SCRIPT SHEET  2008 

映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
新世界より
女王国の城
ロケットガール 1~4
 女子高生、リフトオフ
 天使は結果オーライ
 私と月までつきあって
 魔法使いとランデブー
ロケットガール1~6
魔界の塔
クローバーフィールド
ポアンカレ予想
地球最後の男オメガマン
アイアムレジェント
地球最後の男
10 ミスト
11
12 ミストの補遺
13 中国動漫新人類
14 疑似科学入門
15 月探査衛星「かぐや」が見た世界
16 スウィニートッド
17 インディジョーンズ/クリスタルスカルの王国
18 ビューティ・ジャンキー
19 刈りたての干し草の香り
20 スカイ・クロラ
21 エヴァンゲリヲン新劇場版:序
22 ハプニング
23 スカイ・クロラ
24 崖の上のポニョ
25
26 名作マンガの間取り
27 絶対帰還。
28 地球の静止する日
地球が静止する日

 




新世界より 貴志祐介

 1800枚、見た目コロコロコミックのような大作である。
 上下2巻で4000円というのはちょっと掛け金がでかすぎるので図書館に買っていただきました(゜▽゜)

 というのも今ひとつ貴志祐介は危ういからなのだ。
 デビュー作『十三番目の人格(ペルソナ)-ISOLA』はクリーンヒット、
 続く『黒い家』は大ホームランと快調なデビューを飾っておきながら
 『天使の囀り』はボテボテのゴロ
 『クリムゾンの迷宮』に至っては「自分のフォームをまるで見失ってますね」というカラ振り
 『青の炎』でかろうじてヒットで出たものの
 『硝子のハンマー』はまたゴロ、という安定感のなさが怖い、4000円賭けるのはちょっとためらうわけだ。

 とはいえ、やけに豪華な装丁、書店では平積みor面陳(ワゴンに積まれているのが平積み、書棚でも背表紙ではなく表紙が見えるように陳列されているのが面陳)これ出版業界では期待の新作なのね。


 ということでリスクなく読み始めました。
 冒頭、どうやら核戦争でもあった後らしい近未来の日本、水車を動力にして生活する牧歌的な田舎の暮らしが描かれます。村は理想的な共同体として機能し、子供は大事に育てられ、貧困とも争いとも無縁な暮らし。
 しかし、村の周囲には結界が貼られ、その外には魑魅魍魎が跋扈する危険地帯なので子供はけっして外に出てはならないとされている・・

 と来たところで私は「おいおいおい!」と思わざるを得ないわけです、つうかシャマランの『ビレッジ』を見た人間なら誰でも「おいおいおい」と思うでしょう、今さらこれかい?!と。

 象牙の塔にこもって純文学を追求する文豪ならまだしも、ホラー・サスペンスを得意とする作家で自作の2本までが映画化されているエンターティメント指向の作家がシャマラン知りませんでしたでは通りません。

 「まさか同じネタで勝負するんじゃないだろうな」という不安はぬぐえないわけで、結果として話は逸れていき、やっぱり恩田陸とは違う(!)と安堵したのはよかったのですが冒頭の1割くらいは余計な不安を抱かざるを得ませんでした(1割といってもなにせ全1800枚、ヘタな中編どころではないボリュームです)
 産業革命以前の生活・共同体・牧歌的・大事にされる子供・理想郷・結界、とキーワードを揃えて読者に余計な想像をさせるのはなぜなんでしょうか。

 さてこの地上の天国にも見える理想郷が実は管理された抑圧社会だったってのは容易に想像される展開で、作者もそれは承知で書いているわけで私もここで書いてしまいますが似たようなお話は過去にも多くあるわけです。

 ぱっと思いつくのは映画では「2300年未来への旅」
 近未来、人類はみなドーム都市に住んでおりドームは清潔でキチンと管理された理想社会で(たしかフリーセックスで)30才になると荘厳な儀式の末、皆に祝福されて新たな世界へ旅立っていくというお話。
 これはもちろん騙しなのであって、この世界は実は核戦争で大気が汚染されており人類はドーム以外では生きるすべがない。ドームに住める人間には限りがあるので人口調節をしなければならず、そのためうまいこと騙して30才以上の人間を安楽死させているだけなのだ。

 このカラクリに気付いた主人公ローガン君はこの世界から脱出するのだが(というわけで原題は「LOGAN'S RUN」ローガンの脱出)出てみてびっくり、外はもうすっかり汚染が消えて人が住めるようになっていたのだった、というのがオチ(この設定を逆手に取ったのが「アイランド」なのは言うまでもない)

 似た感じの話としては『赤ちゃんよ永遠に』とか『ソイレントグリーン』というのもある。
 前者は、食料難で人口調節をせざるを得なくなった近未来が舞台、出産禁止令が出されており、子供が欲しいという本能を満足させるために若い夫婦には赤ちゃんロボットが提供されているという暗黒社会のお話だ。

 『ソイレントグリーン』も同様で、こちらはご老人を安楽死させてソイレントグリーンという食料に変え配給しているというお話。

 抑圧社会であるという事実を最初から隠すつもりもないお話であれば『未来世紀ブラジル』『ブレードランナー』『THX-1138』など枚挙にいとまがない。

 なぜ抑圧社会の話をしているかと言えば、こういった不愉快なお話というのは最後に主人公がその社会を破壊するか脱出するかしてカタルシスを観客に与えるためにあるということが言いたいからだ。

 ローガン君とその一同は人工的な社会からはじめて雄大な大自然を目の当たりにして感動しているが、今まで長いことおんぶにだっこで生きてきた人間がいきなり荒野に放り出されて生きていけるのだろうか?(生活感のないローガン君に農耕や狩猟ができるとはとうてい思えない)

 赤ちゃんよ永遠にの(規制に逆らって子供を作った)夫婦はボートに乗り、デッカードはエアカーで、THX-1138君(名前です)は走って、「外の世界」に脱出するのだが、その先はどうなる?

 フツーに考えたら以前にも増して厳しい環境が待ち受けているわけだが、そこは「彼らの前には新たな世界が開けている、そこにどのような試練が待ち受けていようと彼らは力をあわせそれを乗り越えていくに違いない」と言って終わりにするのが物語というものだ。

 つまるところこの世の中で何より大事なものは人間の尊厳であり、どのような試練が待っていようと抑圧され、管理され、自由を奪われて生きていくよりはマシなのだ。というメッセージをこれらの映画は発している、それはあらためて言うまでもない現代人の絶対の価値観だ。


 さてでは「新世界より」だ、この作品ここに最大の弱点がある。

 1800枚にも渡り、悪夢の中を手探りでさまようような暗黒社会を描きながら、タメにタメながら最後に大爆発しないのだ。
 これは大問題である。

 先に述べた暗黒社会にはそうならざるを得ない理由がある、個人の自由より大事なことは多くの人が生存することだという主張にも一面の正義は存在する。
 新世界よりの村が抑圧社会、管理社会である(ついで言えば差別社会でもある)のにも理由があるわけだが、じゃあ仕方ないね、で終わったのではお話として成立しないのだ。
 非人道的にして差別的な社会制度にそれなりの理由があったとしても、そこは破壊し革新し、あるいはそのような社会に背を向けて主人公たちはあらたな秩序を求める旅に出なくちゃいけないところだが、結論は「仕方ないね」なのだ。

 自分たちがその制度の下でさんざん悩み苦しんだあげく得た結論は現状維持なのだ、それでは「物語」ではない!

 たしかに、自分たちの社会の基盤が危ういものだという自覚なく生きてきた先代より、この社会はヤバイという自覚ある主人公世代のほうが少しマシかもしれない、しかし未来に対する展望も、希望も示さず「自覚してるだけマシ」でこの超大作を終わらせていいものではない筈だ。

 リーダビリティはあるものの爽快感のないお話をじっと我慢で読み進めてきた私はおおいに不満をいだいてこの小説を読了した。


* * * * * * * * * * * * * * * *


 貴志祐介は今まで現実に根ざしたお話を書いてきた。
 リアルな保険業界の内幕とそこにひそむ人の心の闇。
 あるいはセキュリティ業界の内幕とそのセキュリティの抜け穴を突く犯罪者のお話などがそうだ。
 (足が地についていない「クリムゾンの迷宮」はアマチュア作家がゲームを二次創作したかのようなダメダメさである)

 キチンと取材して真面目に書きはするものの壮大な絵空事は書けない、そういう資質の作家なのねと私は思っていたのだった。
 しかしこれは違った、これは現実に根ざすところなどほとんど無い、壮大なファンタジーである、舞台、文化、社会、生態すべてが想像力の産物なのだ、これは力技である、そしてかなりうまくいっている、こんなお話が書ける人だとは思わなかった。

 まあ、自分の作り出した社会を根底から破壊してみせるという発想に至らなかったあたりが貴志祐介らしいと言えるのだが、架空の世界を主人公たちと共にさまよい歩くのが楽しい経験だったのは確かだ。

 
 さて、お勧めするかどうかだが・・

 私はこれを図書館で借りて読んでしまった。もしこれを4000円出して購入して読んだとしても損をしたとは思わなかったろう。
 なんにしても貴志祐介の本はみな揃っているのだし、コンプリートで持っているのも悪くはない。
 しかし読後、これを改めて4000円を投じて購入し本棚に収めるかというとそういうつもりはない、2度読むほどのお話ではないと確実に思うからだ(黒い家はなんどか読み返しているし、天使の囀りはいずれまた読むと思う)

 どうかな、図書館で借りて読んだらいかがだろうか(^^;)


 

女王国の城 有栖川有栖


 ミステリファンであり有栖川有栖の熱心な読者です。今回「女王国の城」を読み、重大な間違いに気付きました。

 たぶんおそらく、あちこちから指摘されているのではないかとは思いますが、そうだろうというと思うだけでは我慢ならないのでMailいたします。

 本文275頁で被害者が拳銃で撃たれ死んでいます
「回転式の拳銃を握っている」とあり、さらに
「プールサイドに薬莢が落ちている」とありますが

『回転式拳銃を発射しても薬莢は排出されません』

 輪胴式弾倉の中に薬莢は残っているのです。
 これはガンマニアならずとも知っている人は多い知識ではないでしょうか

 ましてやミステリファン、映画ファンなら見聞きする機会は多く「常識」といってよい範囲と私は思います。

 この小説の重要なキーアイテムについてこれほどまでに無頓着な作者の執筆姿勢に長年のファンとしては失望を隠せませんし、担当編集者の資質も疑われます。

 ついでに指摘しておけば

 334頁で
 「水に浸かっていたS&Wは発射できないはずだ」
 409で
 「水に浸かって使用不能になっているから危険はありませんけれど」とあります、火薬がしめって火がつかないとか考えているのかもしれませんが、火縄銃じゃないんだから・・

 銃が水かぶったくらいで使用不能になるならノルマンディ上陸作戦は成立しませんね
 「亡国のイージス」では水中でマシンガンを撃ちまくるシーンがあります

 拳銃は水に浸かった程度では使用不能になりません

 これは地の文ではなく、登場人物の声なので「薬莢」云々と違い「間違っていてもいいのだ」と言えなくはありませんが後者の台詞は名探偵・江神次郎のセリフなのでこれはいただけません。

 UFOについては調査したようですがもっと重要な銃についてもうすこし調べて書くべきでしょう

 これが社会派ミステリーであり殺人方法や凶器はマクガフィンに属するものというならともかく、小説の核となる小道具の扱いにこんなにも穴がある本格ミステリーは評価できません。



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といったmailを東京創元社に送りました、返事は来ません。



 

ロケットガール 1~4  野尻抱介

女子高生、リフトオフ
天使は結果オーライ
私と月までつきあって
魔法使いとランデブー


アニメーション 
ロケットガール 1~6



 イギリス連邦ソロモン諸島に民間の宇宙開発会社「ソロモン宇宙協会」がある。
 この会社は今ピンチに直面していた、有人宇宙飛行に必要な大型ロケットブースターの開発に難航し実験は失敗つづき、こんど失敗したら出資者である日本政府は手を引くというのだ。
 資金を引き上げられたらちっぽけな「ソロモン宇宙協会」は消滅してしまう。
 そこで山師にして詐欺師の所長、那須田が考え出したのが実績のある小型ロケットブースターでなにがなんでも有人宇宙飛行を実現させ、時間を稼ごうという作戦だ。

 しかし小型ロケットブースターのペイロードは50キロ弱、大の大人を打ち上げることなどできない。
 そこへ迷いこんで来たのが主人公森田ゆかりだった。

 彼女は16年前新婚旅行中に行方不明になったという父親を探しにソロモン諸島までやってきていたのだ。
 小柄(小型、軽量)なゆかりを見た那須田は、言葉たくみに彼女を騙し(「夏休みにちょっとしたバイトをやってみないかね、機械の前に座って通信が入ったら応答し、いくつかボタンを押すだけの簡単な仕事だ」)パイロットに仕立てあげた。
 女子高生宇宙飛行士の誕生である。

 詐欺師の所長を筆頭にサディスト(かもしれぬ)医学主任旭川さつき、酸化オタク(?)の化学主任三原素子、気弱なチーフエンジニア向井博幸という癖のある打ち上げスタッフ。
 ソロモン島でなぜか地元部族の酋長となっていた父親、2人目の宇宙パイロットにひっぱりこまれたその娘(つまり異母姉妹)マツリなど、キャラの立った人びとと共にゆかりのトンデモな宇宙開発は始まったのだった。


 こう書くと、この小説がスラップスティックなノリの、軽くてドライブ感だけが取り柄である軽い・・・まさしくライトノベルであろうと誰もが想像することだろう(富士見ファンタジア文庫だし)
 私もそう思って読み始めた。しかしこの小説、ドタバタながら不思議と読み応えがある。駄菓子と思って口にした菓子が思いの外微妙な味わいであったような感覚だ。

 読み進めているうちゆかりの乗ったオービター(有人宇宙カプセル)が再突入の軌道をはずれ横浜に不時着するシークエンスに至り、その味わいの理由に思い当たった。

 このシークエンスはアフリカ東岸の海上に着水するはずのオービター「ランプタン」が関東上空に侵入し、所沢の国土交通省東京航空交通管制部、いわゆる「東京コントロール」が大騒ぎになるというものだ。

 「アンノウンです、能登沖をマッハ11で飛行しています」とか

 「ランプタン、こちら東京コントロール、目的地を報告せよ」
 「わかんないんです、自由落下してますんで」とか

 「自由落下?、室長、宇宙船ってやつはいったいどうやって管制したらいいんですか」 
 「ランプタン、もうすぐ厚木上空だ、地対空ミサイルで落とされてもしらんぞ」
 などという頓珍漢なやりとりは、爆笑ものだがよく考えてみればこの部分の執筆にはかなりの力量が必要とされる。

 つまり宇宙船が大気圏再突入した際何が起こるのかという科学的知識、それが関東上空だったらどうなるかという想像力、および航空管制の実務についての知識がないと書けない。
 カプセルが自由落下中に管制官とコントを繰り広げる時間があるのか、とか能登沖で補足されたオービターがその時どのくらいの速度に達しているのか(進入角度はいくつなのか、横浜まで届くのか)とかいう科学的なデーターとシミュレートが必要になるわけだ、これはいわゆるライトノベル作家の手には余るのではないか。


 さて、ここでちょっと話を変えライトノベル、というものについて触れたい。

 思うのだがライトノベルがなぜライトと呼ばれ、ライトな読後感を読者に与えるのかというとそれは拡大再生産の構造にあると思う。
 拡大再生産とは、インスパイア、2次創作、俺ならこうする小説、インサイドストーリー、アナザーストーリー、細部改良型小説、世界観共有小説、と言い換えることもできるだろう。

 たとえばライトノベルのなかでの確固たる地位にあるファンタジー、その中の「剣と魔法」というジャンルを取り上げてみる。
 「剣と魔法」の原点はアーサー王(エクスカリバー)と魔術師マーリンだろう。このアーサー王伝説や、世界各地の民間伝承、精霊伝説がいわばファンタジーの一次資料である。

 それらをまとめあげ壮大な冒険談にまとめあげたのが「指輪物語(ロードオブザリング)」だ。
 よくある話ではあるがそのジャンル最初の作品にはそれ以降の全ての要素が含まれている、これがファンタジーの定礎となった。
 
 以後多くのファンタジーが発表される中で、自分も登場人物の一人として物語に参加したいという希望が生まれ、それを叶えるべく生まれたのがテーブルトークロールプレイングゲームであり名作「ダンジョン&ドラゴンズ」である。

 やがてコンピュータが個人の手に渡るようになり、テーブルトークロールプレイングゲームのゲームマスター役をコンピューターにまかせたらいいんじゃないの?と思いついたのが大学生だったロバート・ウッドヘッド とアンドリュー・グリーンバーグだ。

 彼らが「ダンジョン&ドラゴンズ」をAppleII上で再現しようと試みたのが金字塔「ウイザードリー」である。
 (ちなみに登場人物である狂王トレボーはRobert 、魔術師ワードナはAndrew の逆読みだ)

 ウイザードリーには、職業の違いを生かした6人パーティ、ダンジョン探索、モンスターとの遭遇、宝箱の回収、ヒットポイント、マジックポイント、経験値とレベル上げ、装備品の交換、宿屋での回復、大ボス戦など、以後のPRGの要素が全て含まれていた。
 つまり「そのジャンル最初の作品にはそれ以降の全ての要素が含まれている」のだ。
 (余談だが、30年後の今でも私は息のあった仲間と6人でパーティを組み、毎晩のようにモンスターと戦っている by FF11)

 このウイザードリーに少年の成長というドラマを付け加え、より物語性を増して発表されたのが日本版ファンタジーの開祖「ドラゴンクエスト」である。

 ドラクエ以降の日本のファンタジー事情についてあらためて説明する必要もないだろうが、対抗馬「ファイナルファンタジー」をはじめとして多くのゲームが発表され、多くのアニメが発表され、多くのマンガが発表され(専門のコミック誌も発行され)多くの小説が書かれた。

 つまりファンタジーの実は日本に根付いて花開き(というか百花繚乱の趣きとなり)多くの果実が成り、その果実を食べた人がまた次の種を蒔くというサイクルが確立したのだ。

 先に述べた拡大再生産の構造とはこれである。

 今新たにファンタジーを書こうと試みる多くの作家はあたらめて一次資料にあたることはないのではないか、指輪物語に目を通すかさえ疑問だ、彼(彼女)らは、ファンタジー小説を読み、アニメを鑑賞し、ゲームをして育ち、今自分の物語をそこに書き加えているのだ。

 剣と魔法の国はあたらめて説明不要のものとして存在する、新たな要素を付け加えるにせよ「ある」のは大前提なのだ。

 そのため魔導師、僧侶、呪文、詠唱、召喚、復活、盗賊、スキル、エルフ、ドワーフ、ドラゴン、ワイバーン、スライム、村の酒場、宿屋の主人などなどを文中で「説明なく」使うことが出来る。

