「皆に驚異の映像を見せてやる、入場料だけで」 カール・デナム
(キング・コングより)




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アバター    
天使と悪魔    
スタートレック    
  『扼殺のロンド』書評企画  
劒岳 点の記    
アサルトガールズ    
  月のかぐや  
  風が強く吹いている  
  悪霊の島  
10 凉宮ハルヒの消失    
11 ハートロッカー    
12   高砂コンビニ奮闘記  
13 第9地区    
14   シムシティ  
15   生き残る判断 生き残れない行動  
16    嗤う伊右衛門
覗き小平次
数えずの井戸
番町皿屋敷
生きている小平次
  
17    神は沈黙せず
去年はいい年になるだろう
MM9
  
18 バイオハザード4       
19    悪の教典   
20   猫物語 黒
猫物語 白
 
21   ロードサイド・クロス  
22 トロン Legacy    




 







 「カールじいさんの空とぶ家」を見て『当分3D版は見ない』と宣言したすぐ後でなんなのだが3Dバージョンを見てきた、というのもNHKで「仮想現実云々」という番組があり、そこで「アバター」を取り上げてキャメロンのインタビューを流していたからだ。
 曰く『タイタニックから10年、何をやっていたのかとよく聞かれるが、この間3D映画の可能性について研究していた。そしてやっと実用のメドがついたのでこの映画を作った、私はもう2Dには戻らない』のだと言う。
 ほ〜、キャメロンがそこまで言うならこれは3D版で鑑賞せねばなるまい、と思ったわけだ。

 結果は・・やっぱり2D見ればよかった orz

 これは「カールじいさん〜」の繰り返しになるのだが、ともかく画面が暗い、そして色が悪い(この2つは同根である)

 この映画は惑星「パンドラ」の大自然の驚異に目を見張るというのも見所の一つなわけだがこれが身に迫ってこないのだ。
 理由は簡単、青い空が抜けるような青でなく、木々が生命観あふれる緑でなく、大瀑布の水しぶきが輝く白じゃない。
 画面はいつもうっすらと陰っていてまるで薄いベール越しに見ているかのようだ。

 私は鑑賞中なんども3Dメガネの赤外線受光部(シャッターを制御する信号の受信部)を指で押さえ『あ〜この色でこの映画見たかった!』と思ったのだった(XpanDの3D方式は「カールじいさん〜」参照)なにしろシャッター駆動が止まると霞が晴れたように画面が明るくなり、きわめて印象深い映像になるのだ(しかし、もちろん画面が2重写しになってしまう)

心  これがXpanD方式でなかったら少しは違ったのだろうか?
 ものの本によればXpanDは映写機の光量の20%しか利用できないのだという、ずいぶん暗くなってしまうなと思うわけだが、そもそもこの方式は左右の目を交互にシャッターしているわけで、目に届く光は最初から50%以下なのだ。

 さらに信号が届いてから液晶がシャッター動作を始めるまでの電子的タイムラグがあり、液晶が全開から全閉になるまでにラグがある。だからクロストーク(右目用の映像が左目に届いてしまう現象=3D効果を損なう)を防ごうとすると余裕をもってシャッターし始める必要があり、結果、シャッターが開いている時間(目に光が届いている時間)は50%よりはるかに少ない、さらに加えて液晶自体の透過率の問題があり、最終的に20%なのだという。

 つまりXpand方式で、充分な上映効果を期待するなら従前のものよりはるかに明るい映写機(ランプ)を導入しなければならないわけだ。しかし、この方式は従来の映写機に追加の装置を導入するだけで3D上映が可能になるというのがウリなわけで、3D作品だからといって何倍もの光量で上映できる筈もない。
 (それでも少しは明るくしてくれているのであろうか?ランプの光量は寿命と密接な関係があるらしいのだが)

 つまるところ3D映画は、その驚異の映像を見よ!という宣伝文句のわりには映像が驚異でないのである(座席前方の劇場中央というこれ以上もない良い席でこれなのだ)
 再び宣言するが、3D効果がこの画面の陰鬱さとトレードオフであるなら私は今後3D版は見ないだろう。
 
 樋口真嗣が週間アスキーでこのアバターの3D効果を絶賛している、マジですか?と思ったのだが、国際映画祭のプレショー(30分)の感想なので、すんごく条件の良い映写だったんだろう、きっと。

 と、ここまで書いたところで、海外の記事を目にした。

 ロンドンのエンパイア・レスター・スクエア劇場でおこなわれた「アバター」のワールドプレミアは、2台の映写機を使ったドルビー3D方式で上映が行われたという。

 ドルビー3Dは通常、1台の映写機に回転するフィルターを組み合わせ、右目用の映像と左目用の映像を交互に投影する仕組みだ(詳しいことは「地底探検」の項参照)だからXpanDと同じく最大でも光量の50%しか有効活用できないわけだ。

 それが
 『バルコのプロジェクタを左右それぞれの目専用に使用し、それぞれのプロジェクタはドルビー3Dカラーフィルター技術を搭載しています』

 というわけで、どうやら常時左右の目用の映像を投影するもののようだ。つまり黙って光量2倍である、これはいいなあ。

 とはいえしかし、これはとりもなおさずドルビー3D陣営も光量が足りなくなることを自覚しているということであり。

 『これによって、この新しい超大作映画を、望みうる最高のコンビネーションの輝度、映像のシャープさ、正確な色再現で、ジャームス・キャメロン監督が意図したとおりに上映することを可能にしています。』

 と言うのは、通常は『ジャームス・キャメロン監督が意図したとおりに上映できていません』と言うに等しいわけだが、それでいいのだろうか!?


 ・・と、3D談義はこのへんにしておいて作品に入ろう。




 さてその中身であるが、これは素晴らしかった。さすがにキャメロンというべき壮大華麗なSFファンタジー&アクションであって間然するところがない。

 見てない人のために簡単にストーリーを紹介すると。

『22世紀、人類は地球から遠く離れた惑星パンドラで<アバタープロジェクト>に着手していた。この星の先住民ナヴィと人間のDNAを組み合わせた肉体<アバター>を創ることで、有害な大気の問題をクリアし、莫大な利益をもたらす鉱物を採掘しようというのだ。この計画に参加した元兵士ジェイクは車椅子の身だったが<アバター>を得て体の自由を取り戻す。』<アバターオフイシャルサイトより>

 これだけではアバターがどんなものか理解しがたいと思うが、要するにナヴィと同等の肉体を人工的に作り、人間が精神のみそれに乗り移ってあやつるという仕組みである。

 ジェイクは最初は人間側の利益のためにアバターとなってナヴィと交流するのだが、やがて大自然と調和して暮らすナヴィの生活こそ真に価値あるものだと感じるようになる。
 そして族長の娘と恋に落ちる。
 鉱物資源採掘に関する交渉が進まぬため、人間側が友好路線を捨てナヴィを武力制圧しようと攻撃を始めるとジェイクはナヴィの側に立ち、最新鋭武器を擁する軍隊に立ち向かう、というお話だ。

 シンプルでわかりやすく、血脇肉おどる展開である、映画的であり原点回帰なストーリーであると言えるだろう。

 このお話のキモは、ジェイクがパンドラの大自然とそれと共生するナヴィの暮らしに触れ、生きるとはこういうことだと悟る過程にある。そのためにはこの架空の惑星を生き生きと描写をせねばならないわけだが。そこが素晴らしくうまくいっているのだ。


 さてところで、マスコミは3Dであるとかタイタニックのキャメロンであるとかをさかんに紹介するのだが、この映画の真価はこれが『映画史上初めて』フォトリアル(実写映画と同等の)CG映画を目指したということなのではないだろうか。
 
 CGムービーはこれまでも多く発表されてきたが、そのほとんどはピクサー的(ファミレス的、箱庭的)CGであり、キャラクターの造形も動きも質感もすべてデフォルメされたものでしかなかった。かつて人形アニメが担ってきた分野をCGが取り込んだと言えるだろう。
 それがトイであろうとペンギンであろうとカールじいさんであろうと、質感はプラスチックなものであり、動きは単純化されたものであり、要するに人形でしかなかったのだ。

 フォトリアルCGと実写が共存し、CGが主役級の見せ場を作る映画もあったが(たとえば「トランスフォーマー」)CGと実写がきっちりと役割分担し、CGは作り安くアラが見えにくい部分をのみ担当して違和感の発生を極力おさえている。

 つまり特殊な対象をCG化しているわけで、役者、背景、環境、その他日常をまるごとCG化して「実写映画に見せようと試みる」など考慮の外であったわけだ。

 ここで思い出されるのがスクウェアの黒歴史、映画版「ファイナルファンタジー」である。157億の制作費をかけ36億しか回収できず、スクウェアの屋台骨を揺るがした世紀の失敗作であったこれはしかし、フォトリアルを目指した世界初のフルCG劇映画であったのだ。



 その心意気やよし、そして映像に関しては今見ても頑張ってると思う出来だが(※この映画がコケたのは一にも二にもお話がつまらなかったせいだ、映像に賭ける意気込みの100分の1でもシナリオに振り向ければよかったのに・・・というか、せめて何が起きているのか観客に理解できればよかったのに・・・)
 この映画のフォトリアルは閉じた環境の中で通用するリアルでしかなかった、つまりこのCGアクターが現実のセットの中を歩いていたり、あるいはこの世界の中にリアルな俳優が立っていたりすることは考えられないわけだ。
 つまるところ、ハイレベルなCGだとは思うが、ハイレベルであることがわかるレベルでしかないとも言える。

 しかしアバターはそうはいかない。

 お話はそのほとんどが惑星パンドラの上で進行する、パンドラも、役者たるナヴィもフルCGでしか作り得ないものであるため、映画はフルCGムービーに限りなく近いのだが、わずかとはいえ基地内部やコックピットなど人間の役者が芝居する実写パートが存在するのだ。

 この2つは隔絶したものでなく話の進行にしたがってシームレスに移行する。
 「一方そのころ惑星パンドラでは」と、舞台が完全に切り離されていれば、そこに質感の差があってもさほど違和感を覚えないだろうが、アバターの場合実写とCGで画質その他に差があればぶちこわしになるだろう。

 つまりこの映画の場合「あー良くできたCGだねえ」と思わせるだけで失敗なのである。
 努力目標ではなく、真にフォトリアルなCGが要求された『映画史上初めて』の映画、それがアバターなのだ。
 そしてそれが(かなり)成功している。これを宣伝しなくてどうする!と思うわけだ。


 結論、仮にも映画好きを自称するなら見るべし! それも劇場で。

 
 3Dバージョンで見たいと思う方は『REAL D』(偏光眼鏡方式)のワーナーマイカル系か『ドルビー3D』(色帯域分割)のTジョイ系で見たほうがいい・・かもしれない。
 ドルビーも暗かったのは確かだし(「地底探検」の項参照)実のところ劇場によっても違う可能性がある。結局、3Dは未だ発展途上であると言うほかなく、こうなるとどこで見るかは一種の賭けである、2000円(劇場によっては2100円)というプレミア料金を払って賭けに出るよりは安定した2Dを見たほうがいいんじゃないかしらね。

 



 ということでに絶賛感想中の本作だが、気になったことを少々。


 その1

 ナヴィは未開ながらも自然と調和した暮らしを営んでおり、すべての生き物(たとい獲物として狩る相手であっても)その命を尊重して生きている。
 またその性質は誇り高く勇敢であり、自分たちが守り伝えてきたものが穢される事態となれば戦うことも辞さない。
 その見てくれは、筋骨隆々としてたくましく、長髪で、時にモヒカンで、髪飾りで、最小限の衣装と装飾品を身につけ、でも族長はそれなりに飾っていて、クマどりで、成長儀式があって、馬(6本足だが)に乗って弓で戦う・・・となればこれはどうしたってインディアンである。

 一方、人間側は利益優先の集団であり、軍隊が強力に支援しており。とりあえず友好的に話を進めようとはするものの(それがアバタープロジェクトであるが)面倒となれば相手を武力でもみつぶしにかかる、というあたりは開拓民と騎兵隊そのものである。



あまりといえばインディアン


 アナロジーが目に余りまくって気になるのだが、ヤンキーのインディアンコンプレックスって根が深いのね、と日本人としては思わざるを得ない。わかりやすいっちゃわかりやすいのだが。

 
 その2

 ジェイクは人間社会においてはヒエラルキーの最下層にに位置している、体は車椅子に縛り付けられ、軍隊では下っ端(たぶん役立たず)そして科学者からは脳筋扱いと。

 一方アバターになると、そのたくましい肉体でもって、大自然の中を自由に駆け回れるのだ。 

 『どっちが良いか、考えるまでもなく』あきらかなのであるが、それじゃまずいのではないだろうか?

 そもそもジェイクには人間側に未練がない。
 たまさかナヴィは良い者で人間側は非人道的集団なのだが、この設定ではナヴィがどうあれ、人間がどうあれジェイクがナヴィの側に立つのは当然なのだ、しかしそれでは動機が不純ぽくないだろうか。

 本当なら人間社会で名誉も地位もあり、特に不満もなく暮らしている人物が、ナヴィと交流するようになって「これこそが真の暮らしだ」と悟り、その結果今までの生活を投げ打ってもナヴィの側に立つ、と決心しないとお話として成立しないような気がするわけだ。

 キャメロンにしてミスったとしか思えない、まあわかりやすいっちゃわかりやすいのだが。


 その3

 アバターのフォトリアルは「(かなり)成功している」と先に書いた。
 ナヴィは人ではなくパンドラは地球ではないので、その動きや表情、質感に若干の問題があってもあまり気にならないということでもあり、これは企画の勝利であるだろう。

 しかし「かなり成功」と言うのは言い換えれば大成功ではない、と言う意味でもある。
 主役たるナヴィの顔をアップでとらえた情感あふれるシーンをフルCGで描いてほとんど違和感がないというのは驚嘆すべき技術だが、一方アクションシーンになるとゲームのイベントムービーっぽくなるのは何故なのだろうか。
・・と疑問文で書いたが、原因はかなりあきらかだ。

 役者の顔にマーカーをつけ、顎の前あたりに付けた小型カメラでそれをとらえることによって微妙な表情の変化をCGに取り込む技術(フェイシャル・モーション・キャプチャ)でナヴィの感情表現はきわめて精密なものになったが、一方キャプチャ不可能な大きな動きはどうやら手付けらしいのだ。

 どうやらというか、たとえば飛竜がヘリコプターに乗る兵士をくわえて空へ大きく放り投げる、などという動きをキャプチャできる筈もなく(そもそも飛竜なんて居ないし)手付け(手書きアニメのように人工的にモーションを付ける)する外はない。

 すると慣性の法則を無視した不自然な動きになってしまうことが多く、そして、まあ頭で考えたものなので考えたようにしかならないのはあたりまえなのだが、絵にプラスアルファの動きが出ない、現実ならかならず存在するランダムな動き、ノイズ、が含まれない直線的な絵になってしまうのだ。

 これを記号という。

 (この「飛竜がヘリコプターに乗る兵士をくわえて空へ大きく放り投げる」カットを見たとき私は反射的に、空飛ぶ化け物が雑兵をくわえて空へ大きく放り投げる「鬼武者3」のオープニングムービーを思い出した、どっちもスピーディでかっこいいがリアリティがない)

 現実に出来ない動きがキャプチャ不能なのは当然だが、ここまで来たからにはCGのアクションシーンも全面的に物理シミュレーションを取り入れ、重力加速度、慣性、空気抵抗、衝突解析などを考慮した絵作りをして欲しいものだと思う。



 


ロン・ハワード監督


 息をするように犯罪を犯し、人を殺してもなんの呵責も感じない、という異常者でもないかぎり、犯人はその犯行の前後その心中が穏やかであるはずはない。

 犯行前であれば、その計画に遺漏がないかどうか、犯行後であれば起こした事態の重大さに、あるいは証拠が残っていないかどうか、無事逃げおおせるかどうかなどに。
 はっきり言えばそれで「いっぱい、いっぱい」になるのが普通ではないだろうか。

 よって、シリアルマーダーが起こっている真っ最中に誰かの一人称、心の声、が書かれていてそれが犯行についてまったく触れられていなければ、これは犯人ではない証左と取るのは当然である。

 これは犯人が典型的なサイコパス、異常な人間であれば「アリ」だということでもあるが、結果として犯人が確信的な秩序型犯罪者であった場合は完全なアンフェアである。
 

 ・・・ということでダン・ブラウンの原作は『評価に価せず』となったわけだが、映画はあるいは違う印象に出来上がっているかもしれないと思っていた。
 通常、映画は客観視点で作られるものであり、そういったアンフェアが入り込む余地がないからだ。

 まあ前作のダヴィンチコードも微妙な出来であったため、劇場に行くつもりはてんから無く、レンタル待ちをしていたのだった、よってDVDでの鑑賞である。

 う〜〜ん、やっぱり微妙・・

 犯行動機は了解できなくはないが、目的というか犯行後の自分の身の着地どころというかがあまりにご都合主義で、ついで言えば、犯行の隠蔽方法も怪しく「これは一歩間違えていればあっさりバレるんじゃないの?」という代物。

 これ以上もない確信犯の、これ以上もない知的犯行の結果であるにしては、計画が杜撰すぎる。

 前作同様、見ている最中は疾走感あって楽しめるのだが、終わってみると?マークがいくつも立ち上がる怪作である


 





 スタートレック・・というか「宇宙大作戦」はリアルタイムで見ていた、見てはいたのだが、毎回不満を覚える出来のTVシリーズだった。

 ウイリアム・シャトナー演じるカーク船長が惑星連邦きっての切れ者という設定にもかかわらず「そうは見えない」という事。そして本格SFというウリにもかかわらずカーク船長が異星人と異星の上で殴りあって事件を解決するという頭の悪そうなお話が多かったせいである。

 つまり私はトレッキー(スタートレックの熱狂的なファン)では全然なかったのだ。

 どれだけその嗜好が違っていたかは、スタートレックの映画化第一作「スタートレック・ザ・モーションピクチャー」が、まったく当たらなかったことでもわかる。
 私が本格SFとして評価するこれを、トレッキーは「こんなのスタートレックじゃない!」と総スカンを喰わせたのだ。

(トレッキーじゃない人間は「スタートレック」というだけで劇場に足を運ばないのだから当たらないのは当然である)

 その後もスタートレックの映画は作られ続け、私が「だんだんつまらなくなって行く」と思うのと裏腹に、トレッキーにはますます評判が良く、これはトレッキーでない人間がスタートレックを見ること自体が間違いなのだと思い、以後スタートレックからは離れていたのだった。


 今回、なんでまた見る気になったのかと言えば、評判が良かったのと、友人が「普通にSF映画として良い出来なんで、トレッキーでなくても楽しめると思うよ」と言ったからである。

 まあ、警戒してレンタルになるまで待っていたのだが・・・

 結果は、やはりトレッキーのための映画だった。
 
 これは若きカークが船長になるまでの活躍を描いた、プレストーリーである。
 (ヤング・インディジョーンズとか、ヤング島耕作(!)とかいうのと同じ、スピンオフ商品と言ってよい)

 一応SFっぽいネタを中心にお話は進んでいくのだが、見せどころはやはりスタートレックのレギュラー達が、次第にカークの周りに集まっていくところであって。トレッキーは彼らが登場するたびに「ドクター・マッコイ、キター!」「機関長、キター!」と盛り上がるのだろう。
 しかし私は彼らを身内のように我が事のようには思っていないので、「えっと、誰?あ、後の機関長か、あれ、こんな名前だっけ?」とか思っているので盛り上がりに欠けることおびただしい。

 「SFっぽいネタ」事態は、たいしたドラマになっていないので(ファンサービスの為にストーリーを地道に追う時間が削られているとも言える)SF映画としてはB級である。

 結果はやはり、トレッキーにあらざる者、スタートレックの門をくぐるべからずということだろう。


 


『扼殺のロンド』書評企画


 原書房が再び本をタダでくれるキャンペーンをするという。

 

  昨年も『少女たちの羅針盤』のときにおこなったのと同じです。
  ブログなどで定期的にミステリ作品の書評を掲載している方に差し上げて、
  『扼殺のロンド』の感想や評価などをそれぞれのサイトで書き込んでいただきたいのです。


 ということなので、応募してみた。
 もっとも前回は
 

 感想や評価は自由です。辛口でもかまいません


 というお言葉により遠慮なく書き、酷評といってよい内容になってしまったわけで今度も参加させていただけるかどうかはわからない。



 結果は1/26以降に出る。


 




 「八甲田山」は新田次郎の「八甲田山死の彷徨」を原作とした映画で「天は我々を見放した!」というトレーラー(※予告編)で大ヒットした(そうか?)
 また日本映画史上、もっとも過酷なロケが行われた映画としても知られている。

 デジタル編集機などなかった時代(1977年)『八甲田山で猛吹雪に襲われる』という絵を撮るためには八甲田山で吹雪を待つしかなかったわけで、その70年前にはまさしく陸軍の歩兵190人(210人中190人)が凍死する大遭難事件が起こっているわけで、その撮影が過酷となるのは当然だったわけだ。

 この撮影を指揮したのがカメラマン木村大作である。
 氏は三國連太郎、北大路欣也などの著名俳優を含む210人の役者を雪の中に立たせたまま、何時間も天気待ち(雪待ち)をしたのだと聞く。
 そして俳優陣から激しい突き上げを喰ったが、一歩も引かなかった(らしい、←伝聞です)

 しかし、そのこだわりの故にこの映画の雪山描写はすさまじいものがあり、見る者の心胆を寒からしめる。

 その木村大作がこんどは監督となり、やはり新田次郎の原作である「劍岳、点の記」を映画化するのだという。
 この小説は軍から地図製作を命じられた測量隊が、日本でも最難関と言われる剣岳の山頂に三角点を設置するため艱難辛苦するお話であるらしい、時代も「八甲田山」と同時期のお話である。これは期待だ!と思ったのだが。

 ・・公開されると話題になり、八甲田山もそうだったのだが、映画の出来以前の妙なノリのブームとなり「う〜ん?」と思っているうちに公開終了となってしまった。
 よってレンタルDVD鑑賞である。

 このような映像オリエンテッドな映画をTVで鑑賞してどうのこうの言うのは問題があるのは承知だが、どうのこうの言おうと思う。

 
 さてこの映画を見て、まず思うのはいろいろといびつな映画だということだ。
 もちろん木村大作こだわりの情景描写にはすごいものがあり「おおお、あんな場所に役者歩かせてるよ、つうか、これカメラどこに居るんだ!?」というような映像のオンパレードでそれはそれは見応えがある。

 その一方、剣岳のどこが難関で、登場人物たちがどこでどう苦労しているのか見ている側に伝わってこない、これはこの作品最大の欠陥である。

 はじめに「剣岳に登頂するには3つのルートが考えられるが、どれも難しい」と説明されるのだが、それがどんなルートなのかよくわからない。

 どことも知れぬ場所を昇っている絵があったと思うと「これは無理ですね」となり、またどことも知れぬ場所を歩いている絵があったと思うと「ここも難しい」となってしまう。
 せっかく現地でロケしているにもかかわらず、測量隊と剣岳の位置関係がまるでつかめないのだ。

 また、彼らはふもとの立山温泉をベースキャンプとして使っているのだが「君は一足先に降りてくれたまえ」と言うとその人物は次はもう温泉に居る。
 降りた人間は再びあっさりと合流できる。

 立山温泉と測量隊との位置関係もわからないし「最終登坂ルートが見つからないという苦労はあるものの、トレッキング自体はさして苦労というわけでもないのかな?」と思えてしまうわけだが。
 こういう印象はすべて「過程」がないせいだ。

 つまりポイント・ポイントのシーンがあるだけで、それらが相対的につながっておらず全体を俯瞰できない。彼らはこの山に3ケ月とどまっていたわけだが、その足跡が理解できないのだ。


 これを映画用語で「絵が足りない」という。

 「絵が足りない」問題は映画のクライマックスでもっとも明らかになる。
 測量隊は最後の希望として、何度となく「そのルートは危険すぎるので無理だ」と言われてきた「三ノ沢から岩壁に取り付く」コースにチャレンジする。

 そして「三ノ沢の雪渓を行く測量隊」の絵が何カットか入ったあと(←このカットの雄大さは目を見張るものがある)
 「岩壁に取り付く面々」のカットが1つ入るや、次に一行はもう山頂のすぐ下に居るのだ。
 見ている方は「は?」と思う「簡単じゃん?」

 ここは3ケ月に及ぶ難行苦行がついに実を結ぶシーンであり、どうあっても危険な岸壁を必死によじ昇る面々の絵がなくてはいけないところだ。

 想像するにそこはあまりにも危険すぎて撮影不可能だったのだろう。

 しかし、長く人を遠ざけてきた剣岳の最大の難関がどんな場所なのか観客は絶対見たい筈だ、測量隊がどんな苦労をしてそこを踏破したのか見せないではこの映画は終わらない筈なのだ。

 しかし普通の映画なら、どう撮ってでも挟み込むべきカットを、監督のこだわりの故に(とでも思わないと、この映画が壊れるほどの肩すかしは理解できないのだが)ナシになってしまっている。

 本当にその場所で撮る、撮れないなら使わない、というポリシーは理解できなくもないがしかし、そもそも映画というのは作り物なのだ。

 この映画でも、岩角で切れるロープ、岩壁から滑落する人物、というカットがあるが、それは切れやすいロープを作って撮り、スタントマンが演じて撮っている筈だ。
(このスタントマンの落ちかたが妙に不自然なのだが、ひょっとしてワイヤーを使って落下を制御し、それをデジタルで消しているのではナイデスカ?)

