけで「本当にそれがそこに実在しているか」どうかチェックしていなかったので、まずはそれを確認する。

 実のところ前回はあまりにも鮮やかにそれが消失したので、あとになって実像ではなかったのではないか、とか自分の目を疑っていたのだ。
 つまり投影された像であるとか、そういうことだ。
 
 まあディズニーが偏光メガネを使わず、どこから見ても立体に見える映像を(しかも空中に)出現させるという超テクノロジーを持っているというのでもないかぎりありえない話なのだが、そこまで立ち返って疑う必要があったということだ。

 もっともその像が見たとおりのものでないことはあきらかなのである、というのは部屋が暗転する直前、無表情だったシリキ・ウトゥンドゥがニタリと「笑う」からである。

 顔の造作が動くのではなく、像の上に描かれた顔が笑うのだ。
 つまりどうみても塗り分けられているとしか見えない像だが、すくなくともその顔は投影されたものなのだ。
 これはホーンテッドマンションにある喋る石膏像と同じテクニックだと思われるが、ホーンテッドマンションの場合はあきらかに投影されているのがわかるのに対し、このシリキ・ウトゥンドゥに関しては笑うまで気がつかない。

 ともあれ像の間近に立って、顔を左右に動かし、しゃがんで見たり背伸びしてみたりして視差が存在するか確かめる、間違いなくそれは立体としてそこにある。
 ついで周辺を確かめる、像は高さ2mほどの大理石の円柱(ギリシャ神殿の柱のようなものである)の上に台座ごと置いてある。

 台座は50センチ四方くらいのテーブル型で4つ足である、奥の壁が見えるので下は当然空間である。というか空間であるように見える。しかしここにマジックで使うような鏡とか、なんらかの仕掛けがないかどうか台座の下をチェックする・・がこれも間違いなく4つ足のテーブルである。

 「存在間違いナシ」「足つき台座間違いナシ」と心中で声出し確認する。
 やがてプレ・ショー。

 ハイタワー3世の声、雷鳴、暗転、私は仕事中でもここまで集中することはめったない、という勢いでシリキ・ウトゥンドゥを注視する。
 
 ストロボライトが像を照らしている、有る
 
 明るくなる、無い!

 工エエェ(゜〇゜;) ェエエ工

 目と鼻の先で、集中して見ているその目の前で、消えた!

 油断さえしなければなにかしら手がかりはつかめるはず、と思ってした私はうちのめされてエレベーターへ進んだ。

 出口から出て、即スタンバイに並ぶ、こうなったらヒミツを見抜くまで帰れない。
 もしこのまま帰ったら夜眠れないだろう、そして「あ、こういう仕掛けだったんじゃないか?」と思いつくことがあったら矢も立てもたまらず、また飛んでくるハメになるだろう。

 3回目、シリキ・ウトゥンドゥの前に立つ。

 前2回は正面から見ていたので、今回はやや斜めに立つ、そして「見る」と言っても漠然と全体を見るのではなく手に注目してみる。
 ついで音にも気をつけることにしよう(なんらかの仕掛けであるには違いなく、あれだけのサイズの物を物理的に動かすなら、なにかしらの音がするはずである)

 消えた\(> <;)/

みたびあっさりと消えてくれた。音は、雷鳴の効果音が鳴っているのでなんとも言えないが、モーター音や、エアシリンダーの音は聞こえなかったような気がする、無音で動作する仕掛け?

 前回はうちのめされてそのまま奥に進んでしまったのだが、今回は消えた跡をチェックする(と言ってもすぐに奥の扉が開いて客は進み始めるので、ほんのちょっとの間だが)
 すると気になる事が! 立ったままの目線だと気がつかないが、シリキ・ウトゥンドゥは台座の「一部」と共に姿を消しているのだ。

 どういうことかと言うと、像は四つ足の台座に乗っていたわけだが、その台座は残っている、しかし台座の床が四角く切り取られたように穴になっているのだ。
 台座のフチ部分は縦に厚みがあり、天板は大人の目線の高さよりやや上にあるので、普通はその穴に気付かない。しかし、かがんで天板の底をのぞき込むようにするとそこに穴があり背景の壁が見えるのだ。

 これは一体どういうことか?
 台座を含めてシリキ・ウトゥンドゥの像であるなら、台座ごと消える筈である。
 台座は像を安置するために置いた別あつらえのものだとすれば、本体である人型の部分だけが消えないとおかしい。
 それが台座の足と天板のフチだけを残して、床の一部ごと消えるというのは何故か?

 これは多少の不整合には目をつぶってもこうしなければならない「仕掛け上の都合」によるものだ。

 「石岡くん、これにはきっとなにか意味が、それも重要な意味があるはずだよ」と心中つぶやきつつ私は3回目のエレベーターに向かう。


 4回目、今度はショーの始まる前に台座をチェックする、台座下には照明が当たっていないので底板はよく見えない。
 しかし、あとでその部分が消えることを知らない場合と、知って見ているのとでは見方が違う、視点を変えて見ていくと、ありました隙間。

 なまじ暗いだけに、隙間があるとその向こうにある照明の当たっている壁が見えるのだ。


 ところでシリキ・ウトゥンドゥの消失が光学的なトリックでないことは2回目にあきらかになった。
 天井は丸見えで仕掛けをする余地もなく、360度周囲は開けているのだから、消えるとしたら下しかない筈、これは消去法から導かれる結論だ。

 いかにも中に像が収納できそうな、円柱の上に乗っていることからもこれは間違いないだろう。
 問題はどうやって移動させているかだ、像が円柱の上にじかに乗っているなら上下台に乗せておいて、一気に引き込めばよい。
 しかし、それではある意味だれも驚かない、あり得そうなことが起こるだけだ。

 そこでこのショーのプランナーが考えたのが台の上に置くという演出だ、なにしろこの台の足は細身の猫足で台座下の空間はかなり大きい、つまり下になんの仕掛けもありませんよ、という主張である。

 細い足の台に支えられている像は、つまりは空中に浮いているわけで、空中で消えるからこそ不思議に見えるのだ。

 私も仕掛けのプロなので、出来ることと出来ないことくらいの区別はつく、私から見ても像の下の空間に仕掛けはない。
 しかし、台座の一部が消失することでなにかしら別な意味が出てくるだろうか?

 と悩んでいたところで4回目のショーが始まった。手がかりなし。

 5回目!

 台座ごと消えるという以外の手がかりは出なさそうなので、またもや台座の下をのぞき込む。
 「たしかに消える床の4辺に隙間があるな、あそこから分離するのだろう、でも角の部分だけは隙間が無いようだ」
 「そりゃそうだ、周囲にグルリと隙間があったら、支えがなくて台は像ごと下に落ちてしまうだろう」
 「まて、石岡君、今なんと言った?」
 「そりゃそうだ?」
 「違う、落ちるだよ、そうだ落ちてしまうんだ、僕はバカだった」

 そんなことは最初から気がつくべきだった「下に動かす」なら動力などいらないのだ。 音もしない。大げさな仕掛けもいらない。台座を支えるツメが4つあればいいだけだ、それなら台座の細い足にも仕込めるだろう。

 落ちてきたシリキ・ウトゥンドゥの像をこわさず受け止め、簡単に復帰できる仕掛け(出来れば全自動で)が必要だがそれはごく普通の工夫の範囲と思われる。

 コレダ! と思ったが本当にそうかどうか、確かめる方法があるだろうか?

 「自由落下、自由落下」と心中唱えながら、暗闇の中でシリキ・ウトゥンドゥの像を注視する、が、暗転と落とすタイミングがうまく、落ちている証拠はつかめなかった。


 さてこのアトラクション、エレベーターは3系統あって、籠(というのか乗り物というのか)はそれぞれに2つづつある、そして乗り場は上下2階に分かれている。
 1階から出発した籠が上下しているとき、2階では客が乗降しているという具合に交代で動いているのだ。
 というわけでエレベーター前の最後の待合い場所が6ヶ所あるのだがそこの装飾がみな違っているのだった。

 そもそもこのエレベーターは巨大な倉庫に隣接している「業務用エレベーター」という設定なわけで、倉庫にはハイタワー3世が世界各地から盗掘・強奪・略奪してきた美術工芸品が山積みされている。
 そして各エレベータは分野別に分かれている、という設定らしく油絵が集積されている乗り場、鎧甲冑の置いてある乗り場、石版が並んでいる乗り場とすべて装飾が変えられているのだ。
 何度も乗ってみて初めてわかるリピーターを飽きさせない工夫、もはや驚きはしないが手抜きのないデザインワークというべきだろう。


 6回目!

 仕掛けがわかった(はずである)としても、いったいどこを見ればいいのか、そもそもどこかを見たらその証拠はつかめるものなのか。

 今まではシリキ・ウトゥンドゥを注視していたのだが方針を一転、台の下の空間、私の読みどおりなら像が落ちてくる筈の空間を注目してみることにする。

 暗転、レーザービームの小さい点がシリキ・ウトゥンドゥにチカチカと当たっている(筈だが、そっちは見ず何もない台座下を注視しつづける。
 
 と、その何もない空間にレーザーの点が現れた、コレダ!

 ついに証拠発見!つまりレーザー光線というのは光をさえぎるものがないかぎり認識出来ない、煙がこもっているのでないかぎり空中を走っていても見えないのだ。

 だから台座の下の空間にレーザーの点が現れたということは、その瞬間そこに何かが存在したということに他ならない、何かとは上から落ちてきたシリキ・ウトゥンドゥの像である。

 

 考えてみると、暗転しレーザーを当てるというのは演出である以上に視覚効果の一環なのだろう。
 明るい室内で像を落下させたのではどうにもごまかしきれないだろうが、暗闇では状況が違う。
 暗闇の中でレーザーが当たっている「点」を見て人はそこに像があると思う。一瞬前までそこに像があったのだから当然なのだが、実は本当に像自体を見ているわけではない。

 「光点しか見ていないのに、像を見ていると思いこむ」 ここがミソなわけだ。

 というのも、暗闇に明るい光点となればこれはどうしても残像が生ずるからだ。レーザーを当てた瞬間に像を落下させても目には光が残っているので、人はまだ像がそこに存在していると思いこむ。
 
 最初に「像があるかないかわからなくなる瞬間はない」と書いたが、こういうトリックで像を隠す(落とす)時間を稼いでいるのだ、これを考えた人間は天才である。

 しかし!レーザーの照準をもっと絞り込んで、本来像がある部分にだけ向けていればわからなかったのに「これはまずもってバレないでしょ」と思ったのかどうか、あたり一面にレーザーをばらまいてしまったため、落下途中の像に光が当たってしまったのだ。



 破れたり!