 それは現代を舞台にした小説で、インターネットとか、携帯とか、「コンピューターを立ち上げる」とか、マンガ喫茶とか、シネコンとかを説明する必要がないのと同じだ。
 (現代の作家はそれらを「有る」ものとして取り扱い、そこに新たなストーリーを展開すればよい)

 説明する必要がないのは現実に存在するからであり。翻ってファンタジーに出てくる職業、小道具、魔法の体系は現実に存在するものではない、それらは過去の創作物の上に成り立っている

 過去に他人が構築した世界観を前提とするというのは、一個一個が独立して存在するはずの小説として本来的にはおかしいのだが、今やそういうものだとしか言いようはない。
 さてそういった創作手法をとった場合執筆活動は楽だろう、しかしその楽さの引き替えに失ったものがある、それが読み応えである。小説の皮を一枚めくってみるとその下にあるのは別な作品、その下にも別な同好の作品が見え隠れする。
 それらは日本的ファンタジーという巨大な海にうかぶうたかたなのだ。うたかたに重量はない、ライトノベルと言われる所以である

・・・・・というのが私のライトノベル私論なのだが、ロケットガールに話を戻そう。


 この小説はつまり先の言い方によれば「一次資料にあたっている」のだ。

 一見ライトなノリに見える小説だが(ライトノベルを「アニメ・漫画調のイラストが表紙・挿絵としてついている小説のこと」と定義する向きもある、その意味ではこれは間違いなくライトノベルだ)これは過去に誰かが書いたものの細部改良小説ではない、皮を一枚めくってみるとそこには科学的データーが存在するのだ。

 つまり科学、宇宙開発技術の上に足場を構築し、その上でドタバタを行っているということだ、これは「ハードSFコメディ」である。

 最終エピソードに月面着陸がある。ゆかり達は月面着陸するものの2機ある離脱用ロケットの一機が破損して離陸できなくなる、全エピソード中最大のピンチだが彼女らはこれを奇想天外な作戦で切り抜ける。

 NASAの技術者たちも諦めたという設定であり、そう記述してもおかしくないだけの科学技術的、宇宙工学的危機を作り、更にその上をいく解決策を提出して見せる作者の腕(発想、筆力、科学的知識)は並ではない。

 ちなみに読んでいて私自身「これってホントに可能?」と思ったのだが、なんとこれはJAXA-宇宙航空研究開発機構-の人間に検証してもらっているそうである。

 この小説はライトノベルの皮をかぶったハードSFである、そしてそこで語られているのはまさしくトム・ウルフの「ライトスタッフ」(Lightじゃなく、Rightね)そのものだ。
 ライトスタッフー正しい資質ーとは、宇宙に対する純粋な憧れ、常に上を目指す向上心、いかなる場合も諦めない強い心を合わせ持つ人を差す。

 お勧めする。



 アニメーションはこれを忠実に映像化している、元々が「アニメ・漫画調のイラストが表紙・挿絵としてついている小説」であり、ヘタな変更を加えていないので小説から来ても違和感をあまり感じないのだ。
 とはいえ、アニメに納められる内容には限りがあり、エピソードがかなり省かれてしまっている(東京コントロールシークエンスがばっさりカットされているのはがっかりだ)見ても損はないが、アニメならではの面白さというものが特に付け加えられているわけではなく、「アニメで見るあらすじ」(?)みたいになってしまった。

 見なくても全然損ではない。



 

魔界の塔 山田悠介




 山田悠介の新作である、山田悠介は初見だ。
 話題作「リアル鬼ごっこ」をはずして評価未定の作品に手を出すというのもなんだが、この作家の作品群、どっからどうみても地雷臭がただよう、読まずに判断するなどあってはならないのだが、長年本を読んでいれば危険に察知する本能は身に付く。

 「リアル鬼ごっこ」もできれば図書館で借りて読みたいところだったがなにせ話題作、予約待ちがいっぱいでいつになったら回ってくるか見当もつかない・・と思っていたところがこの本の広告を新聞で見たので、これ幸いと図書館に買っていただきました。





 貴重な予算を浪費させてごめんなさい。




 街では、最終ボスに勝てないロールプレイングゲームがある、負けると植物状態になってしまうそうだという噂がささやかれている。
 毎日ゲーセンに「出勤」するのが日課であるニートの主人公は半信半疑だったが、身の回りの2人が植物状態となり、そのどちらもゲーム「魔界の塔」をプレイしていたと聞いてみずからそのゲームをプレイし噂の真偽を確かめようとする。

 というのはまんま押井守の「アヴァロン」である。そもそもゲームが現実世界を侵食するというならいとうせいこうの「ワールズエンドガーデン」という傑作があるわけで。今更というネタなのだ。

 ニートが一転ヒーローになるというお話かと思うとそうでもない。
 植物状態になった友人の妹として頭よくて気の強そうな娘が出てくる、真面目な高校生の彼女は兄とその友人(ニート仲間だ)を嫌っているのだが、これがいわゆるツンデレとしてからんでくるのかとおもいきや、すーっと居なくなる。
 この妹氏も含め、登場人物の数が異常に少なく、存在感などはまるでない、それこそロールプレイングゲームに出てくるNPC(ノープレイヤーキャラクター、コンピュータが動かしている人物)のように、必要な時に必要なセリフを言うためだけに存在し、用が済んだら舞台から去っていってしまう。
 登場人物に深みがなく、お話に膨らみがなく、まるで箱書き(シナリオライターが自分で内容を整理し、あるいは監督やプロデューサーに概要を説明するためにつくる、おおまかな筋書き)を読まされているようである。

 ・・というかTVの2時間スペシャルでホラー特集があり、1本30分づつのオムニバス形式ドラマが4つあり、これはそのシナリオの一つだと言われたらとてもしっくりするだろう。

 総頁数278枚(400字詰め)と末尾に書いてある、中編と言ってよい長さであるが、短編ほどの内容もない、読了に2時間を要した、感想書くのに更に時間をかけるのは無駄なので1時間で済まそうと思ったのだったがすでにオーバーしている、ここで終わりとしよう。


 

クローバーフィールド




 ブレアウィッチ方式(手持ちビデオによる主観&リアルタイム進行)の怪獣映画である。 一発ネタであり、これは最初にやった奴が偉い。

 この方式による最大の利点は怪獣出現の理由づけや、結末を考える必要がないということだろう。

 怪獣映画がよく子供だましと言われるのは無理な展開やこじつけが多いためだ。
 いわく
 その怪獣はどこからきたの?
 なんでそんなに大きい必要があるの?
 いままで発見されなかったのはどうして?
 いままで何食べてたの?
 なぜ街を襲うの?
 通常兵器が通用しないのはなぜ?
 主人公の立ち回り先に必ず現れるのはどうして?
 怪獣に詳しい万能科学者ってご都合主義でしょ
 その怪獣を倒すためだけにあるような超兵器ってご都合主義過ぎでしょ
 などなど。

 ところが一市民の目から「のみ」捉えた映像ならそのへんは華麗にスルーできるわけだ。

 問題があるとすればそんな一市民が怪獣となんども接近遭遇を繰り返すのはおかしいということだろう。
 怪獣と主人公になにか交感しあうものがあって互いに惹きつけあうというのでもないかぎり普通そんな事態になるはずはない。
 もちろん今回の主人公は市井の民であるのでそんな能力があるわけではない、お話の工夫で怪獣が暴れ回っている「危険地帯」に向かう必然性はあるものの、何度も取って喰われるほどに怪獣におびやかされるというのは若干無理がある。


 ところで、この映画最大の特徴である「主人公が見て聞いたこと以外は何もわからない」という利点は怪獣出現の謎以外にも多く効果を生んでいる。

 たとえば怪獣には寄生虫のような生物が多数取り付いているらしく、それが地上に落ちては別個に人を襲う。
 この体長数十センチのクモ(ダニ?)のごとき生物に仲間の女性が噛まれるのだが、野戦病院に行くと「彼女も噛まれているぞ!」「すぐに隔離するんだ!!」と叫び声があがり彼女は連れ去られてしまう、引き離された主人公たちがシタバタしているうち彼女になにか致命的なことが起こったらしい映像がチラりと写り、それっきりになってしまう。

 関係者に説明を求めてもロクな返事はない、何しろ負傷者が山のようにいる野戦病院なので死んでしまった者にかまってくれる人はなく、その関係者になにごとか説明してくれるほど暇があるも者もいないのだ。
 何が起こったかではなく「何が起こったかもわからない」これが実は一番怖いことなのだというこれまたうまい手だと思う。

 このようにうまい作りの映画だが最大の不満が一つある、それは怪獣の造型だ。

 実のところ、いままで怪獣、怪獣と書いてはきたもののこれは怪獣映画とは言えないのかもしれない。
 身の丈数十メートルの巨大な生物が街を襲い、橋を落としてビルをもなぎ倒す、通常攻撃にはびくともしない。という点ではまさしく怪獣映画のフォーマットなのだが、ヤンキーには基本的に「怪獣」という概念がないのだ。

 「巨大な怪物」というと既存の生物をでかくしたもの、つまり
 巨大なゴリラ(キングコング)
 巨大なワニ(UMA、アリゲーター)
 巨大なヘビ(アナコンダ)
 巨大なクモ(It's アラクノフォビア)
 巨大なトカゲ(USゴジラ)
 巨大な牛(レリック)
 巨大なタコ(・・なんだっけな)
 になってしまう
 実在または現存しないが既存の知識体系から持ってきたという意味で竜、または恐竜もこの仲間かもしれない。
 これらを私はモンスター系と勝手に呼んでいるが、これらが怪獣でないのはもちろんである。

 「大きくなった既存の生物」ではない怪物というものも少数あるがこれらは、ヌメっとした皮膚を持つ、悪魔的な外観の異形の生物であることが多い。
 ピットランカーモンスター(スタウォーズ)やパラサイト、DOOM、等に出てくる奴だが。なんというか「この世に存在してはならぬ生物」とでもいうべきもので、私はクリーチャー系と呼んでいるのだがこれもまた「怪獣」でないのはあきらかである。

 日本人にはあきらかな第3の道、つまり巨大で凶暴ではあるがまさしく地球にすむ仲間である「架空の生物、怪獣」というものをヤンキーは想像できないらしい。

 今回の怪獣もフォーマットとしては怪獣だがその造型はクリーチャー系なのだ、この映画はある意味エポックメイキングな作品であり見る価値ありと私は思うのだが、これだけは大いに不満である。


 ところでこの怪獣、見たことのある芝居をしているなと思ったらフィルティペットスタジオ製だった、吠える前に顎を引いてタメを作る仕草がジュラシックパークのティラノそっくりなのよね。


 


ポアンカレ予想 ジョージ・G.スピーロ/著




 数学や物理学には「オッカムの剃刀」とか「シュレディンガーの猫」とか、よく知られているわりには素人にはなんのことやらわからない(がしかし、妙に魅力的な響きのある)言葉が多数存在する。
 「ポアンカレ予想」というのもその一つだ。
 提出されてから1世紀、その難問がついに解かれたのだという。

 その問題の解説と解かれた過程をまとめた本が出て、たとい数学が苦手でも面白く読めるのだという、これを読まない手があるだろうか。

 



 文中
 3人の数学者に立方体を見せ、これが何かを問うと
 幾何学者は「立方体です」と答え
 グラフ理論学者は「12の辺で結ばれた8つの点です」と答え
 位相幾何学者(トポロジスト)は「球です」と答えるというジョークが紹介される。

 トポロジストにとって重要なのは物体の性質であって、その形状や角度、距離は意味を持たない・・のだそうだ。

 その「性質」とはなんであるか、それは「測定によらず物体を記述」した場合(物体の形状や角度、距離を無視した場合)同じ形であるかどうかということだ。

 言い方を変えれば、その物体を切ったり貼ったりせず別な形に変形できるなら、その2つは同じ性質を持っているとも言える。
 たしかに立方体が可塑性のある材料で作られていればそれは容易に球に変形できるだろう。

 同じ理屈によって、穴のあいたドーナツは取っ手のあるコーヒーカップと同じ形である、粘土で出来ているドーナツなら変形してコーヒーカップにすることは出来るだろう、穴が一個という点でこの2つは同じ性質を持っているのだ。

 19世紀の天才的な数学者アンリ・ポアンカレはこの「同じ性質」を基本群と呼んだ、球と立方体は同じ基本群に属し、ドーナツとコーヒーカップは別な基本群に属するというわけだ、あたりまえなことをあたりまえな言葉で語っているだけのように聞こえるが物体を数式で記述する位相幾何学ではこのグループ分けはそう容易なことではない・・らしい

 というのも『4次元空間内で2つのベーグルを貼り合わせて作った「レンズ空間」という3次元物体は、おなじ基本群に属しながら変形によって同一のものとならない』ことが発見されたからだ(意味ワカリマセン)

 つまり基本群という考え方(穴の数で物体の性質を決定する)は、幾何学的物体のラベル付けには力不足だったということらしいのだ。

 しかしポアンカレは球面にだけはこの考え方が通用するのではないかと考え。

 『多様体の基本群が自明であり、かつその多様体が球面と同相でないことがありうるだろうか?』という論文を1904年パレルモ数学協会会報に発表した。

 多様体の基本群が自明、という言葉は以下のよう意味である・・らしい。

 つまり、伸縮自在な輪ゴムを球体の表面に貼り付けたとする、この輪ゴムは縮めていくと一点に収縮することが出来るし、表面をズリズリと動かしていけば別な場所の輪ゴムとぴったり重ね合わせることが出来る、ということだ。

 これがドーナツでは成立しないことはあきらかである。ドーナツの表面に輪ゴムを貼り付ける方法は3つある、一つは外周に添って、一つは生地に対して指輪のように、もう一つは穴にかかわらず(球に貼ったときのように)ただ表面に貼るという方法だ。
 外周に貼った輪ゴムは中央の穴に阻まれて収縮できないし、指輪のように巻き付けた輪ゴムはドーナツの厚みによって収縮できない、表面に貼った輪ゴムだけが収縮できるがこれら3つの輪ゴムを重ね合わせることは出来ない。
 つまりドーナツは『自明な基本群』を持っていないということだ

 では『自明な基本群』を持っていればそれは球と同じ形なのだろうか?

 これが有名なポアンカレ予想である。


 ポアンカレ自身がこれを真であると思っていたのか偽であると思っていたのかはわからない、彼はいわば疑問を提出しただけなのだ、しかし的を射ていたことが少なくとも一つあった、彼はその論文の締めくくりにこう書いている。

 「この問題ははてしなく我々を悩ますだろう」

 たしかに以後100年に渡って、この問題は多くの数学者を悩ませ続けた、この本はその苦闘の歴史を記録し、彗星のように現れて決着をつけた変人数学者を讃えるために書かれたものである。



 数学界にはポアンカレ熱という言葉がある/あった、という、将来を嘱望された優秀な数学者がポアンカレ予想に熱中するあまり、たいした功績を残すことなくそのキャリアを終えてしまうことだ。

 言い換えればポアンカレ予想はそれほどに魅力的であり、それを解決することに意義があり、あるいは解決することで得られる栄光が大きいということだろう。

 この本の中盤では、次から次にと現れるいろいろなタイプの数学者の挑戦が語られる。
 ポアンカレ予想が真であると仮定して2週間証明を研究するや次の2週間は偽である証拠を捜してすごす数学者。
 ブラジル政府から研究費をもらいながら午前中はサーフィンをし、夜はサンバを踊って過ごす数学者(政府からクレームが付くが、理論数学者は紙と鉛筆があれば仕事が出来ると豪語し、じっさい業績の多くを海岸で残していることを証明して、やりかたを改めない男)
 数式で記述された物体が球と同一であるか確認できるプログラムを開発する数学者があれば、ポアンカレ予想の反証となりうる物体を自動的に生み出すプログラムを開発する数学者、この2つを組み合わせ自動的に反証をさがすことを思いつく数学者(ポアンカレ予想が真であれば徒労である)
 などなど。

 ともかくここに登場するのは数学の世界では実力もあり名も知られている人物ばかりである、多くの論文、高い地位、各種の賞を持ついわば数学界の勇者が、我こそはポアンカレの謎を解き明かすものなりと声高に名乗りをあげ、自身満々に論文を発表し、同業者のきびしい精査を受けて落下炎上してしまうわけだ。
 白銀の鎧を身に纏い、各種の戦功を誇る徽章を胸に光らせながらポアンカレ予想に向かって突進した高名な騎士があっという間に馬から転げ落ちていく様はへたな小説を読むより面白い。

 そしてこの物語の白眉となるのはもちろん真の勇者の登場である。ロシアの数学者であるグリーシャ・ペレルマンは変人の多い数学者の中でも並はずれている。
 そもそも「数学界」は堕落していると公言し常に距離を取り論文を発表しない。論文を書かざる研究者は去れというのが常識であり、論文を書かねば数学の世界での地位を得られないのが普通なのだが、彼は栄誉も昇級も終身在職権にも興味がないらしいのだ。

 画期的な発見をしても彼はその事実を同僚に話すだけで事たれりとしていたため、業績のいくつかは同僚がまとめたものであるらしい。

 そして研究奨励金の多くを国の母親に送ってしまうため、生活は質素でいつも同じ服を着ていた。カリフォルニアという車社会で研究生活を送っていたときも徒歩で移動していたという。

 そのペレルマンが2002年秋、一つの論文を発表した、これも専門誌への投稿ではなく誰でもアップロード可能な論文投稿サイトでの公開でしかなかった、そして知人にそのことを控えめに通知しただけなのだ。
 しかもそこで彼は「ポアンカレ予想」を解いたとは一言も言っていない、そもそも「ポアンカレ」という言葉さえ含まれていなかったという。
 彼はその論文を読んでその意味がわかる人でなければ読んでもらう必要はないと思っていたらしい。

 はじめその反響は地味だった、まあ当然ではある、我こそは!という多くの挑戦者と同じくいずれ証明に穴が見つかり、死屍累々の仲間入りをするであろうと思われたからだ。

 しかし、問題は発見されなかった、口コミで話が伝わり、検証する数学者が増え、それでも穴は発見されず、熱狂は高まっていった。

 本人の講義を直に聞きたいという数学界の希望によりペレルマンは2003年4月マサチューセッツ工科大学(MIT)に招待された。

 満員のMIT階段講堂、床に座りこむもの立ち見するもの、何百人もの高名な数学者が待ちかまえるなか、ロシアから来た変人数学者が壇上に現れた。
 「コップを持ってハーバート・スクウェアに立っていたらホームレスにしか見えない」その男は蒼々たるメンバーの前に立ってひるみもせず、黒板にチョークで図を書き(今どきパワーポイントも使わず)メモを見ることもなく、全ての質問に躊躇なく答えたという。
 このシーンが物語のクライマックスだろう。ハリウッドが映画化しないのが不思議なくらいである。トム・クルーズにやらせたらいいのではないかと思っているのだが・・まあペレルマンがOK出さないか・・


