「コピーであること自体は全然悪いと思ってない。所詮映画はコピーなんだから。 だからそれがどんなコピーなのかが問われるんだよ」 押井守 (「勝つために戦え!」より)
公開された際には配給会社がかなりプッシュし、それなりに評判にもなった作品だが、観た人の感想は賛否が相半ばしていて、これはひょっとして地雷なのかと様子を窺っているうちに観そこなってしまった。 そこで今回レンタル開始されたのでさっそくに借りてきて観たのだった。 さすがクリストファー・ダークナイト・ノーラン、金も手間もかかった丁寧な作りの大作感あふれる・・地雷だった(!) デカプリオ演ずる主人公は産業スパイ、それも人の夢に侵入して機密を盗みだす「エクストラクト」技術の達人である。 彼は世界的大企業のトップであるサイトウ(渡辺謙)に対するエクストラクトに失敗するが、サイトウからその腕を買われて別な仕事を依頼される。 それは他人の頭の中から何かを盗み出すのではなく、何かを植え付ける(他人から吹き込まれたアイデアを自分で思いついたように感じさせる)「インセプション」だった。 というお話だ。 さて、自分は今現実世界に居るのか、夢を見ているのか、その2つの違いは何か、見分ける方法はあるのか、そもそも見分ける必要があるのか(どちらが自分にとって幸せなのか)というのはマトリックスでも語られたテーマであり、(この映画は「マトリックスのような」とか「マトリックスを彷彿とさせる」などと評されてもいた) そのウォショウスキー兄弟がリスペクトした攻殻機動隊にあるテーマであり、押井守が繰り返し(というかそれしかないとも言える)映画化しているテーマであり、そもそも荘子が胡蝶の夢で「不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与」と詠んで以来のテーマでもある(今から2000年以上も前の話だ、荘子スゲー) 映画化すれば哲学的なお話となり、また複雑な映像ショーになるのが必然なのだが、そこは手練れのクリストファー・ノーラン、手堅くさばいて厚みのあるドラマと見応えのある映像で観るものを飽きさせない。 ならば成功じゃん?と言われそうだが、そこがこの映画の難しいところで「ここまで出来ているなら何故この穴を放っておく?」というスキが各所に、それこそ次から次へと出てきて「観ている最中にすら」気になるのだ、これは問題である。 そもそも冒頭から「このエクストラクトってこの時代どれだけ知られている技術なの?」という疑問が湧くわけだ。 主人公とその一味だけが使う、最先端にして秘密の技術かと思うと、大企業のトップはエクストラクトに対する防衛訓練を受けているとか、軍はこれで訓練しているとかいう話になって、シークレットながら「上の方」では知られた技術なの?と思っていると、東アフリカはケニアで阿片窟のようなところで、一般市民が夢の世界に遊んでいるシーンとかまで出てくる(秘密を盗むとか盗まれるとかでなく、この技術を使って現実逃避をしているらしい、それこそまさしく阿片のように)これってもう、秘密でも何でもないじゃん。 となると、この映画のように世界的大企業のトップが飛行機の中や新幹線の中で易々とエクストラクトをかけられてしまう状況はあり得ない。 対エクストラクト用の特殊訓練を受ける程なら、まずもってVIPは単独で行動したり、第三者から飲み物もらって飲んだりしないだろう。 という致命的な問題がいきなり冒頭からあるわけだ。 そしてこれ以外にも「ちょっと待ったー!」的な疑問が次々に出てきてしまう。 基本的にこの映画はオススメなので、初めて見る人の興を削がないようにこれ以上は語らないが、ともあれ映像は華麗で、語り口は鮮やか、ディティールは凄くいいのに、アラも目立つというアンバランスな作品だ。 アップで見ると飾り一個一個の細工は最高なのに、全体としてはバランスの悪い工芸品みたい感じで、フツーこれだけのお話が作れる人(達)は、穴に気づかず放置するなどということはないものなのだがあちこちほころびているのは何故だ。 というわけで、良いところと悪いところが混在している映画なのだったこれは。 半日つぶして劇場に足を運び、1800円也を支払ったらそりゃ文句を言う人もいるだろうが、逆に言えば300円少々でDVDを借り、ガタガタ言いながら皆で観るなら充分に面白いと言えるだろう。 少なくとも、深く静かにつまらない凡作とは一線を画す手の込んだ作品ではある。 ということで、一見の価値はありお勧めしたい、ただしレンタルで。 可燃物と毒物を満載した貨物列車が無人のまま暴走、路線の終点、工業地帯にある急カーブに差し掛かれば転覆は必至、線路脇の燃料タンク群に引火すれば被害は10万人規模、タイムリミットは100分、いったい誰がどうやってこの列車を止めるのか! ドキドキなアイデア1発の(底の浅そうな)アクション映画である。 ところで「タダのメシより旨いメシ」が合い言葉の私だが、ジャンクフードがたまらなく食いたくなることがある。 凝ったシナリオ、練られた世界観で構築されたオールスターキャストの大作もいいが(たとえばインセプション?)こんなB級感あふれる作品もまた映画の楽しみの一つだ。 とはいえ実のところ、そう思って見て失敗することは多い。 「Next」などはその典型だが昨今ハリウッドのB級娯楽作品の劣化は目を覆うものがある。 今回は「踏切に立ち往生した車を、まるで紙の箱をけ散らすように一蹴する機関車」の映像があまりに切れ味がよかったので、逆にいえばそれだけをたよりに、観に行ったのだが不安はありまくりだった・・しかし! 開巻冒頭、操車場に居並ぶマッス感あふれる機関車の映像を見てこれはいけるかもしれないと思った。 日本ではとうてい見られない長さ1キロに及ぶ貨物列車、それを牽引する化け物のような機関車「これが暴走したらそりゃたまらんわな」という説得力にあふれているのだ。 お話も単純明快で人間ドラマは最小減に抑えられている。 登場人物も少なく役割は明快だ、事件のきっかけを作ってしまうずぼらなデブ、決断力ある指令係、会社の損害のことしか考えない悪人運行部長、テンプレートだが誤解のない役どころと「ひと目でわかる」配役で映画はスリムである。 話の勝利条件も明快で、列車を止めれば勝ち、止められなければ負け、もちろん止めて終わるのは明らかなので、見せ所は誰がどう止めるかだけである。 そして、勤続28年の鉄道のことなら全てわかっている老運転手と、そのベテランと角突き合わせている鼻っ柱だけは一人前な若造が、確執を乗り越えてヒーローになるというのは映画の開始3分あたりで明らかになる。 老運転手は妻を亡くし娘2人を抱える欠損家族、若造は暴力沙汰で奥さんへの接近禁止を言い渡されているダメ夫と、ハリウッドフォーマット全開な人物設定で、これで家族への愛を高らかに歌い上げられたらどうしようかと思ったのだが、それらはあくまでも背景に留まっており「家族の再生をもって映画のエンディングにすり替える」というがっかりな作りでなくてほっとした。 さてこの映画の見所だが、それはもちろん疾走感である(主役が疾走する機関車なのだから当然なのだが) 片や、立ちはだかるもの全てを蹴散らして暴走する全長800メートルの化け物、片や一台の機関車に乗って追いすがる、老鉄道員と若造の2人。 話は見えている、人物造形はテンプレートだ、でも面白い、これぞ映画、小説にもアニメにも出来ないまさしく映画にのみ可能な興奮と言えるだろう。 お勧めする。 保木邦仁 渡辺明 月刊将棋世界 連載「コンピューターは七冠の夢を見るか? ニコニコ生放送 人類VSコンピュータ! 世紀の将棋対局 ~清水市代女流王将vs.あから2010~ 思考アルゴリズムにおける最適合議システム 塙雅織 伊藤毅志 局面評価の学習を目指した探索結果の最適制御 保木邦仁 『月は無慈悲な夜の女王』『未来の二つの顔』『2001年宇宙の旅』『地球爆破作戦』『ウォーゲーム』『ターミネーターシリーズ』『マトリックス・シリーズ』『火の鳥・未来編』など、コンピューターが人間を超える知性を持ち人間と対立、あるいは支配するというSFは数多い。 よって1997年、IBMのチェス専用コンピューター、ディープ・ブルーがチェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフを破った時、SF者である私は「ついにここまで来たか!」と思ったものだった。 もちろんディープ・ブルーはチェスを解くためにのみ開発された単機能のコンピューターであって、普遍的な知性などとは無縁のシロモノだ。しかしチェスというものは論理性、記憶力、推理力、あるいは克己心、冷静さが必要とされるゲームであり、つまりはその頂点を極めようとする人間に高度な知性を要求するものだ。 これは、高度な知性を必要とする分野であっても、コンピューターがその第一人者を打ち負かすことが出来ると証明できたという意味でエポックメイキングな事件だったと言えるだろう。 さらに言うと、開発チームの誰よりディープ・ブルーはチェスの腕が上回るということも重要だろう。 開発にはチェスのグランド・マスター、いわば「名人」も参加しているが、グランドマスターの腕は世界チャンピオンに及ばないし、世界チャンピオンに勝ったディープ・ブルーに及ばないのは確かだ(そもそもチェスの世界にはグランドマスターが1000人以上いて、そのインフレが問題になっていたりする) 当然ながらプログラマーレベルだとまったく歯が立たないと思われる。 <余談だが、オセロではもはや人間はコンピューターにまったく歯が立たないらしい、序盤戦においてプログラムがやっていることは人間には理解不能なのだという> つまり人は自分を超え、自分の理解できないものを作り出すことが出来るということなのだ、これはある意味衝撃的な出来事である。 この先にあるのはHAL9000かアダム・セレーネかはたまたスカイネットなのか。 チェスでHAL9000に負けるボーマン船長、まあ当然だわな さてしかし、この時「それはチェスであるから起きることで、将棋ではコンピューターがプロレベルになることさえ難しい、名人に勝つ日などは永遠に来ない」というようなことが言われた。 理由は将棋の複雑さとコンピューターの思考方法にある。 チェス・将棋・囲碁・オセロ・バックギャモン・軍事将棋・モノポリー・すごろくなどは全てボードゲームと呼ばれるが、前者4つは「二人ゼロ和有限確定完全情報ゲーム」という。 これは「2人で行うゲームであり、一方が勝てば片方は負けと決まっているゲームであり、打てる手は理論上有限であり、サイコロを振るなど運の要素が入り込まず、盤面の状況お互いの持ち手などプレイする上で必要な情報は全て見えているゲーム」ということだ このタイプのゲームである将棋を行う場合、コンピューターは定石>先読み>完全読み切りという方法で思考する。 定石というのはいわば最善手の応酬であり先に筋から離れれば手を悪くする可能性が高い(そのため「腰掛け銀」という定石などは80手付近まで同じ打ち筋になるという、平均115手で終了すると言われる将棋で80手まで同じということだ) 定石は膨大なデーターベースを持つことが可能なコンピュータ向きの作業である。 さて定石から離れ、1手1手の読み合いになってからが将棋の真骨頂であり、コンピュータの思考能力が試されるところだ、しかしここが難しい。 将棋の着手可能な手は1局面につき平均80手だという、すると2手目は80×80で6400の局面が存在することになる、コンピューターはその全てに有利、不利の度合いを数値化していくことになる。 そして、最新のコンピューターでは1分間に1億面を先読みできる・・と聞くと、そりゃ凄いと思うだろうが実のところこれはそう凄い数値でもない。 局面は級数的に増えていくからだ、(そしてこの級数的増加というのは人間の感覚では捉えきれない。たとえばの話、3回折りたたんだら厚さが1ミリになる紙があったとして、それを100回折りたたんだら厚さはいくつかという問題がある、答えは160億光年である ^o^;) 将棋の面数は3手目には51万2千面、4手目4096万面と増え、5手目には1677億面となり、現在最高速の将棋専用コンピューターでも先読みするのに30時間かかってしまうのだ。 将棋は最高位の名人戦でも持ち時間は9時間なのだがら、コンピューターといえど5手先までも読めないことになる。 そこは人間でも同じだろうというと、これがそうではないあたりが奥深いところだ。 人間は読んでも意味のない部分は最初から読まず、「筋がありそうな」部分だけを選択的に読む。また、読み切れない先の展開でも、あそこに「詰み筋がありそうだ」とか「玉の囲いが薄そうだ」というような勘が働く、そして有限の時間内で10手近く先まで読んでしまう (コンピューターが総当たりで手を読んだ場合、1分1億手の速度だと10手読むのに20兆4000億年かかる >_<;) これが勝負を続けているうち、人間に自然と身につく「大局観」だ、大局観を数値化したりプログラミングに取り入れたりするのは難しい。 といって5手先も読めない全数探索/総当たり方式では勝負にならないので将棋プログラムはさまざまな工夫をして「選択的探索」を取り入れている。 しかし「ボナンザvs勝負脳」の筆者、将棋プログラム「ボナンザ」の制作者である保木氏は選択的探索はプログラムが複雑になる分ハードの負荷が高くなるので必ずしも効率がいいとは限らないと言う。 またその選択(探索の枝を刈るという意味で「枝刈り」ともいうが)の方法によっては、人間ではありえないポカをする可能性もある。 たとえば当初総当たり方式を取っていた「ボナンザ」はバージョンアップによって選択的探索を取り入れたが、その枝刈り方法は「飛角歩の不成、2段目の香の不成を読まない」という方法であるため打ち歩詰めを読めず、詰み筋を見逃したり自爆したりする(らしい・・私は駒の動かし方を知っている程度なので、なんのことやらワカリマセン) 比べてチェスはどうかというと、チェスは将棋のように取った敵の駒を自分の手として使えないため、盤面から駒がどんどん減っていって、最後には5~6個しか残らない、駒が減るということは選択肢が減るということであり、選択肢が減るということは特段の枝刈りをしなくとも、読みを深くできるということであり、つまりは中盤以降コンピューター有利になっていくということだ。 序盤は定石、中盤以降は有利というわけでチェスは元々コンピューター向けのボードゲームであったわけだ。 (先に述べたが、60手で必ず終了し、着手可能な場所が1手ごとに減っていくオセロにおいて人間に勝ち目がないのは当然と言えるだろう) 将棋はそうではない。 最大593手、平均80手という着手可能数は最後まで持続する、よって将棋の全局面(スタートから詰みに至るまでに可能な全ての手順)は理論的に10の220乗通りあるという。 チェスのそれは10の120乗と言うから、将棋はチェスに比べ100乗倍複雑ということになるわけだ。 先にも言ったが「100乗倍」は人間には直感出来ない、隔絶した数字である。 そのチェスがやっとのこと人間に追いついたということであれば、その100乗倍複雑な将棋でコンピューターが人間に追いつくのはいつのことなのだろうか? 「それはチェスであるから起きることで、将棋ではコンピューターがプロレベルになることさえ難しい、名人に勝つ日などは永遠に来ない」と言われたのはそのためだ。 しかしそれから10年以上の年月が流れた。 「コンピュータ将棋協会」には情報処理に関する多くの専門家が集い、ワークショップが開かれ、毎年「世界コンピュータ将棋選手権」が開催される。有志によって日々研鑽が積まれてプロの牙城に迫るプログラムがいくつも開発されるに至ったのだ。 <ここに至るまでにはコンピューター将棋に関するいくつかのブレイクスルー(技術的突破)があった。その中でも特筆すべきなのが「ボナンザ」を開発した保木氏による「評価関数の機械学習」通称「ボナンザメソッド」だろう。 トロント大学で化学反応の制御理論を研究していた氏は、ディープ・ブルーの勝利の報を聞いて興味を持ち、すでに一定の成果の出ているチェスではなく将棋の分野でなにか貢献できないかと考えてコンピューター将棋の開発に手を染めた。 しかしコンピュータ将棋のキモは中盤における先読みの評価である。1分に1億手を読めると言っても読んだ手のどれが最善であるか判断できないのでは意味がない。 1手目と1億手目を比べてどちらが良い手なのか、他の99999998手と比べてはどうなのか、その判断が的確でなければ強い将棋プログラムにはなり得ない。 この評価はある種のルールによって、各局面に点数を付けその手の良否を比較するという方法で行うことになる、そしてこのルールを「評価関数」という。 この評価関数、基本的には桂馬は歩よりも価値があるとか(だから駒交換してはならないとか)、敵陣に近い駒は価値が高いなどという原則を並べた代物だが、単純なルールで割り切れるほど将棋は簡単ではない。 序盤と終盤では駒の価値も変わるし、持ち駒に歩が一枚あるかないかで戦局が大きく変わることもある。 敵味方入り乱れたある局面と、ちょっとだけ違いのある別な局面のどちらが自軍に取って有利なのか、そこが判断出来ないでは将棋にならないわけだが、いったいに何をどう見て判断すればいいのか、言ってみればこの評価関数の作成こそがコンピューター将棋の最大の課題であるわけだ。 従来これは将棋に覚えのある開発者が自分で作成、調整をしていた。しかしそれでは情報処理に長け、かつ将棋が強い人間以外には将棋プログラムが開発できないことになる。 しかし保木氏の実力はアマ5段程度、かなり弱いといってよい、そこで氏は自身で評価関数を作ることをせず、本業である化学反応制御の理論を応用することにした。 氏が取り組んでいるのは望むべき化学反応を起こすために必要なファクターを数学的に割り出すという学問だ。 これを望むべき反応=強い棋士が指した手、を選択するために必要なパラメーターは何かを割り出しそれを最適化する、という方向に応用したのだ。 この理論はのちに「局面評価の学習を目指した探索結果の最適制御」という論文になっているが。 論文の概要からして 熟練した人間の棋譜との指し手一致の度合いを測る目的関数を設計し,これに停留値を与える静的評価関数 f(v) の特徴ベクトル v を求める.さらに,v = 0 となる自明な解の除去や,棋譜サンプル数の不足に起因するオーバーフィッティングを回避するため,ラグランジュ未定乗数法を用いて目的関数に拘束条件を課す.目的関数の停留値は静的評価関数の勾配 ∇f(v) を用いて探索される.これは,古くから知られている最適制御理論の枠組みに沿った手法である などとなっており、まったく理解できない。 しかしなにはともあれこの機械学習は功を奏し、この評価関数を用いたボナンザは発表と同時にコンピューター将棋のトップに躍り出た。 将棋に強くなくても強いコンピューター将棋は作れる、この事実は愛好家に強い衝撃を与え、コンピューター将棋界は新たな局面を迎えた。 そして、当初懐疑的だった既存の開発者たちも次々に機械学習を取り入れ、現在トップクラスのコンピューター将棋でこれを導入していないものは無い> さてそのように強くなったと言われるコンピューター将棋だが、いったいにどれほど強くなったのか? それを測るには実力ある棋士との対決以外に方法はない、しかしこの数年でプロ棋士、つまり日本将棋連盟所属の4段以上、との対戦は1回しか行われていない。 それは2005年9月、橋本崇載5段(当時)がコンピューター将棋TACOSと公開対局をおこない、あわやという局面があったからだ。これを受け将棋連盟は翌10月、棋士・女流棋士全員に「連盟の許可なくコンピューター将棋ソフトとの対局を行うことを禁止する、破れば除名」という厳しい通達を出した。 プロ棋士が不用意にコンピューターと対局し「コンピューターついに勝つ!」と喧伝されてはかなわないと思ったのだろうが「逃げた」と私は思った、多くのコンピューター将棋開発者達もそう思ったことだろう。 次の公式対局が実現したのはその2年後、2007年になってからだった、相手は渡辺竜王、その勝負についての経緯をまとめたのが「ボナンザVS勝負脳」である。 結果は渡辺竜王の勝利、ボナンザが押している局面もあり、優勢だったこともあるようだが「万が一にも負けてはいけないので慎重に行きすぎて、押されているように見えたかもしれない」と竜王が言うように実力通りの結果だったようだ。 実際保木氏は「勝てるとは思っていなかった、恥ずかしくない将譜を残したかった」と述べている。 事の次第は本を読んでいただきたいところだが。面白いと思った箇所を一つだけ紹介する。 本文中で渡辺竜王が 「実際に対局してみると、明確な意志を持ったひとつの知性と対決しているような気になってくるから本当に不思議だ」」 と述べている。 また保木氏も 「コンピューターも間違えた」とか「いま、ボナンザは困っている」という表現をする人がいる。 将棋連盟会長米長邦夫は「感情らしきものが芽生えていて『いってしまえ』といった感じではなかったのか」と発言している と例を引き。ボナンザは数式に従って計算しているにすぎない、まさしく機械的な作業だ、それに人間的な評価をする、これが人間の性なのだと思う。 と述べているがこれは示唆に富んでいる。 というのも、コンピューターの父、アラン・チューリングが考えたチューリングテストというものがあるからだ。 これはコンピューターが知性を持ったと言えるかどうか判定するためのテストである。 仕組みは簡単だ、人間の判定者がキーボードとディスプレイを使って隔離された部屋にいる人間orコンピューターと会話する、会話している相手が人間なのかコンピューターなのかを判定者が判別できなければそのコンピューターは知性を持っていると見なす、というものだ。 チューリングはチェスの相手をさせることもテストとして使えると思っていたようだ。 我々はボナンザに知性がないことを「知っている」また人に知性があることも「知っている」とはいえ、それは目に見えて指摘できる「何か」があってのことではない。 人に関していえばある状況下である一定の反応が返ってくればそれが人の知性の証と捉えているだけだ、ならば相手が人であるかどうかわからない状況でその反応に知性を感じたとき、その相手に知性があると言っていいのだろうか。 同じ反応でも相手がボナンザであると知ったときそれは知性でなくなり、人であると知ったときそれは知性であるとするのだろうか? 後付けのデーターで知性の判定が変わるとするなら、一体知性とは何なのだろうか? 閑話休題してコンピューター将棋の話を続ける。 渡辺竜王戦でまずまずの成績を上げたコンピューター将棋だが、それ以降の進化も急速だった。 これはまず半導体技術の進歩によるところが多い。 半導体業界では有名な「ムーアの法則」というものがある。インテルの創業者ゴードン・ムーアが唱えたもので「集積回路上のトランジスタ数は18ヶ月ごとに倍になる」(おおざっぱに言えば処理能力が倍になる)というものだ。 これが真であればある集積回路は3年後に四倍、6年後には16倍に密度(と性能)が増加するということになる。つまりこれは「級数的増加」というやつであり、およそありえない主張に見えるのだがおそるべし、これが唱えられた1965年以降、半導体は(ほぼ)この法則に則って進化しているのだ。 簡単に言えばコンピューターは級数的に小型化し、性能が上がり、価格が下がるということだ。 コンピューター将棋の力は単純に処理能力の上昇で上がるが、この小型化、低価格化によって別な局面も見えてきた。 それが多数のマシンを並列動作させて処理を分散するクラスタマシンの登場だ。 1つのコンピューターに複数のCPUを乗せるのがマルチコア、コンピューターを複数つなげて並列動作させるのがクラスタである。 2010年5月に行われた世界コンピュータ将棋選手権では複数のプログラムがクラスタマシンで参加したが、その中の「GPS将棋」は東大駒場の情報処理棟にあるコンピューター300台を並列化し、666コアという構成で参加した。 またこのクラスタ化とは別に合議制という手法も登場した。 