SCRIPT SHEET  2009 

例えばお店でおいしくないコーヒーを出されたとする
誰かがおいしいと言うと、次の日もお店はそのコーヒーを出す
本当のことを言うことが大切です

イビチャ・オシム



多くの積み残しをしたまま、2009年度版となりました
できれば年度落ちでも感想を書いていきたいと思います



映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
ロボ道楽の逆襲
終戦のローレライ
ローレライ浮上
ザ・ムーン
13日の金曜日
6 英雄の書
7 天使と悪魔
8 ウォッチメン
9 深海のYrr
10 NEXT
11 ターミネーター4
12 少女たちの羅針盤
13 ミッキーマウスの憂鬱
14 サマーウォーズ
15 かくして冥王星は降格された
16 化物語
17 ソウルコレクター
18 2012
19 カールじいさんの空飛ぶ家

 


ロボ道楽の逆襲
とりみき




冒頭いきなり「カニコング」という巨大ロボットが現れ、首都を襲う。
応戦する防衛軍に対し、ロボットは「カニ光線」を発射!
すると



あーコンテンポラリーなネタだよねえ、と思ってはいけない!
なぜならこのマンガは1999年に発表されたものだからだ
10年まえ、このネタがわかる読者はいったいどのくらい居たのか






 

人類の月着陸は無かったろう論
副島隆彦

人類の月着陸はあったんだ論
と学会レポート
 



 筆者は経済学では名の通った評論家らしい、それがどうしてしまったのか「月着陸捏造論」の本を出してしまったのだ。

 ところで私はいわゆる「トンデモ本」が大好きで、月着陸捏造論者の言い分にも多く目を通している。

 ないとは思うが超能力があると面白いと思うし、なにかの間違いだとは思うがUFOが実在していれば世の中楽しくなると思うのと同様、人類の月着陸はウソだった、という線でだれか私をうならせる証拠を出してくれないかといつも思っているのだ。

 しかし、たいていの陰謀論は底が浅く、彼らが提出する証拠と称するものは科学的に間違っている。

 ちなみに、陰謀論のベスト5は

1、月は大気がないのに月面に立てられた星条旗がなびいている
2、月の空に星が見えない
3、太陽の当たっていない側が真っ暗になっていない
4、同じ写真の中で影の方向が違うものがある
5、写真の上に記録されている目印( + のマーク)が被写体の影に隠れている

などであるが

1、は「なびいて見えるように作った」(垂れているとカッコ悪いので)
2、昼の時間帯で適正露出になるように絞りを調整したら光量の小さい星は写らない(空が暗いので夜のような印象を受けるが、月着陸はすべて太陽の当たっている場所、つまり昼の側に着陸している)
3、月の砂が暗い面を照らしている(詳しくは2008年度版のSCRIPT SHET、『月探査衛星「かぐや」が見た世界』をご覧ください)
4、スタジオで撮っているから光源が複数あるのだ、と続くわけだが、光源が複数あれば影が複数出来ます。
5、+マークを隠している被写体はどれも白いものばかり、つまり露出過多で手前の黒の線を上書きしてしまったのだ。

 ということに他ならない。

 というか

1 については「旗に風を当てて撮った」
2 は星を入れるのを忘れた
3 レフ板を使った
4 ライトを2つ(以上)当てて撮った
5 後から入れたらミスった

 という主張に他ならず、NASAが世界を騙そうとする時にそのようなアホな行為を行い、それをノーチェックで発表したと信じる人々の頭が信じられない。


偽写真撮るとき送風機を持ってきた阿呆は誰だ?

以下にオリジナルの写真アリ↓
http://spaceflight.nasa.gov/gallery/images/apollo/apollo11/html/as11_40_5874.html


 もうすこしなんとかならんものかと思い、一部で話題だったこの本を手に取ったのだが驚くべし。

「輪をかけて凄い」

 科学的考察に欠けているとはいえ、上記の陰謀論を唱えている人は読者を説得しようとして科学的に(科学風に?)話を進めていくのが通例だ。

 ところがこの筆者はそうではない、冒頭「私はナチュラル・サイエンスやテクノロジーについては、何もしらないに等しい」と正直な事を書いているのは好感が持てるがその「何も知らない」の程度が並ではないのだ。

 たとえば「だいいち月は真空だから摩擦、つまり空気抵抗がないのでどうやって減速したらいいのか分からない」
 とか
 「月面は真空だから空気抵抗がない。抵抗がないのに、どうしてロケットの噴射力だけで推進できるのか」

 などと書いてある、どうやらロケットは空気を押して進んでいると思っているらしい、ロケット推進の原理(作用反作用の法則)を知らないのである。

 また別の場所では「無重量といわれ、真空に近いとされる月面」などと書く、少しは空気あるんじゃん ('◇')・・ってつっこむのはそこじゃないか。

 
 その程度の知識にもかかわらず
 「太陽系のほかの惑星への探査衛星の話はあとでする(中略)おそらく今の人類の最先端のテクノロジーの全てを結集してもそれでも無理だろう」
 「あれはすべて地球上のスタジオで撮影された偽物の映像だったろう」
 「アポロ11号も、13号も17号も、おそらく打ち上げられただろう、しかし、それらは全て地球の周りをぐるぐる回っていただけではなかったのか、いや、打ち上げてさえいないかもしれない。私には、どうもそのようにしか思えない」
 「8の字で、月まで行って、それで、月の周りを回って帰ってくる、というのさえ、今でも至難の業に私には思える」

 などと書く、知識がない上にその捏造論の拠って立つものは本人が「そう思った」だけでしかないのだ。

 しかも
 「1969年という一昔前には、まだ、トランジスタしかなくて、半導体のチップはなかったはずだ」とか
 「スペースシャトルは全身、火だるまになりながら、降りてくるのである(中略)だから全体を覆っているゼリー状の温度冷却物質をとかしながら船体の温度が上がるのを防ぎながら落下してくるのである」とか
 「これは『アポロ13』という映画になっている。この奇怪な映画ではいくら巧妙にごまかそうとしても、おかしな点がいくつも出てくる。爆発で丸く開いた穴を四角の詰め物でふさいだ、とかだ、そんな話を誰が信じるのか」

 などとも書く。

 ちなみに
 1、半導体チップは60年代初頭からあった(というか1960年から63年に生産されたICチップはすべてアポロ計画とミニットマン計画<ICBM>が買い取ったという話がある)

 2、スペースシャトルにゼリーなんか塗られていない。

 3、現実のアポロ事故にも「爆発の穴を詰め物でふさいだ」という事実はなく、映画にもそんなシーンはない。
 たぶん司令船の二酸化炭素吸着フィルター(四角い)を改造して月着陸船の換気口(丸い)に適用したエピソードを誤解しているのだと思うが、この人は映画もちゃんと見れないのか。



 さて、この本はウェブサイトで書かれたものをまとめた本であり、寄せられたコメントも再録してある。
 当然のようにこのようなあまりな事実誤認に対して多くのコメントが寄せられているのだが、筆者は
 「理科系人間はただの気の弱い計算ロボットだ」とか
 「理科系の優秀な技術者たちのほとんどまでが、ここまでアメリカの科学信仰に飼い慣らされていたとは」
 とか罵倒するだけでまともに反論しない。

 まあ、反論しようにもできないのだろうが「アポロ11の月着陸はオーストラリアの天文台が中継していたので(そのエピソードは「月の羊」という映画になっている)NASAが捏造しようとしても無理です」と言われると、「すべての天文台はNASAの手下だ」などと、陰謀の範囲を拡大してしまったりする、アポロを追跡していた天文台は世界中にあるわけでこうなるともう支離滅裂である。

 つまり、この本は通常の(?)陰謀論、一見まともに見えるトンデモ本とは一線を画しているのだ。

 しかも、そこで使われている言葉が凄い。

 『このビデオ動画の画像を見て、それで自分の顔が歪まない人がいたら、会って話してみたいものだ』とか
 『だから、うろたえながらもそのように言い出した。そして、それで自分たちの頭がおかしくなった。おかしくなってブルブル震えだして、それで話題を必死に他へ移そうとして足掻き始めた』とか
 『私の文章を読んで、自分の脳に激しい衝撃を受けて、それで、ぐらぐらと立ち直れなくなっている、副島隆彦への憎しみを持つ者たちよ』とか
 『私をけなして悦に入っているような暇があなたたちにあるのか。自分たち自身の脳の中の割れるようなひび割れを一体どうする気だ』とか
 『私の真実指摘力の、爆撃力のすごさを、これから何十度でもお見舞いして思い知らせてやる』

 など、顔が歪むとかブルブルとかぐらぐらとか、脳のひび割れとか、爆撃とか妙に表現が具象的であり、ビビッドである。

 この尋常ならざる筆致が狙いならたいしたものだが。
 『いわゆる科学哲学者たちが展開した反証可能性の問題は、君らよりも、私のほうがずっとよく知っている。いちいちふざけたことを、この日本の碩学の私に向かって説くな』と書くなど、碩学(大学者、学問の広く深い学者)って自分に使うもんじゃないだろうことさえわきまえていないあたり単に文章力が無いだけと思われる。


 さてさて、このように凄い本はどのようないきさつで書かれたのか?

 じつはこれは筆者が文中で明かしているのだが、きわめて単純明快である。

 『私が、身を乗り出して、この「月面着陸の嘘」の謎に立ち向かったのは、深夜のテレビ番組をたまたま見たからだ。 それは、夜の12時ぐらいのケーブル・テレビのFOXチャンネルでやっていた。それはアポロ計画を疑う人々がアメリカや欧州にはたくさんいるという内容であった。そのドキュメンタリー番組には次々に証言者が出てきて、人類の月着陸を否定していた』

 これが原点なのはあきらかだろう。

 し・か・し

 これはドキュメンタリー番組などでは無かった、これは仏独共同出資のアルテ社というTV局が作った「Operation Lune」というエイプリル・フール用のフィクションだったのだ。

 もっともこの番組は、作り事/嘘/ジョークというにしては、もうすこし志が高く、「実在の政治家のインタビューを編集でつなぎあわせ、まったく別なことを言っているように見せかけられるか」といった実験的なメタなフィクションとして作られたものだ。

 アルテ社はこれを「ドキュ・フィクション」と呼んでいるらしいが、特段に視聴者を騙すつもりはないらしく、実在の、インタビューを加工されているラムズフェルドやキッシンジャー以外の、登場人物はジョーク丸出しのネーミングがされている。

 曰く
 映画プロデューサー、ジャック・トランス
 元KGB工作員、ディミトリー・マフリー
 元CIAエージェント、アンブローズ・チャペル 
 ニクソン大統領元秘書官、イヴ・ケンドール
 
 などである。

 ちなみにジャック・トランスとは、「シャイニング」の主人公の父親(※キューブリックの映画ではジャック・トランスが主人公)
 ディミトリー・マフリーは、キューブリックの「博士の異常な愛情」に出てくるアメリカ大統領。
 アンブローズ・チャペルはヒッチコックの「知りすぎていた男」(!)に出てくる事件のカギを握る男。
 イヴ・ケンドールとは同じくヒッチコックの「北北西に進路をとれ」の女スパイである。

 映画マニアがよくやる『映画カルトクイズ』みたいなもので(ジョーズに喰われた犬の名前はな〜んだ?)実際アルテ社は放映後にWebサイトで「証言者の正体を暴け」というクイズをやっている


 罪があるとすればこれの虚実について曖昧にしたままオンエアしたテレビ朝日にある。登場人物の中のフランク・ボーマン(「2001年宇宙の旅」の主人公)はバレると思ってかカットしているあたり(ボーマンは日本では著名人?)騙す気アリアリとしか言いようはない。

 まんまと騙された人はお気の毒だが、そもそもTVは日常的に予言、占い、スピリチュアル、怪奇現象、秘境探検隊、など怪しい番組を垂れ流しているわけでこれをナイーブに信じてしまう側にも問題はある。

 ともあれこれをまともに受け取った筆者は(そもそも本来の経済学でもアメリカ陰謀論がお好きだったらしく)やはりそうか! と思い。自分の経済について語るサイトで雑談として「月着陸陰謀論」を開陳してしまったのだ。

 この人その分野ではそれなりの著名人であり、おそらく普段は述べた意見に対しては「さすがです」「お説ごもっともです」という賞賛の言葉ばかりが返ってくるのだろう。
 ところがこの陰謀論の底の浅さは目を覆うばかりで(SF作家ジェリー・パーネルの言葉を借りれば『トラックが出入りできるほどの大穴が開いている』わけで)つっこみが殺到してしまった。

 ここで、いかん、畑違いな分野に踏み込んでしまった、と一歩引けばよかったのだろうが(まあ、自分がどれだけおかしなことを言っているのかわかっていなかったのだろうが)正面突破をはかり、ますます抵抗にあい、ひっこみがつかなくなった・・というのが真相ではないかと思われる。


 そんなわけでここに世紀のトンデモ本が生まれたわけだが、疑問に思うのはこの出版社が天下の徳間書店であることだ。
 いったい徳間は何を思ってこの本を出したのか?

 また『再び再発射』とか、先にも述べた『割れるようなひび割れ』とか、ちゃんと校正してるとは思えない文章が山積みなのはどういうわけなのだろうか。

 (「マカロニアンモナイト」の私のたわいもないエッセイでさえも、送稿すれば「てにをは」から、送り仮名、用語の統一、資料的側面の正確さまで厳しい校正を受けているのだ)
 
 まさかとは思うが、「これで今年の『トンデモ大賞』はいただき、話題になればひともうけ」とか思ってたり・・




 さて次は「人類の月着陸はあったんだ論」

 これはトンデモ本を紹介する「と学会」が「月着陸陰謀論」を特集した本であり、陰謀論者がよく持ち出す証拠と称するものを、ひとつづつ丁寧に論破し、また陰謀論の歴史(歴史と伝統があるのです)について解説している。

 (面白いのは「UFOはある、宇宙人は地球に来ている、人類の一部<支配階級にいるエリート>は宇宙人と組んで、宇宙に進出している」とする人々<コンタクティと言う>は陰謀論を批判しているというあたりだろう。
 彼らにしてみれば月着陸くらいはあたりまえなのだ、なにしろ月の裏側にはすでに都市が造られているくらいなので・・)

 そして、もちろんそのタイトルからして「人類の月着陸はなかったろう論」がこの本のメインターゲットなのは間違いない。
 「なかったろう論」について書かれているのは全6章のうちの1章だが、全体の頁数の1/3が費やされている(そしてこれまた丁寧なつっこみがなされている)

 しかし、と学会の本に共通する、データーに裏打ちされた、正確にして抑制の効いた物言いでは「なかったろう論」の一種異様な熱は伝わらない、機会があったら元ネタに目を通してみるのも悪くないかもしれない、一種のビックリ箱として


 

ザ・ムーン


 アポロ計画の記録映像と当時の宇宙飛行士のインタビューで構成されたドキュメンタリーフィルムである。

 「NASA蔵出し」というキャッチコピーに惹かれて(未公開映像?!)見にいったが、肝心の宇宙シーンに関しては見たことのある映像ばかりだった。
 まあ、見たとは行っても大画面で見たことはないものが多く、行ってよかったとは思うのだが。
 (そういう意味では、これを見るなら劇場に行くべきだろう、ここに取り上げられている映像のほとんどはインターネット上で捜すことが出来るからだ)

 さて、記録映像の美しさ、壮大さとくらべて鼻白む思いがするのはインタビューシーンである、彼ら元アポロ飛行士のセリフに多く出てくる「神」とか「奇跡」といった宗教心の強い言葉にどうしてもなじめないのだ。

 最先端テクノロジーの塊であるアポロ宇宙船の先端に座り、運動方程式によって月に導かれ、コンピューター制御された着陸船で月に降りたっておきながら、なんで神なのか奇跡なのか、宗教心薄い私には(そしておそらく多くの日本人には)理解できない心境である。

 これについて立花隆は「宇宙からの帰還」で、宇宙飛行士たちは宇宙の広漠さと地球の美しさ目の当たりにし、それが偶然の産物以上のもの(人智を越えた意志)によって作られたと感じ、宗教に傾倒する、と書いているわけだがそうだろうか?