 リアルには撮れないものを仕込み・仕掛けで撮ることを「作り」というが、作りが無い映画などない。

 また「吹雪の中で立ち尽くす人物たち」という絵を本当にその場で撮っているにせよ、カットがかかれば、衣装部がベンチコートを持って駆け寄り、制作部が熱い飲み物を手渡すのが映画なのである。

 あるカットは作りで撮っておきながら、別な(観客がどうしても見たい)カットはこだわりの故にナシにしてしまうというのでは、客の満足より優先させるものがあったとしか言いようはない、それは壮大なプライベート・フィルムではないだろうか。


 さて、先に述べた「いびつな映画」という点について別な話をしたい。
 それはこの映画、シーンによって役者の演技の質・レベルが全然違うという事だ。

 山を行く男達の演技は見事だ、というかまるで演技していないかのごとくに淡々と話が進んでいくのだが、なにしろ背景が本物であるために特段に劇的なシーンを作らずとも、そこに居るだけで充分に劇中の人物と化しているのである。

 <役者達がどれほど役になりきっているか、私は自分が蛍雪次郎氏にしばらく気づかなかった事によって逆に気づかされた。

 氏は私の参加した映画の中で一番多くその名のある役者さんなのである。
 つまり『ゼイラム1』『ゼイラム2』『タオの月』『鉄甲機ミカヅキ』『ガメラ1』『ガメラ2』『ガメラ3』『ゴジラ大怪獣総攻撃』
 あちらは本編こちらは特撮班で「ご挨拶程度」な作品もある一方、ゼイラム2では氏に「アメ火薬」を塗りつけ「火を点けて」いたりもする(!)

 ともあれよく存じ上げている方なのだが、この映画に関していえば「あ、これ蛍さんか」と気づいたのはずいぶんと後なのだ。つまりそのように役者が目立たず、劇中人物と一体化しているのだ>

 ところがこれが陸軍内部や、主人公柴崎の家のシーンになると一転、急にオーバーアクションのオンパレードになってしまう。

 陸軍の偉いさん達は『硬直化し、権威主義に陥ったダメな軍人』という、どっかで見たようなステレオタイプな演技であり。柴崎の妻を演じる宮崎あおいはここぞとばかりに可愛い若妻演技を披露する。彼女のこの演技はCMグレードではないだろうか、最短15秒しかないCMにおいてはこのくらいわかりやすい演技をしないと、役どころが視聴者に伝わらないわけだ、しかしもちろんこの映画では濃すぎる。

 これが「普通の映画」であったならあるいは目立つこともなかったかもしれないこれらのシーンはこの映画においては浮きまくりとなっている。

 山岳シーンにおいて、登場人物達と一体になって大自然の厳しさをその身に感じていた観客はこれらのシーンが挟まれるたびに(幸いにもあまり無いのだが)一気に現実に「これは映画、ここは劇場」引き戻されてしまう。

 セット撮影部分とロケ部分の演技がまったく水と油、これがこの映画もうひとつの「いびつな部分」である。




ps

 たとい監督といえど宣伝戦略に関しては口を出せない、よってこれは制作スタッフの責任では全然ないのだが。
 「本当に山で撮ったんだって」「ものすごい苦労をしたらしいよ」という予備知識をさんざん吹き込まれた上で見に行く映画というのはおかしなものである。
 その撮影手法のゆえにヒットし、あるいは評価されるならそれはメタ映画である。

 売るためならなんでもやるのが配給会社だが、映画というのは映画の中だけで閉じているべきものだ。
 楽に撮っても迫力があれば成功だし、苦労して撮ったカットといえどその苦労の故にそのカットに価値があるわけではないと私は思う。

 私が映画公開時に「う〜ん?」と思ってしまった、というのはつまりはそういうことだ。
 


 




 映画を観に行く際、私はなるべく予備知識を持たないようにしている。「剣岳」でも言ったことだが『映画は映画の中で閉じているべき』と思うからだ。
 
 とはいえしかし、何の情報もなくては何を観て、何を観ず、何はレンタル待ちでいい(!)という判断ができない。だから映画紹介や映画評、人の噂を最低限見聞きする、そして「行ってみるか」となった時点で(それがどんな時点であろうと)情報収集を中止する。
 題材主義であるため、監督も主演俳優の名も知らないまま見に行くことも多いし、時にはそれがどんな映画かさえよくわからないまま観に行くこともある(ウォッチメン)


 というところで押井守である。「アバター」が史上空前のヒットを飛ばす中、キャメロンが意識する男、押井の新作がひっそりと公開されているわけだ。

 押井に関しては「スカイクロラ」の項で
『「アヴァロン」が公開された時も「イノセンス」が公開された時も黙殺に近かった日本のマスコミがここへ来て急に「宮崎駿と並び日本が世界に誇る映画監督」などと押井を持ち上げているのはいったいどういう大人の事情があるのでしょうか』
 と書いた、しかし今回はまた黙殺モードである。

 この映画の公開がどれだけひっそりしているかは、1月の時点で東京はテアトルダイヤ(池袋)でしか公開されていないことでもわかる。しかも1日1回しか上映されないのだ、単館ロードショウならぬ単発ロードショウである。
 (1月18日現在、全国で上映しているのは3館だ)

 どういうこと?と思わざるを得なかったが、私は押井作品はディフォルトで観にいくので、つまりそれは何の情報がなくとも観にいくということなので、頭に?マークを2つ3つ出したまま劇場に向かった。

    そして「こういうことか!」と納得したのである。


 つまりこの映画、そもそも1本の映画として成立していない。イントロで「アヴァロン」について語られ、これはその「別シナリオ」であると堂々と宣言されてしまうのだ。

 そして画面に『AVARON(f)』と出るのだが、これがこの映画の真のタイトルだったのではないか?(「アサルトガールズ」というのは宣伝のためにあとづけされたタイトルだったのではないだろうか)

 アヴァロンがどんな映画であったのか知らない人のために、ここでちょっとだけ説明しておくと
 近未来(スチームパンクというか レトロフューチャーというか、美しくなく豊かでもない未来)人々はアヴァロンというMMORPG(多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲーム)に熱中している。
 これは私がもう8年もやっている『ファイナルファンタジーXI』みたいなものだが、モニターを介して仮想世界に遊ぶのではなく、脳を直接刺激する装置を使い五感すべてをゲーム内人物(アバター!)に委譲する真の仮想現実なのである。

 アヴァロンはリアル指向な戦闘ゲームであり、敵を倒すとポイントを得ることができる。主人公アッシュは名の知られたゲーマーであり、獲得したポイントを換金して生活しているプロゲーマーなのだ。

 ・・という話である、映画「アヴァロン」はそのアッシュの現実世界での暮らし、仮想現実内での戦い、双方でからみあう人間関係、希薄になる現実感、ゲームに隠された謎、などが複雑微妙に交錯する傑作である。
 
 <アッシュを演じたマウゴジャータ・フォレムニャック(ポーランド人)が、攻殻機動隊(押井版)の草薙素子がそのまま実体化したかのようなアンドロイド美女であり、オールポーランドロケによる(日本人にとっては)希薄な現実感がこの映画の魅力のひとつになっている>


 しかし!、続編たるこの「アサルトガールズ」は、現実世界パートがなく、セットもなく、役者は4人きり。その内容は仮想世界における戦闘シーンのある一局面をサラッと描いただけの小品なのだ。
 シナリオのボリュームも(予算も?)前作から1ケタ違うと言っていいだろう。

(7800円で発売されたゲームに、3000円のファンディスクが発売され、そこに追加シナリオがおまけで付いている、と言った感じだろうか)

 事情説明はアヴァロンで済んでいるとばかりに、ゲームの断面以外は前も後もない。
 
 前作を観ていない人間でもこれがゲーム内のお話であるということはとりあえず了解可能だと思うが、アヴァロンというものがどんなシステムなのかは冒頭のナレーションで語られるだけなので「なんだかよくわからない」まま終わる可能性はある。

 これでいいのか? などと思うのは、私が情報を収集せず観に行ったからで、そもそもこの映画がアヴァロンの続編であることを知らずに観に行くような人間はいないのだろうか?
 などと言うのは反語であって、黒木メイサの熱心なファンがこれを「メイサの新作アクション映画だ」と観に行く可能性はあるはずで、そういう人に対しては不親切きわまりないと言えるだろう。

 
 先に「アサルトガールズ」は後づけのタイトルではないか、と述べた。
 それは「イノセンス」がもともと「攻殻機動隊2」という名で企画が進行していたのを『それでは一見さんが観にこない』というので急遽「イノセンス」に変えたという話があるからだ。

 「イノセンス」は前作で草薙素子が生身の体を捨て、ネットワーク上にだけ存在する仮想的な生命となっている(よって、彼女はどこにも居ないとも、偏在するともいえる)という根本的な設定を知らなければまるで理解できない。
 つまりまったきの「続編」なのだが、それをそう悟らせないタイトルに変えるってどうなのよ?と当時私は思ったものだ。今回もそれに近い。

 押井守の指向する映画は間口が狭いがそれゆえ熱心なファンが多い、大ヒットは望めないかわりに一定の評価はあるはずなのだ、この映画は「AVARON(f)」として公開すべきものだったろう。

 
 さてしかし、宣伝戦略は映画の価値とは無関係である、感想を述べよう。

 この作品はアヴァロンの続編・・というかむしろサブセット・・なわけだが、シナリオの工夫や撮影方法によってそのロウバジェットさはあまり目立たない。
 
 特に背景は秀逸で、観ている最中はこんな浮世離れした(仮想世界っぽい)荒野どこにあるんだと思ったほどである(大島だったらしい)

 逆に、役者が黒木メイサほか日本人になったというのがことのほか効いてしまっている。
 黒木メイサもたいがいアンドロイド美女なのだが、戦闘ゲームでそれなりに名が通ったキャラクターには見えない。
 武道家は目の配り、足の運びでその腕が知れるというが、つまりは「そう見えない」ということだ。

 ハリウッド映画のように、役者を長期に渡って拘束し、武器の扱いから、戦闘訓練、ボイストレーニングまで行うというのでないかぎり、やはり『黒木メイサは黒木メイサに見えてしまう』のだ。
 (アヴァロンのマウゴジャータ・フォレムニャックも素晴らしく身のこなしが良かったというわけではないが、役者としてなじみがないぶんその点マシだったといえるだろう)
 「あ、『黒木メイサ』がすごんでいる、『菊池凜子』がぶっとんだ芝居をしている」と見えてしまうのは映画としてきつい、それが仮想世界のアバターと思えばなおさらだ。
 
 結論としては、先にのべた背景を含め、押井特有の韜晦に満ちた映像美はあいかわらずであり「観て損はない」
 もちろん先に述べたとおり「アヴァロンを観ていて、かつあの映画を面白いと思った押井ファン限定」であるのは言うまでもない。

 ただし、あまりに小品であり(テアトルダイヤが1000円均一サービスディじゃなかったら私の感想も違ったかもしれないというほどの小品だ)
 作品規模からして基本DVD(ブルーレイ)公開狙いだろうし、セル/レンタルを待っても全然かまわないと思う(そもそも、観に行こうにもやってる劇場はほとんどないのだが)


 



 月探査衛星「かぐや」が撮った月面の写真集がデター\(^o^)/
 と、喜んでさっそく読んだのはいいが、これは・・・

 ありがちなことなのだが『よくわかっている人が何かの解説書を書くと、わからない人が何がわかっていないのか理解できておらず、ピントのぼけた解説書になる』ことがある、これはその典型である。


 さてところで、人が風景を見る場合、見ている物がどのくらい遠くにあるのか、それがどれくらいの大きさなのかは経験によって判断している。

 まず遠くにあるものは空気中のチリや水蒸気によってディティールがぼやけ、コントラストが甘くなる、これがどれだけボケ、どれだけ甘くなっているかで距離を判定しているわけだ。
 
 特撮映画のミニチュアセットにおいて我々操演部がFOGを撒くのは、これを人為的に行い、目と鼻の先にある書き割りを遙か遠くに見せかけるトリックである。これを空気遠近と言う。

 更に人は見ているものがどれだけ小さく見えるかでも距離を判定する、遠くに見える木々、ビルがどう見えているかでおおよその距離を判断するわけだ。

 東京都庁、別名タックスタワーがなぜいまひとつ評判が悪いのかと言えば、あのビルが人を威圧するような威容を誇っているからで、なぜあのビルがそのように見えるかといえば通常のビルよりディティールが細かいからだ。

 ビル側面にある細かい方形を見ると人はこれを窓だと無意識に判断する、そしてその窓のサイズと数でビルのサイズを判断するわけだ。
 都庁は、これを意識的に小さく多くしている。よってあのビルは実際より遙かに高く聳え立っているように見えるのだ。


 以上なんの話かと言うと、人は空気が無く、サイズが判定できる「よく見知った物」がない環境では、見ているものの大きさやそこまでの距離が判断できないということだ。

 月面がそれである。
 月面は真空なので遠くにあるものがまったくボケない、また見知っているものがなにもない。よってあるクレーターを見せられても、それが100メートル先にある直径十メートルのクレーターなのか、100キロ先にある直径10キロのクレーターなのか判断できないのだ。

 冒頭、一回だけティコを日本地図と比較し、ティコが関東平野を覆うほどのサイズであることを示す図版が示されるのだが、そういう試みはそれ一回のみである。

 この「月のかぐや」の著者は月の専門家であり、各種の数字も頭に入っているだろうし、クレーターのサイズを具体的に思い浮かべることが出来るのかもしれないが、月の素人に数字だけ言われても実感の湧きようがないのだ。
 
 たとえばの話、砂場に積まれた砂山のようにしか見えない「それ」がアルプス級の山だと言われてもリアリティが感じられないわけだ。

 結果、あまたの写真を「どう見ていいのか」わからないまま、漠然と眺めるハメになる、せっかくのクリアでクオリティ高い写真がもったいない。

 著者は「長年望遠鏡でしか見れなかったあの××クレーターがこんな間近で!」と嬉しくてしょうがないのだろうが、もうすこし初心者に月の驚異が伝わる紹介の仕方を考えて欲しかったと思う。



たとえばこの写真、『アルプス谷』と紹介されるのだが
その谷というのが中央の彫り込まれたようなトレンチを指すのか、その周囲の平坦な部分を指すのかわからない
著者にとってはあまりに自明なので、説明する必要があるとは思わなかったのだろう。

 




 小田急線、成城学園前から歩いて20分。京王線、千歳烏山からも20分という今一つ便の悪い場所に寛政大学学生寮「青竹荘」は建っていた。
 
 この青竹荘、老朽化した木造2階建てで風呂はナシ、炊事場とトイレは共用という今どきありえない環境だったが、明るく元気な双子「ジョージ」と「ジョータ」、ヘビースモーカーでニコチンまみれな「ニコちゃん先輩」、帰省するのに2日かかるという遙かな故郷でそう呼ばれていた「神童」、学生でありながら司法試験に合格している「ユキ」、アイドルのような整った顔立ちで、しかし3次元の女性に興味のない「王子」、黒人の留学生「ムサ」、クイズ番組が大好きなクイズ王「キング」、そして彼らの世話役を買って出ている兄貴分「ハイジ」の9人が居住していた。

 長く空いていた最後の一部屋に入ってきたのが、高校時代、長距離ランナーとして将来を嘱望されながら暴力事件を起こしてドロップアウトした「蔵原走」だった。

 走の歓迎会の席上、兄貴分のハイジは皆を前にしてこう宣言する
「俺たち10人で、頂点を目指そう、目指すのは箱根駅伝だ」
 驚愕する9人、「無理だ」「気がちがったのか」「ハコネエキデンって何ですか」「だいたいここには陸上部員が居ないじゃないか」

 するとハイジは玄関先から「青竹荘」の古い看板を取ってきてその表面をぬぐう。それまで汚れて判読出来なかったのだが、たしかにそこには「寛政大学、陸上競技部錬成所」と書かれていた。
 青竹荘に入居したものは自動的に寛政大学陸上部員として関東学生陸上競技連盟に登録されることになっていたのだ!
 
 ・・・というのがイントロである。


 これで表紙にイケメンの男子がアニメ絵で描かれていたらどこの電撃文庫かと思うようなノリだが、これが直木賞作家三浦しをんの直木賞受賞第一作だというのだから驚く。






 さてところで、寄せ集めの弱小スポーツチームが絶対勝てないと思われていた強豪チームに勝つ、というのはスポーツ物の王道である。
 
 この強豪チームが大手で名門で常勝、部員はいっぱいで設備も上等、しかし上位下達のいかにも体育系組織だというのがお定まりであり。一方、弱小チームは寄せ集めながら、そのバラバラな個性を生かし、お互いの弱点を補強しあうことで強くなる、というのも定石である。

 ここで思い出すのが、洋画では「ロンゲストヤード」「メジャーリーグ」邦画で「しこふんじゃった」コミックで「キャプテン」「プレイボール」「ピンポン」小説では周防正行監督がノベライズした同名の「しこふんじゃった」というところだ(10秒ばかり考えただけでこれだけ思いつくのだから、真面目に考えればもっと出てくると思う)

 しかし、経験浅い弱小チームが強豪に勝つというのは普通はあり得ないことであり、夢物語であるわけだ、この夢を荒唐無稽なお話にしてしまうかそれなりの説得力をもたせられるかは作者の力量が問われるところである。

 お話は山あり谷あり、ピンチもあれば雨降って地も固まりと、デコボコながら次第に右肩上がりに話が進んでいってクライマックスに至るのが当然なのだが、どうもこの小説はデコボコが少ない、右肩上がりなのは当然なのだが、そのグラフはフラットに近い直線なのだ。
 もちろんさすがに直木賞作家、ちゃんと書き込まれた人物像とエピソードのおかげで読み応えのある青春物にはなっているのだが、もっとうまくいっている小説を読んでしまっていると若干食い足りない。

 このもっとうまく行っている小説とはほかでもない、先に述べたノベライズ版「しこふんじゃった」である。
 (実のところ、今までおよそノベライズというものが面白かったためしはなく、私は「構造的にノベライズには何かが足りない、小説の魂が入ってないのかもしれない」と思っていたのだが、「しこふんじゃった」は例外的に面白かった、監督みずから執筆したというあたりが違うのかもしれない)

 はっきり言ってしまえば『寄せ集めの弱小スポーツチームが絶対勝てないと思われていた強豪チームに勝つ物』と言えば、映画では映画版「しこふんじゃった」小説では小説版「しこふんじゃった」が金字塔であって、これを超えるのはかなり難しいのだ。


 つまるところ、この小説は「かなり面白かったが、若干夢物語っぽすぎ、あれよあれよ感がありすぎる。結果読後感としてはライトなものにとどまる」というところだろうか。
 エンターティメントとしては上等なものであり、読者を飽きさせることなくラストまで引っ張っていってくれるので充分お勧めできるのだが。

 あなたがもし「しこふんじゃった」を読んでないのならまずそっちを読むべきだろう。


 





スティーブン・キング



 スティーブン・キングはデフォルトで買う作家だった。
 『日本で発行されたキングの本はリチャード・バックマン名義の物も含めて全部持っているし、全て読んでいる』と自信を持って言える時期さえあった、10年以上も前の事だ。

 それほどまでに好きだったキングだが、ある時期から次第に「?」と思うようになり、すべての新刊を黙って買う、ということはしないようになり、やがてこれは!と思うもの以外は読まなくなった。

 何が変わったのかというと『長くなった』のである。
 正確に言うとこの「長さ」とは原稿の絶対量のことではなく、ストーリーと内容のバランスの問題だろう、つまり小説の内容とボリュームのバランスがひどく不釣り合いになってしまったのだ。

 どういうことかと言えば、つまり長い長いお話が大長編になるのは当然であり、むしろそれは読んでいて楽しいわけだ。
 念力放火の能力を持つ少女がその力を欲する秘密組織「ショップ」から逃げに逃げ、保護者であった父親を殺され、天涯孤独になり、それでもいろいろな人たちの助けを借りて、旅をつづけ、最後にはショップと戦争になるという話(ファイアスターター)が長くなるのは当然でありこれは読んでいて飽きない。

 しかし一方、移り住んだ家で怪異が置き、調べてみたら地下には吸血鬼が居ましたというような話(←たとえ話)大筋が名刺の裏に書けるようなお話を超大長編にされてしまうと『ネタと長さのバランスがあまりにも悪い』と思えてしまうわけだ。

 そのギャップを生み出しているのがキング得意の「日常描写」である。
 この「微に入り細に亘る日常描写」もある程度までは私は許容していた、つまり

 主人公は何歳でどんな風貌でどんな職業についているか、どういう口調で何を語り着ているものは何か。どこに住んでいて、その住んでいる街はどんな街なのか。
 そして彼(彼女)が読者にとって他人でなく思えてきたころキングは試練を与える。
 すっかりなじみとなった人物、かつて訪れたことがあるようにさえ思える街、そこに非日常な恐怖が忍び込む
(2008年度版スクリプトシート「霧」より)