これは保木氏がボナンザのソースをオープン化し誰でも使えるようにしたことで実現したものだが、評価関数にゆらぎをもたせた6つのボナンザを3つのマシンで同時実行し、差し手が違った場合は多数決を取るという手法だ、このプログラムは3人寄れば文殊の知恵ということわざから名を取り「文殊」と名付けられた。 「文殊」は2009年のコンピューター将棋選手権に出場し、総合成績では6位と本家ボナンザの2位に及ばなかったが、直接対決では勝利している。 文殊チームは2010年には本家の保木氏と組み、6台のコンピューター(56コア)という構成で参加した、またここでは「楽観的合議」という新手法も取り入れられた。 これは従来、差し手が違った場合は単純な多数決で手を決めていたものを、評価値のポイントが高い手を優先するという手法だ。 簡単にいえば少数派であっても「これは他よりずっと良い手だと思う」というプログラムがあった場合はそれを優先するということである。 また詰め将棋に関して、通常の将棋プログラムとはまったく違ったアプローチが開発された。これはdf-pn探索法という物で、簡単に言えば王手をかける場合、その手が複数あるなら、相手の取りうる選択肢が一番少ない手を選ぶというものだ。 この基準に従ってまず王手をかける、その手に対し相手の王が逃げるなり、打った駒が取られるなりしたら、同じ基準で続けて王手をかける、そうやって詰めていき王手が途切れるようなら1手戻って別な手を打つ、その枝が途切れるようなら、もう一手前に戻る、たったこれだけの事で詰め将棋は解けてしまうのだという。 この手法、打つ手はなんでもアリの通常局面と違い、王手となる手のみ考慮すればよいので着手可能数がきわめて少ない、また考慮すべき結果は王手が持続するかどうかなので面倒な評価は必要ない、つまり読みのスピードが勝負のコンピューター向きアルゴリズムなのだ。 一見単純なこの手法だが、これがどれだけ強力なのかは以下の例でわかる。江戸時代に作られ200年間最長を誇った611手詰めの詰め将棋「将棋図巧、第百番 寿」 人間だと解くのに何時間かかるかわからないこの問題を将棋プログラム「Tacos」は7.2秒で解いてしまうのだ。 また将棋には「詰将棋解答選手権」という詰将棋専門の大会がある。 そのチャンピオン戦にはプロ棋士も参加するが。これは19手詰以下が6題、21手詰以上が4題の10題を持ち時間90分で解くというものだ。 詰め将棋ルーチンはこれをほとんどノータイムで解いてしまうという(゚o゚) 現在ほとんどの有力プログラムはこの詰め将棋ルーチンを搭載し、通常の対戦の合間に詰みのある無しを探っている、対局中に詰み筋があればコンピューターは絶対にそれを見逃さないだろう。 人間は同じことを頭の中でやるしかない、詰みを見つけたと思っても間違っている可能性はあるし、詰めていく最中にポカをすることもある、しかしコンピューターはどんなに手数が多くても間違えることなく正確無比に寄せてくる、これは人間にとっておおきなプレッシャーとなるだろう。 ・・などなど、単純なプログラムの改良の他に環境の整備、処理方法の革新等がありコンピューター将棋は躍進したのだ。 そしてついに情報処理学会は将棋連盟に挑戦状をつきつけた。 もっとも、女流棋士というものが正しくプロ棋士であるかについては微妙なところと言わざるを得ない。 通常「棋士」というのはプロ棋士養成機関である奨励会に入り、厳しい昇段試験をくぐりぬけて満26歳の誕生日までに4段に昇格したものを言う(満21歳までに初段、満26歳までに4段にならなければ強制退会となる) この4段から「棋士」と呼ばれようになり、給料が支払われるようになって「プロ」となるわけだが女性でこの難関を突破したものは居ない。 女流棋士の場合、この奨励会を2級以上で退会すれば即女流棋士会所属の「女流棋士」となることが出来るわけだから「棋士」との実力差は大きいと言わざるを得ない。 つまり将棋連盟としてはまずは格下を当ててきたわけだ、しかし道場破りに対しいきなり師範が相手をするわけもなく情報処理学会として文句を言うわけにもいくまい。 それにこの清水市代女流6段はそうとうに強い、数々のタイトルを持つ女流棋士会のトップであり、交流戦で棋士と対戦しても一定の勝率を上げる実力派なのだ。 といって「名人に互する」と大見得を切った以上コンピューター将棋側としては万が一にもこの勝負を落とすわけにはいかない。 なにしろまだ死亡遊技の第一層目なのだ、次々と立ちはだかる難敵を打ち砕き、ラスボス羽生善治を引きずり出さなければならない。 この大勝負に情報処理学会「トッププロ棋士に勝つ将棋プロジェクト」が用意したのがコンピューター将棋でトップクラスの「激指」「GPS将棋」「ボナンザ」「YSS」という4つのプログラムであり、さらにそれらを通常実行バージョンとクラスタマシンバージョンの2つに分け、合計8つのプログラムが同時実行される。 さらにそれらを多数決合議プログラムが統括する。 支えるハードウェアは東京大学の4コアマシンXeonが169台676コア(さらにバックアップとして1プログラムに1台づつ6コアのXeonが付く)という超弩級のシステムである。 2007年1台のマシン上で動く単体のボナンザが渡辺竜王に挑んだのが、戦艦に挑む水雷艇であったとすればこれは連合艦隊と言ってよい。 このシステムは「あから2010」と名付けられた。 あから/阿伽羅、とは10の224乗を示す数詞で将棋の全局面数である10の220乗に近いことから採用された。 <※この阿伽羅を含む数詞は華厳経に由来し、万億兆と数える我々の数詞とは別な命数法である。 万億兆の数詞は3ケタごとに繰り上がり18番目の数詞「無量大数」(10の68乗)で終わりだが、こちらは、7ケタで繰り上がる数詞が122個あって最後の「不可説不可説転」は10の37218383881977644441306597687849648128乗となる( ̄□ ̄;)> あから2010のマスコットキャラクター、誰か止める奴はいなかったのか 対局は公開ではなく、大会議室に観客を集め、プロ棋士による大盤解説が行われた、会議室は500人の収容人数があったが立ち見が出て急遽別室が解放される程の人気だった。 この様子は全てニコ動が生放送し、今でもタイムシフトで見ることが出来る。 さてこの対局、見どころが早くも4手目にあった。あからが3三角を打ったのだ。 大盤解説会場のどよめきが司会者のマイクにも入っている、なぜ3三角が注目手なのかというと、これが定石ではなくプロの将棋でもめったに見ない手であったからだ(ということらしい・・) 先に述べたが、定石データーベースを持っているコンピューターは序盤に強い、最善手の応酬である定石をなぞるかぎりミスをする心配がないからだ。 そして詰みをけっして見逃さず、詰めの手順をミスらない終盤も強い。 問題は中盤である、大局観(直感?)を持たないコンピューターは1手1手の読み合いがまだまだ人間に及ばない。 つまり人間側としては早く中盤戦に持ち込むのが吉ということになる。 渡辺竜王もボナンザ戦の際に、早く定石から離れたほうがいいと述べているし、今回の対局に関しても「定石をちょっとだけ外すという作戦はどうか」という意見を述べる棋士もいた。 これはコンピューターに定石から逸れたと思わせて思考ルーチンを発動させ、しかし自分の側は定石が求める形をあまり崩さずにいて失着を待つという作戦だ。 それなのになぜあからみずから定石を捨て、ルール無用のストリートファイトに持ち込むのか? ・・というような事は入場料1000円也を支払ってまで大盤解説会場に詰めかけるファンであれば瞬時に理解されることなのだろうが、私は解説されるまで何が起きたのかわかりませんデシタ。 実はこれは。 清水女流名人の全棋譜を分析し今まで打たれていない手であるということ。 後手の場合コンピューターは角交換/振り飛車が有利と思われたこと。 早めに角交換を誘うと清水名人に時間を使わせることが出来ること。 などから導き出されたコンピューター陣営の秘策だったのだ。 コンピューターの中盤の棋力を信じなければ採れない勇気ある作戦だが、実際この勝負は中盤までに時間を使い切った清水女流名人が1分将棋を強いられて失着、決着に至ったわけで、的を射ていたと言うべきだろう。 この一手を打つにあたってあから側でどんな議論(?)がなされていたのかは、公開されている合議ログで知ることができる。 <ところで今回の合議は8つのプログラムがそれぞれ1票を持つのではなく、2010年のコンピュータ将棋選手権優勝プログラムである「激指」が3点、あとの3つのプログラムが2点づつの発言権を持ち、それをそれぞれ 激指2.9 激指クラスタ0.1 GPS将棋1.0 GPS将棋クラスタ1.0 ボナンザ1.9 ボナンザクラスタ0.1 YSS1.9 YSSクラスタ0.1 と割り振ってその合計点で決めるというシステムになっている。 (GPS以外のクラスタの発言権が低いのは、選手権での運用実績があるGPS以外試用段階である為であるという、多数集められたマシンはクラスタ用なのだから、あまり効率的ではないとも言える)> 以下は4手目にあからが3三角を打った部分である。 My turn starts. Time limits: max=177.00 fine=89.00 easy=45.00s YSS is confident in 2233KA. csa< -2233KA all< move 2233KA 5 pid is set to 5. time-searched: 200.24s time-elapsed: 0.00s csa> -2233KA,T1 Time: 1s / 2s. これを見るとあからも楽観的合議の手法を採用しているらしく YSS is confident in 2233KA. (YSSは3三角を確信している) というコマンドにより合議をせず打ち手を決定している。 これは前もってYSSの評価関数を手動で調整して実現したらしい。 さてその後の合議の様子だが。 Opponent's turn starts. (敵のターンだ、敵の手を予想するぞ) Time limits: max=97.40 fine=48.80 easy=24.60s (意見が一致するようなら24秒、できれば48秒、最大でも97秒で決を取るぞ) The best move is 8833UM. (3三馬に決まりだな) 7 valid ballots are found. (7人から投票が来たんだが) sum = 6 (3三馬が6点) 1.00 8833UM nps= 0.0K 0.1s gpsshogi final 2.90 8833UM nps= 0.0K 0.2s Gekisashi final 0.10 8833UM nps= 0.0K 0.2s Bonanza_cluster final 0.10 8833UM nps= 0.0K 0.2s gekisashi_cluster final 1.90 8833UM nps= 0.0K 0.0s Bonanza final sum = 1.1 (2五歩が1.1点になっている) 0.10 2625FU nps= 0.0K 0.1s yss_cluster final 1.00 2625FU nps= 0.0K 0.1s gpsshogi_cluster final all< move 8833UM 6 pid is set to 6. Ponder on +8833UM. (よって3三馬が来ると思って、応手を考えるんだ) 8 valid ballots are found. (8人の投票が来たぞ) sum = 9 (9点、全員一致だ) 1.00 2133KE nps= 0.0K 0.1s gpsshogi final 2.90 2133KE nps= 0.0K 0.2s Gekisashi final 1.90 2133KE nps= 0.0K 0.9s YSS final 0.10 2133KE nps= 0.0K 0.1s yss_cluster final 0.10 2133KE nps= 0.0K 0.1s Bonanza_cluster final 1.00 2133KE nps= 0.0K 0.1s gpsshogi_cluster final 0.10 2133KE nps= 0.0K 0.1s gekisashi_cluster final 1.90 2133KE nps= 0.0K 0.0s Bonanza final (みんな3三桂と言ってる) csa> +8833UM,T330 Opponent made a move +8833UM,T330. (敵は3三馬を打ってきた) Time: 330s / 604s. Pondering hit! (330.23s) (読みが当たったぜ!) My turn starts. (こっちのターンだ) Time limits: max=177.00 fine=89.00 easy=45.00s Easy Move (読みが当たったんで楽勝だな) The best move is 2133KE. (3三桂に決まりだ) という風に進んでいる (※赤字は筆者がアテレコしたものですが、似たようなことは誰もが考えることらしく以下のサイトなどをご覧になるとより楽しいかもしれません) 「ハートキャッチあから?!」 そして結果だが、先に述べたようにあからの圧勝だったと言ってよいだろう。 およそあからに危ない局面はなく清水女流名人は87手目に投了した。 コンピューターついに勝つ! SF者としてこの喜びを広く伝えるべく早々にこの原稿を書き始めたのだが、この対局についての本が2月に出ると聞き、それを読んでからにしたほうがいいか、と思いつつもずるずると書きつづけ、結局待ちきれずにアップしてしまった。 本が出た暁にはまた何か紹介する(かもしれない) ところで、一階の敵を一蹴したからには、二階に昇って次の敵と相対するのが当然である、敵は次第に強くならなくてはいけない。 将棋連盟も新弟子を当てて負けたからには次は中堅、その次は高弟、以下師範代、師範と繰り出すのが当然である。 米長会長が、次に男性棋士を出すことは考えていない、次は清水女流名人がリベンジする番であると言うのは情報処理学会に対し礼を失しているような気がするのだがどうだろうか。 西尾維新 1話ごとに新たなヒロインが現れ、そのすべてに惚れられる主人公、阿良々木暦くんの「化物語シリーズ」最新刊、第8巻である。 (初期2刊は短編集なので)5巻で8人のヒロインが登場しその全てにフラグを立てるというのは、とあるラノベのフラグメーカー氏よりハイペースであり、第2シーズンが始まると聞いた時は、「阿良々木ハーレム」はいったいどうなってしまうのか思ったものだが、どうやら第2期ではヒロインを増やす予定はなく、既存のヒロインとの関係をより深く描くという方向のようだ。 ちなみに「第2シーズン」とか「2期」とかいうのは、5巻からしばらくのあいだを置いて6巻が発刊されたとき、これは新章が始まったのだと解釈した私が頭の中で勝手に名付けていたものだが、今回のあとがきで西尾維新自身が「シーズン2」という言葉を使っているので、やはりそういう位置づけでいいのだと思った次第である。 もっとも、そこで当人が「本書はシーズン2の第二話ということになるんでしょうか?」と言っているのですが、それのほうがわかりません。 「いよいよ僕達の物語に終止符を打つことにしよう」と言って始めた第5巻「偽物語 下」が当初予定していた「化物語」シリーズの最終巻であるのは間違いないことで。 その後、大人の事情で始まった(に違いない)今回の「シーズン2」、この第1巻「猫物語(黒)」が第一話、「猫物語(白)」が二話、となればこれはシーズン2の第三話だと思うのだけれど違うのだろうか。 猫物語は黒・白で1話扱い、ということなのかもしれないが、この2つはそれぞれ5月と9月と季節も違う独立したお話であり、なにより「白」は「話者が違う」(他は全部阿良々木くんの一人称であり、これだけがヒロインの一人、羽川翼である)という特異なお話なので、この2つはまったく別なお話だと思うのだが。 などというのはまあ、どうでもよくて、ちょっと驚くのは発刊ペースの早さだ。 前作「猫物語(白)」の発行日が10月27日、そしてこの「傾物語」が12月24日、つまりあいだが2ヶ月もない! シリーズ専業のラノベ作家(?)でさえ通常発刊ペースは3~4ヶ月に一冊なのだ(それでさえ遅らせて「申し訳ない」などとあとがきで謝っているのを見かけたりする) それが、2ヶ月である。書き溜めてから出してるんだろうと思ったのだが、「そうじゃないよ」という作者のメッセージなのか、文中で「雑談をまったくせんかったバサ姉語り部、相当評判よかったらしいからの」と、前作の反響までもが書き込んである。 「相当」と書くからには、読者の反響だろうと思うが、脱稿直前につっこんだとしても相当の離れ業と言わざるを得ない、し・か・も、西尾維新は少年ジャンプで人気の連載マンガ「めだかボックス」の原作をやっているのだ。 「バクマン」を見ると(あるいは見るまでもなく)週刊連載、それも人気投票に縛られて即結果を求められるジャンプの連載というのがどれだけキツイものであるかわかる。 多くのマンガ家や、その原作者は睡眠時間を削り、1週1週をかろうじてクリアしつづけているのだそれをこなし、なお2ヶ月未満で小説を1つ仕上げるというのが信じられない。 というのも、まあ本質とは無関係であってどうでもよくて。 気になるのが今回のメインストーリーである。 ネタバレになるが今回はなんとSFである、さらにぶっちゃけるとタイムトラベルものである。 ここまで言っちゃいかんだろうとおもいつつ言うが、タイムパラドックスものでもある。 作者曰く、主人公阿良々木暦くんとその相方の吸血鬼(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード 改め 忍野忍ちゃん、見た目は幼女、中身は600歳)の2人しか出てこない小説を書こうとした、ということなのだが基本伝奇ものである本シリーズでタイムトラベルは無いだろう? と思わざるを得ないわけだ。 先に、化物語について書いた時にも触れたことだが、本シリーズは時に小説の枠組みを解体するところまではっちゃけたりする(登場人物たちが、アニメ化された時の自分達のキャラデザインや声優について語ったりする。 前作の評判について触れたりするのもその一環であろう) とはいえそれが面白いのは「枠」がしっかりしているからだ、枠があるからこそそこからはみ出てみせる行為がジョークとして成立するわけだ。 今回のSF仕立ては、読者と作者の間にあった「いろいろあるけど化物語シリーズってのはこういう世界観なんだよね」という枠組みを破壊しているような気がするのだ。 このキャラクターをこんな世界観に放り込んでみたら面白いかも、というのは2次創作によくある手で、後先考える必要のない2次創作作家がいかにもやりそうなことなのだが公式でこれをやってよいものか。 また、世界観云々はこの際置いておくとしても、ドラマツルギー的にもこれは危険な話であると思う、つまり「吸血鬼はその気になればタイムトラベル出来るのだ」と公言したわけだ。 しかしタイムトラベルは取り返しの付かない選択を「何度でも繰り返すことが出来る」いかなるピンチも「無かったことに出来る」オールマイティな切り札だ。 さすがに作者もこれが危険であることは承知で、作中「2度目がうまくいく保証はない」「もう一回やるエネルギーが無い」、あるいは「戦場ケ原の問題解決には使えない」「羽川翼の問題も無理だ」など、タイムトラベルは無理、危険、などエクスキューズの限りを尽くしている、 尽くしてはいるのだが、それらはいかにも言い訳っぽく、何事も韜晦して読者をケムに巻くのが大好きな作者の余裕が感じられない、この部分だけ言うところの「作者必死だな」という感じが伝わって来るのだ。 曲がりくねっているのが常態の本シリーズにおいて、ここだけがやけにストレートであり、このまっすぐな部分こそがこの小説の歪みである。 さて、今回の阿良々木くんのタイムトラベルは、実にたわいもない動機で行われている(「時をかける少女」の「妹に食べられてしまったプリンを先に食べるためにタイムリープした」に似たようなものだ) 確実性がなかったり危険であったりすれば、同じ動機ではもう行わないだろうと思うのだが、今後のこのシリーズにおいて取扱に注意な物件になったことは明らかだろう。 つまり阿良々木くん自身、あるいは阿良々木ハーレムの誰かにシリアスなピンチが迫ったとき、これを使って回避するという手が阿良々木くんに作者に読者に思いつかぬ筈がないからだ。 それがどんなに困難で、不確実で、危険であっても回復不能な悲劇が不可避となれば、やってみる価値がある・・というかやってみもせずにその悲劇を容認していいものか、という話になる。 といって作者はもう二度とこの手を使う気はないわけで、つまりそれは「絶体絶命のピンチ」というシチュエーションが作りにくいということを意味するわけだ。 作者は今回の試みを試行錯誤の結果、と述べているのだが、私は終始違和感があり(21世紀になってまだタイムパラドックスか、というカビ臭さも含め)この試みが成功したとは思えない。 新説東京地下要塞 大東京の地下99の謎 帝都東京地下の謎 完全版 秋庭俊 作者にはこの3作以外にもいくつかの著書があるが、言っていることは全て 「東京の地下には知られざる地下帝国がある、古くは江戸時代から存在するが、その多くは戦前、戦中に軍部が首都防衛のために建築した地下構造物と地下道である。今ある地上の建築物にも地下の遺跡を再利用しているものがあり、そのため一見不可思議な作りになっているものがある。また地下鉄路線のかなりの部分はかつての地下道を再利用して作られたものだ。これらは名目上は安全保障の為に、実際には利権のために国民の目から遠ざけられている」 というものだ。 つまりは陰謀論である。私は陰謀論は大好きだ(!)人類の月着陸はウソでNASAが全世界を騙していると面白いと思うし、UFOの残骸と宇宙人の死体はエリア51にあって欲しいし。地球の内部は空洞で北極に大穴が開いて誰かが(誰だ)必死で隠していると楽しそうだと思う。 というわけでいつが誰かが私をして「こ、これは!!」と思わせてくれないかと陰謀論をよく読むのだが、たいていの場合がっかりするばかりである。 こういった陰謀論で一番まずいのは「一見の価値はあるもの」と「そもそも謎でもなんでもないもの」と「あきらかな間違い(騙し?)」を混在させることだ。 まっとうに怪しいもの(?)だけを取り上げたのでは本を一冊刊行するに足りないのかもしれないが、根拠の怪しい項目が一つあれば他も怪しいのではないかと思うのは当然である。 この一連の地下帝国ものもその例に漏れない。 たとえば筆者は地下鉄南北線の「後楽園-東大前」のトンネルが怪しいという、たしかに写真を見るとコンクリートの壁に奇妙なくぼみがある。 コンクリート作りの橋があったとして、その橋脚の間、柱と柱の間に出来る形そっくりのくぼみがトンネル側面にあるのだ。 このような造作は工程を複雑にし工費を押し上げるだけの代物であり、一からコンクリートの壁を作ったのなら存在しない筈の物だ。 これは作者の言うとおり、壁の向こう側にも地下道があり、天井を支えるためのコンクリート柱で仕切られていた、それを南北線を通すにあたって(その存在を隠すために?)柱の間を埋めてしまったと見るのが適当であるように思える。 つまり地下鉄は(少なくとも南北線のこの区間は)既存の地下道を利用して作られている、という主張の強力な傍証であろう。 一方作者は日比谷公園の脇にある「日比谷シティ地下駐車場」が怪しいという。 ここは地上に「日本プレスセンター」「富国生命」「日比谷国際ビル」と資本の違う3つのビルがあるにもかかわらず、地下駐車場が共有されている、これが「一般の常識では考えられないような話」であり「初めから利点などない」と言うわけだ。 これはこの場所に戦前から存在する防空壕のような地下構造物があり、それを再利用しているからなのだ、というの作者の主張なのだがそうか? そもそも共同地下駐車場にはスケールメリットがある、バラバラに作れば3つづつ必要な斜路や、保安施設、管理施設が一つで済み、駐車スペースが多く取れて、かつ管理費用が安くなる。 