 私は満足しつつエレベーターに乗った。
 なるほど、エレベータだけでなく、これはすべてフリーフォールのアトラクションだったのね。
 エレベーターの落下を一点の曇りもなく、ちゃんと楽しめたのはこれが初めてだった。
 終わり。
 

 PS
 あれ、それじゃ6回じゃないの? と思う人がいるだろうか。
 7回目は夜になってから、夜景を楽しむために乗ってみたのです




 


複眼の映像
橋本忍



 橋本忍はシナリオを読んだ映画は観に行かないのだという。
 なぜと言えば「シナリオを読むということは映画を観るということ」であり同じ映画を2度観る必要はないからなのだそうだ。

 この現場の創意・工夫・努力を一切無視した傲慢な態度に、自分のささやかな努力がその映画をいくぶんかでも面白くするに役立っているはずと信じて現場に臨んでいるスタッフの一員としては怒るべきなのだろうがむしろ感嘆した。

 これは、「自分がシナリオを書いたということは自分が映画を作ったということである」という信念の発露に他ならず、これくらいの自負心が無ければシナリオは書けないのかもしれないなぁと思ったからだ。

 もちろんこれは、楽譜を見れば音楽を聴いたのと同じ、というに等しい妄言であるのは言うまでもない。

 まあ、本人がどう思おうとシナリオ=映画ではない、そしてそのような夜郎自大な自負心に支えられて完成した本を、これまた自分は神であるくらいに思っている自尊心肥大な監督(シナリオなんてのはたたき台くらいにしか思ってない監督が大多数)が演出し。自分の美学のためなら監督の演出意図なんてそっちのけのカメラマンが絵づくりをして(多い)、自分がいかにカッコよく映っているかにしか興味のないナルシスト(たいてい)が役を演じて完成するのだから映画は面白い。


 



「王と鳥」
DVD鑑賞



 この映画は「やぶにらみの暴君」のリメイクである。
 この「やぶにらみの暴君」というフランス製のアニメーションは1953年に公開、世界的に評価され、映画人のみならず多くの作家、知識人に影響を与えたエポックメイキングな作品だ。

 知られているところではこの作品はまずは高畑勲や宮崎駿に多大な影響を与えている(ということは日本のアニメーションに多大な影響を与えているということだ)
 高畑自身がこの映画がなければ「漫画映画」を志さなかった、と言っているし、「太陽の王子ホルスの大冒険」にもその影響は色濃くでていると言う(余談だがその「ホルス」は私が映画を志すに至るきっかけになっている)

 宮崎には、これはもう映画を観るとわかるとおりに影響を与えている、などと言ったレベルではない。
 メカだらけの城に暴君(いい年の)が住んでいて年若い女性に横恋慕している。
 気に入らない相手は落とし穴に落とす。
 彼女は恋人と手に手を取って逃げ出す。
 術策によって暴君は彼女との結婚にもちこむ
 結婚式の当日、大広間に招かれた人々と司祭、正装の暴君と清楚なウエディングドレスの彼女。
 誓いの言葉を言えない彼女。
 乱入する恋人
 などなどは、どこのカリオストロ?(逆だが)という設定だし。

 目もくらむ高い城壁のわずかなでっぱりに足をかけ、ズリズリと横移動する少年とか。
 追っ手が妙な乗り物に乗って来て、2人は手に手を取って下へ下へと逃げていくとか。 やがて陽のあたらない貧民窟に至るとか。
 さらには暴君が地下から秘密兵器である巨大なロボット(巨人=ギガントである)を引っ張り出して暴れるというあたりは、ここは三角塔ですか(逆だって)という展開である。

 もちろんこれはパクったのインスパイヤのという話ではない。
 映画にかぎらずどんな創作物でも先代の作品を踏み台にして次へ飛躍していくわけで、踏み台にする行為そのものを否定するクリエイターはいない(ディズニーを除いては)

 もっとも、大物を踏み台にすればより大きなジャンプが要求されるだろうし、飛距離が伸びなければ「そんなもんか」とは言われるだろう。
 もちろん高畑、宮崎に限ってはその心配はなく、上記の作品が先代にまさる飛躍をとげ映画史に新たな1頁を刻んだことは間違いない。

 さてそのような傑作であった「やぶにらみの暴君」から20数年、再び「王と鳥」として公開されたこの映画は何がどう違うのだろうか。

 実はこの「やぶにらみの暴君」は作者2人(監督と脚本家)の承認を得ないままに発表されたもので、監督のポール・グリモーがその後作品の権利を買い戻し、27年後に再び発表したものだ。
 これを最近の風潮によってか「ディレクターズカット版」などと呼ぶ向きもあるようだが、映画のタイトル画面に「この映画の一部は『やぶにらみの暴君』からの抜粋です」とあるように、撮影時にあったフィルムを編集し直したわけではなく昔のフィルムの一部を使ったリメイクというのが正しいと思われる(20分カット43分新作だという)

 構想から34年だそうだが凄い信念である。
 もっとも私はそれだけの情熱(と資金力)があるなら新作を撮れよ、と思う。

 というのも、映画は基本的に娯楽であり消費されるものだと思うからだ。
 時にその芸術性や思想性でそれ以上の価値を持つ作品も現れるが、それはたくまずして出てくるべきものであって、監督がその一生をかけて希求するものではないと思う。
 そもそも自分の作品にそれだけの価値があると信じきっている揺るぎない自信がちょっと怖い。

 そしてなにより、映画は監督のもの、少なくとも監督だけのもの、じゃないと強く信ずるのだ。

 妙なたとえだが「誰もいない山の中で木が倒れたとき、音がしたといえるのだろうか」という命題がある。

 私は音はしていないと思う、空気中を伝播していく空気の粗密は音ではない、それが耳に入り鼓膜をふるわせ、人が「!」と思ったとき、その「!」が音なのだ。
(というか「!」を人は音と名付けたのだ)

 だから空気の粗密と人、どちらが欠けても音がしたことにはならない。

 映画も同じでフィルムの上の濃淡は映画ではない、それがたとえスクリーンに投影されても、誰も観ていなければスクリーン上で踊っている光は映画ではない。

 誰かがそれを観て音を聞き「!」と思ったそれが映画なのだ。つまり監督と観客がいなければ映画は存在しない。

 故伊丹十三も「われわれは映画を半分しか作れない、残りの半分は観客の配慮にゆだねる」と言っている。
 そして「映画はさまざまな観客に出会い、各人の中でさまざまな形で完成されてゆくでしょう、私としては、それぞれの出会いが幸せなものであることを祈るのみです」と。

 つまるところ、どんな形にせよいったん発表され多くの人が観た映画を、自分の意に添わぬといって改作する行為は、映画は俺のもの、1から10まで俺のもの、という映画の本質をわきまえない妄執だと私は思う。

 そもそも伊丹が言うように百人の観客がいればそこには百の映画があり、監督がこの映画は「?」という映画であると考えていても、観客が観て「!」と思うならそれを止める方法はない、映画を完璧にコントロールできるなどと思うのは幻想なのだ。

 映画にそれほど意味を込め、その意味がそれほどに大事なら公開しなければよいのである(自分だけが「観客」ならコントロールすることも可能だろう)

 余談だがジョージ・ルーカスが昔のスターウォーズを現在のテクノロジーで作り替えているのも似たような暴挙であろう。
 金も時間もなかった時代に共に苦労したスタッフに対して礼を失した行為であり、そのようなつたない映画でも充分に楽しんで感動してくれた観客への冒涜である。

 そもそもどんな映画監督であろうと100%の満足をもって作品を世に送り出すことなどない筈だ、ましてや駈け出しの頃の作品であれば予算、時間ともにきびしい制作を余儀なくされているのは間違いない、とはいえ発表してしまった以上はそれは観客のものなのだ。
 楽しい思い出のつまった記念写真を勝手に書き換えるようなマネはすべきでなく、映画への情熱(と予算)があるなら新作を世に問うべきだろう。


 長々と書いてきたが、私がこの「王と鳥」に批判的なのはもはや言うまでもない。
 それはまさしく人の思い出を無にしたと思うからだ。


 この作品はもちろん示唆に富んでいる。

 この映画に最初に登場するやぶにらみの暴君こと「シャルル5+3+8=16世」は、傲慢、無能にして猜疑心の強い王だが、絵の中の羊飼いの少女に恋をし、若い煙突掃除夫に嫉妬し、自分の斜視に苦悩するという人間味だけは保有している。
 それは、欲しいものは何でも手に入れる立場に立ったらそうなるであろうという普通の人間の投影であるし、どんな権力者でも手に入らぬものがあるという、よくある教訓である。
 
 さてその王は、自画像の斜視を自ら描き変えた途端、絵から抜け出てきた(理想とする容姿の)自分に「処分」されてしまう。

 この新王にはなにかが欠落しており、当初あった人間味を一切感じさせない、欠点も含めて人は愛すべき者であるという示唆だろう。
 またあきらかに王様が入れ替わっているにもかかわらず、部下はなにも気がつかず新王に服従している、他人の判断力を奪い、あるいはまた王を直視させることを許さなかったツケが回ってきたというアイロニー。

 終盤、「鳥」は地下に閉じこめられている猛獣たちを焚きつけて、革命を起こすわけだがこの時の演説内容はまったくのウソっぱちである。
 権力によって虐げられていた者が、自らの意思で立ち上がる・・・と自分達は思いこんでいるが、実は扇動されうまく使われているだけだという冷めた視点。

 権力の象徴であった巨大ロボットが暴走し、王国を灰燼に帰してしまうという現代的な恐怖。

 ざっと書いても含蓄満載で「やぶにらみの暴君」発表時に当時の作家、文化人、思想家に影響を与えたというもの当然なのだが。



 私はそんなところを観ちゃいなかった。


 私がこれを観たのはたしか高校生の時、自主上映会だったが、とにもかくにも興奮したのが巨大ロボットの活躍である。

 当時のTVは「ロボットプロレス」と呼ばれる巨大ロボットアクション物が全盛であった。しかしその「ロボット」と称する物は、デッサンが狂い、パースが狂い、動けば体が自在に伸びたり縮んだりする極めて安っぽいアニメーションだったのだ。

 そこへ登場したのが「ガッチャマン」である、タツノコプロの作画能力は一頭地を抜いており「メカが転倒しても固いまま転がってくる!」と私は狂喜しものだ。

 アニメもやっとパースの狂いなく、金属が延びたり縮んだりしない作画が出来るようになったのだ、と思っていたのだったが
 
 「やぶにらみの暴君」を観て驚いた。

 それより20年近く前、アニメの黎明期(フランス初の長編アニメであり、東映動画が「白蛇伝」を発表する6年前である)の作品に出てくるロボットが固いのだ。

 そしてその演出と音響。動きの一個一個にキチンと合わせて付けられた音の気持ちよさ。
 一番感動したのが足音だった。この巨大ロボットはぶ厚い鉄塊のような足を持っているのだが、歩くときにまず踵をドンと落とし、次に足の裏全体をドンとたたきつける。

 歩行全体としてはウィーン(作動音)ド(踵)ドン(足全体)となる。

 このリズミカルな「ウィーンドドン・ウィーンドドン・ウィーンドドン」という音が映画のクライマックス、ロボットが街を破壊しまくるシーン全体を通して聞こえてくるのだ。
 「良い動きと動きに合った音」それがこれほどまでに見るものに快感を与えるとは考えもしなかった。

 私はその頃すでに日本のアニメは世界に誇る映像文化だと思っていたのだが、商業主義(半ばおもちゃ会社の宣伝番組)に堕してしまった作品と、たとえ技術は古くとも理想とまっとうな制作方針に支えられた映像ではその質がケタ違いだと痛感したのである。


 表面的な映像表現にのみ注目し、メッセージ性など目もくれなかったのだから見かたが甘いと言えば甘いが、それも映画これも映画である。
 私の内ではこれは間違いもなく傑作だったのだ。


 それゆえこの映画がリメイクされ、再び見ることが出来ると聞いて私は楽しみにしていた、昔別れた恋人に再会するようにと言ってもいいだろう。
 (昔の恋人は自分と同じく年をとり、見る影もなくなっている可能性があるが、この恋人は昔のままの姿で私を出迎えてくれるはずなのだ)

 と・こ・ろ・が!

