「ほかの職場でこれ程、寸暇を惜しまず働く人たちは居ない。
世の経営者達に言いたい。映画で働いた人を雇えと。


「土屋嘉男」





  映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
  キングを探せ  
ミッション・インポッシブル ゴーストプロトコル    
カウボーイ&エイリアン     
  殺人鬼フジコの衝動  
  奇面館の殺人  
アナザー(アニメーション) アナザー(小説&コミック)  
バトルシップ    
  秋葉原事件 加藤智大の軌跡  
アメイジングスパイダーパン    
10 ダークナイト ライジング    
11 プロメテウス    
12   残穢(ざんえ)  
13   バーニング・ワイヤー  
14 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q    



 






 法月綸太郎はデビューして20年以上、上梓した著作も20作以上、中堅というより、もはやベテランと言ってよい作家である・・にもかかわらず、いまだに完成された感のない作家である。

 「完成された感が無い」というのは、良く言えば理想主義であり商業主義に毒されていないという意味であり、悪くいえばアマチュアっぽいということで、頑なさが残る作風だということでもある。
 その作風が読者を選び一部の根強いファンを獲得している一方、ヒット作といえるほどのものはなく映像化されたものもない。 

 同時期にデビューした東野圭吾などと比べるとえらく差が付いてしまったなと思うわけだが、私自身はその理想主義、純粋主義なところが好きであり出版されたものはほとんど読んでいる。


 というところで今作だが、今回も冒頭いきなり4人の男が交換殺人の打ち合わせをしているシーンから入るのを見て、のりリン(と一部のファンは呼んでいる)相変わらずだなと思ったのだった。
 
 つまりいかにもパズラー(謎解きを主眼としたミステリー)っぽいネタだということだ。

 「交換殺人」あらためて説明するまでもないが、これは a を殺す動機のある A と b を殺す動機のある B が手を組んで a を Bが b を A が殺すというものだ。
 そして自分本来のターゲットが交換殺人者に殺されている間、自分は確固たるアリバイを確保し容疑から逃れるというわけだ。

 ミステリーに出てくる警察官は「奴に殺す動機は充分あるんだが、鉄壁のアリバイがあるんでシロと判断せざるを得ないんだ」と言って苦渋の表情を浮かべたりするのだが・・・そんなわけはない。

 心証が真っ黒でアリバイだけが鉄壁なら、警察は当然のように共犯者の存在を疑うわけで(よくある話で「鉄壁のアリバイ」というのがそもそも怪しい)その一点をもって捜査の圏外に逃れられるわけはないのだ。
 間違いのない真犯人が別に見つかったという事でもない限り警察は追求をやめないだろう。
 つまり交換殺人は普通に共犯者がいる(かもしれない)殺人に過ぎないのだ、特段にメリットがある話とは言えないだろう。

 一方デメリットは多い。
 まずこの交換殺人の仲間をどこで見つけるかが難しいところだ。知人友人ならばすぐ捜査の手が伸びるだろうし、その知人友人の周りで再び殺人事件が起こればあっという間に足がつくだろう。

 といって関係性の薄い相手、つきあいの浅い相手に殺人を依頼したりその相手のために殺人に手を染めるというのも危うい話である。
 そもそも警察にもたどれないような相手とどこで知り合うのか、そんな相手は信頼できるのか。

 (たとえば、自分は相手のターゲットを殺したが、相手が自分のターゲットを殺してくれないという危険もある。どこかに訴え出ることも出来ず、相手の首に縄をつけて人殺しさせることも出来ない)

 つまるところ交換殺人というのは「アリバイがあれば警察の追求を逃れられることになっている」というゲーム、パズラ-的ミステリーの中でしか成立しない概念なのだ。

 そのような交換殺人を本作では4人で行おうと言う、正確に言うならA→b B→c C→d D→a という玉突き殺人だ。

 捜査は攪乱できるだろうが仲間集めが1:1の交換殺人より難しくなるし、その中の一番弱い輪から足が付く可能性も高くなる机上の空論的殺人計画だ。

 ところでしかし机上の空論というのは否定の言葉ではない、というかそれこそが本格ミステリーの真骨頂なのだ。

 ピタゴラスイッチのような仕掛けで人を殺す、人を殺すために建物を作る、見立てて殺す、死体を移動させる、死体を切断し、死体を組み合わせて(!)アリバイを作る。
 リアルな実行可能性などには目もくれず、理屈的には可能という一点をたよりに人を将棋のコマのように扱って犯罪を行ってみせるのが本格推理なのだ。

 一部の識者が眉をひそめる(笑)所以である。
 実際、のりリンはこの「人を将棋のコマのように扱う、殺人をゲーム感覚で行う」という本格推理に疑問を抱き、一時執筆活動を停止していた時期があった(「悩める作家」というあだ名が付いた)しかし、本格推理物は犯罪を利用した知的な遊びなのであって、実社会の犯罪とは無関係に楽しむべきだと思う。

 のりりんも執筆活動再開以降は再び人を将棋のコマ扱いし、殺人をゲーム感覚で扱う作風に戻ってしまった(あまりにも吹っ切れているので、当時の悩みは一体何だったのだ?と思わないでもない)

 というわけで本作もまさしく登場人物をコマ扱いし、殺人をゲーム感覚で捉え、知的パズルを構成してみせるという本格推理の王道と言ってよい作品なのであった。

 <ちなみに本格推理の場合、「誰が」「どうやって」犯罪を行ったかが主眼であるために、動機つまり「何故」人を殺したのかについてはおざなりであることが多い。
 ということは犯人当てとトリック暴きが主体で、犯人の動機が理不尽(「お前があのとき金を貸してくれなかったから」「富士山が見えなくなったから」)な名探偵コナンは本格推理と言ってよいかもしれない>

 
 こういう理想主義的な本格推理って最近減ってきたよなーと思い、懐かしい思いで読み進んでいくと、捜査に行き詰まった法月警部が推理作家の息子にグチを漏らすシーンに至った。このあたりは、天下の副将軍が印籠を出したり、映画の冒頭でとらやに帰ってきた寅さんがおいちゃんと喧嘩するのと同じ安心のパターンである。

 この小説、パターンであることを変える気も隠す気もないわけだ、のりリンブレないなーと思っているとその法月警部が次のようなセリフを口にする。

 「あれは犯人じゃないな。鳴瀬紀一という男でね。けっして好感の持てる人物ではなかったし、被害者につきまとった過去があるのも認めたが、殺しとなると話は別だ。申し立てたアリバイは文句のつけようがなくて、軽率な見込み捜査と言われても、その場では返す言葉がなかったよ」

 先述べた「苦渋の表情を浮かべたりする」シーンなのだが、表情はどうでもいいのだが、ここで人物のフルネームを口にする奴はいない。

 ここは「容疑者は居たんだが、その男には文句のつけようがないアリバイがあったのさ」と言うところだろう。
 法月警部はこの人物をシロと断定しているのだし、参考程度の話に出てくる人物の名をフルに言うわけはない。

 百歩譲って固有名詞を言うにせよ日本人は普通名まで呼ばない、ここでも「鳴瀬という男はけっして好感の持てる人物ではなかったが」などと姓どまりなのが普通だ。

 では、なぜにこのようなセリフ回しになったのか、と言えばそれはこれ以降に出てくる何人かの他の男性と間違わないためだろう。ここで「その男」などと呼んでしまうと、以後出てくる男たちとの区別がつきにくくなるのだ。

 しかし実際の会話というのはその場その場で言葉が選ばれて進んでいくものであって、他に対抗馬の出ていないこの時点なら「その男」扱いするのが自然だ。

 それをこの先何人かの男性登場人物が出る予定だから、混乱を避けるためにもフルネームで呼んで置こうなどいうのは作者の都合が優先すぎる。
 
 のりリンがそれに気づかない作家とは思えないのだが(気づいていないなら作家として問題がある)承知でやっているならそれは生きた言葉使い、リアリティを失っても記号として間違いのなさを優先しているとしか思えない。

 
 たしかにこの小説は4重の玉突き殺人という入り組んだ話に突発的な出来事や、複雑な人的要素を加えて構築された人工的な世界観なのであって、人情の機微や自然の情景を売りにしているわけではない。
 それよりは誰が何をいつどうしたというような複雑な事実関係が読者に正確に伝わらないとお話が成立しないので、意識して間違いのなさを取ったということなのだろうが、すこしばかり割り切りが良すぎるように思えるのだ。


 また、もうひとつ気になる事がある。
 これがこうと指摘できるものではないのだが登場人物達に魅力がない。というか、魅力以前の問題としてキャラが立っていない、かき分けが出来ていない。
 これは犯人役の4人はもちろん、主人公であるはずの法月親子からしてそうだ、彼らは筆者の考えたプロット、トリックを展開するためだけに存在しているかのようだ。
 セリフの端々からその人物の性格が伝わってくるなどということがなく、人物像が焦点を結ばない、まさしく将棋のコマのよう。

 問題なのは、これがやってみて失敗したということではなく、のりリンが元からそんなことには興味がないっぽいということだ。
 作家というのは基本的には作品に奥行きを与えたり、登場人物に血肉を与えたりしたいものなのではないかと思うのだが、どうもそういう気配がない、のりリンには自分の小説を文芸作品としての完成度を高める気が薄いようなのだ。

 これじゃあ一般受けしないし、映像化もされないし、一部のファンしか手に取らないよなあと思わざるを得ないのだった。

 というところで結論を言う。


 「パズラー専用」

 




 「ジェットコースタームービー」という言葉がある、見ている間はずっとハラハラドキドキの息をつがせぬ映画、という意味であるが見終わってしまえば何も残らないという意味であったりもする。

 とはいえこれは悪い事でもない、出来ることなら余韻はあったほうがいいし、観た人の心に長く残るなにかがあったほうがいいが、映画はまずはエンターティンメントであるべきだし、そういう意味ではジェットコースタームービーは映画として最低限の基準をクリアしているとも言えるわけだ。
 
 そしてハリウッドの娯楽大作はまずほとんどがジェットコースタームービーである、ミッション・インポッシブルもその例に漏れない。

 さて昨年の年末のことだがTVを付けたら映画を放映しておりそこにはトム・クルーズが出ていた。
 トム・クルーズが「ハント」と呼ばれていたのでこれがミッション・インポッシブル・シリーズのどれかであることがわかった、しかしそのシーンに見覚えは無く私の観てない話であるらしかったがそれも不思議な話だった。なぜならどれがそうでこれはこうと明確に意識して観ているわけではないが、このシリーズは公開されればお祭りに参加するくらいの気分でとりあえず観に行っているはずだったからだ。
 「ちゃんと意識して観にいってないから、うっかり見過ごした話があったのかしらん?」というくらいの気分で画面を見ていたら銃撃戦のシークエンスは終わりバイクアクションに移った、そこで思い出した「あ、これ観たやつだ」と。

 トム・クルーズが乗るロードスポーツタイプのバイクのタイヤが砂浜に入るといつのまにかオフロード用のブロックタイヤに変わっている(しかもアップで映る)ところまでも思い出した(車輪がまわっていればバレないんだから、せめて停止した時だけでもタイヤを取り替えろよ、と思ったことまでも思い出した)

 しかし私は銃撃戦でハントと敵役が交わした重要(らしい)な会話を聞いても、ヒロインのヒロイックな行動を見てもそれが観たことのある映画だったと気づかなかったわけで、これはこの映画をほぼ完璧に忘れているということだ、これはヒドイ、私は観た映画をけっこう覚えているほうだと思っているのだが。

 つまるところこの事実は私がミッション・インポッシブルをどう捉えているかという証左であるのだろう。つまりはただの暇つぶし、記憶にとどめるほどの価値も見いだしていないということだ。

 これはミステリーでいうところのキオスクリーグ、つまり出張で新幹線に乗るビジネスマンが乗車前にキオスクで買って車内で読み、着いたら捨ててしまう本並の扱いだということだ。
 私はキオスクリーグのミステリーは時間の無駄だと思うので手にしないのだが、昨年のTVのおかげではからずも使い捨て程度に観ている映画があるということに気づいたのだった。

 ワンシーン観てもかつて観たことさえ思い出せない映画はさすがに観る意味がなかったということだろう。
 ちょうどミッション・インポッシブルの最新作「ゴーストプロトコル」が公開されているが(というかその公開に合わせてこれはTV放映されたのだろう)今回はパスしようと思ったのだった。