グリーシャ・ペレルマン、
MITの講義の際、ダークグレイのスーツにジッパーの付いたジャージー(@@;)を着ていた
と書かれていたのでおそらくその時の写真と思われる



 ペレルマンは数学界のノーベル賞とも言われ、数学者最高の栄誉であるフィールズ賞を辞退した。

 ポアンカレ予想はクレイ数学研究所が「21世紀を象徴する難問7題」の一つとして認定し100万ドルの懸賞金かけていた。
 ペレルマンはその賞金を手にしたも同然なのだが、クレイの出した条件「高名な数学誌に論文を発表すること」という条件をクリアしていないのでそれを手にしていない、同僚によれば「賞金のことは知っているが、興味がないようだ」と言う。

 ペレルマンは論文発表後しばらくは電子メールの質問には答えていたが、自分の論文が世間に理解されたと判断するや電子メールにも答えなくなった。
 彼は2005年12月所属していたステクロフ数学研究所を辞め、数学界から身を引いてしまった、今は年老いた母親と暮らしているらしい。


 



地球最後の男 原作 リチャード・マシスン
地球最後の男 オメガマン ボリス・セイガル監督
アイアムレジェンド フランシス・ローレンス監督



 地球最後の男2度目の映画化である・・と書こうとして調べたところオメガマン(1971)より前にビンセント・プライス主演で映画化(1964)されていたのですね、寡聞にしてまったく知りませんでした、これどうやら原作に忠実な傑作らしいので、機会があったら見てみたいと思います。

 ともあれ今回は3作中心で。リチャード・マシスンの小説「地球最後の男」は原作、チャールトン・ヘストン主演の映画はヘストン版、ウィル・スミスのをスミス版と呼ぶことにします。

 さて原作。
 細菌兵器を使った戦争がありその結果人類の大半が死滅してしまう。残った人間は日光に当たると死に、血を好み、にんにくの匂いを嫌うという・・つまりはかつて吸血鬼と呼ばれた存在に変わってしまった(鏡に映らないとか、犬に変身するということはない)

 しかし主人公ロバート・ネヴィルは何故かただ一人免疫があって人のまま生き残っている。
 彼は家の防御を固め、ニンニクを栽培し夜な夜な襲ってくる(彼を仲間に入れようとして?)吸血鬼たちから身を守り、昼は街に出て暗がりで寝ている彼らに杭を突き刺し回っている。

 彼は自問する、何故こんなことをしているのか、彼らの仲間に入ってしまったほうが楽ではないのか、彼らがどんな悪いことをしたというのか、と。

 彼はついには吸血鬼たちに捕獲され、それまでの罪によって処刑されようとするのだが、その際彼を見る吸血鬼達の目に恐怖が宿っていることを知り「俺は伝説だ」とつぶやく。

 そう、かつての世界にも伝説の怪物がいた、闇にひそみ人が寝静まる深夜に徘徊して人々に死をもたらす者・・たとえば「吸血鬼」

 今、日中彼らが寝ているところを襲って杭を突き刺し死をまき散らすネヴィルは、彼らにとっては同じような恐怖の存在と化していたのだ。
 俺は彼らにとって伝説となった・・という意味で「I am Legend 」なのである。

 マシスンらしい変化球であり、痛烈な皮肉の物語である。

と・こ・ろ・が、映画はどちらも違う。

 話の発端は似たようなものだが、チャールトン・ヘストンは葛藤などしない、俺は吸血鬼になんかならんぞと彼らとハデに戦争をしている。
 感染していない仲間も見つかるし、その仲間を「吸血鬼化させない」ためのワクチンも自ら発明する、そしてそれを守って華々しく討ち死にするのだ。

 つまりいずれは再び人類が復活して世界を取り戻し、その折には彼は人類を救った伝説の人となるだろうということなのだ、原作と180度方向が違う。
 これを原作/映画化と言ってよいのだろうか。

 もっともヘストン版の吸血鬼たちは、かつての記憶と知性を保ち、自分たちのコミュニティーを「家族」とよび、自分たちは新人類であり、新たに地球を受け継ぐ者であると言っている。
 そしてネヴィルに無駄な抵抗はやめて投降しろと呼びかけるのだ。

 チャールトン・ヘストンは英雄なのでそのような悪魔のささやきには耳を貸さないのだが『あらたな世界の創造を彼らに託してどこがいけないのだろう(ことによったら旧人類よりマシな世界を作ってくれるかもしれない)』という原作の皮肉のかけらはかろうじて存在する。

 しかしスミス版では吸血鬼は知性を失い野獣化している、人を見るとやみくもに襲ってくる様はただのゾンビである。したがってネヴィルに迷いはない、彼の戦いは無意味であるかもしれないがそこには原作の葛藤もアイロニーも存在しないのだ。

 彼は仲間を見つけ「吸血鬼を元にもどすワクチン」(!)を発明し、それを守って華々しく散る。
 これはヘストン版よりさらに大甘な設定である。つまりヘストン版には「正義はひとつではない」「ことによったら実は新人類のほうが正しいのかもしれない」というマシスンのアイロニーがとりあえず存在するが、スミス版では吸血鬼はいずれ治癒して戻ってくるべき病人であって(治療の道筋はついているのに、それを理解できないかわいそうな人達であって)ネヴィルは完全に正義に着地しているのだ、これはもはやアイアムレジェントではない。

 チャールトン・ヘストンは古き良き(タフな)アメリカン・ヒーローであり、ウィル・スミスは現代的な(知的な)ヒーローである。
 どちらも大スターであり、それを看板に据えた以上ヒーローらしくせねばならず。結果原作の精神を切って捨てたということだろうか。

 もうひとつ考えられるのは宗教上の問題である。
 アメリカ人の大半は保守的であり神を信じる敬虔なキリスト教徒だ。彼らにとって人は神の子であり吸血鬼は呪われた者だ、この2つが等価であり、見方をかえればどちらが正しいかわからない、という主張はとうてい受け入れられないのかもしれない。

 思えばチャールトン・ヘストンの「猿の惑星」もそうだ。
 日本人なら「遠い未来、猿のほうが頭が良くなっちゃたんなら猿が人を支配しててもしょうがないよね」と思うのではないだろうか。なにしろこっちは毛が3本多いだけなのだし。
 実際、映画を見ても好戦的なゴリラ族が人類と「いいとこどっこい」であり、知的で平和主義者のオランウータン族など人よりよほどマシな文化を持っている。
 私はいちおう人類の側に立つのでヘストンを応援するが「彼らにまかせておいたほうがいいじゃないか」と思ったことは確かだ。

 しかしヤンキーにとってそれはきっと恐るべき事態なのだろう。何しろキリスト教の教えによれば「魂」を持っているのは人だけなのだ、魂なき動物に人が支配されている世界は悪夢に違いない。
 
 この原作もまさしく同じ構造を持つ。映画の作りがますます無難になっていく現在(ハイリスクすぎて冒険できないので)マシスンの狙ったアイロニーを取り込むわけにはいかないという判断なのかもしれない。



 どちらの映画にも、無人と化したニューヨークの街をネヴィルがスポーツカーでぶっとばすシーンがある、ヘストン版は「デジタル合成もない時代にこれを撮るのは大変だったろう」という絵であり、スミス版は「デジタル合成があるとはいえこれを撮るのは大変だったろう」という驚異的な映像である(どちらの映画も、今思い返して印象に残っているのはそのシーンだけだ)
 この部分だけでも見て損はなかったと個人的には思うが、人になにがしかの木戸銭を払ってまでも見るべしと言える映画ではない。




 ところで。ジョージ・ゾンビ・ロメロはこの「地球最後の男」をヒントに「デイ・オブ・ザ・デッド」を作ったと言われている。
  また次の「ゾンビ(ドーン・オブ・ザ・デッド)」では生き残ったSWAT2人が無人のスーパーマーケットで「楽しくお買い物」という情景が描かれている。

 「破滅した世界で残った人類は隠れ住んでいるが、物質文明の名残りでそれなりに不自由なく-というかむしろ優雅に-暮らしている」という状況はいままでに128回くらい映画化されているわけだが(←言い過ぎ)これもまた「地球最後の男」が元ネタである(※1)。

 作中、主人公が死んだ妻を埋葬するとその晩甦った妻が家に戻ってきて玄関口で彼の名を呼ぶ、というシークエンスはスティーブン・キングのペット・セマタリーのラストシーンそのものである。
 キングはこれをオマージュとして書いており、ほとんど変更を加えていない。(※2)
 
『地球最後の男』
「何者かが玄関の外でつぶやき、もごもごと聞き取りにくい言葉を発していた」(中略)「ロバ・・・ート」妻が言った。

『ペット・セマタリー』
レイチェルの声には、泥がぎっしり詰まってきしんでいた。「あなた」と、その声は言った。

いや、マシスンおそるべし。(※3)



※1
 ロメロのゾンビ映画はその後の全てのゾンビ映画の基礎となった。
 バイオハザードというゲームはロメロのゾンビ映画の派生品である
 カプコンはその影響を否定しておらず、バイオハザード2のCMはロメロに依頼されている。
 バイオハザードは映画に里帰りした、最初に監督を依頼されたのはロメロだった(頓挫した)
 最近作ではマッドマックス(サンダードーム)と合流して別な世界観を構築しつつある

※2
 キングの作品には必ず古典的な元ネタがある、ペット・セマタリーの元ネタはホラーの古典「猿の手」である。

※3
 マシスンはスピルバーグの出世作「激突」の原作者である。
 マシスンはいまやホラー映画の古典と化した「ヘルハウス」の原作者である。




 

ミスト フランク・ダラボン監督
霧 
 原作 スティーブン・キング
 



 スティーブン・キング原作の映画は多いが失敗作が多い。何故かというに(おそらく)それはキングの作風による。

 キングの作風それはすべてを細かく描写することにある。主人公は何歳でどんな風貌でどんな職業についているか、どういう口調で何を語り着ているものは何か。どこに住んでいて、その住んでいる街はどんな街なのか。

 そして彼(彼女)が読者にとって他人でなく思えてきたころキングは試練を与える。
 すっかりなじみとなった人物、かつて訪れたことがあるようにさえ思える街、そこに非日常な恐怖が忍び込む、これがキングのやり方だ、よって彼の小説は長くなる。

 しかし映画化するにはそれは長すぎるのだ、小説に多くの要素があればその要素を描写するだけで時間を喰ってしまう、結果キングらしさとも言うべきディティールが消えてしまう。
 
 そして、こう言ってはなんだが、キング作品からディティールをそぎ落としたあとに残るものはありきたりなものだ。つまりは幽霊ホテル、吸血鬼、ゾンビ。
 あまりにもありきたりすぎてそぎ落とすと何も残らないものさえある、たとえばクージョ、「狂犬病の犬」がホラーの主役を張れると誰が思うだろう。

 言い方を変えればキングの怖さは独創性にあるのではなく語り口にあるということだ。
 もちろんそれは悪いことではない、神は細部に宿る、とはいえそれが映画に向かないのはあきらかだろう。まずは細部を描写する時間がない、そしてメディアが違うので語り口を移植すること自体が難しい。したがって失敗作は多くなる。


 ではこの「ミスト」はどうなのか。

 元々が短編(中編?)なので要素が少なく、映画においてもじわじわと事態が悪化していく様子が描写できている、また監督が原作を尊重すること大であり、アレンジをほとんどしていない。

 小説片手に映画を見ているわけではないが「あーそうそう、こういうシーンあった」「こんなセリフあった」と次々に思い出されるほどで、見ている分には「完全映画化」と言ってよい出来である。

 しかし残念ながら見終わった感想はパッとしないものだ。
 私はかつて数かぎりなく「原作をないがしろにするのもほどがある」とか「こんだけ違えば別な作品だ」とか「面白い小説を消尽してもったいない」という事を述べてきた。
 この作品においてはそういうことは一切ない、しかし、見て思うことは「こんだけ原作通りの絵を作るなら、映画見る必要はないな」ということだった(゚。゚)

 要するになにもかも原作通りでそれを越えるものが何もない、思ったとおりのことがスクリーンに再現されるだけで新たな驚きがなにもないのだ。実際これほど味気ない映画も珍しい。

 更に言えば、越えるところはないが足りないところはあった、ということだろう。

 この作品に登場するモンスターはキングの小説の(あるいはハリウッド映画の)ご多分に漏れず、イカであり、タコであり、クモなのだが、読んだこちらがああでもあろうかこうでもあろうかと想像したものより怖くない。
 これは当然のことで、私が怖いと思うものは私の頭の中にある、それが実体として目の前に提出されたら「こんなものか」になるのは当然なのだ。

 またそういった原理的(?)な要因以外に監督やデザイナーの能力不足ではないかと思われる部分も多い。

 小説の冒頭、嵐のあと湖に発生した霧は「その先端が驚くほど直線的」だと描写されている。「自然界にあれほどすっぱり断ち切ったような線は存在しない筈だ」と主人公は思う。またそれは微風とはいえ逆風に逆らって岸に近づいてくる。

 ささやかな、しかしあきらかな違和感、予兆。これが映画ではごく普通のもくもくとした霧として描写されているのだ、何故?

 また中盤主人公とその一行が「大きな犬ほどの大きさ」のクモに襲われるシーンがある、色は黒と黄色、小説にはそいつが「気取った早足で歩いてくる」とある。

 原語ではなんと書いてあるのかしらないが「気取った早足」とは言い得て妙である。熟練したダンサーがつま先立ちで歩いているような、クモ特有のいやらしさを見事に表現していると思う。私がこの小説で一番気に入っているフレーズがこれなのだが、映画では大きなダニのような生き物がざわざわとしたガサツな動きで襲ってくるのだ。

 キングがクモの何を怖いと思い、なぜそのように描写したのかわかってないのじゃないだろうか?

 ・・というような部分が随所にあって、私は欲求不満であった。

 見て損はない映画ではあると思う。原作を読んでいなければがっかりすることもない(かもしれない) 
 ただし大スクリーンで見るべき超大作でもないのでレンタルDVDで充分だろうとは言える。
 一番いいのは原作を読むことだ。これは強く推薦する。


         
昔(私の蔵書)                  今(映画化されるとこうなる)
 

 


ミストの補遺






 【私たちの背後に、一匹のクモが霧の中から姿をあらわしていた。大きな犬ほどの大きさだった(中略)そいつが、やたらと関節のある十二本が十四本もありそうな肢を動かし、私たちのほうへ気取った速足であるいてくる。】
 ハヤカワ文庫 スティーブン・キング「霧」(翻訳:真野明裕)より


 先に『原語ではなんと書いてあるのかしらないが「気取った速足」とは言い得て妙である』と書いた。

 言ってからとても気になってきたので原作に当たってみたところ、原文は以下のようになっていた。

It strutted busily toward to us.

strut : 気取ってあるくこと、その歩きぶり
busily : 忙しく、せっせと、熱心に、活発に
(大修館 ジーニアス英和辞典)

『それは、私たちのほうへ、忙しく気取って歩いてきました。』
・・中学生の英文解釈か!

『それは、我々にの方へ忙しく闊歩しました』
・・yahoo自動翻訳、もっとダメ。ちなみにLivedoor翻訳、Infoseek翻訳ともに同じ翻訳エンジン使ってるらしく同じ訳になります、。

『それは忙しく私たちに向かって横行しました。』
・・Excite翻訳。
『それに向かってstrutted忙しくしてください。』
・・Googleo翻訳、もはや意味取れません。

 あたりまえながらプロはさすがで、間違いなく簡潔でリズムがあります。
 It を「そいつが」と当てるあたりも見事。


 原作をパラパラと見て思うことはキングの文章は短く簡単な英文だということで、まあエンターティメントなので当然なのかもしれませんが、中学生の頃からまったく進歩のない私の英文解釈能力でもそこそこ意味が取れます。

 とはいえ、英語の勉強をしたいという不純な動機があるならともかく、小説を楽しむつもりなら自力で読まないほうがいいという事がよく理解できた一件でした。


 



中国動漫新人類 遠藤誉




 動漫とは、中国語で動画(アニメ)漫画(マンガ)をひとくくりにして言う言葉だそうだ。
 中国動漫新人類とは、中国で日本のアニメ・マンガを見て成長しその影響を多く受けた若者が急増しているという意味なのである。
 著者によればそれはこれからの日中関係を変えうる可能性を秘めているのだという。
 

 さて、著者の肩書きだがこれが凄い、奥付によれば。

 1941年、中国長春市生まれ、53年日本帰国、筑波大学名誉教授、帝京大学グループ顧問(国際交流担当)、理学博士、北京大学アジアアフリカ研究所特約研究員、その他、中国国務院西武開発弁公室人材開発法規組人材開発顧問、内閣府総合科学技術会議専門委員、中国社会科学院社会学研究所研究員(教授)、上海交通大学客員教授等歴任。
 ・・だそうだ。肩書きを書けるだけ書いて読者をビビらせようとしているんじゃあるまいか?と思わないでもないが、日中関係に強いらしいことはわかる。


 この本の趣旨は以下のようなものだ。
 曰く、今中国では日本のアニメ・マンガがきわめて隆盛を誇っており、すっかりとハマっている若者が多い。
 著者の教え子である中国人学生のうち、マンガやアニメに興味などなさそうな優秀な人物も一皮むけば熱心なアニメ・マンガファンであるということが多く、これはと思って調べてみると実は今や日本のアニメ・マンガを見ずに育った若者など居ないという状況であるらしい。
 昔はコスプレもやってましたという者さえ少なからずいたという(中国では今政府主催のコスプレ大会が各地で開催されている!)