そして、そもそも高層建築という概念が無かった時代の地下建築物の上に現代の高層ビルが建てられるのかどうか、これがはなはだ疑問であると言わざるを得ない。 今時のビルの建築現場を見ると驚くほど巨大な基礎が地下深くまで打ち込まれているのがわかる。上記の3つのビルは自前の基礎を打ち込まずに建築されたというのだろうか? このあたり、かなりあやうい主張であると言わざるを得ない。 また、作者は地下鉄千代田線「国会議事堂前」駅も怪しいという。 この駅はその名のとおり国会議事堂に隣接しており一部は議事堂の地下にあたる。 国会議事堂の地下には核シェルターがあるという噂があるそうで(まあ、あっても不思議ではないが)そのためなのか地下37メートルという深さにホームがある。 作者はホームが狭くて、上下線のホームの間に分厚い壁が走っていて、水漏れが激しく、近代の建築ではない、これは戦前に建設された地下駅を利用して作られているのだ、というのだがこれはどうみても間違い。 そもそもこの駅は断面が丸い、ホームの真上には平らな天井が作られているが、線路側の壁とホーム側面の壁は湾曲しており、これを延長すれば真円であることがわかる。 これはシールド工法で掘削したトンネルをそのままホームにしているからだ。 実際、2011年2月現在、この駅は「トンネル本体のメンテナンス」ということで、内側の化粧板が取り外され、セグメントと呼ばれる鉄枠がむき出しになっている。 セグメントはシールドマシンが前進したあとに設置されていくリング状の構造物であり、トンネル本体そのものである。 (湾曲したパーツ5~10個を組み立てて円形にするのでSegment(部分、切片)と呼ばれる) 私の乗り換え駅なので撮ってきました。 ホーム側のセグメントもむき出しになっていますが メンテのための仮囲いで見えません(このせいで、以前に増してホームが狭くなっています) 地下鉄の場合シールド工法でトンネルを掘っても、ホーム部分だけは開削工法(地上から掘り下げるで)作ることが多いのだが(改札口や、駅事務所など他にも必要になるし)国会議事堂前駅は核シェルターのせいであるのかないのか、開削せずシールドのトンネルをそのままホームにしている。 こういう駅は他にもあって、普通は上下線のトンネルを平行に堀り、その間をぶち抜いてホームを作る。 しかしこの駅の場合は頭上の核シェルターの重量を支えるため(なのか)隔壁を全面的に取り去ることをせず、何ヶ所かの通路を開けるにとどまっている。 そのために分厚い壁が上下線のホームを分断しているように見えるし、ホーム幅を広く取れないのだ。 また水漏れが多いという話だが。千代田線建設当時は地下水くみ上げによる地盤沈下が問題になっていた頃で地下水位が低かった、千代田線はそれを前提にした設計であったために漏水対策はあまり重要視されていなかったのだ。 ところが開業と同時(1972年)に取水制限が始まり、以来地下水位が上がってきて水漏れがひどくなったという事情があるのだ。 つまり、ホームが狭いのも、上下線の間に分厚い壁があるのも、水漏れも戦前の建築物である証拠ではなくむしろ近代の建築であることを示している。 これを地下のオーソリティである筆者が知らぬ筈はなく、つまりは承知のミスリードであると思われる。国会議事堂前は私が乗換駅として普段利用している駅であり、この事実に気づいたのだが、こういう記述があると他の記事の信憑性もあやういものとなってくるだろう。 いったいになぜ陰謀論者は「一見の価値はあるもの」と「そもそも謎でもなんでもないもの」と「あきらかな間違い(騙し?)」を混在させるのだろうか? 高嶋哲夫 夏の災厄 篠田節子 未知もしくは既知の、細菌またはウイルスによる感染症が発生、人々が気づかぬまま事態は悪化してゆく。事が明らかになった時すでにそれはパンデミック(爆発的感染)の瀬戸際に至っている。これに立ち向かうのは医師または科学者、彼らは知識と経験を武器に見えない敵に戦いを挑む。万が一彼らが敗北すれば国あるいは世界が破滅するだろう。果たして人類は勝利を勝ち取ることができるのだろうか。 という趣向の小説がある。これをパンデミック小説と呼ぶ。呼んでいるのは私だけだが・・というか、そもそもこれはジャンルとして認められてさえいない、なんでかと言うと数が少ないせいだ。 小説(や映画)を題材で選ぶ私としてはこれはディフォルトでストライク(?)な分野なのだが、思い出すところを挙げても、小松左京の「復活の日」リチャード・プレストンの「ホット・ゾーン」マイケル・クライトンの「アンドロメダ病原体」川端裕人の「エピデミック」 そして今回の2作くらいしか思いつかないのだから当然かもしれない。 実のところ、貴志祐介の「天使の囀り」D・R・クーンツの「ミッドナイト」マイケル・クライトンの「プレイ」ジョン・ブラックバーンの「刈りたての干し草の香り」などもボーダーライン上なのだが。 「天使の囀り」は敵が細菌やウイルスよりよほど大きい線虫であり、取り憑かれた人間が「自分がもっとも恐れる死に方で自殺する」というホラー風味によって。 「ミッドナイト」は感染した患者が怪物化して人を襲いさらに感染者を増やすというゾンビ物であるが故に。 「プレイは」敵が集団意識を持つナノ・マシンというわけでほとんどSFであるために。 「刈りたての干し草の香り」はキノコに放射線を当てたら人を化け物にする菌糸が取れましたというあまりにも牧歌的な科学的考証(?)によって。 「見えない敵との科学的な戦いを描く知的エンターティメント」というティストから外れるためパンデミック小説にカウントしない。 で「首都感染」である。 パンデミック物に於いては・・とは言っても、このジャンルは何かが一般化できるほどサンプルがないので、「パニック物に於いては」と言い換えてもよいと思うが(パンデミック物はパニック物のサブジャンルなので) 「状況に気づいた主人公(ヒーロー)が対策を立て、実行しようとするものの、頑迷固陋な上司、利権、既得権に固執する政治家、縄張りあるいは前例主義にこだわる官僚組織によって的確な措置がとれず、足を引っ張られる」という展開がよくある。 読者は(私は)もちろん真の脅威を承知で読んでいるわけなので、主人公の邪魔をする無能な人々にイライラせざるを得ない、私はこういう展開が好きではない。 こういったドロドロを描くことこそがリアルでありドラマであると考える作家もあるようなのだが、古い小説観ではないか。 そもそも、無能な人間達によって的確な措置が取れないというお話が、優秀な人材が的確な措置を取る、というお話とくらべて「よりリアルである」という証拠はない。 それに「的確な処置が出来なかった故に事態が悪化した」というお話は、処置が的確であれば「実はたいした事は無かった」という事とイコールであり。 それよりは「優秀な人間が最善を尽くしたにもかかわらず、事態は予断を許さない」というお話のほうが敵が強大であることになりより緊迫感があるだろう。 そういう意味で言うとこの「首都感染」はベストな展開である。 中国でワールドカップが開催される中、致死率60%という驚異的なインフルエンザが発生する、観戦に出かけた観光客が帰ってくれば日本は壊滅的な打撃を受けるだろう。 この危機にいち早く気がついたのは3年前までWHOのメディカルオフイサーであり感染症対策の専門家であった主人公。 彼は現在は民間病院の一内科医に収まっていたのだがその知識と経験を買われて政府の対策室に入る。 彼は政治的反発をはねのけ、帰国者の受け入れを羽田空港に一本化して乗客の隔離を実行する。さらにインフルエンザが水際作戦をすり抜けるや、東京を封鎖してただの1人も外へ出さず、中に入れぬという封じ込め作戦を提案する・・というお話だ。 この小説の特異なところは登場人物が全て優秀なことだと言えるだろう。 ヒーローである主人公が優秀で果断なのは当然なのだが、彼の優秀さを承知して対策室に招き、支援をする厚生労働大臣。彼の提唱する過激とも見える対策(東京を自衛隊で封鎖し、武力を行使しても人の出入りを禁止する等々)を受け入れ、全力で実行に移す総理大臣、新型のワクチンを開発する友人、自分の病院が混乱の極みにあっても、むしろ主人公は日本のために働いたほうがよいと政府への出向を勧める病院長などなど。無能な人間が居ないばかりか、優秀な人間が皆最大限のパフォーマンスを発揮して危機に対処するのだ、これは新鮮である。 また、かなりの大作(約1000枚)であるにもかかわらず、起こった事実を淡々と、必要最小限に描写している(ように見える)のも特筆すべきだろう。 つまり人間ドラマなどに興味はないと言わんばかりに、ファクトをただ書き留めていくだけなのだ。 主人公はかつて感染症対策のために世界を飛び回るうち、自分の娘に対する目配りをおろそかにして病気で無くしてしまったというトラウマを抱えている。 普通の作家であるならば、この設定を使って「人間ドラマ」を展開し、読ませどころの一つにするだろうがこの作者はそれを採らない。 それはあくまで主人公の性格や動機の裏付け程度にとどめ、ストーリーに絡めたりしてこない、まるでそんなことに枚数を費やしている暇はないとばかりの扱いである。 すいぶんと潔い態度と言える。 このような人間ドラマ部分をそぎ落としてなおこの大作、壮大なドラマを構築し得た作者のアイデアの豊富さは褒められるべきだろう。 お勧めする。 さて、パンデミック小説について書くならこれを読まねば、と勧められて読んだのが次の「災厄の夏」である。 埼玉県のベッドタウン昭川市、保健センターに勤める主人公は市内で急速に広まってきた感染症に違和感を覚える。大学病院はこれを日本脳炎と言うのだが、これほど感染率が高く、症状の進みが早く、死亡率の高い日本脳炎があるのだろうか?・・という王道のパンデミック小説だ。 そしてこれが驚くほど「首都感染」の逆をいく小説なのであった。 そもそも作者のあとがきに「ヒーロー不在のパニック小説を書いてみたかった。勇気あるジャーナリストも、良心的で有能な研究者も、崇高な精神をもってかけつけるボランティアもここにはいない」というのだから当然といえば当然である つまり、これはパンデミックをネタにした人間ドラマなのだ。主人公が市役所の下っ端職員であるあたりにも作者の狙いが見てとれる。 つまりこのお話においては前例主義、縦割り行政、縄張り意識、などなどで事が思ったように進まない、というかそもそも主人公が小役人そのものであり、保身が第一、なるたけやっかい事には巻き込まれたくないという意識の持ち主であったりするわけだ。 そんな、事なかれ主義な主人公がパンデミックの危機に瀕して次第に意識が変わり、小者なら小者なりに、凡人なら凡人なりに出来ることをやろうと思い始めるあたりがこの小説の見所である。 普通の小説読み(?)であれば、おおいに頷く展開であろうけれど、パンデミック小説に対しては「見えない敵との科学的な戦いを描く知的エンターティメント」を求める私にとっては270度くらい方向の違うテーマと言えるだろう。 小説の出来の善し悪しではなく・・・というか普通に評価すれば「人間が描けていない」首都感染より、よほど出来のいい小説であろうが、これは私の読みたかったパンデミック小説ではない。 私の求めるものが作者の目指すものと違うのだから仕方ない、私と同じようなエンターティメントを求める人にはお勧めできないとのみ言っておこう。 ps ちなみに私がお勧めするパンデミック小説のナンバー1は「復活の日」である。 インフルエンザが世界規模で蔓延する、3倍量のワクチンを3回にわけて接種しても効果の薄いこの病気に現場の医師は疑問を抱く。これはただのインフルエンザではないのではないか、そもそもこれは本当にインフルエンザなのだろうか? パンデミック小説の王道である。 しかもこの小説は、人々が「これはただのインフルエンザではない」と気づいた時には時すでに遅く、人類はおろか「地球上の脊椎動物が滅亡してしまう」のだ、これだけでもスケールが違うことがあきらかだろう。 しかもこの小説はそこで終わらない。 感染を免れたわずか1万人ほどの人間が南極大陸で再出発の方法を模索しているという第2部があるのだ(この第2部のタイトルが「復活の日」である) そして、生き残りの中に居た地震学者がアラスカで巨大地震が発生することを予測する。 無人の地域を襲う地震の予知に何の意味があるかと思われたのだが、これが恐るべき事態を招くことがあきらかになった。 つまり、アメリカには冷戦時代に配備された核攻撃に対する自動報復装置が存在する。地震がアラスカの米軍基地を壊滅させると、この装置がそれを核攻撃であると判断する可能性がある、もしそうなると自動的に核ミサイルがソ連に向かって発射される。ソ連にも同様の装置が存在する。そしてその核ミサイルの1発は南極に照準を合わせている可能性があるというのだ。 これが起きれば人類は2度死ぬことになるだろう。 この「悪魔の玉転がし」を止めるため、殺人ウイルスの蔓延するワシントンに決死隊が派遣される。 第2部はポリティカルフィクションであり、冒険活劇でもあるのだ。 こういったお話を書くためにはワールドワイドな視点と、政治、経済、軍事に関する知識が必要とされ、重厚長大なストーリーを破綻なくまとめあげる作家としての体力が試される。 そういう意味でこの小説はパニック物として世界レベルでベストであり、他を圧倒し突出しているといってよいだろう。 強くお勧めしたい。 20年ぶりくらいに本棚から取り出したら、ぼろぼろでした が、面白さは古びていなかった 東川篤哉 安楽椅子探偵もの、というミステリーの一分野がある。アームチェア・ディテクティブ(ArmchairDetective)という単語の日本語訳であり、パンデミック小説などと違って歴史と伝統のある言葉だ。 このタイプの小説は『警察官など捜査のプロが、解決困難な事件について部外者(基本は素人)に相談すると、その部外者が話を聞いただけで真相を見抜き事件を解決してしまう』という構成になっている。 探偵役が足を使った捜査をしたり、証拠を吟味したりしない=椅子に座ったまま推理する、ということで「安楽椅子探偵」と呼ばれるわけなのだ。 さてミステリーのうち謎解きを主眼にした物を「パズラー」というが、これはパズラーの中でも特に論理性だけを武器にした先鋭的なものだ。 なにしろ、相談人の抱える謎は探偵に持ち込む時点では充分に不可解であり、探偵役がその情報を整理して視点を変えてみせるだけであっという間に平明なものに変貌しなければならない。 そして、旧家にまつわる血塗られた歴史や、苔むした礼拝堂、朽ちかけた時計台、あるいは屋敷の地下に広がる鍾乳洞などで「持たせる」わけにもいかず。 一クセある容疑者を相手に口八丁手八丁の事情聴取という見せ場を作るわけにもいかない。 謎と解決に必要な情報は相談人がわかりやすく提出することになるわけで、探偵役が知ることは読者も知ることになる。そこで読者に先読みされてしまったら小説自体が成り立たない。 「獄門島」においては、犯人が先バレしても面白さに(あまり)影響はないが、安楽椅子探偵ものではそうはいかない。 相談の時点では絶対の不可解、これが必須なのだ。そして探偵が視点を変え、データーの組み合わせを変えた途端、事件はあっという間に平明なものに変貌する。 ここで「え?どういうこと?」というような複雑な謎解きではカタルシスが得られないし。逆に「いや、それを言うならこうとも言えるだろう」という余地-論理の緩み-があっても小説として成立しない。 このタイプの小説は「なぜそこに気づかなかったか! ポン(膝を叩く音)」というものであらねばならないのだ。 つまりはとても難易度が高い。 というわけで、安楽椅子探偵ものは内外で数多く発表されているのだが、真の傑作はそう多くないのだ。 また外形は安楽椅子探偵ものでありながら、探偵役が相談人に追加捜査を指示したり、自分で調査をしたりする(!)物さえある、それは安楽椅子探偵ではない。 もちろん、作家や出版社がこれは安楽椅子探偵ものですと宣言しているものばかりではないので、読む側がそうと決めつけて読んだあげくに、これは安楽椅子探偵ものではないと批判するのはおかしいとも言えるのだが。 事件の当事者(捜査のプロ)が部外者(素人)に相談するのはそもそも無理のあるお話であり。そのような無理をするのは難事件が部外者の推理で即決するという意外性のためだろう。 だから、そこで事件が解決せず改めて捜査が行われるなら、それは探偵役が2人になったと言うに過ぎず、無理をした意味が無くなってしまう。 となれば、そういう形式の小説を取る意味そのものが問われることになるだろう。 さてさてそのように難しい安楽椅子探偵もの、私がベストと思うのはハリイ・ケメルマンの短編「九マイルは遠すぎる」である。 探偵役のニッキィ・ウエルト教授がたまさか耳にした「九マイルもの道を歩くのは容易なことじゃない、ましてや雨の中となると大変だ」という言葉から、その裏に隠された謎を次々に引き出していく過程はまさしく論理のアクロバットであり、読者はその妙技から目を離すことができない、まさしく珠玉の一品である。 しかし、この短編集「九マイルは遠すぎる」にはニッキイ・ウエルト教授シリーズものが7編収録されているのだが、飛び抜けて良いのはこの1作のみであり、次第にグダグダになってしまう、つまり本1冊ぶんも持たなかったのだ。 日本で言うと都筑道夫の「退職刑事」シリーズが有名である。 これは現役の刑事が父親(元刑事)に難事件を相談すると父親が一発で真相を見抜くという安楽椅子探偵の典型であり。作者もそのつもりで書いている筈だが次第に苦しくなっていく。 まあ、全6巻(48編)も発表されているので、難しい安楽椅子探偵ものとしてはよく持ったとも言えるのだが。最後の方では父親に指示された息子が追加捜査をしてその結果を父親に報告していたりする。 まさしく「それは安楽椅子探偵ものじゃない」になってしまっているのだ(即決するからこそ見過ごされているが、捜査上の秘密を部外者に漏らして、意見交換するのは守秘義務や、職業倫理上問題ではないのかという疑問も出てきてしまう) バロネス・オルツィの「隅の老人」シリーズは安楽椅子探偵という概念を作った記念碑的作品だが、この探偵は自分で証拠調べをしたりする場合があるので、ジャンルとしての要求(それはのちに固まったものだが)を満足させる作品ばかりではない。 坂口安吾の「明治開化 安吾捕物帖」は凝った作品である、舞台は文明開化で世間も騒がしい明治18年、探偵役はなんと勝海舟(!) 相談人は海舟が昔面倒を見ていたという剣術道場の道場主で、これが世間を騒がせているという事件を持ち込む、これを勝海舟が鮮やかに読み解いてみせるのはフォーマット通りなのだが。 これがまったくの見当違い! 居合わせた真の探偵(洋行帰りのハイカラ男)がそれをひっくり返して見せて、本当の真実を指摘するという二段構えなのである。 事件は持ち込まれた時点で充分に謎、それを解いた勝海舟の推理は充分に筋の通ったものであり「勝先生、お見事!」と言わざるを得ないものだ。 ところが真の探偵がひっくり返して見せるとそれはやはり間違っていて、新たな真実が見えてくるというのは超絶技巧である。 基本フォーマットですら苦労する安楽椅子探偵ものでこの二段構えはさすが坂口安吾、と思って読んでいるとやがて勝先生は舞台から姿を消してしまう。 やはり二段構えが苦しくなってきたのだろう。(この勝先生が出て居る部分だけを収録した「勝海舟捕物帖」という本が後に出版されている) とまあ、知るところをざっと挙げただけだが、要するその始祖ですら。 世界最高の一編を書いた作者ですら。 才人、都筑道夫ですら。 二段構えを思いつき、実行した坂口安吾ですら。 そのシリーズ全般を通して、首尾一貫した作品を書き続けることが出来ないほどに安楽椅子探偵ものは難しいということなのだ。 で、本書である。 売り文句が『失礼ながら、お嬢様の目は節穴でございますか?』というわけでこれはどうみてもユーモアミステリー。 どうやら安楽椅子探偵ものらしく、安楽椅子探偵と聞けば私としてはスルー出来ないのだが、これは地雷デハナイカ、と思ってしまったのは無理のないところではないだろうか?(言い訳) 1回読んだら2回は読まないライトな小説に違いなく、その1回に1500円(普通に高い)はもったいない、と思った私が図書館で借りる道を選んだのは無理からぬところではないだろうか?(同上) というのが4ヶ月前、しかし本書は意外に評判がよく、特に本屋大賞にノミネートされたのが祟った・・じゃなく良かったのか、私が予約を入れた時点で140人待ち。 経験的に言うと予約待ちの進捗具合はおよそ1ヶ月に2人である。 これは何年先になるかわかんないな、と思いつつも、買うほどではないし、という判断に変わりはなかったので放置していたら驚くべし、我が街の図書館は本書をどんどんと買い足していき、ついに所有冊数25冊になった。 ブームが去ったらどうするのだ?と思わないでもないが、おかげで4ヶ月で回ってきたのだった。 どまんなかに貼られたシールにびっくり、装丁家涙目 でも今見たら、所蔵冊数26冊、予約待ち531人(!)なのだから仕方ないか で、読んでびっくり、面白い! 予想どおり、ユーモアミステリーのユーモア部分は頭が痛いとしか言いようのない代物だった。 主人公は大富豪の一人娘、何不自由なく育てられてきたにもかかわらず、親の敷いたレールに乗るのを潔しとせず警察官となったお嬢様。 このお嬢様は自分がお金持ちであることを知られるのを嫌がり、バーバリーのスーツは「丸井で買った吊るし」アルマーニのメガネは「メガネスーパーでサンキュッパ」とウソまで付いて身分をごまかしている(筒井康隆の「富豪刑事」っぽいが、彼女は別に金にあかして捜査をするわけではない) これはお金持ちな相談人が優雅にお食事をしながらつい捜査の秘密を漏らしてしまうと、話を聞いただけの執事が事件の謎を解いてしまうという、安楽椅子探偵の構成上必要な設定なのだが。まるでアニメかラノベに出てくるお嬢様のテンプレート、しかも脇役、というくらい造形が薄い。 (ところで、作者がこれをアイザック・アシモフの安楽椅子探偵もの「黒後家蜘蛛の会」を念頭に置いて書いているのは間違いのないところで。寡黙にして上品、控えめな初老の給仕ヘンリーに対し、お嬢様に暴言を吐く若くてイケメンの執事というのは、リスペクトとしか思えない) しかし、このお嬢様がある程度テンプレートなのは仕方ないとして、探偵役の執事が暴言を吐くという以外のキャラクター作りがなされていないのはなぜか? お嬢様の上司に(お嬢様には及ばないものの)大金持ちを配置した意味はどこにあるのか? ・・・と疑問文では書いたが、この上司は「シルバーメタリックのジャガーに乗り、白いスーツで現場に来る成金趣味なキザ男と、笑いを取るためだけに配置されているのはあきらかである、逆に言ってドラマ上の必要があって居るわけではない。 こういう感じってどっかで見たなー、と思ったのだが、思い至った、これはTVの手法である。もっと有り体に言えばこれは「トリック」(阿部寛&仲間由紀恵)的な演出である。 つまりこれはドラマの体裁を取ったバラエティであり、登場人物達はカリカチュアライズされた演技、というか演技のフリ、をして笑いを取っているだけなのだ。 人物が描けていない、などというのも元より見当違いなわけだ、しかし文章でそれをやられても笑えない。 (私は「トリック」を見ても笑えないのだが、あれは映画化までされている人気番組なのだ、ならばこの小説も「大いに笑わせてもらいました!」という向きもあるのかもしれない、というかあるんだろうなあ、いまだに売れているんだから・・) とはいえしかし!! 私自身はこれは小説としてまるで評価できないと言うより他はない。 にもかかわらず「面白い」それは何故か。 それはこのすべてがグダグダなこのお話のうちで安楽椅子探偵ものとしての骨格、推理のメソッドがしっかりしているからなのだ。 というか、近年こんなにちゃんとしている安楽椅子探偵ものなんて見たこと無い、というくらいちゃんとしているのだ。 しかも、それに関しては全6編ひとしく水準が高い、最後にちょっと苦しくなったかと思わせるが、安楽椅子探偵ものの場合はもっと早く息切れしても不思議ではない。 (世界最高の「九マイルは遠すぎる」が、最高なのは短編集の表題作である1編だけであることをあらためてここで書き記しておこう) はっきり言って、小説としての出来と推理物としての出来のあまりの落差に目がくらむほどである。 