 そもそも、始めて有人で月を周回したアポロ8号のクルーは月軌道からのTV中継で「創世記」を読み上げている。

 人類初の月着陸となったアポロ11号では、月着陸のすぐ後、月面歩行を始める前に着陸船イーグルの船内で聖餐式を行っている。

 ルナ・ローバー(月面探険車)の操縦席に聖書を置いてきたクルーも居る。

 創世記の一節を描き写した紙も、聖餐用のワインとグラスと聖餅も、聖書もすべて地上に居るうちに用意され宇宙船内に積み込まれたものである。
 
 つまり彼らはもともとそういう人たちであったのだ。

 あるいは、そういう人たち、アメリカ代表としてどこへ出しても恥ずかしくない「理想的な市民」をNASAが選んでいたと言うべきかもしれない。

 カール・セーガンの「コンタクト」では、主人公の天文学者<映画でジョディ・フォスターが演じた>は『神を信じていない人間は地球人の代表としてふさわしくない』、という理由で宇宙大使の役を降ろされてしまう。
 就職の際、性別・人種・年齢を採用の基準にすることを禁じ、履歴書に記載を要求することさえ禁じ「差別主義者」と言われたら社会的地位を失いかねないのがアメリカという国だ。
 ところが彼らは信仰(がないことを)理由に人をから職を奪うという展開に違和感を感じない(らしい)それはあって当たり前なものなのだ。


 
 さてところで、この映画の最後、ローリングタイトルの直前に宇宙飛行士たちがカメラに向かって「月着陸は本当にあったんだよ」と語りかけるところが面白い。
 
 曰く『月着陸がウソだというなら6回も行ったことにする必要はないよね?』とか
 『アメリカ人は2人の間の秘密も隠しておけないのに、何千人もの人間がそのうそを隠しておけるわけないよね』などなど。

 これほど堂々としたドキュメンタリーフィルムですら、月着陸捏造論に対して一言言っておく必要を感じるほどアメリカでは捏造論の勢力があるという証拠だろう。

 もっともアメリカの「月着陸捏造論」はアメリカならではの事情が存在する。
 日本における捏造論はイコール陰謀論であって、つまりは「権力は腐敗し、その権力を維持するために国民に対してウソをつく」という政治不信にすぎない。

 アメリカにも陰謀論者はもちろんいるが、一方その宗教心が捏造論を呼んでいるという面があるのだ。
 つまりはキリスト教原理主義(根本主義)である。
 彼らはの主張は、『聖書に書かれていることは、比喩や神話ではなく、一字一句間違いなく本当のことだ』というもので、たとえば「人は神がその姿に似せて作られた」という一句から進化論を否定する。
 (進化論の証拠たる古生物の化石は「神がそのように作られて地面に埋めた」と言うのだから議論が噛み合うわけがない)

 ダーウィン大好きな日本人からすると「進化論の否定ってマジか?!」と思うわけだがたとえばカンザス州では「進化論には異論がある、という事を教師は教えなければならない」という法律が制定されていたりするわけで、キリスト教原理主義はアメリカ人にとってはさほど突飛な主張ではない。

 そしてこのキリスト教原理主義の一派に地球平面協会(Flat Earth Society)というのがあり月着陸捏造論を最初に唱えたのがここだ。

 彼らの主張は聖書にあるとおり

1・地球は球ではなく円盤型をしている
2・北極が円盤の中心にあり、円盤の外周は45mの高い氷の壁で囲まれている。
3・太陽と月の直径はいずれも52km程度である。

 というもので、よって月に着陸したというアポロ計画は捏造だというわけだ。

 (聖書のどこにそのような記述があるのか私は知らないが、そもそも地球がフラットだというなら、アポロ計画より、地球のまわりをロケットが周回したジェミニ計画やマーキュリー計画に噛みつくべきだと思うのだが・・・)


 ともあれ、敬虔なキリスト教徒が大半を占めるというアメリカならではの宗教事情が捏造論の一翼を担っているというのは皮肉な話である。




 最後に日本の配給会社アスミック・エースに一言。

 映画の公式サイト、月から地球を見た図を背景画像にしているのはいいが、その星空に流れ星が飛び、星がまたたいているのはどうか?
『東京都推奨、文部科学省特別選定、厚生労働省社会審議会推薦』映画のサイトとしてそれはあまりに非科学的であろう。



これがその画像(jpgにしてしまったので動きません)
流れ星は地球の大気圏で燃えた宇宙の塵だし、星がまたたくのは空気の揺らぎによるもので、どっちも地上以外では見れないのよアスミックさん


 今、このサイトのトレーラー(予告編)を見て思い出した。
 このトレーラーにも一瞬入っているのだが、映画の中にアポロ11の第2段ロケットの噴射シーンがある。

 このシーン、カメラはAfter Interstageに取り付けられている。このAfter Interstageというのは一段目のロケットと2段目をつないでいるリング状の殻であり、2段目のロケットノズルを保護しているものだ。

 映像はロケット2段目が噴射し、遠ざかっていく様を捉えている、用済みになったこの殻は、ゆっくり回転して地球を向くのだが・・・この映像が奇麗なのだ。
 どうみてもTVカメラによる電送映像には見えない、ムービーカメラなのだろうか?
 しかし、このリングは放棄され、大気圏に再突入して燃えてしまうはずだ、フィルムの回収ができた筈はない。

 この映像はいったいどうやって撮られたのだろうか??

 はっ、ひょっとしてこれこそがエリア51でキューブリックが撮ったという特撮映像!
 うーむ、やっぱり月着陸はウソだったのかもしれない(゜△゜)


 






 シリーズ物の映画というが、それは後から見てみればシリーズになっているというだけであって。制作者達はその時その時で後のない(後先考えない)戦いをしている。

 よって、『さらば』と言ったあと『永遠に』が来て、その後に『完結編』があったりする。
 死んだはずの人物が生きていたことになっているのは普通だが、どう言いつくろっても復活できそうもない死に方をしていた場合は双子の弟が出てくる。
 恋人どうしだった筈の2人はいつのまにか生き別れの兄妹だということになり、宿敵までが生き別れの親父ということになり、役者のイメージが合わなくなったので前作の画像をこっそり差し替えたりする。
 最強の恐竜、地上の暴君ティラノザウルスレックスは噛ませ犬になる。
 こうして屋上屋を重ね、設定がぐちゃぐちゃになってしまうのがシリーズ物の末路だ。
 そこで使われるのが「リセット」という大技だ、つまりはそれまでのことは「無かったこと」にしてしまうわけだ。
 
 この「13日の金曜日」も、いままでのことは全て無かったことになり話をすべて巻き戻してしまう。
 まあ、巻戻ってもリメイクでも面白きゃ文句はないのだが・・・・

 
 旧13日の金曜日シリーズははわかりやすいショックシーンで人気を集めそれまで日陰者だったスプラッター映画を陽の当たるところへ押し出した、そうした功績がある一方、いくつかの悪しきフォーマットを後続の映画に残している。

 以下は1999年のスクリプトシート「ディープブルー」からの引用だが

 『神出鬼没、とはたとえばジェイソン君に追われた登場人物が山荘を逃げているとします、やっとの思いで自室に逃げ込み分厚いドアをバタンと閉めホッとするや、ドアの陰に隠れていたジェイソン君が襲いかかる、というような事を指します。
 こういうシーンを頭の悪い制作者はよく作るのですが正気とは思えません、論理的にも物理的にもありえないことです、観客はとりあえずキャアとかいいますがそれは驚愕しているので恐怖しているのではありません、映画がビックリ箱と同レベルでは悲しいでしょう。』

 というようなものである。

 他にも殺人鬼がうろついているにもかかわらず、一人シャワーを浴びにいくバカ女というステレオタイプもある。
 「スクリーム」の3作目は「1作目で起こった連続殺人事件を映画化している撮影所」が舞台だ。この中でシャワーを浴びにいく役の女優が「ねえ、これって私がバカに見えない?!」と文句を言うシーンがある。そう、バカにしか見えません。

 また第一作のエイリアンにもあるのだが、怪物/殺人鬼が身近に居ることを承知しておそるおそる歩いている登場人物が、当の相手にいきなり背後から襲われるというシーンがある。
 あるいは、戸外に怪物/殺人鬼が居るにもかかわわず、窓のそばに(しかも後ろを向いて立ち)窓越しに襲われるというシーンも多い、いったいどんだけマヌケなのか。

 これらのしょうもない演出は13日の金曜日が流行らせたといって過言ではない。

 ※ジェイソン(犯人/怪物)が死んで(?)平和なエンディングとなり、すっかり映画が終わったと思っているといきなりジェイソンが蘇り、主人公に襲いかかってザ・エンドとなる、というフォーマットも流行らせたが、これは「キャリー」でデ・パルマがやったことをパクったものだ。

 
 リセットするなら、こういう悪しきフォーマットもリセットして少しはマシな恐怖演出をしてくれるといいなあ、と思っていたのだが、29年の年月などまるでなかったかのごとき旧態依然とした展開で、ジェイソンはあいかわらず神出鬼没、登場人物たちはオマヌケなのであった。

 しかも、こんなしょうもないスプラッターでもいまや人物配置はハリウッドフォーマット、つまり白人男性の主人公に添え物の黒人とおまけの東洋人。もうアメリカ映画ってダメなんじゃないないだろうか?


 あと気になったのが実は照明効果だ、フツー映画を見て照明が気になることはまずない、ところがこの映画ナイトシーンの照明が激しく変なのだ。
 冒頭、あかり一つないまっくらな森の中のシーンの筈なのに、主人公たちも背景の森も煌々とライトアップされている。

 通常こういう時は「じあかり」(地あかり)と言って、光源がどこにあるのかよくわからないように工夫された、登場人物や背景がかろうじて見分けられる照明をするものだ。変といやそれも変なのだが、完全にまっくらでは映画にならないので記号としての暗闇ということになる。

 また洞窟内とかでも、なんとなく洞窟の曲がった先からぼんやりとした光が差してきていたりして、変といやそれも変なのだが、神秘的に見えればそれもアリといった微妙なライティングをするのが普通だ。

 ところが、この映画はそうではない、画面のすぐ外、フレームギリギリのところに強力な投光器があるのがまるわかりの照明なのだ、画面端の木の葉っぱなど光を反射してキラキラ光っている。

 主人公たちは懐中電灯を持って歩いているのだが、その光より背景を照らす照明のほうがはるかに明るいのである。

 これは変だ!

 あまり変なので、これはスプラッター映画を撮っている撮影風景というオチになるのかと思ったほどだがそうではなかった、もう最初からガックリである。

 私は長いつきあいなのでやむを得ず、お祭りに参加するつもりで劇場に足を運んだのだが、まったくこれっぽっちもお勧めできない。レンタルですら見る必要はないだろう


 



英雄の書
宮部みゆき





 宮部みゆきは当代一流の語り部である。
 その小説はいかに長くとも破綻せず、矛盾せず、緩急自在に読者をひっぱっていく。
 「ディティール描写病」な他の小説家と違って、宮部みゆきの長編は長いだけの理由があり、長くなるだけの中身がある。

「模倣犯」において、3500枚という長い長いお話の最後についに『模倣犯』という言葉が登場しその言葉がこの話を見事に締めくくったときには震えが来たほどである。

 さてしかし、その宮部みゆきにも弱点がある、それは「ゲームをやらない日がない」というゲーム好きが影響しているのか『剣と魔法のファンタジー』を書くとなにかがおかしくなるということだ。

 具体的に言うと「ブレイブストーリー」と「ICO」なのだが、これについては2005年度のSCRIPT SHEETに書いたのでそれを読んで欲しい。ここにその一部を抜き書きするが。


 しかし長編小説を書かせればあれだけの手練れである宮部みゆきにして、この「ブレイブストーリー」の出来はひどいものだ、ゲームに思い入れがありすぎるのだろうか。

 誰がどうで、これがそうとは言わないが多くのジュニアファンタジーが字で書いたアニメであるのと同様、これは字で書いたゲームでしかない。

 ロールプレイングゲームというのはその名の通り、役(role・ゲームにおいては種族や職業)を演じる(playing)からこそ面白い。

 それは作者が用意した起承転結を受け身で楽しむ小説や映画と違い、自分だけのストーリーを自分で作っていく面白さだ。

 ゲームはそのために特化している、小説では当然要求される必然性や論理性が無視されている部分も多い(強大なモンスターをようよう倒して進んだダンジョンの先に道具屋があったりする)
 逆に言えば誰かがプレイした過程を聞かされてもさほどには面白くないのだ。
 
 そしてこの「ブレイブストーリー」はまさしくゲームの過程を字に引き写しているだけだった。

2005年度 SCRIPT SHEET 「ICO」より

 ということだ。

 この「英雄の書」もまた『剣と魔法のファンタジー』だという、一抹の不安を覚えながら読んでみたのだったが・・・

 ・・やはりダメだった。

 ネズミの従者とか、もともとは良いとこの出だったが今は悪を追って各地をめぐっているボロのマントの剣士が出てきたあたりで「おいおい」という感じだし、舞台となる異世界は王が居て、騎士がいて、農民がいて、僧院があってという中世ヨーロッパ風(リアルなそれではなく、日本人が漠然と思い描く、映画やゲームや小説で培われたイメージとしての中世ヨーロッパ)というあたりで「そのあまりなステレオタイプの舞台設定はなに?」という感じである。

 ついでに言えば「魔導士」という言葉が出てくる。
 「魔導士」というのは現実にある職業(?)ではなく、日常的に使われる単語でもない、それは日本的ロールプレイングゲームとその派生物であるファンタジー小説で生まれたものだ。

 それらのゲームや小説ではこれを説明抜きで使う、つまり『過去の作品でご存じの通り』という大前提で作品が作られているのだ。

 つまるところ、この『魔導士』や『詠唱』や『召喚』などいかにもな単語は一種のジャーゴン(仲間内でしか意味が分からない言葉)でしかない。ジャーゴンを使ってためらいがないのはその作者が「書く人読む人、みんなナカーマ」という身内の論理で作品を構築しているからだ。

 作者がそのマーケットを完全に把握している限りはその距離感覚が間違っているとは言えないが、ゲームをせずファンタジーも読まない読者が居るだろうことがあきらかな小説において不適切なのはあきらかである。

 このあたり、やはり宮部みゆきは読者との距離感を見誤っているとしか思えないのだ。

 また千数百枚、上下2巻の長編でありながら、主人公の少女が異世界に旅立つのがちょうど半分というのはいかにもバランスが悪く、そこまでじっくりと語っておきながら旅立ったあとはほとんど紆余曲折なく、ラスボス(?!)のダンジョンにたどり着くあたりがお話としてバランスが悪い。

 ラスボスとの対決が「何がどうなったのかよくわからないうちに終わる」というのは手練れの作家として不手際であり、その不手際を取り繕うためにラストで延々と説明ゼリフが入るというのも宮部みゆきらしくない。

 つまりは「またやってしまった」ということだ。

 兄と両親、途中で登場する兄の恋人を救うために旅立ったわりには、関係者がほとんど救われていないというラストも納得できない展開である。
 う〜〜ん?


 



天使と悪魔
ダン・ブラウン







 数人の登場人物があり、その中に犯人が存在するらしい、しかし各人の独白−心の声−があってそのどれもが犯行について語っていない。これは犯人は別にいるのか?と思っているとやはりその中の1名が犯人である、という展開の小説を私は「アンフェア」と呼ぶ。
 
 そしてアンフェアな小説は土俵の外へほっぽり出すことにしている。つまりは『評価に価せず』ということだ。

 これはそのような小説である


 


ウォッチメン





 これがどんな映画なのか事前にまるでわからなかった。
 映画評を読んでも宣伝文句を見ても奥歯に物のはさまったような事しか書いておらず内容が理解できなかったのだ。

 そもそもこれが爽快なアクション映画なのか、サスペンス映画なのかもわからないほど紹介は曖昧だ。

 私は映画を題材で見る(つまり映画を監督で見ず、役者で見ない)その私にとっては異例のことながらこれがどんな映画であるか理解しないまま見にいった。

 どうやらこれが爽快なアクション映画でもサスペンス映画でもない複雑微妙な映画でありエンターティメントという枠を越えた問題作(らしい)ということだけは読みとれたということだ。

 結果は驚くべきものだった。

 舞台は1980年代のアメリカ、そこはバットマンやXメン(風)のアメリカンヒーローが実在する世界である、しかし悪人を叩きのめし社会に平和をもたらしていた彼らの活動はアンチヒーロー法案によって禁じられてしまっている。つまり法を超越して勝手に悪を退治してはならないとされているわけだ。

 彼ら元ヒーローは実業界に転進したり、市井の民に紛れて暮らしている(マスクタイプのヒーローは顔バレしていないので隠れ住むことが出来るのだ)

 そしてこの時代アメリカの大統領はニクソン、米ソは冷戦のただ中にある、ソ連はアフガンに侵攻しアメリカとは一触即発の危機にある、ニクソンは戦争やむなしというタカ派であり核攻撃の準備を推し進めている、世界は破滅の淵に立っていた。

 そのようなキナ臭い空気の中、元ヒーローの一人が何者かに殺される、ヒーローを殺す者は誰か、そして何のために?
 仲間の一人が調査を進めると驚くべき陰謀の正体があきらかになってくる・・というのがこのお話だ、かいつまんで言うと「冷戦の時代、核戦争の危機にアメリカンヒーローはいったい何が出来るのか?」という壮大なお話なのだ。まさしく問題作といってよいだろう。


 実のところ日本人にはアメリカンヒーローというものが理解できない、コミックスも発売されておらずTVでオンエアもされていないのだから当然である、だからヤンキーにとって彼らがどういう存在であるかは想像する他ない。よってこの映画を真に評価できるのはアメリカ人だけであろうとは思う、しかし、ハタから見てもこの映画が面白く、充分な深みを感じされる作品であることは間違いない。

 お勧めする。


 


深海のYrr
しんかいのイール


フランク・シェッツィング


 近年希に見る・・・というか、これくらい風呂敷のでかい小説は読んだことがないんじゃないかと思われるほどの海洋冒険終末パニックSF小説である。

 どれだけ風呂敷がでかいのかざっと説明しよう。

 まずはノルウェー沖の大陸棚に存在するメタンハイドレードである。
 メタンハイドレードとはメタンガスが氷の中に閉じ込められている結晶状の物質で、化石燃料に替わるエネルギーとして将来性に期待が高まる代物だが、これを喰う新種のゴカイが大量に(無数に)発生しているのが発見される。
 そしてゴカイによって穴だらけになったメタンハイドレード層が崩壊、その衝撃が高さ30メートルの津波になってヨーロッパの海岸地帯を襲う(海岸の都市は壊滅する)

 と思いきや、クジラが小船を襲い、海に投げ出された人間をシャチが殺すという事件が各地で発生する。

 は?と思っていると、ロブスターの中身がゼラチン質の「何か」に変質し、猛毒のそれが触った人間をたちどころに殺したりする(その「何か」が混じった水を飲んだ人間も死ぬ)

 海では、航行する船を狙ったメタンガスの大発生が起こる。ガス混じりの海水は比重が下がるので船は浮力が足りなくって沈没する。

 マジですか? と思っていると、クラゲ、カニが大発生する。
クラゲは船の冷却水取り入れ口にみずから吸い込まれそれを詰まらる。エンジンの冷却ができなくなった船は航行不能に陥いる。

 カニは海から上陸して人を襲う、毒を持つこのカニにちょっとでも触れた人間は死ぬ。

 ええええ?と思っているとメキシコ湾流に異常が発見される。
 赤道下で暖められ北上してヨーロッパに熱を移動させているこの流れが停滞すれば、気候が激変し「地球は氷河期に突入するかもしれない」

 わお!