 監督はロボットのシーンをばっさりとカットしてしまっていた。
 ロボットはほとんど歩かず、歩いても足をゆっくり平らに上げ、平行に降ろすという鈍い動きになっていた、音もドスンという大雑把な音になっており動きにシンクロする快感もない。

 私は心底がっかりした、楽しみにしていたシーンが見られなかった失望だけではない、私が感動し、長く記憶にとどめていたあのシーンは実は監督にはどうでもいいもの、むしろ、可能なら捨て去りたいものだったという事実が悲しいのだ。

 映画を観たあと、誰かに「あのシーン良かったよね、感動したよね!」と意気込んで話しかけたところが「え、あれ?、あんなシーンが良かったの」と言われたらどんな気持ちがするか理解いただけると思う。
 それを監督にやられたらその失望がどんなものであるかということだ。

 映画は監督だけのものじゃない、勝手なマネするなよポール・グリモー。



 

監督・バンザイ!


 マエストロ・キタノの偉大すぎる芸術に、私はこの映画を1秒も、いや1フレームたりとも理解することが出来ませんでした。
 よって、これについて書くべき言葉を何も持ち合わせていません。




 あ、ちょっとだけありました、テアトルタイムズスクエアが「割引サービスデー(1000円)で良かった」と。



 

時をかける少女
細田守版



 日本が世界に誇るアニメ文化の、ひとつの到達点。
 アニメを基本的にファミリー映画(つまるところお子様向け)としか考えないハリウッドでは決して生まれない良質な青春映画である。


 明るく能天気な高校2年生、紺野真琴はひょんなことから時間を遡航できる能力(タイムリープの力)を手にいれる。
 ごくふつうの、どこにでもいそうなこの少女は手にいれた能力を「妹に喰われてしまったプリンを食べるため」あるいは「惨敗した小テストをやり直すため」などに使用する。
 かろやかに、原作とはうってかわって深みもなく始まったこの物語だが、タイムリープを繰り返すうち、真琴がいちど過ごしてきた時間を無いことにしてはいけないのだと、一瞬一瞬を精一杯生きることが大事なのだと、次第に気付いてゆく過程が素晴らしい。

 ささやかな物語だが、背景となるいつかどこかであった高校生活(西日のあたるカーテンと薄暗い理科準備室、黒板の落書きに当たる斜光と窓の影のクッキリしたコントラスト、校庭から聞こてくる運動部のかけ声、けだるい放課後窓枠にもたれてだべっている同級生、ひとけの少ない図書館 etc)あるいはそれはどこにもなかったけれどあって欲しいと誰もが思う高校生活なのかもしれないが「・・ああ、そうだった」と思える記憶に充ちた映像もまた見事。

 ストーリーと演出と美術がハイレベルに融合した、映画でなければ(そしてアニメでなければ)味わえない傑作である。

 <余談だが、人が成長する物語とは、その成長の過程をキチンと描くというあたりまえな(しかし難しい)作業をこなした先にあるものだ。
 この映画はささやかな物語だがそれに成功している。
 異次元の湯屋で少女が成長したと自称する(しかしその過程はまるで描いていない)映画よりその点でははるかに成功していると言えるだろう。
 もちろん湯屋映画に価値がないわけではなく、映画美術は突出していて、というかただただ美術の力で映画をひっぱっていて、それもまた魅力と言えないこともないのだが『ストーリーと演出と美術がハイレベルに融合』した映画はそんないびつな映画よりちゃんと面白い>



 ちなみに主人公真琴は、先代の「時をかける少女」芳山和子の姪である(らしい)
 真琴がおばをその超然としたたたずまいからか「魔女おばさん」と呼んでいるあたりもそれらしくてちょっと嬉しい。
 芳山さんがいまだにケンソゴルを待っている(らしい)のも、映画に深みを与えているが、彼女が先代であることに観客が気付いても気付かなくてもどっちでも構わない(たった1回、さりげなく「ヨシヤマさん」と呼ばれるだけなので、気付かない、知らない人も多数と思われる)という演出はニクイ。

 強く推薦する。


 

極大射程 スティーヴン・ハンター
ザ・シューター/極大射程 アントワーン・フークア




 小説が原作になっている映画を観るとき、小説を先に読むか映画を先に観るかは議論の別れるところだ。
 私はといえば原作を先に読む主義だ、なぜと言えばそれは想像して楽しむのと人が想像したものを見て楽しむ違いがあるからだ。
 「人が想像したものを楽しむ」というと受け身な響きがあり、また「受け身」というのは現代では推奨出来ない生活態度と受け止められているわけだがこの場合そういう意味ではない。
 これは自分で絵を描くか、名画を鑑賞するかというようなものだ。
 どっちが上かというものではないが、しかし順番に関しては考慮すべきと思われる。

 つまるところ原作を読み、ああでもあろうかこうでもあろうかと思いめぐらした後映画を観て、それが自分の想像と違っていたとしても「なるほど、こう来たか!」と解釈の違いを楽しむ余地はある。
 手ひどく裏切られ原作のイメージまで悪くなった、というケースもないではないがそれでも自分なりの「原作のイメージ」というものは存在する。
 そして、映画があまりにも原作とかけ離れている場合、ある時点で「これは違うオハナシ」と割り切ることさえ可能だ。

 映画が先の場合はそうはいかない。一度すり込まれた主人公の姿形、周囲の風景は抜きがたく、小説を読みつつも頭の中では映画の主人公が映画で見た舞台の中で話し、歩いてしまう。
 原作が先の場合と違って、お話が違っていてもそのイメージを振り切ることは難しい、人は視覚的な生き物なので記憶とイメージは密接に結びついているのだ。

 たとえばの話が「ボーンコレクター」である。先に映画を観てしまったら主人公は黒人であるとしか思えなくなるだろう。原作にはなんの記述もなく、普通に読んだら白人男性と想像するところだが、映画を観てしまえば最初からそういう選択肢は消えてしまいリンカーン・ライム=デンゼル・ワシントンになってしまう、それは小説の楽しみのかなり部分を失うに等しい。
 (この「ボーンコレクター」の場合、先に見たら原作を読む気など消し飛んでしまう駄作であることがまず問題なのだが)

 ということで「ザ・シューター」だ。
 そういうわけなので観に行くにあたっては原作の「極大射程」を読まねばならぬといそいで読破したのだった(ちなみに作者のスティーブン・ハンターは「ダーティ・ホワイト・ボーイズ」で私的には高評価の作家である)
 そして映画を観にいき、思ったことは。

 こんだけ変えてるならどうでもよかった

 この小説は狙撃手の話である、そしてストーリーは「狙撃」を中心に展開する。

 主人公ボブ・スワガーはベトナムで1000人のベトコンをたった一人で撃退したことがあるという伝説の名狙撃手である(親友の観測手を戦いで失い、除隊以降は山で隠遁生活を送っている)

 敵役、冷酷非情な「大佐」はCIAの汚れ仕事を一手に引き受ける影の組織のボスである。

 ニック・メンフィスはボブ・スワガーを尊敬し、FBIの狙撃班に入ったが重要な任務で狙撃に失敗し、以来冷や飯を食わされているベテラン捜査官である。

 ドブラーは大佐に弱みを握られた東部出の生っちょろいインテリだが、精神分析の分野では突出した才能を持ち、ボブ・スワガーを狩り出すキーマンである。

 他にも多くの人間が登場し、それらが縦糸と横糸になってタペストリーを織りなす複雑なお話が原作の「極大射程」なのだが。

 映画はボブ・スワガーの独壇場である。原作ではスワガーは狙撃手として考え狙撃手として行動する静かな男として描かれているのに、映画ではマシンガンを腰ダメで撃ちまくり、弾幕の中を駆け抜ける「コマンドー」(シュワちゃん)のような男である(戦場で伝説を残した男が山で隠遁生活を送っていると、陰謀に巻き込まれ傭兵相手に「腰だめで弾幕」になるあたりまるで同じと言ってよい)

 こころならずも容疑者ボブ・スワガーの協力者となり共に逃亡生活を送るメンフィスが、やむを得ずFBIだと身分詐称し(クビになっている)そのことをくよくよと思い悩むなど、正義の側に圧倒的な倫理観がある(「敵が汚い手を使ったとしても同じ土俵には降りない」) これも原作の魅力の一つだ。
 ボブ・スワガーも撃ちまくるとはいえ正当防衛である状況以外では一切発砲しない。

 映画のスワガーが違法行為(犯罪行為)しまくりなのがえらく気になる。

 結論を言おう、原作は面白い、映画は観る価値が無い



 


食い逃げされてもバイトは雇うな
 山田 真哉
新幹線ガール 徳渕 真利子
裁判官の爆笑お言葉集 長嶺 超輝
JR福知山線事故の本質 山口榮一
算法少女 遠藤 寛子
墜落事故 ディヴッド・オーウェン


 私は本はほとんど買って読むわけで、そしてたいていの本は中身を知らずして購入するわけで、一種のカケという意味では小説もノンフィクションも同等なわけだが、ノンフィクションにはリスクが多いと感じる。