 思ったのだったが、またしても劇場に足を運んでしまったのだった。
 
 それは公開されたトレーラー(予告編)のメイキング映像に驚いたからだ。
 そこは世界でもっとも高いビル、ドバイのブルジュハリファ(高さ828メートル!)の撮影シーンだった。
 トム・クルーズはビルの壁面に張り付き、よじ登り、ターザンのように窓から窓へ飛び移り、果ては(持った安全帯を滑らせながら)ビルの壁面を下に向かって(!)駆け下りていた。






 これが全てスタントマンなしの本人なのである。ワイヤーが2、3本トム・クルーズから伸びており安全については万全の体制なのだろうが、高さが1Kmに迫ろうかというビルの壁面を下に向かって走るなど見ているこっちのお尻がむずむずするような怖さである。

 監督は「スタントにまかせろ言ったんだが、トムは観ている人にはわかると言って自分でやることにこだわったんだよ」と言っている。
 たしかにスタントでも撮影可能だろうがそれではそれなりのサイズのショットしか撮れない。今回はとにかく本人が演じているのでカメラワークの自由度が全然違うわけだ「観ている人にはわかる」というよりわかるサイズまで寄れるということだ。
  
 ついでに言えば、こうしたシーンで吹き替えを使う場合主役は黒メガネをかけるのが常道だ、顔形が似ているというだけならまだしも、目元までそっくりでかつスタントが出来きる人間を見つけるのは難しいからだ。
 ターミネーターやマトリックスのネオ、あるいはエージェント・スミスが黒メガネをかけているのはそういう理由だ。ちなみに先に述べたバイクアクションでもハントは黒メガネをかけている。

 ところが今回はその必要がない、風よけなのか保護グラスをかけているのだが、本人であることを見せなきゃもったいないと透明なメガネになっている、これはある意味映画の常識を越えたショットであるわけだ。

 これは大画面で観ねばなるまい! ということで映画館に足を運んだわけなのだ。

 そして、やはりこれは当然のように迫力充分なカットになっていた、やはり臨場感がある、空気感が違う。
 本人が演ずる場合グリーンバックで撮ってロケ映像に合成するとか、あるいは背景をそっくりCGで作るという手もあったと思うが、実写でなくては撮れないなにものかがそこに写り込んでいるのだった。

 それは気まぐれに吹き付ける風にあおられた人間の挙動、服や髪のはためき、砂漠に吹く風に含まれるホコリ、複雑な形をした壁面からの反射光など、実際にその場で生身の人間がアクションしてみなければわからない様々な微少な要素だろう。


 ここで別な例を挙げると、たとえば「主人公の背景は闇」というカットがあったとする、ト書きに漆黒と書いてあったとしてもこの背景にデジタルで作ったムラのない黒を合成してしまうと、現実ではありえない印象のカットになってしまう。

 そこでホコリ、チリを合成したり、黒にムラを入れたりしてノイズを加えリアリティを出したりするのだが、それもこれもすべて計算づくである。当然だが計算できないことや、その場でやってみなければわからない何事かを取り入れることは出来ない、そのやってみなければわからない何かこそが空気感であり、それゆえCGは実写に勝る映像にはならないのだ。曰く「神は細部に宿る」

 この映画の場合、そこでしか撮れない映像に更にトム・クルーズ本人が写っているのだから衝撃は倍増である、これぞ映画というものだろう。


 さてしかし、完成映像からはものの見事に安全のためのワイヤーが消されていた、フリークライミングのカットではまさしく空身で。ターザンや縦走りのカットでは小道具の安全索一本だけをたよりにアクションしているように見える。



室内からのメイキング画像、ワイヤーが3本出ている



完成画像、、キレイにワイヤーは消えている


 デジタル編集機の勝利である。
 これこそがデジタルの使いどころだよなあと特撮業界に身を置く私は素に戻って思ったりしてしまったのだった。

 かつて人(やミニチュア)を吊っている線は背景と同じ色で塗って消す(目立たなくする)しかなかった、同じ太さで最も強度が高いのはピアノ線なのでピアノ線一択だったのだ。

 塗って消えない場合はアナログ合成で消すしかなかったが、これは手間のかかるワリにはピアノ線があったはずの場所がなんとなくチリチリ(空間が歪む感じ)したりしてそううまくいくものではなかった。

 背景の空が多少チリチリしていても問題はないが、役者の顔がチリチリしたのではまずいのでピアノ線が顔の前にくるようなカットは御法度だった、カメラワークに制約があったということだ。
 また高価な合成予算を「バレ消し」(見えてはいけないものを消す)に使うのはもったいない、線が塗って消せないなら吊りはナシ、と言われることさえあった(バレ消しを「マイナス要素をゼロに持っていくだけ」と考える頭の悪い人が居るのだ、本来空を飛ぶ筈のない人間が空を飛ぶというような映画らしい効果と引き替えの予算の筈なのに)


顔の前をピアノ線が横切るのでこういうアングルはかつては御法度だった



 しかしデジタルの時代がやってきた。
 初期はデジタル編集機の使用料金がバカ高く、この映画ではデジタル様に降臨いただくのは30カットのみなどと制約があったのだが、やがて一般化し、合成といえばデジタルの事を指すようになりアナログ合成は衰退し、、日本エフェクトセンターは線画台を放出し、ステッピングモーターを我々に譲り(^^;)今や「オプチカルプリンター?なにそれおいしいの?」という時代になった。

 ピアノ線どころか太いワイヤーでも、鉄骨の突き出しでもなんでもござれ、かつてやろうとしても出来なかった(塗っただけでは消えなかった)あんなカットやこんなカットも自在だぜ・・・となるはずだったのだが・・・

 映画がデジタルに依存する度合いが異常に増加してしまった。
 かつては時代劇なのに街灯が見える、道路に轍がある。明治時代の話なのに自動販売機が写る、となれば美術部が街灯を木に見せかけ、道路に土を撒き、自販機を塀で囲って隠した。
 昭和初期の街並みといったら広大なオープンセットを組み、古い自動車を探して走らせたりもした。

 それが今出来る部分だけやって、あとはデジタルでという時代になってしまった。
 明治の街並みの後ろにビルが見えていようと、自販機があろうとおかまいなしである。
 リアルスケールの戦艦大和を作ると聞いて驚いていると、人物の背景になる甲板と一層目部分だけ作って、主砲も頭上にそそり立つ艦上構造物もCGだったという時代である。

 ごくあたりまえのようにデジタルの出番があるのでTVの刑事ドラマにさえ合成担当者が立ち会っていたりする(横浜が舞台の話を東京でロケしている時、地名の入った標識・看板が背景に写り込んだ場合書き換えてもらったりする)

 するとどうなるか、というとデジタル関連予算が肥大するわけだ。
 それがどういう結果を招くかというとそれ以外の予算が削られるわけだ。
 おそらく世界的にも、そして特に日本では。

 ハリウッドではそれでもここぞという時には驚くようなアナログ特撮を敢行する。



                 普通の家ほどもあるミニチュア



普通の家よりでかいミニチュア


もうすこしで人が乗れそう?                    

 デジタルを使うのはそのほうが結果がいいからで、アナログのほうが良い結果を得られるならばアナログで撮るという当たり前な判断をしているということだ。

 ところが日本ではそうなっていない、デジタルに大予算をつっこんでいるのだから特殊効果は全部そっちでやってくれ(得手不得手関係なく)という方向になってしまっているのだ。

 たしかにデジタル以外ではイメージ化不能だというショットも存在する。しかし多くの場合可能なかぎりアナログで(つまり現場で実際に)撮影し、足りない部分を、あるいはどうしても余分に写ってしまう部分をデジタルで補正してもらったほうが結果はいいのだ。
 トム・クルーズ本人が実際に高層ビルの壁面でアクションするなどというのは、まさしくアナログとデジタルの高度な融合だろう。

 こうあるべきだよなあと、火薬効果や建物の破壊シーンなど本来デジタル向きでないショットまでデジタルにうばわれつつある操演技師はぼやくのであった。


 ps


 と褒めたあとで何だが、この映画その後「磁気浮上スーツ」というドラえもんに出てきそうな秘密兵器が登場してしまった。
 地下を進む小型の戦車が、床を越え数メートル以上上にいる人間を空中に浮かし、かつ自在に移動させるのだ。当然のことながら合成カットだが、理屈からしてあり得そうにない仕組みだけに見た目も違和感ありまくりのショットになってしまった。


床と巨大な換気扇ファン(明らかに金属製)越しに人間を浮上させている

 トム・クルーズが体を張って映画史に残るようなアクションをやった後にいったいなぜこのようなチープなシーンを入れるのだろうか?



 






 『西部開拓時代にエイリアンが来襲し2丁拳銃のカウボーイと戦う』これだけ聞けばどっからどうみてもキワモノである。

 主演がダニエル・ジェームスボンド・クレイグとハリソン・インディアナジョーンズ・フォードだったのでそれなりの大作かとは思ったが、なにぶんにも企画がぁゃιぃのであまり見たいとは思っていなかった。

 更に言えば『製作:スチーブン・スピルバーグ』といううたい文句は微塵も信用していなかった。ドリームワークスが作るので必然的にプロデューサーとして名を連ねているだけに違いないと思ったからだ(実際には監督や脚本家に西部劇を見せ、西部劇を作るにあたってのサジェスチョンをしたらしい、むしろ思ったより関与していたと言うべきだろう)

 それが何の映画を観にいった時だったか、シェーン(とか大草原の小さな家とか)に出てきそうな西部の片田舎の小さな町の大通り(そもそも「通り」と名の付くものはそれしかないようなしょぼい町だが)の上を小型UFOが飛び、それに向かってカウボーイハットのガンマンが拳銃をぶっぱなしているというトレイラーを見た。

 何だこのビジュアル!これは観たいかも~と思ってしまったのだった、キービジュアルがいかに大切かという証左である。

 で、このトレイラーを見たとき、誰か「新撰組vsエイリアン」って作らないかなと思ったりしたのだった。うたい文句は『沖田総司の三段付きが侵略者を斬る!』これがホントの「平安京エイリアン」である。



(C)株式会社ハイパーウェア


 ・・というような心づもりだったので特段に期待もせず、物見遊山程度(?)の心づもりで劇場に足を運んだのだった、ところが始まってみるとこの映画、西部劇として思いのほかちゃんとしている、これは思ったよりマトモな映画なのかなと思って気を引き締め私は座席で正座をしなおした(してない)



 結論を先に言うなら、これはキワモノのアクション映画ではなくドラマを重視した西部に生きる男達の葛藤と苦悩の物語だったのだ。かなりビックリである。

 主人公ジェイクは強盗団のボスで西部劇風に言えばいわゆる「悪党」、首には賞金がかかっている。
 この男が娼婦でありながらも心根がまっすぐな女と出逢い、足を洗うことを考える。しかしやったことと言えば、仲間を裏切り駅馬車から奪った金を更に持ち逃げするという最低な行為、それを自慢気に彼女に差し出して叱責されてしまう。
 まあ彼は倫理というものを理解していないのだが、そんな男にも理解できることが一つあって、それは落ちるところまで落ちてきた彼にとって彼女が唯一の光であり、おそらく最後の希望でもあるということだ。
 しかしその恋人は奪った金貨を追ってきたエイリアンにアブダクション(誘拐)され殺されてしまう(エイリアンは地球の貴金属を奪いにきているので、精錬された金貨は絶好の目標なのだ)

 彼は自分の行為が彼女を失うきっかけになったことで自分を責め、かつエイリアンを憎んでいる。


 もう一人の主人公がハリソン・フォード演ずる牧場主のウッドローである。元騎兵隊の隊長でインディアンを討伐して名を挙げた男だが、上層部の無能のせいで多くの部下を失い退役、牧場主に転身している。有能だが狷介で他人を信用しない、大金持ちであり町を牛耳っている。

 彼には育て方を間違えたのんだくれの息子がおり、そのろくでなしぶりに絶望している(いっぽう親としての愛情は持っている)
 部下を冷酷に扱う中、昔拾ってきて育てたインディアンの孤児だけは信用しており腹心の部下として取り立てている、彼はインディアンを敵としてしか認識していないが、有能な人間は評価するという公正さも持ち合わせているのだ。
 このインディアンの部下を見るたびにこれが俺の息子であったならと思い、役たたずな息子に事に腹を立て、そう考える自分に腹を立て、信頼しているインディアンの部下につらく当たる。
 このような葛藤の固まりみたいな男をハリソン・フォードが渋く演じている。