 このように質も規模もまるでバラバラな異常現象のオンパレードである、このような大風呂敷をちゃんとたためるのか(?!)と思わざるを得ないわけだが驚くべし、なんとかまとまっている。これは大技である。

 上中下3巻に渡る大長編であり、なによりその質と量が半端ではない。

 映画化決定ということだが、当然そんなことは不可能であり、名前だけの別物になるのは目に見えている。
 
 ハリウッドフォーマットに毒された中途半端な映画を見て原作までこんなものかと思ってしまってははSF者として不覚である。いや、SF者ならずとも海洋冒険終末パニックに(つまりは大作エンターティメントに)興味がある者ならばともあれ読んでおくべき作品と言えるだろう。

 強くお勧めする。



 





 最近のハリウッド映画のB級冒険娯楽活劇の劣化が激しい。

 この場合B級映画とは超大作ではなく、オールスターキャストでもない、売れ筋の俳優1人、アイデア1個で出来た一種のプログラムピクチャーを言う。

 冒険娯楽活劇はその特殊撮影部分が映画の出来に大きく関わるわけで、かつてはこのような「大作でない」作品の場合その部分が残念な結果に終わることが多かった。

 しかしデジタル技術が進んだ今、超大作でもロウバジェット映画でも特撮部分のクオリティにそう差は出ない、総体としてCGカット数が少なくなるということはあるにせよ、1カット1カットの出来がひどく悪いということは無くなった。なにしろCGそのものは超大作映画と同じプロダクションが作っていたりするのだから。

 (そういう意味ではハムナプトラ3のイエティが「20世紀の映画かこれ?」と思わざるを得ないような出来であったのは驚くべきことである)

 さて映像が残念な出来であった時代でもシナリオはそれなりに練りこまれたものであることが多く、さすがにハリウッドはシナリオライターの層が厚いぜ、と私は思っていたものだった。
 なにはともあれ、頭を使うのは巨大なセットを組んだり、精細なミニチュアを組んだりするよりよほど対費用効果の高い予算の使い方なのだ。

 ところがどうしたことか、最近のこの手の映画のシナリオの出来がひどく悪い。

 ということで、NEXTである。

 宣伝のキャッチコピーによれば「2分間だけの予知能力で世界を救えるのか」ということでニコラス・ケイジの主人公は2分先の未来が読める超能力者である。

 しかし、宣伝では予知能力、予知能力と言っているのだが、これは違うのではないか?
 彼はなにか事が起こった際、その記憶を保持したまま最大2分前の自分に戻れるのである。
 
 未来というものが確定したものでないかぎり未来予知というものには意味がないが、そうであれば2分先の未来が見えるということの意義も怪しくなる、2分先に起こることがわかったところでそれを変えることが出来ないのなら予知に意味はないわけだ。

 この主人公の超能力はそうではない。
 映画の冒頭、「運命の女性」に出会った(と思った)彼はレストランで彼女をナンパするのだが、その方法をつぎつぎと試していく。
 カッコ良く迫ってダメ、あれしてダメ、これしてフラれと、次々にやってみて失敗すれば2分前に戻ってやりなおす、そしてついにナンパに成功する。

 また、ラスト近くのアクションシーンにおいて拳銃でバンバン撃たれるシーンがあるのだが、彼はその1発1発をヒョイヒョイとよけ、撃っている相手に接近していく。
 これは歩いていって弾が当たれば、その1〜2秒前に戻って体をかわす、そのまま近づいて次の弾が当たればまた時間を遡ってその弾をよける、ということを繰り返すのだ。
 ハタで見ていれば、まるで弾がどこに飛んでくるか前もってわかっているように見えるのだがこれは「未来予知」ではない。

 「それはタイムリープ能力って言うのよ」と芳山さんなら言うだろう。

 さてしかし、それはあまりにも限定的な能力である、主人公もその点は充分に承知していてラスベガスの場末のバーでマジックショーとしてその能力を使い、目立たないように暮らしている。
 
 そこへFBIの登場である、ロシアから核弾頭がアメリカに持ち込まれテロリストがそれを使用しようとしていると言う、「あなたの能力でこの核を見つけて」というのだが、いったいどうすればいいというのだろうか。

 主人公ならずとも「2分先が読めるだけでそんなことは出来ない」と思うのは間違いない、ここでFBIの女責任者に素晴らしいアイデアがあるなら別だがそういうわけではない。
 いくらなんでもこの展開は強引だろう、と思っていると何故がテロリストが過剰反応を起こす、FBIの動向を探っていたテロリスト達は何故か彼を危険因子と判断し、抹殺に乗り出すのである、つまりテロリストの方から接触してくるわけだ、これはご都合主義すぎる。

 そして彼を抹殺する罠として彼女(運命の人)が拉致されてしまう、以後はテロそっちのけの彼女奪還作戦になってしまう。
 これは最近のハリウッド映画に特有の論点ずらしである、視点のドメスティック化とも言えるだろう、大きな広がりがあった筈の話を、主人公の個人的な話にすり変えてしまい、それの解決をもってハッピーエンド(みたいな空気)を醸し出して終わりにしてしまうのだ。





 これから、ネタバレに近いことを言うので、この映画をそれでもとりあえず観るつもりだという方はここで読むのをやめ、次ぎの章に飛ぶことをお勧めする。





 ところで、この主人公「2分先の未来が読める」のだが、彼女との出会いだけは遙か以前−おそらく何週間も前−から予知している。
 (先に述べたように、彼の能力は未来予知ではないのだから、これは質の違う話なのだが、それはさておき)
 それゆえ彼女は自分にとって特別な「運命の人」なのだと思っている、もちろん観客だってそう思う、そしてそれがこの映画のストーリーに密接な関わり合いがあるに違いないと。

 ところがびっくり、それについては何も語られない、彼女が特別であった理由は一切明かされないまま映画は終わってしまうのだ、つまるところ彼女はテロリストに誘拐される係でしかない。
 これでは「彼女をなんとしても助けなければ」というモチベーションづけのための「特別な人」だったと言わざるを得ないわけだが、それでいいのか?!

 また「2分間だけの予知能力で世界を救えるのか」ということだが、これは「救えない」(!!)

 そもそも窮地に陥ったとしてその原因が2分以上前にあった場合、この主人公には手も足も出ない、最初から誰もが思うように核弾頭を発見するには力不足すぎるのだ。
 結局ラストで袋小路におちいった彼は「何時間も前に戻って全てをやり直す」という荒技を披露する。

 『2分の縛りはどこへ行った!』

 こういう小品な映画はアイデアが全てである、たった2分間の予知能力(時間遡航能力だが)しかない超能力者が何をなしとげられるか練りに練って作るべき映画である。

 小説で言えば短編小説、ワンアイデアを考え抜いて切れ味の鋭いお話を披露すべきものである。

 ところがこの映画は設定を生かすどころか、無理を重ね伏線は回収せず、やがて基本設定をもひっくり返す荒技で締めくくってしまうのだ。

 これはどうにもならない。



 さて、この映画を見て思い出したのが「ジャンパー」である。

 これはどこにでも居るちょっといじめられっこな高校生がある日「瞬間移動能力」を身につけたら何が起こるかという話だ、

 これも売れ筋の俳優『ヘイデン・クリステンセン』(アナキン・スカイウォーカー)
 アイデア1個『瞬間移動能力』で出来た、一種のプログラムピクチャである。

 ごく普通の若者がジャンプ能力で無軌道なことをしでかし、やっかい事を引き起こしているうちは面白いが、やがて超能力者狩りを目的にする怪しい宗教団体が出てくるに至って、お話が捻れてくる。

 そもそも瞬間移動能力を持った主人公と、瞬間移動能力者を殺すことを目的にした組織でお話を作ろうとする事自体マッチポンプである。

 またこの宗教団体は「ジャンパーが空間に開けた穴を固定する装置」を持っているのだ。

 殺しを専門とする組織に対し、ジャンプ能力だけが取り柄の主人公というのがお話のキモだと思うのだが(「NEXT」の主人公が時間を遡ることでテロリストに対抗するのと同じ構造である)この装置を使うとジャンパーが飛んだ先へ彼らも飛んで来られるのである、瞬間移動意味なしである。

 さらにはその組織は主人公の彼女を拉致し(!)主人公は罠を承知で彼らの本拠地へ乗り込むしかなくなる、ジャンパーである意味がない。

 さてこのジャンプ能力「瞬間移動できるのは自分だけ、それ以上の物を持って飛ぼうとすれば命がない」という縛りがあったはずなのだが、ラストシーンで敵に捕まり袋小路に陥った主人公はこの制約を突然に突破して大逆転を起こすのである。

 どっかで聞いたようなお話でしょう。

 予知能力とか瞬間移動能力というのは架空の能力であるがゆえに「なんでもアリ」にしてしまえばお話が成立しない。
 その特殊な能力とその限界、出来ることと出来ないこと、それら相反する条件をきちんと生かした上で知的なゲームを作って始めてこうした映画は面白くなる筈なのだ、いったいに最近のハリウッド映画はなぜこうも掟破りをするのだろうか?

 ついでに言えば、冒頭広がりのあった話をなぜ途中で「彼女を助けろ」という個人的な問題にすり替えてしまうのだろうか?


 と書いたところで思い出したのが「デジャヴ」だ。

 これは、売れ筋の俳優『デンゼル・ワシントン』
 アイデア1個『地上のいかなる場所も(屋内外を問わず)見ることの出来る超監視装置(ただし4日前しか見れない)』というネタで作られた映画である。

 これは実はシナリオがよく練られていて見て損のない映画である、だからとってもお暇があったら見ても損はない(かもしれない)

 だがしかし「テロリスト」によって行われたフェリー「爆破事件」を捜査している刑事がいつのまにか『彼女を救う』ことが目的になってしまうのだ。


 更に言えばキアヌ・リーブスの「地球の静止する日」である、これについては既に感想を上げてあるので詳しくはそちらを読んで欲しいのだが。

 『人類を教導するために』地球を訪れた宇宙大使クラトウは、その努力をほとんどしないまま『地球人滅亡プログラム』を起動し、しかし『彼女を救うため』そのプログラムを停止してしまう。

 野蛮で感情的な地球人と違い、理性のみで行動する宇宙知性にしては支離滅裂な行動である。



 さてさて最近私が多用する「ハリウッドフォーマット」という言葉がある。
 これは「物語の開始何分までに登場人物を紹介し、何分で事件が起こり、何分で主人公がピンチになり、何分で解決する」というタイムテーブル(これはキッチリ決まっている)
 及び、主人公は白人男性、脇役に黒人と東洋人そして子供を配置する。原則として黒人、東洋人は悪役でなく、子供が死亡しあるいは傷つくことは許されない。といった人物構成を言う。

 実のところ上記の縛りは、とんでもない代物ではあるが、それでもシナリオの工夫の範囲であると言ってもよい(起承転結とは昔からマンガでも言われている)

 しかし、映画のテーマを『彼女を救う』とせよというのは次元が違う、それは物語を型にはめる行為だからである。

 それは、いったいに人は何故「お話」を作りたがるのか? 
 人はなぜ誰かの考えた「お話」を見に行きたがるのか?という映画の根幹にかかわる問題である。
 
 私はハリウッドフォーマット自体は笑って済ましていたのだが、似たような構成の映画を続いて見てしまったおかげでちょっとばかり危機感を覚えている。
 なにはともあれB級冒険活劇は映画の王道なのだ、これがテンプレートで作られるようになれば、出来てくるのはゴミの山ばかりになるだろう。


 








 前評判が芳しくなかったのでどうかと思ったのだが、これも祭りと観にいったところが「思ったより面白かった」

 しかし、もはやコロンビアピクチャーはこの映画を終わらせることは出来ないのだろうな。

 映画の制作費が肥大し大作映画がギャンブルと化した今、ビッグバジェットの映画は原作付きか続編しか作られない、そしてそれでも失敗する作品はいくらでもある(ドラゴンボ・・いやいや)

 だから制作会社としては確実な興収が見込まれる人気タイトルはどうしたって手放したくないわけで、引き際よく大団円などいよいよあり得ない。

 とはいえしかし、映画の評判は俳優の人気とイコールである(ことが多い)わけで、役者の老いは避けられない。

 たとえば、どうしたってハリソン・フォードでインディジョーンズはもう作れないわけだ。

 そこで映画会社の考えることは、まずはスピンオフ商品で稼ぐことだ。
 ターミネーターで言えば『ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ』
 スターウォーズで言えば『イォークアドベンチャー』とかアニメの『スター・ウォーズ クローン大戦』、インディジョーンズで言えば『ヤングインディジョーンズ』などなど。
 しかし、これらも本家たる劇映画あっての傍流でしかない

 次に映画会社の考えることは、次世代への引き継ぎだ。

 インディジョーンズに関して言えば先にハリソン・フォードが老骨にムチうって新作を発表したわけだが、これはどうみても息子世代への引き継ぎを狙った作品である。
 (残念ながらインディジュニアには親父ほどのオーラがなく、お母さんのほうが目立ってしまったくらいで新シリーズといけるかどうか怪しいところだ)

 で、ターミネーターだ、これがシュワちゃん人気であったことは論を待たない、しかしカリフォルニア州知事もさすがに老いてしまった。

 インディジョーンズに関してはシルバーインディジョーンズというものもあり得ない話ではないが(前作のショーン・コネリーの位置にハリソンが立つわけだ)殺人サイボーグが老いてはまずい。

 そこで今回、映画会社の打った大ばくちが主人公をジョン・コナーに移すという大技だ、こういうマネをしてうまくいったためしはないのだが、これは意外に成功している。

 ともあれ苦悩するヒーロー、ジョン・コナーをクリスチャン・ベイルが好演しているからだ。

 しかしこれでターミネーターという一種別格だったシリーズはよくある終末物の仲間入りをしてしまった。

 というかこの映画、観ていて私は何度も既視感におそわれたのだ。

 近未来、荒野をボロ車で行く主人公がロードサイドのボロいガソリンスタンドに立ち寄ると、野党(原型はマッドマックス・サンダードームに出てきた、革ジャンモヒカン、ショットガン的な)が涌いて出て、お前達に分けてやるガソリンはねえ身ぐるみ置いてとっとと失せろと言う、といったシチュエーションをもう128回くらい観たような記憶がある(のだが単なる勘違いですねきっと)

 アメリカの片田舎の終末光景を典型的に表現すると皆似てくるってことなのかもしれないが、とりあえずはバイオハザード3にそっくりだったと言っておこう。

 ついでに言うと、機械生命に支配された未来の地球で残った人類が抵抗運動を続けているという設定はマトリックスですでに気持ちよくビジュアル化されてしまっていて、暗澹たる機械生命都市と多勢に無勢の殺人マシーン、鋼鉄のスラムに住むレジスタンスの貧しい暮らしってのは既視感でもなんでもないわけです。

 つまりはこのままでは埋没しかねない。


 さらに言えば、ストーリの先が読めてしまうというのもシナリオ的に難しい。
 これはスターウォーズの新3部作がヘロヘロであったのと同じで、先が見えない展開・思いもかけない結末、というわけにはいかない所がなんとも苦しい。


 さてこれから先の展開だが。
 ジョン・コナーがレジスタンスのリーダーとなり戦局を逆転させる(ガキんちょだったカイル・リースは戦士として成長しコナーの片腕となっている)
 危機感を覚えたスカイネットはサラ・コナーを抹殺すべくタイムマシンでT−800型(シュワちゃん型)ターミネーターを過去へ送る。
 サラを守るためにコナーはカイルを過去に送り込む。

 その後。

 スカイネットはタイムマシンを使い、今度は液体金属ターミネーターT−1000を過去に送る。一方ジョンはT−800型ターミネーターを味方に付けることに成功し(人とサイボーグの垣根を越えて交感して?)ジョンを守るため過去へ送り込む。

 ついで。

 スカイネットはタイムマシンを使い、今度は女性型ターミネーターT-Xを過去に送る。一方ジョンはT−850型ターミネーター(老けたシュワちゃん顔)過去へ送り込む。

 という展開が待っている。

 カイルを過去に送るあたりで1本、というのが次回の構想ではないかと勝手に想像しているのだが基本的に苦しい。
 『T−800型ターミネーターの過去への送り出しを阻止せよ!』というお話にしようとしても成功しないことはわかっているからだ。

 あとの2つのエピソードも似通っているがこれをどう処理するのか。
 なんにしてもオリジナルストーリー『スカイネットと最後の決戦』というお話になるのはまだ先になるだろう。

 その最終戦争に突入したところで、たった1本で大団円になる筈はない。
 ヘタをするとボロボロになるまでお話をひっぱる可能性がある(というかきっとなる)
 普通に続編を作っていくだけでも次第にネタに詰まってつまらなくなるのが映画の宿命なのに、世界観にオリジナリティがなくなり、エピソードが先刻承知という手かせ足かせの中でシリーズがいつまで持つのだろうか?