 小説の場合、面白いかあまり面白くないかという度合いこそあれ、まったく面白くないということはない。コストパフォーマンス悪いなあとか、時間がもったいなかったと思うこともないではないが、腹が立つというところまで行くことはまずない。

 ところがノンフィクションに関していえば、まったく面白くない、あるいはまるで中身がないと思うことはしばしば、時には筆者の主張に共感できず、むしろこんな人間に印税を渡してしまったかと思って腹が立つことさえ時にある。

 こういう時に便利なのが図書館である。

 我が街の図書館は長いこと旧態依然とした象牙の塔であった、昔ながらの図書館のイメージ、つまり古く、重く、暗く、静謐で、時の止まった場所を体現するところ。行きずらい場所にありながら駐車場もなく、司書は図書を貸すとこより図書館を(利用者を)管理することを任務と考えてるような雰囲気があった。
 つまりは使えない所だったのだ、それが2年前に変わった。

 駅前の再開発にともない、図書館が駅ビルの中に移転したのだ、館内は天井高く、広く明るく、通勤通学者の利用が増えて活気がある。
 図書館員(多くはバイト・パートらしいが)も増え、丁寧親切で、なるべく借りていただきたいという姿勢が見える(先日、古い「月刊アスキー」が見たくて、カウンターに行ったところ「それは閉架書庫にあります、ご自分で確認されたいですよね」と言ってあっさりと閉架書庫に案内された)
 書籍の検索はweb上で出来るし、在架しているのか借り出されているのか(借り出されているなら何人待ちか)もわかる、在架していればその場で押さえることも出来るし、なければ予約も可能で連絡はメールで来る。
 公共駐車場に車を止めれば駐車券もくれるし、いたれりつくせりである。


 ・・というわけで、今やノンフィクションはまず図書館にあたる(なにしろなければ買ってくれるのだ、なんでも買ってくれるわけではないのだろうが、断られたことはなく「原則買ってくれる」もののようだ)
 
 というわけで以前よりノンフィクションを読むチャンスは多い、そしてやはりハズレは多い、今回は「図書館でよかった」シリーズである。



 まずは『食い逃げ』

 食い逃げされてもバイトは雇うな。
 何故か?「食い逃げの損害よりバイト代のほうが高いから」
 ゲド戦記(ジブリの)は「第一回宮崎吾朗監督作品」としたところが偉い。
 何故か? 2作目3作目もあるぞと思わせるから
 
 ・・・・はあ・・・・

 このようなご高説を拝聴するのに数百円をはたかなくってよかったー、図書館アリガトウ、と心から思う私であった。

 どう見ても内容が先にあったのではなく「さおだけ屋〜」がヒットしたので「次の企画を」となり、しかし筆者の中にはもう語るべきなにも無かったという本である。

 『新幹線ガール』

 新幹線ガールとは新幹線の車内販売の売り子さんである(今はパーサーと言うらしい)
 バイトから正社員に昇格した途端(売り上げランキングに登録された途端)300人いるパーサーのトップに、それも2位以下を売り上げ高で3倍の差を付けて、躍り出たという筆者のエッセイである。

 一芸に秀でた人の本は時に人生訓じみることが多い、人間とは××とか、いかにして生きるべきか、とか大きく出て、天に生かされて■■とか、うむう。

 なにかで成功した人というのは、足が速いとか手先が器用とか、誰にもある個性がたまさか仕事に適合していただけだろうと私は思うのだが、ほめられ敬われているうちに「自分は人間として優れているのだ(人に訓戒を垂れる資格がある)」と思いこんでしまう人は多い、これは痛い。

 逆にビジネスで成功した人の本はノウハウ本になってしまうことも多い。どんなことでもビジネスになる、稼ぐチャンスは誰にでもある、用は頭の使いようだ、という本はこれまた痛い。

 そんな本になってないだろうな、という危惧を持って読んだのだが、幸いにもどちらでもなかった。

 これは「私(達)パーサーはお客様のことを考えて日夜こういうことをしています」ということを丁寧に述べただけの本である。
 パーサーの日常−勤務形態、勤務時間、仕事の実際、休息の取り方−などなど、よく見かけはするもののその実態について知識のない他の職業の実態を詳しく知るのはちょっと楽しい。

 だから読んで損はないとは思うが、内容はあまりに薄く一度読めば充分だ、手元に置いて折にふれ読み返すという本ではけっしてなく、図書館で借りられるならそれで充分というほどの本でしかない。

 『裁判官の爆笑お言葉集』

 裁判ウオッチャー(最近多いらしい)である著者が、裁判官が思わず(あるいは確信的に)発した生の声を採録した本。
 もちろんそうそう面白いことばかり裁判官が言ってくれるはずもなく・・というか、裁判官なりの真剣な言葉を、おもしろおかしいコメントを付けて「爆笑お言葉集」にしようとしている部分も多く、見ていて苦しい。
 新聞に紹介があったので手には取ってみたものの、想像どおりの中身のないジョーク本であり、もし図書館なかりせば絶対に読まないであろう本の一種である。


 『JR福知山線の事故の本質』

 この本は二部構成になっている。前半分は事故当時2両目(ほとんどの乗客が死亡した車両)に乗っていた女性客の事故の再現とその後のリハビリのレポート。

 後半は事故を科学的に分析、解説する本である。

 助かったとはいえ、その体に負ったダメージがどれだけのものか、社会復帰にどれだけの苦痛と時間とお金がかかるのか。漠然と想像するのと実際に一人の若い女性の身に降りかかった事件として見るのとでは読む側の身のしみかたが違う、事故を憎み安全を希求する気持ちにも大いに差がでるだろう。
 フーン、エッセイ?と思ったが、これは読んで良かった。

 後半は、この事故は現在言われているような一運転手がどうこういう問題ではなく、JR西日本がやるべきことをやっていなかったために起きた事故で、いつ誰が起こしても不思議はなかったのだ、という主張である。
 いろいろと書かれてはいるが本質的には「速度制御の出来るATSを何故つけておかなかったのか」というに尽きるわけで、ある意味内容は薄い。

 「さおだけ」「新幹線」「裁判官」と並べてしまっては釣り合わない真面目な本ではあるが、前半、後半ともに一度読む価値はあり、そしてたぶん二度は読むことのない本である。

 『算法少女』

 これは安永4年10代将軍徳川家治の時代に発行された和算の手引き書「算法少女」を元ネタとし、その成立の事情を小説仕立てにした児童小説である。

 「えどじだいのにほんは、さこくでぶんめいがおくれていて、きんだいかがくはみんなめいじじだいにせいようからゆにゅうしたものでしょう?」と思っているよい子には読んでいただきたい本である。
 (なにしろ円周率や、三角関数も当時ちゃんと理解され使われているのだ) 
 夏休みの読書感想文に最適!

 『墜落事故』

 これはまっとう至極な本である。
 「図書館でよかった」という今回のテーマは「つまらない/内容薄い、本にお金を出さずにすんでよかった」という意味が濃いわけだが、この本はつまらなくも内容薄くもない、世界の航空機事故の原因とそれから得られる教訓を豊富な実例と実証的な態度で書いた良本なのだ。
 しかしこれは上記5冊とは違った意味で「図書館でよかった」本なのである・・私にとっては。

 というのも私は航空機事故についての調査・研究本が大好きでそのたぐいの本をかなり持っているからだ。
 その中には多くの事例を取り上げた−必然的に広く浅い−入門書的な物から、限られた事例を深くつっこんだ本まで各種ある。
 たとえば「空が墜ちてくる」は、エンパイア・ステートビルの上階にB-25爆撃機がつっこむというたった一つの事故について書かれた本だ。
 高層ビルに大型飛行機がつっこむなどというのは、狂信の果ての蛮行であると9,11以降多くの人は思っているだろうが、50年以上前に純粋なミスによってまったく同じことが起こっているのだ。これはつっこむ側とつっこまれた側のその日の出来事を詳しく調査して書かれた本である。
 
 さて、航空機事故というものは飛行機の発明以来数限りなく起きているわけだが、その中にはエポックメーキングな(という表現は不謹慎かもしれないが)事故というもがいくつかある。
 それはその事故が起きるまでは、誰もその構造・技術・システムに問題があるとは知らず、その事故の調査、研究によってあらたな知見が得られ、その後の航空機の安全の向上につながったというケースだ。
 これらは航空機事故について触れるならどうしても取り上げざるを得ない事例である。
 たとえば世界初のジェット旅客機デハヴィランド社のコメット号事件というものがある。
 これは当時世界最高の設計技術によって製造された(と信じられていた)旅客機が初飛行から1年目にインド上空で空中分解したという事故から始まった。
 当初これは悪天候による不可抗力と考えられ、飛行停止の処置は取られなかったが、その8ヶ月後今度はコメット機はイタリア、エルバ島付近で空中分解した。
 飛行停止の決定がくだされ調査が行われたが、機体の不具合は発見されず2ケ月半後に運行は再開された、その2週間後コメットはシチリア沖で墜落したのである。

 未知だが、致命的な欠陥がコメットには存在すると判断され無期限の飛行停止措置が取られた。

 結論を言ってしまえばこれは予圧による金属疲労だったのである。

 空気の薄い高空を飛行すれば、空気抵抗が少なくて飛行機は燃費がよくなる、また雲のはるか上であるため(特筆すべき気象現象が起きるほど空気がない)悪天候に悩まされることもない。

 レシプロエンジンでは不可能だったこの高々度飛行を、空気を吸入圧縮して燃焼するジェットエンジンは可能にしたわけだが、同時に乗客、乗員の呼吸のためにキャビン内の予圧(加圧)を必要とした(高度1万メートルでは1/4気圧しかなく、ついでに言えば気温は−50度であり、外気にさらされれた人は1分以内に意識を失い死に至るといわれる)

 そしてキャビンは予圧されることでわずかに膨らみ、地上に降りると元に戻る、この繰り返しが金属疲労を引き起こしていたのである。

 当時もちろん金属疲労というものは知られており、コメットもそれに対応した設計がなされていたわけだが、予圧による機体の収縮がそれを加速させ、機体の寿命を著しく縮める結果を生んでいるとは誰も想像しなかったのだ。

 以降飛行機の外壁の開口部はなるべく少なくすること、その開口部に角を作らないこと(コーナーから亀裂が発生する)万が一亀裂が発生しても致命的な長さに達する前に補強部分で止まるよう設計する、などという知識が得られた。

 3機のコメット号は航空機の安全に貴重な教訓を残した−というわけで、航空機事故についての本であればこれは必ず取り上げられる事故なのである。


 さて航空機事故の本といえば、このような構造上の問題と項をわけヒューマンエラーについても触れるのが常道だ、このヒューマンエラーというと必ず出てくるのが1972年マイアミで起こったイースター航空のトライスター墜落事故である。