 要するに2人ともキレイ事では生きていけないドロまみれな人間なのだが、譲れない一線だけは守っている男たちでもある。


 さてこのジェイクが駅馬車から強奪したのがウッドローの金であり、ウッドローにしてみればジェイクは殺しても飽き足らぬ相手。しかし息子をエイリアンにアブダクションされたウッドローはジェイクと組んで息子を取り返しに向かう。

 途中出逢うのがかつてジェイクが率いていた強盗団とインディアン。
 強盗団は金を持ち逃げされているのでこれまたジェイクを殺しても飽き足らぬと思っているし、インディアンとウッドローはそもそも仇敵である。どちらも行動を共にするなど思いも寄らぬ間柄と言ってよい。

 この水と油、呉越同舟の4つどもえ状態が上記2人のリーダーシップによってまとまっていく過程がこの映画の見所である。
 さまざまな確執を乗り越えた混成部隊がついにエイリアンの母船に殴り込みをかけるシーンに到ったところで私はこの映画を傑作と断じた。

 あとは一大アクションの果てにエイリアンを撃退して終わるのはわかっている。悪く言えば予定調和であって一くせも二くせもある登場人物達のうち誰が見せ場を作って死ぬかくらいしか見所はない。

 つまりこの映画はクライマックスの前で完成しているのだ。

 素晴らしい!と思ったのだが、ここで今までロクにエイリアンが登場してきていないことに気づいた、ハテこれはどこかで見た構図ではないか?。

 というのも他ではない、ここ数年のハリウッドに特徴的な構成であるのだがエイリアンこそ出てくるがそれが物語の中心的存在ではない、侵略物の体裁を取っているが別段侵略話がメインではないという映画群だ。

 その最大なるものが超大作、スピルバーグの「宇宙戦争」である。
 SF小説の金字塔(「エイリアンが地球を侵略する」という概念を世界で初めて提出した)を原作に使いながらエイリアンvs地球軍の戦いを描かず家族の再生(笑)の物語にしてしまった映画だ。

 その他にもスタンドバイミー的青春映画の世界観にエイリアンが居る「スーパー8」
 我らがUSマリーン(海兵隊)万歳!のためのアテ馬にされた「ロサンゼルス最終決戦」などがそれだ。

 私はSF者として基本的にこういうドラマ構成をけしからんと思っていたのだった、エイリアンをだしにするなよと。

 ところがしかし、この「エイリアン&カウボーイ」に関して言えばこれはこれでアリだと思ってしまったのだった。
 ダブルスタンダード?そうかもしれないが、こういうことでもあろう、要するに今までのなんちゃってエイリアン物は映画の出来が悪かっただけなのだ、と。

 つまり映画が真に面白ければ、それがどのようなネタをどのように扱っていようとそれが正解であり、ネタの取り扱いが正当であろうがなかろうがつまらなければそれはただの失敗作であり、非であるということだ。

 映画の出来不出来は企画やあらすじではなく、フィルム(今はハードディスクか)に定着されたディティール(芝居であり、演出であり、カメラワーク)が全てであるということを改めてこの映画が示してくれたように思う。

 強く推薦する。


ps

 最近psが多いなとおもいつつ。

 なんでハリウッド製のエイリアンはどれもこれも同じようなイメージなのだろうか?
 まずは基本的にちゃんと映さないという方針がある。たとえば「クローバーフィールド」や「スーパー8」のエイリアンは全身像が明らかでないまま映画が終わっており欲求不満が残る。
 「ロサンゼルス最終決戦」「スカイライン」そしてこの「カウボーイ&エイリアン」も暗いライティングか早いカメラワークでエイリアンの姿をちゃんと映さない。
 これはなんちゃんて侵略物の場合、観客の興味がエイリアンに注意が向かないように(!)しているということなのだろう。

 そのように似たような扱いをしているところへもってきて、どれもこれも同じ外観をしているのだ。

 私はこれをクリーチャー風と呼んでいるのだが、要するに黒またはグレーのなめし革のような外観で、ヌメっとしたテカリがあり、衣服を身につけておらず筋肉質(?)な体をむき出しにしている。目、口は裂け目のようで悪魔的な印象を持つ。
 基本は2本足歩行だが高速で移動するときなどは長めの手も仕様する(ゴリラ風)

 といった感じだ、つまりはあまり先進的な感じがしない(というか普通に獣的である)

 居住環境(?)も暗く、液体、粘液あるいは油まみれで、宇宙の深淵を渡ってきた筈なのに先進の科学を感じさせるような機構が見当たらない。つまりは文明的でない。 

 有機化学と本能だけで宇宙旅行してきたのかもしれない、どいつもこいつも見た目が同じなのはなぜなのだろうか、同じ星の出身なのだろうか?



 





 本や映画を見る時は出来るだけ予備知識-先入観というか-を持たず見始めたほうがいい、とはいえなにかしらの予備知識が無ければ数ある作品のうちどれを選ぶべきか決定することが出来ない。

 とかつて書いた<2008 ScriptSheet「刈りたての干し草の香り」より>

 読むべき本は星の数ほどあり、見るべき映画は浜の真砂ほどある(かもしれない)
 もちろん読まなくてもぜんぜん問題ないが読みたい本はいっぱいあるし、ついでに言えばコミックだってあるし深夜アニメもある、でも余暇は有限だ。
 
 なんらかの基準を設けて選別しなければならない。

 そういう意味で一番いいのが自分の趣味をわかってくれる人間からのお薦めである。

 と書き、さらに次のようにも続けた

 確度は落ちるもののある程度信頼性の高いマスコミの書評も参考になる、その一つが新聞だ。と

 そして今回、上記2つを組み合わせた第三の道が開けたのだった!



 なんのことかと言う前に、若干長くなるが我が街の図書館についてお話ししたい。

 我が図書館はwebサービスが充実していて、図書のほか雑誌・CD・DVDをインターネット上で検索し、所蔵の有無、在架の状態まで調べることが出来る、そして在架しているなら貸し出し処理が、貸し出し中であれば予約処理が出来る。
 予約した場合は貸し出し可能になった時にメールで連絡が来る、いたれりつくせりなのだ。

 そして私が図書館で借りる本は。

1・写真集など高価でなかなか手が出せない書籍(現在PARC0出版の「視線」が予約中である)
2・読んだことのない作家で、外れるとイヤなので試しに何か読んでみようと思う場合(たとえば山田悠介!!)
3・話題になっているので一度は目を通しておきたいが、あきらかに一度読んだら二度は読まないだろう本(「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」などライトなノンフィクション多し)

 の3つである。

 ところでしかしこの3番は、なにしろ「話題になっている」ものなので予約が殺到している場合が多い。今「謎解きはディナーの後で2」(あきらかに一度読んだら二度は読まない本)を予約しているのだがなんと511人待ち中175番目である!!! 
 図書館はこの本を各支所合わせて17冊所蔵しているのだが、それを加味しても私は10番目なのだ。

 ではこの本はいつ私の手に来るだろうか? まず予約確保の連絡があってから本を取りにいくまでの「取り置き期間」が1週間、更に貸し出し期間が2週間ある、つまり1回転するのに最大3週間かかるということだ、これを仮に平均2週間としても私の手元に来るのは20週のち、つまり5ケ月先である!!!!

、予約したのは昨年の11月なので計10ケ月待ちということだ(実測では1回転するのに2週間以上かかるので、結果1年くらい待つかもしれない)

 何を言いたいのかというと、図書館で本を借りる場合それがよほどの不人気なものでないかぎり手にするまでに果てしない時間がかかるということなのだ。

 そしてここにもう一つの罠がある、先に述べたように検索/予約システムがよく出来ているので本を借りることのハードルが極めて低いということだ(罠でもなんでもない)

 千数百円也をポケットから出すとなればそれなりに調査研究してから手を出すが、なんか面白そうだから借りてみるか、となれば後はマウスでカチカチッとやるだけなのでお気楽極楽に手を出してしまう。


 そしてこの「手元に来るまでが長い」「ロクに内容を吟味しないまま予約してしまう」の2つが組み合わされると先に述べた「第三の図書推奨システム」が出来上る。
 
 身元が明らかな推薦人(過去の自分)が推しているのだがその内容をまるで覚えていない本がある日手元にやってくるのだ!!!!!


 「そういう意味で一番いいのが自分の趣味をわかってくれる人間からのお薦めである」・・ならばこれほど信用できる相手はいない。しかしこいつは何の情報も与えてくれない。
 普通、誰かが何かを推薦してくれる場合は「島田荘司ばりの本格推理だよ」とか「今時びっくりのメカニカルトリックだよ」などと勧める理由を付け加えてくれる筈だ。またそれに対して「名探偵は当然出るんだろうな?」とか質問することも出来る。

 ところが過去の自分は一切ノーコメントだ。すると「お勧めされているのだから何かがあるのだろうが、どこがお勧めポイントなのか一切不明な本」を読むことになるわけだ。



 ということで本書である、この本は新聞の書評欄をナナメ読みしてなんかおもしろそうじゃん?と思い、カチカチッとしたあと失念していたものだ。

 予約したのはおそらく半年以上前だ、その待ちの長さに加えて、気楽にカチカチしたものだから内容をまるでまったくぜんぜん覚えていない。

 実際「ええっと、これミステリー?」というレベルである、あらためてリサーチしようかと思ったのだが、理由がまるでわからないままで読んでみるというのも一興なので、そのまま読んでみた。



 失敗だった。



 これは「幼い時は親に虐待され、学校ではいじめに合い、一家惨殺事件の唯一の生き残りとなり、長じてはクズな男とくっつき、ただひたすらに道を踏み誤り、倫理観のかけらも持たなくなった主人公フジコが人生の障害になりそうな相手を虫でもひねり潰すように殺していく壮絶な半生を描いた小説」を姉が書き、それを妹が読んでいるというお話である、つまり表題作は作中小説なのだ。

 仕掛がある以上これが見た目通りのシロモノではないことはあきらかなのだが、なにしろこの小説(作中小説)の印象は強烈である、サイコパスな主人公を初めとして出てくる登場人物全てが人間のクズであり、まるで生ゴミで一杯のゴミ箱をのぞき込むような不快感が横溢している。

 私は過去の自分がこれのどこに見所を感じて読む気なったのか理解できず、まさかこの鬱展開がブンガクなのですで終わるんじゃないだろうな? いや驚くようなどんでん返しがある筈だ。
 しかしここまで嫌悪感を抱いてしまった小説に何がどう転んだとしても好印象を持てるわけもないし、というか、本当にどんでんがあるのだろうか。
 過去の自分が新聞の読書欄をちゃんと読んでおらず、なにか勘違いしているということはないだろうか、 そういえば書評をナナメ読みしたような記憶があるが。
 いやいや、形式が作中小説である以上なにかしらの仕掛はある筈だ。しかしこの修復不能な不快感がある以上、いずれにせよロクな読後感にはならないんじゃ?