しかし、伏線の張り方や推理部分のロジック、その探偵の語り口の巧みさをみれば、この作者の実力が並でないことはあきらかである。 ミステリマニアがうなるようなコアな本格物は敷居が高いので、ライトな読者の手に取ってもらいやすく、かつうるさ型はその骨格で黙らせるという両面作戦であるならば恐ろしい才能であると言えよう。 小説としてはロクなもんじゃないが、読む価値なしと一刀両断するには惜しい本、それが本書である。 お勧めしておこうかな。 せきしろ×又吉直樹 『自由律俳句』というものであるらしい。 要するに17音にとらわれず季節や風景や人情の機微を詠う俳句の一形式である。 私は新聞の書評に載った表題の一作「まさかジープで来るとは」に一発でまいってしまってこの本を手に取った。 せきしろは文筆家(知らない)又吉直樹はお笑い芸人(知らない)である(らしい) 読んで驚いたのが句の数である、2人合わせてその数、数百、右ページがせきしろ、左ページが又吉なのだがその質にムラがないのもびっくりである。 どのようなものであるかは、少し例を挙げてみよう。 さっきのオーダー今から作り始めるようだ わかったこれはダウンジャケットの羽根だ 喩えなくともわかっている 嫌な予感ミラーボールがある 喉飴5秒で粉々 前にきたときからジグソーパズルが進んでない 急に番地が飛んだぞ ジャッキー・チェンじゃないと否定できずに話は進む 本格的過ぎだろう先に言ってくれないと 起きるとサッカーは終わっていた 補欠の靴下なのに座席 目配せの意図はわからないが頷く 何かを成し遂げた顔で始発を待っている 下巻しかない どこに飽きるのかと思って、あらためて句を詠むと大きくわけて2種類あることに気づいた。 一番数が多いのは「ジャッキー・チェンじゃないと否定できずに話は進む」「補欠の靴下なのに座席」などが代表する「あるある」の句である。 又吉氏にとってはこれらは「コントのネタ出し」の派生物であるらしい、誰もが感じていてしかも意識に昇らない人生の機微、日常生活の残滓、を丁寧に拾い上げていく作業であり、言われてみればそのとおり(言われなければ気づかなかった)という繊細さに満ちた句である。 正岡子規は俳句は写生であるとして「巧む」ことを意識的に排除した、前者はそういう意味でまさしく俳句である。 一方、似た感触でありながら、ドラマの前半と後半を切り取った句、つまり断面しかないドラマが散見される。 「まさかジープで来るとは」がその代表だが。これは「機微」でもなく「残滓」でもない。 「何かを成し遂げた顔で始発を待っている」もそうなのだが、これらはあきらかに作られた状況である(頭の中で作り上げられた、と言ってよいかもしれない)つまりこの句集には写生とフィクションが混在しているのだ。 私は後者を期待して本書を手に取ったのだが、そういった句はほんのわずかしかなかった。 前者は人生の綾、感情の起伏をつぶさに観察してそれを言葉にしたもので、実のところ私の苦手とする私小説に通じるものがある、つまり『身の回りや自分自身のことを芸術として描く。内面描写を中心に語られる』小説(Wikiより引用)と似た感興ということだ。 私は重箱の隅をつつくように自分の心の動きを観察し、そのひだひだを言葉に置き換えて見せることがブンガクでありゲイジュツであるという考えになじめない。 これはたぶんきっとおそらく、中学1年の時、自習になると司書のせんせーがやって来て私小説の読み聞かせをした(していただいた)というトラウマから来るものだ。 なにしろその頃の私はエドモンド・ハミルトンやエドガー・ライス・バローズのスペ-スオペラに夢中だったので、明治・大正の文豪の胸に去来する感傷や悲哀にまったく興味が無く・・というか、むしろ苦痛しか感じなかったのだ。 ・・という個人的な事情があるので。 礼服に数年前の招待状 などという句を読むと、なるほど、と思う一方で「それがどうした」と思いもするわけであり、さらっと読める数ならともかくその数、数百ともなると、いい加減どうでもよい感じになってしまうのだった。 言っておくと、この「人生の機微」「あるある」の繊細さには驚くべきものがあり、音を立てて目からウロコが落ちる(こともある) よって、これを楽しめる人ならば充分に読む価値のある本であると言えるだろう。 しかし「ジープ」が気に入ったという向きにとっては当てはずれであり、膨大な句の中からそういった趣向の句を探す過程で嫌気が差す可能性があると言っておこう。 2011/5/3~8 AKIBA SQUARE 「絵師」というのは遥か昔には宮廷画家を差す言葉だったがそのような意味で使われなくなって久しい、というか、そもそも「絵師」という言葉自体使われなくなって久しい・・・と世間一般の人は思っているだろう。 ところが「絵師」という言葉がごく普通に使われているばかりか、一種の尊称として使われているジャンルがあるのだ。 それはライトノベルの挿絵、アニメ、ゲームの原画/キャラクターデザイン、それらの広告、ポスターなどを描くイラストレーターである。 広義にはポップアートであり、狭義にはサブカルチャー向けの画家たち、それが現代の絵師である。 ところで、私がかねてより提唱している「蛸壺理論」というものがある。 これは『現代人の趣味嗜好は狭く深くなる一方であり、かつてのように日本中誰でも知っているアイドルや誰もが聞く流行歌というものは存在しない。 かつてレコードでミリオンセラーといえばそれは国民的ヒット曲を差していたが、現在ではミリオンセラーが出ても興味のない人はその曲の名前さえ知らない。 趣味人たちが集う場所、かつてのそれが大きなすり鉢だったとすれば、今はそれは深い蛸壺になってる。 中には多くの人が居るが、穴があまりに小さいのですぐそばまで近づかないとそこに穴があることさえ気づかない』 というものだ、まあ別段目新しいことを言っているわけではないが、的は射ていると思う。 さてそのようなわけなので、ラノベ、アニメ、ゲーム、つまるところオタク向けジャンルで名の通ったイラストレーターと言っても世間一般の知るところではない。 しかしもちろん世間に知られていないことは価値が低いこととイコールではない。 見てわかるとおり(といっても、ここで彼らの作品を大きく掲載することは著作権法に言う「正当な引用」つまり『報道,批評,研究などの引用の目的上正当な範囲内』であり、かつ『引用する分量を抑えなければならない』から外れる可能性があるので出来ないのだが)その洗練されたタッチはたしかな技術に支えられたアートであることがわかると思う。 そもそも彼らの作品はその発表媒体との親和性もあって、デジタルアートであることが多い(絵師の一人うたたねひろゆきは、自分はこの中で唯一人の手塗り画家ではないか、とまで述べている)つまり下書きをスキャナで取り込み、描線の整理、人物、背景、小道具などのレイヤー分け、彩色から各種エフェクトまでをコンピューター上で行って最終的にコンポジット(合成)して仕上げるのだ、それはArt本来の意味で言う「芸術、美術、技術、技巧、人工的な技」であろう。 前売り入場券 この展覧会を主催した産経新聞社は、日の当たらない、あるいは偏見に晒されているジャンルを盛り立てようとしてか「ごあいさつ」の中で『近年、日本発の漫画やアニメ、ゲームなどの文化が、「クール・ジャパン」として世界から大きな注目を浴び、日本国内での評価も見直されるようになりました。中でも、高い技術で秀麗なイラストを描く画家(イラストレーター)は、江戸時代の浮世絵師になぞらえて「絵師」と呼ばれ、多くのファンに支持されています(後略)』と書いている。 クールジャパンはともかく、「絵師」が浮世絵師から来た言葉ってホントかいなと私自身は思う。絵師のイメージアップを狙って無理にこじつけているんじゃないのだろうかと。 私の印象では絵師は最初から絵師であったように思う。それはオタクカルチャーの言語感覚(レトロな言葉をシャレで使う)から来たものであり。また、以前から存在した「原型師」という言葉からの影響も多分にあると思うのだ。 ※余談だが「原型師」というのはアニメ、TVのヒーローや、妖怪、怪獣、ロボットの人形(フィギュア)の原型を制作する職人である。 80年代にはガレージキット(自分で組み立てて色を塗って仕上げる半完成品)がヒットし、その後は大手食品メーカーによるお菓子のおまけ、いわゆる「食玩」がブームになった。 この時代、空想上の人物、動物のみならず、恐竜、野生動物、深海魚といったネイチャー(?)なもの、ツタンカーメンのマスクやパルテノン宮殿など歴史的遺物(レリック?)なもの、果ては昭和30年代の風物(ダルマストーブとか)までもが食玩化された。(長嶋茂雄がゴロをさばく連続写真ならぬ連続フィギュアというものまで存在した) およそ形あるもので食玩化されていないものはないと思われたこの時代、多くの原型師が活躍していたが、彼らの活躍範囲が特撮映画とかぶることもあって、竹谷氏や寒河江氏などビッグネームとは仕事上親しくさせてもらっていたのだった。 よって(絵師の蛸壺は遠望する程度であるのに対し)原型師の蛸壺事情に私は少しは通じている。 閑話休題 浮世絵は江戸時代の風俗画であり、版画はマスプロダクトされたポップアートであり庶民の娯楽であったからだ。 現代の絵師の描く絵の多くは女の子を可愛く描いたイラスト、つまり「萌え絵」であるわけだが、浮世絵のうち美人画や役者絵などは当時の萌え絵であったろう。 また置かれた立場も似たようなものがあると思われる、浮世絵は商業画であり、サブカルチャーであり、庶民の物であるが故に芸術的価値は低い(無い)と思われていて明治の御代にはそのほとんどが散逸してしまったのだ。 そのため、浮世絵のコレクションは当時その価値に気づいて収集していた海外の美術館、好事家のほうが充実している。 現在、浮世絵は美術的な価値が見直され(マネ ゴッホに影響を与えていたりする)、歴史的、文化的資料としても重要視されているがその研究にはそれら海外のコレクションが欠かせない。 (長らく正体不明であった東洲斎写楽は、どうやら能役者、斎藤十郎兵衛だと特定されたらしいが、決め手となったのがギリシャの国立美術館所蔵の肉筆浮世絵であったというのは情けない) マネ「エミール・ゾラの肖像」とゴッホの「タンギー爺さんの肖像」 背景に浮世絵が描かれている ゴッホは浮世絵を500枚以上所有しており、そのコレクションの400枚以上が現存している 同様に、今でこそうけに入っている絵師達だが、その画業が後世に残るかどうかは微妙である。 現在の各メディアは権利意識が旺盛であり、万が一にも散逸させることはないだろうが、その商材を使って短期間にできる限りの利益を上げることに血道を上げているわけで、萌え絵の価値を広く知らしめることや、絵師を社会的に認知させることになど興味はないようだ。 そして(蛸壺によって)有名絵師といえど一般にその名が膾炙しているとは言いがたい。 故に、絵師個人の人気が衰えたとき、あるいはもっと大きく、萌え絵ブームが去ったとき、多くのファンを魅了した絵やその絵師の名前が忘却の彼方に押しやられてしまうという日が来ないとも限らない。 だから今産経新聞という名の通った組織が、横断的に絵師を集め展覧会を開き、画集を出すことには意義があったと思うのだ。これは現代のスナップショットである。 ・・・などなどと語っている私だが、実のところ集められた100人の絵師を見渡してもその名に聞き覚えがあるのは数名程度である。実際に見て見覚えがある絵柄はもう少し多いがそれでも全体の1割強というところだろうか。 また私がその名を知る絵師、巧いと思うし売れてもいると思う絵師の多くが選に漏れている、これはそれだけこの業界の人材が豊富ということだ、クールジャパンの将来は明るい(かもしれない) ところで、今回の100人展は『日本』というテーマが与えられている。 100人の絵師は同じテーマに沿って描いている。 彼らはそれらを「萌え絵」として描いているために(一人/複数/女性のみ/男女混合という違いこそあるものの)全て「女の子」が描かれている。 そのほとんどがデジタルアートである。 そもそも同じ文化圏の住人であるため、審美眼が似通っている などの理由によって似たタッチの絵が多いのだが、もう一つ同じ傾向が見てとれる、それは「どうやら絵師達は『一枚絵』を描いた経験があまり無いようだ」ということだ。 何のことか、という話をする前にまずはこの場合の「一枚絵」とは何であるか定義しておこう。 マンガ界にあってはこれはマンガ(連続した絵)ではない絵という意味でしかない(マンガ視点だから範囲が広く漠然としている) ゲーム業界においてはゲームの通常画面(背景画に立ち姿の人物を合成して表示した絵)ではない絵、つまり「背景、人物込みで描き下ろされた絵」を指す。これは「イベントCG」とも呼ばれるが、ゲームのストーリーの中で重要なシーンを絵にしたものであり小説で言う挿絵にあたる。 ここで言う「一枚絵」はそのどちらでもない。原点に返って(?)浮世絵で言うところの「一枚絵」と同じもの指してしているつもりだ。これは「草双紙に付随する挿絵」ではなく「一枚の紙に刷られた絵」ということだ。 つまりそれは「何かのために描かれた絵」ではなく、その絵を単独で鑑賞するために描かれた絵ということだ。 だから小説の挿絵、ゲームのイベントCG、キャラクターデザインなどなどは一枚絵ではない。挿絵やイベントCGにはそのカットに至るまでのプレストーリーがある(アフターストーリーもある)ゲームのキャラクターデザインはシナリオに沿ったキャラ設定がある。その他、小説やゲームパッケージの表紙、ポスターなどもすべて一定の目的(商品の宣伝等)のために描かれている。 「××のため」ではない絵、それが「一枚絵」だ、ではどんな絵がそれに当たるのかといえば、端的に言って「絵画」がそうだ。 たとえばフェルメールの「青いターバンの娘」、これはこの一枚を鑑賞する為に描かれたものであって、何か他の目的のために描かれた絵ではない。 また、この絵には彼女が何者であるかとか、どんなシチュエーションであるかなどという背景や設定は無い、そもそもこの鮮烈な印象を与える絵を前にしてそんなことを考える余裕はないだろう。 この絵は自立し、背景/事情とは無縁であるわけだ。 今回の絵師100人展にあたって書き下ろしの絵を発注された絵師はそういう絵を描く道もあったはずだ。漠然としたテーマこそあるものの、今回は何かの挿絵ではないし、ポスターでも、キャラクターデザインでもないのだから。 ところが集まった絵の多くはそうなっていない。 「清楚で巫女装束の似合う彼女だが、実は陰陽師の血を引く退魔戦士であり・・」というようなプレストーリー、キャラ設定を感じる絵ばかりなのだ。実際、絵に付けられたコメントに絵の背景説明をしている絵師も多い。 念のため言っておくが、私は絵画に対して、これら絵師のイラストの価値が落ちると言っているのではない。 つくづく彼らは商業作家であり、コマーシャルに特化した職人なのだなあと思ったということなのだ。 ところで、クリエイティブな仕事をする人に対し「職人」という言葉は本来ふさわしくない筈だ。 昔むかしは「職人」というのは手に職のある人、技術者という以上の意味はなかった。というか、むしろ創造的でない仕事で日々口を糊している人達という軽侮の響きさえあったように思う。 それが今では高度な技を取得した専門家、尊敬すべき職業人というイメージがある。 その言葉を当てるのには適当でなさそうな野球選手にまで「打撃の職人」などと言い、褒め言葉として使うのだから、職人という言葉の地位の向上にはめざましいものがあると言えるだろう。 (映画制作の現場でも、人は高度な専門性をもつ技術者であることこそ望ましいとされている) 先に述べた「職人」は現代用法であり、もちろん褒め言葉である。 彼ら絵師は創造性を発揮してオリジナルな一枚を描く芸術家ではなく。どのような注文でも受け、そのシチュエーションに沿った絵を的確に描き、その小説やゲームの価値を高めることに貢献する職人なのだ。 そんな職人がここに100人(他にも多数)居て、その技は我々が日常手にしてしている小説やゲームにあたりまえのように使われている。 ささやかな事ながらこれは社会が文化的に豊かであるということだ。 その実験のゆえにいくつかの発見があった。 たとえば絵師「いとうのいぢ」である。 いとうのいぢは、角川スニーカー文庫「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズのイラストレーターだ。この「凉宮ハルヒシリーズ」は2010年の時点で世界15ヶ国、累計発行部数650万部という超弩級のヒット作である。 (今年5月の最新刊の初版部数がライトノベル史上最大の、51万3000部というから累計700万部を超えている筈である) コミックス版も1000万部を超え、TVアニメは28本、ここでも取り上げたが映画版もありドラマCDやゲーム化などのメディアミックスも多数存在する化け物シリーズである。 そのようなシリーズのメインビジュアルを担当する絵師であるからには当然のようにこの100人に選ばれているのだが、私は政治的判断もあったんだろうなと思っていた。 なんとなればいとうのいぢの絵は「絵のうまい中学生のようだ」と私は思っていたからだ。 最新刊「凉宮ハルヒの驚愕」より デッサンもそうだが、何より構図が・・・ とはいえ、今をときめく絵師を集めたと言うなら、いとうのいぢはビッグネームすぎて外せないんだろうな、と思っていたのだが。 会場に足を運んで見てびっくり。 うまいじゃないか(←ものすごい失礼な奴) なんでこれが描けるのにハルヒはあれなんだ。 ハルヒの挿絵はタッチがマンガぽいのみならず、絵の切り取り方、動きの止め方が完全にマンガの一コマのようで、これ一枚しかないのにこのポーズこの表情でいいの?と思うカットばかりなのだ。 私はこの人はシーンを象徴的に1枚にまとめるセンスがないのじゃないかと思っていたのだった。ましてや一枚絵なんて、と思っていたのだが完全に、良い方に裏切られた。 これは100人展の収穫のひとつ、大きな一つだった。 (その後、ハルヒの最新刊を見て、そっちがなにも変わっていないのにもショックを受けたのだが) 更にもう一名について述べる。 ゲーム業界に新ジャンルを確立したと言われるゲームブランドがあり、そのメインビジュアルを担当する絵師がやはりこの展覧会に参加しているのだ。 しかし、この人の絵はどうみても「絵のうまい小学生のそれ」にしか見えない。 このブランドのゲームが大ヒットし、熱心なファンを掴み、以来10年以上にわたって業界のトップを走っているのは、この人とコンビを組んでいるシナリオライターの腕による部分が大だと思うのだが、あらたなジャンルを作り、後につづくゲームや多くの人材を生んだ影響を無視出来なかったということだろう。 絵の実力だけが選考基準じゃないんだろうなあ、などと思っていた私だったが、先にいとうのいぢを見て認識を改めた、イベントCGと一枚絵は違う・・のかもしれぬ。 ここでも新たな驚きが、と思ってその前に立ち、思わず顔がほころんでしまった、何も変わっていない、(いや「絵のうまい中学生」程度にはなっていたように思う) これも収穫といえば収穫である。 とりとめのないことを縷々書き連ねてしまったが「絵師100人展」は良い企画であったと思うし、行ってよかった展覧会であったと思う。 次があるなら是非ワークショップ的なものもやって欲しい。 絵師はどんなソフトと機器を使っているのか。何で描き、どう処理しているのか。 こまかく言うとたとえば、絵の一部に目を近づけ、重箱の隅をつつく勢いで見分してもそこにレイヤーを感じさせないのは驚嘆すべき技である(絵師全てがその域に達しているのは凄い) 巨大な絵を小さなモニター上で描いていく技にも興味があるし。 目を皿のようにして見てもアナログなタッチを感じる最終出力も驚異である。 モニター上の色スペースと印刷では相当に色味が違ってくるはずだがその調整(映画ではカラ-コレクションと言う、出版でなんというのかは知らない)はどうやっているのかなど、知りたいことは山とある。 感性とデジタル技術が高度に融合しているジャンルであるが故にそういう発信をしても面白いと思うのだ。 ともあれ画集を見かけることがあったら手に取ってみることをお勧めする。 ポスターサイズの巨大な紙に出力された絵に目を近づけて鑑賞するというのも得がたい経験であるので、同様の企画があったら足を運ぶ価値もあるだろう。 基本的にこれらの出力はレプリカである為か(うたたねひろゆきを除く?)保護ガラスに息がかかるまで近づいて鑑賞出来るのも良かったように思う。 「地球侵略物」は大好きだ。それはパニック映画/デザスター映画が好きなのと同じく足が地に着いていない映画だからだ(「足が地に着いていない映画」とは、観客を日常から解き放ち、想像力の翼に乗せて新たな地平を見せてくれる映画、というような意味だ) こういった映画は、事件の舞台、登場人物の数、ストーリー構成、視覚効果などが大仕掛けにならざるを得ず、つまりは「大作」にならざるを得ない。 その結果が、娯楽大作となるか映画秘宝館行きのトンデモ映画になるかは時の運だが、すくなくとも「なんということもなくつまらない」映画にはならない、それだけでも劇場に足を運ぶ価値はあるだろう。 ・・と、思っていた。 映画のファーストシーン夜のロサンゼルス、空から怪しい光が無数に降りて来る。その一つが画面手前のビルの谷間に着地するのだが、そのあまりの手抜きな視覚効果に私は唖然とした。 光の照り返しが周囲のビルに影響を与えていない! そこに昼を欺く強い光源があるのだから、その周囲のビルはその光で明るく照らされていなければウソだ。 これは視覚効果を行うなら当然やっておくべき事柄である。 たとえばの話、ウルトラマンがスペシウム光線を発射するとき、光線はあとで作画合成されるわけだが、撮影現場では光線の照り返しとしてウルトラマンの体正面に光を当てている。 また、怪獣が口から火球を発射する場合、怪獣の口の中にライトを仕込んで、発射のアクションに合わせて口の中を照らしている。 週1で30分番組を1本作らなければならない連続TVですらやっていることを、劇場まで足を運んでいただき木戸銭まで頂戴する映画でやっていないというこの手抜きはなんだろう。 実際問題としてナイターの実景にリアルな照明を当てるのが無理だ(許可的に、あるいは予算的に)というなら、カメラを動かさず(同ポジという)昼まで待ってデイシーンを撮り、その太陽に照らされた明るい絵の一部をマスクしてはめ込むとか、同ポジすら面倒だというならその場で絞りを変えた露出オーバーな絵を撮ってハメ込むなどと代替手段はいくらでもあるはずなのだ。 しかもそれは最低減の手間でしかない。本当ならビルへの照り返しだけではなくビルの影が発生するはずで、光源は上から下に移動していくのだから、影はだんだんと伸びていき、最後は光源を中心にした放射状の長い影が出来ていなくてはならないのだ。 ところがこの映画何もしていない、夜景にただ光だけを合成するという、違和感ありまくりのとってつけたような絵を堂々と見せている。 ファーストシーン、ファーストカットという「つかみ」として最重要なカットでこれだけの手抜きをする映画ってナンダ?と私は開始早々激しい不安に襲われたのであった。 不安は的中した、ひとつダメな映画は全部ダメ、というのが私が作った標語(?)だが、「他の全ては問題なかったんだけどあのシーンだけはねえ」という映画はめったに、ほとんど、まず無い。 その後、街の俯瞰ロングの映像で、衝撃波で大規模なホコリ(塵埃?)が立つというカットがある、そのホコリが街の構造、つまりあの通りから、このビルの影からという下絵の事情をまったく無視した、上からただホコリ素材を重ねましたという合成であったりする。こまかい調整をやってる時間もお金ももらってませんという担当者の意識が透けて見える志の低い映像である。 また、その他のシーン、特殊効果にしても。 雲を割って現れる巨大UFO by インディペンデンスデイ エイリアン由来の強い光が漏れるヨロイ戸 by 未知との遭遇 タコ、イカをモチーフにした触手のある小型戦闘マシン by マトリックス 室内に入って来て人を探す機械の触手&必死に隠れる主人公 by 宇宙戦争 などなど、「どっかで見たような」をはるかに超えた「あの映画のあれ」というイメージのオンパレードなのだった。 