 ということだ。

 しかしこれがいきすぎた・・と思う。
 それは作風というにしても、個性というにしても長すぎ、テクニックと言うにしても長すぎ、いかなる作劇上の要請にしても長すぎる。

 つまるところキングの興味は「何を語るか」ではなく「どう語るか」に移ってしまったのではないだろうか(いやそうだ、そうにチガイナイ)


厚い

 本のオビに『<恐怖の帝王>、堂々の帰還。』
 と書いてあるので、ちっとは原点に回帰してくれたのかと思って読んでみた。

 変わってなかった。

 主人公は建設会社の社長なのだが工事現場における事故で片腕を無くし、頭にも傷を負って言語機能に障害が残ってしまう。彼は引退してフロリダの小島でリハビリ生活に入る。

 事故の精神的ダメージから逃れるためにと勧められ、絵を描き始めた彼は意外にも自分に芸術の才能があることに気づく。

 しかし彼が描く絵には不思議な力がそなわっていた、それには遠い場所の出来事や、彼が知る筈のない真実が描き込まれていたのだ。

 というのがイントロである。

 欠損を抱えた主人公とその替わりに得た超能力、というのはキング初期の傑作「デッド・ゾーン」と同じネタだ。

 「デッド・ゾーン」の主人公ジョン・スミスは交通事故で頭に重大な障害を負い、昏睡状態に陥る、55ヶ月後に目覚めると彼は自分に不思議な力が宿っているのに気がつく。
 この力、本のオビには「予知能力」と書いてあるのだが、どうしてそんななまなかなものではない。
 ジョンは主治医に触れるや彼が戦災孤児であること、自分の母親は死んだと思っていることを知る。しかし、同時にそれが間違っていることも知る。

 ポーランドにドイツ軍が侵攻してきたとき、大混乱の街中で彼の母は彼を「安全な場所」に預け自分も避難しようとしている。そこへトラックがつっこんできて、彼女を時計屋の店内にはね飛ばす。その時店中の鳩時計が鳴き始める、時間は6時。病院で彼女は目を覚ます。彼女は思う「あの子は無事だ」、でもあの子が誰なのか彼女には思い出せない。
 やがて彼女はスイスに移り住み、結婚して4人の子供をもうける。
 ケネディの遺体に小さな子供が敬礼するのを見て彼女は思う「あの子は無事だ」でもあの子とは誰なのか?
 彼女は今はアメリカ人になってカリフォルニアに住んでいる、夫は死んだ、子供の一人もなくなった、他の子は元気だ、彼女は夢の中でときどきあなたの夢を見る、そして夢の中で「あの子は無事だ」と考えている。
 ・・とその医者に伝えるのだ。

 これは「予知能力」などではない。あえて言葉を当てるなら、仏教用語の『天眼通』”現在・過去・未来のすべてを見通すことのできる力”、とでも言うべきものだ。


 さてジョン・スミスも「悪霊の島」のエドガー・フリーマントルも車に乗っているときに事故に遭う、どちらも言語機能に障害が残り、いくつかの言葉が思い出せない。
 ジョンは長い昏睡による靱帯の萎縮で、エドガーは事故による腰のダメージで、同じく歩行に困難が生じている、というわけで、30年越しに同じネタで勝負?と思ったのだが。

 その長さが違った。

 デッド・ゾーンは原稿用紙換算で約1400枚、悪霊の島は全2000枚、ジョンが自分の能力に気づくまでに300枚、エドガーが自分の能力を把握するのに800枚、全体の長さもさることながら、このイントロが激しく肥大しているのだ。

 更に言えば、デッド・ゾーンがこのあと話がダイナミックに動き出すのに対し、悪霊の島はその後も、上巻が終わってもまだ事態が進行していかない。

 私は上巻を読み終わったところでいささか呆れ、そして理解した、つまりこの話の中心にあるネタはたいしてボリュームがないのだと、つまりエドガー・フリーマントルはこの後−お話が動き出した後でも−波瀾万丈の大冒険など行わないのだということだ。

 そもそもエドガーが自分の能力を把握するまでをイントロ、と思うのが間違いなのだろう。
 今やキングの興味は、主人公の周りに起こる様々な出来事を事細かに語ることそのものにあるのであって、最後に大きな謎が明かされるとか、ストーリーをダイナミックに展開させるなどということには重きを置いていない。
 つまり「エドガーが自分の能力に気づくまで」は何かのストーリーを開始すための助走ではなくそれ自体キングの書きたいことだったということだ。

 つまりそれは最近のキングの傾向そのもの、なにも変わっていないということなのだが。

 結局、この小説は大きく出たタイトル、読み始めて見ればはるかに広がる裾野から、どんな高い山になのかと思っていたら実際には箱根山−「天下の険」ではなく、東京都新宿区ある「標高44m」の山(それでも山手線の中では標高が一番高い)ほどしかなかったということだ。


 それもまあ仕方ない、キングは道中記が書きたいのであって、昇る山の高さには興味がないのだ。
 だからそれでもいい、いやそこが面白い、という人がのみ読むべきなのだろう。

 しかしこの人の書く小説は大衆小説の鏡だったのだが、この偏りのおかげで微妙に読む人を選ぶようになってしまったのではないか。

 私は・・また距離を置くつもりだ


 





 『涼宮ハルヒ・シリーズ』は角川スニーカー文庫から出版されている谷川流原作のライトノベルである。第一巻の『涼宮ハルヒの憂鬱』が大ヒットし、以降『溜息・退屈・消失・暴走・動揺・陰謀・憤慨・分裂』の9巻が刊行されている。

 またコミック化、アニメ化、ゲーム化、ドラマCD化〜いわゆるメディアミックス〜されていて、今回ついに劇場映画が公開されたというわけだ。

 知らない人に説明してもあまり意味はないし、知ってる人には念仏だろうがお話の概略を書く。

 この「ハルヒ」というのは美人でスタイルもよく、頭も切れれば運動神経も抜群というスーパー女子高生だ。しかし普通で退屈であたりまえなことが大嫌いで、高校生活の初日、教室での自己紹介で「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたらあたしのとこに来なさい、以上」と言い放つ変人である。

 そして、ここが重要な点だが、これがただの変人ではなく、なぜか『望めば一瞬にして世界を作り替えることの出来る能力』、神のごとき力、というか神/造物主そのものの力を持っており、かつ自分でそのことに気づいていない。

 ハルヒは待っていても面白いことは起こらないと悟り、前の席に座っていたキョン(←あだ名、彼がこのシリーズの語り手である、本名不詳)の他、3人のメンバーを無理矢理引っ張り込んで『宇宙人や、未来人や、超能力者を探し出して一緒に遊ぶ』ための同好会『SOS団』を結成する。

 しかしこの、この3人というのは。

 長門有希:宇宙全体に広がる精神体(肉体を持たない純粋な知性らしい)が送り込んできた人型アンドロイドの『宇宙人』
 朝比奈みくる:ハルヒの力が時空をも揺るがすことに脅威を抱いた未来人が送り込んだ監視役『未来人』
 古泉一樹:超能力集団<ハルヒはイライラするとこの世界そっくりで、かつ人のいない異次元空間を無意識に作り出してしまう、それは放置すると現実世界を飲み込んでしまうため、超能力者が集まってその異次元を潰している>が、ハルヒを宥めるために送り込んできた『超能力者』
 の3人だった。
 
 身分を秘匿して学校に潜入していた筈の彼らはハルヒのその能力の故にか、あっという間に捕獲されてしまったというわけだ、しかしハルヒ本人だけはそれを知らない。

 というのが初期設定である。

 特殊なバックボーンを持つ4人の中でただ一人普通の人間であるキョンの一人称で進むこのお話は、その語り口〜ハルヒに引きずり回され心身ともに疲れはてる彼のグチ〜の面白さと、登場人物のキャラ立ちで楽しく読めるのだが、巻を追うごとに厳しい面も見えてくる。

 その際たるものは、ハルヒの『神のごとき力』があまりに超絶すぎて話の中で消化できていないことであろう。

 ハルヒは「日常生活に不満を覚えると無意識のうちに異次元空間(作品中では『閉鎖空間』)を作る、とされており、中学の3年間は閉鎖空間作りまくりだった、ということなのだが、『神/造物主』が不満を押し殺して日々を過ごす必要はないのである。

 実際、映画の自主制作において『主人公の背景で鳩が飛び立つカット』を撮ろうとした時、鳩が灰色なのを見て「できれば白い鳩にしたかった」とハルヒが言うと、その翌日その鳩たちがみな白くなっていたというエピソードがある。

 またこの映画の主人公「戦うウエイトレス」が目からビームを出す、というカットを撮ろうとすると実際に目からレーザー光線が出てしまってキョン危機一髪というエピソードもある。
 (どちらもハルヒ本人は気づいていない。)

 かと思うと夏休み、最後の2週間を遊び倒し「この夏はいっぱい色んな事ができたからもう充分よね」と言いつつも、心の内に何かしら「やり残した感」のあったハルヒは8月31日の深夜0時、すべての時間をリセットし(これまた本人の自覚なしに)8月17日から「やり直し」させてしまう、というエピソードもある。
 (この時、世界全体が2週間前に戻り、ハルヒ本人を含めた人の記憶もリセットされてしまうので誰もその巻き戻りに気づかない。しかし実際には世界は15498回ループしており経過時間の累積は600年近い)

 つまりハルヒは願望という形で、あるいはまったくの無自覚、無意識のうちにでも世界を再構築してしまう能力があるということなのだ。しかしこの3つの中だけでも整合性は取れていない。

 たとえばの話、目からレーザーが出るといいなあと思っただけで普通の人間にレーザーを「出させてしまう」なら、鳩は白いほうがいいなあ、と思っただけで鳩は白くなる筈である(撮影翌日に色が変化したのではハルヒの役には立たないのだ)

 また、同好会を作ったハルヒは「不思議な現象や謎募集」というチラシを校門で撒くのだが、それをバニーガールの衣装で配ろうとして、先生に止められるというエピソードもある。
 「腹立つー、なんなのあのバカ教師ども、邪魔なのよ、邪魔っ!」と怒っているのだが、この場合、腹が立ったとたんに世界は「バカ教師」のいないものに作り替えられなくてはおかしい。

 『超能力者』こと古泉くんは「涼宮さんはああみえて常識をわきまえていますから」と言う。つまり口では文句を言うものの「常識的に考えて無理のある」事は実現できなくとも我慢するということなのだろうが。
 人間の目からレーザーが出ないのは常識を持ち出すまでもなくあきらかであり、あって欲しいとハルヒが真に願ったはずもない、にもかかわらず「出た」ということは漠然とした夢のような望みでさえ、心に抱けば実現してしまうということなのだ。ならば教師などあっという間に消去されて当然である。

 こう考えると、中学の3年間イライラして過ごしたというのも疑問なわけだ。

 更に言えばもう一つ。ハルヒ的に最大のピンチ(ハルヒが起こしハルヒ本人だけが知らないピンチは数しれずあるが、これは本人が自覚している最大の事件である)は、キョンが学校の階段から転げ落ち、頭を打って意識不明の重体になるというものだ。
 (ハルヒにいいように使役されているキョンだが、実はハルヒにベタ惚れされているらしい、デレのないツンデレである)
 これは実は訳あって長門が仕込んだフェイクなのだが、古泉曰く「血の気の失せた涼宮さんなんてものを初めて見ました」ということでハルヒは本当の事と信じている、ならばここで能力が発動しないのはウソだ。

 つまるところ、ハルヒの能力は作者が恣意的に運用せざるを得ない作品のウィークポイントなのである。

 
 更に言うと、ハルヒを取り巻く『SOS団』の面々は『彼女が自分の能力に気づくと何が起こるかわからない』ので、その能力が発動しないよう最大限努力し、万が一何か起こってもそれを本人に気づかせないように処理してしまう。
 これはこのシリーズの基本構造であるわけだが、そのため主人公たるハルヒがお話のメインストーリーに気づかず、コミットもできないという異常な縛りが生じてしまった。
 要するにお話が動き始めると、主人公がカヤの外になってしまうのだ。

 なんでこうなったのかといえば、さすがにここまでメガヒットするとは思わなかった、ということだろう。

 映画でもライトノベルでも最初の1作目が当たらなければ後はない、だからそのとき良いと思ったアイデアはなんでもブチこんでしまうわけで、たまさかヒットしてしまうと今度はその設定が作者を縛るわけだ。
 最初に撒いたタネがのちのちうまく芽をふいてくれることもあるだろうし、キツイことになってしまう場合もある。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』の場合、我が儘で、エキセントリックで、暴走気味のハルヒはもめ事を生み出す装置として設定されていたのだと思う。
 そして、その能力は騒動のタネとして、更には「ハルヒの機嫌を損ねると世界の危機になる」>「ハルヒの気まぐれにブレーキをかけられない」>「振り回されっぱなし」というスラップスティック・コメディの仕組みの一部として作られたのだと思う。

 しかし、やはりそれはあまりにも超絶能力過ぎたのだ。

 よって作品が進むにつれヒロインである筈のハルヒはお話の周辺に追いやられていく。話が転がり始めるとおじゃまキャラになってしまうのだからやむを得ないのだが。

 その替わりに一躍浮上してきたのが、宇宙人こと長門有希である。

 小柄で整った顔にショートボブ、漆黒の瞳、そして一切の感情を表にださない無口、無表情の『対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイス』長門は、派遣元(?)である宇宙知性体(『情報統合思念体』)からのバックアップもあって魔法のような力を持っている。
 (「充分に進化した科学は魔法と見分けがつかない、by アーサー・C・クラーク」というわけだ)

 長門はハルヒが巻き起こした騒動も、それ以外の問題も、的確に冷静に遅滞なく解決していくのだが、いつしかそのロボットのような(ってまあ、ロボットなのだが)無表情な顔に感情のカケラが浮かぶようになる。

 それは長く長門を見続けてきたキョンにして初めて気がつく微細な変化でしかないのだが、「長門は人間に近づいてきているのかもしれない」とキョンは思う。


 <ここで若干話は脇に逸れるが、短髪、無口、無表情(無感動)な少女が次第に感情を表すようになるというお話は、ツンデレと同じくらいの黄金パターンであるように思える。

 至近では人型決戦兵器に乗る青髪・赤い目の短髪少女が思い起こされるわけだが、私の思うところそのルーツは高畑勲の「母をたずねて三千里」に出てくるフィオリーナである。
 小柄で短髪、無口、無表情なフィオリーナは主人公マルコと交流を深めるにつれ感情を表に表すようになる。

 最初は庇護すべき対象のように見えるが、次第に芯に秘めた強さを発揮し、最後にはその母性でむしろ主人公を守る立場になる。という流れはすでにここで現れている。
 
 ついでに言えば、彼女等を月とすれば太陽にあたる陽性な女性がそばに配置されるというパターンも完成している、つまりフィオリーナに対しその姉、ペッピーノ一座の花形ダンサー、コンチエッタ、綾波に対してアスカ、長門に対して朝比奈みくるである。
(配置として当たり前だが、陽性側の女性はみな長髪である)
 原型にはその後の全ての要素が含まれている、とはよく言われることなのだが、いや高畑おそるべし>

 というあたりで話を戻しかけるわけだが、彼女らが変化するきっかけが何であったかと言えば、それは主人公への好意に他ならない。
 
 最初キョンのことを『動物園でキリンを見るような目で観察』していた長門はキョンのピンチには必ず現れて間違いなく助けてくれるヒーロー(?)になり、そして時にキョンの判断を仰ぎ、キョンの頼みは何事も受け入れ、キョンにだけは常に本当の事を言うようになる。

  一方キョンは・・と言うと、なにしろ健康な男子高校生なので、可愛くてお色気のある朝比奈さんが気になってしょうがなく、常に朝比奈さんとよろしくやることを考えている(当人の自覚としてはそうなっている)のだが。
 『何だか長門が退屈しているように見える』と思ったり。『長門がやる気になっている』ことを見てとったりと、他の誰にもわからないわずかな変化に気づくようになっている。

 また『殺風景な部屋で何年も暮らす宇宙人製の有機アンドロイド。無表情に見えるだけで、やはりこいつにもあるのだろうか。一人でいるのは淋しい、と思うことが』と考えたりする。
 つまり長門のことを常に気にかけているのだ。

 ハルヒは動かしづらいキャラとなり、朝比奈さんは可愛くて頼りないどじっ娘、古泉は何考えているかわからない二枚目という位置づけがほとんど変わらない中、長門とキョンの関係だけが緩やかに進行していくのが見てとれる。

 私もこれは真のヒロインは長門でいいんじゃないか、このシリーズは長門が人間になって終わるというのでいいんじゃないか、と思うようになった。


 というところで映画の話になる(前フリが長い)

 たとい映画をまだ観に行っていないとしても、いずれ観ようと思っているほどのハルヒファンであれば、原作の「消失」を読んでいないとは思えず(その原作もすでに発行されて5年だし)今さらネタバレもでもないと思うので以降はバレ全開になる。

 だから、もし万が一、アニメ版から入り、アニメ版しか観ず、かつ消失についての前知識がまったくない方が居るならここで読むのを中止すべきである。
 (実のところ、そういう状況で観たときこの映画は一番面白く観れるだろうし、そんな方が居るならまったくうらやましい限りなのだが)




 『地球をアイスピックでつついたとしたら、ちょうど良い感じにカチ割れるんじゃないかというくらい冷え切った朝』クリスマスまであとちょっと、という時期にお話は始まる。

 ある朝キョンが教室に入ると、後ろの席に居るべきハルヒが居ない、そればかりかその席は別人の物となっていることが判明する。
 キョンが友人に問いただすと彼はハルヒを覚えていない、うろたえるキョン、しかし教室の誰もがハルヒという人物を知らないと言う。

 教室を飛び出すキョン、古泉、と思うが一年生のクラスが8組までしかない、古泉のクラス「1−9」そのものが消滅しているのだ。
 廊下で朝比奈さんを見かける。しかし彼女はキョンの事を知らないばかりか、わけのわからない事を口走る怖い人という目でキョンを見る。
 

 いったい何が起こっているのか? こうなった以上長門が最後の望みだ、キョンの味方でありいつでもピンチを救ってくれた彼女だけが頼りだと、文芸部(「前の世界」でSOS団が乗っ取った部屋)へ向かうキョン、はたして長門はそこに居た。

 しかしそれはキョンの知る長門ではなかった。

 見た目はそっくり、しかし、それはいついかなる時も感情を表に出すことのない、静謐なたたずまいの人型インターフェイスではなく、引っ込み思案で、口べたで、男子生徒と会話することさえ勇気を振り絞る必要のある気の弱い女の子だった。

 望みは絶たれた、これはハルヒの起こしたことなのか? ならば何故ハルヒは消えたのか? それとも・・・まさか、おかしいのは自分のほうで、SOS団なんてもんは今まで俺が夢見ていた妄想だったのか?

 世界が一瞬にして変容し、それに気づいているのは自分だけというシチュエーションはSFで時たま見かける設定ではあるが、なかなかにサスペンスフルである。

 
 さて普通の女の子になってしまった長門である。この世界の彼女にとってはあきらかにおかしなことを口走るキョン、しかし気の弱いはずの彼女は特に脅えることもなく、そればかりかキョンを自宅に招く。

 その家はキョンの知るとおり駅前のマンションの708号室、そしてやはり一人暮らし、おなじように殺風景な部屋。

 そこで聞いた話によれば。その年の5月、市立図書館において図書カードの作り方がわからず困っていた彼女を見かね替わりに手続きしてくれた男子高校生が居たのだという、それがキョンだった、だから初対面ではないと言う。

 確かにキョンは「以前の」長門にカードを作ってあげたことがある、しかしそれはSOS団の活動『不思議探索パトロール』の一環であり、長門を図書館に連れていったのは自分だった。
 親しい人がキョンの前から消え、あるいはキョンについての記憶を失っているこの世界で、なぜこの長門だけがズレのある記憶を持っているのだろうか?

 学校で居場所のないキョンは帰り際「明日も部室へ行っていいか?」と聞く。

 長門はキョンをじっと見つめ、かすかに微笑む。

 ここで「おお!」と思わない奴はハルヒシリーズのファンではない。
 アニメで(TV版がすでに28話が公開されているが)長門が笑顔を見せるのは初めてなのだ(長門が退屈そうにしている、などとキョンが言うことはある、しかしそれは視聴者たる我々にわからない、見た目も変わらない、なにしろそれは「キョンにしかわからない事」なのだ)

 このかすかな微笑み。

 引っ込み思案な女の子が勇気を振り絞り、自分の想いのほんのかけらを伝えた相手、その相手がほんのちょっとだけ答えてくれた時の喜び。
 「これ以上でもなくこれ以下でもない」感情表現が実に見事で、私はこの時点で「これは観る価値があった」と確信したのである


 この映画、起こっていることは驚天動地の大事件なのだが、絵づらとして派手なものは何もない。
 レーザー光線が燦めく宇宙戦闘もなければ、ビルの谷間で激突するロボットも無く、大空を自由に駈けめぐるヒーローもいない。

 舞台は学校の教室や、マンションの一室、街の一角、そこにあるのは精緻で微妙な芝居、感情表現だけなのだ。

 考えてみてほしい。

 物静かな文学少女が、誰もいない文芸部室で本を読んでいると突然男子が飛び込んでくる。その人は昔図書館で親切にしてくれた人、彼女がかすかな好意を抱きつづけてきた相手だった。

 しかしその人は彼女を誰かと間違えているらしい、つじつまの合わないことをさんざん言いまくったあと、何故か絶望し、彼女への興味も失ってしまったようだ。

 彼が去ったらもう会えないかもしれない、彼女は勇気を振り絞って彼に文芸部の入部届けを手渡す、でも何も言えない。

 このお芝居、感情表現の微妙な起伏がどれだけデリケートかということだ。

 そして次の日、彼はまた部室に来てくれた、でも入部してくれるつもりはないようだ。 帰り道、思い切って自宅に誘う、そこで図書館の事を話す、でも悲しいことに彼は覚えていないらしい。

 彼は帰ろうとしている、晩ご飯を食べていって欲しいと言おうとするがとても言い出せない、思わず彼の袖をつまんでしまう、どうやら気を変えて晩ご飯を一緒に食べてくれる、食べ終わった彼は帰ろうとする、玄関まで見送る、何を言っていいのかわからない、でも彼は「「明日も部室へ行っていいか?」と言ってくれる。

 微かな微笑み。

 これを実写で演じられる役者がどれだけ居るだろうか?