 マイアミ空港に着陸しようとしたイースタン航空401便のパイロットは前車輪が降りたことを示すランプが点灯しないことに気付いた。
 本当に前輪が出ていないのか確認するため401便はゴー・アラウンド(着陸複航、滑走路を飛び越して着陸をやり直す)し、高度600メートルまで上昇した。

 機長はオートパイロットを作動させ確認作業に入った。
 結局はランプ切れであることが判明したのだが、機長、副操縦士、機関士がそれに気を取られているうちにいつのまにか高度が下がり、機は眼下のエバーグレイズ国立公園の湿地帯につっこんだのである。

 この「墜落事故」という本ではコックピットの3人がランプ切れに気を取られているうちに高度が下がり・・としか書かれていないが、柳田邦男の「航空事故」には詳しい顛末が書かれている。
 
 つまり機長はオートパイロットに移行したあと、機関士に床のハッチを開け点検するように命じている(床下の前輪作動機構を見るとちゃんと降りているかどうか確認することが出来る)ついで、副操縦士にランプのチェックを命じている。

 機関士が「暗くてよく見えない」と報告したので、乗り合わせていた整備士が一緒にハッチにもぐった。

 副操縦士はランプをはずし、それが切れていることを確認したが、それを元にもどそうとして失敗した。

 機長「君はそのランプの取り付けをやったことがないのかね?」
 副操縦士「まったく初めてなのですよ」
 機長「変な具合に差し込んだのだな」
 副操縦士「四角い形なのでピタッと合うと思ったのですが」

 などという会話がなされたあと、管制官により「左旋回、機首方位180度を取れ」というの指示があり。
 「401便、方位180度了解」と返答があったあと。
 副操縦士「高度がおかしいぞ」
 機長「どうなっているんだ」

 という会話の直後に墜落したのである。

 その後の調査によって、機長が機関士に点検を命じたあとオートパイロットが切れたことが判明した。その後緩やかに高度を落とし続けていたことが判明したのだが、ではなぜ切れたのか?

 実は、このオートパイロットは操縦桿を一定以上の力で操作すると自動で切れる仕組みになっていた、そして機長が機関士に指示を出すために後ろを向いた際、肘で操縦桿を押してオフになってしまったのであろうというのが調査委員会の結論だったのである。

 (なんでそんな仕組みなのかと思うだろうが、1994年4月中華航空機が名古屋空港で墜落した事故の原因はオートパイロットと機長の綱引きである。副操縦士のミスでゴー・アラウンドモードに入ったエアバスA-300は、着陸を続行しようとする機長に対し着陸を中止/上昇しようとするオートパイロットが抵抗、操作の奪い合いになって失速墜落したものである。機械が機長の操作を次々に無効にしていく様はコンピューター時代のホラーとしか言いようがないが、こうなるとどっちの設計思想が正しいとは言えなくなる)

 元にもどって401便だが、墜落を回避するチャンスが最後に1回だけあった、レーダーを見ていた管制官が401便の高度が落ちているのに気付き。

 「Eastern 401,how are things comin along out there?」
(イースタン401便、そっちはどうなっているのか?)

 と呼びかけていたのだ。

 しかしこれを着陸装置に対する質問だと思った機長は
 
 「Okay,we'd like to turn around and come, come back in」
 (大丈夫、我々は旋回して着陸コースに戻る)

 と答えてしまった。

 自分の注意している部分には相手も注意しているはずだというお互いの思いこみである。
 管制官が「高度が落ちているが、どうなっているのか?」と呼びかければ間違いは起こらなかったろうし、機長が「前輪なら大丈夫だ」と答えていれば事態は変わったかもしれない、しかしこれで401のチャンスは失われた。

 この事故によって。

 人は一つのことに注意を惹かれると他がおろそかになる
 人は自分にとってあきらかなことは他人にとってもそうであると思いこむ

という永遠不変の教訓が得られる、目新しいことではないがこれはヒューマンエラーの原点だろう、こういうミスはいつでも起こりうるがゆえにそれを回避するシステムというものが必要になってくるのだ。


 話が長くなったが、ボイスレコーダーに記録された会話までも再現されている柳田邦男の「航空事故」(副操縦士が入れそこなった着陸確認ランプの写真まで載っている)を読んでしまえば、このトライスター事故に関して「墜落事故」を読む意味がないのはおわかりいただけるだろう。

 他に取りあげられた事故についても同様ならば、この「墜落事故」を所有する意味はない。

 このたぐいの本はたいていぶ厚く高価なので、とりあえず買ってみるというのはリスクが大きい、立ち読みでチェックするにも内容豊富であるのは確かなので即断できるものではない、そういう意味でこれは「図書館でよかった」本の一種なのである。



 結論でいうと、この本はやはり大枚1800円を投じるほどの価値はないと思われる、多少他の本にない事例が載っているのだが、エポックメイキングな事件は当然取り上げ、更に他の事例が載っているというのはこれが薄く広くの入門書的書物であるという証左である。
 私はつっこんだ調査・研究本が読みたいのだ。



 ちなみにまだ感想を書いていないが「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたか」はその3流週刊誌的な安っぽさを感じるタイトルとは裏腹に、つっこんだ調査・研究本であり、図書館で借りて読んだあとで2300円を投じて購入した。

 (ビッグバン直後の宇宙を観測でき「これはNASAのタイムマシンである」と呼ばれていた「ハッブル宇宙望遠鏡」が軌道に乗った途端「実質的な科学観測はおこなえない」とまで言われるほど失敗したのは何故か。私は長いこと−17年だ−疑問に思っていたのだ。 それがこの本でやっと解明された−ワッシャ3枚の入れ間違いだった−この一事だけのためでも私はこの本を買ったろう)

 こうしたノンフィクションは一般の本屋にはまず置かれることはなく、書泉、ジュンク堂といった大型書店でもきわめて捜しにくい本である(ジャンル分けで専門書に回されるケースがあるからだ、ちなみに「最悪〜」は三省堂では工学関連の棚にあることになっていた、無かったけど)
 ちょっと怪しいタイトルゆえにミズテンで買う勇気はなかったし、これまた「図書館でよかった」本の一種である。



 


ホラー映画特集

リング 鈴木光司
リング中田秀夫
ザ・リング ゴア・ヴァービンスキー
仄暗い水の底から 鈴木光司
仄暗い水の底から 中田秀夫
ダークウォーター ウォルター・サレス
呪怨 呪怨2 清水 崇
サイレン 堤幸彦
 感染 落合正幸
ホステル イーライ・ロス
サイレントヒル コナミ
サイレントヒル クリストフ・ガンズ
サイレントヒル・アーケード
黒い家 貴志 祐介
黒い家 森田芳光


 この夏ホラーをまとめて鑑賞した、作品はオリコンのファン投票および他薦、自薦(前から気になっていた)で選んだ。

 ところで今や「Jホラー」流行りなのだという、日本はもちろん世界でも流行っているのだという、しかし日本はともかく海外で(ハリウッドという意味だろうが)というのはほんとなのことなのだろうか。
こういった話題は普通の時事ニュースには乗らない、つまりは言っているのは芸能ニュースであり、当事者である映画会社だけなのだ。

 そもそも何を不気味と思い何を怖いと思うかは人それぞれである。
 ある人にとって心底震え上がるようなものが、ある人にとって笑いをさそうものである可能性もある、それが感性というものだ。

 その感性を育てるのは文化と教育である、日本は世界にも希な単一民族であり単一文化の国であり「怖いもの」に関する共通の感性を持ちやすい。
(琉球民族、アイヌ族は、ヤマト民族と違うルーツを持っていたはずだがその差異はどんどんと埋まりつつある)

 物理的な驚異が急迫する、つまり暴走トラックがつっこんでくるとか、火事になった部屋に閉じこめられたなどというのは万人に(世界に)通用する恐怖だろうが、柳の下の足のない白装束の人は怖い、というのは教育(刷り込みというべきか)の結果である。
 つまるところ、柳・白装束・足がない、というのは一種の記号であり、意味と記号の変換テーブルを持たない文化には通用しないものなのだ。

 そしてJホラーというのは、日本人の感性に根ざした記号と象徴の映画なのでベタ移植で済むはずはない、逆にいえばどこが同じでどこが違っているかを見比べれば、彼らが何を怖いと思い、何を怖くないと思うかがわかるだろう。

 というわけで、今回はハリウッド版のあるホラー映画を特に選んで見てみた。
 原作付きの映画はかならず原作を読むというのが私の鑑賞ポリシーであることは以前にも述べたが、今回は特に「原作>映画化>リメイク」という流れにも注目してみた。

 
 さて、Jホラーの嚆矢「リング」である。

 ところで原作付き映画の場合、原作がそれなりに売れ、話題になったが故に映画化されるわけだが。その映画がヒットした場合には、それが原作の面白さをあますところなく表現したが故にヒットしたというケースの他、原作とはまるで違った部分がウケたという例も少なくない。

 さらに言うなら、小説と比べると映画は人口に膾炙する度合いがケタ違いに多いため、映画のカラーがその「作品」のイメージとして定着してしまうということが多い。

 具体的に言うと古くは「木枯らし紋次郎」である、これはなが〜い楊子をくわえた厭世的な渡世人が悪人をバッタバッタと斬る時代劇として知られているが、笹沢左保の原作は実はミステリーである。
 世間に関わりをもたずに生きていこうと思っている渡世人がいやおうなく巻き込まれた難事件を探偵役として解決していく話なのだ。その内容は本格推理と言ってよい。

 ところがTV化されたときの中村敦夫のニヒルな風貌、なが〜い楊子(原作ではあのように焼き鳥串のように長くない)「あっしには関わりがねぇこって」という決めゼリフ、芥川 隆行のナレーション、上條 恒彦の主題歌全てがピタリと決まって大ヒットし、映像的側面が定着してしまった。

 「木枯らし紋次郎」がTV化されるに至ったのは、その小説としての評価とヒットがまずあったはずで、それには当然良質なミステリーとしての側面が貢献していたはずなのだが、「作品」自体がTVのイメージで上書きされて、現在ではこの小説を推理小説と見なす人は少ない(ハードボイルド時代劇?と思われているのではないだろうか)


 ・・というような事は数かぎりなく起こっているのだが「リング」である。

 私は初めてリングを読んでかなりの衝撃を受けた、それがそれまでのホラー小説というものとは一線を画していたからだ、その中心となる要素は「論理性」である。

 ホラーというのは基本的にスーパーナチュラルなものであり、理屈もへったくれもない、というのがそれまでのホラーだったのだがこれは違っていた。

 これは凄い、と思ったのが主人公の友人高山である、論理学の講師である高山はそれが見た者を1週間で殺す呪いのビデオであることを承知の上で、主人公一家を助けるためそれを見るのである。