 などと千々に乱れ内容に集中できなかった、まあ、うっかり集中すると吐き気を催しかねないのでちょうどよかったのかもしれないが。


 ラストに到ると、この姉の書いた小説には驚くべき謎が隠されていて・・・となるのだが(それが過去の自分がお勧めしてくれた理由なのだろうが)全体にただよう不快感を一新するほどのインパクトがあるわけでもない。
 その読後感も「一体この小説はどう読むのだろうか、何を期待すべきなのだろうか、何か期待していい小説だったのだろうか、とんでもない間違いを犯しているということはないのだろうか、そもそもこれはミステリーなのか?心理サスペンスなのか?ノワール(犯罪小説)なのか?『奇妙な味』なのか?、よもやのブンガク?」というメタな思考によって引き裂かれてしまい、一個の小説としてどう読めたか?という基本的な評価すらまとまらなかった。

 これは私がこの小説をどう読めばいいかわからなかったということだ。どう向き合うかわからなかった、と言い換えることも出来るだろう。
 どう向き合うかということは、どういうスタンスを取るかということである、軸足がブレていてはバットはタマに当たりませんね、というやつだ。

 つまりここから引き出されるのは、「人は小説を読むにあたっては、それがどんな小説であるかについて予備知識があり、その小説からどんな楽しみが得られるかについて知っており、どう読むかを前もって決めている、そういった一切を抜きにして小説を楽しむことは出来ない(難しい)」ということだろう。

 まあ、なんにしてもお勧めはしない。

 教訓:お気楽にカチカチしないこと。



 






 酔狂な金持ちが人里離れた土地に酔狂なお屋敷を持っている。
 その酔狂なお金持ちは年に1回奇妙なパーティを開く。
 自分と生年月日が近く背格好の似ている男を数名高額の謝礼で招くのだ。
 彼らは謝礼と引き替えに奇妙な事を要求される、それは自室がら出るときは必ず仮面を付けることというものだ。
 仮面は頭全体を覆うタイプの物であり、鉄製であり、鍵(!)をかけると外すことが出来ない仕掛になっている。
 主人もゲストも鉄仮面をかぶった奇妙なパーティが始まる。
 

 ・・・とここまで聞けば、別段すれっからしのミステリーファンならずとも先の展開が読めるというものだろう。
 つまりいずれ主人が殺害され首なし死体となる。そしてゲストは仮面の鍵をかけられてはずすことが出来なくなる。
 果たして首なし死体は本当に主人のものなのだろうか?
 犯人はゲストの中の誰かなのだろうか?
 仮面の下を確認することが出来なくなったゲスト達、彼らは果たして自称する通りの人物なのだろうか?
 というものだ。

 ついでに言うなら、この事件の舞台となるお屋敷はなんらかの理由によってしばらく世間と隔絶してしまうのだろうな、ということも予想されるのだが、案の定ゲストの到着とともに季節外れの大雪となる。
 そしてついに主人の首なし死体がゲストの前に現れるのだが、筋書き通りというか想定内というか予定調和というか、ともかくそこにもはや驚きはない。

 驚くのはそこに到るのに作者が小説の半分近くを費やしたということだ、800枚という短くない小説の約半分、そうなるだろうと思われたことをそうなるだけに費やすというのがよくわからない。

 これが大横溝の時代とか、もっと遡って乱歩の時代というならわかる、先に述べた事どもが「ありきたり」なのはもはや書き尽くされたからであって、当時としてはおどろおどろしい舞台装置も必要だったろう。
 しかし本格推理が隆盛を誇り、飽和し、衰退していった今「雪の山荘」とか「鉄仮面」などというのはジョークかパロディでしかない。
 もし今それを本気で使うなら「記号」である。

 つまり「雪の山荘」は『犯人は外部の者ではない、また逃走したわけではない』『警察の手を借りず事件を解決しなければならない』というルールであり。
 この場合の「鉄仮面」は『登場人物達は自分が誰であるか、他人に証明することは出来ず、また他人が名乗った通りの人物であるか確認することが出来ない』というルールである。
 基本的に本格推理小説は論理を武器に戦う推理ゲームなのだ。

 先だって紹介した法月綸太郎の「キングを探せ」では、冒頭なんの情景描写もなくいきなり4人の男が交換殺人(玉突き殺人)の相談をしているわけで、これは文学的感興など二の次という作者の割り切りだろう。
 殺人をゲーム感覚で行い登場人物を将棋のコマのように扱う小説を読み慣れた私ですら「あれはいくらなんでもぶっちゃけ過ぎだろう」と思わないでもなかったが基本、本格推理というのはそういうものだ。

 それからするとこの「奇面館」はバランスが悪い、前置きに300枚以上を費やしたからといって登場人物達が生き生きと描かれているわけでもなく、ゴシックな雰囲気が横溢するわけでもない、登場人物達が将棋のコマというのは一向変わりがない、つまりこれは「ルール説明」に半分を費やしたとしか思えないのだ。

 そしてここから解決編に突入するわけだが、これが見事に論理のアクロバットになる。 探偵役が何の手がかりもなく思えた状況から細い糸をたぐり寄せ、一見無関係に見えるヒントを組み合わせ、迷路の中のたった一本の道を辿るように正解にたどり着く様はまさしく本格推理の醍醐味「名探偵、皆を集めてさてと言い」というジョーク・パロディ並のシーンも臆せず披露するサービスぶりである。

 ここだけ見れば充分に面白い。となるとあのたるい前半には疑問しか残らない。
 
 現在、本格推理は論理の正当性を担保としたパズラーであると認知されてしまっている。この流れに棹を差し、今更のようにゴシックや怪奇趣味の味付けを行おうというなら、背景も人物ももっともっと書き込まなければダメだ、しかし本作はそうなっていない。
 所詮は今風本格推理でそれ以上でもなく以下でもない、ならば(法月綸太郎ほどでないにせよ)もっと狙いの明確な小説に仕立てるべきだろう。

 現状ではこの小説は「後半盛り返すが、前半が冗長な推理小説である」としか言えない、お勧めするには微妙なところだ。



「酔狂な屋敷」の平面図
図版:小野不由美とあるから奥方が描いたのだろうが・・
奥さん、旦那のお手伝いしてないで新作お願いします
 

 



    原作 : 綾辻行人
アニメーション : P.A.WORKS
 コミック :: 清原紘


 地デジ対応するためTVを液晶に換えて約1年、最初は綺麗~♪でかい~♪と思っていたがそれにはすぐ慣れてしまった。それよりも凄いと思い、今だ思い続けているのは一緒に買ったHDDレコーダーである。

 「新番組予約機能」というものがあって、ジャンルを指定すると新番組を自動的に録画しておいてくれるのだ。私はこれを「アニメ」に設定しているのだがどんな作品が放映されるのか調べておく必要もなく実に便利だ。

 <ついでに言うと、放映が終わるとHDDレコーダーが「親分、タイトルに『終』って文字が見えましたがこの番組終わったんじゃないですかい? あっしの方では判断できかねますんでチェックしておくんなさい」と言う(←※意訳)
 チェックせず放っておくと次に起動したときに「親分が予約を取り消さないから、とりあえず先週と同じチャンネルを同じ時間だけ録画しやしたが、これ多分違いますぜ」と言う(言わない)激しくお利口だ>

 とはいえ片端から録ってしまっても中には幼児向けアニメもあるし、月に代わってお仕置き的な女の子向けのアニメもある、全部録っていたのでは2TバイトHDDもすぐ一杯になってしまうので必要ないものは切らなければならない。私が見たいのは大きなお友達向けのアニメなのだ。
 ということでシーズン初めにはせっせと新番組チェックに励むことになる。

 (とはいえしかし、1話だけ観て「これは不用」と切るのもキケンだったりする。昨年1回目を見たところメルヘンな絵柄の魔法少女が出てきたのでリーグが違う(お仕置きリーグ?)と思って予約を消去したのだが、これが昨年度のアニメベスト1であり、問題作でもあった「まどかマギカ」で、仕方なくレンタルで借りて見直したという事件があった。
 以後は、「絶対違う」というもの以外とりあえず放置しその後ブルーレイに焼いて保存する(結局見ない)という方法を取っている。
 こんなマネが出来るのも量産効果が出て録画用ディスクが25Gで80円以下まで落ちているからだ、25Gバイトあれば30分番組を1クール保存出来るのだから安いものと言えよう(DVDを借りると2話で300円である)しかも地デジ画質はDVDより数等倍キレイなのだ(1440×1080 : 780×480 なので画素数的には4.5倍上))

 さてそのように今年の初めいわゆる「冬アニメ」をチェックしていた時のことだ、陰影のある精細な描き込みと緊迫感ある語り口、尋常でないオーラを発するアニメがあり「これは必見だ!」と確信した番組があった、それがこのアナザーである。

 以後は待ち構えるようにしてこれを観た。
 ビデオデッキというものが登場して以来、TV番組は溜めておいて暇な時にまとめ見するのがお定まりになっており、ある番組を毎週楽しみにして、放映されるやわくわくしながら見るというのは久しぶりである(というか、いったいいつまでそういう気持ちを持ってTVを見ていたか思いさせない)

 途中で原作を買ったが、原作とアニメ版が違っていることは容易に想像されたので中途半端にネタバレしてもつまらんと思い読み始めるのは後にした、それほどにアニメ版の完成度と疾走感が半端なかったのである。





 ということでまずはアニメがお勧めなのだが・・・

 これをどう「お勧め」していいのかわからない。なんとなればこのお話は2重3重に仕掛が施してあり、視聴者が惑い困惑し恐怖するところがまず魅力であるからだ。
 そしてその仕掛の第一段は開巻すぐに仕込んであり、話の概要を話すことはその第一弾の仕掛の先を語ることになりすでにネタバレとなってしまうのだ。

 せいぜい言えることは「親の都合で地方の中学校に転校してきた主人公だが、編入されたクラスの雰囲気がなぜか異様である、全員何か息を潜めているような緊張感が漂っているのだ」くらいなものだろうか。

 どっかで聞いたことがありそうな話だし、それを聞いただけで「面白そうじゃん?」とはとても言えない情報だ。しかしこのアニメを本当に楽しみたければこれ以上のことは聞かないほうがいいのである。

 ということで私はこう言うしかない「いいから私を信じて見てみてくれ、1話でいいから」と。

 世の中にはそれが間違いなく自分にとって面白い作品であるという確証を得られるまで見ない→内容を熟知してから見る、という人もいる。まあ完全否定するわけではないが、この作品に関して言えばそれは下である。白紙で見ないともったいない(意味がない、とまで言ってしまおう、つまり放映を待ち構えて見ていた私は正しい視聴態度だったと言えるだろう)

 
 アニメの放送が終わったところで原作に取りかかった、しかしアニメ版を見たあとではこれはいかにも物足りないのだった。

 小説版はごく普通にホラーなのだが、色合いがただ暗く主人公とヒロインにのみ焦点が合っていて他に人が居ない印象なのだ。これはまずはメディアの違いによるものだろう。
 教室のシーンの描写の場合、小説では書かれていないことは読者の目に映らない、2人のことについてのみ書かれていれば焦点は2人にしか合わない。
 ところがアニメの場合教室のシーンを描けばどうしても背景に同級生の姿が映る。彼らはどんな態度なのか、朗らかなのか暗いのか、主人公とヒロインが話をしているのを彼らをどう見ているか(見ているのか、無関心なのかということをも含め)それは一種の情報となる(ついでに言えば窓から窺える天候も情報の一種だ)

 小説で言えば主人公達の会話がデーターの全てだが、アニメの場合目に映るすべてのものが作品のイメージを形成する、制作者達はこの作品にどんな色合いを与えるべきか、何をどう描写すればどんな印象を視聴者に与えられるかを正しく判断し、卓越した技量でそれを描ききっている。

 原作には登場しない教室のメンバーもアニメでは全て描かなくてはならない、そのためには人数分のキャラクターを設定しなくてはならない、それぞれの立場、性格で主人公達への視線も変えなくてはならない、そういった地道な努力を惜しまなかったためアニメ版は原作には持ち得なかった青春物という側面すら出てきた。

 原作では主人公をめぐるホラーという以上のものではないが、アニメではクラスのメンバーを等しく襲う恐怖という広がりがある、これは個々のかき分けが出来ているからだ。
 また、アニメのクライマックスは原作と違い派手なものとなっているが、それは何もアニメ版だから映像的に派手に行こうというだけでなく、多くの登場人物達に血が通っていて、こいつならこう行動するはずだ、という行動原理が確立していたから出来たことだろう。
 言うところの「キャラが勝手に動く」という状態である、これはよく出来た作品に共通する特徴だ。


 ちょっとびっくりしたことがある、アニメを見て「これは原作にもあるシーンなのだろうか?」と思った部分がある、それが第8話の「水着回」である。

 「水着回」とはなんであるかというと、それは深夜アニメにおいて時にお話全体の流れとは無関係に描かれる「主人公海へ行くの巻」のことである。
 要するに登場人物の中の女性陣の水着を披露するエピソードのことで。つまりは大きなお友達向けのお色気サービスだ。たまには無い作品があっていいんじゃないかと思うのだが、水戸黄門における由美かおるの入浴シーンと同じく(累計200回だそうな)もはや決まりごととしてはずせない風物詩(?)となっている。

 とはいえしかし、それはキャッキャウフフなラブコメディの話だ。緊張感があふれまくり、陰鬱なカラーのこの作品でそれはないだろうと思っていたら、水着回があったので唖然としたのだった(しかもヒロインはスクール水着、なんというマニアック)

 特筆すべきはこれが作品全体として浮いていないことだ。お話の流れに沿って挿入されキチンとエピソードの一つになっていてそれまでの雰囲気を壊していない。
 はてこれは「水着回」に違いないのだが原作にあったのだろうか?と思っていたのだが・・やはり原作には無いのだった。

 そしてアニメを見てしまうとここがいかにも原作は物足りない。むしろアニメのほうが自然な流れに思えるのだ。
 作品の内容とは無関係なニーズによって挿入される水着回をキレイに取り込めるということは制作者達が作品をいかに自分のものにしていたという証左だろう。


 ということでなかなか珍しいことなのだが、この作品はあきらかにアニメ版のほうが出来がよい、そして作品の構成上ネタバレした状態で見たら(それがアニメ版にせよ、原作にせよ)興趣半減であるので、私としてはまずはアニメをお勧めしたいと思う。