 


 ・・・などなど。この作品の感想そのものではなく先々の不安について書き綴ってしまった。しかしこれはこの作品がモロに「次回をお楽しみに」で終わっているからだ。

 たとえばインディジョーンズ2の感想を語る際に次回作の不安について語ることはない。このシリーズは何作も作られたというだけであって、毎回新たなお話が始まりキチンと終わっているからだ。

 ところがターミネーターや、パイレーツオブカリビアン、バイオハザード、はどれも至近の2作が続きものになっている。
 完全に「これは長いお話の一部です、次回をお楽しみに」という作りになっているのだ。

 となればこれは言うところの「映画」ではない、劇場で上映される連続活劇である(実は映画の黎明期にはよくあった形式なのだが)

 連続TVについて話をする時、話題が先の展開についてになることはよくあるわけだがこれはそれと同じである。
 連続物の場合、作品の出来は「これから先どんな展開になるのか」「最終回はどのように終わるのか」が重要になるのであって、ある特定の1回が面白いかどうかはさして問題ではない。

 つまるところ、このターミネーター4は『なかなか面白く出来た回だとは思うが、基本つなぎの話でしかない』というのが過不足ない評価だろう。


 

少女たちの羅針盤
水生大海


 『ばらのまち福山 ミステリー文学新人賞』というものがある・・というかあったらしい(知らなかった)

 広島県福山市が実行委員会を作り、賞金を出し、島田荘司が選者をやるというもので昨年第一回の発表があった。本作はその「優秀作受賞作品」である。
 「受賞作」は別にあり、この作品は『島田先生のご要望もあって、特別に「優秀作」として選ばれました』ということなので次点といった位置づけなのかもしれない。
 かもしれない、というのは発表サイトの構成が手作り感あふれていて、よくわからないのだ。

 そして、そのような手作りの文学賞にふさわしいと言うべきかこの本の宣伝もまた変わった手法がとられた。

 この本は原書房から刊行されたのだが、この原書房の編集者が独自に読者プレゼントを行ったのだ。


  
 7月10日刊行の水生大海『少女たちの羅針盤』を、20〜30部、差し上げようと思います。
ですがもちろん宣伝目的です。
ブログなどで定期的にミステリ作品の書評を掲載している方に差し上げて、
『少女たちの羅針盤』の感想や評価などをそれぞれのサイトで書き込んでいただきたいのです


 というものだ。最初は営業部の意見も聞かずに始めた独自企画だったようだ(それってアリなのか)

 とまれ

 感想や評価は自由です。辛口でもかまいません

 というので応募することにした、私としては選者が島田荘司というのに惹かれたのだ。 (私が今ディフォルトで本を買う作家は島田荘司と京極夏彦くらいである)
 
 いちおう当方でサイトの内容などを考慮しまして、お送りすることになります。

 ということだが、さいわいにも当選(?)し本が送られてきた。




 当「CRANK−IN」が評価されたのか
それとも、人数ぶんしか応募がなかったのかもしれ・・いやなんでもない。
 


 ということで感想である。

 冒頭、舞台がいきなり映画の撮影現場なのでこれが当選の理由か!と思ったのと同時に「これはヤバイ」とも思った。

 なぜなら映画の撮影現場がちゃんと描かれているとは思えないからだ。
 もちろんこれは映画に限らず小説に出てくる専門分野すべてに言えることだとは思う。たとえ大工であろうと自動車塗装工であろうと、書かれれば皆「これはチガウ」と思うに違いない。

 しかし、たとえばパイロットがコックピットでどういう会話を交わすかは取材なり調査なりをしないと書けないのに対し、映画の撮影現場で監督がどんなことを言っているかは皆だいたいわかっている・・つもりになれる、というあたりがヤバイのだ。

 案の定というべきか、冒頭主演女優がロケセットに入るやいなや、台本が違っている(最終稿の前のホンしか渡されていない)ということが判明するのだが。

 役者にシナリオ郵送したら次はもう撮影当日なんですか?!

 作者は演劇に関しては少しは知識があるようで(←演劇には門外漢である私の印象では)「本読み」という言葉が出てくるのだが、それは映画には無いと思っているらしい。

 しかし映画の場合、撮影当日に現場で長々と練習をしている時間はない。特に時間の制約があるロケはそうだ(太陽との競争なのだ)実際には「段取り」「テスト」「本番テスト」次が「本番」と3回で本番に臨むのが通例だ。

 ここで監督の演出意図を聞いたり、相手役との演技の摺り合わせをしている時間はない(叫ぶと思っていた相手のセリフが実は感情を押し殺して言うものだったりした場合、その場で演技プランを変えている時間はない)

 だから必ず「本読み」は行われるのだ、これはたとえばウルトラマンの映画だって行われる。なんでウルトラマンを引き合いに出すかと言えば、明るく楽しいファミリー映画、特段に複雑微妙な演技は要求されない映画であってもそれはあるという意味だ。
 ましてや作中のようなサスペンス&ホラーでそれが無いわけはない。

 芝居が本公演にこぎ着けるまでに何回稽古を繰り返すか考えてみたら「撮影当日が相手役との初顔合わせ」ということなどあり得ない、と想像がつきそうなものだと思うのは本業の勝手な思いだろうか?

 また、百歩譲って『主演女優が決定稿を持たないで撮影現場に来た』という事が起こったとしたらスタッフの誰かのシナリオを渡せば済むことだ。
 スタッフである限りどのパートのどんな下っ端でもシナリオは持っているが皆がみな「本がなくては仕事にならない」わけではない。

 ところが、予備のホンがないのでコンピュータに入っているシナリオをプリントアウトする、でも紙が足りないので撮影するシーンのみ渡す、という次第になる。

 しかし、この最終稿でなんと彼女の役は「被害者から犯人に変更」されているらしいのだ、ならばそれはまったく違う役といってよい。
 自分がどんな役か知らないで演技できる役者はいない・・というか、どんな話かわからぬまま映画に出演する役者はいない。

 ところが「作り込まないほうが良い演技が出来る」と監督が言っている、ということで彼女はお話の全体像さえ知らされないまま撮影に参加する。
 「現場で出てくるものを大事にしたい」という一言で作者はこの不自然さを押さえ込んだつもりらしいが、これは先の「本読み」と同じく映画の制作システムを勉強しないまま書いている証左である。

  実際の撮影現場においては、カメラの後ろ側はライト、小道具、各種撮影機材、お茶と軽食(!)でごったがえしている。
 だから西を向いているカメラが東を向くと(「切り返す」と言う)機材の大移動が要求される、よって同じカメラの向きは全部先に撮ってしまう(「片押し」と言う)
 
 これは二人の人物が会話をしている場合でもセリフのたびにカメラがあっちを向き、こっちを向きはしないということだ。
 ましてや、廊下のシーンのあと人物が室内に入りまた廊下に出て行くとなっても、カメラが廊下>室内>廊下と移動することはない。
 
 したがって『廊下に居た主人公は不審な物音に気づき室内に入る、人が殺されているのを発見、悲鳴を上げて廊下に飛び出す』という3シーンを撮るとした場合、廊下が先であれば、役者は「不審な物音に気づき室内に入る」ついで「悲鳴をあげて飛び出す」演技をしなければならない。中で何が起きたのか知らないではそれは不可能だろう。

 
 ついでに言えばスタッフの描写もひっかかる−正確に言えば気に障る−ものが多い。
 混乱する主演女優に対し「頭は冷えましたか」とか「何やってんすか」と言うスタッフが出てくるのだが、『そんな奴はいない!』

 映画の撮影現場を描いた映画の中で見るべきは「蒲田行進曲」と「アメリカの夜」の2本である。
 前者は世間が映画制作に関して抱く夢と希望をそのままにカリカチュアライズしたものであり、後者は等身大の撮影現場である。
 その「アメリカの夜」で気分屋の女優のご機嫌を取るために監督自らケーキを作るシーンがある、それは映画の成否は主役をどれだけ魅力的に撮れるかにかかっている、というフランソワ・トリュフォーの考えを端的にあらわしたものだろう。

 つまりそれは役者にどれだけ演技に集中してもらえるか、つまり「役になりきってもらえるか」にかかっているということである。

 それゆえスタッフにとって「主演女優」は掌中の珠なのだ。だから可能なかぎり彼女の気を散らさないように心がけるし、雑事から遠ざけるように気を配る、理不尽な事を言い出してもそれをとがめるようなマネはしない(フランスでも事情は同じということだ)

 つまるところ「主演女優の言うことを軽くあしらうような奴は現場にはいない」ということなのだ。




 以上「もっと映画のことを調べてから書いてくれよー」ということだが、これは映画を生業とする私が思うことであって作品そのものの本質的な傷ではない。

 最初に言ったとおり、どんな職業について書かれたことであっても似たような事情はあるだろうし、作品内部で矛盾が生じたり、書かれている事が読者におかしな印象を抱かせなければそれでヨシとすべきなのだとは思う。
(でも実際問題これOKですか?おかしな印象受けませんか?)



 というわけで、これより本題・・というか本来の感想に入るのだが、上記のようなマイナスイメージのおかげでそもそも作品世界にのめり込めなかったということがある、よってこれが「映画屋でない人間にとって面白いかどうか」の参考になるかどうかわからないとだけは先に言っておこう。


 さて、読後思うことはこれはミステリーなのか(島田荘司を選者にいただくミステリーなのか)?ということだ、倒叙物の一種といえば言えるが、犯行の動機や犯行にまつわる謎が明かされた時「なるほど!」と膝を叩くようなカタルシスがなく、驚くべき謎もない。実際には心理サスペンスというのが適当なところではなかろうか。

 そして、これをミステリーと言う観点から評価するなら、犯人の正体はアンフェアに近い。
 昔「執事を犯人にしてはいけない」(ヴァン・ダインの二十則の内の一つ)という法則があったわけだ、もはや顧みるものもない古典的ミステリー観だが、この点に関して言えば今も考慮すべきと言えるだろう。

 そして、犯行動機に説得力がない(言いがかり、逆恨みが動機というのは「名探偵コナン」によくあるのだが『あのときお前が金を貸してくれていればあの子は死なずに済んだんだ〜的な』 あれはコナンが『ハウダニット』(どんなトリックで犯行を隠蔽したか)に特化しているから動機がおざなりでも可なのであって、本作のように動機が重要なミステリーにおいて「それで人殺しますか?」となったら終わりである。

 そしてここが重要なのだが、最後の謎解きに切れ味がなく、証拠を突きつけられた犯人が全然参らないのというのはどうなのだろう(倒叙物の傑作である「コロンボ」の隙のない謎解きと「ね、あなた以外にこれを出来た人間はいないんですよ」的な決めゼリフで締めくくらないとこういった話は気持ちよく終わらない)

 結局、キチンとお話が落ちなかったため、ラストシーンは説明文と化していて読後感をさらに悪くしている。

 『幻想的なまでの謎』が売りの島田荘司選のミステリーとしてはこれはいかにも力不足ではないだろうか。


 全体の構成を言うと、この話は現代編「映画の制作現場」過去編「高校時代の演劇」のカットバックで進んで行く。
 現代編に問題アリ・・というのはまあ私の個人的な感想であるとして。過去編、演劇に燃える主人公達に次々に襲いかかる困難というくだりがなんともテンプレートな印象なのだ。

 ここはこの小説の要なので具体的に書くのは止めておくが、つまりは「いかにも」なシチュエーションの連発なのである。
 たとえて言うならバレエマンガで主人公のバレエシューズに画鋲が入っていました、とか衣装が切られていましたとか、あるいは意地悪な継母のおかげで舞踏会に行かせてもらえませんでした(!)と言うような「マンガやアニメでよく見る困難」が次々とおそいかかってくるわけだ。

 しかもそのテンポが尋常でない、ケータイ小説風というべきなのだろうか、あるいは韓流ドラマか・・って、実は私はケータイ小説も韓流もあまり見ていないので、このたとえが適当であるかどうかは自信がないが、確実に言えるのは新聞の連載小説風(小刻みに山場を作る必要がある)と言えるだろう。


 とまれ同じようなサイズの困難が同じ調子で降りかかるので仕舞いには飽きてきてしまう、小さな壁に次々にぶつかるのではなく、大きな壁を乗り越えて進んでいくような大きなドラマを作って欲しかったと言わざるを得ない。



 う〜む

 というようなわけですみません、せっかくいただいたご本ですが、とうてい評価できない物でした。


 

ミッキーマウスの憂鬱
松岡圭祐



 千里眼・催眠シリーズの作者である。
 この人の小説最初の数冊は面白かったのだが似た感じの話が続くのと、ともかく文章がうまくないので飽きてしまい、以降索敵対象からはずしてしまっていた。そのためこんなお話を書いていたとは長いこと気づかず、最近(と言ってももう1年?)文庫化されて再宣伝されたため気付いたのであった。


 お話は、夢と魔法の国ディズニーランドは夢と希望にあふれている職場でもあると思い込んだ勘違い君がディズニーランドに準社員として職を得るところから始まる。

 キャストとして表に出るには能力不足と判定された彼は、裏方の仕事を割り当てられるのだがそこで、正社員による準社員の差別、キャスト同士のいがみあい、部署間のセクト争い、そして何より「仕事は必ずしも夢と希望にあふれているわけではない」というしごく当然な現実に直面してディズニーランドに失望する・・というのが前半。

 中盤、パレード用のミッキーマウスが紛失するという事件が起こり、気の弱い準社員の女の子が盗みの疑いをかけられる。厳しい追及に自殺まで考える彼女に同情し、人の命よりミッキーの方が大事とも取れる正社員たちの態度に義憤を感じた彼が、獅子奮迅の努力をしてミッキーを発見、その過程で再びディズニーランドで働くこと、裏方の仕事に価値を見いだす・・というのが後半である。

 前半にこんな事書いていいのか?というようなディズニーランドのネタばらしが続き、これは体のいい暴露本であり、裏事情の露出で耳目を惹きつけようとする志の低い本かと思ったりするのだが、後半盛り返して一応それなりのドラマが展開するので『思ったほどつまらなくはない』

 とはいえ勘違い君が失望していく過程。つまり、他の部署に余計な口を挟んでは叱られ、仕事がつまらないと言っては怒られ、という過程があまりにもテンプレートであり、一念発起して人として急成長するというのも予定調和であり、保身にしか興味のない正社員とか、自分の時間を売って給料をもらっている夢も希望も忘れ果てた準社員などの造型も画一的であり、ありがちな「人の成長の物語」というフォーマットからはみ出す部分のない計算ずくっぽい小説である。


 そう、読後感としてともかく気になるのがこの「計算ずくっぽさ」である。

 この小説の前半は先に述べたように『これディズニーが文句つけてこないのか?』と心配になるほどに暴露本っぽいテイストになっている。
 当然ディズニー協賛とか取材協力の筈はなく、内部事情に詳しい人間に取材して書かれた本であることは間違いない。
 もちろん取材と資料集めは当然であり、よく調べたね〜、と思わないでもないのだが、なんというのかそこから先が無い感じ、作品に血が通ってない感じが伝わってくるのだ
 
 と思う理由のひとつは以下のようなものだ。

 この小説は舞台を「東京ディズニーランド」であるとして書いてある。けっしてどこか架空のテーマパークの話ではないのだ(まあ、ミッキーマウスと書いてしまっている以上そこをごまかしても意味はないのだが)
 そして、ホーンテッドマンションの奥にパレードのフロート(山車)の倉庫があるとか、ウエスタンリバー鉄道から一ヶ所、業務用の道路が見える部分があるなど、見てきたようなウソ(というか、これはホント)な事を書いている一方で『ディズニーランドのほぼすべてのエリアをウエスタンリバー鉄道が周回している』など、一回でもディズニーランドで遊べばわかるような間違いが堂々と書いてある。
 
 作者は東京ディズニーランドに行ったことがあるのだろうか?
 