左:対有機生命体コンタクト用インターフェイス長門
右:文学少女長門

 さて、このあたりでぶっちゃけるが(想像がつくかもしれないが)
 これは『エラーの蓄積によって引き起こされた異常動作』によって長門がおこなった世界改変なのである。

 そのエラーの正体が本来あるはずのない『感情』であることはやがてキョンも気づくが、鈍感な彼にはその訳が理解できていない。

 ハルヒと古泉を遠ざけ、朝比奈みくるの記憶を消したのは何故か。
 自分自身に偽の記憶を植え付け、キョンが必ず来るであろう文芸部で待っていたのは何故か。
 それは宇宙人によって作られたアンドロイドではなく、ハルヒの監視役でもなく、ただの普通の高校生としてキョンと出会いたかった、という長門の願いの現実化なのだ。

 つまりこれは時空を股にかけた壮大なラブコールなのである。
 つまり「入部届け」はラブレターなのだ。

 だから、キョンが元の世界の戻ることを選び、長門に入部届けを返したとき受け取る彼女の指先は震えているのだ。
 
 どこぞの映画評論家が「実写でも見ないほどの感情表現」と述べていたがまったくそのとおりである。

 私は長いこと「ドンパチは、アニメに向いているよなあ、描きさえすればいいんだから」と思っていたのだがそれは考えが浅かったようだ。
 アニメはむしろ感情表現にこそ真価を発揮するのかもしれない。

 つまり、実写でやろうとすると、監督が頭の中で「こんな風な微笑」とイメージしても、それを役者が完全に演じきれるとは限らない(というか100%イメージどおりなんて無理)
 だから狙いに近ければOKしていくしかない、しかしアニメなら追い込んでいけるわけだ。

 それは才能ある演出家と腕の立つアニメーターが居れば、という大前提があった上での話だが、実写映画であればどうしても入り込むブレやノイズを排した、理想に近いお芝居が見せられるということだ。

 この「理想に近い」というのは登場人物の芝居に限ったことではない。
 たとえば天候である、この映画は異常事態に巻き込まれたキョンのわずか数日の出来事を描いたものだが、キョンが右往左往する街、背景たる街の冷え切った空気が画面から伝わってくる。

 鉛色の空、コントラストのない町並み、アスファルトに影落とさない人々、など冬のひと日はこうあるべき、と演出家が思ったとおりの絵づくりが可能になるのだ。

 雨が降ってもなかなか中止にならない実写映画では天気待ち、それも曇り待ちなど出来るものではない、それが演出上必要と思ってもだ。

 派手なイベントもなく、登場人物たちがキチンとお芝居をすることだけが見せ場な映画。
 目を見張る絵はないが、お話が進んでいく上で過不足のない情景描写。

 理想にかなり近い映画、それが今作である。

 
 見るべし! と言いたいところだが言えない。
 登場人物の背景説明などなく、前作よりの続き、という扱いで始まるこれは万人向けの映画では全然ないからだ。

 見るつもりのあるファンならとっくに見ているだろう、まあ、DVDになってからでいいやと思っている人間が居るなら、劇場に走れというくらいである。

 惜しいことだ。
 

 




 この作品はアカデミー賞に9部門でノミネートされ、おなじく9部門でノミネートされていたアバターと一騎打ちと言われていたわけだが、作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞、音響編集賞、録音賞を受賞し、撮影賞、美術賞、視覚効果賞の3部門に終わったアバターに圧勝した。
 私はそれまでこんな映画があったことさえ認識しておらず、当然どんな映画かも知らなかったので、これはしたりと観に行ったのだった。




 これはいまだ戦闘行為が持続し内戦状態とさえ言ってよいイラク国内で爆弾処理をするアメリカ軍の1チームのお話である。
 
 ま、賞取っただけあって面白いし良くできた映画ではあるのだが、この良くできたというあたりにひっかかるものもあるのだった。


 さてところで、映画には「爆弾もの」とでもいうべきジャンルがある「ジャガーノート」「ブローンアウェイ」などがその代表的な傑作だが(爆弾処理の最後で赤と青のコードのどちらを切るべきか、というサスペンスはジャガーノートをもって嚆矢とする。あきらかに「こっち」な方が実はトラップというのは〜名探偵コナンでもやっていたが〜それもこの映画が初出であろう)

 いつ爆発するかわからない爆弾とそのすぐそばで解体作業をおこなう主人公というのはハラハラドキドキがウリの娯楽映画として王道ともいうべきシチュエーションである。  言ってみれば観客席という安全地帯にあって手軽に死の危険を味わえるという、怖い物見たさを満足させるエンターティメントなのだ。

 これはフリーフォール系の絶叫マシンが管理された危険を味わう乗り物であるのと同じ構造の娯楽だろう、つまりこれをいい悪い言うのは筋違いなのだ。

 なのだが。
 
 爆弾映画の冒頭にはその爆弾がいかに危険なものであるか(よって後半主人公がどんな危険な目にあっているか)を説明するために、無辜の民が爆発で吹き飛ばされるシーンが必須だったりする。
 つまりこういう映画を好んで観るということは「人が爆弾で死ぬシーンを喜んで見る」ことでもあるわけだ。
 これに抵抗を持つ人はそもそもそういう映画を観にいかないだろうが、抵抗を持つ人がこれらを趣味の悪い映画であると評し、面白いと言う人を倫理感に欠ける人間であると非難する可能性はある。
 
 (私はこれに反駁する理屈を持ち合わせているが、言われて嬉しいわけではない)

 
 この映画も爆弾映画であるからにはまったく同じ構成を取っているわけで「つかみはOK」とばかりに冒頭いきなりメンバー1人が爆死し、更に中押しで2人が爆死する。

 しかしこれを怖い物見たさとか、俗受けするエンターティメントであるなどと「言うわけにはいかない」なぜならこれは「戦争の恐怖と狂気を描いた問題作」であり「現代アメリカの病巣をするどくえぐる社会派映画」であるからだ。

 舞台がバクダットなら、人が爆弾で死んでも「考えさせられる」ものになり、架空の街なら倫理的に問題のある作品になるのはおかしなものなのだが、そこが「良くできている」ということだ。

 つまりこれは爆弾映画であり、爆弾映画としてのエンターティメント性を充分に持ちながら批判を封じ、更には1段(2〜3段?)上の高尚さを装ったうまい作りであると(意地悪く)見えてしまったわけだ。



 とはいえこれは私がエンターティメント至上主義で、一点の曇りもない娯楽大作(?)が好きで、社会性とか、テーマ性が盛り込まれた映画は斜に構えて観る癖があるため気になっただけで、映画の立ち位置が映画そのものの価値とは無関係であることは言うまでもない。

 しかし・・と以下に続くのが映画そのものへの感想である。

 この映画、観て気になるのが完全なアメリカ視点であるということだ。
 テーマは自分の父が夫が兄弟が(まあ女性隊員も居るのだが第一戦には居ない)異邦の地の異民族の住む街で、異教徒の為に命を賭けている、なんたる悲劇、なんたる狂気、という映画なのだが。

 「世界平和の為その犠牲に耐えている善きアメリカ市民」という意識が横溢しているのだ。あたりまえだがこれは戦争であって、二元論的な善悪があるわけもなく、加害者と被害者が存在するわけもない。

 私は観ていて「ブラックホークダウン」を思い出した。
 同じことを書くのも面倒なので引用しよう。


 劇中、勇敢なアメリカ兵に射的の的のように撃ち倒されていくるソマリア民兵にもそれぞれ家族があり仲間があり、個々の事情があるはずなのですがそれはまったく、驚くべき冷淡さでもって切り捨てられています、このあたりは古き良き西部劇のインディアンとまったく同じ扱いです。

 私は一般的な日本人としてイスラム教徒であるソマリ族よりもアメリカ人にシンパシーを感じるのですが、アメリカ人が無事なら「あとはどうでもいい」というほどには肩入れ出来ません、アメリカ兵1人が死ぬシーンを情感たっぷりに描かれると、さっきおまえらは機関銃で何十人と相手をなぎ払っていたじゃないか、お互い様だよ、と思ってしまうわけです。

 というかこの戦闘でアメリカ兵は19人が死亡するのですが、対するソマリ族側は1000人以上が死亡(!)しているのです。
 収支はプラスでしょう・・なんていっちゃいけないんでしょうが、「この戦闘でアメリカ側に大きな損害が出た」=「悲劇だ」という風な扱いでは、両者を俯瞰して見る視点がまったく欠けているとしか言いようはありません。
SCRIPTSHEET 2002年より


 ということだ。

 今回も、大量破壊兵器の脅威を口実に開戦し、大量破壊兵器が存在しないことがあきらかになっても戦争を継続したのは他でもなくアメリカなのだ。
 爆弾を仕掛ける側と処理する側が出来てしまったことについてもアメリカは責任の一端を担う立場にある。
 善きアメリカ市民がイスラム教徒の国で戦うハメになったのは自分自身の選択によるものなのだ.。「狂気」はいいとしても、この状況を「悲劇」扱いってどうなの?と思わざるを得ない。

  映画では「任務終了まであと○日」と何度も画面に表示されるのだが、これも能天気な話である。自分の国が戦場と化しているイラクの市民はいくら時が流れても休暇や帰国が許されるわけではないのだ。

 結局これはアメリカ人によるアメリカ人の為の戦争映画なのである。



 ここで考えさせるのがアカデミー賞についてだ。
 この賞はあまりに有名で権威があり、そこで選出された映画は世界的に、普遍的に価値のある作品であるように思ってしまうが(たいていの場合そうなのだが)このようにネタがドメスティックなものである場合、その評価を他国が日本が無批判に受け入れるのはまずいこともあるということだ。

 (アカデミー賞はアメリカの賞なのであって、普遍的な価値を考慮しなければならない義理はないとも言えるのだが、これだけ影響力のある賞を運営している以上、そこは考慮の内に入れるべきものだと思う)

 もちろん投票した人々は、ちゃんと公正で公平な視点から選んでいるのだろうが、その価値観がアメリカ人としての価値観であるということまで意識していないということだろう。
 




森雅裕


 森雅裕は1985年『画狂人ラプソディ』で横溝正史ミステリ大賞の佳作を、『モーツァルトは子守唄を歌わない』で回江戸川乱歩賞を受賞したミステリー作家(?)である。

 (ちなみにこの江戸川乱歩賞は2名が同時受賞したのだが、その片方は今をときめく東野圭吾である)

 作品に共通するのが、真摯に生き他人に誠実であろうとするあまりに、周囲と衝突し結果自分も他人も傷つけてしまうという不器用な生き方をする主人公である。
 ミステリー仕立てにはなっているものの、読めば胸の痛くなるような青春小説でもある独特の世界観に熱狂的なファンは多い。

 しかし、森雅裕はこの10年間絶えて新作を発表しなかった。また、過去の本もそのほとんどが絶版になり書店で見ることもない。

 なぜか。

 彼の小説の主人公、不器用で誠実で頑な男、それはきっと本人そのものなのだろうなあ、という大方の想像通り、どうやら森雅裕本人も不器用で誠実で頑な男らしく、本を発表するたびにその出版社と喧嘩別れをして(角川>講談社>中央公論>新潮>集英社)ついには業界から乾されてしまったらしいのだ。

 時に編集者とうまくいかない作家も居るだろうが、こう連続して喧嘩別れを繰り返すのを見るとその偏屈さは相当なものなのだろう。
 しかし一方『モーツァルトは子守唄を歌わない』は江戸川乱歩賞全集に収録されていない。 「著者本人の意向」と説明されているが、実は当人に交渉もしていないというのだから講談社も大人げない(読者への責任より作者への遺恨を重視したとしか思えない行為である)

 
 さて、そのように乾された氏が何をしていたかというと、要するに食い詰めていたらしい。
 一週間食うや食わずやとか、『電車にでも飛び込める』気がしながらもあと一歩が踏み出せないでいたら駅員に声をかけられたとか書いてあるのでこれは相当なものだったのだろう。

 そしてビデオ屋や清掃員などに応募して不採用が続いていた『ホームレス同然』な筆者は近所のコンビニの求人に応募し採用されたと言うわけだ。

 そのコンビニが『MニSトップ高砂店(←筆者曰く、正式名称ではない)』
 表題の「高砂コンビニ奮闘記」となるのである。

 求人状況きびしい中、なぜにこのコンビニが筆者を採用したのかといえば圧倒的に人手不足だったからで、なぜに人手不足になるのかというとどうやらこの店が客種が悪く、ガラが悪いので有名だったかららしい。

客に不良、チンピラ、ヤクザが多く
レジで待たされて商品を投げる
客同士で足を踏んだと言って喧嘩
従業員の挨拶の仕方が悪いといって怒鳴る、は珍しくなく

中学生が店内で消火器を噴射して店を真っ白にしたり
トイレにペーパーが無かったのでパンツで拭いた、パンツ代を弁償しろというクレーマーが居たり
バイクを正面扉前に止めるので「すみませんどちらかに寄せてもらえますか」と言うも無視、止め方が悪くてそのバイクが転倒、バックミラーが壊れるや弁償を要求してきて、断ると「殺すぞ、コラ」と脅迫する奴が居たり
 
1万円を100円玉に両替することを要求し、コピー機に必要だからと言うので2000円分を両替すると、そのまま出口に直行する客が居たり

酒の肴であるアタリメを間違えて買ったからと交換を要求し、間違って買ったほうは「空けちゃったから食った」と言う客が居たり

ゆうパックにはサイズ制限があるのに「中で寝られるんじゃないかというような巨大な荷物」を持ち込み、拒否すると「こんなの持って帰れというのかこのヤロー!」と怒鳴る客が居たりするというのだから尋常ではない。

 特に深夜は一日のストレス解消とばかりに従業員に因縁をつけてくる客が多く、月に1,2度の110番通報が当たり前で
 『客が近づいてきたら私は背中を向けなかった、むろん、応対のためではなく、襲われないようにである』(筆者談)というのまで読むと、コンビニとはこんなにも無法地帯だったのか!と唖然とせざるを得ない。

 (というか、近所のコンビニがここまで荒れているようには思えないので、要するに客層が悪いのだろう、どうなっているのか高砂?)


 そしてここがある意味肝心なところだと思うのだが、コンビニの本部はフランチャイズのオーナーを見下し、オーナーはバイトを見下しているという構造がある。
 本部もオーナーもバイトは使い捨てと考えているので、キチンと教育するつもりがなく、クレームに対処する方法も教えない、バイトが理不尽に怒鳴られ、ののしられていても見ぬフリであり、トラブルになればただ一方的に客に謝ることを強要する。
(本部から来るマネージャーは、研修中の店長候補生に「バイトの話相手になるな」と教えているというのだから恐れ入る)
 これで人心がすさまない筈はない。

 要するにコンビニのバイトは、客からも店からも最低の扱いを受ける(受けて当然と思われている)社会の底辺の職業なのである。



 ところで本書から離れた話になるが、先日近所のコンビニ(森雅裕風に言えば、SブンEレブン)に行ったところ、レジで先に並んでいた主婦は携帯を使用しつつ会計をしていた。
 携帯を手で持たず首をねじって肩で携帯を押さえているため、店員と目を合わさず、電話の相手と会話を続けているので店員とのやりとりも一切ない。
 カウンターの向こうにいるのが人間であるという意識など無く、自販機で買い物をしているのと同様の態度である。
 他のどのような店舗でもこれは無いと思うのだが、これがアリと思えてしまうあたりがコンビニなのだろう。
 

 さて、このような劣悪な環境で仕事をするようになった場合、多くの人間は心を閉ざしてしまうと思う。
 つまり、お金のために自分の時間を切り売りしているのだと思い、要求された最低限の仕事をこなし、客は動物だと思って何を言われてもやり過ごす。
 ナイーブに反発したり、筋を通そうとしたりすれば心身をすり減らしてしまうので そうやって身を守るわけだ。
 
 と・こ・ろ・が、森雅裕はそうではない。

 清掃中だというのに無理矢理トイレに押し入ってきた婦人には「礼ぐらい言ってください」と言う。
 理不尽なクレーマーには「店員も人間です、いわれなき非難を浴びる筋合いはありません」と切り返す。

 『敵が暴れようものなら、こちらはレジ・カウンターに飛び上がり、顔面に蹴りを入れる』シミュレーションをする一方で

 ケーキ用のローソクは扱っていないが、聞かれることが何度があったので、次の機会にはサービスしてあげようと、破棄するクリスマスケーキからローソクだけ抜いて取っておくなど頼まれもしない気働きをする(本部やマネージャーにしれたら叱責ものだろう)
 
 また、開店以来洗っていない(!)というポットを一人洗ったり、廃棄するフライ用の油は熱くて危険なので夜勤の相棒にやらせないよう自分でさっさとやってしまう、など仕事や同僚に対して常に誠実であろうという態度を貫いている。

 殴られそうになったら渾身のクロスカウンターを見舞ってやろう(!)と考えるあたりは物騒極まりないが、逆に言えば森雅裕はカウンターの向こう側に居る人間を同じ人間だと思っているのである。

 これは、店と客からどのように扱われようと、自分は同じ場所まで落ちることはせず、正面から向き合い、人間として出来るだけの事をするのだという矜持であろう。

 
 If I wasn't hard,I wouldn't be alive.
 If I couldn't ever be gentle,I wouldn't deserve to be alive.
 
 強くなければ生きられない
 優しくなければ生きる資格がない
 
 byレイモンド・チャンドラー

 
 ということだ。

 しかも森雅裕は自分だけでなく、他人にも「人として正しい生き方」を強要する。
 小説の登場人物であるフィリップ・マーロウならいざしらず、現代日本の生身の人間ではさぞ生きにくいだろう。

 「チャンドラーも裸足で逃げ出す森雅裕の小説の個性的な登場人物」という評を見たことがあるが登場人物どころではない、要するに本人が生けるハードボイルドなのだ。

 (映画好きな人にはリアル・タクシードライバー、と言うほうがピンと来るかもしれない、イエローキャブに乗り、深夜のニューヨークを流し、社会の底辺を生きるタクシードライバーと深夜勤務のコンビニ店員は同類なのだ)

 
 外形的には潜入取材による業界内輪ものに近いのだが(オビにもそういう軽いノリの文言が書かれていて、あー今や森雅裕というだけではウリにならないのね、と思わざるを得ないのだが)
 この本からは人生でリアル・ハードボイルドを実践する男の悲しみが伝わってくる。
 これは森雅裕でなくては書けない。


 




 敗走する仲間たち、迫り来る敵、追いつかれる、もうダメだ、その時主人公は敵の前に立ちはだかりこう叫ぶ。

「俺にかまわず先に行け!」

 アクション物によくあるシーンだ、いったいに彼はどんな人間なのだろうか?

 勇気に満ちている? それとも自己犠牲の精神にあふれているのか?
 いずれにせよ「普通」の人間には出来ない崇高な行為を苦もなく行う彼は英雄なのだろう。

 
 というところでこの映画の話に移る。

 南アフリカはヨハネスブルグ上空に現れた巨大宇宙船。どのような先進文明との邂逅が待ち受けているのかと思いきや、なぜか乗っていたのは知能低く野蛮な宇宙人のみ、しかもそれが数万人。

 宇宙船は故障しているらしいが彼らには宇宙船を修理する能力もない、仕方なく南アフリカは第9地区という難民キャンプに彼らを収容するのだが、そこはあっという間にスラム化してしまった。

 犯罪行為の絶えない宇宙人に対する市民の怒りの声に、第9地区を管理する機関はキャンプを砂漠地帯に移動させる計画を実施する。

 この計画の責任者がこの映画の主人公である。彼は典型的な小役人であり出世だけが人生の大事、上司の言うことには逆らえず、難民である宇宙人にはまったくの無関心、彼らをうまく丸め込んで無事仕事を終えることしか考えていない。

 つまりはあなたや私のような、その友人達のような、どこにでもいる、「普通」の人間なのだ。

 そんな彼はちょっとしてアクシデントにより自分の組織からはじき出されてしまう。

 組織の中に居て初めてそれなりの「扱い」を受けていた彼は、あっという間に難民以下の扱いとなり、そればかりか、もと居た組織、難民キャンプに巣くうギャングの双方から命を狙われるハメになる。

 しかし彼は自分を助けてくれる誰かを待ち続ける、長くぬるま湯の中に居た彼は、自分の危機は誰かが助けてくれるべきものであり、そうなる筈だと信じているのだ。

 しかしどこからも助けはこない。冷たい世間を、上司を、妻を恨んでも事態に何の変わりもなく、危機はますます身に迫る。

 彼はついに武器を持って立ち上がるのだが、それとて耐えに耐えてきたランボーがついに怒りを爆発させる、などという英雄的な行為ではなくまさしく窮鼠がネコを噛むがごとき絶望的な行動なのだ。

 しかし行動することによって彼は重要なことに気がついていく、それは自分の命、自分の誇りを守れるのは自分だけだということ、そしてやがてもっと重要なことにも気づく、たとえ他人を見捨てて自分の命を救っても、自分の誇りは守られないのだということだ。

 あくまで「普通」の人間であった彼は映画のラストで、追いすがる組織の前にたちふさがり、恐怖のあまりに泣きながら、長らく人間以下と信じていた宇宙人達に向かってこう叫ぶ。

「俺にかまわず先に行け!」

 私はこのセリフがこんなにカッコよく叫ばれたシーンを見たことが無い。


 







 昔むかしシムシティというゲームがあった20年以上昔の話である(←第1作目の話だ)

 起動すると平面のマップが表示されるだけのシンプルな画面、プレイヤーはそこの市長となって土地を開発し人口を増やしていくゲームだ。

 ゲームに明確な終了はない、とりあえずメガシティ(人口50万人以上)を目指そうという目標はあるが、基本的には豊かで安全な街を作り、安定して維持しつづけるのが目的である。

 市長であるプレイヤーだが実は出来ることは限られている。実際のところ、道路を作ること、鉄道を走らせること、電気を送ることしか出来ない、つまりインフラ整備である。

 街が住みやすければひとりでに市民が街に住みはじめ家を作り始める、市民が増えれば税収があがり新たな社会基盤を整備することが出来るわけだが、なかなかこれが難しい。
 つまり道路を作るにも鉄道を引くにもお金がかかるわけで、市長は予算をどう配分して街を整備するか考えなくてはならないからだ。
 しかも市民は贅沢で勝手で予算も政策も理解しない。

 たとえば電気が来ていない地区は人が居着かない、電気を供給するためには発電所を作らねばならない。
 しかし火力発電所は広大な敷地が必要なうえ、煙突から煙がモクモク出ているため周囲の環境が悪化し、その近くに市民は住みたがらない、土地は限られているわけだから、街の発展の障害になるわけだ(ので発電所はマップのはじっこ、コーナーに作るのがコツだ、それなら周囲2方向しか損しないからだ)

 人口が増えると電力が足りなくなり、街に停電が発生するようになる、あまり頻繁に停電が起こると人口が減り始めるので、あらたな発電所の建設が必要になる、しかし発電所を作れば作ったで、その周辺から人はいなくなる。う〜ん

 しまいには私は(市長は)原子力発電所を作ろうと思い始める、原発は環境悪化もなく、コンパクトで電気の供給量はほぼ無限、街に一個あれば電力不足することはない、なんて素晴らしい文明の利器、いいじゃないかたまにしかメルトダウンしないんだから・・・・



 さて、このゲームは難しく言うとセル・オートマトンを利用したゲームということになる。セル・オートマトンとは環境を設定しあとは自動的に生物の死滅や進化をシミュレートするプログラムといったものだ(代表的なものにライフゲームがある)

 つまり市長は環境を作るだけであとは一定の法則によって生物(市民)が増減するという仕組みだ。

 ところでしかしこのゲーム第一作だけあって、若干のバグが存在した(ゲームメーカーに言わせればバグではなく仕様というのだろうが)

 その最たるものが税収である、市長は市民から徴収する税率を決定することが出来る。高くすれば予算が増えインフラ整備が進むが、高すぎれば人口の伸びが悪い、もっと高くすれば市民は逃げだして人口は減る。

 「えーいお前達、予算がないと消防署作れないんだ、消防署が各所にないと火事が起きたとき一区画が灰になってしまうんだぞ、文句いうな、てか火事出すな!」と市長は吠えるわけだが、市民は聞く耳を持たない、ああノブレスオブリージュってわけだが、そこに穴あった。

 税金の徴収日は12月31日の0時、そのときの税率で1月1日からの予算が確保されるが、税率はいつでも変更可能だ、そして市民は日々の税率で住みやすさを判断している(・・らしい。内部処理なのでプレイヤーにはわからないがたぶんそうだ)
 
 どうするかと言うと、1月1日から12月30日までは税金を低率にする、と市民はここは住みやすい街だと思って人口が増える。
 そして31日に税率を最大にあげその0時に莫大な税収を得る、1日経ったら税率を下げる、たった1日ではそう人口に変動は出ないという仕掛けだ、朝三暮四とはこのことである、民は寄らしむべし知らしむべからず。これはたしかにバグではなく現実世界のシミュレートなのかもしれない。

 ついで、以下のような技も存在した。

 市長のやることはインフラ整備であると先に言った、なんのインフラもない土地には誰も住まないのだ。

 しかし、たとい電気が来ていなくとも道路さえあれば住みつく市民は居る、このへんはさすがにヤンキーの考えたゲームらしいわけだ。だから市長としてはとりあえず未開の土地に道路だけは引く。
 
 さて、このゲーム最初に表示されるマップ(あなたの土地)はランダム生成だ、周囲に海があるのが普通だが、時に海に小島が浮かんでいることもある、道路(1ブロックずつ敷設していく、幅長さともに10メートルくらいな感じだろうか)のサイズから見て差し渡し20メートルしかなさそうな小島であることもある。

 当然道路を作っても(道路ブロックが1個置けるだけ)どこにもいけない、しかしここの市民は「道路に面している土地=住みやすい土地」と思い込んでいるらしく、それでも家を作る、で車を買う(ちっこい車アイコンが1ブロックしかない道路に現れる)普通、車は道路を走りまわっているのだが、この車は動かない(動けない)
 アホじゃ〜(笑)というのが、当時のゲーマーのツボだったのだが・・・・


 20年後、2010年、私はとんでもないものを家の近くで目撃してしまった!