 なぜだろうか。
 80年代に中国には外国のアニメ・マンガが大量に流れ込んだ。しかしアメリカの出版社は権利意識が高く海賊版を厳しく規制したのでアンダーグラウンドでは広まらず、といって正規なルートでの商売は当局の規制によってなかなか許可されず、結果日本のアニメ・マンガばかりが海賊版として広く流通したという事情があったという。

 中国政府の認識によればアメリカのアニメには民主主義、自由主義のプロパガンダが含まれており国民の思想汚染を招く恐れがある。比べて日本のアニメ・マンガはエンターティメント主体でありたわいないもので、規制するに足らずということだ。

 当時日本の出版社は権利意識が薄く、海賊版の流通にほとんど何も手を打たなかったためそれらは中国の津々浦々まで浸透しそれを見ないで育つ子供など無い、という状況が出来上がった。

 筆者の考えるところによれば中国は文化大革命という一大思想教育を行った歴史があり、基本的に国民の政治意識が高い。よって放っておけば民主化運動など好ましからぬ活動を始めかねない、だから若い者がアニメ・マンガにうつつを抜かしてくれているならそれでも良い、という一種の愚民政策でもあったという。

 しかしここに中国共産党が思いもかけぬ効果が生まれてしまった。

 ドラえもんや、スラムダンク、セーラームーンなど日本の少年少女の等身大の物語を見た若者は学校からの反日教育(日本人は好戦的で侵略主義であるというような)に疑問を持つこととなったと言うのだ。

 彼らも自分たちと同じような人間であって、平和を愛し日々の暮らしを楽しみ、あるいは友情や恋愛で傷つき悩むごく普通の人たちではないのか?ということだ。

 そして彼らは日本の若者に思ったことを言う自由、やりたいことを自分で選択する自由があるということを悟らざるを得なかった。
 それらの作品がエンターティメント主体であり、主義思想などを含まない物であることがあきらかであるが故にその作品を生んだ土壌を雄弁に語っていたということだ。

 また、作品に出てくる日本の暮らしぶり、どういう家に住みどういう物に囲まれて暮らしているかということも彼らの対日観に影響を与えている、つまりは日本ってなんて豊かで奇麗な国なんだろうということだが、これは日本へのあこがれを醸造する。

 中国共産党にしてみれば重大な思想汚染であるが、もはやこれを押しとどめることなど出来ない(せめてこのムーブメントを掌握しておきたい・・というわけで政府主催のコスプレ大会などが開かれているわけだが)
 これは実は日中関係にさえ影響を与える重大な問題なのだ。


・・・というのがこの本の趣旨である。

 なるほどごもっとも、としか言いようはない。

 筆者はその顔の広さで、学生からの聞き取り調査はもちろん、政府高官、大学教授、出版社の編集長など、各種の要人・文化人へのインタビューも試みている、立派な調査研究本であると言えるのだが。

 し・か・し!

 重大な問題がひとつ存在する。それは筆者が『アニメ・マンガを見たことが無い』という事だ。
 見たことがない、というのはまさしく言葉通りのことで「ちゃんと見たことがない」
とか「系統だてて読んだことがない」とかいう意味ではない。
 「子育て中、子供が読んでいるのを横目で見た」のが全てだというからには、本当にマンガを読んだことが無いのだ。

 もちろん、扱う話題について昔から知っていなければ何も書けないということはない、ドキュメンタリー作家も何かを取り上げるたびにそれについて調査研究するだろう。

 しかし筆者が日本のマンガ・アニメについて調査研究した気配はない。中国で一番人気だったスラムダンクを読み、セーラームーンのアニメに目を通しはしたらしいが、筆者のアニメ・マンガ歴はこれで全てである。

 《ああ、まさか66歳にして。私が『セーラームーン』のアニメを見たり、『スラムダンク』を読破する日が来ようとは!》

 と書いてあるからにはセーラームーンは目を通しただけで、作品として読み通したことがあるのはスラムダンクだけのようである。
 また「来ようとは!」と感嘆詞が付いているところを見るとこれは一大事業だったらしい。
 そしてこれらについて筆者なりの感想が一行一文字たりとも書いてないところを見るとどうやら面白くなかったらしい、ことによると理解できなかったのかもしれない。

 考えてみればこれは当然のことだ、アニメ・マンガは記号化された表現形式であって、長い歴史の上に工夫され洗練されてきた文化なのだ、それは書き手と読み手共通の認識の上に成り立っている。

 アニメ・マンガに首まで漬かって育ってきた私には『アニメ・マンガをまったく見たことがない』という状態がどんなものであるか理解できないが、類推することはできる。
 つまり能や狂言、歌舞伎と同じく、素養がなければ何を表現しているのかさえわからないだろうということだ(背中から舞台に落ち、足を広げて見せるのが「参った」という意味の仕草であるなどというのは知識として知らなければ理解不能である)

 セーラームーン、スラムダンク、この2つは日本のアニメ・マンガ文化の一つの到達点であり、この2つをなんの予備知識もなく見たのではその記号が理解できない可能性は高い。

 この本には「ドラゴンボール」「クレヨンしんちゃん」「NARUTO」「エヴァンゲリオン」「デスノート」などと言う名前が並ぶ。
 『デスノートはきわめて良質なエンターティンメントと聞く』などと書いてある「読めよ」と思う、せめて目くらい通せと。

 たとえば「ハリウッド映画が日本の若者文化に与えた影響」という研究書があったとして、筆者が「ハリウッド映画は見たことがない」と言ったら『大丈夫か?!』と読者は思うだろう。
 ここに「66歳にしてスターウォーズを見ることになろうとは!」と書いてあったとして、これを筆者の勉強の証と捉える人がどれだけ居るだろうか。多くの人はハリウッド映画も日本の若者文化もバカにしてるだろ?と思うに違いない。それで何がわかるんだと。


 言っていることに間違いはないかもしれない。調査研究に多くの時間を割いた力作であることも認める。
 どっぷり漬かった人間でなく、一歩離れたところから日本のアニメ。マンガの影響を測る作業が重要であることも確かだろう。

 しかしどうやら筆者は中国共産党と同じく日本のアニメ・マンガをたわいのないものと思っている。

 私はそう思わない。日本のアニメ・マンガは長い歴史と競争、厳しい読者・視聴者の目にさらされて洗練されてきた独自の文化だ。
 それ無くば小説・映画・演劇に向いたかもしれない多くの才能が流れ込み(玉石混交なのは確かだが)その頂点は他のメディアに引けを取らない良質な作品として輝いている。

 そういったアニメ・マンガの真価を理解せぬまま書かれたこの本に、どれだけの意味があるのか疑問と言わざるを得ない。



 


疑似科学入門 池内了





 現代は科学の時代と言われながら多くの非合理がまかり通っている。
 それによって人生を棒に振ったり、財産を失ったり、果ては命を失ったりする人もいる、科学者として(筆者は天文学者であるが)それを見過ごすことは出来ない、ということで書かれたのが本書である。

 「占い」「スピリチュアル」「血液型性格判断」「マイナスイオン」「ゲーム脳」など私が以前から「誰かなんか言ってくれないか」と思っていた非科学的言説や商品についても取り上げられていると聞いて読んでみた。


 筆者は非合理を3つのタイプに分け、それぞれ第一種疑似科学、第二種疑似科学、第三種疑似科学と呼ぶ。


第一種疑似科学は
 占い系(おみくじ、血液型、占星術、幸運グッズ)
 超能力、超科学系(スピリチュアル、テレパシー、オーラ)
 疑似宗教系
 である、これらは「科学では解明されていない事がある、科学は万能ではない」という主張で人を惑わせるものである

第二種疑似科学は
 科学を乱用、悪用したもので
 1・永久機関、ゲーム脳、水の記憶など科学の法則に反しているにもかかわらず、正しい主張であるように見せかけている言説。
 2・マイナスイオン、クラスター水、活性酸素など科学的根拠が不明であるにもかかわらず、根拠があるように見せかけている言説
 3・確立。統計を巧みに利用している言説
である。
 第一種が「科学では説明できない」とする主張であるとすれば、これは科学の衣をまとった似非科学と言えよう。これらは「物質世界のビジネスと強く結びついている」と筆者は強調している、言い換えれば詐欺だ。

 第三種疑似科学はちょっと趣きが違う。
 これは地球温暖化、狂牛病、遺伝子組み換え作物、地震予知、環境ホルモン、電磁波公害など現在科学的に証明しずらい問題を言う。

 近代科学は要素還元主義と呼ばれる手法によって発達してきた、つまりある現象を細かく分析していけばやがて真理に突き当たるということだ。
 しかし、たとえば気象現象などはこの手法では解明できない、太陽から来る熱とそれを反射、吸収する海面、地面、氷床。海流と気流、それらの相互作用など多くの要素がからみあい現在最高のスーパーコンピュータといえど処理できない。
 またこれらは「データーを取得すること自体が難しい」という側面もある、気象はその規模の大きさによって、地震予知は地下の現象であるがために、健康問題に関しては比較対象するデーターが取れないために(人体実験するわけにはいかない)
 これらは「複雑系」と言われ今のところ科学的に結論が出せない問題だ。
 これらを一方的にシロ、クロと決めつけてしまうのは疑似科学であると筆者は言う。


 世の中の非合理をこのように分類するのは良い着眼点だったと思うのだが、そのぶん扱う範囲が広くなりすぎたように思う。
 
 そもそも岩波新書というのは薄く、そこで扱える内容には限りがある。だから「永久機関に憑かれた人々」とか「血液型性格判断のウソ」とか「地震予知は本当に可能か」とか「マイナスイオン商法」とか、そんなタイトルで一冊本が出てもおかしくないほどの頁数しかない。





 そこに
 占い、お神籤、スピリチュアルカウンセラー、血液型、念力、オーラ、サイキック、ポルターガイスト、UFO、幸運グッズ、ユリ・ゲラー(!)「人を殺すことが救いになるという宗教」(オウム)キリスト原理主義(進化論の否定)
 
 永久機関、バートランド・ラッセルのティーポット(※1)クラスター水、マイナスイオン、活性酸素、アルカリイオン水、水からの伝言、ゲーム脳、波動の法則、ゲルマニウム、ホメオパシー、フリーエネルギー、磁気効果、健康食品、統計と確率の悪用

 地震予知、地球温暖化、遺伝子組み換え作物、狂牛病、電磁波公害、疫学

 ・・などなどをぶち込んでいるのだからその内容は薄くならざるを得ない。

 ひとつひとつについてその表面をなでるだけでほとんどつっこみがないのだ。
 それゆえの「入門」なのだろうがあまりの薄さ故に弊害さえ生じていると私は思う。

 たとえば「ゲーム脳」である。
 ゲーム脳という言葉を知らない人は居ないと思うが、これは日本大学の教授、森昭雄が『ゲーム脳の恐怖』(2002年7月)という本で創作した言葉である。

 この本の趣旨は「ゲームばかりやっていると子供の脳からはβ波が出なくなり、集中力がなくなり、キレやすくなる」というものだ。
 子供にゲームをさせたくない親、教師、政治家、識者がこぞってこの言葉に飛びつき。一時は世の中の不都合な事すべて、つまり少年の関係する凶悪事件、電車の中での化粧、飲食、ローライズファッション、フリーターの増加、果てはJR福知山線脱線事故までゲーム脳のせいになった。

 しかし
 森教授は運動生理学が専門であって脳神経学者ではない。
 耳たぶに付けるべき不関電極をおでこにつけているなど脳波の測定方法に基本的な誤りがある。
 脳波を測定したとされる装置は森教授が独自に開発したものであり、データーの信頼性がない。
『α波に対してβ波が少ない状態にあるのが痴呆である、ゲーム脳とはα波に対してβ波が少ない状態を言う、よってゲーム脳は害がある』というの森教授の主張の根幹だが、この「α波に対してβ波が少ない状態にあるのが痴呆である」というのは森教授のみが主張する新理論であり、痴呆の専門医の知るところではない。
 そもそもα波に対してβ波が少ない状態とは通常リラックスしていることを示す指標である。
 森教授はα波を「徐波」と呼ぶが「徐波」とは異常脳波を指す言葉であってあきらかな間違いである。
 など「実は脳波のことがわかっていないのじゃないか?」という疑念を抱かせる記述が満載であり。
 さらに
 学会発表がなされているわけでも論文が公開されているわけでもないので公的に検証されていない。
 本人はゲームをほとんどやったことがなく、ゲームに関する知識は皆無に近い。(どっかで聞いたような・・)
 被験者をノーマル脳ゲーム脳と分類としたのは森教授の印象にのみ依っている。
 また「ソフトウェア開発者は頭を使わず朝から晩まで画面を見ているだけなのでゲーム脳である」とするなど無知、無理解が存在する(この開発者が「独自の脳波測定装置」を作ったというのだが、その装置の信頼性は大丈夫なのだろうか)

 など、どうみてもこれはまともな研究ではない。
 実際のところ、子供にゲームをさせたくない理由を捜している親、教師、政治家、識者、マスコミ等に科学の衣をまとったお墨付きを与えて、自分の名を売り、本を売り、つまりはメシの種にしようとしたのでないかと疑われるのである。

 その後、そろばん、将棋、朗読、などの「脳に良い」とされる作業、あるいは肩たたき(してもらう)英語学習、音楽鑑賞でも「ゲーム脳」状態になるということがあきらかになり、今ではこれを取り上げる者はいない。

 ・・いないのだが、一般市民はなぜマスコミや識者が「ゲーム脳」という言葉を使わなくなったのか知らないので、ゲーム=脳に悪い(らしい)というイメージだけは残ってしまっている、もちろんゲームばかりやっていて良いわけもないが、依って立つところが疑似科学(詐欺)ではいけない筈だ。





 というようなことを、ゲーム好きの私は長く思っていたわけで、この「疑似科学入門」が一言言ってくれるかと期待していたのだが、驚くべし。

 『一種の神話化したものに「ゲーム脳」がある。ゲームに熱中すると脳波が乱れるようになり、集中力を欠いた子供になってしまうというものだ。道徳と結びついて急速に広がったが、厳密な実験によって証明されているわけではない』

 わずか3行である。これではとうていゲーム脳の危うさを表現できない。

 おまけにこのたった3行の文章にも問題がある。

 筆者は科学的検証の手法については熟知しているのだろうとは思う、たとえば「関連性の錯誤」に陥らないよう注意しなくてはならないと言い。Aが起こったあとBが起こったと言ってAとBに関連性があると思ってはならないと説いている。

 これはたとえば「船が沈没する夢を見た>乗船をやめたところその船は夢のとおり沈没し難を逃れた=予知夢は存在する」と言った誤りのことを指す(これはタイタニック事故の際の実話であり予知夢の話が出ると必ず引き合いにだされる例である)
 実際にはこれは
1・沈没の夢を見たら実際船が沈没した
2・沈没の夢を見たが、船は沈没しなかった
3・沈没の夢を見なかったが船は沈没した
4・沈没の夢を見なかったし、沈没も起こらなかった
という4つの例をある程度以上収集し、比較検討しなければ意味のないデーターなのである。
 
 なんでこんなことを言うかといえば、筆者は言葉のハンドリングについてはあまり得意でないのではないかと思われるからだ。

 つまり
 『厳密な実験によって証明されているわけではない』
 という文章は
 『厳密でない実験では証明されている』
 という意味を含むということに気付いていないのではないか、ということだ。

 これは『その紐は固く結んであるわけではない』が『結んである』という意味であるのと同じであり、言ってみれば『証明されている』と言っているに等しいのだ。

 筆者が「ゲーム脳」の一部なりとも信じているというのでないなら、これはあまりにも不用意な言葉使いであり、この本の趣旨とは180度違うメッセージを読者に送ってしまうことになる。

 これは扱いが短い上にさらに問題のある部分なのだが、他でも筆者自ら『人生を棒に振ったり、財産を失ったり、果ては命を失ったりする』という問題をさらっと流してしまうことが多い。
 これはかえって問題を矮小化することになるのではないだろうか?

 本書が取り上げた問題について多少なりとも知識がある人間はともかく(そういう人間はこの本を読まないと思う)本来のターゲットである「入門書が必要な人間」にこの本は本当に有効なのか(というより悪影響がないのか)疑問であると言わざるを得ない。



※1
『地球と火星の間には陶磁器製のティーポットが回っている、あまりに小さくて観測できず、地球、火星に重力の影響も与えていないので測定も出来ないが、そんなものは無いというなら無いことを証明してみせよ』というもの。
 これは「UFOは居る、超能力は存在する、ウソだというならウソである証拠を示せ」と反証責任を押しつけてくる人々を揶揄するたとえ話だ。
 「無い」を証明できないことを「有る」の証拠としてよいなら、世の中は言った者勝ちの「なんでもアリ」になってしまう。「何かが有る」というなら、主張する側が立証せよということだ。



 


月探査衛星「かぐや」が見た世界



 月面の登場する映画を始めて見たのはいったいいつのことだったろうか?
 濃紺の空を持つファンタジーな月面から、漆黒の空とコントラストのくっきりとした月面というリアル指向の絵まで、今まで無数の映画を見てきた・・というか、私自身月面という設定の撮影に数多く参加してきた。

 しかし今まで本物のそれをムービーで見ることはできなかったのだ。

 もちろんアームストロングの第一歩を始めとして月面の動画を見たことがなかったわけではない、しかしそれらは電送されノイズだらけになった絵であるか、16ミリの映像でしかなく高解像の絵はスチール写真で見るばかりだったのだ。

 それがついにハイビジョンで、つまり劇映画並のクオリティで月面のムービーが見られることになったのだ。これを見ずにいられるだろうか。

 というわけで川口市立科学館に行ってきた。


 この川口市立科学館というのは、Skipシティという名がつけられた15ヘクタールの広大な街区の一角にある。このSkipシティには他にNHKアーカイブス、早稲田大学川口芸術学校、彩の国ビジュアルプラザ(映像ホール、展示館、映像制作支援設備)など映像関連の施設が入っており埼玉県主導による「一大映像拠点」という代物なのだ。

 現在はその敷地のうちの1/3、5ヘクタールしか使用されていない。残っている空き地は映画製作によく貸し出され、ウルトラマンの本編ロケに使用されたこともある。2008年5月現在では「20世紀少年」の豪華なオープンセットが建てられており、私自身その撮影に何度となく通っている場所なのだ。

 



 などというバックグラウンドの話はさておいて映像の話だ。

 最初に学芸員のお姉さんが「この映像はよんけーのでじたるしねまぷろせっさ」で上映いたします」と自慢げ言ったのはほとんどの人にとって意味不明だろうと思わざるを得ず、学芸員としての資質に疑問を抱かざるを得なかったのだが、それはともかくその映像は明るくクリアなものだった。

 そして見てまず思ったことはスピードが速いということだ。かぐやの軌道高度はわずか100Km、スペースシャトルの1/4程度であり、月自体が地球より遙かに小さいので刻々と状況が変化していくのだ。
 シャトルから地球を見た映像ではシャトルが地球を周回しているという感じはしないが、かぐやの映像は目を地球儀(月球儀)に目を近づけた上でそれを回して見ているような雰囲気がある。

 そして始めてクリアな映像で月の表面を見てみると、これが思った以上に明るい(というか暗い部分がない)印象があった。

 地球を照らす光源は太陽のみであり、影(地上にある物体のうち陽の当たっていない部分=陰、と物体によって光がさえぎられた場所=影)を照明する光源はない。
 本当ならそこは真っ暗になってもいいはずなのだがそうならないのは、天空光があるせいだ。
 つまり空気中のチリや水蒸気によって乱反射された光が青空となり、その光が影の部分を照らしているのだ。

 しかし月面には空気がない、乱反射によって減衰しない太陽光は地球上以上に強烈に月面を照らし、一方チリのない空は真っ暗で天空光がない。したがって月面は光があたっている部分は明るく輝き、影の部分は完全に真っ暗とコントラストの強い世界である筈だと思われていたのだ。