 (※ここはうっかりディズニーランドカリフォルニアのパークマップ見て書いてしまったのではないだろうか?)

 またこの主人公、最初に着ぐるみの着付けを命じられるのだが、それが人気キャラクターでないことに不満を覚え、それを着る人の前で「こんなのカスキャラじゃん」と言い放つのである。

 このくだりは主人公の落胆を描く便法なわけだが、これは人として許されない暴言であり、そもそもこの主人公(彼は一応ディズニー好きなのである)がいくら勘違い君だとしてもあり得ない発言であろう。

 この「キャラクターに愛情が通ってない感じ」はなんのことはない作者の気持ちが表に出てしまった結果なのではないだろうか。

 このあたりもディズニーランドが好きでもなく、行ったこともなく、資料と計算だけで書いているのではないか?と疑われる所以である。

 結局、作者が題材に愛情を抱いてない作品はやはりつまらないものなのだ、と思わせる小説なのであった



ウエスタンリバー鉄道と業務道路(列車が通過するとき車両は手前の停止線で待機する)
西部の奥地の道と見せかけていますが、つきあたりにカーブミラーがあり
よく見ると待機している車が写っていることがあります





 


サマーウォーズ



 「時をかける少女」に続く細田守監督の最新作である、前作が快作であったために前評判も上々で平日昼間であるにもかかわらず劇場はほぼ満員であった。

 お話は

 主人公(高校2年、数学得意でちょっと気弱な理系くん)はあこがれの先輩にたのまれ、先輩のおばあちゃんの誕生会に同行する。
 実は先輩の偽フィアンセとして雇われたのであった、ということは後で判明するのだが、ともあれ彼は長野県にある旧家(室町時代から続く由緒正しい家柄である)にしばらく滞在することになる。





 さてこの世界はオズと呼ばれる仮想現実ネットワークがワールドワイドなサービスを提供している。

 このオズのサービスとは
 『人々は自分の分身となるキャラ<アバター>を設定して現実世界と変わらない生活をネット上で送ることができます。
 世界中のあらゆる音楽、映画、家具、食品、自動車、不動産、旅行プランなど、実際に手に取るように体験できます。
 専門店街には世界の様々な高級店が出店しています。
 世界中のあらゆる企業が支店を出店。行政機関や地方自治体も窓口を設置しているので、納税や各種手続きなども行うことができます』
 というもので、全世界で10億人以上がアカウントを持っている。

 またこのオズ『消防士アバターは現実世界の緊急発動令をOZから発令できる。 水道局員アバターは水道管理をOZから行える』のはいいとして『アメリカ大統領のアバターが盗まれると、核ミサイル発射権限も盗まれてしまう』(そんなバカな)というヤバイ代物でもある。 
 案の定、というべきかハッキングプログラムによって管理権を奪われ全世界は混乱に陥いってしまう。

 この世界的危機に対して、主人公と旧家に集まった27人が立ち向かう。

 というのが骨子なわけで話を聞く限りは血湧き肉躍る感じだが、なんというかツメが甘い。


 「一介の高校生が世界を救う」というのは胸踊るドラマではあるものの、普通に考えれば無理があるわけで、その無理を無理と感じさせない工夫が必要になるのだがあまり工夫された感がない。

 そもそも全世界的危機なのだから、オズの管理組織、政府の危機管理部門、世界中のコンピューター関連機関、名だたるハッカー達が寄ってたかって回復に努める筈であって、、主人公が解決する以外ない、と観客に思わせるのは相当の仕掛けが必要である筈なのだ。

 また、おばあちゃんの誕生会に集まった親戚のうち、男どもはどれもこれも奥さんに頭のあがらないダメ男ばかりなのだが「俺たちの手で世界を救うんだ!」となるや一致団結しお互いの得意分野を生かした連携プレーでめざましい活躍をする。

 ここも『ダメ男に見える男達だが、やるときはやるぜ』という、一種カッコいいシュチュエーションを考えたところで制作者たちの足が止まってしまっている。
 うまい話考えた、というところで満足してしまっているのではないか?。

 たとえば信号の制御を奪われ、日本中(世界中?)の道路が混乱/大渋滞(もちろん長野も車がまったく動かない)という描写をしておきながら、電器店を営んでいるおじさんはスパコンを運んでくるし、新潟で漁師をやっているおじさんは電源としてイカ釣り漁船を輸送してくる(新潟まで往復で2時間とか平気で言わせている)自衛隊に勤めるおじさんは通信回線を確保するために自衛隊から通信車両をパクって(?)来る。

 先輩のお母さんが「道路が渋滞していて今日中には着けないわ」と言う描写をしておきながらこの展開をおかしいと思わないのだろうか?
 このあたりはツメが甘いどころでなく、明々白々な矛盾と言っていいだろう。

 また、このシチュエーションとは別に、先輩のいとこが車で市内に車で向かうが引き返してくるというシーンがある、その後別なシーンでおじさんの一人が家を出ていくが途中で引き返すというくだりもある、そのどちらも行こうとする道路はメチャ混み、反対方向はガラ隙き(だからすぐ戻れる)という描写になっている。

 『先の3人のおじさんはどこを走って行ったのだろう』ということはさておいて。なぜ一方向しか混んでいないのか?

 ひょっとしてパニック映画の避難シーン『怪獣から逃げる方向は混んでいるがその反対向きはガラすき』を深い考えもなしに模倣しているんじゃないだろうか。


 そしてこのおばあちゃん、世界が危機に瀕していると見るや日本の政財界の大物に電話をかけ次々にハッパをかけるのである。
 『今の警視庁総監だぜ』by主人公、というわけだが、このあたりもただの田舎のお年寄りと思ったところが、実は若い頃は名を馳せた女傑であったのだ、というシュチュエーションを思いついたところで満足してしまっているとしか思えない。

 そもそも、ただの老人と思いきや、実は若い頃は鳴らした人物でありいまだに各界に影響力を持っている、というのは128回くらいは見た覚えのある設定であり(「じ、じいさんあんた一体何物だ?!」というセリフも64回くらい読んだ覚えがある)
 今更のようにそれを持ち出すなら、それなりの準備をする必要があるだろう。

 つまりこのハッパが功を奏すからには、その前段として日本政府や関連組織、財界のトップがヘタレ(!)で、事態に手をこまねいている、という描写をしなければならない筈なのだがそれがない。

 『各界の実力者が昔のマドンナに気合いを入れられて事態が好転する!』うん、ちょっといい話考えちゃた、というところで思考停止している。

 さらに気になった部分を羅列してみると

 ハッキングプログラム(このプログラム自身もアバターを持っている)をオズ内部に作った「お城」に閉じ込める、というシーンがある。
 これはハッキングプログラムの実行環境を外部と隔絶したメモリ空間に押し込め、通信を絶つというアナロジーとして了解可能だが、その閉じ込めたお城に消防隊員のおじさん(のアバター)が駆けつけてきて「水を流し込む」というのはどうか?
 
 水は何のアナロジーなのよ?という以前にそもそも消防隊員のおじさんがハッカー同士の戦いに一丁噛んでくるのは無理がある。
 ヴァーチャルワールドでも消防士の格好をしているおじさんが消防ホースを持って駆けつけてくる、という絵づらの面白さの為に論理的な整合性を無視してしまったとしか思えない。
 

 ハッキングプログラムは地球に帰還した惑星探査衛星(ハヤブサか)の落下をコントロールしてどこへでも落とすことが出来る。原発に落とすつもりかも・・というのは衝撃的なシチュエーションだが『世界が終わる!』というのは言い過ぎである。


 また、全世界を巻き込み、信号のコントロールを奪って交通をマヒさせ、偽通報で消防署を混乱させ、『医療データの管理』まで停滞させたこの事件で(他にもいろいろやっている筈である)死者1名と言われても納得できない。


 「私のフィアンセのフリをして」というのは、日本のアニメ、マンガのみならず世界中のラブコメディで見かけるネタであり、今までに256回くらい作品化されているのではないかと思われるのだが、細田監督ともあろう人が今更のようにこれを使うのであればなにか一工夫、あるいは繊細な感情表現があってもいいと思う。

 しかし!そもそも先輩は何故おばあちゃんにウソを言う必要があったのか。
 何を思っておばあちゃんと対面するまで主人公にその事を伏せておくのか。
 年上のカレ役を理系オタクで頼りない後輩に託すのは無理がないか。
 先輩はおばあちゃんがひとかどの人物であることは承知している筈なのにその無理が通ると信じているのか。

  今更というネタであるにもかかわらず疑問点多く、納得できるものではない。(これも『貫禄あるおばあちゃんにいきなり「この子を幸せにする自信はあるかい」と迫られ目を白黒させる主人公』というシチュエーションを思いつき、これ面白い!となった時点で頭が真っ白になってしまったとしか思えない。
 


 以下は細かい話になるが 

 探査衛星が地上の施設に影響を与えるほど原型を保ったまま地上に落下する筈はない(スペースシャトルですらバラバラなのだ)
 街の電器屋がスパコンを扱っている筈はなく、そのスパコンが簡単に立ち上がる筈はない、またその電源にイカ釣り漁船の集魚灯用の発電機が使える筈はない。
 作品内部で「そういうこと」だと言っているのだからそれでいいとも言えるが、良くできた映画はそういう部分もちゃんとしているものだ。

 などが挙げられる。

 総体として感じることは
 「俺たちカッコいいシチュエーション考えついたぜ」
 「面白い設定思いついちゃった」
  というところで満足してしまい、その設定を生かす工夫をしていない、そればかりかその設定が矛盾をはらんでいないか考えることすらしていないということだ。
 


 さてこの映画、そのタイトルからしても「ウォーゲーム」を下敷きにしているのは間違いない。

 ウォーゲームはコンピュータオタクの高校生がネットハッキングをしているうちに、世界全面核戦争の引き金を引いてしまい、以降その危機を乗り切るために努力するというお話だ。

 理系のオタク少年が主人公である
 本人が世界危機の引き金を引いてしまい、以後は収拾する側にまわる
 暴走したコンピューターが核戦争を起こそうとする
 コンピューターは核ミサイル発射の暗号を解こうと試みる
 外部からのアクセスをコンピュータは遮断するが、主人公たちは「ゲーム」をしかけてコンピューターの気を惹く
 などなどに、サマーウォーズの原型が見てとれるだろう。

 ウォーゲームが余計なことは考えず、コンピュータ対高校生ハッカーの対決に焦点を絞ったのに対し(それゆえ傑作となり今でも評価は高いのだが)
 サマーウォーズは田舎暮らしとか大家族制とか、互いを信じ助け合う心だとか、つまりは「古き善き日本」といった情緒的な部分に焦点を合わせている。 

 この「情緒」をいかに制作者たちが大事にしていたかは
 『世界危機の引き金を主人公が引いてしまった・・と思っていたが違っていた』
 『世界中が大混乱に陥った・・が被害は少なかった』
 という妙な腰の引け方に現れている。

 前段は『世界を救えるのは隠れたる天才の彼ひとり』という絶好の設定を無効にしてしまう展開であり(少なくとも彼より上な人間が世界には49人居る)
 後段は、彼が救ったと観客が信じた世界危機は実は危機というほどの物じゃなかったのね、という致命的な問題をはらんでいる。

 にもかかわらずこういう展開にしたのは。

 意図したことではなくとも主人公には世界に大きな被害をもたらした道義的責任はあるんじゃないの?『手放しで喜んでいていいの?』と『思わせない』処置だと思われる。

 つまりは『主人公と27人の大家族は、世界を救った功績だけがあり、世界を混乱させた責任はない』というエクスキューズだ。

 ハリウッド映画では、職場放棄したり、事態に道義的責任がある立場の主人公が「家族を救った」という一点でなんとなくハッピーエンド感を演出して映画を終わらせてしまう、感覚的に微妙なお話が多いのだが、そういう意味で観客の情緒面でのケアをちゃんと考えたということだろう。
 

 とはいえしかし、情緒的な部分とお話の論理的な整合性が相反するわけはないのだから、この映画の場合、ドラマに気を取られた制作者たちが作品内論理の補強をおろそかにしてしまったとしか言いようはない。
 
 つまるところ「いいお話作ろう(作った)」と制作者が思ってしまった途端映画はダメになるということだと思う。


 



かくして冥王星は降格された
ニール・ドグラー・タイソン




 冥王星は1930年アメリカの天文学者クライド・W・トンボーによって発見された。以来75年世界中の人々はこれを太陽系の9番目の惑星であると認識していた。
 しかし2003年、国際天文学連合の総会によってこれは「準惑星」(dwarf planet)に分類されることになった、つまり『冥王星は惑星ではなくなった』のである。

 なぜか?
 観測技術が発達していなかった時代、海王星より遠い軌道をめぐる惑星は冥王星しか見つけることができなかった、そのため(それがかなり小さく、多少軌道が変であっても)冥王星が惑星の仲間であることに疑問をいだく余地はなかったのだ。

 しかし1990年頃から海王星軌道の外に多くの天体が発見されはじめ、2003年にはついに冥王星より大きな天体「エリス」が発見された。
 ここに至り天文学者たちはオランダのジェラード・カイパーが唱えた「海王星の外側に広がる小惑星帯」の存在を認めざるを得なかった。

 火星と木星の間の小惑星帯「アステロイドベルト」に対し天王星の外の小惑星帯(太陽系外縁天体)は「カイパーベルト」と名付けられた。

 ここで問題になってきたのが冥王星の処遇(?)である、冥王星が惑星であるならばエリスも、その他の冥王星に近いサイズの天体も「惑星」と呼ぶべきなのだろうか?
 カイパーベルトには直径100Km以上の天体が35000個以上存在すると予測されているが、それらも惑星なのだろうか?そうでないのなら冥王星も惑星ではないのではないだろうか?

 天文学者は惑星という言葉を定義する必要に迫られたのだ。
 
 <実のところそれまで惑星という言葉に正式な定義はなかった、というか天動説の時代、惑星/Planetとは、動かぬ星々の中にあって天球を移動する星を指す言葉だった(語源はギリシャ語のプラステネス「さまよう者」)よって太陽、月もPlanetだったのだ(!)
 つまりコペルニクスが『天球の回転について』(De Revolutionibus Orbium Coelestium)という本を発行して以降、惑星の定義は反故になってしまっていたのだ>


 2003年の国際天文学連合の総会で惑星とは以下の3つの条件を満たすものを指すことになった。

1・太陽の周りを公転している
2・重力によってほぼ球形になっている
3・その軌道周辺の他の天体を一掃(クリア−)している

 前の2つはまあ常識的(旧惑星史観?)なものである。
 問題はその3番目だ、これは「その軌道上で支配的な質量を持つ」とも言われるが、たとえば地球は軌道上の小天体をその重力で引きつけ吸収しながら公転している、掃除機を動かしながら太陽の周りを巡っているようなものだ。

 今でも小天体は残っているが(そして流れ星となって夜空に変化を与えているが)かつて近傍にあったかもしれない大きな天体はとうの昔に一掃されてしまっている。

 しかし冥王星はそうではない、それは氷と岩でできた天体の群れの一つ、カイパーベルトの一員なのだ。

 というわけで冥王星は「降格」されてしまったのだった。

 この問題が取りざたされるようになった時、日本人の反応は「あれまあ長くお仲間だと思ってたのに残念ねえ」というようなものだったと思う。
 要するに比較的冷静なものだ、世界の反応も似たようなものだったと思う。
 この時、アメリカだけが「冥王星の降格に大反対」しているという報道は聞いていた「へえぇ?」と私は思っていたのだったが・・・



 そこで本書である。
 所詮、この一件は『新たな知見により、冥王星はそれより前に発見されていた惑星と違う性質の天体であることがわかり、惑星と呼ばれないことになった』というだけのことである。これでどうして本が一冊書けるのだろうか? と思って読んだのだが見てびっくり聞いてびっくりである。

 著者はニューヨークにある博物館「ローズ地球宇宙センター」の中にある「ヘイデンプラネタリウム」の所長である。
 
 このローズ地球宇宙センターというのは特異な建築物で、巨大なガラスの立方体の中にこれまた巨大な球体が浮かんでいるという構造になっている。
 この直径26メートルの球体「ヘイデンスフィア」の中にヘイデンプラネタリウムは納められているのだ。



 さてこのローズ地球宇宙センターは2000年の公開にあたって、宇宙に存在する様々なもののスケールを視覚的に表現するための斬新な手法を編み出した。
 それは「『あれ』がヘイデンスフィアがであるとすれば『これ』はこのサイズになる」という見せ方だ。

 このヘイデンスフィアは周りを周回できる一辺40メートルの正方形の通路があるのだが、最初に「スフィアは宇宙全体を示す」というコーナーがある、そこの手すりには「その場合、局所銀河(←たとえば我らが銀河系である、局所銀河は全部で40個ばかりある)はこのくらいという模型が展示してある。