そしてシナリオの工夫として感心したのが(←イヤミですが)視点のドメスティック化である。 先に地球侵略物は大仕掛けになると述べた、つまり地球規模であるためどうしたって、政府は(大統領は)どう対処したか、軍の行動は、TVはどう放送したか、その時パリではロンドンでは東京では、というような描写が必要になる。また当然ながら侵略者がどこから何のために来たのか、その決着はどう付けるかについても考えておかねばならない(普通に考えれば宇宙の深淵を渡ってきた相手に地球人が勝てるわけはない) つまるところ侵略物を説得力あるように語るのは相当に難しいのだ。 ところがここに抜け道がある、気づいたのは「クローバー・フィールド」の制作者達だが、要するにどんなに大規模なお話でも主人公視点で描けば面倒は避けられるということだ。 スピルバーグ版の「宇宙戦争」でも似たような事をやっている。トム・クルーズ演ずるダメ親父の身の回りに起こったことだけに焦点を当てているため、侵略者に対しアメリカ政府はどんな行動をとったのかとか、軍隊の動きはどうだとか、各国の被害状況などは描写されずに終わってしまっている。 まあこの場合は面倒を避けたというよりは(やれば出来た筈なので)感動的なお話の好きなバーグが、エンターティメント指向のスピルを抑え「家族の愛と再生の物語(笑)」を描くため派手なドンパチを意図的に避けたのだろうが、このスカイラインは違う。 エイリアンvs地球人の戦いをエンターティメント主体で描いた映画であるにもかかわらず主人公他数名の経験をのみ描くことによって面倒を避けているのだ。 なにしろ主人公が見聞きしたこと以外を描写する必要がないので、大統領執務室や航空宇宙防衛司令部(NORAD)のセットも、海外ロケも要らず、大統領ほか政府高官の役者も、将軍も、一般兵士も、ニュースキャスターも、その他一般市民も、戦闘機や戦車の出撃シーンも要らないというリーズナブル(?)な構成になっている。 なにしろよく見るとこの映画、主人公の立てこもった高層マンションの一室のみでほとんどの事が起こっているのだ、話のバックグラウンド(語られない背景)が壮大であるためについつい大作っぽいイメージを抱いてしまうが、これはヘタな人間ドラマ(?)よりよほど小規模な撮影である。 視点を限定して、登場人物の数を絞り、ロケ費/セット費も抑え、そこそこのデジタル予算で大作風味を演出したものの、コンセプトデザインを出す予算まで控えめにしたために、ビジュアルイメージまで借り物になってしまっている映画、これはそんな映画である。 ラストシーンのひとひねりだけが面白かったが、とうてい劇場に足を運び1800円と半日なりを費やす映画ではない。 レンタルが出たとしてもそのひとひねりを見るために3~400円出す価値があるかは微妙だろう。 ETとスタンドバイミーを足して2で割ったような映画、という噂のみを聞いて観に行った。 つまりはエイリアン(悪者ではないエイリアン)と少年の冒険を描いた映画なのだろうということだが、看板に偽りなく1979年のアメリカの片田舎に住む少年のささやかな恋と冒険を描いた良質の娯楽映画だった。 とはいえしかし、映画史に残る傑作であるETとスタンドバイミーを足して2で割るのは無理だし、この映画をそれと並べるのは持ち上げ過ぎというものだろう。 この映画を観ていると、エイブラムスって監督はスピルバーグが好きなんだなーと思うのだが、目指すものがスピルバーグではそれを超えたものが出来るわけもない。 スピルバーグがサイレント時代の連続活劇を現代の技術で蘇らせてインディジョーンズを作ったように、リスペクトした物に何かを付け足していかなければそれはよく出来た映画という以上の何かには決してならないだろう。 そしてこの映画、先の2大傑作と比べるといろいろと足りていない。 そもそも自主映画作りに励む少年達と、そこに参加した少女との間で起こる化学反応だけで1本の映画が出来そうなものである。 そこへ未知との遭遇とETを混ぜたような怪物騒ぎや、秘密の軍事作戦、陰謀などを混ぜ合わせたのでは語る時間が足りなくなるのは目に見えている、良いところはほの見えるもののつっこみ不足のまま走ってしまった感が否めないのだ。 また、ETの見せ方が間違っている、そもそも制作者側が発表したトレイラー(予告編)からしてエイリアンの存在を匂わせているのだから、この街に何が起こっているのだろう、軍は何を隠しているのだろう?という引っ張りはそう「持つ」ものではない。 エイリアンが居るんだろ?わかってるんだから早く出せよ、と観客に思わせては失敗なのだ、観客のエモーションを操るのに長けている監督はそのタイミングを見誤らないのだがエイブラムスはそうではない。 また、出た!となったら一回はバーンと紹介カットを入れるべきなのだが、いつまで経っても-ほとんどラストシーンまで-エイリアンを映さない(というか最後まで全身像は不確かなままである)これが不完全燃焼を生んでいる、いつまでもったいぶっているんだ!と思ってしまうわけだ。 そしてこのエイリアンが「悪者ではないエイリアン」には見えない、見てくれの話ではなくその行動が普通に凶悪なのだ。 主人公を初めとする数人が「本当は悪い奴じゃないんだよね」と言っているだけで、観客は映画の終盤にはドン引きである、もちろんETの最後のようなほのぼのとした気持ちになどなれない。 この人心に対する計算の間違い方にも監督としての力量不足を感じるわけで、要するにいろいろと足りていないとしか言えないのだった。 ところでしかし、この映画には良いところも一杯ある、何よりヒロインのエル・ファニングが良い。 少年達がスーパー8(※8ミリフィルムの規格)で作っている映画(ゾンビ映画)はローティーンである彼らが大人を演じているわけで、刑事役をやっている少年もトレンチコートに着られている感が甚だしく、大人のマネをしている子供にしか見えない。 そこへそばかすだらけの女の子、エル・ファニング(13歳)が参加し、刑事の妻を演じるといわれてもそれは痛いと誰もが思うわけだ。 ところが、リハーサルを始めた途端、一気に彼女の雰囲気が変わり、見た目すら10歳くらい上になり、愛する男の身を案じる大人の女に成りきる変身が凄すぎる。 主人公を含めガキんちょである男どもは一気に彼女にまいってしまうのだが、これがこの映画のキモであり、主人公の(つまり映画の)原動力となり、映画が動いていくきっかけになるわけだからエル・ファニング様々である。 その後もゾンビメイクをされた彼女が(かなりダサく、笑いが取れるようなメイクなのだが)「魂がなく、血に飢えた感じ」と言われた途端に見た者を震え上がらせる凄惨な雰囲気を出すあたりも見事である。 主人公がビビって一歩も動けないのが観客の心境に完全にマッチしていて過不足がない。 彼女の姉ダコタ・ファニングは「アメリカ最強の女優」という異名を誇るわけだが(10歳の時「マイ・ボディガード」のために、水泳、ピアノ、スペイン語を3ヶ月でマスターしたという) その妹も天才であるわけだ。 実際、彼女を見るためだけにでもこの映画を観に行く価値があるだろう。 田代博 富士山は雄大にして優美な山容を誇り日本の象徴となる山である。 荘厳さを感じさせる姿は古くから信仰の対象であり、霊山とも呼ばれる。 もちろん何かの宗教を信じておらずともその姿を目にすれば、それがたとえ電車の窓から遠望するのであれ、嬉しい驚きがあり何か良い事が起きたような気がするものだ。 よって日本各地には富士見町とか富士見坂とか富士見峠と名付けられた場所がある。 ゆえに「富士山が日本のあちこちでどのように見えるか探索する」のを趣味とする人(達)が居るのは理解できる。 できるのだがこれはどうも理解できる域を遥かに超えていた。 筆者は初め富士山がどれだけ遠くから目視できるかについて説き起こす。これは地学のトリビアとしてよく語られる話題だ。 つまり地球は湾曲しているので離れていけば富士山はやがて地平線の影に隠れて見えなくなってしまうという奴だ。これは確か200キロメートル強ではなかったかと私も覚えていた。 正確には236キロだったのだが、これは理論上(図面上)の最大目視可能地点「最遠望地」である。 実際には土地の起伏があり、特に高い土地/山から見れば「最遠望地」はもっと伸びるからだ。 とはいえこれがどこかを突き止めるのは難しい。 富士山と観測地点の標高の他に、この2点の間の障害物までを考慮しなけば実際の可視不可視は決まらないからだ。 筆者はかつて観測可能地点を電卓片手で計算していたらしいが、90年代に有志の一人がこれをパソコンで計算するソフト「カシミール3D」(可視見ぇール)を開発し、一気に研究が進んだ。 このソフトは、たとえて言えば富士山の山頂に強い光源があったとしてその光がどこを照らしているかを調べるようなものだ(光が当たっている場所からはその光源-富士山頂-が見える、というわけだ) このソフトの出力した可視マップはなかなか面白い。たとえば茨城県の平野部は基本的に可視地域なのだがその一部、筑波山の影になった部分だけが不可視となっているのだ。そしてその不可視地域はちゃんと筑波山が引き延ばされた形をしている、夕焼けで長く伸びた影法師のようなのだ。 そしてこのソフトの最大の功績は最遠望地を理論的に突き止めたことである。それは和歌山県の小麦峠でありその距離322.9キロメートルである。 筆者はそれ以前に和歌山の法師山を最遠望地と発表したことがあるらしいのだが、そこは実は富士山は不可視の場所だった、電卓時代には複雑な地形の影響を全部考慮するのは不可能だったろう。 さてしかし、そのように理論的な可視地点が発表されると、有志が証拠写真を撮りに行くところが面白い、カシミール3Dを開発した有志といい、富士見を趣味とする人達はかなりの数で存在するのだろう。 ちなみに私はこの人たちを「富士見さん」と呼ぶことにした。 富士見さんコミュニティーというべきものも存在し、いくつかの用語も存在する、たとえば先にも出た、標高データー的には見えるはずの地点で、障害物があって富士山が見えないことを「消え富士」というらしい。 他にも富士山に太陽がかかることを「ダイアモンド富士」月がかかることを「パール富士」という。 こういった、ただ富士山が見えるというだけでなく、もうひと捻りした見え方は「マニアックな見え方」なのだそうだ。 山越しに富士を見る場合、手前の山の鞍部(稜線が谷になった部分)から富士山が顔を出しているのも「マニアックな見え方」である(らしい) その他、周囲がトンネルなどに囲まれている「覗き富士/トンネル富士」というものがあり。その中で橋の橋脚に囲まれているなど、枠が四角いものを特に「額縁富士」と呼んだりもする。 また人工物による高い所から見るのではない富士を「路上富士」 電車や車など乗り物から見る富士を「車窓富士」という。 東海道線は東西に走っているため、富士山はほぼ西側、下りで言うと右側に、しか見えないのだが在来線で9ヶ所、新幹線で1ヶ所だけ反対側に見える地点があるのだという、この時、列車の左側で見える富士を「左富士」という。 はー、と言うしかない。 筆者はやがて特段にマニアックでない場所の紹介を始める。 最初はある程度名所と言ってよい場所から入る、つまり東京タワー、サンシャイン、六本木ヒルズ、都庁、丸ビル、世界貿易センタービル、お台場フジテレビ、同パレットタウン観覧車、同テレコムセンター、船の科学館、恵比寿ガーデンプレイス。 そしてこれらの場所から富士山がどう見えるか解説する、曰く大観覧車はバレンタインの頃ダイアモンド富士になる、丸ビルでもダイアモンド富士が見られるが気づいている人が少なく穴場、サンシャインも穴場だったのが最近宣伝を初めてしまった、六本木ヒルズは屋上から見られるなどなど。 このあたりまではある程度了解可能なのだが、筆者は次第にマイナーな場所に言及し始める。 曰く、足立区役所14階レストラン、練馬区役所展望レストラン、江戸川区総合区民ホール、大田区池上会館、杉並区あんさんぶる荻窪、北区ほくとぴあ、などの公共施設(公共施設は展望に絶好な年末年始が休みなので残念だそうだ) そして稲城市フレスポ若葉台、蒲田東急プラザ、などの商業施設、やがて町田市小山田緑地みはらし広場、多摩市みはらし広場、多摩市鶴牧公園など、の公園や緑地などにも言及する。 このあたりで私は「この人は東京中の全ての富士見ポイントを網羅するつもりなのだな」と気づいたわけだが、やがてそれが「名のあるポイント」だけでなく「全てのポイント」であることに気づいて戦慄した。筆者はやがて都内の名も無き通りすべてについて解説を始めるのだ! つまり千代田区では靖国神社南門から田安門前までの靖国通り約1キロが富士山の見えるポイントである。港区の海浜公園では品川のビル群がジャマをするので、浜辺の南側半分しかポイントがない。文京区大塚の富士見坂は、今では富士山が見えずらくなってしまい、坂を下りきったバス停のあたりでやっと山頂が見える、など筆者は都内のなんということもない路上について語り始める。 この人はどうやら富士山が見える全ての場所を調べあげ、実際に検分しているらしいのだ、ここまでくると余人には理解しがたい情熱と言ってよい。 筆者は最後に、東名高速の都夫良野トンネルからダイヤモンド富士を撮ることに挑戦する。 つまり「車窓」「トンネル」「ダイヤモンド」富士である(まるで冬期、単独、無酸素、登頂である) 東名でトンネル富士が見られるのは3ヶ所あるが、ダイアモンド富士になるのは都夫良野トンネルだけ、9月と3月の3日しかチャンスが無いのだという、時間も問題だが高速上で車を止めるわけにはいかないので、キロポストを参考にスピードを調整して走行しなければならない、チャンスは1回限りなのだ、まるで点と線である。 ・・・楽しそうだな、おい。 理解しがたいが、当人が楽しくやっていることだけはわかる。 そして、そのような何かに取り憑かれた人、人生を何かにかけてしまった人、そしてそれを嬉々として実行に移している人を見ているのは楽しい。 幸せそうな人を見ているとこちらも笑顔になってしまうようなものだろう。 かまやつひろしもこう歌っている。 そうさ何かに凝らなくてはダメだ 狂ったように凝れば凝るほど 君は一人の人間として 幸せな道を歩いているだろう 「ゴロワーズをすったことがあるかい」より 貴志祐介は目の離せない作家である。 次から次へと傑作をものするから・・ではなく、何をするかわからない作家だからである。 このあたりの事情については昨年「悪の教典」について書いた際に触れているのでそちらを読んで欲しいのだが、一部を引き写してみると。 思い返すところ過去9作のうち、まったきの傑作は「黒い家」だけであり、「天使の囀り」は寄生虫に関して、「硝子のハンマー」は防犯について頑張って調べました感がありすぎる。またどちらも「面白くないこともない」という微妙な出来だ。 また「クリムゾンの迷宮」はゲームのノベライズといった代物であって、しかもその出来はラノベでもここまではないという低水準、はっきり言って小説の体をなしていない。 「新世界より」は超大作、超力作だが、壮大華麗なドラマとしてそのオチはまったく不可解なものだ。(どう不可解かは2008年度版のScriptSheetを読んでいただきたい) サスペンス、ホラー、SF(?)本格ミステリー、伝奇小説とジャンルを次々と変えて作品を発表しつづける貴志祐介はチャレンジーであるとも言えるし、自分の得意分野をつかみきれていないとも言える。 つまるところまだまだ新人作家ということであり、そう思えば上記のいつくかの問題『元ネタを自家薬籠中のものにするのがうまくない』『長所と欠点がわかりやすく同居する微妙な作品』『時に失敗作も出してしまう』などなどが存在するのもあたりまえなのである 普通このくらい書き続けていれば一定の水準をクリアした作品をコンスタントに発表するようになるものだ。 それは言い換えればたいしたネタでなくとも文章力で読ませる技術を身につけるということでもあるのだが。大当たりは無いにしてもそれなりに読ませるお話が書けるということだ(このあたりの赤裸々な事情は、井上夢人の「おかしな二人」によく書かれている)しかし貴志祐介はそうではない。 すごい傑作を書くかもしれないが、唖然とするほどダメダメかもしれない。 そういう意味で貴志祐介はドキドキするし目が離せない作家なのだ。 ということで本書である。 残念ながら後者であった。 本書は表題の通り密室トリックによるミステリーであり、しかもメカニカルトリックものだ。 21世紀の御代に至ってメカニカルトリックの密室ものでしかも連作ってマジか?と思うわけだが、当然のようにダメだったということだ。 そもそも(時代を超えて)メカニカルトリックものというのは小説として成立するギリギリな位置にあると言ってよい。 物理法則に縛られ、3次元空間を舞台とするこのジャンルはいかに作者が綿密に描写しようとも、読者がその舞台を目のあたりに出来るわけではないので作者が(登場人物が)言ったことは額面どおりに受け取るしかないという型に嵌まった(伝統芸能的な?)形式である。 つまり「ドアは施錠されていた、他に侵入経路はない」と言われれば、それで仕舞であって、ユニットバスの天井にはハッチが付いているのでは?、というような疑問は抱いてはいけないことになっている。 プレハブの部屋をクレーンで吊り上げたのだと言われれば、支点になった鉄筋が曲がっているだろうとか、同じ場所に戻せる筈ないから地面見りゃわかるだろう、などと思ってはいけない。 部屋に水を満たして水死させるって、水深2m以上の水圧に耐えるドアってどんな水密ハッチが付いていたんだ!と思うけど、貯まると言われればそういうものとするしかない。 刀を吊って欄間を通すのは絶対無理(鍔がひっかかるから)と操演技師の私は思うけど大横溝が言うからには通すしかない。 論理のアクロバット的ミステリーは、蟻の這い出る隙間もないほどに理詰めで推理を押し進め「だったらこうも考えられるのでは?」という穴は徹底的にふさいでいくものだが、メカニカルトリックは、作者の言ってること(あるいは言っていないこと)に大穴が開いていても額面通りに取るのが通例である(というか、そうしないとお話が完成しない) つまるところこれは 『お金持ちのお屋敷で主人が殺された、死因は頭を鈍器で殴られたことによる。 凶器が外に運びだされた形跡はないが屋敷中を捜索しても発見できなかった。 容疑者はそのとき屋敷にいた、秘書、メイド、コックの3人。 犯人は誰か?そしてその凶器は?』 というようなミステリークイズに近い。 限定的で形式的なパズルのようなものだ。 必然的に登場人物は被害者役、探偵役、犯人役、といった一面的な人物造形になってしまう。情報提供役である妻は貞淑に見えるけれど実は違っており、その証言にも裏があるのではないか?などとなったら作品が成立しないのだ。 これは別な言い方をすると登場人物が将棋の駒のようであるということであり、かつて新本格ミステリーが「小説じゃない」と言われたのと同じ構造である。 新本格は「夢のような壮大な謎」が論理のアクロバットによって解かれていく過程の楽しさの為にその文学的香味を投げ捨ててしまったわけだ。 今回は、今さらのようにメカニカルトリックを書くからには、投げてしまったものと引き替えにできるだけのエンターティメントを盛り込むことが出来るのか?というチャレンジでもある。 無理だろう、というのが私の予想であり、無理だった、というのが結論である。 斬新にして独創的、かつ実現可能性について説得力があり、文章で描写しても読者の腑に落ちるメカニカルトリックを今更構築するのは難しい。それが練りに練った力作1編というならまだしも連作となるともはや不可能に近いのではないだろうか。 ついでに言うと、連作のトップはそれなりに考え抜かれた秀逸なものであるのが普通だ。 これで続編を、となったはいいがネタが続かず最後はぐたぐたになるというのが連作ものの末路である筈なのだが、この作品は最初からトホホなトリックであり、作品の随所にトラックが出入り出来るほどの大穴が開いている。 後になると素人ミステリー作家が思いつきで書いてみましたレベルの怪しいトリックになってしまい、この脆弱なトリックに人生を賭けて殺人を犯す犯人にまるでリアリティを感じない。(これが新人作家の応募原稿だったら下読みで没になるだろう) それにしてもしかし、貴志祐介ここまでヘタだったか?と私はむしろ不思議に思うのだった。 ネタが怪しいのは1000歩譲っておいておくとして、貴志祐介の腕ならもう少し面白く書けてもよかったのではないか? この連作の主人公は「硝子のハンマー」で登場した防犯ショップの店長、防犯コンサルタントにしてプロの窃盗犯(かもしれない)榎本径と正義感あふれる人権派弁護士、青砥純子の2名である。 家宅侵入に関しては一流のプロであり(←たぶん)それゆえに侵入から守る立場としても一流である榎本と、やり手の弁護士でありながらあまりにも生真面目すぎて騙されやすい青砥のコンビはホームズとワトスン並によく出来た組み合わせになっている。 生真面目な青砥を口八丁手八丁でいいように操る榎本と、彼をパートナーとして信頼しつつ実は犯罪者ではないかと疑い、彼の尻尾を掴むことが出来ぬまま・・というか、実は本人も気づかぬところで「尻尾を掴みたくないと思っている」微妙な女心の持ち主である青砥の2名の推理道中は、ちゃんと描けば大人の男女の軽いラブコメディとして充分読めるものになると思うのだが、全然そうなっていない(むしろ「硝子のハンマー」より後退している感じである) ミステリーとしては凡庸ながら、小説としてはそれなりに読ませるというお話も世の中には存在する。 それ故、素材としてかなりのポテンシャルがありそうなこのデコボココンビをなぜこうも活用しないのか、出来ていないのか不思議なのである。 ps クイズの答え:犯人はコック、凶器は冷凍した固まり肉で捜査の手が入ったときには解凍して調理済みであった。 人を殴り殺すだけの質量のある肉がそう短時間に解凍できるのかとか、被害者の頭部を観察すれば冷凍肉の破片のひとつや二つは見つかるだろう、などと言ってはいけない。 自炊と言っても 吾妻ひでお「地を這う魚」より 電子書籍に関する自炊(じすい)とは、書籍や雑誌を裁断機で切断しスキャナーを使ってデジタルデータに変換する行為を指す <Wikipedia「自炊(電子書籍)」より> という奴である。 必要なものは裁断機とスキャナだ、スキャナは現在のところ富士通の一択である。 オートシートフィーダーをそなえ1回のパスで両面をスキャンしてPDFあるいはJpeg化してくれるScanSnapが群を抜いて使いやすく値段も安い。 問題はスキャナに一枚づつ紙を送り込めるよう書籍を裁断する裁断機である、ぶ厚い書籍をきれいに裁断するためにはプロ仕様な大型裁断機が必要なわけだが、通常これは各ご家庭に一台づつ常備しておきたい一品ではないため、量産されているとはいえず高価なのが普通なのだが・・アマゾンで9500円(!)で売っていたので買ってしまった。 メイドインチャイナであり、クチコミを見るとサビていたとか、サビ止め油が分厚く塗られていて拭き取るのに1時間かかったとか、いろいろあって構えていたのだが(ただし問題があった時の販売会社の対応はいいらしい)そのようなこともなく。 説明書も英文しか付いていない、とあったのだが来たものには邦文のものが付いておりいろいろと日本仕様になってきたのかもしれない。 そして性能は (最大厚は40ミリであり、電話帳などもサックリといける・・らしい) あとはスキャナーに入れるだけ、スキャナーはカバーを開けると起動し、プリンタの紙を供給するように給紙トレーに紙をそろえて置くだけだ。 スキャンの設定は両面読み取りか片面か、カラーか白黒か、PDF化するかJpeg画像にするか、トレーの紙が無くなったら終了か、続きがあるのかなどで、設定に名前を付けて10個まで記憶しておけるのも便利だ。 オートシートフィーダーの一番の問題は重送(紙を2枚重ねて送り込んでしまう)であり、紙質が揃った新品の専用紙を送り込むプリンタと違い、厚さも紙質もさまざまで、シワもソリもある(かもしれない)スキャナはその対策が重要である。 