 ファンタジーな映画はともかく、リアル指向な映画においてはたいていそのような照明効果がなされていた筈だ。しかし驚くべし、実際の月面はそのような白と黒だけの世界ではなく、むしろコントラストの弱い世界になっているのだ。

 これはアポロ飛行士が撮ったスチール写真などを見てもある程度は想像できたことだが、実は月面の砂は反射率が高く、しかも光を入射した方向に反射する性質を持っているのである。

 ガードレールの反射板や、工事現場で作業員が夜間着るベストなどに使われる素材、夜ヘッドライトが当たるとぎらぎら光るアレを再帰性反射材というのだが、あのような性質を持っているらしいのだ。

 月面の砂は再帰性素材ほどの精度があるわけではないので、太陽の方向に対してある程度拡散した光を返す。結果、月面の物体の光が当たらない部分を照らすことになり影の部分が完全な暗黒にならないのである。

 想像できたことではあるが実際クリアな映像を見て、やっぱり映画と違ってハイコントラストな世界じゃないんだ、と確認出来たのは収穫であった。

 ちなみにかぐやが月の夜の部分に向かって進んでいくとこれは事情が違ってくる。
 明暗境界線のあたりでは太陽光は地面に対してほとんど水平であり、かつ夜の側からは地面の反射光がやってこないので、地面にはくっきりとした影が出来るのだ。

 そして黒の際立つ地域の先には完全な闇が待ち受けている、その闇に向かって進んで行く映像にはぞっとさせる何かがある、そこが我々の住む星から遙かに離れた、大気がなく生命の無い世界であることを思い知らせてくれるからかもしれない。


 ところで、空気がないということは遠近感がないということでもある。地球では空気中の水蒸気やチリのおかげで遠くにあるものはコントラストや彩度が落ち、かつディティールが見えなくなっている。
 逆に言えば白く霞んで見えるものを我々は遠くにあると判断するのだ。

 特撮映画で我ら操演部がステージにフォグを焚くのは背景たる切り出し(山やビルを描いたパネル)やホリゾント(雲が描いてある)をぼかして強制的に遠近感を作り出すためである。

 ところが宇宙では、月では、空気がない、どんな遠くの物でも霞んで見えたりはしない。
 したがって見ているものの大きさを承知していない限り、それが近くにある小さなものなのか遠くにある大きなものなのか判別できないのだ。

 そして月面にあるものの大きさを我々は承知していない、まあ月の研究者ならクレーターの名前やサイズが瞬時に判別できるだろうが、我々一般市民にそれは無理だ。

 すると画面に映しだされたものが、直径数キロのクレーターなのか、数百キロのクレーターなのかわからないということになる。

 ナレーションが「××谷が視界に入ってきます」と言うので注目していると、高さ数十メートルと言われてもグランドキャニオン並と言われても納得できそうな峡谷が現れる。
 そこで「この谷は高さ数キロトールに達します」とか言われてもどうにも実感できないのだ「あのちょこっとした段差が実はエベレストがすっぽりとおさまってしまうサイズ???」てなもんである。

 これまた頭では承知していたものの実際のハイクオリティな映像があって始めて起きるカルチャーショックであろう。

 
・・など、見応えのある映像が25分続いたのであった。

 次にJAXAの人間が約30分に渡ってかぐやの探査計画について講演した。

 ここでわかったことは、というかまああたりまえなことなのだが、かぐやは月の探査計画の一環として打ち上げられたものであって、計画の中心となる科学者にとってはハイビジョン映像の撮影というのはおまけに過ぎないということだ。

 もちろんはっきりそうとは言わないが、たとえば観測ミッションとして以下のような一覧が示された。


蛍光X線分光計
スペクトルプロファイラ
マルチバンドイメージャー
ガンマ線分光計
地形カメラ
月レーダーサウンダ
レーザ高度計
月磁場観測装置
粒子線計測器
プラズマ観測器
電波科学
プラズマイメージャ
マルチバンドイメージャー
衛星電波源

 そしてハイビジョンはその最後につけたりのように(広報、教育)とのみ書かれているのだ。
 他のミッションが何をどう調べるもので、それが将来どんな用途に使われることが期待されているか詳しく書かれているのと比べると雲泥の差である。

 莫大な予算を必要とする以上、国民にわかりやすい成果を示す必要があり、そのためのハイビジョンだったのは理解できるが、『我々にとってはたいして重要じゃないんだよね』という本音をこうあからさま出してはダメだろう。

 講演のあと、質疑応答があったのでハイハイハーイ ('◇')ノと手を挙げ、ハイビジョンについていくつか質問をした。
 ハイビジョンカメラは進行方向に広角、後ろ向きに望遠の2個が固定されていること。
 撮影は常時ではないこと、撮影する場合でもデーター量が大きすぎるためリアルタイムで送信することが出来ないこと、というか送信している間は他の観測ミッションのデータ通信を一時停止しなくてはならないほどであることなどを聞いた。

 末席のミッションがいちばん大食らいであるというのも皮肉な話ではある。



 これは川口市立科学館の特別展示であったため「お勧めする」と言ってもどうにかなるものではない。しかし他の場所で同様の催しがあった場合には駆けつけることをお勧めしたい。
 JAXAのサイトへ行けばちっこい画面ながらこれらの映像クリップを見ることができるので見てみても損はないだろう。
 


 

スウィニー・トッド




 世の中には「見たい映画」の他に「見るべき映画」というものがある。 多少自分の趣味と違っていたとしても『映画好きならとりあえずこいつは見ておかなくちゃ』って代物だ。
 
 これは、その人が映画好きであることを自覚し、人生の楽しみの一つとして長くつきあっていくつもりなら時折定点を置いたほうがいいよ、ということだ。

 定点-基準点と言ってもいいが-を置く効用のひとつとして、たとえば良くできていない映画の見分けがつくということがある。
 なにからなにまでダメダメな映画でないかぎり映画は見ているうちはそれなりに楽しく見れてしまう、小説などと違って自分のペースで見ることも見返すことも出来ないので多少のおかしさも流されていってしまうわけだ。
 しかし、ちゃんと書かれた脚本とちゃんとなされた演出と、ちゃんと撮られた絵を見た経験が多くあれば、おかしな映画を見たときおかしいと気付くことが出来るというわけだ。
 
 あるいは映画の前後関係を理解するという意味もある。映画はパクリパクられで進化していくものであり、設定や話の展開、あるいはカット、セリフなどを監督自身オマージュとして(観客サービスとして)意識的に引用する場合もある。それを理解して観ると観ないとでは得られる楽しみが違う。
 (逆にオマージュを「独創的な映像表現」と思いこみ、公言したりすると恥ずかしいことになる)。
 したがって、エポックメイキングな作品はとりあえず観ておくべきなのだ。
 (ジェームス・キャメロンやウォーショースキー兄弟の押井守への傾倒はよく知られるところで「マトリックス」の柱が銃撃ではじけて行く様は「攻殻機動隊」へのオマージュだ、それを知らずして「さすがウォーショースキー」とか口走るのはまずいわけだ)

 さてそのようなポイントとなるべき映画の条件はいくつかある。
 基本的に言えば、完成度が高いことと、監督の個性が際立っていること、なにか新しい趣向が盛り込まれていることは重要だろう。

 なにが言いたいのかというとつまりは「スウィニートッド」は見ておくべき映画ということだ。

 基本的に私はミュージカルというのが苦手で、まあオズの魔法使いもメリーポピンズもサウンドオブミュージックも面白くは観たが、登場人物が突然歌い出す、踊り出す、なぜか通行人までがダンスの輪に加わるなどという演出には違和感を覚えるクチだ。

 よってこの映画も敷居が高かったのだが、ティム・バートンが普通の映画を撮るわけはあるまいと思っていたところが期待通りに普通ではなかった。

 そもそもミュージカルというのは明るく楽しい映画なのが普通なので、スプラッターでバイオレンスでホラーでサスペンスでR-15なミュージカルという企画自体が普通ではない。

 観客の神経を逆撫でする演出、というか観客を不快にさせたいとしか思えない演出はティム・バートンの独壇場であり。見ていて陰々滅々としてくるのだが、緩急心得た職人芸によって目を離すことも出来ず、地獄巡りに最後までつきあわされてしまうところは見事としかいいようはない。

 演出はもちろんセットデザイン、衣装、小道具、撮影効果すべてにスキがなくまさしく魅入られてしまう、悪趣味も極めれば芸術と化すということだろうか。

 ジョニー・ディップの狂気に満ちた暗く悲しい歌も一聴の価値(?)があり、完成度高く、監督の個性が際立ち、新たな趣向が盛り込まれたこの映画はまさしく「見ておくべき映画」の一つである。

 強くお勧めする



 

インディ・ジョーンズ/ クリスタル・スカルの王国



 ハリソン・フォードもすでに65才、アクション娯楽大作の主役を張るには少しばかり年が行きすぎている。やめといたほうがいいんじゃないのと思わないでもなかったが出来てしまえばこれはお祭りである、なにはともあれ初日に行ってきた。

 行ってきたのではあるが、前3作の時代とは違いスピルバーグには手離しで信頼する(?)だけの信用が無くなっているのは確かだ。
 
 そもそもスピルバーグは娯楽映画の巨匠というイメージがあるが実は社会派映画のほうが多い。これは『激突!』『ジョーズ』 『未知との遭遇』『レイダース/失われたアーク』 『E.T.』とデビュー以来立て続けにヒットさせたにもかかわらずアカデミー賞にかすりもしなかったことで思うところがあったらしく(簡単に言えば「それならイヤでもアカデミー賞を渡さざるを得ないような映画を作ってやる」ということ)以降娯楽大作と社会派映画を交互に作るようになったからだ。

 これを私(と私の回りの一部の映画好き)はスピル作品とバーグ作品と呼び分けている

曰く
『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』スピル
『カラー・パープル』バーグ(第一回作品)
『太陽の帝国』バーグ
『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』スピル
『フック』スピル
『ジュラシック・パーク』スピル
『シンドラーのリスト』バーグ
『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』スピル
『アミスタッド』バーグ
『プライベート・ライアン』バーグ
『A.I.』バーグ
『マイノリティ・リポート』バーグ
『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』スピル
『ターミナル』バーグ
『宇宙戦争』バーグ
『ミュンヘン』バーグ

 これはスタジオジブリで宮崎駿が娯楽大作を作り、高畑勲が社会派映画を作るという関係、つまり
 『トトロ』宮崎駿
 『火垂るの墓』高畑勲
 『魔女の宅急便』宮崎駿
 『おもひでぽろぽろ』高畑勲
 『紅の豚』宮崎駿
 『平成狸合戦ぽんぽこ』高畑勲
 
 に似ているが、スピルバーグの場合個人の中で作風が分裂しているのだ。

 ところで、これは個人的な話になるが私は社会派映画というのが好きではない、映画は映画そのものを楽しむために作られるべきものであって、はじめに何かしらの主義主張があり、それを他人に伝える手段として映画を使うなよと思うからだ。

 もし監督に充分な才能があり、脚本がきちんと書かれてあり、芝居がちゃんとなされていたなら映画は自ずから何かを語るだろう、それが娯楽作品であろうともだ。

 とはいえそのような映画を撮るのも観るのも好きずきであろうし、それを声高に言うつもりはない、ただ自分とは無関係な映画が世に中にはあると思うだけだ。
 ところが世の中には娯楽大作と見せかけて、監督が観客に向かって説教したり、ありがたいご託宣をのべようとする映画がある。
 たとえばその一つがスピルバーグの『宇宙戦争』だ。
 カラーパープルやシンドラーのリストを娯楽大作だと思う奴はいない。しかし『宇宙戦争』が「家族の再生の物語」になっているとは想像の埒外である。

 人類の偉大な財産である古典SF「宇宙戦争」をそんな卑近なものに押し込め、消尽してしまったこと(スピルバーグの後、誰も宇宙戦争を映画化しようとは思わないだろう)、映画ファンの期待を逆手に取ったこと(「あの宇宙戦争」を「天下のスピルバーグ」が映画化したらどんな凄いSF映画が出来るだろうと映画ファンが期待することがわからない筈はない)この2つで至近の私のスピルバーグ評価は地に落ちているのだ。



 ・・・ということで一抹の不安を持っての鑑賞だったのだが、幸いにも杞憂であった。ジョージ・ルーカスとのタッグ(というかハリソン・フォードとのトロイカなのか)なのも良かったのだろう。

 無限の富を約束する秘宝、そのありか示す謎の地図、謎の言い伝え、極悪非道な指揮官に率いられた軍隊組織、その軍隊と秘宝への先陣争い、カーチェイスとカーアクション、秘境探検、ツタにまみれた古代遺跡、数千年の時をへだてても作動する遺跡の罠。
 
 そうそう、これこれ! というオーソドックスな作りである。

 観ていると、それはオカシイだろ?とか、どうしてここがそうだとわかったの?とか、敵がなに考えてるのかわかんないんですけど?とかいう部分も多いのだが、いわゆるジェットコースター感覚の映像に鼻面を引き回されているうち、まあいいか、という気分になってきて、約2時間楽しく鑑賞できる映画に仕上がっていた。

 観ているうちは夢のようであり、見終わったあとは何も残らない娯楽映画の王道といえる作品だろう。


 強くお勧めするとまでは言えない、しかし見て損はない。
 見るつもりがあるなら劇場公開中に大スクリーンで見ること、これだけは譲れないところだ。






 ところで前3作の時代はまだCGが普及していなかった。したがって、後処理で危なく見せかけたり、広く見せかけたりは出来るだろうものの「映っているものは撮ったものだ」という認識が観客の側にあった。それゆえアクションシーンなどは「おお、すげえ」と思えたものだが、今は違う。

 というか、本当に「違う」かどうかもわからぬまま、今ならこんなことはCGとかで簡単にできるんだよねと観る側が思っているということがある。

 それゆえ凄い絵を見せられれば見せられるほど、こんなもん本当にやらない(作らない)よね?と思ってしまうという倒錯した状況にあるわけだ。これは映画にとって不幸なことだ。

 なんのことかというと、たとえば冒頭に超巨大な倉庫が出てくる、第一作「失われたアーク」のラストに出てくる倉庫と同じ場所(という設定)なのだと思うが、あまりに巨大で果てが見えない。当然こんなのデジタル合成だろうと思っていたら、本当にセットに組んだのだという。

 ラストシーンの古代遺跡もメイキングを見たかぎりではかなり作ってある、しかしあまりに凄いので本物に見えない、もったいない話である。





 さらに余談だが、今は洋画、邦画ともに続編か原作付きでないと映画が作りにくい状況にある。「映画はあまりにもハイリスクになってしまったので新作の大作映画はもう作れないだろう」とジョージ・ルーカスも言っている。
 
 だから映画会社としては大ヒットタイトル(金の卵を生むニワトリ)を捨てたくないわけだ、しかし作品は役者とセットであり役者は老いてしまう、タイトルを残すには世代交代しかない、というのが20年近い時を隔ててインディジョーンズを復活させた真の理由ではないかと思うのだがどうだろうか?


 

ビューティ・ジャンキー 
アレックス・クチンスキー



 アメリカ人は「見た目のよさ」というものを重要視する。そして現代のアメリカ人ほど「完璧な美」というイメージに囲まれている人々はいない、と筆者は言う。

 女性は美しさをアイデンティティと結びつけ、男性は成功に結びつけて考える。
 アメリカ文化では、美や若さの水準からかけはなれた人はあからさまに低い評価を与えられるのだ。

 太り過ぎの求職者は精神病歴を持つ求職者より厳しい評価を受け、生活における3つの要素「雇用・教育・医療」であからさまに非難され、時に差別される。

 親が太った子供に出してやる学費はやせた子供に出す額より少なく、肥満の人のそばにいるのを見られた人も劣っていると思われるという報告もある。

 そして美しい女性ハンサムな男性はそうでない男女と比べて当然のように多くの金を稼ぐ。
 ある程度容姿端麗であることを要求される職業は存在するが、外見が関係ない筈の分野でも容姿が物を言う。たとえばハンサムな自動車整備士は不細工は整備士より、美しい教師は不器量な教師よりも多く稼ぐという調査結果がある。

 そしてアメリカ人の51%が自分の容姿にあまり/まったく満足していないのだという。


 結果、TVでは女性の容姿の「徹底的な改造」をネタにした番組が多く作られ、さえない視聴者が美容整形によって「生まれ変わり」その感激のあまり家族とともに涙する様がオンエアされる。

 2003年から2004年でアメリカで実施された美容整形の数は44%増大している。
 弾力ある巨乳、ほっそりした腰、キラリと輝く白い歯、昔希少なものだったそれは今や望めば誰でも手に入るものとなったのだ。
 
 かつてアメリカ人女性は自宅でタッパーウェアパーティを開いたが、今は「プリプリパーティ」を開くのだという、つまりカバンにボトックスを詰め込んだ医者がやってきて、ワインのソーダー割りをすする女性達にボトックス注射をしてまわるのだ。

 ボトックスとはボツリヌス菌が作り出す、A形ボツリヌス毒素製剤のことでこれを顔のシワのある部分に注射するとその下の筋肉がマヒしてシワが魔法のように消えるのである。

 50才であるにもかかわらず晴れた日なら35才に、薄暗ければ25才でも通用するスベスベの顔をした筆者の友人もその常用者だという、とはいえこれは女性専用というわけではない。
 50台の弁護士であるロバートは鋼鉄の神経と何事にも動じない沈着冷静な表情を得るため1本数百ドルかかるボトックスを何カ所も注射してもらって大理石の塊のようにシワ一つない顔を得る。

 この魔法のようなボトックスにも副作用がある、大量に使用するとボツリヌス中毒を発症するというのはとりあえず置いておくとしても、これは顔の筋肉をマヒさせているので使いすぎると表情が乏しくなってしまうのだ。

 バス・ラーマン監督は映画「ムーランルージュ」を撮影中、俳優がボトックスを使うことに不満を述べたという。筆者が主演女優であるニコール・キッドマンに会ったところ、彼女の顔は滑らかで傷ひとつなく「額の中央の2,5センチ四方を除いてまったく動かなかった」という。

 筆者は更に。『「デスパレートな妻たち」のマーシア・クロスの額と頬はまるで能面さながらにすべすべで無表情だ、私は彼女の蝋人形のような顔を見ながら、これと同じものをどこかで見たことがあるような気がした(中略)それは赤の広場でレーニンの防腐処置をほどこされた遺体を見た時だ、レーニンの顔はマーシア・クロスと同じくらい無表情で同じくらい輝きに欠けていた』と言う。
 (訴訟社会のアメリカで女優相手にこんなこと書いて大丈夫なのだろうか)