 少し進むと銀河系がスフィアのサイズであった場合、太陽系はこのくらい、という展示がある、だんだんとスケールが小さくなりやがてスフィアが太陽であった場合、惑星はこのくらいという展示となる。

 ここでローズ地球宇宙センターの展示内容を決定する科学者グループは比較対象物として4つの地球型惑星と4つの木星型惑星を展示した。

(※地球型惑星とは太陽系の内側を公転している小さくて岩石でできている惑星、つまり水星・金星・地球・火星であり、木星型惑星とは木星・土星・天王星・海王星という巨大ガス惑星である)

 つまり冥王星を展示しなかったのだ。

 当時すでに「冥王星は惑星なのか?」という議論が湧き起こっていたが、筆者によればこの展示は冥王星が惑星であるかないかという問題とは無関係なものだと言う。

 そもそもこの科学者グループは太陽系を考える際「太陽と9つの惑星」という考え方をすべきでないと思っていたし、筆者は個人的には子供に9つの惑星の名前を覚えさせることは「太陽系について知るべきことはこれでおしまい」と思わせるだけ害があると考えていた。

 つまり太陽系というのは太陽に近い側から、4つの地球型惑星、小惑星帯、4つの木星型惑星、カイパーベルト、オールトの雲、という5つのファミリーで構成されるのであって、その中の一部の名前を覚えてそれが太陽系の全てであるかのように思い込むべきではないということなのだ。

 <オールトの雲というのはオランダのヤン・オールトが唱えたカイパーベルトの遙か遠方にある氷でできた天体群の総称であり、別名『彗星の巣』とも言う(今のところ仮説でしかない)
 この天体群は軌道がバラバラで太陽系を殻のように囲んでおり、この天体が軌道を外れて太陽に落ち込んできたものが彗星であると考えられている>

 
 ということで、この5つのファミリーのうち参考までに地球型惑星と木星型惑星を展示した・・というつもりだったのだが、これが騒動の種になった。

 1年後ニューヨークタイムズが「冥王星が惑星じゃない?そんなのニューヨークだけだ」という刺激的なタイトルを掲げローズ地球宇宙センターを非難したのである。

 それ以後数年、著者はアメリカ中から「冥王星降格論者」と見なされ、冥王星が実際に降格されてからは「諸悪の根源」であるかのように思われ、全米各地から小学生の、科学者の、天文学者(!)の、政治家の、懇願、非難、ときには脅迫じみた手紙、メールが寄せられるという羽目になってしまったのだ。

 筆者は困惑しながらもこれらのお手紙を「楽しく読み」そのほとんどにお返事を書いたという。
 この本はそれについてユーモアたっぷりの解説をつけながら紹介したものだ、冥王星降格という一件のみで一冊の本ができあがったのはその故である。

 しかし、読んで驚くのはアメリカ人の冥王星への思い入れだ。

 この本には筆者に寄せられた手紙以外にも、全米で繰り広げられた冥王星狂詩曲の顛末が紹介されているのだが、冥王星の降格をネタにした新聞のコラムは真面目なものからジョークなものまで数しれず、風刺漫画もしかり、授業に取り入れる学校も多く、シンガーソングライターが歌を作るわ、冥王星を葬送するパレードが行われるわ、ニューメキシコ州やイリノイ州に至っては「州の上空を通過する間は冥王星が惑星であることを宣言する」という(意味不明な)決議が採択されている(冥王星はこれらの州の上空を通過しないのだ)

 はっきり言って集団ヒステリー状態である。
 筆者はなぜアメリカ人が冥王星にこれほどに入れ込むのかという考察も行っているのだがこれが面白い。
 
 その理由というのは3つあるわけだが、まずは冥王星はアメリカ人が発見した唯一の惑星であるというのが挙げられる。これはアメリカ人ならずとも了解可能だ。

 次に挙げられるのが数え歌である、日本人は太陽系9つの惑星をその頭文字を並べて『すいきんちかもくどてんかいめい』と覚えるが、アメリカ人は頭文字を別な単語に置き換え意味のある「お話」として覚えるのだという。

 つまり

 My Very Early Mother Just Saw Nine Unusual Pies.
私のとても早起きな母が、ついさっき9枚の珍しいパイを見た

Mary's Velvet Eyes Makes John Sit Up Nice and Pretty.
 メアリーのベルベットの瞳は、ジョンを行儀よく立ち上がらせる

My Very Elegant Mother Just Sat Upon Nine Porcupines.
 私のたいへん上品な母は、さきほど9匹のヤマアラシの上に座った

My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas.
 私のひじょうに学のある母が、ちょうど我々に9枚のピザを振る舞った


 というような調子だ。
 ほかにも様々なバリエーションがあるらしいが最後のものは特に1980年以降一番の人気を誇るという。

日本の「すいきんちかもく・・」と違って意味があり、しかもなんとなくフォークロアな響きがあるこの文章がより情緒的にアメリカ人の心に定着していることは想像できる。しかも冥王星を示す単語は文章の主題であるのだ。
 子供の頃に覚え、事あるたびに反復してきたこの言葉遊びを急に「あれはナシになった」と言われたら反発したくなるだろう。

 そして3つ目だが、ミッキーマウスのペットである犬のプルートと同じ名であることが挙げられる。
 (プルートは1930年にデビューし、1931年にその名がつけられた、デビューの年に発見された冥王星にちなんで命名されたのかもしれない)

 ミッキーにはグーフィーという犬のお友達がいるわけだが、彼とプルートとの立場に違いは何?と前々から気になっているのだがソレハサテオキ
 陽気で臆病で忠実で、ちょっとおバカなプルートは全米の子供に大人気だ、そして筆者の「独自な調査」によればアメリカの小学生は太陽系の惑星の中で冥王星が一番好きなのだという、もちろんそれはその名の故だろう。

 「ほえ〜」というしかない、そんなこととは思わなかった。

 



 ということで、アメリカ人がこの降格に反発するのはよ〜く理解できた・・できはしたのだが・・それにしても、とも思う。

 いくらなんでも頑なすぎやしないか?

 実際この狂詩曲、最初は微笑ましいとも思えるのだが、全米のあらゆる階層の市民が、「冥王星降格論者」に時に敵意を秘めたコメントを寄せる様を見ていると次第に不気味なものにも思えてくる。
 (筆者は何度となく自分が冥王星降格論者ではないこと、自分が天文学連合の議決に関与していないことを公にしているにもかかわらず、そういった人々は聞いちゃいないのである)

 百歩ゆずって一般市民はいいとしよう、しかし多くの天文学者が「天文学連合の惑星の定義に抗議する意見書」に署名し、一部の研究所までが参加するとなるとそれってどうなの、と言わざるを得ない。

 米国地理学会は『冥王星を打倒な場所に戻す』ため、アステロイドベルトから「ケレス」カイパーベルトから「エリス」を組み入れ、11個の惑星を記憶する新たな語呂あわせを作るコンテストを主催している。

 どれもこれもアメリカ人以外には受け入れられないウェットな主張である。
 こうなると思い出されるのが(「ザ・ムーン」にもチラリと書いたが)アメリカの保守的指向である。

 つまり、アメリカ人は合理的な思考をする人たちが住む自由の国であるとアメリカ大好きな日本人は信じているのだが、けっこう実態とはへだたりがあるのではないか。
 
 彼らは超がつく保守であり、敬虔なキリスト教徒であり、それがあまりにもあたりまえであるが故に通常は「合理主義」や「自由」がそこから出外れることがないだけなのだ。

 (彼らの言う自由とは『定められた範囲を超えない限りは』という条件が暗黙のうちについているともいえる。逆に言って差別主義を蛇蝎のごとく忌み嫌いながら、無宗教であることを理由に人を差別することを疑問に思わないらしいのだ)

 それ故たとえば今回の事件のように、自分たちの保守指向を一片たりとも考慮しない合理主義をつきつけられると、激烈な反応を示してしまうというわけだ。

 この本は惑星をめぐるお話でありながら、アメリカの文化論として読める興味深い本であると言えるだろう。


 ps

 今年はダーウィン生誕200周年である。ダーウィンの伝記映画「クリエーション」が全世界で公開されるのだがアメリカでは配給会社が配給を拒否したため公開されない。

 理由は、アメリカ国民にとって進化論は「矛盾が多過ぎる」からなのだそうだ。
  
 ギャラップ(調査会社)によれば進化論を信じているアメリカ国民は40%しかいないという。
 それはそれで問題だと思うけれど、それよりもなによりも、所詮はエンターティメントでしかない映画を公開拒否するって21世紀の話なのだろうか。


 



化物語 上・下
傷物語     
偽物語 上・下

西尾維新

ひたぎクラブ
まよいマイマイ

アニメーション




 化物語 上 (短編集)「ひたぎクラブ」「まよいマイマイ」「すがるモンキー」収載
 化物語 下 (短編集)「なでこスネイク」「つばさキャット」収載           
 傷物語    「こよみヴァンプ」                      
 偽物語 上 「かれんビー」                        
 傷物語 下 「つきひフェニックス」                    

 これら奇妙なサブタイトルは本シリーズの主人公「阿良々木暦(あららぎこよみ)」君の同級生「戦場ヶ原ひたぎ」が蟹(Crab)の怪異に取り憑かれた顛末、ということで「ひたぎクラブ」
 小学生「八九寺真宵(はちくじまよい)」とカタツムリの怪異にまつわるお話
 ということで「まよいマイマイ」
 という「名前+怪異」の命名規則に乗って名付けられているものです。

 これらは2009年にアニメ化され、2009年11月現在「ひたぎクラブ」から「つばさキャット」までが公開されています。



 西尾維新を読むのは初めてだ、どんな傾向の作家であるかさえ知らないまま「なんか面白いらしいよ?」とのみ聞き及んでこの作品を手にした、よって先入観なし予断なしである。

 で、読み始めてまず思ったことは「これはライトノベル版京極堂だ」ということであった。
 まあ、化物語に出てくる「怪異」はまさしくスーパーナチュラルな存在であるのに対し、京極堂シリーズのそれは事件が結果として「妖怪」の仕業に見えるだけで(「関口君この世の中に不思議なことなどひとつないのだよ」by京極堂、というわけで)、人為であるという違いはあるのだが。

 いずれにせよ、不幸体質でヘタレな主人公(阿良々木暦:化物語 関口巽:京極堂)が自ら怪異に首をつっこみ、あるいは怪異にとりつかれた人間と関わりあいになるという筋立て、そしてその怪異退治(京極堂では「憑きもの落とし」と言う)をおこなうのが知人の専門家であるという構成は似ている。

 またその「専門家」が世捨て人風であり(かたやアロハシャツを着た放浪者:化物語 かたや流行っていない書肆の主人:京極堂)経歴不詳な人物であり、普段は韜晦的言動で主人公を翻弄し、いざとなるとピシリとした神職姿で現れるというあたりもそっくりだ。

 そしてここが肝心なのだが、どちらも怪異や妖怪そのものを退治するのではなく「つまるところ、それは取り憑かれた人間の心の持ちよう一つでしかないのだ」ということを当人に飲み込ませるのが仕事という部分がそっくりなのだ。

 化物語の専門家『忍野メメ』は、怪異は「そういう状況があれば、そこに生じる」ものだと言い「取り憑かれた」のではなく、それはその人間が望んでいたことが起こっただけなのだと当人に気づかせるだけであり。

 京極堂は、世の中に普遍的・客観的な「真実」など無く、起こったことをどう解釈したかという「事実」が各人の中にあるだけであると喝破し、その人の解釈を変えることによって「事実を変えてしまう」わけだ。

 どちらも巧みな弁舌を駆使し。

  「九州の山間あたりでの民間伝承だよ。地域によってはおもし蟹だったり、重いし蟹、重石蟹、それにおもいし神ってのもある。この場合は蟹と神がかかってっているわけだ。細部は色々とばらついているけど、共通しているのは、人から重みを失わせる−ってところだね。行き逢ってしまうと−下手な行き逢い方をしてしまうと、その人間は、存在感が希薄になる、そうだ、とも」
『化物語(ひたぎクラブ) 忍野メメ』
 
 など、その博識で相手をケムに巻いてしまうという手法も似ている。


 京極堂はコロコロコミックもびっくりの大長編であり、化物語は長めの短編だがそのテイストは似ている。
 そして驚くべし。化物語の2作目、蝸牛に憑かれた小学生、八九寺真宵の「まよいマイマイ」の巻はそのライトなノリのイントロからは想像できない悲しいお話であり、主人公である暦くんがラストシーンで放つカッコいい台詞は涙なくしては読めない。

 はっきり言ってこれは京極堂シリーズのどの巻よりよほど傑作だ!とその時は思ったものだった。



  ・・だった、ってなんで過去形?



 なぜと言えば、このシリーズはその様相をどんどんと変えていき、最初と最後では登場人物が同じだけのまったく違うお話になってしまうからだ。

 そもそもこのシリーズは化物語の上巻(「まよいマイマイ」が収録されている巻)の後書きにですら
「本書は怪異を主軸に据えた三つの物語−ではありません。とにかく馬鹿な掛け合いに満ちた楽しげな小説を書きたかったのでそのまま書いたという三つの物語です」
 と作者が言い放つほどの趣味的な小説であり、作者自身、整合性とか統一感とかに配慮する意志がまるで見られないある意味実験的な小説群であるからだ。

 この化物語の上巻でも。


「ふうん−複雑な悩みね」
 戦場ヶ原は言う。
「一周して、メタ的な悩みになっているわけね。鶏が先かひよこが先か、みたいな話だわ」
「それはひよこが先だろう」

『ひたぎクラブ』


「のっぺらぼうくらいしか、知りません」
「ああ、小泉八雲の・・」
「なじむですね」
「なじんでどうする」
 狢(むじな)。

『まよいマイマイ』

「お父さん、色々あって大変だったんです。ただでさえ、一家の大黒天だったのに」
「お前のお父さんは七福神のメンバーなのか」
 父は偉大だった。

『まよいマイマイ』

「そうですか。高校生の阿良々木さんから見れば、小学生のわたしの体なんて、さながらスライダーだというわけですね」
「まあ確かに、外角にキレのいいのを決められると。まず手は出ないな」
 ちなみに正しくは、スレンダー

『まよいマイマイ』


 ・・というような脱力系4コマのような掛け合い漫才が続く、しかしそれでもそのジョークは作品内世界に収まっている。

 ところが下巻になると。

 「まあしかし、ことここに至れば仕方あるまい。気は進まないが、乗り乗りかかった船だ」
 「ノリノリなんじゃねえか」

 『なでこスネイク』

 「誓った、か・・」
 「ああ。常に人々を照らし、恵みを与え続けるあの太陽に誓おうかと思ったが、そう思ったのが夜だったので、とりあえずその辺の街灯に誓っておいた」
 「適当極まりねえ

 『なでこスネイク』

 「しかし男子は子供の頃。カブトムシやらクワガタやら、取りに行くものだろう?」
 「クワガタねえ」
 「うむ。黒いタイヤだ」
 「タイヤは普通黒いだろう……」

 『なでこスネイク』
 
 という、普通のジョークに混じって。

 「やれやれ……。僕はたまにはお前と知的な会話を交わしたいよ……お前、確か、結構、頭いいはずだろ?」
 「うん。私は成積はいい方だぞ」
 「その漢字だと、成績は悪そうだけど……」

 『なでこスネイク』

 「四十人ぽっちの高校の授業で代返なんて。なんの意味もないと思うが……て言うかお前が怒られて終わりそうな気がするぞ」
 「ちゃんと阿良々木くんの声色を使うから大丈夫よ、任せておいて。私の声を担当している声優さんは優秀なのよ」
 「声優!? この世界ってアニメだったの!?」

 『つばさキャット』

 というメタなジョークが混じり始める(どうでもいいことだが、上記2つのジョークは同じメタ=高次元、でも別な次元である)

 そして3巻目『傷物語』(これは一巻全て『こよみヴァンプ』に当てられている長編である)に入ると。

 「およそ四ページに亘って。私のスカートの中身が細部に至るまで丁寧に描写されたように感じるのは、錯覚かな?」

 「しかし阿良々木くん、もし僕達の日常がアニメ化された際、踊ることができずにあたふたするのは阿良々木くんなんだぜ」

 「だって、阿良々木くんがそうやって突っ込みのときに見せるいい顔が、ドラマCDではどうしても伝わらないじゃないか」
 「僕達の日常ってドラマCDだったのか!?」

 「そりゃいいや。その言葉、覚えておくよ、阿良々木くん。しかし、いずれにしてもきみは僕の立ち位置からの視点で見たら廿いんだよね」
 「にじゅうい?」
 「あ、違う、甘い」


 などメタなジョークが連発される、初出の時期を考えるとこれはリアルなドラマCD化やアニメ化を念頭に置いたジョークでなく、次元の違うメタを並列に置くおかしさを狙ったものだと思われるが。