全部スキャンできていると信じて紙を処分したあとスキャン漏れが発見されたとなってら冗談では済まない。 そこでこのスキャナには超音波センサーが付いている、どう測っているのかはわからないが重送が発生するとその場でスキャンを停止する。そして最後にスキャンした頁を画面に表示して、その頁を残して次からやり直すか、破棄してやり直すかを選択できる。 痒いところに手が届く処理と言ってよいだろう、スキャンに特化し、スキャンする際に何がどうあればユーザーが楽になりストレスを感じずに済むか研究した成果であると言ってよい。 これで家に貯まっている各種の資料、特集記事が読みたいがために丸ごと保存してある雑誌、捨てるに捨てられない映画のチラシ、などなどをすべてデジタル化して処分できるだろう。 自炊の話はとりあえずここまでだが、デジタル化した後の事を書いておこう。 デジタルデーターのうち特に必要なものはPCの「Dropbox」フォルダにぶち込んでおくと便利だ。 Dropboxというのは同じアカウントを持つPCのフォルダを共有するソフトだ。 このDropboxフォルダに入れたファイルは自動的にサーバーに送られ、同じアカウントを持つ別なコンピューターがインターネットにつながるとそこのDropboxフォルダと同期する。 つまり私は今2台のデスクトップと1台のノートパソコンを所有しているが、これら3台のPCのDropboxフォルダはいつも同じものだ、3台で共通のフォルダを使用しているというイメージと言ってよい。 従来、会社と家など2つ以上のPCで一つのデーターを操作する場合、USBその他でデーターファイルを持ち歩く必要があったし、データーの世代管理もやっかいだったが今はまったく気にする必要がない。 また、複数のPCで使用することが無くとも重要なファイルをDropboxに入れておけば、サーバ及び他の2つのPCにセーブされていることになるわけでバックアップになる(Dropboxは2Gまで無料で使用できる) こういったコンピューターの使用方法を「クラウド」という。 本来的にはクラウドコンピューティングとは、企業が自前のコンピューターシステム、サーバー、ソフトウェアを持たず、最低減のネット接続端末だけを持ち、データー処理から保存、管理までインターネット上のサービスを利用する、ということを意味するが。 データを自分のパソコンや携帯電話ではなく、インターネット上に保存する使い方、サービスのこと。自宅、会社、ネットカフェ、学校、図書館、外出先など、さまざまな環境のパソコンや携帯電話(主にスマートフォン)からでもデータを閲覧、編集、アップロードすることができる。 <はてなキーワード> というわけで上記のような個人的な使用方法もクウラドのひとつと言って差し支えないようだ。 さて上にもあったが、Dropboxはスマートフォンにも対応している。 先ほど私は2台のデスクトップと1台のノートパソコン、と述べたが、最近携帯をアンドロイドに変えたので携帯でもファイルを共有しているわけだ。 (以前は出先でメモを書いた場合、自分宛にメールを送ったりしていたが、今はその必要がない。また家のPCで作成したメモを読みたくともその方法がなかったが、今は書いたメモをDropboxフォルダに保存すればどのPCでも、出先でも閲覧/編集が可能になるのだ) というわけで、これからはデジタル化したデーターがいつでもどこでも読み放題になる。 とはいえさすがに携帯の画面は小さいので、当面仕事に必要な資料を閲覧する程度にとどまるだろう。 ブックリーダーやタブレットPCを持っていない今、小説をデジタル化して持ち歩くつもりはないということだ。 (加えて私は若干ながらビブリオマニア=書痴、本を収集することに血道をあげる人、の気味があるので所有する本、特にどこでも読みたいと思うほどに気に入った本、を裁断する気にはなれないと思う) とはいえしかし、本が電子化された状態で安く売られ始めたらリーダーを含めて買うかもしれない。 オーディオルームで聞くものだった音楽を外に持ち出したのはウォークマンであり、持ち出す音楽を選ぶ必要を無くしたのはipodの功績である。 「家で・選んで」聞くものだった音楽は「いつでもどこでも・持っている音楽は何でも」聞けるようになりその楽しみ方は激変した。 「家で・選んで」読むものだった本が「いつでもどこでも・読みたいものは何でも」読めるようになればまた何かが変わるだろう。 読み始めてすぐにオイオイと思った。 主人公である案野一騎くんは高校1年生。運動系クラブで青春を謳歌したいがスポ根はイヤ、格闘ゲーム研究会があるなら文化系クラブでも構わないが、そんなものは無いので帰宅部という平凡な男子高校生である。 実のところ、理知的で美人で新体操部でご近所さんで委員長というあだ名の女友達がいるという時点でぜんぜん平凡ではないのだが、そこは絵に書いた平凡という記号であろう。 そんな彼の元へ正義の宇宙人(!)がやってくる(当人が「自分は宇宙の平和と正義のために活動している宇宙人で、悪い怪獣(!)を追って地球にやってきた」と言うのだ) 彼女(女性人格である)は、前作MM9に出てきた女の子型怪獣「ヒメ」に憑依し唯一テレパシーで意思疎通が可能だった一騎くんに怪獣退治の協力を依頼する。 「無気力でも平和な生活」を望んでいた彼はいきなり地球規模の戦いに放り込まれてしまうのだった。 というのがイントロである。 さて、自称「地球人の10倍の知性」を持つ宇宙人だが、憑依した「ヒメ」(見た目は女の子だが中身は怪獣で動物並の知性しかない)に足を引っ張られ1/10程度に知性が減退してしまっている。 要するに、宇宙人合体怪獣「ヒメ」の頭の程度は人間と同じということだ。 というか、魔法少女もののアニメに熱中し「むしろ人間より頭悪くない?」と一騎くんに言われる始末である。 そして彼女は、お約束ながら人間としての常識に欠け、羞恥心や貞操観念などがない。 一騎くんコンビニで女物の下着や衣類を買うハメになる、とか。 朝起きたら隣で裸で寝てました、とか。 そこへ母親がやってきたので布団の中に彼女を押し込んで、そしらぬ顔で母親と応対しました、とか。 裸をとがめたら、裸にエプロンで料理してました、とか。 でも不器用で卵も割れません、とかなどを見てこれってラノベ?と私が思ったのは無理からぬところだろう。 美人で天然なおしかけ宇宙人と誤解してヤキモチを焼く女友達、2人に翻弄される平凡な主人公ってそれリト?あたる?桂馬?友紀?智樹?秀樹?雪成?桂?悟郎?仲人?優?真?昇?、というわけで、これまでにラノベ・アニメ・ゲームで1024回くらい作品化されたシチュエーションと言えよう。 (上記の押しかけヒロインは宇宙人のほかアンドロイド、鬼、悪魔、異世界人も含まれます) これが山本弘でなくMM9第2章でなかったら、放り出しかねないところだ、しかしこの作家がありきたりなお話を書くわけがない。 ありきたりから180度方向の違う無理筋なお話を力技で突破してみせるという極めてチャレンジーな作品を書いてきたのが山本弘なのだ。 きっと何か仕掛けがあるのだろう、と思って読み始めてしばらく、やりたい事がわかった。 というところで警告である。 これから先にネタバレを書く。と言っても暴いてしまうと作品が崩壊してしまうような謎がある訳ではなく、ただ単に小出しにされていく仕掛けを作者が用意した順に楽しむ事ができなくなる(かもしれない)というだけである。 このくらいのネタなら別段割れていてもいい問題ない、という人が居てもおかしく無いレベルだが、どんなお話も一から楽しみたいという方は本章はここで中断し、読後再びこの先を読んでいただきたい。 ということで再開。 作者は「リアル・ウルトラマン」を書きたかったのだ。 そのタネはもう冒頭から振り撒かれている。 「悪い怪獣」が青い火の玉となって地球に落ちてくるのはウルトラマンの第1話と同じだ。 <ウルトラマンに於いて青い玉は宇宙怪獣ベムラー、それをハヤタがビートルで追跡していると、ベムラーを追ってきたウルトラマン(赤い玉)と衝突してしまう、というのが第1話「ウルトラ作戦第一号」のイントロである> また、この自称「正義の宇宙人」は自分たちが住む星雲は「ジェム」と呼ばれており、それは「光り輝く」という意味であると言う。 <光の国だ> そしてジェムは地球から300万光年離れていると説明する。 <M78星雲は地球から300光年の彼方にある> また自分は2万年生きていると言う。 <ウルトラマンは最終回で「自分はもう2万年生きたのだ」と言っている> この辺でもう気づくべきだったのだが、私はまだこれが山本弘のジョークだと思っていた、まあリスペクトと言い換えてもいいのだが、やりたいことは他あり、そのディティールにウルトラネタをちりばめていると思っていたのだ。 しかし話が進んでもこのウルトラネタはとどまるところを知らない。 宇宙人ジェミーは自分は恒点観測員774号であると言うのだが、恒点観測員340号はウルトラセブンである(これは後付け設定だが) そして、ここが重要なのだが「恒点観測員」などという言葉はない、おそらく「定点観測船」などから来た造語なのだろうが、ウルトラセブン特有の言葉なのだ、これは先の仄めかしなどとはレベルが違い「ジェミーはウルトラセブンの後輩である」と宣言しているに等しい。 ノベライズでも、二次創作でもない独立した一個の小説で、その登場人物がウルトラセブンの後輩であると宣言するってどうなの?!と私は驚いた。 驚いたのだが、まだ甘かった(?)その敵たる宇宙怪獣がいよいよクライマックスでその姿を現すと。 直立したエイ、という感じだった。上にいくほど広くなる扇形のシルエット。首はなく、胴体に埋もれているようだ。(中略)胸にはオール状の胸びれらしきものが生えている。(中略)今や下半身も明らかになっていた。二本の太くて短い足があり、それぞれの先端には一本の太いかぎ爪がある。 と描写される。 どうみても(読んでも)ウルトラマンティガに出てきた怪獣「ガゾート」である この敵(怪獣6号と名付けられた)は、電波によって誘導され、怪獣災害の対策本部である気象庁に向かうのだが、ウルトラマンティガにもガゾートをマイクロ波で誘導するシークエンスがある。 また怪獣6号は電磁波を吸収するためレーダーで捉えることができない、そこで。 「それじゃ赤外線誘導やレーザー誘導の兵器も当たらない可能性が!?」曽我部の顔は蒼ざめていた。 というくだりがあるのだが。ガゾートは自ら電磁波を発射して電波妨害を行っており。 ムナカタ副隊長「電波でコントロールする近代兵器は一切使えないということか」と言うセリフがある。 つまり、敵怪獣さえ漠然とした何かではなく「ガゾート」なのだ。 これにはビックリしたのだが、ここまで来たら作者の意図に気づかざるを得ない。 つまりこの小説のウルトラネタは、リスペクトやオマージュではなく、もちろんお遊びでも何でもなく、作品の狙いそのものなのだ、つまりウルトラマンを正面切って小説化するというチャレンジである。 ほほう、と思ったのだがこのあたりで私は細かいところが気になってきた。 怪獣が街を破壊する描写がとてもウルトラっぽいのだ。 どういう事かというと。怪獣が超高層マンションにつっこむやそのマンションがまっぷたつに切断されたり。 浅草から気象庁に向かって進撃を始めると 前方に立ちはだかるビルを片っ端から体当たりして倒壊させ、、その瓦礫を踏みにじって進んでいくのだ。 というくだりだ、このビルのもろさは「怪獣映画」のそれではなく「TV版ウルトラマン」のそれなのだ。 そこに注目している人はあまり、ほとんど、全然いないだろうが怪獣映画で破壊されるビルとTV版ウルトラマンで破壊されるビルは違う。 怪獣映画のそれはキチンと設計され、時間をかけて作られている(ウルトラマンでも映画版はそうだ) 本物のビルは厚みがあって各階ごとに床があって四方に壁がある。映画のミニチュアビルは大きなスクリーンで見てもアラが出ないよう、その構造を(なるべく)再現している。 だから怪獣といえど(着ぐるみを着たスーツアクターといえど?)容易に破壊できないし、逆に言うと破壊の過程を見せることが出来るのだ。 いっぽうウルトラのビルは、怪獣強い・でかい、を示す記号として作られた「ビルのようなもの」だ。 そもそも映画と違い1週間に1個づつ消費されるビルには時間も予算もかけられない。 外見は10階建てのビルのように見えても、実際は石膏板を立てて作られた中身空っぽの箱だったりする。いや、箱であればまだしも天井もない、後ろの壁もない2フラット(本を開いて立てたような2面しかない構造)である場合もある。 だからTVビルは、壊し方を間違えると恥ずかしい絵になってしまう。 ビルの破壊について責任を負うのは操演技師だが(私だが)ここで操演技師の考えることは、カッコ良く壊す事よりなにより「使えない絵になるのだけは避けなければ」ということになる。 そして「使えない絵」の最たるものは、怪獣が触れた途端にビルの壁面が大きく割れ、後ろに何もないのがバレることだ。 石膏板で出来ているビルというともろい、壊れやすいと誰もが(実は多くの特撮スタッフですら)思っているのだが実際はそうではない、石膏板は縦方向に力を加えたのでは容易に壊れない。 横に、板チョコを割るように力を入れれば簡単に壊れるのだが、この場合でも石膏板の一番弱いところがまさしく板チョコのようにパキッと割れるだけだ。 だから怪獣が後ろからビルを打撃した場合、ヘタをうつと前面の壁がパタンと前に倒れて後ろが素抜けになり、各階フロアもあらばこそ、後ろに立っている怪獣や、ホリゾントが見えてしまうという事態に立ち至る。 こうなってしまえば恥ずかしいを超えNGだろう。 恥ずかしい絵を作らない為の方法は2つだ。 1つは怪獣が打撃した部分だけが壊れるように(触った部分以外の場所に力が伝わらないように)ビルを傷めておくことだ。 そうすれば1撃目はビルの左側、1撃目でビルの右側、と順に壊すことができ、多少なりとも壊す「過程」を見せることが出来る。 ビルを痛めるため、石膏板に切り込みを入れる操演部、 この切り込みは美術部が接着力のない充填剤(水で溶いたタルクパウダー等)で埋め、そののち全体を塗装し、 窓をはめ、アンテナ、エアコン、屋外看板、排水パイプなどの装飾物を取り付け、汚しをかけて完成する。 私の実感で言うと、一般的なウルトラマン仕様のビルは、手で2撃、蹴り上げて1撃の3回で、完全に崩壊する程度がちょうどよい。 欲張って手で3撃とか狙うと、手を振った場所にすでに壁が無いという事になりかねない(よくある) 怪獣がビルを破壊するカットは、怪獣がむちゃくちゃ暴れているように見えるが、実はダンスの振り付けのように動きが決まっている。 操演技師とスーツアクターが事前に打ち合わせをして「歩いてここまで接近し、右手でこの部分をまず打撃、次に左手でこの角度でここを打撃、そこで一歩踏み込んで足でここを蹴る」などと決めてある(操演技師はその動きに合わせて切り込みを入れ、補助の火薬を仕込む) 着ぐるみは視界が狭いので、アクターはそこにビルの壁面があろうと無かろうと決めたとおりの動きで手を振り、足を踏み出す。 ところが、打撃の回数が増えると不確定要素が増し、あるはずの壁が壊れてすでに無いという事が起こりやすい、すると怪獣は何も無い空間でから振りをしてしまうのだ、これも「恥ずかしい絵」の一つである。 だから「3回でビル破壊」これが無難な落としどころなのだ。 何が言いたいのかというと。 つまりはウルトラマンに出てくるビルは極めてもろく、壁に触れれば抵抗なく壊れ、のしかかれば積み木のように倒壊するということ。 及び、倒壊した後に出る瓦礫の量が少ない(本物のビルが倒壊した場合と比べて、あるいはそれをある程度忠実に再現したたミニチュアを倒壊させた場合と比べて極めて少ない)ということなのだ。 この小説に出てくる怪獣とビルの関係がまさしくソレである。 破壊描写で特に感心したのは。 浅草雷門付近で暴れ回った怪獣6号は、現在、南西の秋葉原方向に向かって移動しつつある。 道路に沿って歩くようなことはせず、前方に立ちはだかるビルを片っ端から体当たりして倒壊させ、その瓦礫を踏みにじって進んでゆくのだ。 (中略) 怪獣は首都高速1号線の高架を踏み潰し、昭和通りを横切った。自分の身長よりも低いヨドバシAkibaの白い建物を積み木のように崩し、JR秋葉原駅の昭和通り口を足で破壊し、アキバトリムとチョムチョム秋葉原の間を狭苦しそうに通過する。 というようなくだりだ。 普通に考えればたとえビルを倒壊させたとしても、瓦礫がジャマになって怪獣といえど通過するのに苦労する筈だ。 ヨドバシAkibaビルなど、知っている人はわかると思うがなにしろでかくて広い、縦も横も厚みもある大きな固まりである、これを「積み木のように」崩すのは難しいし、もし崩し得たとしてもその瓦礫は巨大な山になってしまい踏破するのは難しいだろう。 つまり、この世界のビルはもろいこともさることながら、壊れた後の瓦礫が異常に少ないのだ、まるで・・そうまるでウルトラマンの石膏ビルのように。 「ビルを突き抜けて前進する怪獣」というカット用に作られたミニチュア(高さ2.5m!) 怪獣が自分で壊した瓦礫に足を取られないよう中身は空っぽである。 あまりにも、唖然とするほどに、空っぽなので壁面が破壊される寸前に左下の仕掛けからホコリを吹き出し 中身が無いのをごまかす仕掛けになっている なので、そのもろさ(もろすぎ)残骸の量(少なすぎ)をかくも正確に見てとり、的確に描写されているのに驚いたのだった。 これって青い玉や恒点観測員のように明示されていないけど、ウルトラマンのいる世界である事を意図した描写なんだろうなあ・・・・ ・・・・というような感想は操演技師(私は自称日本で一番石膏ビルを破壊した男である)特有の事情によるものであり、大方の人にとってはなんの参考にもならず、作者の思惑から外れているのはもちろんだろう。 「神は居る、宇宙には果てがある(天動説!)UFOは居る、超能力、超常現象は存在する、というお話を科学的に書く」(神は沈黙せず)とか。 「タイムトラベル物を今あらためて矛盾なく描く」(去年はいい年になるだろう)とか。 「怪獣映画をリアルに描く」(前作、MM-9)などは、普通ならと学会でネタにされかねないお話をつっこみどころなく書くというチャレンジだった筈だ。<Script Sheet2010版「山本弘」の項もご覧ください> 今回は「ウルトラマンをリアルに書く」という構想だったと思う。 外形はおバカで中身はハードSFこれが今回の(一連の)小説の醍醐味だったのだ。 今回、光線技の中でも特にあり得そうにない「冷凍光線」をわざわざ持ち出しているあたりもそのチャレンジ精神が見てとれる。 ところが私は「自分が普段やっていることが小説になってる」という点に注意を奪われ(それこそ「瓦礫の量ってやっぱり少なく見えるよなあ」などと思ってしまい)途中からこれが小説として面白く書けているのかどうかわからなくなってしまった。 とはいえ、多分おそらく、これはフツーに面白いと思う、読んで損もないだろう(前作を読んでいることが前提だが)と思う。 しかし、ウルトラマンに興味のない小説読みにとってこれが面白いかどうかは微妙なところだ。 人よってはこれがリアル・ウルトラマン、穴を(なるべく)塞いだウルトラマンであることに気づかない人さえ居るかもしれない。 ウルトラマンに興味のない人がこれを読むか、というつっこみもあるかもしれないがここ一連の山本作品は別段読み手を選ぶお話ではなかった、MM9も前作まではぎりぎりアリだったと思う。 よって今回もそのつもりなく手に取る読み手が出る可能性は高い、しかし今回は前作と比べより踏み込んでいる。 ラストの「3分しか活動できない」ネタまで来ればさすがにこれがウルトラマンである事に気づくかもしれないが、それまでにちりばめられたネタが全部スルーされていた場合、その人にとってはこれがつっこみどころが多いだけのバカ話に見える危険性があるかもしれないと思うのだ。 よって、面白いには面白いが読み手を選ぶ(かもしれない)小説、というのが今回の結論になるだろう。 ある日、なんの前触れもなくエイリアンによる地球侵略が開始される。ロサンゼルスでその侵攻に立向かうのはアメリカ海兵隊。 最新鋭の装備と厳しい訓練によって世界最強を誇る「USAマリーン」だが、エイリアンに対してはまったくの戦力不足であり、あっという間に劣勢に立たされてしまった。 エイリアンの目的は地球資源か、はたまた人類の奴隷化か、はたして地球に起死回生の一手は存在するのか。 昔から変わらぬ侵略ものの設定であり目新しいことは何もないが、いつもの私なら一種のお祭りとして初日に駆けつけるところだ(お祭りに目新しさを求めるのはヤボというものだろう) ところが今回に関していえばあまり乗り気ではなかった、というか腰が引けていた、というか言うところの「嫌な予感しかしない」というレベルだった。 何故といえば、「これはエイリアンに立ち向かう、アメリカ海兵隊1小隊の物語である」という惹き文句を聞いたからである。 視点の主観化、これは最近の洋画をむしばむ新種の流行り病である。 始まりは「ブレアウイッチプロジェクト」にあったと思う。映画から第三者目線(神の視点)を排除し、主人公(達)が目にし、経験したことしか描かないというこの手法によってこの映画は異様なまでの迫真性と緊迫感を獲得した。 これはやったもん勝ちであり、最初に思いついた奴が偉いのであって、この映画の栄光は揺るぎのないものなのだが、後につづく映画に影を落とした。 つまりこの映画を分析した多くの制作者達は、視点を主観化することによって「制作費を削れる」ことに気づいてしまったのだ。 つまり、たとえどんなに希有壮大なお話であろうと、主人公が目にしていないものは撮る(作る)必要がなく、またそのお話自体もつじつまを合わせる必要がないということだ。 (お話は起承転結で出来ていると言われるが、その 「起」-お話の舞台、登場人物を紹介する 「承」-起を受け、話を進行する 「転」-物語のヤマ、思いもかけない事実が判明したり、物語が想像を超えた状況に進展する 「結」-転で起こった事態がどう終息したか説明する。 のうち、中の2つのみを語ればよいわけで、始まりも終わりもなく刺激的な局面だけを描けばいいことになるのだ、これが予算的にもシナリオ作法的にも楽であることは言うまでもない) これを怪獣映画のフォーマットにうまく取り入れたのが「クローバーフィールド」である。これもやったもん勝ちであり、こういう手があったか!と思わせたのだが。 「REC」あたりになると、またかよと思わないではいられない(これはスペイン映画だが) そして先日の「スカイライン」である、これはもう極めつけで、地球規模の大侵略ものをマンションのセット1杯(※セットは1杯2杯と数える)で撮ってしまうという代物だった。 しかも、それなりの収益を上げているらしいのが困ったものである。 あの手でいこう(あの手でいいじゃないか)と思う後続の制作者達が出るであろうことを思うと先行きが思いやられる。 で、本作である。 以上のような昨今の事情がある中「海兵隊の1小隊に焦点を合わせた」と聞けば、これはヤバイと思うのも無理からぬところではないだろうか。 とはいえしかし、そのようなイヤな予感の中で見始めた映画であったが、意外にそうでもなかったのだった!(これまでの前フリはなんだったんだ) まあシナリオ作法的に言うと、地球規模の侵略ものであるにもかかわらず、他国はもちろん、他の都市の状況も、それどころかおなじ街で戦っている他の部隊の様子も描かれず、視点の主観化を目いっぱい利用している感じなのだが、「絵」的には手を抜いている感じは無かった。 海兵隊員はいっぱい出てくるし、そこそこのモブシーンもある、ヘリなどもバシバシと飛ぶ。 そしてエイリアン制圧区域に残された市民を救出するため海兵隊の1小隊(これが宣伝文句にある主役だ)が市街に出たあたりで、ほほーと思った。 徹底的に破壊されたロサンゼルスの街がかなりの規模で再現されているのだ、もちろんロングのビルが破壊されている様子などはデジタル処理されているのだろうが、人が走り抜け、爆発が起こる市街、リアルで再現するしかない部分の規模がでかいのだ。 