 というような美に取り憑かれた人びとの話が次々に語られる、アメリカは今やビューティジャンキーにあふれているのだ。

 彼/彼女らは、ボトックスを打ち、脂肪を吸引し、吸引した脂肪を他の部位に注入し、脂肪を溶解するハーブを注射し、金の糸で顔をひっぱり(フランス式)、とげのある糸を皮下に縫いこんで顔を持ち上げ(ロシアンリフト)、バストにインプラントを埋め込み、鼻を削り、細い靴につま先が入るように足の指を削り、顔の皮膚を化学薬品でむき、眉を植毛し、レーザーでシミを焼き、歯にコーティングを行い、歯にかぶせものをして厚みを増し(口まわりが大きくなるのでシワが減る)

 胃を小さくする手術を受けてカロリー制限をし、やせて余った皮膚が垂れ下がり互いにこすれて炎症を起こす、そこで何度も手術を受けあまった皮膚を切りつめる。



 かつて整形手術を行うのは形成外科医だけだった。しかしアメリカではその医者が医学博士号を持っているかぎり、なんの専門医として学会認定を受けたかに関係なく形成外科手術をおこなうことができる。
 また美容整形は疾病ではないので保険は使えない、それは保険会社と交渉することなく高額な日銭が入ってくるということだ。そこで今や医学分野全般から人が流れ込んでいる。

 結果、美容整形外科分野の医者の信頼性には大きなバラつきが生じている、しかし消費者が医者の技量に関する情報を得ることは難しい。
 公式な学会は「米国形成外科学会」だけなのだが、認定機関と称する学会が数多く存在するからだ。

 口腔外科医も美容整形の権利を求めて活動を始めた。
 彼らの資格は歯学博士であり医学博士ではない、しかし昔から事故で砕けた顎、不揃いな歯、奇形や外傷の治療に携わってきたし「歯、歯肉、顎骨、『関連する組織』」の診療が出来ると歯科診療法に書かれているので美容整形をする技術と権利があるはずだ、というわけである。

 これは形成外科医からの大きな反発を招いた、つまり美容整形を行うには専門知識が必要で口腔外科医が受けた訓練では不十分であるという。

 双方の言い分の本音はこうであろう
 口腔外科医「あらゆる医者-皮膚科医、消化器専門医、婦人科医-が美容整形で儲けているのだから、我々がそうしてもいいではないか」
 形成外科医「分け前が減るから来るな」

 形成外科医の抵抗は大きかったが、十数州で口腔外科の治療の範囲が広く捉えられるようになった(そのおかげでバージニア州では少なくとも1人の患者が死亡した)
 パイの奪いあいが始まったのである。

 パイの分け前が減少することを憂いた形成外科医は、患者層の拡大に努め始めた、つまり年齢層の引き下げである。
 従来美容整形は中年になって容姿の衰えを感じ始めた人間が行うものだった。
 しかし、人間誰しも「幸福になる権利」がある、「本当の自分」になることが出来る(!)自信を持てる、求めれば「完璧な美」が自分のものになる、年をくってから急に始めるより若い時からすこしづつ「手を入れたほうがいい」と宣伝することであらゆる年齢層に対して攻勢に出たのである。


 著者がデートした「若くて性格のよさそうな整形外科医」は、初デートの夜「2人の間になら美しい子供が生まれるよ、けど、僕たちは2人とも上まぶたが腫れぼったいから、幼稚園に入る前に『予防的上眼形成手術』を受けなきゃならないね」と言ったという(それが最後のデートになった)

 いまアメリカでは娘の高校の卒業祝いのプレゼントとして豊胸手術を贈る親も増えている。


 ・・・あまりの不気味さ不快さに途中何度も読むのをやめようと思ったのだがなんとか読み切った(後半はちょっととばし読み気味になった)
 なにしろ、どの頁をめくってもおぞましい話で満載なのだ、彼/彼女らが神の怒りに触れ硫黄の火に焼かれたり塩の柱になったりしないのが不思議なくらいである。

 怖い話がお好きな方には読んでみることをお勧めしたい。


 


刈りたての干し草の香り 
ジョン・ブラックバーン




 本や映画を見る時は出来るだけ予備知識-先入観というか-を持たず見始めたほうがいい、とはいえなにかしらの予備知識が無ければ数ある作品のうちどれを選ぶべきか決定することが出来ない。

 そういう意味で一番いいのが自分の趣味をわかってくれる人間からのお薦めである。「あんたの趣味だよ、きっと面白いよ」という作品にまずハズレはない。

 次にいいのが自分と同じ趣味/感性である人間が面白いと言っていたものを選ぶというやり方だ。
 自分が面白いと思った作品を同じく面白いと言っていた書評家、評論家ならその取り上げる作品が自分むきである可能性は高い。
 (逆にこいつの本の趣味にはついていけないとか、こいつ映画の見方がわかってねえと思う人間が勧める映画は避けるという手もある)

 確度は落ちるもののある程度信頼性の高いマスコミの書評も参考になる、その一つが新聞だ。
 書評が載るのは日曜だが、取っている新聞2紙両方合わせても取り上げられるのは十数冊しかない。その中にはドキュメンタリーや学術研究書なども含まれているのでエンターティメントは3,4冊だ。天下の大新聞が数あるエンターティメントからわざわざ取り上げて紹介するのだからそれに何かしら特筆すべきものがある蓋然性は高い。

 「同じ感性を持つマスコミを信頼する」という合わせ技ある。
 よい例が毎年年末に出る「このミステリーがすごい」(通称「このミス」)である。
 私は赤川次郎、山村美紗、西村京太郎の本を一切読まないのだが「このミス」編集部もこの人たちの書くものを「リーグが違う」と言って取り上げない。リーグとはなんのことかというと、つまりはこの人達は「キオスクリーグ」なのだそうだ。出張で新幹線に乗るビジネスマンが暇つぶし用にホームで買って車中で読み終える本という意味である。

 よく言った!というわけで私は「このミス」編集部を全面的に信用しているわけだ。


 一方気をつけなければならないのが映画評論家だ、彼らは試写で映画を観なければ仕事にならず、配給会社は自社の作品をけなした人間を試写から閉め出してしまうので、彼らの言うことにはバイアスがかかっている。

 《ちなみに私は全ての映画を自腹で観ている、レンタルDVDの場合もあるがそれも自腹には違いない、そして自分のタッチした作品については書かない、客観的に書く自信がないからだ》


 余談だが。

 「自分のやったあの作品について書いてくださいよ」と知人にリクエストされることもある、ところがこれが良いところを捜そうにも見つからないどうにもこうにもな作品な場合がある(多い)こういう場合ウソは言いたくないしその人を傷つけたくないので書かない。

 しかし「書いてくださいよ」と言うからには自信があるわけだ。
 「いや、誉めるとこがないんだけど」と(口頭で)言ってみると。
 「あ~はっは、またまたぁ」という反応だったりする、普段映画を見る目がある人でも自分の事は見えないんだなと思う瞬間だ。

 最近これが「認知的不協和」という心理現象であることを知った。
 認知的不協和の発露にはいくつかのパターンがあるが、その一つが「苦労した人はその苦労が無駄になったと思いたくない」というものだ。
 人はそのためなら通常持っているはずの理性的、客観的判断までゆがめて自分に都合のいい解釈をしてしまうわけだ。

 これはその人の持つ物差し自体が狂ってしまっているという事なので、本人がその歪みに気付くことは出来ない。
 こういうときは、ああ、この人は苦労したんだなあ、と思って一緒になって笑うより手はない。
 故に自分のタッチした作品について触れるのは危険なのである。

余談終了。



 さて、なんの話をしているのかというと予備知識の話だった。つまり良質の予備知識を仕入れるのは難しい。仕入れ先はあまり多くないし時には間違っていることもある。

 出版社(配給会社)や評論家になにやらの思惑があって・・ってまあ「売ろうとして」ということだが、怪しい仕掛けをしてくることさえある。

 その一つが本書だ。
 ブラックバーンは「モダンホラーの先駆け」というふれこみにより再評価されている作家である。
 話に聞くかぎり『暗闇に葬れ』という作品などはホラー色濃いようだが(読んでない)1958年に発表された彼の処女長編である本書は断じてホラーではない。

 しかし、再評価ブームに肩入れしてか新聞の書評がこの本をスティーブン・キング登場以前のモダンホラーの嚆矢などと持ち上げたのだ。

 私が読む気にはなったのは彼らの思惑通りだったかもしれないが、間違った予備知識を仕込まれたため私の心構えが狂ってしまい、結果「こんな話なの?思ってたのとずいぶん違うじゃない?」と思いつづけるハメになり、読後感は最悪となってしまった。



 
 本作品の舞台は第二次世界大戦直後のイギリス。戦争の傷あとがそこかしこに残り世の中がまだ混沌としている時代である。
 
 お話の核となるのは敗戦寸前にドイツのマッドサイエンティストが開発した生物兵器だだ。
 きのこを突然変異させ作ったその胞子を空気中に散布すると肺から侵入、体内で増殖してやがて人を「人の形をしたキノコ」に変えてしまうのである(マタンゴ!)
 敗戦間近のドイツですら使用をためらったというあまりに非人道的なそれを隠し持ったまま女科学者は逃亡してしまっていた。
 
 戦争が終わって3ヶ月、ソ連の村が一つ壊滅したという情報を手にいれたイギリス情報部はそれがこの生物兵器によるものであることをつきとめる、東風が吹けば胞子はヨーロッパに至りやがては世界を破滅させてしまうだろう。

 こうなるとこれは一種のエスピオナージである。
 ホラーっぽいのは冒頭だけ、この壊滅した村に漂着した難破船の乗組員が深い霧の中でこの「歩くキノコ」に遭遇する部分のみである。
 「本物の地獄」が霧の中から姿を表すシーンはスティーブン・キングの「霧」を先取りした緊迫感があるが、これはただの「つかみ」でしかない。この怪物は2度と出てこないのだ。

 以後はこの女科学者を探し出せ、というマンハントの物語になるのだが、このあたりから小説は奇妙にねじれ始める。

 まず兵器として完成してしまったこの胞子を調べてもワクチンを作る事は出来ない、と科学者がいきなり宣言する(なぜ?)
 そして元となった菌は特定できたので、突然変異させるために使った放射線の量がわかればすぐにワクチンが作れると言う(そんなバカな)
 
 それ故女科学者を早く見つけ出せ、ということなのだが「東風が吹くまでは安全」というのはどうなのか?

 また拡散が始まれば世界滅亡の危機だというなら各国の官憲を総動員するべきだと思うのだが。その調査にあたるのは元生物兵器担当の科学者であり、今は田舎の教師に落ち着いている主人公一人なのである(どうして?)

 さえない感じの主人公が女科学者失踪の事情を調べ始めるに至って、私はこれがホラーでないばかりか、エスピオナージですらないことに気付いた。

 放射線の量がわかって始めて活躍できる筈の主人公が金田一耕助よろしく探偵してなんの役に立つのだろう?、コメディ?・・いやいや。
 
 作者の意図に思い至らず釈然としないまま読みすすみ、やがて女科学者の発見をもってこの物語が結末となるらしいことに気付いて私はやっとこの本の正体に気づいた。要するに「名探偵コナン」である。

 主人公は一人で歩き回っているので出会える人物の数に限りがある、しかもターゲットは女だけだ。ラストになってそれまで顔も見せなかった人物を急に名指しして終わるのでないかぎり、犯人(?)はそれまでに登場した中にいるわけだ。

 名探偵コナンは、コナン君の回りで毎回殺人事件がおこり、しかもそれは
1・事故、自殺でないことがあきらかであり
2・通り魔の犯行でないことがあきらかであり
3・絶対的なアリバイを持っている人間はおらず
4・逆に逃れられぬ証拠を残してしまっている人間はおらず
5・適度に動機があり、適度にアリバイがなく、つまり適度に怪しい容疑者が3,4人居る状況で
6・皆が見落としている証拠をコナン君がつなぎあわせて犯人を名指しする
 という構造になっている。

 これは『名探偵、関係者あつめてさてと言い』というきわめて人工的な状況だ。
 このように整理された状況下で犯人探しをするタイプの小説をミステリーでは特に「パズラー」というのだが。この『刈りたての干し草の香り』は実はパズラーだったのだ!

 ・・・・・誰だホラーとか言ったのは。


 

スカイ・クロラ 森博嗣





 「全てがFになる」は衝撃的に面白かった。
 だから犀川創平と西之園萌絵のシリーズ(通称S&Mシリーズ)は10作皆読んだ。
 シリーズがボロボロになっていく様もまた衝撃的だった。
 以降、森博嗣作品に手を出していなかった。

 過去形なのはなぜかというと
 押井守が「スカイ・クロラ」を映画化すると聞いて再び手にしたからだ。

 結果は『己の直感は尊重すべし』という教訓を手にしただけだった。

 たぶん作者は「軽やかで詩的で自由な」小説を書いたつもりなのだろう。
 でも、僕には軽やかで詩的で自由な小説を書こうとしている作者が見える。


 ヘッドライトをつけると、

 ボンネットの先に蛾が飛んでいた。

 二匹。

 車は、二人を駐車場から連れ出す。

 どこからでもいい、

 どこへでもいい、

 きっと、

 連れ出してほしい二人だっただろう。


 という一節を読んだ時は真剣に本を閉じようと思った。
 こんな苦行には耐えられない。

 いやわかっている、
 それはきっと僕と波長が合わないだけなのだ。
 それも、ひょっとしたら少しだけ。

 チューニングが完全にずれたラジオはなにも受信しない、
 ちょっとずれたラジオは神経を逆撫でする
 そういうことなのかもしれない。

 それとも
 散文を短く改行してそれらしく見せかける努力をしていた
 小学校2年の時の詩を書く授業
 (なにしろ僕には詩というものが理解できなかったので)
 あの時のことを思い出してしまうからかもしれない
 

 ともあれ
 「原作付きの映画は、見る前に原作を読むこと」
 僕が僕に課しているルール、 
 これをもうすこし弾力的に運用してもいいのかもしれない
 そう思ったことだけは確かだ。

 

エヴァンゲリヲン新劇場版:序




 映画館で見てカッコイイ!と思ったのですが、映画館では「あ、今のカッコいいとこもいちど見たい」と思っても、もういちど見られるわけもなく、DVDレンタルに出たらもいちど見ようと思っていたので、DVDレンタルが始まったから、映画館でカッコイイと思った所を見て感想を書こうと思います。

 というような、繰り返しの多い文章とそもそも意味のない前書きで、なんとかカサを増やして「読書感想文」を片付けようとしていたっけなあと思う私でした。

 教育委員会の皆様、課題図書と感想文は子供の読書嫌いに拍車をかけると思います。
 自分が子供の時何を考えていたか忘れましたか?あと小学生は大人が思うほどには子供じゃないってことも。
 彼らはどのみち正直な感想なんか書きゃしません「『メロスは約束を守ってえらいなあと思いました』って書けっていうことでしょ?先生」と普通に考えますからね。

 と、夏休みの記憶が甦ったところで閑話休題。



 Coolな映画である。前にも何回も書いたと思うのだが、日本のアニメーションはある高みに達した文化である。「芸術」と言い切っても構わない。それも純粋芸術ではなく、美術工芸といった実用と美を高度な領域で融合させた技である。

 それはアニメーションが我々の間に深く浸透しているからであり、子供の時から高度な作品をあたりまえのように見ているからであり、そこからアニメーターを目指す人間が多く、すそ野が広いがために頂点が高いせいである。
 (これはブラジルのサッカーが強い理由とまったく同じである)

 もし日本にアニメ文化なかりせば他の分野に流れたかもしれぬ多くの才能が流れ込んでいるわけで、アニメという表現形式だけを理由に他の表現形式とくらべてその価値が低いと思っている人間がいるとしたら(多くの人間がそう思っているわけだが)それは見る目がない。


 ともあれ、この映画を見ていると随所で「気持ちイイ!」と思う。その理由は数多いのだがその一つに動きが適切であるということがある。
 動きと言ってもこれまた数多いのだが、たとえとしてひとつ上げるなら扉の開閉である。

 通路を歩くシーンとなれば途中にドアがいくつもあるのだが、それがただのパーティション(薄い)場合は軽くスマートに、防御隔壁(とても分厚い)場合は重々しく、その動きの中割(つまり動き始めの加速感、途中のスピード、止まり際の減速感)ひとつでそれがプラスチックで出来た軽いドアなのか、重さ1tもある鉛の固まりなのかが表現できている。

 めちゃめちゃ重そうな隔壁が、重いながらも強大な動力によって滑らかに降りてきて、しかし止まる寸前にメカニカルな損傷を避けるためやや減速しつつ停止する、といった演出をただの(背景でしかない)扉であたりまえのようにやってのけるジャパニメーションって凄いと、この映画を見ると改めて思ってしまう。

 「アニメ文化のひとつの到達点」とは昨年「時をかける少女(アニメ版)」の感想の冒頭に書いた台詞だが、これもまたひとつの高みと言えるだろう。
 登山の世界には7大陸の最高峰<セブンサミット>という言葉があるが、日本にはエヴェレストたる宮崎を筆頭に庵野、押井、大友、板野、出崎などの最高峰が並び立ち、さらに気鋭の後進演出家も輩出している。

 これは日本のアニメ全体の底上げにつながっており、今やおよそアニメと名が付くもので「見るに堪えない」物が世に出ることはほとんど無い、低予算を強いられていることがあきらかな深夜アニメ、あるいはOVAでも「それなり」の絵が見られるのはこの底力のたまものと言えるだろう。
 (余談だが、そういう意味では数年前に放映されたNHKの「十二国記」の作画のまずさは驚異的であった)

 エヴァは一時「社会現象」とまでいわれたほどのブームを呼んだ癖のあるアニメであり一見さんには敷居が高く、またすでに「離れて」しまった人にとってはまたかよ!と思う代物であるのは承知しているが、あえて言う見て損はない

 


ハプニング



 ここでストレートが来る筈はあるまい、と変化球にタイミングを合わせて待っているとど真ん中の直球が来るのでたまらず振り遅れてしまう、シャマランの映画とはそんな映画である。

 わからないって?