 ちなみに、この『こよみヴァンプ』はすでにして『怪異を主軸に据えた』お話ではなく、もちろん怪異退治の話でもなく、小説内で暦くんが自ら

 「なにそれ、学園異能バトル? 勝てるわけないだろうが」

 と述べているように超能力ウォーズ物と化している、そのまま少年ジャンプの原作に使えそうだ。

 とはいえしかし、そのようにメタなジョークがちりばめられていようと、この巻はそれなりのまとまりを保っている。
 
 これは、高校2年の終業式の翌日(春休み初日)に吸血鬼に襲われ、その身が吸血鬼と化して闇の世界の住人となってしまった暦くんが、次々に襲いかかる吸血鬼退治の専門家と戦い、それを退け、始業式前日(春休み最終日)についに人間界に復帰するまでの13日間を描いた冒険活劇として十分に面白い。
 
 まあ、最初、化物語を読み始めたときに感じた「ライトノベル版京極堂」のテイストは微塵も残っていないのだが。


 そして、最終シリーズ偽物語である、これは上巻が暦くんの上の妹「火憐」のお話「かれんビー」、下巻が下の妹「月火」のお話「つきひフェニックス」となっているのだがこれはもはや小説としての体をなしていない。

 作者みずから下巻のあとがきで
『いや、そもそも小説として成立していないんじゃないかという説すらありますが』と述べているようにほとんど全編雑談である。

 このシリーズは作品世界における時制でいちばん後になる。
 1話につき1人登場人物が増えてきたわけだがその人達、怪異に取り憑かれ、暦くんと関わりができた人物達というのはこれ全て女性(高3の同級生2名、1年後輩、妹と同級の中学2年生、小学生)なのだ、そして何故か・・というかまあ暦くんはいいやつなのだが・・全員暦くんにベタ惚れであり、その一人真宵ちゃん(小学生)には「こよみハーレム」などと呼ばれている。

 作者は個性豊かなこの「こよみハーレム」の面々が大好きなようで、もはやお話はどうでもよくて、それまではとりあえず保っていた「怪異をめぐるお話」という枠組みですらどうでもいいらしく。
『馬鹿な掛け合いに満ちた楽しげな小説を書きたかったのでそのまま書いた』を実践してしまっているのだ。

 メタジョークも更に進化し

 「なんだよ、千石と会うのにお前が邪魔ってことあるか。どうせ暇なんだろ?」
 「蝦ではあるかもね」

 
 といった、毎度おなじみのやつの他に

 「もうアニメのエンディングではお前がひとりで踊ってろよ」

 「ファションとかヘアスタイルとか、そんなころころ変えられたら、非常にアニメにしづらいんですよね」

 「ま、わたしが本当に気にしているのは、エンディングでわたし達はどんなダンスを踊るのかということにつきますけどね」

 「あ、そういえば、こないだアニメ版の阿良々木さんのデザインを見ました」
 「何?」
 「随分とイケメンにデザインされていたようですよ」
 
 「こう、なんかね。昔の千石さんじゃありませんけど、髪の毛で左目とか隠しちゃって、ニヒルな感じでした」
 「ニヒル? ああ、そう言えば僕、初期はそんなキャラ設定だったな」


 など登場人物がアニメ化連動の発言しまくりである。


真宵ちゃんにニヒルと言われた阿良々木くん、しかし



R田中一郎にしか見えません
『究極超人あ〜る』ゆうきまさみ


 「アニメには二期も三期もあるんです」あたりになると、もうメタというのを超えてオーディオコメンタリー(DVDの別音声トラックで、キャストやスタッフが画面を見ながら解説したりお気楽な雑談をしたりするもの。実際、アニメ版にも入っていて、声優さんが『このセリフ、台本もらった時は絶対うまく言えないと思いました〜』 などと語っている)のようでさえある。

 オーディオコメンタリー付き小説、しかもメイントラックがそれで裏も表もない。

 凄いぞ西尾維新。

 <しかし、踊りの話が多いことを見ると時期的に作者は完成映像を見ていないらしい。 昨今のアニメを見たらエンディングで登場人物が(自分たちが?)踊るのは必然と思うのも無理はないが、そしてこれが「京アニ」こと「京都アニメーション」が映像化したら踊りまくったに違いないが(生身の人間には実現不可能なフリで)
 会社が違うので結果踊らなかったのだ>

 これだけでも小説としてそれでいいのか?という構成だが、作者はこれを超えるサプライズ(?)を用意していた。

 上巻「かれんビー」において主人公暦くんは、自宅で下の妹「月火」と掛け合いをやって、「真宵」と道ばたで会って漫才をおこない、「撫子」の家に遊びにいってボケ倒し、再び路上で上の妹「火憐」と掛け合いを演じ、更に「駿河」の家に行って花札に興じて、全体の33%(頁比)を過ぎても物語が進展せず。
 「面白いけど、これでいいのか?」とさすがに読者が心配になったところで。

 徐々に核心に近づいているので、心配はいらない

 という一文が唐突に挟まれる。
 この小説は暦くんの一人称なので当人の独白と区別がつきにくいのだが、この時点で暦くんは何の事件にも巻き込まれていない、つまり核心もなにもないわけで、つまりはこれは作者による読者へのコメントなのだ。

 そして、お話の後半、暦くんが自分で見たわけでないシーンについて語り出すくだりで。

 と言っても、僕が羽川と月火の話を聞き、それを統合しての場面回想なので、実際とは少し違うのかもしれないけれど。
 とにかく、急に語り部の視点がぶれたわけではないので、ここでも心配はいらない。


 という「注」が挟まれる、「心配はいらない」って誰が誰に言ってるんだ。

 凄いぞ西尾維新。 

 というわけで最後の2冊偽物語シリーズは小説が解体されてしまっているのだ。

 伝奇物>超能力バトル>メタ小説、と巻を追うごとにその様相を変えていくこの化物語シリーズは近年希に見る奇書であると言ってよい。

 後半のグダグダさが反射して、化物語もなんかグタグタな印象をまとってしまうのだが、化物語(特に上巻の3作)は伝奇ものとして十分面白い。
 本読みを自称する人は読んで損はないだろう、興が乗れば後半に進んでもいいかもしれない、少なくとも『馬鹿な掛け合いに満ちた楽しげな小説』であることは保証する。

 『小説にはマヨネーズをつくるほどの厳密さもない』(坂の上の雲 第一巻 あとがきより 司馬遼太郎)ということだ。

 



 さてアニメである、この微妙な原作をいったいにどうやって映像するのか?と思って見てみたところが、これが想像の上を行く出来だった。
 形式美というか様式美というか、えらくスタイリッシュな映像なのである、ゆるい原作にスタイリッシュな映像とはなかなか思い切った演出である。




 そして無駄に・・と言ってしまっては身もフタもないが・・豪華である、そもそも第一話の冒頭に今回のアニメ化シリーズに入っていない「傷物語」の一部がダイジェストで挿入される(原作を読んでいなければなんのことやらわからない、細切れの映像だ)
 つまり当面アニメ化される予定のない話なのに、キャラクターデザインを行い(4人分このためだけに必要になる)場面設定を行って作画しているということだ。

 また、このアニメシリーズは

 ひたぎクラブ 1〜2話
 まよいマイマイ3〜5話
 するがモンキー6〜8話
 なでこスネイク9〜10話
 つばさキャット11〜14話

 と、全14話で化物語、上下巻を映像化するらしいが、どうやらヒロインが変わるたびにオープニングタイトルを作り直し、歌も各ヒロインのものに変えていくらしいのだ(らしいというのはまだ5話までしか見ていないからだ)

 これを贅沢と言わずしてなんであろう。

 さてスタイリッシュ、という話に戻るが、このアニメで特筆すべきはタイポグラフィである。
 タイポグラフィとは活字を適正なサイズ、適正な間隔で配置することによって、デザイン的にすぐれた画面構成を行うグラフィックデザインの一種だが。
 要するに字だけで構成された静止画が随所に挿入されるのだ。

黒駒、と書かれた黒コマ

 これは時に人物の内面の声を表現する補助的な役割を担うこともあるが、多くは画面転換によって画面にキレを出したいというスタイリッシュな演出のために使われている。

 そして、読めない。字数の多い面が時に一秒以下で表示されるので、とうてい目で追えない。
 これは、オンエア時に読めないのは承知だから、後で録画(またはDVD)でコマ止めして読んでね(どうせ録画してるでしょ?)という制作者側の目論見と思われる。

こんな長文(シカモ片仮名、旧漢字、旧仮名ヅカヒ)
1秒弱では読めません

 これが原作のメタに対し、アニメーションという表現方法、そしてオンエア(DVD化)というメディアを考慮したメタ表現であると考えるのは考えすぎだろうか。

 最近のアニメはどれもこれも皆かっこよくて出来がよくて困っちゃうのだが、その中でもこの作品は特に飛び抜けてとんがっている、アニメ好きならば一見の価値はあるだろう。





 

ソウル・コレクター
The Broken Window
(原題)
ジェフリー・ディーヴァー






 まいどおなじみジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライム・シリーズ第8弾である。
 年々ディフォルト買いする本は減っていて・・というか「作家」というくくりではもう誰もいないと言ってよく、しかしディフォルトで買う「シリーズ」はいくつか残っており「リンカーン・ライム・シリーズ」はその数すくないディフォルト買いする本の一つなのである。

 さてジェフリー・ディーヴァーと言えばどんでん返しであり、時にストーリー上の整合性を無視してまでどんでん返しをやりたがる。

 つまり。

 『1作目ボーンコレクターで1回、コフィンダンサーで3回のどんでん返しをやってみせたディーバとしてはここで4回はあるまい、と思ったのかどうか5回のどんでん返しを見せてくれるのですが・・・えーと、犯人魔術師くんはいったいになんでそんなにひっくり返す必要があるのでしょうか?』
2005年度ScriptSheet「魔術師」より

 『例によって「どんでん返しのためのどんでん返し」であり、頁をめくっている最中は面白く読み進めてしまうものの、読後振り返ってみると納得できないことも多い』
2007年度版ScriptSheet「ウォッチメイカー」より

 ということが往々にしてあるわけだ。

 あるいは「主人公の一人称(つまり心の声)で書かれているにもかかわらず犯罪−殺人とかの重大犯罪−について語られないので、この人物は被害者または善意の第三者なのかと思っていると実は犯人だった」というようなアンフェアがあったりする(短編集「クリスマスプレゼント」)

 面白いには違いないが、このような危うさも同居するジェフリー・ディーヴァー、今回はいかにと思って読み始めたがどうも調子が悪い。

 そもそもリンカーン・ライム・シリーズの面白さは安楽椅子探偵もののそれである。
 鑑識活動中の事故により四肢麻痺となっているライムは電動車椅子の上から降りることが出来ない。しかしその卓越した鑑識技術によって犯人を追い詰める。現場から採取した微少な試料からライムが何を読みとり、どう犯人像を作り上げていくかという過程がこのシリーズの見せ場だ。

 しかし今回の相手はいわばハッカー、電子技術を応用した犯罪者なのである。鑑識の技術が重要なキーとはなっているものの従来のようにキメ手になっていない。
 知的犯罪者と知的探偵の頭脳戦という最大の面白さが薄いのだ。

 「あそこからモノを盗み出す方法は無い」として話が進んでいたものが最後になって「実は手があった」というのも ちょっと待て!と言う感じである。

 リンカーン・ライム・シリーズに順位を付けるなら、残念ながらこれは暫定最下位と言わざるを得ないだろう。
 

 


− にせんじゅうに −

 ひさしぶりのデザスター映画である、パニック映画と呼ぶ向きもあるだろうがここは区別しておきたい。
 デザスター(DISASTER)とは天災/大災害の意であって、まあ人災でも大ごとになればそう呼んでおかしくないのかもしれないが、映画でデザスターものと言えば自然現象による大災害を扱った作品だ。
 
 一方、パニックに陥っている登場人物が居ればその原因がなんであれそれはパニック映画である(パニック映画の最高峰は「タワーリング・インフェルノ」だと思うが、これはビル1個の物語である)
 つまりデザスター映画のほうが「くくり」は狭いわけだ。
 とはいえしかし、なにしろ自然現象なのでその災害の範囲は広く、地球的規模から街1つまで程度は様々ながら現場がビル一個ということは少なくとも、ない。
 (ちなみにデザスター映画の最高峰は「大地震」と「ボルケーノ」が双璧である)

 つまりデザスター映画は大風呂敷だということだ、大風呂敷の映画は大好きだ。

 それはどうしたって小品とはなり得ない。登場人物いっぱいの、ビッグバジェットの、ケレン味たっぷりの、仕掛け満載の、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しげな映画になることは間違いない。

 実際には大しくじりをやらかして大失敗する場合もないではないのだが、凡庸な監督が作った凡庸な小品、つまり「深く静かにつまらない」作品、語るべきなにほどのこともない作品にはならないだろうという期待はある。

 それに今回、監督はローランド・インデペンデンスデイ・エメリッヒである。
 インデペンデンスデイは私が映画ベスト10を選ぶことがあったら(選んでないけど)入選する・・かもしれない傑作だ、前作の「デイ・アフター・トゥモロー」はちょっと微妙だったがそうそうおかしな映画は作らないだろう。

 と、いうことで、いの一番に劇場に行くことにした。
 
 と、いうことでこのあたり見る前に書いている、無駄にならなければいいのだが。

 さてここまで読めば私が夢いっぱい、期待いっぱいであるように思われるだろうが、実のところいやな予感がしないでもない。

 それは昨今のハリウッド映画特有のデジタル依存とハリウッドフォーマットのためである。

 デジタル依存というのは、製作に関わる人たちが「デジタルに出来ないものはない」と甘く見る傾向のことだ。
 かつてはデザスター映画のような仕掛けたっぷりの映画を作る際は「こんな映画が作れるのだろうか、こんなシーンが撮れるのだろうか、こんなカット成立するのだろうか」と関係者全員が不安に思い、予算をかけ気合いを入れて望んだものだった。

 むつかしい特撮カットが要求される場合、本編班(ハリウッド的に言うと「1stユニット」、メインの芝居を撮る撮影班)と特撮班が充分に打ち合わせを行い、見せ方を工夫した。
 ところが今は「デジタルに出来ないものはない」よって時にツメが甘いカットが生まれる。

 また逆にデジタルで不得意なカットを敬遠する、という傾向も生まれる。
 いくら「デジタルに出来ないものはない」とは言っても得手不得手はある。具体的に言うと近景で原寸大で登場人物達とフィジカルな接触をするカットは難しい。

 たとえば建物が破壊されるというカットの場合、背景のビルが倒れるのは簡単だ、デジタル合成される手前の人物と縁が切れているし、そもそもたいていの人はビルが倒れる様など見たことはないので、それらしく出来ていればOKだからだ。
 
 ところが民家が壊れる、中から人がまろび出てくる、となるとこれは難しい。
 窓ガラスが割れ、外壁が崩れるというのはリアルなイメージを誰もが持てるので、それを違和感なくCGで作るのは難しい。飛び散る建物の破片、舞い上がるホコリの振る舞いもフルデジタルでは難しいものの一つだ、ましてやそれが人物と「からむ」となれば難易度は急上昇する。

 中−遠景でアタフタするその他大勢であれば、人物もCGアクターにしてまとめてイメージジェネレートすればよいが、近景、そして人物が主人公であるとなかなか難しい。
 CGダブル(CG吹き替え)はまだアップに耐えられるほど進化してないのだ。

 昔むかし、デザスター映画はこういった近景の破壊シーンが見せ場だった、リアルサイズの建物を造って破壊し、リアルサイズの高架道路をつくって車ごと倒し、あるいは、巨大な水タンクを作って濁流にのまれる人を撮影した。

 今はそうではない、デジタル部門は巨額の予算を消費するのだからその分面倒な部分は全部やってもらおう、ということになってしまう。

 巨大ミニチュアや大規模オープンセットを組んで資金を分散させるより、一極集中させようというのは理解できない方策ではないが、結果としてデザスター映画の見せ場であった近景のフィジカルな破壊シーンが無くなってきたのである。

 つまり近年特撮映画は中途半端な「引きの絵」ばかりなのだ。これがデジタル依存の問題点である。


 さてもう一つの問題がハリウッドフォーマットだ。これは私の造語でいままで何度も言っていることなのだが。

 言ってみれば

主人公は白人男性である
東洋人、黒人を適宜主要な役に配置する、これらは悪人ではない

 ファミリー映画であれば更に

子役を適宜配置する、これらを決して傷つけてはならない
主人公達は欠損を抱えた家族である
家族愛を主要なテーマに据え、欠損していた家族が再び一つにまとまることをもって映画の終演とする

というような事を言う。こういった傾向は古くは「ダンテズピーク」あたりから見られる。

(ダンテズピークと呼ばれる火山が噴火し、その麓の街では市民の避難が始まる。市民の安全に責任があり、救難活動を指揮、監督しなければならない立場である市長はしかし職務を放棄して子供を助けに行ってしまうのだ。言語道断なお話であり、市長一家は無事助かりましたバンザイバンザイで映画が終わってしまうあたりに非常に違和感がある作品だった)