リアル・シムシティ!  市長は笑っているのだろうか?


 





 命に関わる危機的状況に陥った時、人がどういう行動を取るか(取ってしまうのか)それはなぜなのか、助かるためにはどうしたらいいのか。

 更にはそういったクリティカルな状況に身をさらした人間が陥るPTSD(心的外傷後ストレス障害)は、脳に器質的なダメージを与えているかどうかの研究結果など、きわめて有用な解説書である。

 9.11の際、ワールドトレードセンターの中では多くの人が避難勧告を受けながら「自分が避難できない理由」を挙げては避難しようとしなかった(ので死んでしまった)などと聞くとこれは読むべし!と思うのだが・・読んだのだが、どうにも頭に入らない。

 なぜと言えば、翻訳がはげしくマズイからだ。


 洋画の吹き替えがうまくいっているとそれをまったく意識させない。
 劇中人物が普通に日本語をしゃべっているように見え、別人がアテているなどと意識させることはない。
 アニメも同様で、彼ら2次元世界の人物が意志を持って実際に話しているように見える(最近のジブリのように話題作りで有名タレントを用いると、時にそれが乖離することがある)

 小説の翻訳も同じで、通常それが翻訳ものであることを意識することは少ない、「少ない」であって「無い」ではないのは長い小説の場合、その全編を通じてすべてまったく一語の間違いもなく自然であることは難しいからだ、まあこれはセンスの問題もあるから訳者が間違っているとばかりも言えないのだが。

 ともあれ「ひっかかる」ことは希であるのが普通だ、ところがこの本は全編ひっかかりまくりなのだ、あんまりひっかかるので言っていることが一発で理解できないことすらある。

 たとえば

「予想どおりであろうが、心的外傷ストレス障害のある人たちは、障害のない人々とはずいぶん異なった振る舞いをした。心的外傷ストレス障害のある復員軍人たちは、そうでない人よりも神経過敏になっていた」
という文があるのだが。

 わずか3行の間に「障害」という言葉が3回も出る、また「心的外傷ストレス障害」というなめらかでない言葉も2回出る、それも最初は「心的外傷ストレス障害のある人たち」であるのに2回目はなぜか「心的外傷ストレス障害のある復員軍人たち」である。

 「なぜか」と言うなら、原文がそうなっていたので忠実に訳したのだろうが、これでは機械翻訳である。

 ヘタだなあと思っていると数頁あとに再び。
「心的外傷ストレス障害にかかった復員軍人を含む双子の組は、障害にかかっていない復員軍人を含む双子の組よりも小さな海馬を持っていた」と来る。

 関係代名詞を知らんのか!

 というか

「心的外傷ストレス障害にかかった復員軍人を含む双子の組は、障害にかかっていない組よりも小さな海馬を持っていた」でいいじゃないか

 というか

 この文は「Aは、Bより小さな海馬を持っていた」というきわめて重要なことを言っているのだが。
 
 この文章の「主語」たるA、Bが<心的外傷ストレス障害にかかった復員軍人を含む双子の組> と <障害にかかっていない復員軍人を含む双子の組>という「文」によって構成されているためきわめてわかりずらい。

 これを係り受けの関係が入れ子になっていると言う。

 これが
「Cを含む双子の組は Cを含まない双子の組より、小さな海馬を持っていた」

 といったシンプルな構造であればまだ話が見えやすいのだが、この場合そのCが「心的外傷ストレス障害にかかった復員軍人」という別な係り受けになっているので、3段の入れ子構造になっているのだ。

 こういう文にいきあたると読者は読み進むにあたって、かかり受けの関係を頭の一時記憶領域に順次スタックして行かねばならず、文の構造解析だけで脳の処理能力を消費してしまう。


 こういった複雑な入れ子構造は随所にあって。

 「パンアメリカン航空ボーイング747は、時速二百六十キロで霧の中から突進してきたKLMオランダ航空の同型機に警告もなく機体を切り裂かれた」

 という文章もある。

 この文の主意は「パンアメリカン航空ボーイング747は、kLMオランダ航空の同型機に切り裂かれた」である。

 ところがその文章中に「KLMオランダ航空>時速二百六十キロで突進してきた」という情報を入れ、更にその文の中で「突進>霧の中から」という情報まで入れる。

 ついで「パンアメリカン航空ボーイング747が切り裂かれたのは機体」であると言い、更には「切り裂かれた>警告もなく」と形容するというおまけ付きである。
 
 
 原文がどうだったか知らんが整理しろよ! と、思う。

 まあ、この文章などは整理と言ってもそうとうに手を加えないといけなさそうであるわけだが。
 
 この文に続いて。

「立ち上がって炎に包まれた飛行機から脱出した乗客は、生き延びることができたのだ」
 とくると「はぁ?」と言わざるを得ない。

 「立ち上がって炎に包まれた飛行機」って何って感じである。

 これは
 「ある種の乗客は生き延びることが出来た」
 「どんな乗客?」「脱出した乗客」
 「どうやって脱出?」「立ち上がって」
 「どこから立ち上がって?」「炎に包まれた飛行機から」

 という本書特有の入れ子構造がわずか1文の中に無駄なく詰め込まれている好例である こんなのは何とかなるだろう、と思わざるを得ない。

(更にそもそも論を言うなら「立ち上がる」のは座席からであって「炎に包まれた飛行機から」ではない、原文の単語はともかくそのへんは違和感なく訳してよいのではないか)

 などなどでともかく読めない、読んだけど。
 
 「文の構造解析だけで脳の処理能力を消費して」頭に入らないと言うべきだろうか。

 
 とまれ、あ〜普段から当たり前のように読んでいる一流の出版社の翻訳小説ってさすがなのね、と思わせるだけが取り柄であった本書は当然のごとくにお勧めしない(と、入れ子構造全開で書いてみたりする)
  

 


嗤う伊右衛門
覗き小平次
数えずの井戸

京極夏彦

岡本綺堂戯曲選集
岡本綺堂

番町皿屋敷
四代目旭堂南陵






 京極の新作「数えずの井戸」が出たというのでさっそくに買ってきた。
 ご存じ「番町皿屋敷」・・いちま〜い、にま〜い・・をベースにした新解釈怪談話の第3弾である。

 さっそくに読もうと思ったが思い直した、前作の「覗き小平次」で失敗したからである。

 このシリーズの第一作である「嗤う伊右衛門」は面白かった、「四谷怪談」を大胆に翻案し伊右衛門とお岩のラブストーリーに仕立てた手際はなかなか見事であったからだ。

 そこで2作目「覗き小平次」は買って即読んでしまったのだが、これが失敗であったのだ、なぜなら「覗き小平次」のベースである「生きている小平次」がどんなお話であるか私はまるで知らなかったからだ。

 (怪談ベスト1といって良い「四谷怪談」と違い「生きている小平次」はずいぶとマニアックな選択である、私が知っていたのはこれが2度映画化されていること、中川信夫による2回目の映画「生きてゐる小平次」はなかなか傑作であるらしいということくらいであって、筋立てなどはまるきり知らなかったのだ)

 面白いには面白い、でもそれは元のお話からある面白さなのか、翻案の妙なのか、あるいはそもそもそれは京極の創作した面白さなのかわからない、というのはきわめて座りごごちの悪いものである。

 そもそも私は翻案、リメイク、パロディ、リスペクトをそれと知らずに語るのは恥ずかしいことだと思っている、ましてやその部分を初出と思い込み「オリジナリティ」を褒めてしまうようではお話にならない。
 
 これはたとえば、最近の若いもんがエヴァンゲリオンの各話タイトル『極太明朝のL字配置』をオリジナルと思っているようなものである。
 (思うだけならまだしも、リメイク「犬神家の一族」のタイトルロゴをエヴァのマネだと言い出す輩までいたりする、恥ずかしい)


        


 ということで、これはしまった、先に原典にあたるべきだったと思ったのだった(読む前に気づけという話もある)

 
 結局「生きている小平次」は後から読んでみることになった。

 これは元々は「小幡小平次」というネタで講談、歌舞伎に古くからあったものを大正13年、鈴木泉三郎が登場人物3人の3幕ものとして書き直したものであり、その簡潔にして印象深い語り口から新歌舞伎の中でも傑作の呼び名の高い作品である(らしい)

 お話は概略こういうものだ。

 第1幕・奥州郡山安積の沼。小舟の上で2人の男が釣りをしている。一人は旅の一座の役者木幡小平次、もう一人は太鼓打ちの那古太九カである。
 小平次は自分が太九カの女房おちかと密通していることを告げ、太九カにおちかと別れて欲しいと頼みこむ

 人の噂にも立ち2人の仲にとうに気づいていた太九カはこれを拒否するが、執拗に迫る小平次にかっとなり船板で小平次の頭を打って沼に落とす、血まみれで舟に這い上がろうとする小平次を太九カは何度となく打ち据え沼に沈めてしまう

 第2幕・江戸太九カの留守宅。夕暮れ、おちかがひとりで居るところへ傷だらけで死人のような顔色の小平次がよろよろと入ってくる。
 そしておちかのことで言い争いになり旅先の沼で太九カを殺してしまったと小平次はおちかに告げ一緒に逃げてくれと言う。

 2人が旅支度をしているところへ太九カが帰ってくる、太九カは生きていた小平次に驚き恐怖する、そしておちかはくれてやるから2人で出ていってくれと言う。しかしおちかは態度を翻し太九カと分かれたくないと言い、ついには太九カを唆して小平次を殺させてしまう。

 第3幕・どことも知れぬ街道沿い。深夜、疲れはてた太九カとおちかが一時足を休めている、2人は小平次殺しで追われもう3ヶ月逃げているのだ。

 もう一歩も歩けないと訴えるおちかに太九カは小平次を宿で見たと言う。
 あいつは生き返って恨みを晴らす隙を狙っている、だから深夜に出立して出し抜いたのだ、だから先を急がねばならないのだ。

 しかし、おちかは生き返ったのなら何度でも殺せばよいと言う。

 太九カはお前にそそのかされて俺は小平次を殺してしまった、お前は恐ろしい女だと言う。

 お前さんは安積の沼で私のせいではなく一度小平次を殺しかけているじゃないかとおちかは反論する。また小平次を殺さないとこっちが殺されてしまうとも言う


 小平次は殺してもきっと生き返る、殺されないためには逃げるしかないと太九カは言う。
 おちかが、小平次は私も殺す気かしら?と言うと、太九カは、俺が小平次に殺されたらお前は平気であいつの女房になりそうだと言う。


 もう2人の心は完全に離れてしまっているのだ。

 2人が言い合いをしながら舞台下手に消えていくと、闇の中から小平次のような男が現れとぼとぼと2人の後を追い、やがて闇に消える。

 というお話である。

 いったいに小平次は生きているのか死んでいるのか、どこから現実でどこからが2人の妄想なのか。

 怪談話と聞けば誰もが思うような、祟りの因縁の宿業のといった「おどろおどろしい」部分のない、いわば奇妙な話である。

 怖いと言うなら太九カという亭主が居ながら、小平次と浮気をし、亭主を殺したから一緒に逃げようというと付いてくるそぶりを見せながら、太九カが帰ってくるとその未練を利用して小平次を殺させるおちかが怖い。

 びびる太九カを叱咤して小平次を再度殺させようとしながら、最悪小平次は自分を殺すことはないだろうと計算しているあたりも恐ろしい。

 もし自分が殺されればお前は平然と小平次とくっつくだろうと言う太九カに「寒い、お前、しっかり抱いておくれでないか」と言うあたりも怖いし。

 太九カの「いやだ、おれはいやだ、お前との間に、どうも誰かいるような気がしてならねえ。お前を抱くつもりで、その、変なやつを抱いてしまうような気がする」という台詞もぞっとする。

 要するに頗る現代的であり、舞台を代えればこれはリチャード・マシスンがトワイライトゾーンのために書き下ろしたシナリオと言っても通りそうな代物である(小平次が去ったあと、カメラがパンをするとそこにロッド・サーリングが奇妙な笑顔を浮かべて立っていて「あの2人はどこまで逃げても小平次から逃げ切ることは出来ません、なぜなら彼らはすでにトワイライトゾーンの住人だからです」と言うのである)

 シンプルで力強く奇妙でありながら心に残る。
 較べて「覗き小平次」は因縁の宿業のといった「おどろおどろしい」部分がてんこ盛りなのだ、とにかく小平次周辺の人間は全員因縁付きの関係者であったという過剰サービスであり、小平次という触媒によって最後に一同に会した全員死ぬという大盤振る舞いであるのだ、おもしろすぎる。

 これは改悪である、ここまで翻案するなら−よく言われることだが−別に小平次である必要もなかったのではないだろうか?

 これなら原典のほうがずっと出来が良い。遡って元ネタを読んで評価は激変したのであった。
 「数えずの井戸」でこの轍を踏んではならない。


 とはいえしかし、番町皿屋敷は比較的知られているお話である、というか・・四谷怪談が膿み崩れて片目のふさがったお岩さんの衝撃的なヴィジュアルによって、皿屋敷は井戸から出て、皿を数えるという印象的なシチュエーションによって、怪談ベスト1・2の座を確保しているメジャーな怪談話である。

 つまりは「誰でも知っている」

 とはいえそれは本当なのだろうか?
 皆が私が知っているのは以下のようなお話だろう、つまり女中お菊は奉公先のお屋敷で家宝の皿を割り、殿様のお手討ちにあって井戸に投げ込まれる。以来夜となれば井戸の底からお菊が皿を数える声がする、いちま〜い、にま〜い・・一枚足りない、恨めしや。

 というものだ、しかしこれは本当のことなのだろうか、そもそも私はこれをどこで知った?

 歌舞伎で見た覚えはない、講談などそもそも聞いたことがない、思うにこれは小学生の頃、子供向け雑誌の「世界の妖怪、日本の幽霊」などという特集で「お化け博士」に「お菊さんという女中が家宝の皿を割って井戸に投げ込まれ、それから井戸の底から皿を数える声が聞こえてくるんじゃ」と教えてもらっただけなのではないだろうか?

 そしてその「解説」が実は要約しすぎたあげくにまるで違う話になっている、という可能性もあるのではないか?
 ということで番町皿屋敷を借りてきた。歌舞伎物として岡本綺堂、講談ものとして四代目旭堂南陵版である。

 そして岡本綺堂を読みびっくりした。

 怪談じゃない・・

 そもそも殿様こと青山播磨がいい男である、彼は同輩と共に白柄組というチーム(!)を作り、町奴で構成される敵対グループと喧嘩三昧で暮らしている。

 嫁でも取らせれば落ち着くかと伯母がさまざまに縁談を持ち込んでくるが彼は聞く耳を持たない、実は彼は腰元であるお菊と恋仲であり、お菊を娶るつもりであるからだ。

 しかし当のお菊は内心気が気でない、旗本直参の播磨と腰元の自分では身分違いも甚だしく、しかも(播磨にはそのつもりがないらしいが)大久保さまの娘との縁談もあると聞く、お殿様は黙って長い目でみておれと言うが、なんとか心のうちを確かめるすべはないものか・・

 というので割ればお手討ちという家宝の皿をわざと割ってしまう、そして「大切なお皿を損じましたは、わたくしが重々の不調法、どのようなお仕置きを受けましょうとも決してお恨みとは存じませぬ」と申し出る。

 お菊がうっかり皿を割ってしまったと思っている播磨は「たとい先祖伝来の皿とは申せ、鎧兜槍刀のたぐいとは違うて、しょせんは皿小鉢じゃ。私はさのみ惜しいとも思わぬ」と言う。
 まことに見事な男立て、いいキップである。

 しかしお菊が皿を割るところは別な腰元に見られていた、問い詰められたお菊は自分に対する播磨の心を知るためにわざと割ったことを白状する。

 すると播磨は「それ程までして我が心を試そうとはあまりといえば憎い奴。こりゃよく聞け。天下の旗本青山播磨が、恋には主家来の隔てなく、召仕えのそちと云い交わして、日本中の花と見るはわが宿の菊一輪と、弓矢八幡、律儀一方の三河武士がただ一と筋に思いつめて、白柄組のつきあいにも吉原へは一度も足踏みせず、丹前風呂でも女子のさかずきは手に取らず。かたき同士の町奴と三日喧嘩せぬ法もあれ、一夜でもそちの傍を離れまいと、かたい義理を守っているのが嘘や偽りでなることか」と激高し、菊を切り捨ててしまうのだ。

 そして「一生の恋をうしのうて、あたら男一匹これからは何をして生くる身ぞ。叔母御の御勘当受きようとままよ。八百八町を暴れあるいて毎日喧嘩商売。その手はじめに・・」と槍を担いで走り去ってしまうのだ。
 
 あっぱれというか、脳筋というか、要するに駆け引きする女と、純情バカの悲劇というのがこのお話である、まるで怪談ではない。

 皿屋敷とはこんな話でもあったのか?!と呆然としつつも講談本を読むとこれまたびっくりである。

 冒頭いきなり「そもそも徳川神祖家康公におかせられましては、千辛万苦の戦場を雨に浴し風に曝され給いながら往来をなして、ついに天下を一統して大事業をかためられ、武徳をもって千代田、宝田、祝い田鶴舞城に在しまして、六十余州の諸侯列藩を服従なさしめ給いしは、実に千古の昔より例しなき英傑でなければ出来難い事でございます」と説き起こす。
 なんのこっちゃと思っていると「行列の節、将軍家御左右を少しも離れ奉らぬ役柄である、書院番、小姓組、大番組、小十人組、徒組、この五役の面々を「五番衆」と称えました」となり、要するに「番町」という地名の謂われを説きあかしていく仕掛けなのであった。

 そして将軍家光公の御代に五番町の小姓組の屋敷五軒が召し上がれ、二千五百坪の更地になったところが、元の屋敷の持ち主吉田大善亮の名前から「吉田の更屋敷」と呼ばれるところとなり、それがいつのまにか皿屋敷と誤って伝えられるようになったという、思いがけない(「皿屋敷」の名は怪談とはなんの関わりもない名前であったという)展開を見せ。

 やがてそこには天寿院さまの御住居に進ぜられましたと続く、この天寿院さまというのは家光公の姉君にて、本多美濃守にお輿入れされるも程なく美濃守死去せしによって、後室となられ天寿院と名乗られることとなったお方である・・と言う。

 この天寿院さまが「天然の容色備わり美人にてまします由、しかれども淫婦の御性質にて、とかく御身持ちよろしからず、多くに男子を愛し給うを日夜の楽しみとされ、武士、町人、商人の嫌いなく家うちに引き入れては遊び戯れ」となり、いったいどう話が続くのかと思うと、「しかるに尼君には日増に御不行跡募らせまして、猶も多くの男をなぐさみ給いて、少し嫌気になると、果ては井戸の中に放り込むという、いと残酷な御振る舞いで、仕舞いにはこの御守殿の御二階より招かせられてお屋敷に這入ったものは出でたることなく、すべてこの井戸の中に投げ込まれますもの男ばかり幾百人と数を知れず」と、どこのエリザベート・バートリかという展開になる(井戸もどんだけ深いのかという・・)

 この天寿院さま、どんな天罰が下るのやらと思っていると、意外にも風邪をこじらせてご逝去されてしまう。
 その後、お屋敷は取り壊されるが井戸が残り「小雨降る夜などはその井戸の中からチラチラと鬼火が燃え出し、あるいは消え、また燃えて、種々怪異の形あらわれともの凄い有様なれば、往来の者などこれを見て肝を潰し、魂を失なわんばかりに逃げだし夜に入りますとここを往来するものがなかった位でございます」

 という次第になる、要するに元から謂われ因縁のあった土地であり、それを拝領したのか青山播磨であるというわけだ。


 その後お菊の父親が多くの手下を抱え強盗、強請、詐偽、辻斬りとなんでもありの大悪人であったという話になり、その出生から悪事、ついには捕らえられて死罪になるまでの話と続き、一向に怪談にならないのだった。

 いったいにどうなることかと思っていると「悪徒の血筋絶やすべし」という趣旨で一生縁組みを差し止められたお菊が(やっと)下女として播磨の屋敷にやってくる。

 美人で聡明なお菊を播磨はさんざんに口説くがお菊はなびかず、可愛さあまってなんとやらで播磨はこれを憎む。
 また奥方はお菊に嫉妬し何か粗相があれば折檻しようと手ぐすね引いて待っている。

 そこで猫に驚いたお菊が秘蔵の皿を割るという粗相をなしたものだから、2人とも好機きたれりとばかりにお菊を責める。
 いずれ責め殺そうと思っていたところが、世をはかなんだお菊はくだんの井戸に身を投げて死んでしまう。
 