 「この俺様が1週間もかけて解けない謎なんてこの世にあるはずない」という自分の知性に対する自信が素晴らしい。

 そしてその自信のとおり、この男は理屈と行動で貞子の謎を解いていくのだ。
 呪われた登場人物がただひたすら怯え、逃げまどい、惨殺されていくという旧態依然としたホラーとくらべ、「呪いを追いつめていく」というこの小説のなんと新次元で痛快なことか、これは希にみる傑作だと私は思い、ヒットも当然だと思ったのだが・・

 映画では主人公は子持ちのバツイチ女性となり高山が元の夫であるという設定になっている、それゆえ高山の参戦は家族愛に裏打ちされたものとなり、呪いに対する知的興味と理性に対する傲慢なまでの自信というドライさが消えてしまった。

 私はこれをあえて情緒的なものに堕してしまったと言いたい。これは原作の唯一無二のユニークさを消す改悪である。

 そして原作の貞子、海の彼方から来た人外の存在かもしれぬという設定を消し、故に生まれるところを間違ってしまったため周囲に利用された悲劇の女性という側面を消し、井戸の中から奇怪なポーズではい出てくる化け物に変貌してしまっている、これではただのモンスター映画である。


 さてハリウッド版「ザ・リング」だ。これは映画のリメイクであり、人物設定ストーリー進行などは日本版リングにかなり忠実である。

 しかしわずかながらはっきりと違っている部分があり、それこそが先に言った感性の違い、つまりは文化の違いに根ざすものだろうと思う。

 ハリウッド版サマラ(貞子)もモンスターなのだが、原作や日本版で描写される超能力描写はない、もちろん人外の存在であるという描写などはない。

 彼女の特異性は先天的にそなわった「イメージ投影能力」なのである。これは映像を、人に馬にフィルムに板壁にビデオテープに「焼き付ける」能力だ(焼き付ける対象の質が違いすぎるというつっこみはナシ)

 サマラ当人にも制御できないその力のせいで母親は錯乱し、馬小屋に閉じこめられるや馬が集団自殺し、「なにが悪いことがあの家で起こっている」という噂(狭い島のコミュニティ)に追いつめられた両親は思いあまってサマラを殺してしまう。

 生前、持つ力とは裏腹に悪意というものを持たなかったサマラだが、死後は邪悪な存在へと変貌し、今もその能力を発揮している・・ということになっているのだ。

 これはきっぱりとしてわかりやすい説明であり、あれこれとしたほのめかしはあるものの結局貞子が何者であったかについて説明のない日本版とくらべると論理的である。
 思うのだが、人種・宗教が渾然一体となったアメリカ社会では、「なんとなくそんな感じ」では通じないことが多く結果として「理屈の通った怖さ」というものが必要になってくるのだろう。
 
 よくわからないけど怖い、というのがJホラーの神髄と考えればこれは本質的な改変と言ってよいのではないだろうか。



 以下は余談だが。

 リングという小説は斬新できわめてよく出来たホラー小説だと先に述べた。しかし一読した時にすでに2つの疑問が浮かだことも確かだ。
 
 まずその1、「念写ビデオ」というのは無理ではないか?
 念写がアリなら念写ビデオもアリだろうというのはナシである、フィルムを感光させるというのは化学的な変化であり、なにかしら映っていればよいというならそもそも「超」能力がなくても可能と思われる(電気ウナギなら可能かもしれない)つまり念写というのは想像力の先にはありうる代物だ。
 
 しかしビデオデッキで再生可能なビデオテープを作るというのはどうだろう、Y/C分離したビデオ信号を意思的に生成することは「能力」という言葉ではとうてい説明出来ない。
 また記録方式というものがある、テープがリニアに進んで行くオーディオテープなら何かしらの雑音を記録できる可能性はあるが、ビデオデッキは傾いた回転ヘッドがテープを斜めに(そしてテープの走行方向とは逆向きに)スキャンすることで相対的にテープ速度を稼いでいるのだ(これをヘリカルスキャンという)

 貞子であろうと、イメージ転写能力に特化したサマラであろうと、念じただけで(あるいは念じることもなく)これを行うのは不可能であろう。

 こんなことを言うとホラーなのに細かいことを言い過ぎると言われそうだが、ホラーであろうとなんであろうと作品内ルールというのは必要だ。

 サイコキネシス(念動力)を持つ超能力者が出てくるSF映画があってもいいが、その超能力者が手の届かない所に置いてあるカギを取れずに牢屋に閉じこめられている、というシークエンスを作ったらおかしなものである、それをクライマックスにおけば映画が壊れてしまうだろう。

 リングにおいては「そのビデオを見た者は7日後に必ず死ぬ、ただしその者がビデオをコピーし第三者に見せた場合は死からまぬがれる」という微妙なルールの上に成り立っているのだ。
 その呪いはTVのスイッチを入れビデオをデッキに入れて再生ボタンを押すことでしか効力を発揮しないし、コピーは2つのビデオを連結しオリジナルを再生、もう片方を録画にすることでしか成立しない。

 呪う側からすれば、そんなシバリは無いに越したことはない。手をも触れずして映像が再生されるなどハイパーナチュラルに呪いが伝染していってもいいわけだ。
 そうではなく、あくまでも電子機器のルールにのっとってそれが再生、コピーされるというならそれはやはりビデオテープであるということだ。

 しかしそんなテープを電子機器の介在抜きに制作するのは不可能である。
  
 その2

 「この呪いのビデオは増殖し世界を覆い尽くすのだ」という暗澹たるイメージをもたせて小説は終わるのだが、そんなことはありえない。

 なぜなら呪いをパスした人は死なないで済むのだから、死ぬ可能性があるのはパスを受けながらパス先が見つからない(あるいはそのルールに気付かない)呪いの最先端にいる人だけだ。
 パスしつづければ死人は出ないし、誰かがパスしないで死ねば呪いのリンクはそこで終わる。

 ビデオは残るのでいずれ誰かが再開する可能性はあるが、そこで死ぬ可能性があるのはやはり先端の一人ある。
 細々と人が死に続ける可能性があるが「増殖」だの「世界の終わり」だのにつながることはない。

 作品の冒頭のように多人数がいっぺんに見て、一気にルートが複数になる場合もあるだろうが、ある程度以上の死人が出れば今度は「呪いのビデオを見ると死ぬ」という噂が真実見を帯び、以後は誰も「他人から渡された出所不明なビデオ」は見ないという態度を取るようになるだろう、そうなれば感染は一気に終熄する。

 つまるところ貞子ビデオは伝染病で言うところの「攻撃力が強すぎる」ウイルスなのだ。エボラ出血熱がその伝染性や致死性の高さの割に拡散しないのは、あっというまに宿主を殺してしまうからだ、致死率100%潜伏期間1週間の呪いは拡散する前に終熄してしまうだろう。

  
余談終了

 というところで「仄暗い水の底から」に移る。

 これまた原作鈴木光司、映画化、映画ベースのハリウッド版リメイクとなっている。
 わざわざ「映画ベースのハリウッド版」と断るのは元の映画が原作とまるで違うものだからだ。

 この映画の原作は「仄暗い水の底から」というタイトルを冠した連作短編集の中の「浮遊する水」である。
 この短編は映画のストーリーと骨子の部分では共通する部分があるものの、もっとずっとシンプルであっさりしたお話だ。

 ある意味読者の想像どおりに話が進むのだが、そのスピードが読者の想像を超えて早いのだ、ヘタなひっぱりは一切なく
 『ほう?なるほど?・・っえ!もうオチつけちゃうの??』という具合だ、その気になれば中編くらいにならないでもなかったネタをそぎ落とした潔さはちょっと好感が持てる。
 今回は話を映画に絞るためこの小説にはこれ以上は触れないが、映画にネタを供給しただけの映画と直接関係のないお話であるとだけ覚えておいていただきたい。

 さてこの小ネタをふくらませて劇映画一本に仕上げたのが「仄暗い水の底から」である。
 シナリオがよくけっこう出来の良いホラー映画に仕上がっている。

 その映画をリメイクしたのが「ダークウォーター」で人物配置から、舞台、台詞、シーンのつながりまでかなり忠実なリメイクになっている。
 とはいえ違っている部分はもちろんあり、そこが双方の感性の違いとなるのだろう。
 
 リングはストーリー展開や舞台が日本版とハリウッド版ではかなり違っていて、抽象的な部分でしか比較出来なかったのだが、この映画はカメラワークまで似せている部分があり、その違いを映像表現にまで踏み込んで検討できるわけだ。

 そこでわかったことは「見えそうで見えない、それとなくわからせる」といった部分がハリウッド版にはないことだ。

 映画の中盤、天井の水漏れに悩んだ主人公がマンションの上の部屋へ訪ねていく、しかし住人は不在でありやむなく引き返し、エレベーターに乗る。
 エレベーターのドアが閉まり下降を始めた瞬間、当の部屋のドアがわずかに開き小さな女の子の影のごときものがチラッと見える。
 これは最初のショックシーンであり、見せ場なのだがハリウッド版からは完全に削除されている。

 フォーカスもあっていなければ照明もちゃんと当たっていない、うすらぼんやりとした影は我々日本人が見ればオバケ・幽霊・怨霊と言ったものの象徴であり、一発でヤバイ!と感じるものなのだが、これは柳の下の足のない人物と同じく記号なのだろう。

 映画終盤にも似たようなシーンがある、人物の背後のフォーカスのあってない場所に人物らしき影が立っているカットがあるのだがこれもハリウッド版にはない。

 そしてラスト。主人公は溺死した女の子と共に姿を消してしまう、まあ「あっちの世界へ行ってしまった」わけだ。
 これは端的に言えば「死んだ」ということなのだろうが日本版ではそうとは言わず、なにが起こったのかわからないという描写になっている。
 日本には「幽明界を異にする(ゆうめいさかいをことにする)」という言い回しが存在するがまさしくそういうことだろう「死んだ」のではなく「違う世界へ行った」ということだ。

 これがハリウッド版では彼女の死に顔をアップで写し、さらに緊急車両の無線通信に「遺体は30才台の白人女性」と言わせている。
 そこに至る映像表現はほとんど同じなのだが、日本版では「なんとなくそんな感じ」で終わっている部分がハリウッド版では
 「死に顔まで見せたので何が起こったかわかんないということはないでしょうが、あらためて言います<彼女は死にました>」
 という念押しまでしているのだ。

 ストーリーもその展開も人物配置もきわめてよく似せていた映画なのだが、最後がこう違っていてはまるでティストが変わってしまう。

 また日本版では、かつて女の子が死んだ原因についてもその後の処理についても誰が悪い、とは明確にせず、ただただ運命のなせるわざといった雰囲気で終始しているのに対し。ハリウッド版では「給水塔のフタのカギを閉め忘れた管理人が罪に問われる、女の子を放置した両親も逮捕されるべきだ」と弁護士に言わせ責任の所在を明確にして終わっている。

 誰が悪いとかいう話じゃないんですけど〜、と思うのは日本人だけでヤンキーはそこがあきらかにならないと話が終わらないのだろう。

 しかしこれでは別な映画である。
 最初に戻って言うが、Jホラーが海外で人気というのはホントのことなのだろうか?