 言い方を変えよう、シャマランのすごさはそんなバカなというネタを正面から言い切ることである。

 ますますわからないであろうので例を挙げよう。

 たとえば「サイン」
 「畠にミステリーサークルが現れる、家をうかがう怪しい影がある、宇宙人か?」
 とストーリーが進行してきたら、今時これが本当に宇宙人の仕業だと思う奴はいない。
 ところが映画の中盤、グレイそのものの宇宙人が画面に登場するので「ホントに宇宙人かよ!」とすれっからしの映画マニアは驚くのである。

 次に「アンブレイカブル」だが。

 アメコミの主人公のような不死身の男がこの世にはいる。列車事故でもケガ一つしなかったブルース・ウイルス(!)こそのアメコミヒーローなのだ。と言われれば「なんかの寓意でしょ?」と普通の人は思うわけだが、じっさいウソも偽りもなく、アメコミヒーローだったのだ、と言われれば唖然とするしかない。

 「レディ・イン・ザ・ウォーター」は。
「アパート中庭のプールに人魚が住んでいる」と言われて、どういう事?と思って見ていた観客は、プールの底に本当に小部屋があって人魚が住んでいるのを見て「ホンキか?!」と自失するしかないわけなのだ。

 これが見る側の勝手な思いこみであるには違いない、シャマランは言うだろう、だから最初から「宇宙人が来た」「ブルース・ウイルスは不死身のヒーローだ」「人魚がプールに住んでいる」と言っているだろう、と。

 そうシャマランは最初からストレートを投げると宣言し、ストレートを投げているだけなのだ、これが変化して見えるとすれば我々が変化球が来ると思って待ちかまえているせいなのだ。


 さてしかし、今度の映画である。

 「人々がある日突然集団で自殺を始める」という大ネタをシャマランがどう料理するかと興味津々で見にいったのだがどうも腰が引けている。

 原因について主人公が「かもしれない」という仮説を立てるのはいいが、映画はそれが正解だ!と堂々と言い切ってくれないのだ。
 そもそも画面を見ているかぎり「そうとは思えない」描写が多く納得できるものではない。

 パニック映画のフォーマットで映画を始めておきながら、この映画の眼目はその異変の正体に迫ることではなく、異常な事態に巻き込まれた人々の人間模様を描くことにあるのです、といった逃げ腰な映画が時にある。

 大規模な異常事態に1個人たる主人公が立ち向かい解決に至るというのは実際無理が多く、ヘタをうつと映画が子供騙しっぽくなるので逃げているわけだ。
 (やったもん勝ちで成功してはいるが「クローバーフィールド」などはその一種と言えるだろう、本来怪獣映画は怪獣倒して終わらなければ・・)

 シャマランはそんな逃げは打たず、どんな異常事態も正面突破をはかってくれる男だと信じていたので私としてはがっかりである。

 


スカイ・クロラ





 「アヴァロン」が公開された時も「イノセンス」が公開された時も黙殺に近かった日本のマスコミがここへ来て急に「宮崎駿と並び日本が世界に誇る映画監督」などと押井を持ち上げているのはいったいどういう大人の事情があるのでしょうか、なぜですか神谷さん(誰だ)

 さて押井と言えば「攻殻機動隊」だ(ウォショウスキー兄弟は押井の熱狂的なファンであり「マトリックス」はテーマ、映像共に「攻殻機動隊」の影響下にあると言ってよい。またジェームス・キャメロンはこの映画の全カットをそらんじていると言う)
 しかしこれは士郎正宗の原作から設定だけを取り出しその方向を120度くらい曲げて作られた作品である。

 原作はオタク少年のためのお色気マンガとも揶揄される一種猥雑なサイバーパンクであって主人公草薙素子も生気にあふれたイケイケ(死語)のお色気キャラである。しかし押井版素子は内省的で中性的なアンドロイド美女であり・・というかこの「内省」が映画のメインテーマになっているわけで、原作の素子が内省とは縁のない存在であることを考えればこれはまったく別のオハナシである。

 このように「こんなに違えるなら原作を求める必要はなかったんじゃないか」と思われるほど独自色を出すのが得意な押井であるからには「スカイ・クロラ」はどうなってしまうのだろうか、と思って見にいったところが驚くべし。
 原作そのまま、である。

 設定、ストーリー進行共にほとんど手つかずであってしかも森博嗣が原作小説でやろうと試みて(あきらかに失敗して)いる「詩的な感じ」を見事に表現している。

 そしてここが重要なところだが、たった1ヶ所ラストをちょっとだけ変更しているが、このちょっとの変更が映画のテーマを見事に際立たせ、観客に何事かを伝えるのに大きく貢献している。
 映画ってのは(小説でもなんでも物語はみなそうだろうが)ちょっとした変更、たとえばシーンの並びを入れ替える、同じセリフでもそれを言う人物を変更する、などでガラリとその様相を変えてしまうことがある、この変更はまさしく正鵠を得ていたということだろう。
 つまるところこの映画は原作よりはるかに面白い(まあ、原作が最低につまらないのでそれよりつまらなくするのは難しいとも言えるのだが)これはめったにない快挙である。

 内容について先に触れたが、マニアックでメカニックでミニタリーな押井とその一味が空戦シーンのある飛行機映画を作っているのだから映像方面での気合いの入り方は当然のごとく並ではない。

 カッコイイ、華麗な、気持ちのいいカットのオンパレードであり「日本が世界に誇る」アニメの技を見に行くだけでもこれは充分価値がある映画と言ってよい。

 余談だが、この映画の直前にルーカス・フィルムのアニメ「クローンウォーズ」の予告が流れた。これを見ると「ああ、スターウォーズのアニメね、まあそれなりね」と思えるのだが、直後「スカイ・クロラ」が始まると、「うわっ!全然違う、これがアニメならあれは紙芝居だ」とあまりのクオリティの差に衝撃を受けることになる。
 (この「カッコ」の中は「これがブラジルサッカーならあれは高校サッカーだ」とか「懐石と駄菓子」とか、いろいろ代入できる)

 語ってみたいたいカットは多くあるのだがエヴァンゲリヲンの時のように、ここでは特にプロペラを取り上げてみよう。

 地上に降り立った主人公たちの飛行機がエンジンを停止すると、惰性で回っていたプロペラが回転を止めるのだが、この止まり方がきわめて「それらしい」

 プラグがスパークすることをやめたエンジンはそれ自体がブレーキ(エンジンブレーキ)となってプロペラの回転を止めるわけだが、この抵抗はドラムブレーキやディスクブレーキのように、直線的で滑らかなものではない、エンジンにはピストンという往復運動をする重いパーツががあるわけで、これが慣性と抵抗を交互に繰り返すのだ。

 上死点に達したピストンは空気を圧縮しようとして抵抗を増し、さらに動きの方向を180度変えるため、ブレーキ効果が最大になる、翻って上死点と下死点の間を運動しているピストンはその慣性質量によって動き続けようとする。

 止まりかけるが山を越すと加速しまた次の山に向かう、言い換えればエンジンが止まる様は連続する坂を惰性で越えていく玉のようなものなのだ、この増減する抵抗がエンジンの気筒数ぶんずれて続いていくきわめて微妙な減速感、これが「スカイ・クロラ」では見事に表現されている、このさりげなく間違いのない表現。

 伝統工芸の職人の技(根付けでも、螺鈿でも)を見ていると、迷いのない確実な仕事ぶり自体に見る価値があると思うことがある。
 この映画の数多いパーツの一個一個に投入されている高度な技は、そんな職人技を思わせる。

 見る価値のある映画であり、強くお勧めする。


 




崖の上のポニョ




 何をどう見ていいのかわからない映画である。
 そうかもしれないという予感はあった、前作「ハウルの動く城」がまさしくそうだったからだ。

 (誰か今ハウルのストーリーを思い出せるだろうか? ハウルが何をしているのか、何をしたいのか理解できていたろうか、同じく師匠は、ソフィーは、私は見ている最中ですら訳がわからなかった)

 目を惹く華麗な映像、流麗なアニメーション、美術的な側面は完璧だが、オハナシがついて行ってない、それが最近の宮崎アニメだ。
 見ている最中はその目を楽しませてくれる映像で飽きさせないが、終わってみれば中身はカラッポ、それはハリウッドのジェットコースター映画と変わりがない。


 なぜそんなことが起こるのかというと、ストーリーが映像に従属しているからだ。
 普通の(?)監督は「言いたいこと」が先にある、高邁な思想であれ人情の機微であれこれという「話」(ドラマ)があり、映像美術はそれを表現するために後からついてくる、宮崎作品はまったく逆だ、まずは幻想的なイメージがあり、シーンがあり、それを映画にする必然性のためにストーリーがある。

 イメージの豊かさに比べていかにもストーリーがおざなりなのだ。

  <それはたとえば「もののけ姫」に如実に現れている、自然と科学技術の共存という高邁なテーマを掲げたはいいが結局答えが出せないままに、でいだらぼっち大活躍という「終わったような気にさせる」映像で強引に映画を閉じてしまっている。

 また「千と千尋の神隠し」は千尋の成長談ということになっているが、実際には成長の過程などは描かれず、あるのはただただ万華鏡のように豪華な映像美術のみである。
 しかも作中、重要なキーマンである「カオナシ」を処遇に困ってストーリーから一方的に放り出すという大技も披露してくれている>

 ある意味ポニョは余計なことを何も言おうとしていない分マシとも言えるが、映画を見ていても「何が起こっているのかわからない、映画がどこへ行こうとしているのかわからない」というきわめて居心地の悪い時間を過ごすハメになる。

 なぜ「男の子と人魚姫とのちいさな冒険」というほどのドラマさえも盛り込まなかったのだろうか?
 なぜ小さな子供が手に汗にぎり「ソースケとポニョ頑張れ!」と叫びたくなるようなシーンを作らなかったのだろうか?

 これはいっとき目を楽しませてくれる「動く絵本」なのだ、と言い切ってしまうならそれまでだが。1本の作品/劇映画というならいかにもイビツであろう。



 「宮崎駿の刺激的なイメージボードはドラマをスポイルする」とは押井守が20年以上前に言った言葉だがここに来ていよいよその傾向が極まった感がある。
 
 ちなみに私は当時「お前が言うな!」と思ったのだが、押井は今回「スカイ・クロラ」という映画を作っている。これはやはり押井らしいマニアックでトリッキーな映像主導の映画だが、映画を通じてひとつの「何か」を観客に伝えることには成功している。
 それは言葉にしてみれば「希望」とでもいうべきありがちな物だが、見た人の心の奥底に小さな灯りをともすという映画にとって大事なことを成し遂げているのだ。
 映画として見た場合ポニョよりはるかに上等な出来であると言えるだろう。


 




-激突、立体映画3方式-



 テーマパークのアトラクションや博覧会映像ではなく、劇映画の3D作品を見にいくのは久しぶりだ。
 なぜ久しぶりかというと3D作品はめったに公開されず、たまに公開されるそれもロクなもんじゃない(ことが多い)ので敬遠していたためだ。

 今回なぜ行ってみようという気になったのかというと、今回この映画の上映には劇場の系列によって3つのタイプの3Dシステムが使われるからであり、その一つがなんと新方式だと聞いたからだ。

 そもそも3D映画(昔は「立体映画」と言わていたのだが・・)には、『アナグリフ方式』『シャッター方式』『偏光メガネ方式』の3種類がある。
 ここで各方式について触れるまえに立体映画が立体に見える理屈についておさらいをしておこう。


 さて、ここに立方体があるとする、角砂糖のようなサイコロのようなサイコロキャラメルのような物だ。
 これが顔の前に浮いているとする、それが顔の正面にある場合、右の目にとっては視界の左寄りに見え、左の目にとっては視界の右寄りに見える。また右目には立方体の右側面が見え、左目には左側面が見える。
 
 つまり3次元空間に存在する立体を2つの目で見た場合には右目と左目で見えるものが違う、この違いを視差(両眼視差)と言う。

 人はこの見え方の違いを統合して見ている物が立体であることや、それがどれだけの距離にあるかを把握しているのだ。

 さて立体映画である、視差のついた映像を記録するのは簡単だ。2台のカメラを目の間隔ぶんだけあけて撮影すれば、視差のついた映像を記録することが出来る。
 その右目用の映像を右目だけに、左目用映像を左目だけに届けることができれば人はそれを立体映像として認識できるのだ。
  
 問題は上映方法だ。
 映画はスクリーンに投影するものであり、右目用の映像も左目用の映像も同時に同じスクリーンに投影するしかない、これをどうにかして分離し右目と左目にそれぞれ送り込まなくてはならない。
 
 『混在する2つの映像をどうやって分離するか』これが立体映画のキモであり、各方式それぞれの短所と長所なのである。

 と、いうところで各論に入ろう。


 
 『アナグリフ方式』とはいわゆる赤青メガネをかけて見るやつで、左目用の映像と右目用の映像を2色のフィルターで分離する仕組みだ、この方式は(なにしろ赤と青の色が使えないので)基本モノクロであり、現代の映画には使われない。
 アナグリフ式の進化したタイプに『カラーコード3D』があり、青とアンバーのフィルターを使用するこの方式はカラーも扱えるのだが、色の再現性に問題があって普及していない。

 『シャッター方式』とは右目用の映像と左目用の映像を交互に映写し、シャッター(昔は回転シャッター、今は液晶シャッター)の付いたメガネで左右の目を交互に遮断する仕組みだ。
 つまり右目用の映像が映写されているときは左のシャッターが働いて右目だけがこの映像を見ることが出来、左の映像になったらこれを逆にするというわけだ。

 しかし当然ながらメガネの構造が複雑でコストが高く、上映期間の短い一般の劇場では導入することが難しいものだった。

 『偏光メガネ方式』というのは、多くのアトラクション、博覧会で使用されているもので毎度おなじみという方も多いと思う。

 これは左右の映像にそれぞれ異なった方向の偏光フィルターを付けて映写し(これにも『直線偏光』と『円偏光』という2種類の方式があるのだが、それはともかく)観客は右目は右目用の、左目は左目用の映像しか透過しないメガネをつけて鑑賞する方式である。
 メガネは偏光フィルターを貼っただけの安価なもので済むが(ために記念にお持ち帰り可能となっている場合も多い)上映がやっかいだった。

 フィルムが右目用、左目用と2本ある場合には映写機が2台必要となる。
 1本のフィルムを使用し1コマを上下または左右に分割して記録する方式の場合は映写機は1台で済むが映像を分離する特殊なレンズが必要となり、フィルムの面積を半分しか使えないので解像度が低くなる。
 解像度が低くなると画面の鮮明さが失われる、そのため大スクリーンに投影するアトラクション映像などでは70mmフィルムが使われていることも多い(一般の劇場でそれは望めない)

 近年デジタルシネマプロセッサが普及し、右目用の映像と左目用の映像を瞬時に切り替えて投影できるになってからこうした問題は解消されたが(レンズの前に映写機と同期する偏光フィルターを置き、右目用映像の時は右目用、左目用映像の時は左目用偏光フィルターを通して映写する『アクティブ・ステレオ方式』が開発されたからだ。ワーナーマイカル系の劇場が『Real D方式』と呼び、今回のセンター・オブ・ジ・アースの上映に採用しているのがこれだ)
 フィルム、デジタルいずれの場合でも、偏光角度を維持したまま光を反射する特殊なスクリーンが必要となり、テーマパークのアトラクションならともかく短期上映が基本の劇場ではスクリーンの張り替えになかなか踏み切れないという事情に変わりはない。

 とはいえ、結局偏光メガネが主流という時代が長く続いていたのだ。
 そこへ殴りこんできたのが新方式『ドルビー3D』である。これを見ずにおられようか・・というわけなのだ。

 さてこの『ドルビー3D』、これは驚くべき仕組みで、光の3原色であるRGBのうち、R成分の高い方とG成分の高い方とG成分の高い方だけを透過するフィルターとそれぞれの低い成分だけを透過するフィルターを使用するのだという。

 なんのことかわからない?
 では、説明しよう・・と言ってもドルビーの解説には概念図しか載っていないので正確なところはよくわからないのだが、おおむね以下のような仕組みと思われる。

 つまり通常Rと呼ばれる光(電磁波)は波長700nm、Gは546nm Bは435nmを言う、しかしその前後に数10nmずつの範囲で人が「赤・緑・青」と認識する範囲がある。そこで、「それぞれの波長」についてその前半部分だけを透過するフィルターと後半部分だけを透過するフィルターがあればRGBの成分を含んだまま映像を2枚に分離できるというわけだ。
 つまり
 右目用の映像を『R高側&G高側&B高側のみ透過フィルター』
 左目用の映像を『R低側&G低側&B低側のみ透過フィルター』
 で映写し

 右目が『R高側&G高側&B高側のみ透過フィルター』
 左目が『R低側&G低側&B低側のみ透過フィルター』
 のメガネをかけて見る、というわけだ

 これならフルカラーが可能であり特殊スクリーンも必要がない。

 とはいえこれは言うは安く行うは難い技術ではある。
 赤外線フィルターのようにある波長より下をカットするフィルター(これをシャープカットフィルターというのだが)の製造は容易であり、安価にカメラ屋で売られている。
 しかし広範な電磁波の波長のうちの3ヶ所を、それもRGBの前半3つと後半3つだけをそれぞれピンポイントに透過するフィルターというものがどうやって作れるのだろうか。

 <実際に手にしたフィルター(つまりメガネ)はちょっと見には透明のプラスチックにしか見えないがこれには「50層の膜」があるのだという、これはフィルター50枚という意味ではなく、レンズのコーティングのような薄膜が50層あるということだろう>


 ともあれこの技術により現在稼働中のデジタルシネマプロセッサに簡単な装置を追加するだけで通常のスクリーンに3D映像を上映することが可能になった。

 実際このシステムは、フィルターが半分づつコーティングされた円盤を映写機の光源の前に置くだけというシンプルなものであるらしい。
 これが映写機とシンクロして回転し、右目用の映像が投影されている時は右目用フィルターが、左目用素材の場合は左目部分が光源の前に来る仕組みになっている。

 フレームレート(1秒に何回映写するか)は144Hzということなので、1秒間で右目用の映像を72回、左目用を72回映写していることになる、円盤(フィルターホイールと言う)は秒72回転しているわけだ。

 映画そのものは互換性を保つため、秒24コマで撮影されているからこれは1コマを右目用に3回左目用に3回交互に映写しているということだ。

 つまり
 
1コマ目の右目用映像・左目用映像・右目用映像・左目用映像・右目用映像・左目用映像
2コマ目の右目用映像・左目用映像・右目用映像・左目用映像・右目用映像・左目用映像
 という具合だ、1コマを3回に分割するのはフリッカー(チラつき感)を押さえるためだろう(同じように左右の映像を切り替えて投影する『Real D方式』も144Hzである)。このような上映方式であるためドルビー3Dはデジタルシネマプロセッサと組み合わせて使うしかない。
 

 技術的な側面についてはこれくらいにするとして、実際の感触はどうであったか、というとこれは「別段どうってことない」というものだった。
 広報資料によれば、上映の最終段階にフィルターをかける偏光方式と違って(『Real D』と違って、と言いたいのだろう)光源にフィルターをかけるだけで済むため「驚くほど映像が鮮明」ということなのだが、その違いを実感することは出来なかった。
 そもそも映画にはその映画なりのトーンというものがあり、見比べないかぎりその違いはわからない

 (その意味では『XPAND』<液晶シャッター方式>を採用する東宝、松竹系、『REAL D』<偏光グラス式>を採用するワーナーマイカル系、そしてこの『ドルビー3D』を採用するTジョイ系と、3方式が激突するセンター・オブ・ジ・アースは比較対象に最適なのだが、それにお金と暇を費やすほど酔狂でもない)


 私が今回気になったのが映像の暗さである、これは偏光方式でも同じことなのだが3D映像は光の全成分を使うことができない、右目用と左目用に半分づつ使うので最大でも明るさは半分になる。

 偏光方式はそのため反射率の高いスクリーンを使う、ドルビー3Dの場合は映写機のランプを光量の高いものに交換しているというのだが、どうも足りていないのではないか?
 思うに、いかなハイテクのフィルター(ドルビーはこの技術を『色帯域分割』と呼んでいるが)でも、混じりけなくしかも損失もなく色を分割できるわけがない。

 ドルビーの映像資料には3波長についてきっちりとエッジの立った棒グラフのような帯域分離の概念図がある、しかしこれはRで言えば700nmから750nmまでを100%透過しそれ以外を100%遮断する高側フィルターと、650nmから699nmまでを100%透過しそれ以外を100%遮断するというような夢のフィルターだ。

 実際にはたとえば725nmあたりを透過率のピークとする(その前後を急速に遮断する)高側フィルターと675nmをピークとする(その前後を急速に遮断する)低側フィルターが存在するだけだろう。

 つまり棒グラフのように高・低側を100%使えているわけではなく、前後に光の損失のある山型のグラフということだ。つまり使えるのは映写機の光量の1/2より遙かに下になっている。

 このセンター・オブ・ジ・アースはなにしろ地底探検の映画であり、基本暗い部分の多い映画なのであまり気にならないが、そもそも3D映画というものはスペクタクルな映像作品に用いられるものだろう。

 画面が暗い、というのは一番明るい部分が「あまり明るくない」ということであり、一番暗い「黒」との差が少ないということだ、これはコントラストが少なくなることを意味しコントラストが少なくなるというということは画面にメリハリがなくなるということだ。
 実際これで、光り輝く南国の太陽と椰子の木とか、白銀の峰峰と色とりどりのウェアに身をつつんだスキーヤー、というような表現をビビッドに行うのは苦しいのではないだろうか。

 映画業界注目の3D上映システム『ドルビー3D』だがこれは導入の敷居が低いという興業の都合で決まったものとしか思えない。
 まあ、映画業界に身を置くものとしては劇場に足を運んでくれる客が増えてくれるのは望ましいことであり、DVDやらBDやらに押されて動員数が伸び悩む劇場にとっては「家では絶対味わえない映像体験」である3D映画が絶好のチャンスであることは認める。
 しかし、そのためにはもっと光量の大きいランプを導入して欲しいと劇場には望みたい。




 で、映画はそのものはどうだったのか?