 そのあとは、夜な夜なお菊の亡霊が井戸より出でて皿を数えるという知られた展開となるのだが、その亡霊によって家人か居着かず、役儀にも差し支えが出て結果青山家がお取りつぶしになるまでの早いこと。

 お菊がやってきてから青山家が断絶し「これ仏説に悪因悪果の応報というはこれ等の事を申します」と〆られるまでがわずか13頁、全体で165頁のお話の1割にも満たないのだ。
 (その後はお菊の亡霊を鎮めるために苦労する名僧の話に移るのだが、これのほうが数倍も長い)

 結局、講談においては曰くのある土地にまつわる様々な人間模様を次第次第に説いていくというのが主眼であって『井戸に投げ込まれた腰元お菊が夜な夜な現れて皿をいちま〜い、にま〜い、と数える』というのは番町皿屋敷の本筋ではないのだ。

 へぇぇ〜と言うのが感想であったが。そのような前知識をもっていよいよ「数えずの井戸」を読んでみた。



 ・・・う〜ん、これはこれで(シリーズ前2作と同じく)怪談ではない、とはいえ岡本綺堂、旭堂南陵を読む限りこの話は怪談であることがお話の本質ではなく、もちろん必須でもない。
 青山播磨の屋敷をめぐる人間模様をおもしろおかしく語ることこそ全てだと言えるわけで、その点ではまったく本道であると言えるだろう。

 ただ、心になにがしかの欠落を抱えた欠陥人間ばかりが登場し、それぞれ危ういバランスを保っていたものが、自分がただ自分であるというだけで満足しているお菊という異物が混じることで化学反応が起こり、結果関係者全員が死ぬ、という展開は「覗き小平次」と同じ構造であることが気になった。

 (「覗き小平次」では、それぞれなにがしかの妄執を抱き、あるいは因縁を抱えている人間たちの中でただ一人小平次だけが、自分はただ自分でしかないと思い定めている、というのがそっくりなのだ)

 ラストに関係者全員が一カ所に集まって皆死ぬという様式美に似た予定調和も同様で2作続くとこれはどうかと思ってしまう。
 先に「おもしろすぎる」と書きはしたが、複雑に絡み合った人間模様が一気に解ける小平次のほうがサービス満点なぶんマシかもしれないとも思う。

 この調子で続くなら第4弾が出ても考えちゃうな。


 



神は沈黙せず
去年はいい年になるだろう
MM9


山本弘




 山本弘と言えば「と学会」会長である。
「と学会」とは
 『著者の大ボケや、無知、カン違い、妄想などにより、常識とはかけ離れたおかしな内容になってしまった本』
 『著者の意図したものとは異なる視点から読んで楽しめる本』(「トンデモ本の世界」前書きより)
を広く紹介する団体である。

 この「おかしな内容」というものがどういうものかというと。

 「太陽の表面温度は摂氏26度」とか「カラスは死ぬと瞬間的に消滅する」とか「彗星が巨大地震の原因である」とか「ツイストを踊れば宇宙人に救われる」とか「水に『ありがとう』と声をかけるときれいな結晶ができる」などと、冗談ではなく大真面目に主張している本(「去年はいい年になるだろう」より)
 というようなものだ。

 趣旨からいって紹介されるのものはノンフィクションが主体だが、フィクションでもあまりに荒唐無稽なものは取り上げられる。

 たとえば門田泰明の黒豹シリーズ。
 主人公「特命武装検事(?)黒木豹介」は、毎回日本の平和を守るため毎回世界を股にかけた活躍をしているのだが(検事だが法廷には立たない)
 「黒豹スペース・コンバット」ではエイリアンから攻撃を受けた地球を守るため、ロケットに乗り込んでついに月にまで行く(!!)。
 
 愛知(←ロケットの操縦者)は、アッと叫んだ。真っ赤に焼けた火球が、左にゆるくカーブしながら、あまり速くないスピードで遠ざかりつつあった。
 火球は左に回転しながら、宇宙空間に火の粉をまき散らしていた。
 「危なかったな」
 「流星ですね。ぶつかっていたらひとたまりもありません」
 (中略)
 愛知が、ふうっと大きな溜息をついて「凄いですねえ、宇宙は」と言った。

 あのなあ!「凄いですねえ」じゃねえよ! 
 言うまでもないが、流星は地球の大気圏に入ってはじめて、空気との摩擦で燃えるのである。

 (「トンデモ本の世界」『フィクションなら許されるか?』より、引用とその引用)
 という具合だ。
 
 公式見解によれば、と学会はトンデモ本で取り上げた本やその作者を笑い者にする気はさらさらなく、暖かく見守ってそのトンデモさを楽しむ、ということになっているのだが 作者の無知や頑迷さを指さして笑うという側面はあると思う。
 ここで問題になる(?)のが山本弘が作家、それもSF作家であるということだ。

 SFはその構成上どうしても現実にはありえないテクノロジーや現象が取り扱われる。ワープ、超光速宇宙船、地球外知的生命体、タイムマシン、タイムスリップ、冷凍睡眠、異次元、異世界、取り扱いをミスればあっという間にトンデモになりかねない代物ばかりだ。
 そこでハードSFを指向する作家(山本弘もその一人だが)は作品における科学的な整合性について万全の注意を払うことになる。

 ここで改めて説明しておくが「科学的整合性」というのは別段、現在の科学で実現可能である技術しか登場しないとか、あるいは実現の方向性さえ見えていない(不可能視されている?)技術は使わない、ということではない。

 ハードSFの場合その世界にワープ航法が存在するいう前提はアリとして、そんな世界があったとしたら世の中はどうなっているかという部分に関して整合性が取れたお話が書けているかどうかが問題になるのである。しかしこれは難しいことだ。

 「もしエジソンが電球を発明していなかったら。我々はろうそくの光でTVを見ているだろう」という私の好きなジョークがある。
 これは極端な例なのでそのおかしさに即座に気がつくが、科学的、論理的考察が足りない作家がSFを書くと似たようなお話を書きかねない。

 (まったく話が逸れてしまうのだが、「剣と魔法のファンタジー」を私があまり好きではない理由もそこにある。そういったお話の典型的な舞台は中世ヨーロッパだが、既存の歴史観の中に魔法だけ押し込んで、政治、宗教、経済、あるいは習慣がそのままってありえないだろう?というのが私の疑問なのだ。
 たとえばの話、力こそ正義という当時に魔術が存在したら、世界は魔術中心のヒエラルキーで構成され、その土地で一番力の強い魔術師が御領主様になったりするのではないかしらね)

 閑話は休題するとして、ハードSFである。
 ラリイ・ニーブンの「ノウンスペース・シリーズ」には、ワープ、時間停止装置、超光速宇宙船、反重力装置、頭が2つある宇宙人、猫型宇宙人、電気刺激快楽装置、幸運の遺伝子(!)などという怪しいガジェットが満載だ。しかしそれでもハードSFの傑作として高く評価されている、それは怪しいガジェットと科学的合理性が高度に融合しているせいであり、なにより少々の怪しさなどふっとぶ面白さがあるからだ。

 そもそもエンターティメントにおいて何より重要なのは面白さなのだが(黒豹シリーズも売れている)ここに山本弘のジレンマがある。

 と学会会長であり、みずからも科学的整合性の怪しい本につっこみを入れる氏は、立場を変えればつっこまれる立場になる。評論家と作家を兼ねているのと同じだ。

 通常、評論家は自分のことは棚にあげて他人の創作物を批判することができる。評論は実作と別次元で成立している表現であって「そんなこと言うなら自分でやってみろ」というものではないからだ。しかし一人の人間が両者を兼ねていればそうはいかない。

 何がいいたいのかというと、山本弘の小説は妙に防御が堅いという印象を受けるということだ。
 エンターティメントは前へ前へと進むエネルギーが必要であり、多少のほころびがあっても勢いがあればそれでいいと思うのだが、氏の小説は前に進むことよりも自分の小説に穴がないかを気にしすぎ、また開いた穴をふさぐことに力を注ぎすぎているような気がする。

 これは作家自身の性格にもよるのだろうが、氏の場合は自分がと学会の会長であることが影響しているのではないだろうか。
 たんなる面白がりとオカルト好きで始めた活動だったのかもしれないがSF作家山本弘にとってこれは不幸なことであったかもしれない。

 ということで、個別の話に入ろう。

 まずは「神は沈黙せず」

 と学会が繰り返し取り上げるネタに 神/超知性/地球外知的生命体/UFOの乗員、と会話しあるいは託宣を受けたと称する人たち「コンタクティ」そういった人達の預言や超常現象を無批判に受け入れる「ビリーバー」がある。

 山本弘をはじめとする「と学会」の面々はそれらを論理的に論破していくのだが、この小説は「神は居る、宇宙には果てがある(天動説!)UFOは居る、超能力、超常現象は存在する」という世界を正面きって描いた力作である。

 実のところ小説はその内容で勝負するものであって、誰がどう書いたかでその価値が変わるものではない。
 そもそも私は日頃から題材主義を標榜していて、映画など誰が監督かも主演かも知らずに見にいくし、見たあとでも監督が誰だったか覚えていない作品も多い。

 誰が作ったかなんてどうでもいいのだ、と公言する私がここで「あの山本弘が」と言うのは間違っていると思うのだが、これがドキドキするようなチャレンジであるのは言うまでもない。
 なにしろ防犯の専門家が自分の家に思いつくかぎりのセキュリティを施し、今度はそれに侵入を試みるようなものだからだ。

 このチャレンジーな作品はしかし、驚くべきことに、かなりうまくいっている。
 まあつっこみどころ満載であることが明らかな作品を、つっこみの専門家があえて書くわけだから容易につっこまれるような作品であるわけもないのだがこれは驚異である。

 とはいえしかしその重箱の隅の穴をくまなくふさぐ感のある作風は爽快感がない、というかはっきり言って息苦しい。

 
 その防御感(?)は以下のような部分にも現れている。



神は沈黙せず229頁

これが小説?! ノンフィクションじゃなく? と、思わないだろうか
しかも、こういう記述はここ一カ所だけではない。

 




 三人称の場合、地の文は神の視点だがこのお話は一人称だ、つまり地の文は主人公のモノローグであり「言葉」なのだ。
 読者への語りかけにせよ内心の吐露にせよ、人は通常ここまで正確さを期した言葉使いをするわけがない。
 どうみてもこれは、作家山本弘が資料を見ながら間違いないようデーターを引き写しているさまにしか見えない。

 こういった「間違いのない感」のある記述はここだけではない。



 なにか面倒な事象の説明に入ると、とたんにこの口調、つまり口語とはほど遠い資料引き写し感丸出しの口調になってしまう。

 先の超常現象にしても、普通の小説なら、明治の初め頃群馬の農村で、などとさらりと流すのが普通である。時期にしても○月○日などと詳しく書く筈もなく、秋とか冬とか、せいぜい月くらいまでしか言わないものだ。
 人の名前をわざわざ「山田某という人が」などとぼかして言うことさえある、それは過剰なディティールは読みやすさの障害になると作家が考えるからだ。
 
 ところがこの小説はそうではない、これはデーターの不備や、説明不足からくるつっこみを避けようと、正確さを追い求めた(追い求め過ぎた)故のゆがみではないかと思われる。

 そしてなぜそのようにつっこみを恐れたのかと言えば、それはとりもなおさず山本弘が「と学会」で人につっこみを入れてきたからに他ならない。

 この小説は、チャレンジーであり成功もしている、読む価値は充分あると言えるだろう。
 しかし、あるかもしれないつっこみは無視と腹を決め、細部にこだわらず、知的好奇心を全面に押し出したお話にすれば傑作となったに違いないのは惜しいことだ。

 ついでに言うと、主人公に魅力がないのも痛い。
 この主人公は繊細であり理性的であり、それはまあ悪くないとしても、内省的であり、自虐的であり、あらゆる困難に打ち勝って前に進むというエネルギーを感じない、結果お話が爽快感のない物になってしまっている。

 つまるところ主人公は作者山本弘の分身であるのだろう。
 ここでまったく違うタイプの人間を書き分けるということがあってもよさそうに思えるのだが。
 作者の作品に対する懸念(つっこみを受ける部分がないか)を解消するため、作者の望む方向で思考/行動してくれる主人公は自分を投影する以外なかったのかもしれない。

 山本弘はこれで星雲賞を取るつもりであったようだ。
 そう思うだけの力作ではあったと思うのだが、残念ながら若干の「ゆがみ」がこの小説には存在し、それがこの小説を少し弱めた。
 そのゆがみのよって来るところがと学会会長という立ち位置であったとすれば(そう思うのだが)残念なことだ。


 ついで「去年はいい年になるだろう」

 未来から善意にあふれたロボットの集団がやってきて世界を支配し、争いがなく平和な世の中を作ってくれようとする話である。

 山本弘版「幼年期の終わり」by アーサー・C・クラーク、と言ってよいかもしれない(ちなみに「幼年期の終わり」は私がSFベスト1を選ぶとしたら、他をぶっちぎって堂々の1位となる作品である)

 さてしかし、善意にあふれた集団が地球を実力で支配し、人々を善導し、平和と安全を説くというのが「ハッピーエンドで終わるわけがない」のはもう決まりごとである。

 これはパニックものでピンチに仲間を見捨て、あるいは踏み台にして逃げた登場人物が悲惨な最後を遂げるのと同じようなものだ。

 (「幼年期の終わり」も宇宙からやってきた超知性が人間を遙かに超えた理性と愛と善意で人類を暖かく導くが、その最後にやってくるのは壮大な悲劇である)

 結果はあきらかなので、あとはどう破綻していくかが見ものなのであるが、どうも最初からうまくいきそうにない占領政策であり、その善意の根拠は最初から怪しい。
 結果、ダメそうに見えたがやっぱりダメじゃんというお話にしかなっていないのだが、これは作者の狙いなのかミスなのか。

 また、先の「神は沈黙せず」に於いて「主人公は作者の分身なのだろう」「主人公に魅力がないのが痛い」と書いたがこれも同じである。

 というか、この小説の主人公は山本弘その人なのである、家庭環境から、個人的な歴史、作家としての不安まで捨て身といってよい程の露出なのだ(様々に語られるディティールによってそうとしか思えない)しかしその過剰なまでのさらけ出し方が別段作品にとってプラスになっていない。

 読者としては小説の内部にどっぷりと漬かって、その作品世界の中で遊びたいのだが、山本弘という実在の人物の家族への想いや世界観や、仕事に対する姿勢、鬱屈がそこかしこに書き込まれていて、リアルとフィクションを行き来するハメになってしまう。

 たとえばの話、母親への認知症の懸念など聞かされると、リアルに引き戻されるばかりか心にうそ寒い風が吹いてしまってエンターティメント小説を読んでる感など吹き飛んでしまうのだ。

 これに関して言えばどうみても計算ミスとしかいいようはない。
 これってたぶん作者の投影だよなあと思えるくらいの架空の作家が主人公でよかったのではないだろうか。
 
 なんで作家本人が虚飾をかなぐり捨てて舞台に立たつというチャレンジーなことをするのか意味がわからない作品であった。



 最後に「MM9」

 日本では(つまり世界でも)珍しい「怪獣小説」である・・というかそもそもそんなジャンルはなくこの本以前では。





 しかないのではないか!?というくらいのものである。

 つまり怪獣ものというのは徹頭徹尾映像主導なものだったのだ。

 しかもその映像というのはジャパンクールなアニメではなく、コミックでもなく「特撮映画」一本やりだった。
 なぜか、と言えば、怪獣ものが(先ほどからの文脈で言えば)「つっこみどころ満載」のジャンルであったからだろう。

 アニメやコミックで怪獣の存在感が抽象化されてしまうと、つじつまの合わない部分が目についてしまい作品として成立しなくなる恐れがあるわけだ。

 つまり無理無茶を押し切り、勢いで見せきってしまう為には実写の存在感が不可欠だったということだ。

 そんな中で発表されたのがこの小説である。山本弘ってなんてチャレンジャーなのだろう。


 さて山本弘の得意技はつっこみどころ満載なジャンルをそのデバンカー(疑似科学などにつっみを入れる人)としての知識と経験を生かし、逆手に取ってお話を成立させるところにある。

 そしてどうやら氏は怪獣ものの最大の問題点、つっこみポイントを
「なぜ生物が放射能や火やを吐くことができるのか」
「なぜあんなに大きな生物が存在できるのか」
 というあたりに置いたらしい、しかしこれは微妙な線である。

 まあ前者はよしとしよう、あっても当然という意味ではなく、放射能や火、時には電撃やら破壊光線までも出す生物は問題視されて当然という意味だ。

 それらは荒唐無稽な現象といってよく、どのような薄弱なものであれ最低限の理論や整合性が求められる小説では取り扱うのが難しい。

 (逆に、映像的にかっこよければ理屈なんてどうでもいい怪獣映画であればこれを目玉にすることが可能であり「いかにすればカッコ良くミニチュアビルが壊せるか」を考えるのが仕事という私の稼業も成立するわけだ)

 一方「なぜあんなに大きな生物が存在できるのか」はどうだろうか?

 たしかに生物はある程度以上大きくなるとその骨、筋肉が自重を支えきれなくなるので生存できない。1辺10cmの豆腐は存在するが、1mの豆腐は自重で崩れてしまうようなものだ。
 だから理屈で言うと体長50メートルの生物「怪獣」というのは存在できないのだが、たいていの人間は言われなければそこに思い至るわけもなく、言われたからといって「いかにもそれはおかしい」と実感できるような現象でもない。

 私としては
「なぜ怪獣は暴れるのか、それもなぜ都市部で暴れるのか」
 (野生生物は基本的に人間や文明を避けるのではないか、破壊衝動のみで行動する生物が存在するのか) 
「なぜ現代になってそのような巨大生物が発見されるのか」
 (そんなでかい生物が今まで発見されなかったのはなぜか、そもそも生物がたった1匹で生存、繁殖できるわけもなくある程度数が居るはずである)
 「ライバル怪獣どうしはなぜ引き合うのか」
 というあたりも怪しい感じなのだが、そのあたりに特に言及はない。

 にもかかわらず先の2点を説明するために山本弘は「人間原理」という驚くべき理屈を持ち出す。

 これは「人間が認識して初めて宇宙は存在する」というものだ。つまり人がいなければ宇宙も存在しないのだ。
 木が倒れても、倒れた音を聞く人間がいなければ音がしたとは言えない、というのに似ているかもしれない。

 そして人間は3000年より前には意識と言えるものを持っていなかったのだと言う。
 宇宙を認識する意識も存在しなかったのでその頃宇宙は存在せず、人は神話を信じていたので神話世界の生物が存在した、それが怪獣でありその頃の記憶が今も怪獣をこの世に出現されているのだ、という。

 これだけ聞かされてもかなり(??)な感じなのだが。
 怪獣は現在の物理法則(「ビッグバン宇宙の物理法則」という)ではなく「神話宇宙の物理法則」に支配されている。
 神話宇宙の時代、人は原子というものを知らなかった。
 よって神話宇宙時代に原子は存在しなかった。
 よって怪獣の体も原子でできてはいない。
 だから怪獣は質量保存則に従うこともない。
 そのため巨大化したり縮小したりすることができる。
 大きくてもつぶれないのは当然である。
 とくると(??;)となり。

 怪獣が吐いているのは毒であって放射線ではない(なぜなら神話宇宙に放射線は存在しないからだ)
 しかし「その毒をあびた者は病気になる」という神話がビッグバン宇宙に取り込まれると放射線に変化し人に放射線障害を引き起こす、とか。
 怪獣から細胞を採取して分析しようとすると、それはただちにビッグバン宇宙にある普通の物質に変わってしまう、と言われると\(??)/になってしまう。

 これで怪獣ものの非科学性を補完したと言えるだろうか?
 トンデモ理論を覆すために別な、そしてもっとトンデモな理論を持ち出しただけではないのだろうか。

 少なくとも「なぜあんなに大きな生物が存在できるのか」の不思議のほうが「人間原理」よりよほど不思議ではない。

 火を吐く怪獣の理論付けは欲しいところだが、人間原理の提示によってで「なるほど!これで納得できた」とはとうてい思えない。

 作者本人はこの「人間原理」のトンデモさは充分に認識していると思うのだが、その一方これで怪獣ものが本質的に抱える非科学性、無理矛盾を一気に覆すことができたと思っているのだろう。
 私は怪獣ものを更なるカオスに放り込んだとしか思えないのだが。



 補遺

 怪獣原理主義者(私)曰く

 でかくなったイグアナは怪獣ではない
 でかくなったアリはでかいアリでしかない
 でかくなった動物はモンスターであるかもしれないが怪獣ではない
 モンスターは怪物(化け物、巨大なもの)であり怪獣ではない

 私は初めてウルトラQの「変身」を見たとき「インチキ」と叫んだ
 多くの怪獣少年がそう叫んだと思う

 でかくなった人間もまた怪獣ではない


 





 X-Pand方式のMOVIXで見てきた。2D版を見たかったのだが、もよりのMOVIXを含め2Dをやっている映画館が全然ないのだ。
 3D版は暗くて色が悪くて料金が高い、そのかわりに迫力満点かと言うと迫力満点なシーンでは3Dかどうかなんて気にならないわけで、たまにゆるいシーンで3D効果が強調されていたりすると「あ、3Dだ」と思うわけで、つまるそれは素に戻っているわけで、いいことはひとつもない。


 大体まずそもそも、3D効果は本当に映画に必要な技術なのかという問題がある。

 3D効果は2つの目で世界を眺めると右目と左目では見え方が違うという事実を利用している、これを「両眼視差」という。

 たとえば目の前にビール瓶があったとして、右目ではラベルの正面から右側面にかけてが、左目ではその反対側が見える。
 つまり見えているものが違う、これを人は脳内で処理してビール瓶の丸みを認識するわけだ、これが立体感である。

 またビール瓶自体が、右目では視界の左側に、左目では右側に見える、瓶があることによって見えなくなっている背景も違う、これを利用して人は自分と瓶までの距離や、瓶と背景の距離を測っているわけだ、これを遠近感と言う。

 3D映像とは、両眼視差を利用して立体感と遠近感を作り出す技術である・・であるわけなのだが。

 左右の目は数センチしか離れていないので、対象がある程度以上離れたら、2つの目で見えるものに差が出ない、つまり両眼視差というのは対象となるブツが目の前にあるからこそ発生するものなのだ。
 
 具体的に言えば、たとえば道の反対側に電信柱が立っていたとする。この道が広くて(10メートルとか、20メートルとか)電信柱までが遠ければ、右目で見えているのに左目では見えていないという部分はほとんどなくなる、だから視差による立体感は実はそこにはない。
 この電柱が立体に感じられるとすればそれは「電信柱は丸いもの」という知識が感覚を補っているのだ。
 だからそこにあるのがホンモノの電信柱でなく、リアルなイラストか写真を貼った立て看板であっても、人はそれを丸みのある電信柱だと「感じる」
 書き割りが平面でも有効なのはこのためだ。

 また、その電信柱によって隠れている背景も左右の目で差はない、だから理屈で言えば、背景の建物と電信柱で距離感の違いはない、それでも電信柱が背景の建物にくっついているように見えないのは、「電信柱と建物の間には歩道がある」と知っているからだ。 