 ちなみにコミック版も読んだのだが、これは原作の物足りなさとアニメのやや盛り込み過ぎの中間をいく出来で内容的にはほどよい出来であると思う。もっとも原作のただただ主人公の周りに闇が落ちていく感じは捨てがたいし、アニメの青春ホラー(?)も悪くないわけで、どっちつかずという印象のあるコミック版は特段にお勧めするほどではないと思う。


■ヒロイン4変化■

 アナザー原作 ハードカバー版 絵:遠田志帆

角川ホラー文庫版 

               角川スニーカー文庫版 いとうのいじ 



 コミック版 清原紘



アニメ版 キャラクター原案:いとうのいじ
(水着回より)


  短髪・無口・無表情な少女というものはもはやアニメ、ゲーム、ラノベの定番であるがアナザーアニメ版の成功にこのキャラクターデザインが与って力があるのは間違いがない。
 ついでに言うなら、華奢で儚げ見えるが実は異能の力を持ち主人公を助けるという設定も定番になりつつある。
 この設定の嚆矢とすべきは箱根の中学校に通う青髪赤目のロボット操縦者の彼女だろうし確立したのは県立北高校の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースの彼女だろう。

 成功の理由については様々に言われているがエヴァもハルヒも彼女らがトリックスターとして存在していなければ成立しなかったと思うし、そのビジュアルが重要であったことは言うまでもない。

 こうして見るとアニメ史に残る(であろう)短髪ヒロインのうち2名までいとうのいじがキャラクター原案であるのはすごいことだ。
 いとうのいじと言えば私は今だにうまいのかヘタなのか判断のつかない画家であり、少なくも最終巻のハルヒのイラストを見るかぎり後者としか思えないのだが、アニメ化でリファインされると異様に良くなるという特質がある(のかもしれない)





 すっかり忘れていた(^^;)が実写版もあるのだった。彼女は橋本愛(貞子3Dも演じている)かなりの美人さんだ。とはいえガラス細工のように繊細で幻想的にまで儚げなどという浮き世離れしたヒロインを演じるのは荷が重いのではないかしら、というかそんな役を演じられる女優などいないのではないかしらね。


 





 またしても侵略物である、と何度書いたろうかと思うのだが、またしても侵略物である。
 昨今侵略物が変質してきて、昔私が血湧き肉躍らせたような「地球征服(!)を狙うエイリアンとそれに立ち向かう地球連合軍の全面戦争」というものではないのはわかっているのだが、侵略物と聞いただけでかつての興奮が木霊のようによみがえり反射的に「これは観ねばなるまい」と思ってしまうのだ。

 とはいえ私も学習するのでこれが「エイリアンが地球征服を狙って」いるわけでもなく、「それに対抗するのは地球連合軍」でもないだろうことは予想している。

 というか、最近のエイリアンはかませ犬で仮想敵で、かつて旧ドイツやソ連や共産主義やイスラム教徒が負っていた「問答無用の悪役」を押しつけられているだけだと言うことも理解している。
 つまりこれらは侵略物ではなく、タカ派的右翼的アメリカ万歳映画のバリエーションなのだ。

 実のところ私は劇場に足を運ぶにあたって「『ロサンゼルス最終決戦』でマリーン(海兵隊)バンザイ映画が当たったので今度はネイビイ(海軍)バンザイ映画を作っただけじゃないのか」と思っていたのだった、つまりハードルを下げていたわけだ。

 このハードルがどのくらい下がっているかと言えばもう地面にぴったり付いているわけでここまでくれば怖い物なし、何を観ても面白く思える筈なのだった。


 というわけで本編である。そしてこれがもう予想通りの展開。
 各国海軍合同演習(リムパック「環太平洋軍事演習」をもじったもの?)がハワイ沖で行われている最中、エイリアンが地球侵略を開始する。
 普通(?)に展開すればこれは全地球的規模のお話になってしまい、ストーリーも面倒なら予算もかかる(人も一杯出るし、海外ロケにも行かなくてはなるまい)そしてなによりアメリカ万歳な映画になりにくい。

 ロサンゼルス最終決戦ではマリーンの1小隊に焦点を合わせ、他のことは見えない知らないで押し通したが(これを『ブレアウイッチ・クローバーフィールド方式』という)制作者側としては各国海軍の連携が目的の共同軍事演習中という設定でそれは無理と思ったか、エイリアン母船がバリアを張ったため戦えるのはバリア内部の3隻のイージス艦だけ、ということにしてしまった。

 世界規模の侵略ものの筈が日本海海戦より小さな局地戦である。

 中押しとして「エイリアンは地球が居住可能かどうか調査しにきた先遣隊であり(だから小規模)こいつらを帰せば本体が攻めてくる=地球負け、帰さなければ何かしらの問題アリと判断されて以降侵攻なし=勝ち」であるとした。
 (エイリアンが「そうだ」と言った描写は全然ないのにいつのまにかそういう事になっている、先遣隊が帰ってこなければ本体が救出に来るかもしれないのではないか?)

 要するにご都合主義である、このご都合主義に目をつぶれば(ってどんだけ期待値を下げてるんだという話だが)面白い(かもしれない)

 このご都合主義は上は侵略規模、下はエイリアンの武器にまで及ぶ。
 宇宙の深淵を渡ってきた筈のエイリアンだが、レーザーなどの光学兵器は持っていない、それはまあ地球科学でも未到の技術だからいいとして、誘導兵器(ミサイル)も持っていない。
 超巨大なUFOは凄みのあるエフェクトと共に無数の爆発物をまき散らすのだが、それは自己推進しないただの爆弾である。

 それはこちらの船の進路を読んで発射されるのだが、大きな放物線を描いて飛んでくるので急旋回すれば避けられる(!)のだ。大艦巨砲時代の戦艦の主砲より更にローテクである。これが第一次世界大戦でソ連が使っていた柄付き手榴弾そっくりな形をしているのは悪い冗談なのだろうか。


おどろおどおろしいエイリアン宇宙船



しかし撃つのはこんな弾

ソ連製 РГД-33手榴弾 これなのか? 


 書き連ねていくといったいにどこが面白いのかと言われそうだが、つまりこの映画は論理性とか整合性などといった細かいことは気にするなという男らしい映画なのだ。

 観るべきは熱い展開!

 主人公は元不良で直情径行、人格矯正のために海軍に放り込まれていたがそこでも相変わらずの品行不良でクビになりかけている。そこへこの侵略、なんと上司が全滅したおかげで指揮官になってしまう。
 地球の命運を賭けた戦いに挑む3隻のバトルシップ、そのトップは悪ガキから進化していない若造だった、という設定である。
 
 この悪ガキが熾烈な戦闘の中で指揮官としての自覚に目覚めていく、というあたりはよくある展開ながら王道としての面白さがある。そして彼に協力するのが海上自衛隊の指揮官(浅野忠信)というのは日本人としては嬉しいところだ。

 そして自分達の船を失った彼らが最後に持ち出すのが退役した戦艦ミズーリ、第二次世界大戦中に就役した戦艦であり、アメリカが建造した最後の戦艦であり、沖縄に砲撃を行った戦艦であり、日本が降伏した際降伏調印式場になった戦艦である。

 手持ちの戦力はもはやパールハーバーに保存してあったをこの老朽艦しかない、ということになるのだがボイラーの点火から兵装にいたるまで全てが旧式なこの船はイージス艦の乗組員の手に余る、そこで手を貸すのが退役軍人たちである。

 ハイテク装備しか知らない現代の船乗りとローテクに慣れたご老人が手を取り合ってエイリアンに対抗する!熱い展開である・・ということなのだが。

 これって普遍的な、世界的な評価を得られるのだろうか?
 この熱いドラマに涙しないヤンキーもいないだろうが「おいおい」と思う国もまた多いのではないか。

 アメリカが大好きな日本人はアメリカ万歳な展開を我が事にように受け入れるし、今回は浅野忠信が活躍することもあってこれがうけても不思議はない。



このような日本バンザイカットが多い、この映画が日米でしかうけない(だろう)ことを理解しているのだろうか



 またかつての敵どうしがその戦いの象徴である船の上で手を取り合って戦うという設定も悪くない(ミズーリがどんな船であるか知っている日本人は少ないだろうが)

 しかしだからといってエイリアンはかませ犬でしかないというのはどうなのだろう。
 ヤンキーでも日本人でもない観客にとって「海軍をバンザイするあまり、整合性などはどうでもいい」というのは映画の欠点にしか見えないだろう、それはヤンキーや日本人にとっても切って捨てていいことではない筈だ。


 ということで、これは面白いには面白いのだが割り切りが激しすぎて良いところと悪いところが極端に共存する映画であると言える。

 ゆえにどこに着目するかで評価は極端に分かれると思う。

 熱い男のドラマが好きな人なら観てソンはないだろう、SF好きでSFの基本は科学性と論理性だろうと思う正統的SF者なら納得出来ない部分が多くトンデモ映画に見えるだろう。

 いずれにせよハードルを下げてから観たほうが楽しめる筈である。

 

 
 
 
 ハイウェイを高速で逃げる車、追うパトカー、それを捉えたヘリショット、実際に起こった事件の映像を「まるでアクション映画のようだ」と思う。あるいは立ち並ぶ高層ビルの夜景を見て「ミニチュアのようだ」と思う、よくある話だ。事はヴィジュアルだけにとどまらない。あまりに劇的な出会い、偶然の出来事が起きた時、人はそれを「まるで小説の(あるいはドラマの)ようだ」と思う。

 実際には映画や小説は現実を模倣しているのであって、作家たちはリアリティを求めて苦悩しているのだから現実を見て創作物に似ていると思うのはおかしな話であるのだが、「絵に描いたような××」という表現も昔からあるわけでリアルを見てそれを絵空事のようだ、と思う感性は普通のものであるのかもしれない。

 さてここにあるシチュエーションがある。

 主人公は4才の時雪の日に母親に家から閉め出され4キロ離れた祖母の家まで泣きながら歩いて行った。
 小学生の時、母親に風呂で九九を暗唱させられ間違えると湯に沈められた。
 いたずらをした時母親に2階の窓から落とされそうになった(抵抗しなければ落ちた)
 母親の罰に耐えかねて泣くとスタンプカードにスタンプが押され、10回たまると口にタオルを詰め込まれてガムテープを貼られた。
 食事の際食べるのに時間をかけすぎると母親に食事をチラシの上(あるいは廊下)に撒かれそれを食べされられた。
 学校から出された絵や作文の課題には全て母親の検閲があり、絵の場合は構図、作文の場合はテーマから文章に到るまで細かく指示された。
 作文は母親の気に入らないと破り捨てられた。字を間違えた場合消して書き直すことは許されず最初から書き直しになった。また書いている最中に使った熟語の意図を聞かれ10秒以内に答えないとビンタをされた。
 私服は母親の決めたもの以外を着るとこは許されず、自分で選んだ服を出すと床にうち捨てられた。
 中学3年の時交際する女性が出来た、しかし母親は交際に反対しその娘から来た手紙を主人公の机から探し出して冷蔵庫に貼り付け、交際をやめないなら転校させると主人公を脅した。

 
 ・・・これを「まるで小説のようだ」と思う人間がいるだろうか?
 