私は見ながら「この引き絵オープンセットか? それにしては規模でかすぎるが、ロケ飾りでやっているのか? いや、そんなマネしたらここの住民の生活に影響するだろう」などと考えては感嘆していた(←イヤな客である) そして、これは視点の主観化ではあるものの手抜き(低予算化)のためではないな、と得心し、安心して映画を見始めたのであるが。 あるが やがて違和感を覚え始めた、どうにも敵の影が薄すぎるのだ。 敵エイリアンは2本足歩行し、金属性の装甲を身につけているらしいのだが、ほとんど認識できない。ロングの小さい絵か、スモーク越しか、逆光か、近くで大きく映る時はカメラを振り回してボケボケにするか、カットがすごく短い。 話半ばを過ぎても、敵がどんな姿をしているのかほとんどわからない。 また、ストーリー的にもエイリアンを描く気配がまったくなく、海兵隊側にのみ強烈に焦点を当てる展開なのだ。 これじゃエイリアンである必要ないじゃん?と思ったところで、謎が解けた(ように思う)これはマリーンの物語であって侵略物ではないのだ。 ハリウッドでは定期的に「うちのマリーンは世界一」といった映画が作られる。アメリカ万歳な、鷹派な、右翼的映画だ。 最近では「ハートロッカー」だし、かつての「ブラックホークダウン」もそうだ、これらの映画はマリーンの献身に涙し、高まる愛国心に満足を得る映画だ、こういった映画を日本人が観ると敵が射的の的のような扱いをされているのに違和感を覚えることがある。 つまり敵は無個性な「悪玉」であり、アメリカ市民を脅かす間違いようのない「敵」であって、いくら撃ち倒しても良心の痛まないただの標的なのだ。 自分達の側の被害-負傷者や死者-をこれ以上ない悲劇のように語るけど、さっきなぎ倒していた敵兵にだって親兄弟はいるだろうよ、と当事者でない私は(日本人は)思うわけだ。 現代日本で戦争映画を作ったとしたらその辺について無関心ではいられないだろうが、アメリカはなんでこうも鈍感なのだろう、と思っていたのだが・・ ハリウッドも少しは考え始めたのかもしれない。 アメリカの敵と言えばかつてはナチスドイツ、ジャップ、少し下がって冷戦ロシア、ベトコン、今だとイスラム原理主義者だが、昨今さすがにこれを「絶対悪玉」として扱うのはデリケート過ぎる。 (問答無用で悪玉扱いできる相手としては北朝鮮軍もないではないが、アメリカ人にとって地理的にピンと来る相手ではなく、どのみち小物過ぎて「我らが世界一のマリーン」の相手には力不足だろう) ではどうするか?そうだエイリアンがいるじゃないか! というのがこの映画なのだろう。 つまりこの映画にあってはエイリアンは問答無用の悪玉であり、記号であればいいのであってヘタに描写して観客の興味がそっちに逸れては困るのだ。 影が薄いのも当たり前なのである。 ・・・と理解してこの映画を観ると話はまことに単純、王道を行くものなのだった。 卑怯未練な敵の不意打ちにあって我らがマリーンは窮地に追い込まれる。 敵の戦力は強大であり戦死者も出る、絶対絶命のピンチだ。 そこで勇敢で不屈の精神を持つマリーン達の正義の怒り(笑)が炸裂し、反撃開始。 さしもの敵もついには倒れる。 というストーリーだ。 ヤンキーならラストシーンではポップコーン振りまいて、大喜びという展開なのだろうが、仕掛けが透けて見えるとヤンキーならざる私は諸手を挙げてバンザイとは言えない。 そもそもSF映画、侵略物として宣伝され、そのつもりで足を運んだ映画館なのだ。アメリカ万歳な映画を見せられても全然嬉しくない。 ここで「スカイライン」の話をする。私はあの映画を低予算で手抜きなとんでもない映画だと思っている。そしてこの「ロサンゼルス決戦」は半分くらいまでは「スカイライン」と違ってちゃんとした映画だ、と思っていた。 見終わった感想は違う。 「スカイライン」が侵略物の看板を挙げ、とにもかくにもエイリアンvs地球人の戦いを映画の見せ所として描き続けたのに対し、この「ロサンゼルス決戦」は侵略物の皮をかぶった愛国映画なのだ。 エイリアンをダシに使うなよ!とSF者である私は思う。 これはそんな映画なのである。 軍艦島を模して作られたゲームフィールドが異次元空間に浮かんでいる。 そこに36人の人間が召喚され、2つのチームに分けられる。 彼らの姿形は異形のモンスターに変わっており人だった時の記憶の他にモンスターとしての自覚が存在する。 彼らは互いに戦い、負けたチームはその存在を抹殺される。 彼らをそこへ呼んだのは誰か?そのゲームが何のためにおこなわれているのか? 何もわからないままに彼らは戦いを始める。 主人公は赤チームの 王将<キング> 虹彩が片目に2つづつあって夜目が利く、彼の指令は強制力があって「駒」たる他のメンバーを自在に動かせる、彼の死=赤軍の負けである。 彼が使える手駒は以下のとおり 6体の DF<ディフェンダー>敵を倒して一定以上のポイントを稼ぐとより戦闘力の高い 金狼<ライカン> に昇格する。 1体の 皮翼猿<レムール> 昇格すると 夜の翼<ナイトウィングス> 1体の 鬼土偶<ゴーレム> 昇格して 不可殺爾<プルガサリ>。 1体の 火蜥蜴<サラマンドラ>昇格して 火竜<ファイアドレイク> 1体の 死の手<リーサル・タッチ>昇格して 黒水母<メデューサ> 1体の 一つ目<キュクロプス> 昇格して 千の眼<アーガス> どっかで聞いたような、というか、厨二病をこじらせた若者がファンタジー小説を書くために書き綴った暗黒の設定ノートのようである。 状況説明もあらばこそいきなり始まる戦闘といい、洋の東西、神話から伝承ごたまぜのキャラクターといい、わざとしているとしか思えないB級感は貴志祐介の狙いだろう。 つまり最低減必要であるはずの人物紹介、舞台設定すらカットし文学的完成度などは度外視して、進行するゲームの面白さだけで読まそうという斬新な試みであるらしい。 もっとも斬新というのは小説というジャンルに於いてはという意味で、このタイプのお話-ゲームの進行を純粋に楽しむお話-はマンガにあっては数多くある。 最初に思いつくのはその名も高き「カイジ」であり最初のゲーム「限定ジャンケン」はマンガ史に残る傑作と言えるだろう。 限定ジャンケン:豪華客船の大広間に集められた参加者(巨額の借金で首が回らなくなっている人たちが半ば強制的に集められている)は、グーチョキパーが印刷されている3種のカード12枚と星のバッジ3つを渡され、互いにジャンケン勝負することを要求される。 ジャンケンに勝つと相手の星が手に入り、勝負に使ったカードは捨てられる。 残りのカードの種類と数、つまりプレイヤー達が持っている各カードの総数は常に電光表示されている。 4時間の制限時間内にカードを全部使い切り、星の数を減らしていなければ勝ちとなり、借金を全部主催者が肩代わりしてくれる。 時間内にカードを使い切れなかったとき、カードを使い切った時に星の数が減っていた時、途中星を全部失った時は負けとなり「別室送り」となる。 別室送りになった者にどんな運命が待っているかは不明だが、送り込まれた途端に「焼き印」が押されることを見てもそれが過酷なものであることは間違いない。 もうひとつ挙げるなら甲斐谷忍の「ライアーゲーム」だろう。ライアーゲームも借金まみれの人間が集められるところから始まる。プレイヤー各人には資金として1億円が無理矢理貸し付けられる。 彼らはゲームに勝てば巨額の賞金を手に入れることが出来るが、負けるとそれまでの借金に加えて1億の借金を負うことになる、ゲームを運営する事務局はそれを「どんな手を使ってでも」回収すると言う。 カイジとライアーゲーム、どちらにも共通するのが「参加者は強制的に集められ」「隔離された場所で」「主催者が一方的に決めたルールに従ってゲームを行い」「負けると死か死よりも過酷な運命が待ち構えている」という点である。 目を見張るようなスペクタルシーンやアクション、あるいは人の心を打つ感動的なお話はなく(限定ジャンケンなどは、むさくるしい男どもがカードを睨んでいるカットしかない)主人公がゲームのルールの本質を見抜き、作戦を考え、戦い、勝ち抜いていく過程を楽しむだけである。 通常ゲームと名が付くものは自ら参加し、状況を自分の手で変えていってこそ面白いわけで他人の勝負を横から眺めてもそう楽しいわけではない。 しかし、このタイプのお話はその他人のゲームを見て楽しむことが全てなのだ。 これは知的で抽象的な楽しみであり、作者に高度なテクニックと完成度が求められることは言うまでもない。 先にも述べたようにこのタイプのお話はマンガには数多い、貴志祐介もそれについては自覚的であるらしく、ダークゾンでは主人公たちが「永井豪のマンガのような」と語っている。 私が思い出すところを挙げるなら、昔は「幽遊白書」にあったし、ごく最近では「めだかボックス」で似たようなことをやっていた。 まあ、そういったシリーズ物でのゲーム話は、それまでに培ってきたキャラクター達の魅力というものも加算されるので、純粋にゲームの進行を楽しむ物とも言えないのだが、「閉鎖された空間で」「主催者が一方的に設定した奇妙なルール」で戦うことを強制される部分は共通しており、主人公がそのルールの本質を素早く見抜き、裏をかき、正解に至る過程を楽しむという本質は同じである。 では、小説では?という話になるわけだが、これがまずもって思いつかない。 ゲームを原作とした、あるはゲームを下敷きにした小説、という意味でのゲーム小説であれば思い当たるフシもあるが・・というか当の貴志祐介がかつて「クリムゾンの迷宮」というゲーム小説を書いているが、これはアドベンチャーゲームのプレイを再録したような物で小説としての体をなしていない、またゲーム性も高くないので「ゲームを解いていく過程を読ませる」という物ではない。 宮部みゆきも「ブレイブストーリー」や「ICO 霧の城」などを書いているが、この「ブレイブストーリー」もまたロールプレイングゲームを再録したような代物だ。 以下は以前に「ICO 霧の城」で書いたことだが ロールプレイングゲームというのはその名の通り、役(role・ゲームにおいては種族や職業)を演じる(playing)からこそ面白い。 それは作者が用意した起承転結を受け身で楽しむ小説や映画と違い、自分だけのストーリーを自分で作っていく面白さだ。 ゲームはそのために特化している、小説では当然要求される必然性や論理性が無視されている部分も多い(強大なモンスターをようよう倒して進んだダンジョンの先に道具屋があったりする)逆に言えば誰かがプレイした過程を聞かされてもさほどには面白くないのだ。 そしてこの「ブレイブストーリー」はまさしくゲームの過程を字に引き写しているだけだった。 ということだ。 「ICO 霧の城」に関していえば、アドベンチャー(&アクション&パズル)ゲームたる原作からスタートし、やがてオリジナル展開となりファンタジー小説と化す。面白いには面白いが、これまたゲームを解く過程の面白さを狙ったものではない。 山田悠介の「魔界の塔」もゲームネタであるが、これはなんというか・・あらすじ?という出来であって、作者の狙いがどうのジャンルがこうのと言う以前のシロモノである。 この文章を書くにあたって、米澤穂信の「インシテミル」も読んでみた「欲に吊られた参加者が」「出口のない閉鎖空間に閉じ込められ」「主催者の決めた一方的なルールに従ってゲームを行う」お話であると聞いていたからだが、これはミステリー仕立てのサスペンス小説であって、どういう意味であれ「ゲーム小説」と呼ぶべきものではなかった。 その他、実際に行われたテーブルトーク・ロールプレイングゲームを再録したリプレイ本や、ボードゲームをノベライズした小説、あるいはそのものズバリ「ゲームブック」などがあるが。 リプレイ本はテーブルトーク・ロールプレイングゲームの啓蒙書のようなものであり、ノベライズはキャラクター人気に頼る部分の多いファンタジー小説だ。 ゲームブック(一行が洞窟を進んでいくと行く手に木の扉が現れた、どうする? 「扉を開ける→42頁」「音を立てないように前を通り過ぎる→50頁」)に至ってはそもそも小説ではない。 ここまで来て思い出したが(推敲してから書けという説もある)ラリイ・ニーブンの「ドリームパーク」もゲーム小説だった。 巨大なゲーム場にセットを組み、ゲームマスターはCGやホログラフィーを駆使してモンスターや罠を配置する。プレイヤーチームは設定に則した衣装をまとい体を張ってゲームマスターの仕掛けた謎に挑む、というものだ。(ゲームマスターもプレイヤーもプロであり、プレイは撮影されて全世界に配信されている) これは「ゲーム小説」の中では群を抜いて面白かったが、内容的にはバーチャルな冒険小説であってゲーム性に重きは置かれていない。またメインストーリーの他にバックグラウンドで起こった殺人事件が同事進行するというあたり腰が据わっていない感じがある(ラリイ・ニーブンともあろうものが、ゲームだけで1本持たせろよ、と思う) ・・・などなど、というわけでゲーム進行そのものが見せ場であるお話が小説にはないのだった。 何故といえば、これはマンガが面白ければなんでもアリという懐の広さを持つのに対し、小説はここをクリアしなければ小説ではない、という間口の狭さ(敷居の高さか)があり、そういった暗黙の了解を作者も出版社も読み手も持っているので純粋にゲームの進行をのみ描いた小説というものが世に出ないせいである(かもしれない) その了解というものが何であるかと言えばそれはおそらく芸術的、文学的要素の薄いものは小説として下であり、限度を超えて欠くものはもはや小説ではない、ということだろう。 具体的に言うならたとえば「人物が描けていない」というのがそれ(の一つ)だ。 推理小説がかつてジャンルとして下に見られ、社会派推理によって昇格したものの、新本格が出現するにあたって(トリック重視で、人間を将棋の駒のように扱っている)またしても格下扱いされたのはそのあたりが影響している。 トリック重視上等じゃないか、人が将棋の駒で何が悪い、という新本格擁護派の私でさえ時にこの小説は(山田悠介は)小説じゃない、とか言ってしまうのだから根が深い。 というところでダークゾーンである。 先にも述べたが、ゲームマンガでしかお目にかかれないような異次元のゲームフィールド、暗黒の設定ノート、前置きなしで始まるゲームと、これが小説として希な(B級上等な)作品であることはすでに冒頭から見てとれる。 そろそろ中堅としての落ち着きを見せてもいい筈の貴志祐介だが、いまだにチャレンジーな作品に手を出すあたりはさすがである。 4つの賞を取りすでに10作を上梓している作家にして、今回はどんなタイプの小説だろうとドキドキさせてくれるというのは珍しい。 その作品の完成度のバラつき加減や「クリムゾンの迷宮」の出来を思い起こすと、プリミティブな意味でのドキドキ(本気か?大丈夫か?貴志祐介!)してしまう部分があるのも本当なのだが。 さてこういったゲーム性オリエンティッドな作品には一定のフォーマットがある。まずは主催者が設定したルールをどう解釈するかの争いである。 たいていのお話では参加者の中にあまり頭を使わず、流されるままに人生を過ごしてきた人たちがいる(でないと巨額の借金を作ったりしない)そういった人たちは、ルールをキチンと解釈せず成り行きで勝負する。 主人公は当然そうではない、奇妙なルールが意味するものを徹底的に考え抜き、ルールの裏をかく方法、禁止されている行為と禁止されていない行為などを突き詰めて必勝法を考えるのだ。 最初何をどう考えればよいかわからなかったルールだが、ここで主人公の考えをトレースすることにより整理され、読者にも勝利に至る道筋が見えてくる。 ここで「ルールが複雑で覚えられない」「主人公の言ってることが理解できない」というのではお話は破綻する。 よってルールはあくまで単純、しかしそこから導かれる作戦は多岐に渡り、プレイヤーの頭の良し悪しが結果を左右するというゲームが望ましい (限定ジャンケンはその典型だろう、基本は12回ジャンケンをして、負け越すなというだけであり、出せる回数が決まっていることと、全体で何のカードが何枚残っているのかわかっているという縛りだけなのだから) さて、ここでのミソは最初主人公が練り上げた必勝法がどうみても完璧に「見える」ことだ。 読者が主人公の説明(心の声?)を聞いて、確かにそれは間違いない、勝つる!と思わないではお話にならないわけだが、そのように完璧と思われた作戦はライバルによる思いがけない手によってひっくり返されることになる。 しまったそこに気づかなかったと悔やむ主人公、嵩にかかる敵、絶体絶命のピンチである。 ここは読者も、そういう手があったか!これは主人公詰んだな。と思うほど完璧な手でなければならない。 しかしそこで諦めては話にならないのであって、主人公は知力を振り絞り、あるいは体を張って逆転の一打これぞ必勝という手を打って勝利する。 この逆転劇がゲーム話の見せ場であり、時に2転3転4転(偶数でないと主人公勝利にならない)するのだが、これを自然に見せかけるのは極めて難しい。 言ってみれば最初に主人公が必勝であると示した作戦には穴が2つ(以上)空いているわけで、その1つを塞ぐことによって逆転したように見えるライバルの作戦もまだ穴があるということになるわけだ。 逆転劇が何度も繰り返されるなら最初の作戦は穴だらけということだが、読者に先に読まれ「それダメじゃん?」と思われたら話にならない。 常に読者の先を行く、裏をかく、盲点を利用する、ゲーム・ストーリーは高度に洗練された知的なエンターテインメントなのだ。 (ゲーム小説ではないが、貴志祐介の「悪の教典」を私が今ひとつ評価できないのは、この穴がある(ありすぎる)からだ。あの小説は生徒を全員殺せば犯人の勝ち、学校から誰でも1人逃げ出せば生徒の勝ち、という一種のゲーム(アクションゲーム?)なのだが「こうすればいいじゃん?」という部分がありすぎるのだ。前は出てすぐだったので書かなかったが、今回は一つだけ書く「生徒は学校に火を放てばよかったんじゃね?」) さてそういう意味ではこの「ダークゾーン」は王道を行く。主人公らが強制されるゲームは1発勝負ではなく、全7戦のうち先に4勝したほうが勝ちとなるのだが、その1戦1戦がいわば逆転劇になっている。 手探り状態で行った第1戦は偶然が支配して主人公は勝ちを拾う、そこで得た経験を元に第2戦の作戦を立てると敵の思いがけない作戦によって窮地に陥る、起死回生の手を打つが届かず負けてしまう。 第2戦の負けを礎に第3戦に臨むと敵はルール深く読み込んで更に高度な作戦を打ってくる。というような展開だ。 基本的には敵の主将の方が作戦立案能力に長けており、ゲームが進行するたびにより良い手を打ってくる、その作戦に主人公が対処できれば勝ち、できなければ負けという具合に話は進む。 主人公が原則後手に回るというあたりは大方のゲームマンガと違っているのだが、双方が新たな手を考えつくたびに読者は「なるほどそういう手があったか!」と思えるあたりは王道と言えるだろう。 つまりこの小説は「参加者は強制的に集められ」「隔離された場所で」「主催者が一方的に決めたルールに従ってゲームを行い」「負けると死か死よりも過酷な運命が待ち構えている」という条件を満たしており。そのゲーム進行の妙を描くことが作品のほとんどを占めている事をもって小説としては希な(私が知らないだけで、そんな小説は他にもあるかもしれないので、唯一とか初のとは言えないが)真の「ゲーム小説」である。 さてしかし、私は少しばかりこの小説に不満がある、今述べたことだがこの作品はゲーム進行が「ほとんどを占めて」いるのであって全てではないことだ。 つまりこの小説にはリアルパート(?)があり、人間だった時の主人公(彼はプロになれなかった将棋指しである)の悩み苦しみが語られるのだ。 その部分だけは社会派小説なみにリアリスティックである。 しかしメインパートは異次元空間に浮かぶ軍艦島で異形のモンスター達が理由もなく戦うというぶっとんだ設定であり、そのゲームを誰が主催しているのか、そもそもそんなマネが出来る存在って何だ、という疑問には一切答えていない。 ヘタなラノベだって何かしらの設定やら背景説明をしたくなるであろう部分までも大胆に切り捨てているのだ・・・というか、ラノベはジャンルが持つ膨大なバックグラウンドの中で世界観を単純化、抽象化しているからこそ(「召喚」という概念を一から説明する必要がない、など)それは可能なのだ。 つまりそもそも、一般小説として足が地に着いた世界観とメインパートを共存させるのは無理なのだ。 これは、最初に述べたように小説としての体裁を最低減取り繕ろうという方策なのだろうか? だとすれば残念至極な事である、チャレンジーな貴志祐介であればここは腹をくくってこれは小説ではないくらいの勢いで正面突破して欲しかったと思う。 1997年、IBMのチェス専用マシン「ディープブルー」が世界チャンピオンを倒した。 これはコンピューターに知性を持たせるという試みの一つであり、エポックメイキングな出来事だった。 しかし、IBMが次なるチャレンジとして有名クイズ番組にコンピューターを出演させる、と聞いたとき私は「そんなの楽勝に決まってるじゃん?」と思ったものだった。 それは、膨大で正確なデーターベースを持つことが出来て高速な検索が可能なコンピューターの独擅場だと思ったからだ。 なので今年2月、ついにそのクイズ専用マシン「ワトソン」がアメリカの有名クイズ番組「ジョパディ!」に出演し、最多連勝記録者と最多賞金獲得者の2人を向こうに回して勝利したと聞いても「ふ~ん?」というほどの感想だった。私のみならず日本の大方のマスコミも似たような反応だった。 しかしそれはジョパディのことを私が(日本人が)知らないせいであったようだ。 このジョパディ(Jeopardy!)というのは1960年代から始まり現在では6000回以上放映されているアメリカ最大にして最人気のクイズ番組である(らしい)のだが、設問が通常我々が思うクイズ番組のそれと大きく違っているのだ。 まず最大の特徴だが、設問に対して答えがある、というのが通常のクイズであるとしたら「答」が先に示され、その答えが導き出される質問とは何か?を答えるという凝った形式らしい。 また、その設問は口語として普通に語られる形式、つまりは形式などなく、主語が省かれたり、シャレ、冗句、隠喩、暗喩、語呂合わせ何でもアリといった自然文であるらしい。 といっても何のことやら見当もつかないだろうが、たとえば設問の一つにこんなものがある。 「2010年2月8日、この都市で発行された大新聞の見出しは『アーメン、43年の祈りが聞き届けられた』でした」 答えはニューオリンズで、ジョパディでは「ニューオリンズとはどんな所?」と答えるのが正しい。 (これを、この『奇跡のワトソンプロジェクト』ではすべて「××とはなんですか?」と訳しており、ここも「ニューオリンズとはなんですか?」と書いてあるのだがこれは日本語として不適切だろう) つまるところニューオリンズのフットボールチームが発足して43年、ついに優勝したということらしいのだが、ここで注目すべきは設問を聞いても何が問われているのか即座には判別できないということだ。 また、この問題のキーとなる要素「フットボール」は設問にも答えにも出てこないという点にも注目すべきだろう。 これが通常のクイズ形式、主語があり、目的語があり、疑問文であるならば、つまり 『所属するフットボールチームが43年を経て初優勝した都市はどこですか?』であるならば、ワトソンならずとも人はコンピューターの相手にならないだろうが、この一ひねり効いた自然文を解釈し、何について問われているか→何について検索すべきか、を判断するのは難しい。 たとえばの話、人間であればアーメンとか祈りという単語は「悲願」を補強する時に使われる修辞であって、この文脈にあっては特段の意味はなさそうだと判断するだろうが、コンピューターがこれを宗教的行事と関連がある文章だと判断する可能性は高い。 重要なことは、人が使う言葉にはそのストレートな意味の他に、印象・感情というものがさまざまな濃度でまとわりついているということだ(意味的にはおかしくないが、それを吉事に使うのはよろしくないなどという言葉があったりする)それを人は融通無碍に使い分け、聞いた相手も混乱することなく解釈する。 それは長い歴史で培われたものであってこれをコンピューターに教えるのは難しい。