「『スター・ウオーズ』はカッコよかった、自分でもああいうのが作りたい-そういった
思いこそが娯楽作品作りの原動力である。
 (中略)
 テレビ番組や映画の製作現場では、ディテイルの説明のために過去の作品が引きあいに出されることが多い。だから、エンタテインメント製作に携わる者は、過去の作品について、膨大な知識と記憶を待っていないと、仕事にならない」
 

「馬場康夫」







      
  映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
遊星からの物体X ファーストコンタクト    
ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上    
  スタート!  
  丕諸の鳥(ひしょのとり  
009 RE:CYBORG    
パシフィック・リム    
ワールド・ウォー Z WORLD WAR Z   
アナザー エピソードS   
終物語(上)   
オブリビリオン    





 




 ジョン・W・キャンベルjrの短編SF「影が行く」(Who Goes There?)は今までに2回映画化されている。
 1回目は1951年公開の「遊星よりの物体X」(通称「ハワード・ホークス版」)でありこれを小学生低学年の時TV放送で予備知識もなく見てしまった私は 「それ」(The Thing) が高圧電流で焼かれてのたうち回るシーンを見て心底びびった。





 その衝撃により「これは傑作だ!」と信じていたので(まあ普通に評価は高いわけだが)1982年にジョン・カーペンターがリメイクすると聞いた時にそれはどうよ?と思ったものだった。傑作といわれる作品のリメイクが前作を越えることはめったになく、時に大失敗するものだからだ。

 ジョン・カーペンターは当時「ハロウィン」「ニューヨーク1997」「ザ・フォッグ」と立て続けにヒットを飛ばし若手の成長株だったわけだが、私としてはこれらを細部の作りが甘い今一つの作品というイメージしかなかったので、余計大丈夫か感があったのだ。

 しかし

 「遊星からの物体X」(The Thing)は傑作だった、なによりイケイケ(←80年代のはやり言葉)のカーペンターと弱冠22才、映画2作目の特殊メイクアップアーチストのロブ・ボッティンがノリノリ(同上)で作ったビックリ箱のような娯楽大作になっていたからだ。
 実際、私はスペシャルメイクアップ技術がこの映画よりうまく生かされている作品を他に知らない。まあそのためこの映画はカーペンターの映画というよりはロブ・ボッティンの映画と化しているのだが、よく出来た映画であることは疑いようもない。

 面白いのはこの映画、見世物としての側面を突き詰めたような映像オリエンテッドな作品でありながら原作にかなり忠実ということだ。

 原作は「ブリザードで外界と隔絶してしまっている南極基地に他の生物を完全に擬態できるエイリアンが紛れ込んでしまった。エイリアンを判別し殲滅できれば人間の勝ち、全員乗っ取られるか、一匹でも外部に脱出させてしまえば人類の負け(地球は乗っ取られる)」という勝ち負け判定のはっきりしている限定シュチュエーションのホラー&サスペンスだ。
 この、仲間のうちの何人かはすでにエイリアンに乗っ取られている、しかしそれを判別する方法はあるのか?!という隊員たちの恐怖とサスペンスという原作のテイストが完全に再現されているのだ。

 これは傑作だ!と信じていたので前日譚が作られると聞いてそれはどうよ?と思ったのだった。

 リメイク・続編だらけのハリウッドだが最近はネタに困ったか前日譚が散見されるようになった。最近公開された「プロメテウス」がその典型だしターミネーターシリーズもその仲間なのだがこれらの映画には似たようなテイストがある、それは「いかにも苦しい」ということだ。

 司馬遼太郎は「小説という表現形式のたのもしさは、マヨネーズをつくるほどの厳密さもないことである」と言ったが、映画も同じであると言ってよい。面白くするためならなんでもやるしなんでも出来るというのが映画のいいところだ、すべての映画製作者はその覚悟で臨んでいるはずだ。
 しかし、にも関わらず時に映画は失敗する、ならばそのようなシビアなビジネスに最初から足枷をはめてうまくいくはずもないのだ。

 続編がたいていの場合前作を越えられないのは、スタート地点に縛りがあるからだ、その時代設定、舞台設定、人物配置は前作のストーリーのために最適化されたものであって、それを引き継いで別なお話を作れというほうが無茶なのだ。