 *ここで余談*

 ハリウッド版リング、ダークウォーター共にラストでパトカーと救急車が登場する。
 パトカーと救急車、回る回転灯、こわもての警官が無線で本部と通信している様を背景に救急車にへたりこんだ主人公、というシーンがラストに来るハリウッド映画のなんと多いことか。

 ごく最近ではダイハード4.0がそうだったし、そう思って見ているとUSJのアトラクション「スパイダーマン」でも最後にパトカーが映っているのだった。

 つまりヤンキーはパトカーと救急車が到着することをもって「事件が終わった」と認識するのだろう。
 
 日本人は警察が登場したところで安心なんかしないし、ましてや事件が(映画が)終わった感など感じることはない。むしろ映画に警察が登場すると「おいおい大丈夫か?」と思うくらいだ。
 これは金田一耕助や名探偵コナン等が「警察=おマヌケ」というイメージを広めているせいでもあるだろうし、社会的な実感として「警察=あてにならない」と思っているからに他ならない。

 一方ヤンキーは回転灯を見て「これで事件はすべて明るみに出て、事態は当局の手に移ったので安心」という落としどころを受け入れ、気分よく家路につくのだろう、これはこれで記号の文化である。


呪怨・呪怨2

 これぞ典型的なJホラーである、祟りのある場所(佐伯伽椰子の家)に近づいた者は全てなんのつじつまも脈絡もなく、ただただ惨殺されるのだ。
 伽椰子はスーパーナチュラルにして無敵の存在であり対抗するすべはない。映画のみどころは誰がいつどんな風に惨殺されるかという一点に絞られる。
 
 そういう意味ではファイナルデッドコースターシリーズによくにている、もっともデッドコースターではサタンは姿を見せないが、伽椰子は姿を見せて被害者を追いつめる、基本的には佐伯家の天井裏に住んでいる(?)筈なのだが、その気になればどんな離れた場所にでも現れることが可能で、まさしく神出鬼没(なんでもアリ)である。

 これは怖い物見たさという一点に焦点を絞った映画であり高級な映画ではない。しかしこれも映画であり、Jホラーのルーツはそもそも「怪談」であり怪談ってえのは基本こんな感じなものである。

 (理屈という筋が通ってないだけになんでもアリだが、なんでもアリをいいことに好き勝手やっていれば「そんなバカな」という映画になりかねない。
 「着信アリ」がそんな感じで、最初は「携帯に未来の自分からの着信がある、電話に出ると自分が死ぬ直前の声が聞こえてくる、その声を聞いてしまうと云々・・」という設定があるのだがそのうちどうでもよくなってしまい映画が壊れていく『死ぬなら電話に出なきゃいいじゃん』『いや携帯持ってなければそれでよくね?』という当然出てくる対抗策に対して有効なアイデアを思いつけなかったせいである)

 確たる筋もないままに多くのシリーズを制作しそれなりのヒットを築いてきた監督以下制作陣の苦労は並でなかったと思うが、いったいいつまで続けるのか。

 サイレン
 感染


 サイレンは同名のゲームがあり「ついに映画化!」というキャッチコピーもあったようだがまるで別ものである。
 ゲームはホラー仕立てのアドベンチャーゲームだが、映画はサイコサスペンスだ。
 自分で謎を解いて進めるというのが面白さの本質であるアドベンチャーゲームは見ていれば先に進んで行ってしまう映画には移植不可能というべきだろう。

 バイオハザードを映画化すればゾンビ映画になってしまい、DOOMを映画化すればエイリアンになるのと同じである。
 
 どうせ同じものにならないなら違う方向性で勝負というのは正しいがここまで変えてしまうなら「サイレン」を名乗る意味があるのだろうか?
 サイレンをやり込むほどのコアなゲーマーがどれだけ映画館に足を運ぶのか疑問だし、ゲーム原作というだけで一般客の足は遠のく、このシナリオなら「普通に」ホラー映画として売ったほうがよかったのではないだろうかと思う、映画そのものはけっこう面白くできているのだし。

 感染

 この映画は経営難におちいった中堅病院の一晩の出来事を描いた映画なのだが、なぜこれをサイレンと並べたかと言えば、映画のテーマが似ているからである。
 冒頭精神科医がリンゴを手に取り「リンゴが太陽の下でも、暗い部屋の電灯の下でも同じ赤に見えるのは変じゃない?」と言うシーンがある、それは「我々が見ていると思っているものの多くは脳が作ったものだから」ということなのだが、それがこの映画のテーマでありサイレンのテーマでもある。

 双方ともにこれをうまく咀嚼して面白い(怖い)映画に仕上がっている、ネタをばらすとまったく見る価値がなくなってしまうのでこれ以上の解説は避けるがヒマがあったら見て損はない(かもしれない)


ホステル

 変化球が投げ尽くされたホラー映画の現状で今さらこんなど真ん中の直球が来るとは思わなかったし、それが通用するとは思わなかったが、意表を突かれて面白く見てしまった。
 あまりに直球なので解説することも難しいのだが、スプラッター好きなら一見の価値はあるかもしれない。ただし映画が動き出すのが激しく遅い、映画として壊れていると思うほど遅いので前半は肩の力を抜いて見ること(今か今かと見ていると腹が立つこと間違いなし)
 ちなみに映画の後半に出てくる怪しい東洋人は今をときめく三池・スキヤキウエスタン・崇史監督です、映画が動くのはここから。

サイレントヒル コナミ
サイレントヒル クリストフ・ガンズ
サイレントヒル アーケード


 サイレントヒルはまずは「プレイステーション(1)」のホラーゲームとして生まれた。
 これはバイオハザードに似たゾンビ系アドベンチャーゲームなのだが、その世界観の構築が見事である。
 冒頭に霧に包まれた街の白一色のシンとした怖さがあり、一転して血と錆にまみれた裏世界に突入する。
 この裏世界は現実の街と同じ作りなのだが、床が全て「さびた金網」なのだ、学校や病院の廊下といった室内はおろか、街路でさえもこの世界の床はすべて金網で出来ているのだ。
 金網であるからにはその下には空間が存在し、その下に奇妙な機械が見え隠れする。
 そして主人公は(プレイヤーは)常に空中に居るという足下の不安さを感じ続けることになる。
 この「この世のものでありながらこの世のものではない」不気味なビジュアルイメージは秀逸でこの世界をあてどなくさまようだけでもこのゲームをやってみる価値があるだろう。

 映画はこの金網こそないものの「この世界に似ていながら、確実に何かが違ってしまっている世界(異世界)」をうまく表現していて良くできていると思うのだが、実のところゲームにずっぽりとはまってしまった経験のある私には「ここはゲームのイメージそっくりだ、おお、ここはこうきたか!、これはちょっと違うねえ」という目でしか映画を見ておらず映画としての完成度がどうなのか、また映画のみ見た人間がこれをどう思うのかまるで判断がつかない。
 ゆえにお勧めリストには入れられない。

、プレステ(1or2)をお持ちの方はゲームをやってみる価値はあるだろう。

  コナミはこれをアーケードのシューティングゲームにしているが。これはただのゾンビ打ちゲームでしかない。
 これらのゲームはゲームエンジン(ゲームのメインプログラム)がガラリと変わらない限りは敵のグラフィックや背景が変わるだけで、似たようなプレイ感覚になるだけなのだ。
 いちおう最後までやろうと思ってe-AMUSEMENT PASS(ゲームを途中で辞めてもそれまでの結果を保存しておけるICカード)を入手しすこしづつ進めている最中である。
  クリアに至る前に感想を言うのもアレなのだが、今のところはセガのハウスオブデッドシリーズに似た(ちょっと落ちる)シューティングとしか思えない。
  まあ、ゲーム/映画に登場した印象的なキャラクター(三角頭とか奇形ナースとか)が出てくるのは楽しいのだが。


黒い家

 ある小説家にとってその最高傑作はじつはその処女作であった、というのはよくある話である。 アイザック・アシモフは大学生の頃に書いた処女SF「夜来たる」が最高傑作だと言うファンは多い。

 泡坂妻夫は「11枚のトランプ」を越える物を書いていないと私は思うし、『日常ミステリー』という新ジャンルを推理小説界に持ち込んだ北村薫はその処女作であり日常ミステリー第一作である「空飛ぶ馬」が最高傑作だと思う。
 そういうことが何故起こるかと言えばそれは一つには「長年あたためてきた虎の子のネタである」ということがあるだろう。

 そして処女作が傑作になりやすいもう一つの理由がある。それは専門性だ。
 長く職業人として社会に関わってきた人はその業界特有のネタ話を他からは想像も出来ないほど多く深く承知している。
 ある人が作家としてデビューしようとする時、自分のもっとも得意な分野で勝負しようとするのは当然であり、その小説の業界内幕ものとしての側面が面白くなることが多いのだ。

 「黒い家」は貴志祐介にとっての2作目ではあるが、この法則がかなり当てはまっているのではないかと思う、つまり保険業界にいるうちに見聞きした業界裏話と長年あたためてきたネタ、という2本柱である。

 なにが言いたいのかというと、つまりはこの小説が傑作だということだ。
 ファンタジーやスーパーナチュラルな要素が一切ないホラー小説というのはめったに無く、傑作というに足る小説は今他に思い至らない。

 ホラー・サスペンス小説が好きな小説読みには是非にお勧めしたい小説であると言ってよいのだがさて映画である。

 それほどに面白い原作を元にしているのでかろうじてつまんなくはない出来に仕上がっているのだがこれは壮大な無駄である。
 それは三つ星レストランあるいは一流料亭に卸すような極上のネタを「まずくはない、ファミレスでこれが出れば旨いと言うかも」と言うレベルにまで引き下げてしまったようなものである。

 そもそもこの小説の真の怖さは、見た目では無害そうな初老の婦人が稀代の殺人鬼であるところにあるのだ。
 ラストシーン、主人公が深夜の保険会社社屋でこの婦人と対決するというシュチュエーションになった時、読者は「この殺人鬼と同じビルに居るなんて自分は絶対耐えられない!」という恐怖に襲われるだろう。