 まっとうな作家が書いた一般小説であればこれはない、あまりにも過剰であまりにも異常でリアリティが無い。私は最初にこれを読んだ時「それなんてラノベ?」と感じたのだった。

 ラノベは(なにしろ昔はジュニアファンタジーと呼ばれたくらいで)リアリティなど求められていない、必要なのは設定(キャラ設定/状況設定)でありそれが全てであったりする。
 そして人生経験のあまりない作家が、人生経験のあまりない読者向けに書いているためか時に、というか大概は、それらは過剰だ。

 たとえば「完璧なお嬢様」というものを描写しようとして『容姿端麗、スタイルは抜群でファッション雑誌のモデルを努めることもある、学業成績は学年トップ、踊りは名取りで剣道は師範の文武両道、実家は古くから続く名家であり、父親はその気になれば首相の首もすげ替えることができる財閥の長でもある』など、思いついたことを全部書きました的な描写になったりする。

 しかもそのように盛り込み過ぎでありながらも言っていることは妙に想定内であったりする、つまり庶民が想像(妄想?)するお嬢様像の集大成だ。

 そういった状況を踏まえてみると、先に述べた描写は「異常な母親に虐待され人格が歪んでしまった主人公」というラノベの設定に見えるのだ。つまり現実的でなく本当の事とは思えない。

 ラノベに書いてあったなら、私は「しょうがないなあまたこんな妄想垂れ流しみたいな事書いて」と思ったろう。


 問題なのは、これが実際に加藤智大くんの身の上に起こったということだ。
 想像するだけで頭がクラクラするような異常さである。

 先に書いた以外にも異常な事は多い。彼の母親は「理由を説明しないまま」罰を与えるのが常だったという、抵抗しても説明を求めても罰がエスカレートするので彼は何故罰を受けるのか自分で考えねばならなかったという。

 この「罰を受けたら受けた側がその理由を考えるべき」というのは彼の人格形成に多大な影響を与えたらしい。彼は友人に対して不満や怒りをおぼえてもそれを言葉にせず暴力などの直接行動に出るようになってしまったのだ。

 とはいえ実のところ「言葉によらず暴力にうったえる奴」までなら了承可能な範囲であるとも言える。
 彼は「突然切れる奴、どこに地雷があるかわからない奴」と思われていたのだが、そんな人間は時たま見かけるからだ。

 しかし、自動車整備士の資格を取るために通っていた学校を親に何の説明もなく辞めてしまった、と聞くとこれはもはや異常の域に達しているとしか思えない。
 なぜ彼が資格を放棄したかと言うと、自分がもらっている奨学金を父親が送金してくれなかった為だという、彼は「自分が資格を取ることを放棄すれば父親は自分の非に気づくだろう」と思い、親に思い知らせるため自分の目標を棒に振ってしまったのだ。

 つまり彼は、何ごとであろうと言葉で説明することをせず(この場合は父親に送金を要求せず)たとえ自分に不利益をもたらす結果になろうが事を起こして相手が気づくのを待つ人間だったということだ。

 ここまで聞くとやっと秋葉原事件の一端が理解できる(ような気がする)

 この事件で誰もが思うのは「何故掲示板で自分の居場所がなくなったら秋葉原で殺人を犯すのか」ということだ。
 これは自分が大きな事件を起こせば、掲示板で自分を非難した人間、自分を見捨てて去っていった人間は自分の非を認めるだろう、という彼にとって当然の理屈の上に成り立っているのだ。

 納得は出来ないが筋は通っている、彼は母親にそのように育てられてしまったのだ(これを「育てた」と言うのかはなはだ疑問ではある、そのように「歪められた」というべきなのかもしれない)


 人の心の闇は深く、1個の原因、1本の理屈だけで全てが説明できるわけもない、また虐待を受けた人間が全て歪むわけでもない、とはいえここに一片の真実があるのは確かだろう。
 あまりに重たいのでお勧めなど出来ないが読んで良かったと私は思っている。



 





 スパイダーマンはアメコミヒーローとしては年若であり悩めるヒーローである。
 これをサム・ライミが忠実に映画化し、未熟な高校生が精神的な成長を遂げ、ニューヨーク市民に受け入られていく様を描いたのが今までの3部作だった。

 どれも評判はよく、前作の「スパイダーマン3」はアメリカ興収歴代1位を記録した(翌年「ダークナイト」に抜かれたが現在でも歴代2位である)日本でも2007年の洋画部門で3位の成績を残している。

 更なる続編もアナウンスされていたのだがここへきて監督、主役ともに交代となりリセットされた。
 公式には主役のトビー・マグワイヤが30歳を越え「シリーズにそぐわなくなったから」ということなのだがまあそんなわけはない。
 なにしろ証券会社がこの交代劇によるソニーピクチャーエンターティンメントの株価への影響についてコメントを出すくらいなのだ、金の卵を産むニワトリなのだ。

 噂によれば会社と監督が次回作の悪役に対する意見の違いで対立していたというのだが、興収1位をたたき出した監督ですらクビにするんだなあハリウッドってのは、監督達がプロデュースに回りたがるはずだよなあ、と思ったところで新作の話である。


 リセット(制作者側はリブートと言っている)されたものの新展開が導入されたわけではないため、主人公ピーターがクモに噛まれて未知の力に目覚めるところから、自分の未熟さのせいで父親代わりの叔父さんが命を落としてしまうエピソードまでそっくりリメイクされている。
 こういうタイプのリメイクは「昔こどもの時に見たよなあ」くらいのスパンを経て行われるのが普通だ、風化によってもはや別物ということだが、これをまだ記憶が新しいうちにやられると、なんだかなー(どんなオトナの事情だよ)思えて仕方ないのであった。

 良くなった部分もある。
 実のところ世間一般の評判はともかく、わたし的には前3部作はイマイチという印象がある、それはとにもかくにもヒロインであるメリー・ジェーン(MJ)がそれらしく見えないからに尽きる。

 このMJ、気弱なオタクであったピーターの彼女であり、フットボール部のスター(アメリカの高校における支配階級「ジョック」である)に(一方的に)惚れられ、ピーターの友人で金持ちのボンボンであるハリーに惚れられ、大富豪であるハリーの父にも惚れられ、ピーターとうまくいかなくなった後には宇宙飛行士と婚約し、女優として成功してブロードウェイにも進出する。

 これはもう絶世の美女か、魔性の女か、はたまた超絶的イノセントかというのでもなければ納得できない無敵さ加減なのだがとてもそのようには見えない。

 キルステン・ダンストはマリー・アントワネットも演じたことがある女優でやれば出来る子なのだと思うが、このシリーズに於いては演出なのか、メイクなのか、はたまた衣装なのか、ごくごく庶民的なお姉ちゃんにしか見えないのだ、ファーストフードのアルバイトと言われるのが一番違和感がないだろう。
 にもかかわらずこれがシリーズを通して多くの登場人物達に影響を与えつづける絶対的ヒロインであるという、まったく感情移入できない。

 納得出来ないヒロインというのは作品に致命的な影響を与えるものであり、私がこの3部作に高評価を与えられないのは第一にそこに原因がある。

 興収歴代1位だったりするところを見ると本国ではそうじゃないんだろうなあ、と思っていたのだが・・・

 なぜか今度のシリーズ(続編がすでに発表されている)からはMJは排除されてしまった。これはキルステン・ダンストが今ふたつだったからではなく、リメイク感をなるたけ払拭し新味を出そうという作戦かもしれないのだが、ともかく今回からはグウェンドリン・ステーシー(通称グウェン)がヒロインに収まったのだ。

 グウェンは原作ではMJの前に付きあっていた彼女であり、美人で頭がよくいいとこのお嬢さんだ。映画では更にピーターより頭が良く、育ちが良く、気立てが良く、正義感があって行動力もある正統派の美人という設定になっている。生身の役者が演じるのは無理っぽくないかと思われる完璧超人ぶりだが、これをエマ・ストーンが見事に演じているのだ。

 ヒロインがちゃんと正当派ヒロインとして成立している、私はこの点だけでもこの映画を前シリーズより評価する。




グウェンとMJ、コミック版と映画版、こうしてみるとイメージ通りであり美人の基準が違うだけなのかもしれぬ
(しかしこれを高校生と言われても・・)
 


 と〆たっぽく語ったあとでなんだが。

 このスパイダーマンシリーズ、超人的能力を獲得したものの内面はただの高校生でしかない悩めるヒーローが人間的成長を遂げていくというまっとうな展開である・・にもかかわらず敵役は普通にアメコミ風にアホっぽい。

 今回も叔父さんが死んだり、科学者の世俗的な欲望と純粋な探究心について語ったり、社会正義とは何かと主人公が悩んだりするワリには

 「敵はトカゲ男なのかよ!」と思ってしまうのだ。

 トカゲ男の目的はトカゲ男の増殖であり、そのココロはトカゲは人間より優秀な生物だからというのだが、ほとんどショッカーの怪人レベルの理屈である。
 このギャップがスパイダーマンの魅力である、と言い切れるほど踏み込めない私はあいかわらず微妙な点数をこの映画に付けざるを得ない。

 1800円は高いよね、3Dだと特別鑑賞料金2200円?!そりゃヤメたほうが・・


 











 今年の夏の注目作2つを続けて見てきた。この2つの映画には多くの共通点がある、その一つはこれが長く続いた連続ものの続編であること、その中でもエポックメイキングな代表作にじかに繋がる話だということ、そしてその前作と同じ監督が撮るということだ。

 まず「ダークナイト・ライジング」だがこれは全米興収No2というヒットを記録した「ダークナイト」のまったき続編である。
 そして「プロメテウス」はエイリアンシリーズの続編だが、グダグダになって自然消滅した(のかな)「エイリアン4」の続編ではなく、初代の前に来るお話である。

 つまりこの2作はポスト・ダークナイトでありプレ・エイリアンなのだ。
 しかし「ダークナイト」と「エイリアン」はヒットしたというに留まらず、映画史に残り、いずれは古典となるであろう代物だ。
 こうした金字塔にダイレクトに連結する作品を作ろうとする勇気(と商魂)には感服するがさすがに無理があったのではないだろうか。

 古典ともなろうという映画には明快なテーマや骨太なストーリーがありそれは長くそのジャンルに影響を与える、別な見方をするとそれはジャンルの呪いでもあるのだ。

 後年の制作者たちは離れようとするにせよオマージュを捧げるにせよそれを意識せざるを得ない。
 ハード指向の宇宙ものがいまだに2001年の呪縛から逃れられないのは驚くべきだし、日本のロボットアニメはガンダムとエヴァンゲリオンから出外れる気配もない。

 エポックメイキングな作品というのはそれほどの吸引力があるわけだ、しかも今回はそういった作品の一つである「ダークナイト」や「エイリアン」に直にリンクする作品を作ろうというわけだ。
 うっかりすれば二番煎じになるし、力を込めすぎれば世界感を破壊してしまう。そもそも強い引力の働いている場所で「近づきすぎでもなく、遠すぎでもない」位置を保とうとするのは余計な労苦だ。
 映画は普通に面白い娯楽作品を作るだけでも至難であり、フィールドは死屍累々である。そこへ「世界観を踏襲しつつ、新たな展開を盛り込む(更に最近では「続編の可能性を残すべし」という要求もある)」作品を送り込め、というのは転ばず走るだけでも難しい競技に手枷足枷付きで出場しろと言うようなものだ。

 こうした状況によりグダグダになってしまった作品も多いなかで、この2作はしかし頑張っている。
 リドリー・スコットとクリストファー・ノーランはさすがの演出力というべきで映画全編を通じて緊張の糸が途切れることがなく、カメラワーク、照明、セットデザイン、コスチューム、デジタル合成も間然するところがない。

 充分に面白いと言える出来なのだが・・・まあ、相手が悪かったとしか言いようはないだろう。
 ダイレクトにリンクするお話である以上、直接比較されるのはやむを得ないのだが金字塔と勝負して勝てるはずはない、なにしろ相手は関係者がその持てる才能をフリーハンドで発揮した作品であり、こちらは手枷足枷なのだから。

 結局、シンプルに勝負すると二番煎じになるものだから必要以上に話を複雑化せざるを得なかった、というあたりが致命的であったろう。
 結果「ダークナイト・ライジング」も「プロメテウス」も『敵が何をしたいのかよくわからない』という欠陥が生じてしまった、どちらも映画の内容を200字以内で説明するのは不可能だろう。
 
 エイリアンが乗組員全員を殺せばエイリアンの勝ち、あるいはバットマンがジョーカーの野望を挫けばバットマンの勝ち、というような明快なゴールが見えない映画というのは娯楽大作として問題があるとしか言えない。
 
 登場人物達に形而上の悩みを(必要以上に)持たせるというあたりも映画の爽快感を減じさせている。

 結果、とうてい前作に及ばない出来であるとしか言えないだろう。とはいえこれは前作の山が高すぎるのであって、どちらも映画としての完成度は高く凡百の映画を観るよりよほど対費用効果は高く(?)見て損はないと思う。

 
 だだし「前作を観ていなくても楽しめる」と配給会社は言うだろうが、前作の知識が必須であるのは言うまでもない。


 


 
図版:小野不由美とあるから奥方が描いたのだろうが・・
奥さん、旦那のお手伝いしてないで新作お願いします


 と5月に書いたばかりでびっくり「著者九年ぶりの五〇〇枚書き下ろし、戦慄のドキュメンタリーホラー長編」(新潮社新刊案内より)である。


 さてところで小野不由美のことを「寡作さゆえの渇望感で勝手に期待を高めてしまい、新作をさも特別なもののように思ってしまうが、実際出てみると微妙な事が多い」と言った人がいるのだが言い得て妙である。
 