 その他デザスター映画というと「ボルケーノ」「ディープ・インパクト」「アルマゲドン」「デイ・アフター・トゥモロ−」などが思いつくが、先の「ダンテズピーク」も含めこれ全て見事に片親/欠損家族である。
 デザスターとはちょっと違うが「地球が停止する日」「宇宙戦争」も主人公一家は欠損家族である。

 そして上記2つを含めこれらは全てメインのストーリーの他に家族愛・家族の結束を訴えるドラマが平行して語られる。
 ついでに言えばどれも東洋人/黒人が主要な位置に配置されている。

 ハリウッド映画はヤバい!と言うのが私の昨今の印象なのだった。

 というところで見に行こう。





 開巻、当然のことながら主人公とその周辺の紹介がなされる、主人公は2人いるのだがその片方は売れない作家である。

 その彼は「家庭を顧みないダメ男で、奥さんに愛想づかしされて離婚していて、子供2人は奥さんに取られていて、それでも下の娘は主人公に懐いているが、長男とはうまくいってなくて、それをどうにかしたい気持ちはあるものの距離感がつかめなくて、奥さんには新しい恋人がいて、ちょうど今日は子供との面会日で、子供を迎えに行ったけど遅れて怒られました」という設定だったもので、これはヤバイと思った。

 なぜなら「宇宙戦争」でトム・クルーズ演じる主人公が『家庭を顧みないダメ男で、奥さんに愛想づかしされて離婚していて、子供2人は奥さんに取られていて、それでも下の娘は主人公に懐いているが、長男とはうまくいってなくて、それをどうにかしたい気持ちはあるものの距離感がつかめなくて、奥さんには新しい恋人がいて、ちょうど今日は子供との面会日で、子供を迎えに行ったけど遅れて怒られました』というイントロだったからだ。

 ちなみに「デイ・アフター・トゥモロ−」の主人公は『家庭を顧みないダメ男で、奥さんに愛想づかしされて離婚していて、子供は奥さんに取られていて、その長男とはうまくいってなくて、それをどうにかしたい気持ちはあるものの距離感がつかめなくて、子供を迎えに行ったけど遅れて怒られました』というイントロだ。

 「どっかで見た設定だね、あの作品と似てるね」と言われて嬉しい監督が居るわけもなく、つまりは売れる方程式の通りに作れという鉄の掟のままシナリオが書かれているということだ、これをヤバイと言わずしてなんであろう。

 ここまでくれば、言及する必要もないくらいだが、一応言っておけば、この主人公が白人男性、もう一人の主人公が黒人、チベットのラマ僧が一枚噛んでくると人種のトライアングルも完璧である。

 イヤな予感丸当たり、と思って見始めたわけだが・・・・・・・・


 ! 驚くべし! 面白かった\(@@;)/


 さすがエメリッヒというところか、長いお話を綺麗にまとめている。

 こういう映画は、ちゃんと出来ているとあたりまえ過ぎて気にならないのだが、観客の意識と災害の描写にずれが生じている事がある。。

 つまり、とんでもない大災害シーンを画面で見せておきながら、一方別の場所では市民が普段と変わらない日常生活を営んでいたりする。
 一地方が壊滅した(犠牲者数万?)というのに、頭の固い官僚が予算を盾に調査を渋っていたりする「そんなわけないだろ?!」と思ってしまうわけだ。

 つまり、自分の演出が観客にどんなエモーションを与えたかがまるでわかっていない監督が居るということだ。 

 エメリッヒはそうではない、観客が、なんかおかしいぞ>ヤバイかもしれない>これは危険だ>もうダメだ! となった時、登場人物達が違和感のない行動を取っているのだ。これは重要な部分である。

 また例によって(インディペンデンスデイ=コンピュータ−、デイアフタートゥモロー=気象学、今回=地質学、というわけで)主人公の一人は科学者なのだが(観客に事態の推移を説明するためにどうしても科学者が必要なのだ)

 地球に危機が迫っていると察知した彼は政府要人にコンタクトを取る、普通ここで「君の理論は異端すぎる」とか「予算がない」など取り合ってもらえないのが普通だが、データーに目を通した要人はいきなり大統領に話を通す、以後対策はトントン拍子である。

 また主人公の片方、ダメ男作家はロサンゼルスに危機が迫っているという情報を握り、街を脱出するため奥さんと子供を迎えにいく。
 事態の重大さを感じていない奥さんと「すぐ車に乗れ」と言う主人公。
 ここで一悶着あるんだろうな、と思っているといきなり大地震発生、全員車に乗って命からがらの大脱出となる。



この映画、このくらいの引きの絵は実に快調で見てて気持ちが良い



 思ったとおりではあるが思ったより早い、このテンポがよく、長い話も飽きずたれることもなく進むのはベテランの腕だろう。

 CGも思ったより見れる。予想どおり中−遠景ばかりであり、アップで写っている役者がCGの破壊シーンにからむ絵はほとんど無いのだが。つまるところ「不得手なところは避けた」結果、違和感を感じることのない楽しめる絵が多かった。

 もっとも予想どおりであるのは良い面ばかりでなく「デジタルならなんでも出来る」とばかりに無理をして生まれた怪しいカットもある。

 その最たるものはポスターにもなっているロサンゼルス沈没のカットだ、一辺数キロに及ぶかという岩盤がシーソーのように傾き、その上のビル群が(テーブルから落ちるパン屑のように)舞い落ちる、というのはやり過ぎである。

 出来る、というならCGは何でも出来る。どんなスケールであろうとモデリングすれば絵は出来るからだ、しかしそれは所詮は作り物であるわけで、それにリアリティを感じさせることが出来なければ、あ〜ハイハイ、という絵にしかならない。

 リアリティは日常感覚の延長にあるわけで「見たまえ、まるでビルがゴミようだ」というような日常から隔絶した絵をいきなり見せられても絵空事にしか見えないのである。





 こういった引きも引いたりといった「神の視点」カットは総じて鼻白むものが多い。
 これまたポスターやチラシに使われているやつだが(砂のお城を押し流す波のように)「ヒマラヤ山脈を越えてくる大津波」(!)というのも「本気か?!」と思わざるを得ない。

 いくらデジタルだからと言って、あまり風呂敷は広げないほうがいいね、ということだが、それ以外の絵は一見の価値はある。

 私としては見て損のない映画だと思うし、むしろ同好の士には見て欲しいので、ネタバレになりそうな事は言いたくない(私は事前の知識はなるべく排除して映画を見るべしという主義であり。実際この映画の場合、終盤部分について何も知らずに見て良かった、と思っているのだ)
 よって、テンポのいいストーリー展開と、期待にたがわぬデザスター表現でまずまずの良作であったとだけ述べてこの章は終わろうと思う。


 見るべし、ただし劇場で見ること。

(※ブルーレイを50インチオーバーのフルスペックハイビジョンで見れる人は除く)


 劇場の大スクリーンで見てさえ「舞い落ちるビル群」はゴミのように見えるのだから、これをDVD解像度に押し込めたらゴミのようにさえ見えなくなるだろう。
 (劇映画の解像度:横2〜3000ドット、DVD:横780ドット)
 
 こういった映画はストーリー半分、映像半分でありTVで見て面白いの面白くないの言うのは間違っているのだ。
 

ps

 「2012年、マヤの予言どおり、世界は終わる」とさんざんに宣伝しているが、実際にはこの映画にオカルティックな部分は無い。

 主人公の同僚が「俺たちが3年前にならないと予測できなかったことをマヤは何世紀も前に予言していたんだぜ」と自嘲するシーンとマスコミが話を盛り上げるために予言を引き合いに出すだけである、つまりこれはデザスター映画であって、怪しい終末ものではない。
 この映画、宣伝にオカルト臭をまとわせるのは配給会社の戦略なのだろうが、果たして得策なのだろうか?



 





 実のところピクサー的CGアニメーションはあまり好きではない。それはデニーズのようであるからだ。
 デニーズって何?と言えば、それはどこの店に入っても店内は明るく、清潔で、一定水準のサービスが受けられ、メニューは豊富、焼き肉丼からクラブハウスサンド、チョコパフェまで揃っていて、どれもそこそこに旨く、どれを選んでも決して外さないだけの味が保証される、という意味だ。

 その代わり、というべきか、見事な見切りで不味い料理は決して出さない代わりに飛び抜けて旨い料理はなく、店員のサービスも客に不満を抱かせることはないが、痒いところに手が届いたりすることはない。

 「不満のない」という言い方をすれば褒め言葉だが「それなり」と言ってしまえば苦言に近い、そんなレストランがデニーズである。

(なんでデニーズなのかと言えば、同じファミレスでも「いくら安いとは言えこれはないだろう」というような代物が出る店、たとえば■■■、などがあるからだ)

 つまりは明るく、楽しく、選んで間違いのないファミリー映画、それがピクサーだ。

 この「管理された品質」というのはCGアニメーションに特有のものと言えるかもしれない。

 通常映画製作というのはハイリスク・ハイリターンのギャンブルだ。
 そもそも『ハイテクビル一個が作れるほどの予算を一人の男の霊感に賭ける』というのが映画製作という名の博打であり、加えてそこには不確定要素が満ちている。

 代表的なものは天候だが、他にもさまざまなアクシデントの可能性があり、俳優のスキャンダルというものまである。
(シナリオはきわめて面白そうだったとある海洋冒険活劇が、圧倒的な天候の恵まれなさによって作品的に見事にコケたのを私は見たことがある)

 CGアニメにはそれがない、少なくとも天候とスキャンダルの問題は絶対ない。

 面白いシナリオとうまいキャラクターデザインと優秀な演出家が居れば、大きく外すことがない、製作費も製作日数も計算しやすいだろう。

 しかしそれは映画から何かを奪っていると思う。

 予定通りに進まない映画製作の現場でもがくスタッフの努力が思ってもいない名シーンを生むということは無くなる。
 誰かがその場で思いついたささやかな工夫が、あるカットを印象深いものに変えてしまったということもない。

 全てが予定どおりに作られた映画は最初の目論見どおりの物にしかならない、それは演出家の限界をそのまま反映してしまうとも言える。
 (今まで何度となく言ってきたことだが。駆け出しの頃は傑作を作っていたアニメの演出家が、その成功によって大家に祭りあげられ、束縛されず自由に振る舞えるようになると欠陥の目立つ作品を作るようになってしまう、そんな感じに似ていると言えるだろう)

 古い映画屋のつまらないノスタルジーかもしれないが、映画はカオスの果てに生まれる「誰にも計算できなかった何か」であるところが魅力なのだと思う。
 「計算通りに出来ました」という映画が「大傑作」になる筈がないのだ。
 


 で、この作品である。ならばなぜ見に行ったのか、というと評判が良いからだ。

 特に冒頭の10分、カールじいさんの回想シーンが秀逸であると言う。少年カールが冒険大好き少女エリーと出会い、やがて共に人生を歩むようになり、ついに時が2人を分かつまでの10分が後半の映画を支えていると言う、ほうほう。


 ・・・たしかに良くできている、出来てはいるのだが「ひなびた町に建っていたフォークロアな家が、いつのまにかビルの谷間で肩身の狭い思いをするハメになっていた」ってまんま「ちいさなおうち」なのだが(その家が新たな土地へ引っ越すというオチも含めて)

 そして肝心な回想シーンはまんま「つみきのいえ」なのだが(カールおじさんの造形まで含めて)
 まさか!・・・って、「ちいさなおうち」はともかく「つみきのいえ」がアカデミー賞取ったのは今年の初めだし、いくらなんでもそれは無理、でもディズニーだし・・・いや、なんでもない。

 と・も・か・く、良いイントロではあった。
 カールじいさんの家が無数の風船によって浮き上がり、ビルの谷間から飛び立つシーンは秀逸で心浮き立つ出来であった、いかにも映画、これこそが映画、劇にも絵本にも出来ない人にダイレクトに語りかける感動である、これは子供の頃に見たかった。

 これは良い出来かもしれない・・と思ったのだが。


 「言葉を話す犬」が出てきた時点でマジか! となって興奮度は最低レベルに落ち込み、さらに後半、悪漢とのありきたりな追っかけアクションになって、あ〜やっぱしハリウッド映画だなあと思わざるを得ないのであった。

 <まったく関係ないにもかかわらず、見ている途中で私は「アイランド」を思い出してしまった。あの映画、イントロは心理サスペンスと言ってよく、その謎解きの過程はひじょうにうまく出来ているのだが、途中からそんなことはどうでもいいとばかりの追っかけアクションになってしまって、いったい何を見せたかったんだ!という不満の残る映画になってしまっているのだ>

 冒険好きの少年と少女がいつか必ず行こうと誓いあった南米ギアナ高地(と映画では言っていないが、まあテーブルマウンテンですね)のエンジェルフォール(映画ではパラダイスフォールとなっています、現物は高さ「約1キロ」の滝)

 その約束は日々の暮らしに追われていつか忘れられてしまい、奥さんを失ってからやっと約束を果たそうと思い立った老人が、苦労のあげくついにそこにたどり着く・・・でいいじゃないか!なんでアクション映画にしてしまうんだ!!


 ついでに言えば、はからずも冒険をともにする少年はやはり片親そして東洋人。もちろんカール老人は奥さんを亡くしているわけで、出ました欠損家族!
 最後、この2人は新たに家族となりましたと、これまたいかにもなハリウッド映画なエンディングなのだった(==;)


 おすすめするにはあまりに微妙、良いところと悪いところが混在しすぎている。

 ま、小さいお子さんに見せにいくぶんにはいいかもしれないが、いい大人が「子供向けとはいえ良い映画は大人の鑑賞にも堪えられるのだとか、こういう映画を嗜むのがむしろ真の映画通なのだ」とわかった風なことを言って見るほどの映画ではないと思う。
 ダメなとこはダメなのよ。





 ps
 この映画は通常版と3Dバージョン(立体映画!)が公開されている、せっかく劇場に行くのだし(3D版は劇場でしか見れないので)3D版を見た。

 行った劇場は松竹系の「MOVIX」ここの3Dは液晶シャッターを使ったXpand方式である。
 液晶シャッター方式というのは、スクリーンに右目用の映像と左目用の映像を交互に映写し、観客は右目用の絵が投影されている間は左目、左目用の絵が投影されている間は右目がシャッターされる(光を透過しなくなる)メガネをかけて映画を見る方式だ。

 当然ながら映写機とメガネが完全にシンクロして動作しなくてはならないので、映写はDLP(デジタルデーターを半導体上に形成された無数の鏡を動かして投影する映写機)を使用する。
 この映写機から取り出した同期信号を赤外線で発信、メガネはそれを受光してシャッターを駆動するというわけだ。



Xpand方式のメガネ、鼻の上、眉根の部分にあるのが赤外線受光部
ずり落ちるメガネを押さえる風にここに指を当てると、
シャッターの駆動が止まり、画面の絵が2重写しになります


 反応速度が遅いという液晶の弱点を克服したXpand方式はなかなかのハイテクだとは思うのだが、その為かあらぬか液晶部分が濃い青緑色になっている。

 これでいいのか?光量を上げ色も補正してあるのか?と思ったのだが、どうもそうではないらしく、実際に映画を見てみると画面は暗く、しかも色味が青緑色に転んでいる。
 
 3Dで見たい/見せたい映画というのは映像オリエンティッドな作品である筈だ。
 にもかかわらずそれをハイライトが明るくなく、色が濁っている−つまりメリハリがなく、色鮮やかでない−状態で見せるというは本末が転倒している。

 昨年見たドルビー3D方式の「センター・オブ・ジ・アース」もかなり暗かったわけだしこれなら従来の偏向メガネ方式のほうがなんぼかマシである。

 (偏向メガネ式はスクリーンを専用のものに張り替えなくてはならないため、スクリーンを使い回して通常の映画も上映したいシネコンのニーズに合わない)

 
 というか。極端な話をすれば、映画は立体になったからといってそう面白くなったり臨場感が増すわけではない。
 そもそも観客の鼻の先に槍を突きつけたり、何かが爆発してその破片が飛び出てくるというような、あざといカットを作るのでないかぎり立体感を意識することもない。

 ついでに言えば、そういうあざとい脅かしカットを挿入すると「おお!さすが立体映画だ♪」と観客は思うわけだが、それは「映画館で映画を見ている自分」を意識するということでもあって、映画にとってもっとも重要な没入感を断ち切ってしまうのだ。

 つまるところ立体映画を新次元の体験であるように宣伝するのは配給会社の戦略でしかない。

 その戦略に乗って高い映画料金(昨年、3D映画は一律2000円だったが、今は一般2100円である)を払い、輝度、彩度ともに問題のある上映を見にいく必要はないと思う。

 『2009年は3D映画元年である』というような事が昨年末言われていたのだが、今年3Dでそう評判になった映画もない。
 新方式3Dの問題点に見て見ぬふりをし、興業側の都合だけで3Dを推しても、そううまく事は進まないのではないだろうか。

 少なくとも私は今後(3D方式が劇的に改善されたというのではないかぎり)通常版を見にいこうと思っている。