 しかしそれでもまだ続編ビジネスには可能性がある、離陸さえできればあとはフリーハンドが保証されているからだ、つまり話をどのように展開させ、どこに着地させるかは自由だからだ・・・といえば、前日譚が苦しいのも理解できるだろう。
 なにしろ時代設定、舞台設定、人物配置などは前作を引き継ぎ、さらに着地地点までも決まっているのだ、これで面白くしろというのは無理ゲーと言ってよい。

 「スターウォーズ」のエピソード1~3も状況は似ている。エピソード1はまあまあ面白く始まったのだが、エピソード4、つまり最初の「スターウォーズ」に近づくにつれお話がおかしくなっていき、高潔にして最強だった筈のジェダイ騎士団は、愛と使命の間で揺れる若者の苦悩にまったく頓着しない冷たい組織であり、裏切りものの存在に気付かず、寝首をかかれるやあっという間に壊滅する硬直した団体に化してしまった。「スターウォーズ」は前日譚ビジネスとは少し違うのだがこれもまた出口が決まっている作品の苦しさを物語っているといえよう。

 しかしそれでも「スターウォーズ」は3と4の間で時間が飛んでいる、つまり整合性についてそう突き詰めて考える必要がない、しかし「遊星からの物体X ファーストコンタクト」は前作の前3日間の話だという、つまり直結だ。
 これはキツイまるで期待できない、というわけで劇場には行かずレンタルを待っていたのだった。

 それで正解だった。

 ともかく全編がんじがらめ感が漂っている、何しろ3日前という設定なので入口も出口もすぐそこだ、おまけに前作の謎を解きますとばかりに前作の印象的なシーン、カットについて律儀に寄り道をして「説明」してしまっている。

 「プロメテウス」が都合の悪いことについては説明を放棄し、あるいは矛盾を放置しているのと対照的なのだが、どっちも苦しさが全面に出ているのは変わりない。

 せめて前作に伍するヌラヌラのギトギトのエイリアンを見せてくれればいいのにと思うのだが、そこも妙に抑制的であって見世物感が足りない。結果今二つな作品に仕上がってしまった、前作のファンであれば「お、あれをこう見せたか」というような楽しみもあるのだが、1本の映画として見た場合それだけではまずいだろう。




左はハワード・ホークス版のThe Thing  けっこうイケメンである、
右はカーペンター版ではもっとも有名なノリスの頭、今作ではこういったキメ顔が一切ない所が物足りない
 

 ということで、当たり前すぎるのだが、前作を見ていない人にはお勧めできない。
 前作のファンであるなら(そしてレンタル程度の出費なら)見れば面白い(かもしれない)

 前作を見ていない人でレンタルを考えている人がいるならこれを借りるより前作を借りたほうがいいと言っておこう。




原作を読み返そうと思ったら書庫に見当たらなかった
仕方ないので買い直しましたよ、ハヤカワの銀表紙

 ps
 ところで前作、今作ともに原題は「The Thing」なのだが、どうしてこういうマネをするのだろうか?英語圏の人間は混乱しないのだろうか。


 

ニンジャスレイヤー
ネオサイタマ炎上

ブラッドレー・ボンド+フィリップ・N・モーゼズ






 ヤンキーはニンジャが大好きだ。
 メジャーリーグで活躍する日本人はすぐ「ニンジャ」と呼ばれる。

 日本のニンジャスクールに留学するのを夢みているブラジルの少年の話を聞いたことがあるから、それはアメリカには限らないのだろうが、ともかくアメリカ人は格別にニンジャが好きなようだ。ニンジャスクールは各地にある(らしい)し。また「ニンジャスクールの生徒暴漢を取り押さえる」的なニュースも定期的に見る。

 さてトム・クルーズ主演の「ラストサムライ」という映画がある。西南戦争をベースに旧士族と明治政府の戦いに巻き込まれたアメリカ軍人(元北軍)のお話である。「ダンス・ウィズ・ウルブス」のインディアンを侍に、騎兵隊を新政府軍に置き換えただけのようにも見えるが(どちらも、南北戦争で心に傷を負った北軍軍人が、高い精神性を持った少数派の戦闘民族の中で自分を取り戻すというお話だ)
 この映画、武士道精神や明治初期の日本の風俗などをかなり正確に描き、明治天皇の扱いなども過不足なく、時代の本質に迫った傑作である。