というかどう教えたらいいものかさえわからないと言ってよい。 ここで話をコンピューターと人工知能について、というところまで巻き戻す。 1965年人工知能研究の第一人者ハーバート・サイモンは「コンピューターは20年以内に、人間の出来る仕事ならなんでもできるようになる」と言った。 インテルの創始者ゴードン・ムーアが、有名なムーアの法則「集積回路上のトランジスタ数は18ヶ月ごとに倍になる」を述べたのも同じ年だ。 この時期、人工知能の研究者達は夢と希望にあふれていた。 コンピューターの性能は18ヶ月ごとに倍になり、日進月歩で記憶装置の容量が増えていく。世の中の知識をどんどんと詰め込んでいけばやがてコンピューターは言葉を理解し、知性を獲得し、人のよき伴侶となるであろうと信じていたのだ。 事がそううまく進まなかったのは周知の事実である、40年以上経った今でもコンピューターに知性は宿らず、それどころか言語の理解すら危うい場所に留まっている。 (日本でも80年代に『第五世代コンピューター開発計画』というものが通産省主導の国家プロジェクトとして行われた。目標は『人口知能が人間知能を超えること』という壮大なものだった。 そして1992年通産省は「当初の目標を達成した」としてプロジェクトを終了しているが、これが負け惜しみというのも恥ずかしい大失敗であったことは言うまでもない) さて、コンピューターに知性を獲得させるに当たって問題となるものはいくつもあるがその一つに「記号着地問題」というものがある。 「記号着地」より「シンボル・グラウンディング」と言ったほうが理解しやすいと思うのだが、つまり人は網膜に映る様々な色や形の中から、あるシンボルを選択的に取りだし、何か特定の「物」に結びつけているということだ。 といってもまだワケワカメだと思うので例を挙げると「花」という概念である。 人は幼児の頃、親から花の種類をほんのちょっと教えてもらうだけで「花」という概念を獲得する。 それも「教える・学習する」というような改まったものではなく、散歩の途中で母親が「あ~ら××ちゃん、タンポポが咲いているわよきれいねえ」とか、幼児当人が「これお花?」と聞き「そうよ、それもお花、チューリップって言うのよ」と母親が答える程度のものである。 これを数回も繰り返すとヒトは「花」とは何であるかを理解し、初めて見る花でも「これは花の一つである」と判断する。 それどころか、枯れている花を見ても、それどころか絵に描かれた花を見てもこれは花と正確に判断できるようになる。 これをコンピューターに学習させるのが困難であることは言うまでもない。 花ひとつひとつのデーターを事細かに教え込む方法ではうまくいかないことはあきらかだ。データーから出はずれたもの(花びらがちぎれた、色が変わった)ものを「花でない」と判断する可能性が出てくるし、データーにない花は認識できない。 そもそも、人間が花をそのように理解していないのだから、そういう認識は人のパートナーとなるべき人工知能にふさわくないというべきだろう。 では我々は何をどう解釈して花を花と判断しているのだろうか? 花と聞いて何を思い浮かべるのだろうか?まあ、そこがわかれば大発見だが、ざっと考えてみるに我々が花を見るとき、花単体を見ているわけではないということは言えるだろう。 つまり花びらの数や色、形を見ているのはもちろんだが、それが土から生えていること、風が吹けば揺れること、それどころか花について語るとき母親は微笑んでいること、母親が微笑んでいると自分も嬉しいこと、などなどありとあらゆる情報、感覚込みで我々は花を記憶し定着(着地)させているのだ。 (だから人は「花のような笑顔」という一文を読んでもそれが「花に形が似ている顔」であるとは思わず「やさしい・楽しい・うれしい・綺麗な」表情であると正しく理解できる) 先に「単語には意味の他に、印象というものがさまざまな濃度でまとわりついている」と述べたのはそこのところだ。 たかが花ひとつでさえこの始末であることを考えると「人間知能を超える人工知能」など夢のまた夢、深さも幅も見当のつかない深い谷の向こう側にあると言っていいだろう。 だから・・ということで話を戻すが・・自然言語を理解するコンピューターというのは人工知能に向かう長い道のりの1歩なのだ。 ということで、俄然ワトソンに興味を持つに至った私だったのだが、およそ情報が手に入らなかった、日本のマスコミが先に述べたように冷淡なままだったからということもある。 ・・ので、このいきさつが本になると聞いて喜び、待ち構えていたのだが・・・ う~~ん、これは基本的にはIBMのプロジェクトマネージャーの苦悩の記録であって、ヒューマンなドラマであって、アカデミックな内容では全然なかったのだ。 つまり、野心的なプロジェクトであるにもかかわらず、成功しても世間にはその価値が理解されにくく、といって負ければIBMの名に傷が付くという、ハイリスクでローリターンな試みではないかという社内の反発があり。 一方、ジョパディ制作会社が首を縦に振らなければこの企画は実現不可能であるわけだが、彼らは人工知能問題に興味があるわけではなく、番組がIBMの宣伝に使われるだけなら協力する意味はない。だからこれが視聴率を稼ぐのに役立つと説得しなければならない。 ということは、ワトソンが人といい勝負をする、見ていて面白いものになる、ということを納得してもらう必要があるということであり、ワトソンが鎧袖一触、人間チャンピオンをまったく寄せ付けず勝つわけではないということ、逆に人にまったく歯が立たず何のための対戦だったのだ?と視聴者がしらけるほどにはならないということを納得させることでもあるのだ。 実際にはプロジェクトチームは人工知能問題に一石を投じるレベルの難題に取り組んでいるわけで、そのプロジェクトの成否が決まる遥か以前に交渉を開始するのは胃が痛む話だったと思う。 それは大変だったろうよ、とは思うのだが、それは私の知りたいことではない。私はどんなアルゴリズムで自然言語を解釈したのかが知りたかったのだが、そういう技術的な話は一片も出てこないのだった。 (開発途中「練習試合でワトソンの発話機能がおかしくなり、語尾がnで終わる単語にdを付けるようになってしまい、正しく「パキスタン」と判断したにもかかわらず「パキスタンド」と答えてしまって不正解とされたことがある、この問題はプロジェクトの最後まで尾を引いた」などというのは面白いエピソードなのだが、それが何故なのかどう対処したのかなどにも触れられていない) 技術的な側面に関しては「数ヶ月の努力の結果ワトソンの正答率は70%にまで上がった」などとサラリと流してしまっているのである。 あとやむを得ないことなのだがジョパディというクイズ番組が実際どう進行するのかわからないという問題がある。 これはアメリカでもっとも有名なクイズ番組であり6000回以上放映されている国民的番組(ちなみに「サザエさん」は2000回)であるという事情から筆者はその内容について説明する必要を感じなかったのだろう。 しかし出題範囲(らしい)について、「十九世紀の文学部門」と言われればそういうものかと思うものの「いやといえばいいのに部門」とか「我はウルを知る部門」とか言われるとなんのこっちゃと思うわけでストレスが貯まるのだった。 アカデミックな内容について書かれていないという不満を持つのは私の勝手な言い分だが、出版社は訳文の他にジョパディについてもうすこし詳しい解説を付けるべきだったと思うのだ。 というわけで本書はまるでお勧めできない、なぜここで取り上げたかと言えば日本ではあまり知られていないワトソンプロジェクト自体の栄誉をたたえるためである。 IBMはこのワトソンプロジェクトで得た技術的な成果を2年後に世に出すと言っている、つまり自然言語を理解し、人の常識に沿った情報を検索をして、言葉にして答えてくれるコンピューターが「ついに」世に出るということだ。 HAL9000まであとどのくらいかかるだろうか。 悪霊がいっぱい!? ゴーストハント1 旧校舎怪談 悪霊がホントにいっぱい! ゴーストハント 2 人形の檻 悪霊がいっぱいで眠れない ゴーストハント 3 乙女ノ祈リ 悪霊はひとりぼっち ゴーストハント 4 死霊遊戯 悪霊になりたくない! ゴーストハント 5 鮮血の迷宮 悪霊と呼ばないで ゴーストハント 6 海からくるもの 悪霊だってヘイキ! ゴーストハント7 扉を開けて 小野不由美 ずらっと並んでいるタイトル、これは小野不由美の新旧「悪霊シリーズ」の題名である。 左が旧作で1989年から1992年にかけて講談社の「X文庫ティーンズハート」で刊行されたもの。右はそれを全面リライトして2010年からメディアファクトリーで発刊されたものである。 旧作はレーベル名を見てもわかるとおり、女子中学/高校生向けのライトノベルだ。 (※ライトノベルという名称が定着していない時期であり、当時はジュニア小説とかジュニアファンタジーとか呼ばれていたかもしれない、とはいえ名称が定まっていないだけでジャンル自体はすでに隆盛を誇っていた時期である) それを20年の時を隔てて全面リライトし、出版社も変えて一般向けとして再刊されたのが新シリーズである。出版元であるメディアファクトリーはこれを「ゴーストハント・シリーズ」と呼ぶ。 ところでハードカバーから文庫になるときに、あるいは版を重ねるたびに作品に手を加える作家は多く居る。しかし若い時の作品に全面的に手を入れ、ジャンルを(訴求対象を)変えて新シリーズとして出すというのは珍しい(というか寡聞にして他を知らない) この新旧シリーズを合わせて読むことでまた別な見方が出来るのではないかという期待もあって、新作が出るたびに対応する旧作も読んでみた(旧作はラノベということもあり読んでいなかったのだ^^;) やはりと言うべきか、どちらか一方を読んだだけでは気づかなかっただろう発見があってなかなか面白く読めたのだった。 さてそのベースとなった旧作、ラノベ版だが作者の後書きによれば当時いろいろと制約があったらしい。 まずは「恋愛ものでなくてはならない」「主人公は普通の女の子でなくてはならない」「一人称形式でなくてはならない」というものがあり、まあその辺はジャンルとしての制約としてアリとしても「漢字は少なく、改行は多く」という事までも言われていたという。 後年の小野不由美の著作を見れば、これが当人の趣味嗜好と隔たりがあるのはあきらかだが、これが出世作であることを思えば当時は編集部に異を唱えることが出来る立場ではなかったろう(シリーズがヒットしたため、後半は漢字、改行については好きに振る舞うようになったと言う) というわけでこの小説の主人公は高校1年の女子生徒、谷山麻衣ちゃんである。 短髪ボーイッシュで活動的、取り柄といえるものはなにもないが、前向きで健康的な普通の子、読者が感情移入しやすいキャラクターである。 その麻衣ちゃんの学校には幽霊が出るの祟りがあるのと、とかくの噂がある旧校舎があり、取り壊そうとするたびに事故があるのでついには学校が霊能者を呼んだ、というのが第1巻のイントロである。 呼ばれて来たのが渋谷サイキックリサーチの渋谷一也くん、17才にして所長、傲岸不遜、頭は切れるが他人を完璧に見下していて口が悪い、そして絶世の美男子(!) 自分の顔が良いのを自覚しているので麻衣ちゃんは彼をナルシストのナルちゃんと呼ぶ。 ひょんなことからこのナルちゃんの元でバイトををするハメになった麻衣ちゃんの波瀾万丈な恋と冒険の物語、というのがこのシリーズである。 目上の者に毛ほどの敬意も払わず、言いたい放題だがそれだけの腕はあるナル、その実力ととんがった個性に惹かれて協力する霊能者(スタジオミュージシャンで生計をたてる傍ら除霊も請け負う高野山出身の「ぼーさん」、ケバイ格好で到底そうとは見えないが巫女である「綾子」、関西弁のエクソシスト「ジョン」、TVで引っ張りだこな美少女霊能者「真砂子」)達の掛け合いも面白く、1話1話はそれぞれホラー&サスペンス小説として出来が良い。 そして各話独立したお話でありながら全7巻を通じた謎があり、各話にちりばめられた伏線が最終話で回収され感動のエンディングを迎えるという構成も見事な出来である。 はっきり言ってラノベとしては一頭地を抜いていると言ってよく、人気シリーズとなり小野不由美の出世作になったのも当然だろう。 そのような出来のよいシリーズであるだけに、過去のラノベとして埋没させておくのはもったいない、リライトして一般作として出そう、となったのは理解できるのだが・・ こういっては何だが、ラノベとしては出来がよかった(ジャンルが必要とする以上に充実した内容だった)が一般作にするにしては穴があったということがこの新シリーズで明らかになってしまった気もする。 もともとシリーズの大前提であるべき人物配置、設定に無理があったのだ。 悪霊退治に関しては石橋を叩いても渡らない程の慎重派という描写がなされているナルが、未成年で素人な麻衣ちゃんを危険な現地調査に参加させるわけはないのだ、これはお話の根幹にかかわる問題である。 そしてその麻衣ちゃんの側だが、高校生でありながら学校を休んで長期の地方出張につきあったりしていいの?という疑問がある。 この問題については小野不由美がちゃんと考えていたのか疑わしい。 様々な事に関してシリーズを通しての伏線が張ってあるのに対し、麻衣ちゃん自由すぎる、親は何してる疑惑に関してはシリーズ中盤まで何も語られず、唐突に彼女は天涯孤独の身の上でしたという話が出てくるのだ。 保護者たるべき親も親戚もおらずこの世にたった一人の身の上、だから泊まりがけの調査をしてもだれも咎めないのだ、というエクスキューズなのだがそれは泊まりがけどころでない問題をはらむだろう。 良い先生が居たので助かった、お金を稼がなきゃならないのでバイトの為に学校を休んでも大目にみてもらえるという事なのだが、学業を続けるためのバイトで学校を休むのは本末転倒だろう。 それをしなければ学業が続けられないなら学校は休学の許可を出すより他にやるべきことがあると思う。 また、ぼーさん達が「ナルが17才で事務所の所長っておかしくないか?」(許可、契約の関係で)と話し合っていることを思えば(そういう常識的な世界観であるならば)未成年で保護者なしの麻衣ちゃんが学校に通い一人暮らしをしているのはおかしなものだ。 ・・というような疑問はきっと一般作を読んだ大人の感覚なのだろう。 オリジナルであるラノベ版の読者は一人称で語られる麻衣ちゃんの恋と冒険にのめり込んで麻衣ちゃんの心に昇らない些末な(?)事に注意を払ったりしないのだろう、というか、一人暮らしっていいな~くらいに思っている可能性は高い。 そもそもラノベ(アニメ、ゲーム)においては一人暮らしの主人公が多いのだ。天涯孤独とまでとんがった奴は珍しくて、せいぜい親は片親海外出張という程度だが、ともあれ彼/彼女の行動の自由を確保するための一人暮らし設定は定番なのだ。 とはいえそれは足が地に着いていない生活感覚である。つまり朝起きれば朝食が用意されており、食器は流しに下げておけば洗われている、洗濯機に服を放り込んでおけばたたまれてタンスに戻っているし、家はいつも清潔、という生活は子供(読者)にとって当然すぎてあらためて意識しない、その生活感覚の上に「親が居なければ最高なんだがなあ」と夢想しているということだ。 通常、一般作における読者は登場人物に対するイメージを形成するにあたって、直接的な言動はもちろん、その生い立ちなどの背景を含めて考える。 しかしこのラノベ版ではそれを想定している気配がない『天涯孤独で生活費を自力で稼がなくちゃならない身の上』という超ヘビーな設定を彼女の性格や、話の根幹にからめる気配がない。 つまり「学校を休んで泊まりがけの調査に出ても問題ないのよ」という言い訳にしか使っていないのだ。『小野不由美がちゃんと考えていたのか疑問でさえある』と先に述べたのはここのところだ。 これは「なんで麻衣ちゃんは学校休んでも親に怒られないんですか?」という読者の疑問(これはこれで現役女子学生のリアルな感覚だろう)の答えとして中途から持ち込まれた設定のように思えるのだ。 この設定がちゃんと構想が練られていたであろう物語と絡まないのは当然だろう。 そしてこれも重要なことだが、それでよしとしてしまった作者の生活感覚も読者に近いものだったと言うことだろう、きっと小野不由美も若かったのだ。 以上はラノベ版を原作に持つ故の特徴的な問題点だったが、それ以外にも若干の問題がある。 お話の中には怪奇現象についての謎があり、その謎を解くことが事件の解決につながるというものがある。一種のミステリー仕立てだがその謎の解決に緩みがあるものが見受けられるのだ。 そこに最初に気づいていれば事態はここまで悪化しなかったんじゃないか?それは事件が進行したあとでなくとも調べようと思えば調べられたんじゃない?というような事だ。 これは通常の推理ものにもあることで、よく言われる「防御率の悪い探偵」というのはこれだ。つまり最初に思いついてもよかった筈の着眼点に後々まで気づかずにいたため死体が増えていくというものだ。 実際、宮部みゆきの傑作「模倣犯」もよく考えると「警察がちゃんと捜査してればもっと早く解決したんじゃ?」と思えるわけでこれは悪霊シリーズに特有の問題ではないが、リライトした故に目立ってきてしまったという事はある。 ラノベ版は恋と冒険が本流にあって、つまりは「顔は良いけど性格がサイアクなあいつに惚れちゃった私ってば不幸」というのが本筋だ。 女子生徒同士の「ねぇねぇ聞いて聞いて~」というテイストだ、だから若干の緩みなどは問題にならない、先に述べた「ナルは何故麻衣ちゃんを雇ったのだ」問題を読者が気にしないのと同様だ。 これはソフトフォーカスで描かれていた絵をリアリズムで書き直したら、構図の歪みが気になってきた、というような感じだろうか。 先に述べたラノベ版特有の問題も、この「防御率の悪い探偵」問題も原作の基本構成に関わっているのでリライト程度では修整不能であろう。 これを矛盾なく問題なく書きなおそうとしたら新たな小説を書き起こすほどの手間が必要になる、もちろんそうなったら「原作:悪霊シリーズ」である意味はなくなってしまうだろう。 と、書いてきて私は「これって小野不由美っぽいなぁ~」と思ったのだった。 なぜと言えば、屍鬼 十二国記でも同じような事が起こっているからだ。 どういうことかというと、まず屍鬼だが、この小説は冒頭に「To 'Salem's Lot」と書いてあるとおりベイスドオン「呪われた町」(byスティーブン・キング)である。 「呪われた町」はアメリカはメイン州の片田舎の町に現れた吸血鬼が引き起こす恐怖の物語だがこれを日本の片田舎に置き換えてみせたのが「屍鬼」だ。 以下は以前に書いたことだが 「呪われた町」の舞台はメイン州の田舎町ですが、主人公の作家、引っ越してきた謎の男、襲われた少年、その少年の死とともに始まる異変、いたるところで発生する行方不明者、増える死者、死体を見張る医者の前で蘇る吸血鬼、崩壊する町、町を焼き尽くす火事、などの要素のほとんどを「屍鬼」は踏襲しています(「メイン州」を「日本のどこか」に、「謎の男」を「謎の一家」に、「襲われた少年」を「少女」にすればOKです、神父のかわりに僧侶がいたりもします) ということだ。 「呪われた町」は舞台こそアメリカだがその構成、展開はゴシックホラーの伝統にのっとった吸血鬼ものである。 つまり吸血鬼は鏡に映らない、十字架を恐れる、ニンニクが苦手、太陽光に当たると死ぬ、杭を打たれると死ぬ、招かれないと家に入れない、コウモリに変身できる、霧に変身できる、流水を越えられない、血を吸われた人間は眷属になる等々の古典的設定ということだ。 この中にはどう理屈をこねても合理的には説明できない項目があり、つまりは吸血鬼ものはファンタジーなのだ。 それを現代日本の片田舎に移植して、リアル指向で描こうと試みたのが「屍鬼」なのだが(その試みはかなり成功しているのだが)現実的な手触りのある日常に吸血鬼が入り込んでくる恐怖を描こうとしたため、切り捨てざるを得ない部分が多く出てしまった。 つまり招かれないと家に入れないという設定は生きているが、コウモリには変身して飛び去っては行かないわけだ。 吸血鬼がコウモリに変身したり、霧と化したりしていてはリアル指向もあったものじゃないというのはわかるのだが、吸血鬼の要素のうち、あれは取り入れるがこれはナシと恣意的な運用をするならそれは吸血鬼ものではないだろう。 また、従来吸血鬼は絶対悪であり人間にとっては怪物のような扱いだったが、屍鬼にあっては人の血を吸わないと生きていけないマイノリティ達という切り口を導入した。 彼らは理性的であって(それゆえ悲劇的なのだが)人と無用な摩擦を避けるために吸血鬼の楽園を築こうとしていたという話なのだが、理性的であるならばそんなものが出来るわけがないことは明らかである。 血を吸われた人間が吸血鬼になり、あらたな犠牲者を求めるならば人間はどんどん減っていく、いかな隠れ里から始めようと、集落全員が吸血鬼になれば、獲物を外に求めるしかなくなり、いずれ事が露見して粛正されてしまうだろう。 これを夢破れたマイノリティ達の壮大なる悲劇という具合に語られても「じゃあどんな構想を練っていたの?」としか思えないのだ。 これは本来牧歌的なファンタジーとしてしか成立し得ない吸血鬼ものをリアル指向で描こうとしたための無理だ。 「無理」これがキーワードである。 何かの作品をリライトしようとする、ところが目指す方向は原作的に無理がある、その無理に気づかないのか、気づいていても何とかなると思うのか強行し、結果何ともならずに矛盾をはらんでしまう、というのが小野不由美らしいのだ。 で、十二国記である、十二国記は壮大華麗なドラマで小野不由美の代表作だが、外伝である「魔性の子」を一般作としてまず新潮社で出し、その後講談社からラノベとして本編を出し、でもシリーズにする予定では無かったのかしばらく各話を単発で出し。後になってそれがシリーズものであると発表し、十二国記と名を付け、ラノベではもったいないと一般作レーベルに移り、その間にも同人誌で番外編を発表し(公式2次創作?)その同人ネタをリライトして発表し、とワケワカメな歴史をたどっている。 そして今、お話は中断し中途半端なところで止まってしまった。 十二国記は屍鬼や悪霊シリーズのようなリライト/リメイクではない、しかしその発表形態の変遷から見てもわかるとおり、最初から全体を見渡した構想があったわけではなく、その話その話で面白くする為の要素を付け加えていき、結果世界観が手に負えなくなってしまったのではないかと思われる。 これは『その無理に気づかないのか、気づいていても何とかなると思うのか強行し、結果何ともならずに矛盾をはらんでしまう』というのと同じだ。 というところで再びゴーストハント・シリーズである。 ラノベ版からすでに出来が良いという事はすでに述べた。デビュー当時から小野不由美の筆力は並ではないということだ。それを時を隔てて全面的にリライトしているのだから面白くないわけはない。 枚数的には5割程度増えているようで、言い足りなかった部分、説明不足な部分を書き加えているものだから、麻衣ちゃんと愉快な仲間の掛け合いもいよいよ絶好調だし、ホラーティストなお話は心底怖い。 大傑作、と言いたいところだが、言い切れないのがつらいところだ。 通常これほどの作品を書ける作家なら開けるはずのない穴があちこちに開いているからだ、なまじ完成度が上がっているためにそれが気になって仕方ない。これは完全オリジナルでないために起こった傷である。 この人にオリジナリティが無いとは思えないのだが、なぜに過去の作品(他に原作のある作品)にこだわるのだろうか? 今こそまったきの新作を書いて欲しいものだと思うが、とりあえず新シリーズに関してまとめよう。 この新シリーズ、メディアファクトリーの「ゴーストハント・シリーズ」は読んで損はなく、強くお勧めしたい。 ただしそれは穴がないとか完成度が高いということではなく「穴があっても面白い」ということであることは言い添えておくべきだろう。 ps ちなみに旧「悪霊シリーズ」に関してだが、これは現在絶版であり入手は容易でないため読もうとしても読めない。 なんにしても女子中学/高校生以外立ち入り禁止なテイストであるので頑張って手に入れ読む必要もないだろう。 コミック版もあるです |