 このように人はあたりまえのように、2Dの映像から立体感や距離感を感じ取っている、だから映画を観て違和感がない。

 むしろ、3D映像であることを強調しようと電信柱を無理に背景から浮かすと(カメラの調整や合成処理によってそういうことも可能である)逆に電信柱が書き割りの板のように見えてしまう、元々立体に見えていない物を切り出して手前に持ってくるのだからそうなるのは当然である。

 今、3D映像を見て「リアルな立体感というより、平面的な書き割りが、奥から手前に並んでいるだけのように見える」という感想を持つ人が多いのはこのためだ。
 
 つまるところ、本当の事を言えばある程度以上の引き絵では3D効果が出ないのがリアルということなのだ。


 「大空を飛ぶジャンボジェット」という絵を本当に空撮で撮ったら、たといそれが3Dカメラであっても立体効果など出ない。
 フルCGムービーであれば、計算によってジャンボジェットを背景から浮かすことはできるし、ジャンボ自体に視差をつけ立体感を出すことはできる、とはいえそれはリアルな視覚体験ではない(人は視差によって立体感の生じるものはごく近くにあるものだということを経験的に知っている)だから、なにが変であるかまでわからないにしても違和感を持つ筈なのだ。

 役者の芝居を間近でじっくりと見せる文芸作品ならともかく、引き絵が多く、それが重要になるであろうエンターティメントに於いては3Dはそもそも向かない技術だとも言えるわけだ。

 ギョーカイ関係者は(って、私もその一味なのだが)ともかくあらたな需要を喚起したくてしょうがないので、評論家も含めて3Dバンザイの大合唱だ。
 しかしこれがカラ騒ぎになる可能性は高い。
 少なくとも映画好きの一個人としての私は2D版でいいや、というか、2D版が見たい、というか、2D版しか見たくないのである。
 
 しかし3D版公開というと必ず字幕スーパー版と吹き替え版が公開されるので、さすがのシネコンもなかなか2D版まで公開するスクリーンがなく(特別料金も取れないし?)3Dを見に行くしかないという現在の状況は困ったものだ。




 と3D映画への文句はここまでにしてバイオハザードに移ろう。

 ゾンビ映画をゲームにしたら面白いんじゃね?という読みがうまくはまったのが原作たるバイオハザードであった。
 いかなる危地といえど傍観者として眺めていればいずれエンディングに達する映画と違い、操作を誤れば自分が死ぬという危機感・サスペンスが受けてヒットしたわけだ。
 しかしそれを映画化したら元の木阿弥、ゾンビ映画である。

 というわけで、これはよくあるゾンビものの1バリエーションになってしまったのではないか、と思ったのが前作までだったのだが持ち直した。

 1〜3話ではゾンビは歩く死体そのもので、ゾンビ犬ことケルベロスもただの犬で、中ボス、ラスボス以外は、ナイト・オブ・ザ・リビングデッドから進歩のないものだった、しかしバイオハザードに於いては彼らは本来Tウイルス感染者であり、ただの歩く死体ではない筈なのだ。

 今回はその他大勢(?)のゾンビ達は以前と変わらずゾンビメイクでよろよろ歩いているだけだが、アリス達と直接コンタクトを取る連中は突然変異が起こっていて、すでに人とは違う生物と化しているという描写がなされている。

 ゾンビ犬が出てきたのでまたかと思えば、彼らも顔が縦2つに割れて、大きな口になったりして進化(?)したところを見せてくれた。

 また普通のゾンビ映画というのはゾンビの群れに包囲された主人公がいかにして逃げ出すか、という一点に特化しているものだ。
 今回も無数のゾンビに包囲された刑務所から脱出するという見せ場は(お約束で)存在するが、あくまでゾンビは脇役であって、アリスの目標は世界を破滅に導き、荒廃した世界で今なお暗躍しているアンブレラ社を壊滅させること、という本筋を外していないあたりがちゃんとしている。
 
 アクションは変わらずキレが良く。舞台も、現代の渋谷>荒涼としたアラスカ>地獄のごときロサンゼルス刑務所>ハイテクタンカーと目先を変えて飽きさせない。


 ・・・と書くといいことずくめで、見るべし見るべし、という風に思えるかもしれないが、問題がないわけではなく。それはターミネーターシリーズがそうであるように「これは長い長いお話の1エピソードです」というスタンスで作られていることだ。

 数年に1回しか作られず、次が出る保証もない劇映画でこれはどうよ?と思わざるを得ないのだが、この映画はまったき「前回の続き」であり「次回に続く」なのだ。

 今回のラスボス(アンブレラ社の幹部)も、全体観から見れば中ボスでしかないのが明らかな作りであり、そもそも作る側が今回は大きな流れについて語る気が無い。
 こんだけ肩の力を抜いていれば、そりゃ作りは楽だわな。

 ということで、面白かったとは言える、ただし劇場に走れとまでは言えない(特に3D上映しかやってないならやめたほうがいい)
 DVDレンタルを待って見るなら充分に楽しめるだろう。当然だが前作までを見ていることが前提である。


ps

 吹き替え版というのはセリフのみならず、いかなるテロップも画面に出さないという方針であるらしく、劇中画面に映る単語をナレーションするのは参った。

 アリスの見た目(主観映像)にある単語や文章をアリスが発声するのはまあ許せるとして。

 途中、刑務所の塀が写りそこに「PRISON」と書かれているカットがあるのだが、重々しい男の声で「けいむしょ」と読んでくれた(?)のには違和感があった(というか、最初何が起こったのかわからなかった、いったい誰の声だよ^^;)

 

悪の教典
貴志祐介




 本屋の平積み台で存在感たっぷりの上下2分冊。
 前作の「新世界より」並の大作で、でもその「新世界より」は図書館で借りて読んでしまったわけで、買って読んでもソンをしたとは思わないだけの出来だったので、今度は投資してあげようと買ってきた、開いてびっくりした。



 字大きく、行間広く、余白大きく、つまりはスカスカだー。

 思わず字数を数えてしまったが、43文字×18行で1頁あたり原稿用紙1.9枚ぶんしかない。
 本が厚くなったり分冊になったりするのは読者にとって不便なことであるわけで、でも「それしかないなら仕方ない、まあ読み応えがあるということでもあるし」と思って我慢するわけだ、つまり「それしかない」のが前提なわけだ。

 この本はそうではない。

 1頁あたり1.9枚、上下合わせて829頁の1575枚という分量はたしかに大作の域には達しているが、たとえば宮部みゆきの「小暮写真館」は1672枚でありながら1冊なのである。

 分冊になった本の参考例として、同じく宮部みゆきの「模倣犯」をひっぱり出して来た。







 積んでみると「模倣犯」と「悪の教典」はほぼ同じ厚みである(実は2〜3ミリ「悪の教典のほうが厚い)にもかかわらず、「模倣犯」3551枚に対し「悪の教典」は1575枚と、半分にも及ばないのだ。

 つまり、この「悪の教典」は2分冊で売るほどの本ではない。

 何ゆえこんな体裁にしたのか、と言えばこれは出版社の戦略に他ならないだろう、つまり見かけを大作っぽくして高く売ろうとする作戦だ。

 現在の小説の相場感で言えば、たとえそれがどんなに分厚くて大作感あふれていようと一冊2500円以上の値付けをするのは難しい。
 というか、今は小説は値下がり傾向にあり、さきほど本屋の店頭でリサーチした結果では日本文学コーナーで2000円以上の書籍は見当たらなかった、「小暮写真館」でさえ1995円なのである。

 (版権と翻訳の手間がかかるせいか海外もののほうが値段は高めで、たとえば最近買ったジェフリー・ディーヴァーの新作「ロードサイド・クロス」が2500円である)

 この悪の教典も1冊にまとめることが可能だったと思うがそれでは2000円程度しか取れない、分冊ならば1800円×2の3600円で売ることが出来るということだ。

 きちんと字詰めして1冊が薄くなれば「これ1冊になったんじゃない?」と思われるし、少なくとも「1冊を1800円は高いんじゃない?」と思われてしまうので、必要以上に字を大きく、行間広く、余白を大きくして、見かけは大作っぽくしあげた・・という怪しい商売ではないだろうか。

 まあ、これは出版社の営業戦略の問題なので貴志祐介に責任はない(と、思う)ので、内容について触れようと思う。



 さて本書の主人公蓮実聖司は高校の英語教師である。生活指導も引き受けており、有能で仕事熱心で気さくで生徒、教師の間でも人気がある・・というのは表むきの話、彼は危険な殺人者、サイコパスなのだ、というお話である。

 ちなみにサイコパスとはウィキペディアによれば
『社会の捕食者であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情け容赦なく我が道だけをいき、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪われ尽くした人を後に残して行く。良心とか他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う』人物であるという、まさしくこの主人公そのものである。

 さてこの主人公蓮実が颯爽と仕事をこなし、その裏では唖然とするほど狡猾な陰謀をめぐらし、女生徒を言葉たくみにあやつって食い物にし、人を犯罪者に仕立てあげ、あるいは殺していく様は勢いのある筆致とあいまってある意味爽快である。

 爽快であるのだが、途中なんかこれどっかで見た感覚だなあと思った、ジム・トンプソンの「ポップ1280」だ。

 20世紀初頭、西部開拓史の名残も残るアメリカの片田舎ポッツ郡ポッツヴィル、人口1280人の小さな町が舞台のこの小説は、保安官ニックの1人称で話が進む。

 ニックは人が良いが、少しばかり愚かな人物と町の人からは思われている(小さな田舎町の保安官としてお似合いだと思われているフシもある)が、その実、年に2000ドルの給料、裁判所の上にあるバスルーム付きの住居を守るために様々な陰謀をめぐらし、手当たり次第に女性と関係を持ち、気にくわない人物は罠をめぐらせて犯罪者に仕立て、あるいは殺してしまうという危険きわまりない異常者である。

 つまりは異常なお話なのだが、表面上は穏やかでユーモアにあふれた語り口になっていて。

 それでも、おれには心配ごとがあった。心配ごとが多すぎて、病気になりそうだ。
 たとえば、ポークチョップ五、六切れに、目玉焼きを二、三個、グレイヴィーをかけて粗挽きトウモロコシを添えた暖かいビスケット一皿をいう献立をまえにしても、おれは食えなかった。
 全部は食えない。


 とか

 夜も眠れない、ほとんど一睡も出来ないと言っていいだろう。今夜はぐっすり眠れそうだぞと思ってベッドに入っても、だめなんだ。うとうとしはじめるまでに二十分も三十分もかかる有り様。それでいて、たったの八時間か九時間で目がさめてしまうんだ。

 ・・などである。
 翻訳された後ではそう感じることは少ないのだが、この語り口はマーク・トウェイン風であるらしい。
 
 (作中、トム・ソーヤとハッククルベリー・フィンから名を取ったトム・ハウクという男が出てくることからも作者がそれを意識して書いていることは明らかである。ちなみにこのトム・ハウクは黒人を虐待する人間のクズである)

 先にニックの行為は自分の生活を守るためであると書きはしたが、それはニックがそのように説明しているだけであって、実際には損得勘定だけで動いているのではないようだ、なぜならニックは息をするように嘘をつき、常に人を騙し、隙あらば人を陥れる。自分の邪魔になった人物はもちろん、特段の理由がない人間ですらアリを踏みつぶすように殺してしまうからだ。

 『罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う』
 ジム・トンプソンが活躍した時代にサイコパスという概念が存在したかどうかわからないがまさしくこれはサイコパスのお話である。

 で「悪の教典」なのだが、主人公蓮実聖司の外面は熱血教師、いじめやパワハラに真正面から立ち向かい生徒からの信頼は厚く、特に女生徒からは圧倒的な人気を誇る、また学校運営にも骨身を惜しまず、同僚からのウケもいい。
 ところが実際にやっていることは冷酷非道、本当のことはけっして言わず常に陰謀をめぐらして、必要とあらばなんのためらいもなく人を殺す。

 これは・・と思うのも無理のないところではないだろうか、ともかくサスペンス小説書きがジム・トンプソンを読んでいないわけもないのだし。

 と書いたところで思い出した。「新世界より」の時も似たようなことを私は書いていた。

 以下は2008年の「ScriptSheet」だが

  と来たところで私は「おいおいおい!」と思わざるを得ないわけです、つうかシャマランの『ビレッジ』を見た人間なら誰でも「おいおいおい」と思うでしょう、今さらこれかい?!と。

 象牙の塔にこもって純文学を追求する文豪ならまだしも、ホラー・サスペンスを得意とする作家で自作の2本までが映画化されているエンターティメント指向の作家がシャマラン知りませんでしたでは通りません。

 「まさか同じネタで勝負するんじゃないだろうな」という不安はぬぐえないわけで、結果として話は逸れていき、やっぱり恩田陸とは違う(!)と安堵したのはよかったのですが冒頭の1割くらいは余計な不安を抱かざるを得ませんでした。

 というものだ。

 この悪の教典もどんどん「ポップ」臭は薄れていき、しまいにはまったくの別物になるのだが、なんで『読者に余計な想像』をさせるのだろう。

 というところで改めて自分の貴志祐介評を読み返してみて気づいた。

 2004年版「ScriptSheet」の「硝子のハンマー」で私はこう書いている。

 この作者はきわめてきまじめな作風であるらしく、今回防犯防盗技術について詳細に調査、研究した気配があります。
 その資料のこなれが悪く、ナマな形で小説に出てくるあたりいまひとつ小説としてどうかと思う点もないではありません

 というものだ、つまりセキュリティの技術的な話になると「ああここは一生懸命集めた資料やデーターを引き写しているんだな」と思えてしまうのだ。取材メモを片手に執筆する作者の姿が見えるようだ、と言ってもいいだろう。

 つまり、どうも貴志祐介は参考にし、あるいは影響を受けた元ネタを自家薬籠中のものにするのがうまくないらしいのだ。

 作品をすでに9作も発表し、そのいくつかは賞も取り一定の評価を受けている作家にこういうのはなんなのだが、つまりそれは書き手としてうまくないということだ。

 書いているうちにあっという間に上達し、9作も発表するうちには技術的な面での問題はなくなる作家もいるのだが、この点貴志祐介はまだまだ新人作家ということなのかもしれない。

 そしてこの「まだまだ新人作家」というキーワードでもって、氏の作品を俯瞰すると別な意味で思い当たるフシがある。

 思い返すところ過去9作のうち、まったきの傑作は「黒い家」だけであり、「天使の囀り」は寄生虫に関して、「硝子のハンマー」は防犯について頑張って調べました感がありすぎる。またどちらも「面白くないこともない」という微妙な出来だ。

 また「クリムゾンの迷宮」はゲームのノベライズといった代物であって、しかもその出来はラノベでもここまではないという低水準、はっきり言って小説の体をなしていない。
 「新世界より」は超大作、超力作だが、壮大華麗なドラマとしてそのオチはまったく不可解なものだ。(どう不可解かは2008年度版のScriptSheetを読んでいただきたい)

 サスペンス、ホラー、SF(?)、本格ミステリー、伝奇小説とジャンルを次々と変えて作品を発表しつづける貴志祐介はチャレンジーであるとも言えるし、自分の得意分野をつかみきれていないとも言える。

 つまるところまだまだ新人作家ということであり、そう思えば上記のいつくかの問題『元ネタを自家薬籠中のものにするのがうまくない』『長所と欠点がわかりやすく同居する微妙な作品』『時に失敗作も出してしまう』などなどが存在するのもあたりまえなのである。


 「悪の教典」について触れるといいながら貴志祐介の作品全般についてばかり喋ってしまった、個別の話に入ろう。


 前作の「新世界より」の陰鬱な世界観、重厚な語り口から一転して、今回はドライブ感あふれる筆致となり、読みやすく前へ前へと進む疾走感は快感なのだが、その反面書き込みが薄く、作品の底の浅さは否めない。

 これを読んで「中二病の香りがする」と言った人がいる、これは作品世界の奥行きについて無頓着であり、自分勝手に書きたいことだけを書いた、それこそ中学生が書いた小説のようだという意味だろう。

 まあ「香りがする」というのは、プロの仕事であることは認めた上で、そこになにかしらの危うさ、浅さを感じるという意味なのだろうが、言いたいことは了解できる。

 読んでいて面白いには面白いが、あまりにもご都合主義であり、あまりにも飛ばしすぎではないか?と私自身何度も思ったからだ。これで小説の屋台骨は大丈夫なのか、と。

 心配は杞憂ではなかった。ネタバレになるので詳しく書くわけにはいかないがお話のラストシークエンスは穴だらけである。

 そもそも用意周到に練り上げられた罠に犠牲者を追い込むというのが主人公蓮実の得意技なのに、ここはいわば突発的に始まってしまった緊急事態である、それまで念入りに書きこんで来た蓮実の特質がまるで生かされていない。

 また、犠牲者側の行動にも無理がある。その無理を無理と感じさせないだけの筆力が筆者にあればよかったのかもしれないが、貴志祐介には荷が重かったということだろう。
 ともかく「そうせずにこうすれば良かったじゃね?」「こんなことすれば一発で解決したんじゃね?」と思えることが読んでいるうちにいくつも出てきてしまうあたりが苦しすぎる。

 つまりはどうみても分が悪すぎる(犯人にとって^^;)ということなのだが、ここをキチンと詰めないまま書いてしまうあたりが、中2病っぽいと言われる所以なのだろう。

 本来ならこういう場合、作者はまず犯人の側に立って陰謀をめぐらせ、次に被害者の側に立ってその穴を突き、更に犯人側に立って計画に穴がないか検討する、という思考実験を繰り返すべきなのだ。

 そういうシミュレーションを経て初めて「そうくるならこっちはこうだ」という極限状態の心理戦を描くことが出来るわけだ。
 今回、貴志祐介がそれをやった気配はない、犯人にとって都合の悪いこと(それは作者にとっても都合の悪いことだが)は「誰も思いつかなかった」「偶然にもうまくいった」ということでスルーしてしまっている。
 読者としては、自分も作者から登場人物と同じくくらい馬鹿だと思われているのだろうか?と思わざるを得ないわけだ。

 これはかなりのマイナスである。

 また、作品冒頭にかなり重要な伏線を貼っておきながら、気が変わったのかロクに回収しないままお話を終わらせてしまったあたりも疑問が残る。

 などなど良いことはまるで言わなかったが、総体としての感想は「面白くないこともない」(またこれだ)
 特に上巻中盤から下巻に至る疾走感はなかなかのもので、珍しく頁をめくるのももどかしいという思いをした、最近なかった経験である。
 普通こういった小説が書ける作家は大ポカはしないもので、ラストに「トラックが通り抜けることが出来るほどの穴」(byジェリー・パーネル)が開いているのがむしろ不思議である。

 結論としては「読んで損はない」というあたりが適当だろう。

 中盤の疾走感だけでもサスペンス好きにはお勧めしたいところだが、実のところ3600円がネックだ。
 エンターティメント小説というのは「どうしても読まなくてはならない」物では全然ない、だからそこには「値段に見合った内容かどうか」という視点は必要であると思う。
 つまるところこの小説に宮部みゆきや京極夏彦の倍近い値段を出す価値と内容があるかは疑問なのだ。

 1995円で円で売ってくれればもっと強くお勧めできたろう。



 PS

 「原稿用紙○枚分」というのは日本の小説のボリュームを計る単位として唯一のものだ。しかしこれは計数方法として正確なものではない。

 上記において私は悪の教典を1575枚とか述べているが、これは1行の文字数×1頁の行数÷400で1頁あたりの枚数(原稿用紙換算)を出し、総頁数を掛けて総枚数を計算しているのだ。

 しかし、全ての行について字詰めの下まで文字が書かれているわけではない。
 改行によって、あるいは文字数の少ない会話文によって、途中までしか埋まっていない行は多い。
 つまり1行の文字数が多ければ、空白のマスが増えるということだ、現在の計算方法ではこの空白のマスもボリュームの内にカウントされてしまう。

 つまり1行の文字数が多い体裁の本のほうが中身が薄くなる、ということだ。

 <極端な話、『1行1文字で1頁400行の本』も『1行400文字で1頁1行の本』も原稿用紙換算で言えば『1頁1枚』だ。
 しかし、前者を1頁埋めるには400文字必要になるのに対し、後者は1文字でも1頁になる。
 つまり1文字でも400文字でも同じ『原稿用紙1枚』というわけだ>
 

 「模倣犯」の3551枚というのは出版社の公式発表であるからには正しく原稿用紙換算なのだろう、つまり1行20文字だ、計算の基礎が1行43文字である「悪の教典」のほうが同じ『枚数』なら、中身が薄いのはあきらかだろう。

 「模倣犯」3551枚にたいして1575枚の「悪の教典」を私は半分以下と述べたが、実は数以上に差があるはずだ。

 とはいえ「20字×20行のフォーマットに流し込んだ場合に何枚になるか」は、データーを持っている出版社にしかわからない。

 ないのをいいことに見かけ上の大作を作る(で高く売る)商売はやめて欲しいものである。

 ちなみにゲーム業界においてはシナリオは完全従量制であるらしい。1Kバイト1000円が相場と聞いたことがある。日本語は1文字2バイトなので1Kバイト512文字、1文字約2円ということだ。
 この方法だと水ましはむずかしい、できるだけひらがなをつかってじかずをかせぐくらいしかできないわけだ。
 


 


猫物語 黒
猫物語 白




 「化物語」上/下、 「傷物語」、 「偽物語」上/下、に続く新シリーズである(今年から来年にかけて6話6冊出すらしい、本のハコには「新章開幕」というシールが貼ってある)

 表紙には前に倣って「ネコモノガタリ」と表記されているが、「猫物」という言葉はない。よって、以前の「化物」語り、「傷物」語り、「偽物」語り、なのか、それとも「化」と「傷」と「偽」の物語なのかというダブルミーニング(?)は破綻していることになる、このあたりもうちょっと工夫は無かったものか、というのはまあどうでもいい話だ。

 さて前シリーズだが、これらははっきり言って「一連のお話」ではまるでない。同じ舞台に同じ登場人物が出る以上シリーズと呼ぶ他ないのだがその内実はほとんど別物語である(うまい!)