 であるのだが

 なぜがニンジャが出てくるのだ!、それもアメフトのような赤揃えのプロテクターを身に付け、集団で空を飛び(!!、一応ジャンプなのだが、十数メールは飛ぶ)武家屋敷の瓦をぶち破り、天井を突き破って屋内に侵入してくるのだ。目が滑るとはこのことであり、このシークエンスだけ浮きまくっている。

 この映画、真田広之(スーパーバイザーでもあった)他コーディネーターが日本人が見ておかしい部分がないか細かく意見を述べていたというのにこれは一体どうしたことだ、と言えば、つまりは日本のチャンバラ映画にニンジャが出てこないではアメリカの観客が納得しないということなのだろう。

 というわけで、ヤンキーはニンジャが大好きだ、日本に居た(居る?)と信じているし、今でも学習することでニンジャのワザを手にすることができると信じている(らしい)
 そういう信者に「日本にニンジャはいないよ」と言っても「ニンジャは居るけど君の目には見えないだけだ」と返されるだけなので意味はない(らしい)


 さてそのようなニンジャ大好き外人が、ニンジャや日本、東洋趣味に過大な夢と希望と妄想を膨らませて書いたのがこの「ニンジャスレイヤー」である。
 翻訳化権を取った翻訳グループがtwitterで順次発表していたものだが、あまりの人気についにエンターブレインが書籍化したのが本書というわけだ。


 ではその内容である。

 時代は近未来、日本は磁気嵐と殺人マグロの繁殖によって空路、海路ともに閉ざされ鎖国状態に陥っている。

 そしてサイバネテック技術が高度に発達しているが、富は一部の企業とセンタ試験に合格したカチグミサラリマンが独占しており、マケグミサラリマンや浮浪者が徘徊するスラムには重金属酸性雨が降りしきる・・とまあ、テンプレートなブレードランナー的、サイバーパンク小説だ。

 主人公フジキド・ケンジはソウカイ・シンジケート擁する悪のニンジャ組織に妻と子を殺され復讐を願う忍者殺しの忍者「ニンジャスレイヤー」である。


 とまあ軽く紹介しただけで怪しい言葉が出てくるわけだが、この「センタ試験」とか「カチグミサラリマン」というのはミスタイプではない、誤植でも翻訳グループのミスでもなくいわゆる「原文ママ」らしい。

 ニンジャ達が投げる手裏剣は全部「スリケン」と書かれているが、直径2メートルの「ダイスリケン」を使うニンジャの名前は「ヒュージシュリケン」と表記されているので、要するにそれらしければ(ネイティブでない作者達にとってそれらしい語感であれば)細かいことは気にしないで書かれているということなのだろう。
 日本でも、外国の地名、人名などはそれっぽい響きというだけで付けている場合があるのでお互い様かもしれない。


 ただ、こういった原作のミスは翻訳の際に直してしまうのが普通だと思うが、この小説の場合は、単語の怪しさと内容の怪しさが怪しい魅力を生んでいると見た翻訳グループがこれを原文ママで出しているわけだ。

 この判断は間違っていない。というか、単語と内容どっちも怪しいためにバランスが取れており、単語のみを修正したら読めたものではなくなるかもしれない。

 どういうことかわからないと思うので、以下を読んでいただきたい。

 ギンイチは路上を見渡す。そして朱塗りの瓦屋根を発見した。マッポ・ステーションだ。
「タスケテ、たすけてください!」両開きのフスマ式自動ドアーを開け、ギンイチは中へ飛び込んだ。デスクのスズリで墨を磨っていた若いマッポが立ち上がり、「どうしました。君ぃ。IDを見せなさい。ダメでしょうが子供がこんなウシミツ・アワーに…」


「五十歩百歩、虻蜂取らず……」一方その頃、ピラミッドのごとく聳え立つカスミガセキ・ジグラットのハイテク談合ルーム内では、ラオモトが独り、ボンボリモニタの灯りの下で古文書を読んでいた。彼が崇拝する平安時代の剣豪にして哲学者、ミヤモト・マサシの兵法書だ、コトワザの大半はミヤモトが作った。