 たとえば「屍鬼」は小野不由美渾身の豪速球だったが低めに外れていた。代表作「十二国記」は無造作に増やしてしまった設定に世界観が行き詰まっている。前作「ゴーストハント・シリーズ」は原作にあったラノベなりの欠点が一般作にリライトすることで目立ってしまうというまさしく「微妙な」作品だった。
 思うのだがこの作家は大きく振りかぶって投げた球はコントロールできないのではないだろうか。


 というところで今作だが、これは渾身の力作ではなくいわばスローカーブをもう一球といった感じの作品だ。

 内容だが、ホラー作家である「私」が読者から怪奇現象についての情報提供を受けるところから始まる。
 それは最初「自分のアパートの一室から畳を擦るような音が聞こえてくる、背を向けていると聞こえるが振り返ると何もない」という、どちらかと言えばありがちなものだった。
 「私」は気のせいではないかと答えるのだが、その人から「あるとき振り返った一瞬オビのような布が見えた気がする、以来和服の女性が首を吊り、ほどけたオビが床を擦っているイメージが頭から離れない」と聞いて思い当たることがあった。

 かつて別な読者から「2才になる自分の娘が何もない宙を見つめている、訊くとたどたどしい言葉で「ぶらんこ」と言う、娘にはそこにぶら下がって揺れている何かが見えているらしい」という話を聞いた覚えがあったからだ。
 調べてみると果たしてそれは同じアパートの別な部屋の話であった。「読者」(音が聞こえる報告をしてくれた読者)がたずねてみるとその家族すでに引っ越していた、越してきてわずか9ヶ月という異例の短さだった。それをきっかけに近所で聞いてみるとアパートではその部屋を含めて人が居着かない部屋がいくつかあるのだという。
 彼らはことによって怪奇現象に遭遇し、早い転居を強いられたのだろうか?
 「読者」は自分の部屋の前の入居者から話を聞こうと思い、人を頼ってその人物の居所を突き止める、しかしその人物はすでに死亡していた、引っ越し先で首を吊って・・・

 地味だが怖い話である。以降「私」と「読者」が2人して事の真相を求めて歴史をさかのぼる過程が描かれるわけだが、これが地道でリアリティがある。

 こういったホラーものでは人や土地についての調査を行うシーンがよく見られる、しかしその過程は剛速球的ホラーではサラっと流されることが多い。
 たとえばゴーストハント・シリーズではイケメンにして頭脳明晰、口八丁手八丁の安原君が「図書館で調べた事と地元の老人から聞き込んだ話によれば・・」などと簡単に報告してくれるわけだ。語るべき事は多くあり、調査の過程など縷々説明しても冗長になるだけで仕方ない所だが、実際にはそんなにうまく行くわけはないのである。

 公権力でも探偵でもない一介の民間人であれば、昔そこに住んでいた人が今どこに居るか調べるだけでも大変である、古老に尋ねると簡単に言っても土地勘のない場所では誰が何を知っているのか知りようもない。
 そもそも見ず知らずの人間に地元の因縁話をすらすら話す人間もいないだろう。

 実際には地道にツテをたどっていくしかないわけで、時代をさかのぼればさかのぼるほど事情を知る人が少なくなり、人の記憶も曖昧になっていく。結局歯抜けのような断片的な情報が集まってくるだけだ。
 しかし、今回はその歯抜けの情報を付きあわせてみると大きな恐怖の片鱗が見えてくる。
 当初ささいな怪奇現象と思われたことの背後には底知れぬほど深い闇があり、祟りと呪いがある、そして「私」と「読者」は知らぬ間にその真っ只中に足を踏み入れていたのだった、というくだりは大変に怖い。

 また剛速球的ホラーのように明快な解決がないのもリアルである。
 たとえば『館を支配していた悪霊は昔死んだ土地の御領主様だった。彼は生前「吠える巨人」という別名もあった男なのだが、実は背が小さくそれをを苦にするあまり、自分の足を切り落として義足を付け矮躯であることをごまかしていたのだ。そして主人公にその事実を喝破されると自我崩壊(?)して消滅してしまう』などということはない。

 全ては時の流れに埋もれ、たぶんこういうことだったのだろう、おそらくここがそうだったのだろうというままに終わり、「私」や「読者」に降りかかる災厄も、持病が悪化しただけとも取れるし運が悪かっただけと思えないでもない、で終わってしまう。
 多くの怪談がそうであるように明確な始まりも終わりも納得できる結末もないまま不気味な事実だけが残る、というのはリアルであり地道に怖い。



 と言ったところで最初に戻るが、変に力を入れてないが故にこの作品の完成度は高い、小野不由美作品にありがちな、大変に面白いのだが大きな穴もまた開いている、ということがない。
 そして改めて思ったのだが、この作家は日常感覚がきわめて優れている。
 ホラーものにはよくあるのだが「こんだけの怪奇現象がおこっているのにまだそこから逃げ出さないのかよ?」とか「見ず知らずの人間にそこまで家の不始末を話すか?」という違和感がこの作品には無い。
 独身であれば気のせいで済ます奇妙な出来事も、小さい子どもを抱えた母親であればとうてい見過ごせない、など納得できる描写も多い。

 作品では、怪奇現象を追いかけていった結果「私」と「読者」はシャレにならないヤバイ領域にまで踏み込んでいってしまうわけだが、これも「なんでそこまで」という印象はない。「たいしたことではないがちょっと気になる」とか「ここまで来たら調べないでは終わらない」という感覚が日常感覚から出外れないのだ。
 このため「読者」はきわめてなめらかにホラーのまっただ中に連れ込まれてしまう、技法も含めたいへんにうまいと思う。

 ここで思い出されるのが前作「ゴーストハント・シリーズ」の6番「海から来るもの」のイントロだ。
 冒頭、主人公麻衣ちゃんの働く「渋谷サイキックリサーチ」に幼稚園児ほどの女の子を連れた依頼人が現れる。姪である彼女の背中に文字の形をした湿疹が現れたのを見て欲しいというのだ。
 その文字とは「喘月院落獄童女」
 「海から来るもの」でも、原作たるラノベ版「悪霊と呼ばないで」でもサイキックリサーチの面々はその意味に付いて語る。曰く「喘月とは太陽の暑さを恐れる牛が月を見ても喘ぐ様を言い、愚かであるということ、落獄とは地獄に落ちるということ」つまりこれは「愚かな子供は地獄に落ちる」という意味の戒名だ、ということなのだが、原作ではこれをその女の子の目の前で言っていることになっている!いくら相手が幼稚園児であるとは言えそれは非常識だろう。
 しかしローティーン向けのホラー仕立てラブコメディを書いていた若かりし小野不由美はそれに気づかなかったのだ。

 しかしリメイクするにあたって、小野不由美は彼女を部屋からそれとなく連れ出す描写を書き足した。この20年で社会人としてまっとうな日常感覚を身につけたのだろう・・・と、これを読んだ時に思ったのだった。

 ゴーストハント・シリーズはドラマのはっきりした本格ホラーなので、こういった細部に多少の緩みがあってもお話は成立するだろうが、今作などはこうした日常感覚が読者とズレていたらまったく読む気を失わせるものとなる筈であり、ある意味今の小野不由美にして書けた一作であると言えるだろう。
 
 そういう意味でも一読の価値はあると言えるかもしれない。


 とはいえしかしこれはメリハリの効いた怖さがある作品ではない。作品をコンスタントに発表しつづけるホラー作家なら時にこんな変化球があってもいいね、と言えるのだが、9年ぶりの新作書き下ろしがスローカーブをもう一球ってどうなの?と思わないでもないわけだ。

 
 
 


 ソニーのReader、アマゾンのKindle、楽天のkobo、ブックライブのLideoと電子ブックリーダーもにぎやかになり、来年にはついに電子書籍がブレイクするかとも言われているのだが果たしてどうなのだろうか。

 私は実体のある書籍を所有することにこだわりがあるし、そもそも書籍-この場合は特に小説を念頭に言うわけだが-は装丁(表紙、扉、帯などのデザイン)から、本文の書体や字組、用紙まで含めて「本」であるわけで、本を読むという行為は「コンテンツを利用する」という言葉とイコールではない。
 本好きであれば自分の愛読書、何度も読み返した本がそのカバーイラストや判型、手触り、重みを含めて「幸福な読後感」を構成していることを知っているはずだ。


 とはいえしかし、読みたい本がすぐ手に入るとか、ただ単に書籍を持ち歩くよりかさばらないとか言う利点を越え、読みたい本がいつでもどこでもすぐに読めるという時代になればこれは読書という行為の質を変えるかもしれない。

 手本は音楽鑑賞にある。
 かつて音楽は麗々しいレコードプレーヤーの前に腰を据えじっくりと聞くものだった。これは教条主義でも原理主義でもなく、ただただ「良い音」で音楽を聴くために必要だった行為なわけだが、携帯音楽プレーヤーがこれを激変させた。

 まずはウォークマンが音楽を外へ持ち出した、外でも良い音で音楽が聴けるという可能性を示したのだ。
 しかしそれでも外で何を聞くかはあらかじめ決めておく必要があった、かつてのカーステレオもそうだったのだが、その日の気分に合わせて持って出るカセットを決めたり、いろいろな曲を横断的に聞きたいなら自分でベストミックス版作っておく必要があったわけだ。そこへiPodが「全ての音楽を手元に置いておく」という可能性を示した。
 メモリータイプの音楽プレーヤーは今iPod、ウォークマンともに64Gが最大だが、ソニーによれば128kbpsで記録すると1曲4分として16000曲ぶん記録できると言う。
 CD1枚を10曲とすれば1600枚分であり、並の音楽好きならまずもって手持ちのほとんどを持ち出せる容量だろう。

 つまり今や音楽は「いつでもどこでも」に加え「自分が持っている音楽は全て」聞ける環境が整ったということだ、これは凄いことだ。

 音楽もCD化→携帯化することによってジャケットのアートワークが楽しめなくなったという弊害はあるのだが、これはそれを補ってあまりある利点だろう。

 で、書籍である。仕様が基本的に同一であるレコード・CDと、判型、紙質、厚み、字組、書体までデザインの余地がある書籍では事情が違うのだが、それでも自分が持っている本を全て持ち歩くことが可能になり「いつでもどこでも何でも読める」環境が整えばこれは読書の質が変わる可能性はある。

 他人はどうかしらないが、賛同してくれる人もきっと居ると信じるが、私は昔むかし読んだ本の一節を、一節だけを激しく読み返したくなることがある。

 田所博士が謎の老人にウェゲナーの大陸移動説を説明するくだりが読みたいナー

 とか突然思うわけだが、実のところ古い本を探すのは大変だ、自分の家の中のことだけど。

 そもそも書籍はかさばるので置き場所に困る。で、あまったスペースにどんどんと棚を作り分散して置いてどこに行ったかわからなくなる。
 また市販の本棚は奥行きがありすぎる、で、しまいには2列になって奥が見えなくなる、20年以上前に読んだ本などは混沌の彼方に行ってしまうわけだ。

 ということで我が家では近年これを刷新、書棚を各部屋に作らず、書庫(!)で集中管理しているのだが、これを可動式書庫にしたものだから一覧性が悪くやはり検索性が悪い。





我が家の可動書庫、
12面ある棚の2面しか見えないため、少し見つからないと別の場所かもと思ってしまい、
結果ゴロゴロと本棚を移動させつづけることになる。
奥は文庫・新書棚だが通路が開いている部分しか見えないのでやはり一覧出来ない。


 ・・・・・まあ、我が家の事情はともかくとして。

 今のところ、どこの誰であろうと読みたい本がすぐに探し出せるとは思えない(本好きであればあるほどに)これに革命が起こり、自分の持っている小説を全て持ち歩くことが可能になり、検索が一瞬で済み「いつでもどこでも何でも読める」ということになるならば私は悪魔に魂を(おおげさな)売るかもしれない。

 ということは言い換えれば持っている本が全部電子化するなら、ということであるわけだがこれはつまり「無いな」ということでもある。

 そもそも先に述べた電子ブックリーダーだが、これはデジタルギアとしてどれが優れているかという争いではない。
 雑誌の特集などではどのリーダーの電子ペーパーが読みやすいとか重さがどうとか電池の持ちがとか比較されているが、そんなことはどうでもいい。
 自分の読みたい本がそのリーダーで手に入るかどうか、これ以外に注目すべきポイントはない。