 「この秋、映画館がテーマパークに変わる!」というウリ文句そのまま、というのが正しいと言えるだろう。

 つまりイベントが団子のように串刺しになっているだけで、ストーリーはイベントを進めるための通り一遍なもの、つまり××シークエンスが終わるとしばらくつなぎがあって次の○○シークエンスに入る(串の部分はきわめて細い)という具合。

 これはまさしくテーマパークそのものだ。

 し・か・し・テーマパークのアトラクションがそれでも面白いのは、自分がそれに参加してる感があることだ。ライドに乗れば加速感や横Gを感じるし、オーディオアニマトロニクスの怪物が目の前に迫ってくる。風を感じればしぶきもかかる、煙の中も通過する。

 それゆえお話は二の次なのだ。

 実際ディズニーリゾートで言えば。

『センター・オブ・ジ・アース』 
 観客はネモ船長による地底世界へのツアーへ参加するが、突然火山活動が発生、地底探険車は予定されていたコースを外れて地底奥深くへと迷い込む。 

『海底2万マイル』
 観客はネモ船長の作った小型潜水艦に乗り海底探検に出るが、巨大イカに襲われコントロールを失い未知の海底へと沈んでいく。

『ストームライダー』
 観客は気象観測機に同乗し、巨大な台風を消し去るミッションを見学することになる。しかし台風を吹き飛ばすはずのミサイルは雷の直撃を受けてコントロールを失い、観測機に衝突、気象観測機は落下を始める。

『スターツアーズ』
 観客は旅行会社「スター・ツアーズ社」が提供する惑星エンドアのツアーに参加する。しかし機長のミスによりエンドアを通り過ぎ、帝国軍残党と新共和国軍との宇宙戦闘に巻き込まれる。

『インディ・ジョーンズ・アドヴェンチャー』
 観客はインディ・ジョーンズの助手パコの企画した「若さの泉」ツアーに参加する。しかし神聖であるべき神殿に踏み込んだことでクリスタルスカルの祟りを受け、ジープは遺跡の奥深くに迷い込む。


 ・・等々、「それでいいのか」というシナリオである、これをして曰く「通り一遍」、しかし、これでいいのだと言えるのはこれがアトラクションだからだ。

 ストーリーはイベントとイベントの間をつなぐ最低限の役目を果たしてくれればよく、逆に言ってそれ以上のことを語る余地はない。それでも充分に面白いのはこれがアトラクションであり自分が事件の主役となって参加し、五感でそのイベントを感じることが出来るからだ。

 しかし映画はそうではない、たとい3D映画といえど訴えかけてくるのは視覚と聴覚だけであり、そもそも映画は自分が主役ではなく他人の冒険を眺めているだけなのだ。

 それゆえ胸打つドラマ、引き込まれるストーリー、感情移入できるセリフが必要になるわけだがこの映画にはそれがない、あるのはアトラクションじみた団子のようなイベントのみ。
 そしてここがけっこう肝要なのだが、吹き替えが悪い、ブレンダン・フレイザーのタフな印象とは裏腹に線の細い声なのだ。

 オハナシのまずさ(というか無さ)と声の合わなさがあいまって私は映画に全然のめりこめなかった、このタイプの映画でのめりこめなかったらもう終わりである。



 帰りのエレベーターの中で隣りに親子連れが居たのだが、その父親が小学校低学年らしい息子に「お話はわかりやすかったろう?」と言っていた。まあ物はいいようである、もちろんお話はわかりやすかったに違いない、なにしろほとんど無いのだから。

 さてでは、大人でこの映画を真に楽しめた人間はどのくらいいたろうか?
 予告編によれば今後続々と3D映画が配給されるらしいが、このような映画を3D映画の牽引役として使っていいのだろうか。
 今回このセンター・オブ・ジ・アースの3D上映は全国どこでも一律2000円(各種割引一切適用ナシ)となっている。

 3D上映システムの導入にかかった費用を回収する作戦だろうが、今どき2000円の映画は高い。

 今や、映画ファン感謝デー・映画の日・モーニングファーストショー・レイトショー・レディスデイ・夫婦50割引・高校生友情割引・会員割引と映画館は各種割引のオンパレードである。私自身、定価(?)の1800円で映画を見ることはめったになく、たまに1800円を支払うと高い!と思う。
 そこで2000円はいかにも割高であるし、この作品はその値段に見合っているとはとうてい思えない。
 
 今は観客は目新しさでやってくるだろうが、それをいいことにぼったくりで商売をしているとせっかくの3D化への機運がしぼむ可能性がある。

 木戸銭の値下げとドルビー3D館には光量の更なるアップをお願いしてこの項を閉じたいと思う。

 映画はもちろんお勧めできない。



 

名作マンガの間取り
景山明仁






 これはマンガの中に出てくる家の間取り(主に主人公の家)を建築学的に間違いのない平面図に書き起こした本である。

 ちょっと変わった着眼点でありシャレているかも、と思って読んで(眺めて)みたが、さしたる感慨の湧かない本だった。

 原因はあきらかで平面図の参考となった元ネタのマンガが載っていないからだ。

 これがのび太くんの家です、サザエさんの家ですと言われても、どっちのマンガも読んだことはあるけれど、もちろん間取りについて着目して読んだことなどないので「へえ」としか思われない。

 参考になったマンガを掲載すると莫大な著作権料の支払いが発生し、この本が売るに売れない価格になってしまうからであろうことは想像されるがこれでは意味がない。

 本棚を捜せばどらえもんやサザエさんの何冊かは出てくるだろうが、この本には第何巻の何話のカットが参考になったとも書いていないので、捜すのも一苦労である。

 そもそもこの試みが面白いのは、マンガ家がその時その時の都合で適当に描いてしまい矛盾だらけになってしまった主人公たちの住まいを、リアルな平面図に落とし込む作業の過程こそが面白いわけで、結果だけを見せられても読者はその面白さを感じられない。

 『○話のこのカットでは階段を上がった正面に主人公の部屋のドアがある、そして■話に出てくる家の外観カットを見ると主人公の部屋は玄関上にあることがわかる、階段は玄関からまっすぐ伸びていることは多く回で描かれているので、この階段はマンガには登場しない踊り場で180度向きを変えていると思われる』といったような具体的解説とその元ネタとなった絵を見せて欲しいのだ。

 結局、この企画の一番面白いところはこの本の作者だけで楽しんでしまい、読者はその残り物を見せられているということになる。

 ということで一番面白かった・・というか唯一見る価値のあったのは宮沢賢治の「注文の多い料理店」の平面図であった(マンガじゃないし・・)

 これは元々絵がないので文章から想像した物でしかない、そのため原作を引っ張り出してこなくとも(お話は覚えているので)作者の試行錯誤の過程が理解できて面白いのだ。 結果出てきた平面図も「そうそう、こんな感じかも!」と思えるヘンテコな間取りであってちょっとだけ楽しい。




 結局、発想は面白いものだったが、現実的に書籍として出版するには無理のあった企画だったのではないか?と言わざるを得ない。


 

絶対帰還。
クリス・ジョーンズ



 1999年に組み立てが開始された国際宇宙ステーション(International Space Station、以下ISS)には、2ないし3名のクルーが常時滞在している(将来的に6名となる)

 2003年、ISSにはアメリカ人2名ロシア人1名のExpedition-6(6番目の遠征隊)と呼ばれるクルーが滞在していた。
 彼らはスペースシャトルによってISSに運ばれスペースシャトルによって地球へ帰還する計画だった。
 しかしその帰還に使用される筈のスペースシャトルコロンビアは別なミッションによる宇宙活動のあと地球に帰還する途中で空中分解を起こし乗員7名とともに失われてしまった。

 彼らは無事地球に戻ってこられるのか?! というのがこの本である。

 『奇跡の生還』
 『帰還する術を失い宇宙に取り残された3人』
 『「生還のための戦い」を描いた人間ドラマ』
 『現代の漂流記』

 とか刺激的な書評やキャッチコピーが並ぶので、あれあれそうだっけ?と思って読んでみた。
 「あれあれ」というのは、当時の私がExpedition-6の去就については気にとめた記憶がないからだ。
 コロンビアの空中分解は深刻な問題として受け止めたが(人的被害については当然として、シャトルが運用出来なくなるとISSの建設が不可能になるからだ)ISSクルーがピンチだという認識はまるでなかった。

 私が知らなかっただけで実はけっこうな危機がクルーに迫っていたのだろうか、と思って読み始めたのだが、やはりまるでそんなことはないのであった。


 そもそも「帰還の術を無くした」というのがウソ。ウソと言って悪ければ針小棒大、羊頭苦肉の誇大広告なのである。
 というのもISSには緊急時の救命ボートとして常にロシアのソユーズが一機連結されているからで、いよいよとなればクルーはいつでも地球に帰還できるのだ。

 また、アメリカはクルーをシャトルで運ぶがロシアはソユーズで運んでいる、ソユーズはペイロードこそシャトルに及ばないが枯れた技術を使った安定感抜群なロケットだ。

 どれほど安定しているかは宇宙飛行関係者(Spaceflight participant)というものが存在することでもわかる。
 救命ボートであるソユーズは半年に1回交換する必要があるので6ヶ月に1回必ずソユーズはISSへ飛ぶ(新しいソユーズを残し、古いソユーズで戻ってくるわけだ)このソユーズの席をロシアは世界のお金持ちに売っているのだ、このお客さまを「宇宙飛行関係者」別名「タクシークルー」と言う。

 <「宇宙飛行関係者」枠、つまりISSを商業利用できる権利はISS計画に参加している各国に割り当てられているがこれを実際に資金稼ぎに利用しているのはロシアだけである、ちなみにこの宇宙飛行関係者はISSに数日滞在する権利を得るために日本円で20億強を支払っている>

 そして、このソユーズから人間のための設備をはずした無人宇宙船プログレスというものもある。
 プログレスは酸素、水、食料、補給物資を定期的にISSに運び、降ろした資材の変わりにゴミを詰め込まれ、大気圏再突入で燃やされてしまう(宇宙焼却炉!)

 つまりISSは定期的に観光タクシーも来るしトラックもやってくる場所なのだ。
 こう聞けば、ずいぶんとこの本の印象も変わるのではないだろうか?

 実際、この2003年までに2回宇宙飛行関係者がISSを訪れている。しかしこの本にはその事実に触れていない。
 おそらくそれを言ってしまうと危機感が薄れるからだろう、しかしそれではノンフィクションではない。

 現実にもクルーたちに危機感はなく、むしろISSの滞在期間が延びたことを喜んでいる。
 つまるところこれは孤島に滞在している研究員たちの物語であって沈没した船の話ではないのだ。迎えにくる筈の船が沈み友人を亡くしたことは衝撃かもしれないが、迎えにくるべき別の船もあり、貨物船もやって来るならば彼らの生活に変化はない。

 これに危機だの悲劇だのという色あいを付けるのは恣意的すぎるだろう、うがった見方をすれば、トム・ウルフの「ライトスタッフ」やノーマン・メイラーの「月に灯る火」に衝撃を受けたという筆者がたいしたことない事件を無理矢理「人間ドラマ」に仕立てようとしたと言えるかもしれない。

 偉大なるアメリカの象徴、宇宙開発の頂点に立っている証であるスペースシャトルが失われたという事実、およびロシアの手を借りねば仲間を地上に降ろせなかったという事実にヤンキーのプライドが傷ついたのは確かだろう。それゆえ事を事大に考えるのはやむを得ない面があるとは思う。

 しかし、日本人は、日本の書評家はこの本を推す前に宇宙開発についてもうすこし調べたほうがいいのではないだろうか(「本の雑誌」ではなんとこれが本年度のベスト1である)
 妙な小細工やバイアスのかかったノンフィクションに価値はないのである。




・・・・ところで
絶対帰還って何?


 

地球の静止する日
地球が静止する日



 キアヌ・リーブス主演の「地球が静止する日」はロバート・ワイズ監督の「地球 の 静止する日」(1951年公開)のリメイクである。

 この前作はSF映画史上初めて「知的宇宙人」が登場するという意味でエポックメイキングな作品であった。

 今となってはよくあるテーゼながら地球人は野蛮で好戦的な種族であり、このままでは宇宙のコミュニティに害をなす恐れがある(ので何らかの処置が必要になる)というストーリーは衝撃的だった。

 なにしろこの頃はSFというジャンル自体が黎明期であり、宇宙からの来訪者といえばベム(Bug Eyed Monster=昆虫目玉の怪物)と決まっていて、碧眼金髪のヒーローに退治されるべき悪役というのが通り相場であったからだ。

 そこへ登場したのが宇宙連合(?)の使者クラトウ、端正で理知的な顔立ち、冷静な言動によって宇宙知性を体現する人物像はその後のSFにおおいなる影響を与えたといってよいだろう。
 
 地球人の自覚を即し滅亡から救うために訪れた使者をただただ異邦人であるというだけで恐怖して攻撃を加えてしまう地球人の描写は、冷戦のさなかにあった当時の世界情勢を反映している。

 地球の指導者と話し合うために円盤(!)から離れたクラトウは、銃撃され致命傷を負ってしまう。もしクラトウが戻らねば留守番をしているロボット「ゴート」は自動的に地球抹殺プログラムを開始してしまうだろう。
 「地球人を守るため」に自分を抹殺しようとする人々の目をかいくぐって円盤に戻ろうと努力するクラトウの姿は野蛮で好戦的な地球人に対するするロバート・ワイズの痛烈な批判である。


 つまりこれは傑作なのだ。


 さて「地球 が 静止する日」である。

 傑作をまたロクでもないリメイクで上書きしてくれたりしないだろうな・・というか、しちゃうんだろうな、という一種の諦めをもって見に行きました。

 思ったとおりでした。

 
 まず気になるのが典型的なハリウッドフォーマットなシナリオ。
 つまり
 家庭は崩壊し、あるいは欠損している
 主人公は白人で黒人、東洋人を適度に配置する
 家族の再生をテーマに据え、再生(再会)をもって映画を終わらせる
 宇宙戦争、ジュラシックパーク2、デイアフタートモロウ、ディープインパクト、ダンテズピーク、ボルケーノ等々で毎度おなじみの設定だ。

 (これらの映画もメインのストーリーがちゃんとしていれば構わないのだが、それ自体が破綻している作品が多い。
 というか、最近のハリウッド映画はお話の中途で故意に軸足をずらしている気配があるのだ。
 大風呂敷を広げたはいいがたたむのが難しい、そこで世界がえらいことになっているという事実から観客の目をそらし「この家族はハッピーになりました」という事を映画自体のハッピーエンドにだぶらせ、無理矢理終わらせてしまうわけだ)



 もうすこしこの映画について触れるとしよう。

 地球人は宇宙に対して脅威であるという前作のテーマから、地球人は地球に対して脅威である(ので地球から人類だけを排除したほうがよい)というストーリーは今日的であって悪くない改変であると思う、しかしキアヌ演ずるクラトウがどういうつもりで地球を訪れたのかよくわからないのだ。これはこの映画最大の弱点である。

 つまりクラトウはいちおう「地球の指導者と話がしたい」と言う、しかし一旦アメリカ政府に囚われるや以後そのための努力を一切おこなわず、前任者(?)の意見を聞いただけですぐに人類抹殺プログラムを発動してしまうのだ。

 地球人を説得に来たのなら(前作クラトウはそうだ)その努力をすべきだと思うのだが、面倒なことになったからもうどうでもいいやという姿勢に見える。

 地球人を怯えさせないため、DNA採取までして地球人の姿をマネて来たのだから、もうすこしコミュニケーションを取る努力をしたらどうだろうか?

 また一旦は人類に未来なしと断じたにもかかわらず、わずかな可能性にかけて猶予を与えて去ったのならば、そのことを、今は猶予期間でしかないことを人類に広く告知して行かねばならないと思うのだがそういうこともしない。

 結果クラトウの真の目的と意図を知るものはわずか数人に留まる、外形的に見れば宇宙人の侵略をアメリカ軍が撃退したようにさえ見えるわけだ、これでは「宇宙人の侵略にそなえこれから地球は一層武力の充実に努めないといけない」というまったく逆のメッセージを残したようなものである。

 前作のクラトウはメッセンジャーでしかなかったようだが、今度のクラトウは超科学力をバックにした超人である、その力をもってすれば指導者といわず地球人すべてに語りかけることさえ容易だったと思うのだが、いっさい何もしないで帰っていくのはなぜなのだろうか。

 家族の再生以外のシナリオをもうすこし(せめてつじつまが合う程度にまで)練り込んでから映画を製作して欲しいものである。