 詳しいことは2009年度版のSCRIPTSHEETを読んでいただきたいところだが、ともかく「化物語」は伝奇ものとして、「傷物語」は学園異能アクションとして、それなりに「まっとう」な小説である。
 それが「偽物語」で一転、前3冊ですっかりとキャラ立ちした登場人物達がゆるいコメディを繰り広げるセルフパロディ、セルフ二次創作といったシロモノと化してしまったわけだ。

 ともかくこの「偽物語」での2話は、登場人物達が自分達のアニメについて語る、読者に直接語りかける、小説中の誤植についてつっこむなど、ほとんどメタ小説といってよい案配であり、作者本人が『そもそも小説として成立していないんじゃないかという説すらありますが』と述べるほどのハメのはずしかたである。

 あまりにインパクトが強いため、その印象が反射して前3冊に影響し、もはや「化物語」を伝奇物として読むのが難しいほどである。

 (「化物語」を最初読んだ時の印象は「これはライトノベル版京極堂だ」というものであった。読んでいる最中にそう思ったことは確かであり、その時点での真実である筈なのだが、今このシリーズを京極夏彦に例えようものなら「ナニイッテンノ?!」という反応があっておかしくないというか、自分でもそう思えるのだから恐ろしい話である)


 さてしかしそのように解体されてしまった小説の続編とはいったいどうなるものかという興味もあって即買い、即読みした。


 驚いたことにまっとう至極な小説に戻っている。

 いやまあ、登場人物が「自分の声を当てる声優について語る」「メディアミックスについて語る」というセルフパロディや。
 「時系列的に言えばまだ知らない筈の登場人物について触れる」「小説の章ナンバーが飛んでいることに登場人物が疑問を抱く」など、メタ小説なジョークは健在なのだが、あくまでもそれはお遊びでしかなく「傷物語」のようにコメディ仕立てになっているわけでもない。

 今回の「猫物語」は猫の怪異に取り付かれた委員長こと羽川翼の物語である。

 翼は頭脳明晰で、聞いたことは忘れず、知らないことはない(←と言っているのは主人公阿良々木くんだけだが)成績は全ての教科で常に学年トップ、数カ国語を操り、怪異についても専門家忍野が一目置くほどの知識を身につけている、要するに天才、委員長の中の委員長、しかも性格は善良、誰に対しても親切、公平、真面目、生真面目で正義感も強く間違ったことは言わず、行わない、つまり完璧超人である。

 あんまり完璧であるがゆえに、阿良々木くんからは怖いと言われ、忍野からは気持ち悪いとまで言われている。
 そもそもその人間離れした知性によって、街の怪異事情まで歪めてしまっていると言うのだから尋常ではない。

 しかし、そんな完璧超人が存在するわけはない。

 「黒」は、翼が最初に猫の怪異に取り付かれた時のお話(前5話ではそれとなく語られていたが、その詳細が明らかになる)つまり話の発端。

 「白」は時系列でいうと既刊すべての一番最後にあたり、あれもこれも片付いたあと、三たび翼が猫「ブラック羽川」になってしまうという話である。

 いったいになぜ羽川は猫になってしまうのか、といえばそれはとりもなおさず『そんな完璧超人が存在するわけはない』からで、完璧な人間というものが存在するならそれは『怪異より怪異』だ、というのが今回2作のテーマである。

 これは完璧超人でありながら、その事実に気づいていなかった翼が初めて自分の異常さに気づき、なぜ通常ありえない事を自分が実現出来ているかについて思い、17年間目をそらしていた真実、いわゆる『原点』いわゆる『心の闇』についに目を向け、苦悩の末に自分を解体して普通の女の子として再生するお話である。

 お話の最後、翼が猫に取り付かれた自分、もうひとりの自分「ブラック羽川」に長い手紙を書くシーンは圧巻である。
 実際には、そこに書かれていることはごく普通のこと「自分でやったことの責任は自分で取るしかなく、その痛みも悲しみも自ら引き受けるしかない」という当たり前なことだ。

 とはいえその当たり前なことを行うには苦痛を伴い、実行出来ない人間は多い。しかしそこから逃げていたのでは『何も始まらない』のだ、というこれはメッセージであり(「逃げちゃだめだ」とは、どこかの人型最終兵器の操縦者も言っていたような気がする)自分が何者であるかについて悩み苦しむ若者へのエールなのだ。

 翻ってみれば、「化物語」の第1エピソード「ひたぎクラブ」も同じテーマを扱っている。
 蟹の怪異に取り付かれ、「体重」を失ってしまった戦場ケ原ひたぎが最終的に向き合うのもこの、「どんなつらい『思い』でも自分で背負うしかない」という事実だった。
 つまるところ阿良々木くんをめぐるダブルヒロイン、戦場ケ原ひたぎと羽川翼は同じ闇を抱えていたということになる。

 ひたぎが阿良々木くんの助けを借り、怪異の専門家忍野メメに指摘されてその事実に気がつくのに対し、翼はその知性によって独力で答にたどりつく。

 忍野言うところの、不遇に生まれ、不遇に育ち、『不遇に過ぎた知能を持ってしまった委員長ちゃん』は、その知能ゆえに自分を救うこともできたということだ、このあたりキャラクターが作品世界内でキチンと生かされていると言えるだろう。


 いったん小説としての体裁すらなくなったこのシリーズで、このような話が読めるとは思わなかった。

 これは良質の青春小説と言ってよい、強くお勧めする。


 もっともここから読んだのでは舞台背景もなにもわからないわけで、前シリーズを読んでいることが前提である。
 しかしそうなってくるとお遊び編2話がネックになる可能性はある、あれ、途中で頭が痛くなって先へ進めなくなる人もいるんじゃないしらん。


 
ロードサイド・クロス
ジェフリー・ディーヴァー






 リンカーン・ライムシリーズのスピンオフ(?)ボディランゲージから人の嘘を見抜く技術「キネクト」の達人、歩く嘘発見器キャサリン・ダンスのシリーズの第2弾である。

 さてジェフリー・ディーヴァーと言えばどんでん返しだ、この作家は読者の意表をつくのが大好きなのだ。リンカーン・ライムシリーズの「魔術師」では都合5回のどんでん返しが繰り広げられ、あまりのアクロバットさに私は唖然とせざるを得なかった。

 そもそも裏の裏は表なわけで、警察が翻弄されず(頭の良さで、あるいは愚直さの故に)表で網を張っていればあっという間に捕まってしまいます。

 読後感は、犯人にこれだけの計画性と技術があるなら、まっすぐに本来の目標に向えばあっと言う間に成功して無事逃げおおせたんじゃない? というものです。
『2005年度版Script Sheetより』


 というのが当時の感想だったわけだ、しかし私は今では諦めて(?)いる。

 もうこれは作者の性行であって良いの悪いのというものではなく、そこが楽しめないならジェフリー・ディーヴァーを読むべきではないのだ。

 というわけで一時撤退まで考えたこの作者を以後も営々と読み続けてきたわけだが・・・今回のこれはどうか?


 今までのどんでん返しはストーリーの根幹に関わる部分で起こっているわけで、いわばドラマの本質だったわけだが、今回はそうではない(というか、それもあるがそれだけではない)

 ただの状況説明にまでフェイクが入っているのだ、ネタバレになるので以下はたとえ話だが。

 「・・熱い空気に、もはや酸素は含まれていなかった、もうろうとする意識の中、最後に彼の目に映ったのは、燃え落ちる天井だった」というような書き方をすることがある。
「天井が燃え落ち彼は焼け死んだ」という事に対する文学的表現だ。

 ところがディーヴァーは今回、そういう描写で章を締めくり、「はい、こいつ死亡」と読者に思わせておいて後になって。
 彼は実は生きていましたと言い出すのである、それも何回も。

 最後というのは酸欠で意識を失う寸前ということ、彼は部屋の外にいて天井が崩れるのを見ていたのね、というわけだがこれは大げさに言えば読者と作者の暗黙の契約の破棄である。

 これが腕の悪い作家のミスであるというなら、可愛げがあるがそうではない、ディーヴァーは手練れの作家なのであって、どういう描写をすれば読者がどう思うかは充分承知の上で読者をミスリードしているのだ。

 上記のフェイクはまだ、一種見せ場風であるが。別なたとえとして、登場人物が森の小道をたどっている、何かが迫る気配を感じて振り返ると巨大な獣が飛びかかってきた。
 と書いて、あとになると家で飼っているチャウチャウがご主人を迎えに走り寄ってきたのです、といった風な意味不明な騙しもある。

 『死んだとは言ってないよね?』『野生動物とも、襲われたとも書いてないよね?』ということだが、そのレベルでの騙しがあるとその小説は地の文すら信じられないことになる。

 いったいになぜ、ただの情景描写や背景説明で読者を騙さなければならないのか?

 まあ、なぜと言えば作者が好きだからとしか言いようはないし、ディーヴァーは読者の鼻面を引き回して穴に落とすのが大好きだから、なのだがこれはまともな創作態度ではない。

 さらに言うと今回そのような、一線を越えたとしか思えないような、作品でありながらディーヴァーは読者の心理を読み誤っている。
 開巻2連発で通常ありえないような騙しを入れたら読者は警戒するのがあたりまえと思うのだが、その後まるで何事もなかったようにお話を進める。

 つまり連続殺人事件が発生し、有力な容疑者が現れる、キャサリン・ダンスはその容疑者を追うものの杳として行方が知れない、となるのだが『この容疑者が犯人のわけはない』

 先にはネタバレを防ぐためにたとえ話で説明しておきながら、これはまた大きなネタバラシだな、と思われるかもしれないが、これはまず通らない。

 ディーヴァー一連の作品はくくりでは警察小説/捜査物だが、警察が地道な捜査の末、逃げていた犯人を追い詰めついに逮捕に至るという小説ではない。

 それはもうディーヴァーの読者なら、自明であり鉄板であり、地を打つ槌の外れることのなきがごとき確実な事だ。
 しかしたといディーヴァー初見の読者が居たとしても開巻の2連発の騙しのあと、あつらえたような、いかにも犯人然とした人物が舞台に登場するのを見れば警戒するだろう、ディーヴァーは読者に学習能力が無いと思っているのだろうか?

 そのような違和感を抱えたまま話は進む、こいつが犯人のわけないのに、と思う人物を登場人物達が追うのを見続けるのはむなしいものであるが、序盤を過ぎ、中盤を過ぎても話はひっくり返らない。
 このネタ一発でラストまで引っ張るつもりじゃないだろうな。それともまさか、いつかひっくり返ると思わせておいてついにひっくり返らないという体を張った騙しじゃないだろうなと余計な心配までしてしまった。

 結局全体の3/4ばかりも進んだあたりで、ひっくり返ってくれてホッとする(!)のだがこれはバランスが悪すぎる。なにしろダンス他捜査関係者達が間違った相手を追っていることがあきらかである間は、あー皆さん無駄足ご苦労さま、としか思えないわけでまったくお話にのめり込めないのだ。

 
 おかしなフェイクが無ければとりあえずミステリーとして了解可能な作品だが、ストーリーとは無関係な叙述のトリックが随所に挟みこまれ『作者の言っていることは額面通りに信用してはいけません』というメッセージに満ちあふれている小説でこの構成はない。
 (逆にいえば、意味のないどんでん返しだけで出来ている「魔術師」のような小説であれば、この『作者の言っていることは額面通りに信用してはいけません』という小説はびっくり箱のようで面白かったかもしれない)

 今回は騙しのプロが何か間違ってしまったとしか言いようがないだろう、当然お勧めは出来ない。


 


トロン
Legacy


  TRONは「コンピュータ・グラフィックスを全面的に使用した世界初の映画」として1982年に公開されたSF映画である。

 時代はついにここまで来た!と私は喜んで劇場に馳せ参じたのだが。

 CGカットはわずかなものであり、CGキャラクターは面の数が指折って数えられる(!)ほどローポリゴンな代物であり、ハイテク感を出そうとしたのか登場人物達の衣装はライン状に発光しているのだが、その発光もマスクラインがチリチリするアナログ感あふれる映像でありと、トンがった映像ショーを期待していった身にはがっかり感が先に立つ作品であった。

 <ところで、登場人物の衣装の一部は常に発光している、ということは人物が画面に映っているかぎりは常に光学合成が必要になるということであり、そのためには莫大な数(1秒につき24枚)の発光パターンのマスクが必要になるということでもある。
 そのマスク抜きが人力であると聞けば、これはハイテク映画というより労働集約的な超アナログ映画であると言わざるを得ない。マスク抜きにかり出された大量の中国人(台湾人)の名前がローリングタイトルに延々流れるのを見ると特にそう思う>


 ストーリーは「コンピュータ内部に送り込まれた主人公が、電脳世界の圧制者『マスターコントロールプログラム』と戦い、自由と平和をコンピューター世界にもたらす」というものだが、電脳世界に行くと普段我々が使っているプログラムが人間の姿をして暮らしている、という設定はSFというにも無理があるところで、ハイテクの装いを取り去ればむしろファンタジー/おとぎ話に近いものである。

 またそのプログラム同士がディスクの投げ合い(スカッシュのようなゲーム)や、ライトサイクルという陣取りゲームで戦い「負けると死んでしまう」というのも一体どんなアナロジーなのか理解に苦しむところだ。
 
 なぜそのようなことになってしまったのかと言えば「お話」が先にあったわけではなく「CGをウリにした映画を作る」という企画が先行した作品であった為だろう。
 しかし「CGをウリ」と言ってもリアリティのある映像など作れる状況ではなく、ペキペキ、カクカクしたポリゴンでも違和感が出ないよう、空は真っ暗、建物、乗り物が直線で構成されていてもおかしくない電脳世界を舞台に定めたということだ。

 もちろんテクノロジー先行の映画というのは映画の過渡期にいくらでもあった話で、突っ走れればそれも有りだったのかもしれないが、実際には「全面的にCGを取り入れ」というほどの映像を作れる時間も予算もなかったというあたりがこの作品の限界だったわけだ。

 つまり出来としてかなり微妙。
 世間もそう見たのか映画は興業的にも失敗に終わった。 


 それから28年。コケた映画をリメイクする意味があるのかとも思うが、原作付きかリメイクでないと資金が集まらないという事情はあいかわらずらしく「ついにあの映画が帰ってきた」

 というわけでトロン・レガシーである(Legacy:過去の遺産、遺品)

 さてしかし、暗い空、直線で構成された都市/乗り物など自然物が一切ない世界観は当時のCG技術から逆算されたやむを得ない処置であったわけだが、静物であれば実写とCGの区別はつかず、激しい動きのあるものでも(直射日光の下で人間と巨大ロボットが忙しくからむ絵でも)ほとんど違和感なく作れるほどに技術が発達している今それを作る意味があるのだろうか?

 なにかしらの工夫があるのかしらね?と思って観に行ったのだが驚いた、ほとんど完全にリメイクである。

 前回は自分の作ったゲームをパクられたプログラマーが盗作の証拠を掴むため、ゲーム会社のコンピューターに侵入するという話であり、今回は世界的に有名なソフトウェア会社の社長が失踪し、その息子が父親を探しにいくとそこはコンピューター内部だったという話でまるで違う。

 話がまるで違うのにリメイクとはこれいかに、と言えばこれは「この映画にとってお話はどうでもいい」からに他ならない。
 『主人公がコンピュータ内部に侵入し、その世界を統べるプログラムと戦う』ことになるなら、そのきっかけはどうでもいいわけで、ストーリー自体がヒッチコック言うところのマクガフィンでしかないわけだ。

 そしてストーリーを無視すれば、この映画は前作の完全リメイクなのである。
 21世紀バージョンではあるものの、発光する衣装、巨大なかぎ爪型戦艦やライトサイクル、光の道をたどって進む列車、(チラっとしか映らないのが残念な)砲塔が3角の戦車など小道具のデザインもそのままであり、ディスクバトル、ライトサイクルゲームという見せ場もそのまま。
 おお、あれもこれも現代の技術で再現か、制作者よくわかってるな、楽しいじゃんこれ、と思いつつも、私は隣の席に座っている高校生3人組のことが気になったりしていた。

 つまりストーリーは前と同じく無理があるとしか言えず(コンピューター内部ではプログラムが人の形をして生活しているというのはやはり飛躍過ぎるのだ)なんにしても単純なお話であって、それ自体で映画を支えるようなドラマがあるものではない。

 そして当時は見せ場であったCGだが、舞台装置が28年前と一緒である以上、今のCG技術からすればこれは出来て当然な映像ばかりでしかなく、特段目を見張るようなものではない。
 ノスタルジーで喜んでいる私のような観客はごく少数であるはずで(なにしろ当時は当たらなかったのだから)初見の人間にこれはどう見えるのだろうか?と心配になってしまうのだ。

 個人的な感想を言うなら、ちょっと見ないうちに立派になったねえ、という感じで私は楽しめた、しかし前作を観ていない人間にとっても面白いかどうかわからない(つまり面白くないんじゃないかなーと思っているわけだ)

 よってお勧めは出来ない。

 ま、かなり変テコな映画であり、今でもそれなりにトンがっている作品ではあるので話のタネに観ておいてソンはない(かもしれない)、レンタルならより間違いがない(かもしれない)



PS

 さて私はこれをIMAXデジタルシアターの3D版で観てきた。

 IMAXというのは元々70ミリフィルムを横走りで使う映写システムで超高解像な上映方式だ。
 従来の35ミリ映画と何がどれだけ違うかは、下の図を見ていただきたい。







 右が通常の映画でありフィルム幅が35ミリ、フィルムの左右にはパーフォレーション(コマ送り用の穴)があり、左のパーフォレーションの内側には2列のサウンドトラックがあるため、映像は 21.95mm × 18.6mm のサイズで記録されている。

 その隣がいわゆる70ミリ映画の70ミリフィルム、大スクリーンに映写するための高解像フォーマットだが、それでもフィルムを縦走りで使用するためフィルムの横幅をコマの長い辺に使っているに過ぎない。

 左がIMAXで70ミリフィルム横に使っている(フィルムは横走りする)ため、映像1コマのサイズが70mm×48.5mmあって、35ミリフィルムに対し8倍以上の面積がある。

 映画は小さな画像を拡大/投影しているわけで、限度を超えれば細部がぼやけて鑑賞に堪えなくなる、IMAXはこの巨大なフィルムフォーマットによって通常の映画館より遙かに大きなスクリーンに映画を上映することができるのだ。

 その「遙かに大きい」とはどのくらいのものかというと、たとえばのサントリーミュージアム大阪のIMAXシアターはスクリーンサイズが28m×20mもある。
 高さが20m、6階建てのビルほどもあると言えばその大きさが理解できるだろう。

 いくらスクリーンが巨大でも劇場が大きく、遠くから見るハメになったのでは意味がないが、IMAXシアターは客席が階段教室のようにそそり立っていて、スクリーンとの距離が近い(そのため、スクリーンサイズの割にはキャパが小さい)
 巨大なスクリーンを間近で見るため、視野全部が映像となり臨場感は満点である(解像度的には余裕アリアリなので近くで鑑賞しても映像は細部までくっきりしている)
 
 私としてはヘタな3D上映より、IMAXのほうがよほどリアリティ、迫真性に富んでいると思っているのだが、東京のシアター「メルシャン品川IMAXシアター」「高島屋東京IMAXシアター」は21世紀に入ってあいついで閉館、ついにIMAXは東京に無くなってしまった。


 さてIMAXは3D上映も行っている。
 実は「アバター」公開の際、ジェームス・キャメロンは「アバターを最高の状態で鑑賞できるのはIMAX3Dだ」と言っていたのだった(最高じゃないことを承知で通常の映画館で公開してるのかよ、と私は思ったのだったが)
 アバターもIMAXで観たほうがいいのかなとは思ったのだったが、自宅から一番近いIMAXシアター(川崎)まで、電車で1時間以上かかる為、ついつい自転車で行ける(!)MOVIXで観てしまったのだった。
 (その後、暗い色が悪いと文句を言う私にたいし、各所からIMAXで観てくださいよ、というつっこみが入ったのだが、2度観る映画でもないので行かなかった^^;)

 いずれは噂のIMAXで3D観てみなくちゃな、と思っていたところへ朗報が入った、浦和のパルコ(埼玉県さいたま市浦和区、電車で10分、近いです)にIMAXシアターが入るというのだ。

 これは行かねば!と思ったのだが、オープニング上映はハリポタだったのでパス(3Dでもなかったし)次がこのトロン・レガシーだったので渡りに船(?)とばかりに観に行った・・・のだったが、うーんスクリーンが小さい。

 まあ嫌な予感はしていたのだ。これはパルコ内の1商業施設であって「ユナイテッドシネマ浦和」の1スクリーンであって、そんな専用のでかいスクリーンが設置できるわけもない、つまりフツーのシネコンサイズなのだ。

 それでもIMAXの3Dは映写機を2台使う偏光メガネ方式のため、他の方式、つまり液晶シャッターを使う「XPand」帯域分離を使う「ドルビー3D」よりよほど明るく、かつ色の変化もなく快適な鑑賞環境であったとは言えるだろう。


 とここまで書いて、IMAXについて改めて調べたところ、昨今日本各地に設置されたIMAXシアターはすべてテキサス・インスツルメンツのDLP(デジタル・ライト・プロセッシング)映写機を使ったIMAXデジタルシアターであって。このDLPは解像度が2Kしかないのであった。

 2Kとは2048x1080の解像度ということで、ほぼフルハイビジョンと同じということだがこれだと劇場の上映はちょっときびしい。
 NHKはハイビジョンが出来たとき、映画をデジタルで再現できる規格であると標榜していたのだがこれは疑問な数字である。

 実のところ35ミリフィルムの解像度がデジタルで言うと何ピクセルに当たるのかについては諸説あって結論は出ていない。

 そもそもフィルムというのは分子構造の変化を利用した化学的な映像記録方式であって、純粋にアナログなものだ、それをデジタル化したとして元の画質を再現出来ているか否かは主観による。

 また、映画の場合撮影したネガ(オリジナルネガ)からマスターポジという上映用の原型を作り、そこからデュープネガというコピー元を作り、デュープネガを必要な数ぶんコピーして劇場に卸すポジフィルムを作っている。

 つまり劇場に来るのは オリジナルネガ>マスターポジ>デュープネガ>上映プリントと3回のコピーを繰り返したひ孫のフィルムなのだ、そしてフィルムはコピーを繰り返す度に粒子が荒れ解像度が落ちていく。

 よって解像度云々というにしてもどの時点の画質の話なのかで話は違ってくるわけだ。

 結果(専門家でも意見の分かれるところなので私自身こうだとは言えないのだが)フィルムの解像度は4K(4096x2160)から2K(2048x1080)の間というのが間違いのないところだろう。
 つまりオリジナルネガは4Kに近く、上映プリントは2Kに近いということだ。
 (フルハイビジョンは1920×1080ピクセルなのだから、それこそギリギリ、あるいは「ちょっと足りない」規格であると言える)

 何が言いたいのかというとIMAXデジタルシアターのプロジェクターが2K規格であるということは35ミリの映画を35ミリ用のスクリーンに投影する最低限の規格であるということで、元よりIMAXフォーマットフィルムを上映するような巨大スクリーンに対応していないということだ。

 しかも2008年にこの規格が公開されて以来、日本にいくつか出来てきたIMAXシアターは全部IMAXデジタルで、しかも全部2Kプロジェクターを使用したシネコンへの併設施設なのだった。知らなかったなー

 あの見上げるような巨大スクリーンを持った劇場が作られることはもうないのかもしれないと思うと残念でならない。

 

 という状況を踏まえて言うと、今のIMAXデジタルの鑑賞料金2200円は高くないか?
 ユナイテッドシネマは特に、ファーストショー・レイトショー・レディースデー・会員デー・映画の日・シネマサンクスデー・夫婦50割引・高校生友情割引・クラブスパイス、キッズクラブ割引、全て適用外というちょー強気の料金設定なのだ。

 これは通常映画に各種割引制度を適用したときの金額1000〜1200円からすると倍の値段になるわけでさすがに割高感がありすぎる。

 ユナイテッドシネマではトロン・レガシーをXpand方式の3Dでも上映しているわけで、朝イチで行けば1200円で観られるのだ、極端な話、画面が明るいというだけで1000円余分に払う人はどれだけいるのだろうか?