 つまりどの陣営が一番コンテンツを持っているかという争いなのだが、これが今のところ混沌としておりオールラウンダーなコンテンツホルダーはいない。
 今のところ凸版印刷系のBookLive!が一等地を抜いているがそれでも蔵書数約7万冊である、ソニーのReaderStoreが4万5千、アマゾンが3万5千、参考までに言うと池袋ジュンク堂は150万冊、我が町の中央図書館でさえ一般、ティーン、児童書で28万冊というのだから電子書店の品揃えは圧倒的に弱いわけだ。

 (楽天のkoboイーブックストアはコミックを含め6万9千冊と言うのだが、ここは立ち上げの際、蔵書数に水増しがあったとして消費者庁から行政指導を受けているし、その後も1万以上あるギター譜を1曲1冊として、写真を1枚1冊として、ウィキ上の作家情報を1人1冊として登録するなどしているので一般書籍の実数はかなり少ないと思われる)

 つまりこのブックストアはあの本はあるけどこの本は無い、という状態であることが予想されるわけだ、で、リーダーが横断的に各ストアを回れればいいのだが(実店舗でもありうる本屋のはしごだが)そうはなっていない。
 
 Kindleで読めるのはKindleストアだけだし、リーダーで読めるのはReaderストア、Koboはkoboイーブックストア、LideoはBookLive!だけなのだ。

 ちなみに角川グループもBOOK☆WALKERという電子ストアを持っていて、傘下のラノベやコミックなど「ほかには無いラインナップ」の蔵書を誇るのだが、恐ろしいことに先の電子ブックリーダーではどれもこれを読めない!
 これを読むにはiPadかアンドロイド端末が必要であり、ブックリーダー的に持ち歩くことを考えるならipad mimiかNexus7の2択なのだ。
 つまりラノベも読みたいけど貴志祐介も読みたいとなれば端末を2つ入手する必要がある、それは無い。


 等々書いてきたが。言いたいことは要するにこのままじゃダメだろうということだ、まるでブルーレイ対HDDVDの対決を見ているようでユーザーとしては様子見するしかないだろう。

 
 ということでジェフリー・ディーヴァーである。この「バーニング・ワイヤー」はリンカーン・ライムシリーズの9作目にあたり、出たら内容を吟味することなくディフォルトで買う作品の一つである。

 かつては内容を吟味することなく「ディフォルトで買う作家」というものがあり、ディーヴァーもその一人だったのだが、いろいろとあって今やその名だけでで買う作家はほとんど居なくなってしまった(貴志祐介頑張れ)


 さてしかし、四肢麻痺患者であり車椅子から離れられない身でありながら現場から採取した微細証拠の分析だけで犯罪にまつわる謎を快刀乱麻に切って落とすスーパーヒーロー、現代の安楽椅子探偵・・だったのは初期の2~3作までであり、今や科学分析はサイドに回り、一癖も二癖もある刑事達の群像劇となり、知的犯罪者と警察の丁々発止の騙し合いであり、絶対絶命の危機から奇跡の逆転や、大どんでん返しを楽しむシリーズとなってしまった。

 犯罪はゲームで死体は将棋のコマであるような、その意味では日本の本格推理に通じるきわめて技巧的な(アーチスティックな)シリーズである。

 こういった人工的な世界観は好きなのでディフォルトで買っているのだが、どんでん返しもまたディフォルトで仕込まれているのでもはや驚きはない。

 さて今回はバーニング・ワイヤー、燃える電線てことで、送電線を操って感電殺人を起こすシリアルマーダーが相手である。

 例のごとく相手は知的犯罪者であり、事件の初期にはまったく手がかりが掴めない。しかし犯罪者の心理を読み切ったライムの洞察力と微少証拠の精緻な分析によってついに犯人のプロファイルが明らかになる、この一連のくだりに私はこれぞリンカーン・ライムシリーズの醍醐味!と感動しかけたのだが、心の片隅から「いやこれは違う」とささやく声が聞こえた。ライム並の洞察力?いや、そうではない、そこが本の厚みのちょうど半分だったからだ(!)

 ディーヴァーが残り半分を犯人に対するマンチェイスだけに費やす筈はない、と私は確信したのだったが、そのとき「これが電子書籍だったらどうだったろうか?」と思ったのだった。

 電子書籍であっても全ページ数と残りページ数は表示されているのかもしれないが(すみません調査してません)本の厚み、栞の位置というのは極めて直感的な情報であって、このエピソードが終わればおそらく後は一気呵成だろうとか、まだまだ背景説明のつもりだろうなとかいう情報を読者は無意識の内にも頭に入れて本を読んでいる(たとえばの話、短編だと思い込んで読んでいたら意外に長かった作品は途中強い違和感を感じる)これが直感的でなくなった時の読書というのはどんなものだろう?

 終わりがどれだけの早さで近づいてくるかわからず読む小説って、不気味な気がするのだがどうだろう?

 などと考えさせたのが今回の収穫だったと言えるかもしれない(ひどい)


 本作だが、犯人は絶対にこいつだと読者に思わせておいて、以後ひっくり返すこと2回、9作を数えるシリーズで読者の意表を突くのはもはや無理だと作者も思ったのかもしれないがディーヴァーにしてはおとなしい展開である。
 もちろん、安定した語り口であって目新しいことはないがそれなりには面白い、あまり褒めてるようには見えないだろうが安心のブランドというのは貴重なのだ。

 




 
 
 エヴァはTVシリーズ公開当時「社会現象」とまで言われた。
 日本には数々の有名/名作/ヒットアニメがあるわけだがその中でも異常と言えるほどのブームを呼んでいたわけだ、私はこれを誰が見ても自分の物語を投影できる仕掛にあると思っていた。

 このアニメには神話、軍事、生命工学、政治、組織論、その他もろもろのジャーゴンがちりばめられていてその実体はつかみ所がない、実のところ制作者達もスタートした時点ではこの物語をどこへ持っていくのか決めかねていたのだと私は思っている。

 実際8,9話の絵コンテを担当した樋口真嗣が「企画書見せられて普通のロボットものだと思ってコンテ切っちゃった」と言っているのだ(ガメラ2製作当時、直接聞いたので間違いない)これが身内をも騙す遠大な陰謀の一角であり、庵野秀明が指を組み合わせて「計画通りだ」と呟いていたなら別だが多分そうじゃないだろう。

 つまりはどうともなるように、どうとも取れるようにネタを振りまくって、問題を先送りしていたというのが実体ではなかったろうか。

 さてところで話は変わるが、よく出来たお化け屋敷というものは客の想像力を利用するものだ。たとえどんなによく出来たお化けであろうと、それが個々の客の怖さのど真ん中に来る保証はない、したがってそのものズバリを見せるよりは、どんな怖いものが出てくるだろうか、こんなものが出てきたらイヤだなと思わせたほうがいいのだ、何故ならその人にとって一番怖いものが何かは当人が一番よく知っているからだ。
 そういう意味で私が一番よく出来ていると思ったお化け屋敷は今は昔「船橋ヘルスセンター」のお化け屋敷だったのだが話が逸れすぎるので閑話休題する。

 何が言いたいかというと、このアニメは神話オタク、ミニタリーオタク、巨大ロボ好き、社会学から萌えオタまでがそれぞれ「これこそ俺のためにある(俺にしかわからない?)アニメだ」!と思ってしまえるような仕掛に満ちていたということだ。

 しかし、誰もが自分の趣味を投影出来る、ということは見方を変えれば誰もが割り切れない部分を抱えざるを得ないということでもある、それがこの作品にあってはかえって懐が深い、哲学的な「ただのアニメではない」作品だという印象を与えたと言えるだろう。身もフタもない言い方をすればこれは奇跡的にすべてが良い方に転んだ作品だったということだ。

 
 さてしかし狙ったかどうかはともあれこのアニメはそのように進むべき方向を曖昧にしたためドラマが曖昧になってしまっている。
 本来娯楽作品というものは前へ前へと進むダイナミズムで観客を引っ張っていくものなのだが、この作品にはそれがない、どこかへ進んでいるようには見えるのだが、行く末が見えない、勝利条件のわからないゲームをしているようなものだ。
 つまりここにはストーリーがなく状況だけがある。

 そしてこの状況は不条理劇のそれと言ってよい、少年が別居していた父親の元に呼ばれて行くが、巨大ロボットに乗れと言われるわ、父親は会話を拒否するわ、この世のものでない怪物に殺されそうになるわ、、出逢った少女は無表情で取り付く島もないわ、学校に編入すればいきなり同級生に殴られるわとまったきのカオスである。

 これはつまり「先ざきどうともなるように」登場人物の誰にも確定的なことは言わせない作戦だったわけだ。
 とはいえこういう巻き込まれ型の主人公がいきなり不条理な環境に放り込まれるというお話はけっこうある。
 実際、エヴァを作るにあたってリスペクトしたと庵野自身が公言している初代ガンダムもそれだ。

 ただ、世界が不条理であろうと主人公だけはまともであり、観客は彼(彼女)に感情移入しつつ作品世界に入り込むというのが通常なのだが、このエヴァはそうではない。
 アムロ君もいい加減後ろ向きの性格だったがシンジ君はその比ではない、ついていけない程に後ろ向きでケタ外れにマイナス思考で、理解不能なまでに自虐的なのだ。

 不条理な世界に共感不能な主人公、そのまま行けばこれは電波アニメとして名を残したと思う。
 しかし、このカオスな世界の中でただ一人ミサトさんだけがまっとうな人間だった。
 明るくて元気で責任感があり、優れた判断力と決断力により現場指揮官として信頼され、ストレスを晩酌で発散し、家事は壊滅的で、父親との関係にトラウマがあり、他人の痛みを感じとることの出来る彼女はジャーゴンを呟くだけの登場人物達の中にあって、ただ一人観客の理解出来る言葉を発する人間だった。

 ミサトさんがシンジ君を見て思うことが観客のそれと一致していることによってかろうじてシンジ君は主人公たり得ていた。彼女は見ている人を置き去りにしてどこかへ行ってしまいそうなこの作品のアンカーだったのだ。

 この造形は秀逸だった、私はこの人物造形のおかげでエヴァは成功したな、ミサトさんがいる限りなんとかなるな、と思っていたのだった・・・・・・・・・・・が。

 
 衝撃!

 
 Qでミサトさんが理解不能な人達の仲間入りをしてしまった。

 理解不能人間のみで進行する不条理劇、安定した立場も視点もなくただただ翻弄されるだけの観客、いったいこの映画のどこをどう見ればいいのだろうか。

 ミサトさんがどれだけ重要な立ち位置だったのかまさか製作者達は理解していなかったのだろうか、理解した上で唯一のアンカーを切り離し、世界の連続性を断ち切り、観客を混沌にたたき込むのが狙いだったのだろうか。

 悪いけど狙いだとしたらうまくいっていないと思う、というか普通に作品をコントロール出来ていないと思う。

 この映画を見たあと何人かに「どう思う?」と聞いたのだが、みな口をそろえて「何で誰もシンジ君に説明しないんだよ」と(私と同じ)疑問を口にした。
 シンジ君にエヴァに乗って欲しくないなら、そう思っている人は、何故乗って欲しくないか言えばいいのだ。初代TVシリーズよりは随分と大人に性格設定されている新劇場版シンジ君なら納得できれば乗らないだろう。

 また、そのようにずいぶんとまっとうになった筈のシンジ君なら「僕がエヴァに乗ってはいけない理由を教えてください」と言うと思うのだがそうなっていない。
 これは見ている者にとってストレスである。

 旧作品中ではこういう時ミサトさんが「気持ちはわかるけど今は信じて」というような事を言ってくれ、立ちかけた腹をどうにか納めて観客は付いて行ったのだが、今回はその安全弁も破壊してしまった、結果残るのは映画鑑賞中消えることのないイライラである、これはストーリーに没入したために作品世界から受ける不快感ではなくメタなストレスである。

 映画鑑賞中に「シナリオライター仕事しろ、つうかこの違和感に関係者は誰も気づいていないのか?」などと観客に思わせることが映画にプラスである筈はない。
 もし狙いだったと言われても首肯できないが、まあ普通にミスったのだと思う。


 更に言うと、おなじみのキャラクター達にあえて新顔を加え、前作では鳴り物入りで登場したマリちゃんが2作続けて空気なのは何故なのだろうか?

 破のあと公開された「予告編」と今作がまるで違っている(「予告編のこのカット本編にはなかったねえ」ということはままあるが、今回はそもそも舞台も世界観も違っていた)のは何故なのだろうか。

 ちゃんとコントロール出来てない感が漂うのは私の思い過ごしなのだろうか?


 まさかまた走りながら考えているんじゃないだろうな。