 現実には相手は年のいった小柄な婦人であり、主人公は壮年の男性なのだが「顔を合わせたら絶対に殺られてしまう」という主人公の(読者の)確信はゆるぎもない。
 それはライオンを相手にした時のシマウマの心境のようなものだ、最初人畜無害に見えた相手をこれほどまでに恐怖させる貴志祐介の筆力は並ではない。

 これを映画では大竹しのぶがエネルギッシュに演じている(暇があればボーリングに興じているという様が何度も描かれており、体力もあれば運動神経も良いのだと念押ししている)対して主人公はさえない中年男であり、最初から「普通に勝てない」感がただよっている。
 原作の「怖いのは人の精神であって見た目ではない」という主張を完全に無効にしているのだ。何がしたくてこの原作を映画化したのかわけがわからない。

 ついでに言えば、随所に「印象的な画面」が登場する、監督が「オレのスタイリッシュな映像表現を見よ」と看板を持って立っているのがまるわかりである。
 見ている途中で思い出したのだが「模倣犯」でも似たようなことをやっていた。あれもシナリオ的には極上の神戸牛をミンチにするがごとき映像化であり、意味不明なスタイリッシュ映像のオンパレードだった。

 う〜む・・この映画を見て面白いと思った人も多いだろう、そういう方は是非に原作を読んでいただきたい。


 

ウォッチメイカー ジェフリー・ディーヴァー



 リンカーン・ライムシリーズの第7作目である。

 どんでん返しに次ぐどんでん返しがウリと化したこのシリーズ、こんどは何回ひっくり返るのかな?と思って読み始めたところが大きく2回のみ。

 意外とおとなしいとはいえこれが例によって「どんでん返しのためのどんでん返し」であり、頁をめくっている最中は面白く読み進めてしまうものの、読後振り返ってみると納得できないことも多い。

 こういう小説であるが故に内容について触れるわけにはいかないので、たとえ話をしてみると。

 『犯人は銀行の大金庫に侵入し多額の現金を盗んで行く、警察は当然これを窃盗として捜査を始めるが、実は犯人の目的は金ではなく現金輸送に使われるトランクであった、これを利用して銀行員を装い他の建物に侵入して爆弾を仕掛けるのが目的なのだ』

 といった感じなのがジェフリー・ディーヴァーお得意のネタなのである。
 読んでいるとほほう!と思ってしまうが、よ〜く考えてみると銀行の大金庫に侵入できるほどの腕があるなら、最初から目的の建物に侵入できるのではないか? あるいは金が目的なら銀行に侵入できたところで目的達成ではないか?と思えるあたりがウイークポイントである。

 またこんなネタも多い。

 『警察の留置場になにかしらの工作をするため、わざと犯罪の嫌疑をかけられるような工夫をして逮捕される。捜査が進むと冤罪であることがわかるようになっており無事釈放される』

 これは、逮捕した担当刑事が適度に凡庸であることが作戦の要になっている、冤罪であることが見抜けないほどに腕の悪い(あるいはやる気のない)刑事が相手なら警察から出てこれないし、敏腕刑事に当たってその嫌疑が人為的に作られたものであることを見抜かれ、その目的まで探りだされたらアウトである。
 状況のコントロールを相手に譲り渡すようなマネを知的犯罪者がやるとは思えないのだ。

 つまり、大ネタではあるがスキがありすぎるミステリー、それがジェフリー・ディーヴァーなのである。
 
 誤解を招かないように言っておくと、スキがあるということと、ダメな小説であるかどうかは別問題であり、それが好きかどうかはまた別な問題である。

 そしてここが肝心なところだが、私がそんなミステリーが大好きなのだ。

 (「豪腕」と異名を取る島田荘司の御手洗シリーズが私の愛読書である理由もそこにある。社会の歪みを鋭く突いたり、警察組織の日常をリアルに描いたり、人情の機微をこまやかに書き分けたりするミステリーなんかより「幻想的なまでの謎」が好きなのだ)

 とはいえ、この小説がかなりの偏りがあるのは事実である。
 それが 「このミステリーがすごい!」(宝島社)2008年版ベスト20中第1位・2007週刊文春ミステリベスト10中第1位、なのはどういうことか?

  翻訳ミステリーについては全然目くばりしてないのだが、不作なのかしらね?

 




プレステージ クリストファー・ノーラン 監督

奇術師 クリストファー・プリースト 原作



 最近の映画は邦画、洋画ともどもほとんどが続編か原作付きだ、そのどちらでもない映画を見つけるのは難しいほどである。

 しかし、名前だけいただいてきてその内容は原作とはまったく無関係という映画も多い(ボーンアイデンティなどはその一例だ)
 また「ないがしろにした」というほどに原作を改編せずとも、原作の良さを生かし切れていない映画は多い。
 映画好きである以前に本好きである私などは、結局その映画が原作の面白さをどこまで出せたか?という目で映画を見てしまうのだが、この映画は違った。

 おどろくべきことに、めったにないことに、原作よりよほど面白いのである。


 原作の「奇術師」は現代から過去、過去から現代と話が複雑に交錯する技巧的な小説であり、ミステリあるいは心理サスペンスという体裁でお話が進行していく。
 何も知らないで読み始めた私は、そのようなものとして読み進めていたものだから、最後になって「これはファンタジーでした」というオチで終わってびっくり仰天、きわめて釈然としない読後感を抱いてしまった。

 作者がそういう指向の人間であると知らないで読んだ私が悪いのかもしれないが、作品にはそれぞれ「語り口」というものがあるわけで、途中でハンドルを切るのは反則だと私は思う。


 さて映画であるが、ばっさりと現代編をカットし2人の才能ある奇術師の確執にのみ焦点を当てたサスペンスフルな映画である。

 原作の技巧的な語り口も取り入れ、ミステリー的な要素もぬかりなく、しかもシナリオの妙で原作にあった肩すかし感がない。つまりはきわめて上質な映画であると言えるだろう。

 実際これは2007年度の私的映画ランキング1位と言って間違いのない作品である。
 劇場ではいま一つ当たらなかったようだが、クチコミはよかったと見え、ツタヤには数多くのレンタルDVDが並んでいる、強くお勧めする。

 ところで劇中重要な役でニコラ・テスラが登場する。交流発電機やラジオ、蛍光灯を発明した天才科学者でありながら、地震兵器の開発まで手がけるというマッドな一面もあり、その奇矯さの故にか、いまひとつ評価されていない人物だ。

 これを演じた役者がどうにもすばらしい、堂々たる紳士であり、知性あふれる研究者でありながら同じ世界の人間ではない感じ、どこか違うなにかを見ている(見えてしまっている)男、簡単に言えば「紙一重」を踏み越えてしまった感じがにじみ出ているのだ。

 みたことないがこれは誰だ!と思っていたのだが、タイトルロールを見て納得、なんとそれはデビット・ボウイだったのだ。
 すっかりおっさん顔になって往年のとんがった感じは失せてしまっているが、どこか違う星から来たようなオーラは健在である、さすがに「地球に落ちてきた男」だけのことはある、映画自体充分に面白いが、このデビット・ボウイを見るだけでも価値はあるだろう。

 




ボーン・アイデンティティー ダグ・リーマン 監督
暗殺者 ロバート・ラドラム 原作



 すでに持っている本であることを忘れて同じ本を2冊買ってしまうという笑い話は良く聞く、まあ読み始めてすぐ気がつくのが普通なのだが、上下2巻の下巻まで気付かず読んでしまうというのも珍しいのではないだろうか。
 基本的に私はけっこうお話を覚えているほうなのであるし・・

 というわけで「暗殺者」である、「ボーンアイディンティティ」が評判いいと聞いて、原作を読み始めたはいいが、なんと半分過ぎるまで一度読んだ小説であることに気付かなかった。
 地味なエスピオナージなせいもあるが、読んだのが20年前だからである。
 なんでこんな昔の小説をひっぱりだしてまで「原作付き」にせねばならないのだろうか?

 どんなものでも原作付きでなければ企画が通らないという現在日本で起こっている映画製作事情と同じことがハリウッドでも起こっているということなのだろう。

 ともあれ制作者達が原作の良さを生かそうとか、原作の面白さに近づこうとかまるで思っていないのはあきらかである。
 この2つはまるで違うお話なのだ。

 原作をないがしろにしたあげくつまらなくなった映画に「これはまるで違う」と言うことはたまに(よく)ある。「ボーンコレクター」などはまさにそうだ、しかしこれはそういった修辞ではなくまさしく違うお話である。

 似ているのは主人公が記憶を失ったエージェントであるというだけだ。

 原作の主人公は化けようによっては中年の紳士になれるほどの年齢であり(もともと妻子があり)内省的であり、自分の記憶を取り戻そうとあがく反面、自分の暴力に対する反応や、犯罪に関するスキルの高さ、そして集まってくる証拠から自分が職業的暗殺者ではないのかと悩む潔癖さを持つ。
 この小説は、記憶を取り戻そうとしつつもその結果を恐れる男の葛藤のお話なのだ。

 対してマット・デイモン演ずる映画の主人公は内省とは無縁だ、彼は基本的には降りかかる火の粉を振り払っているだけで、自分の技量に対する疑問はあっても不安があるわけではない。

 この映画は大学生と言っても通りそうな坊っちゃん坊っちゃんした若者が、ひとたび危地に陥るや超人的な戦闘能力を発揮し、自分でもわからぬままに敵をバッタバッタとなぎ倒すというアクション映画である。
 ちょっと頼りなさげな男が実はスーパーマンであるというのは娯楽の王道とも言えるドラマだろう。

 つまるところ小説はエスピオナージであり、映画はアクションなのだ。最初から方向が120度くらい違っている「史上最大の作戦」と「プライベートライアンが」違うお話であるのと同様にこれらは違うお話なのだ。

 さて、原作と違うからと言ってそれがつまらないとは限らないのはプレステージで言ったとおり、めったにないことなのではあるが映画が原作より面白い場合もあるし、原作とは違った意味で面白いという場合もある。
(というか、そもそもこの原作がとっても面白いというわけではないのだ。なにしろ半分読んでも気付かないくらいで地味なお話なのだし)


 この映画は面白いのかそうではないのか?肝心なのはそこだ。

 結論を言おう、この映画はそれほど面白いわけではない。

 マット・デイモンがやんちゃをするところだけが見せ場の、そこそこのアクション映画でしかない。
 3部作が作られるほどの出来かなぁと頭をひねりたくなるのが本当のところだ。ご都合主義が散見されるしシナリオがそれほど練り込まれているようにも思えない。

 しまりのない結論だが、原作、映画ともども凡作でありお勧めできるものではないと言うしかないだろう