 単語が怪しくてこそ成立するというものだろう。「朱塗りの瓦屋根の交番で若い警察官が硯で墨を磨って」いたり、「五十歩百歩、虻蜂取らずなどの諺を作った平安時代の剣豪、宮本武蔵」と書いてあったらむしろ違和感が残る。つまり内容、単語とも原文ママで残した翻訳グループは正しいということだ。

 
 問題は作者達(2名居る、らしい)がこれをどこまで自覚的にやっているのかということだ。

 実のところ「怪しさ」にはいくつかの段階がある。

 「スリケン」「ミヤモトマサシ」「バイオスモトリ」「スゴイタカイビル」などのミスタイプ風はわかっちゃいるが、それらしい響きがあれば細かいことは(ネイティブの違和感までは)気にしない、というおおざっぱさによっているようだし。

 そのニンジャは背筋を伸ばした直立不動の姿勢でコケシコタツの上に着地し、威圧的に腕を組んだ。「忍」「殺」と彫られた鋼鉄メンポから、殺気をはらんだ吐息が漏れ出す。「ドーモ、ビホルダー=サン。ニンジャスレイヤーです」「ドーモ、ビホルダーです」

 など、緊迫した戦いの最中であろうともニンジャは初対面の相手に必ず挨拶をせねばならない(古事記にそう書かれている)とか、勝負がつくと勝者は敗者に「カイシャクしてやる、ハイクを読め」と勧めるなどは、侍とニンジャの区別がついてないとしか言いようがない、これは「よくわかってない」のだと思う。

 一方、

  地震、雷、火事、ニンジャ。命知らずのパンクスが例外的に恐れるものを言い表したジョークである。

 シガキの脳裏には、爆死する自分の姿とともに、十二番街にあるトーフ労働者たちの安宿や、その前でいつも営業していたフライド・スシ屋台の老人の顔などがソーマト・リコールした。

 カチグミ・サラリマンは組織の和を重んじるため、このような場においては、できるだけ均等な成績になるよう互いに気を遣わねばならない。万が一、二人のスコア差が10:0だったら、10を得たほうは社内やネットでムラハチにされるのである。ムラハチとは、陰湿な社会的リンチのことだ。


 などは、日本の風土、慣習、コトワザに深い理解があるようにも見える。

 ニンジャは哄笑した、「生きた薪もあったか!これはチョージョー!
 というセリフもあるが、重畳なんて使える日本人なかなかいない。

 かと思うと。
 
 「ボスはあなたをシックス・ゲイツへ呼び戻した後、ニンジャスレイヤーをテウチにせよとお命じになるおつもりでした。一度でそれが済んでしまうとは、まさにアブハチトラズです」

 とか

 ニンジャスレイヤーが二枚のスリケンを立て続けに投げつける。「イヤーッ!」
 アイアンヴァイスがムテキ・アティチュードで全身を鋼鉄化させ、それを弾き返す。
 ゴジュッポ・ヒャッポ!

 
 など、あきらかに間違って覚えているものもある。

 読んでいてあまりにおもしろいので狙ってやっているのではないか?とつい思ってしまうのだが、この小説が日本でブレイクしたのは翻訳グループが2010年に翻訳化権を取ってから後のことであり、原作自体は2000年の時点で9巻が発行されていたというくらい歴史が古いことを考えると、元々ヤンキーの読者を念頭に置いて書かれ、発行されていたものだ。

 先の文章がジョークとして成立するためには、読者にスゴイタカイ日本語能力と日本文化に対する深い理解が必要なわけで、つまりはこれは普通にエキゾチック・ムードあふれるアクション小説として書かれ、売れたものなのだろう、つまり先ほどのボケは天然ボケということだ。

 

 ところで。先にそれらしい語感があればこまかいことは気にしない、と述べたが、それは登場人物達の名前にも現れている。
 主人公ニンジャスレイヤーの本名はフジキド・ケンジ、殺された妻と子はフユコとトチノキ、師匠はドラゴン・ゲンドーソーである、師匠の孫娘はユカノで宿敵はラオモト・カン、女子高校生忍者はヤモト・コキ
 見当違いなトンデモではないが違和感のある名前ばかりだ、これはつまりは、○○スキーと名付ければロシア人っぽいかな、と我々が思うようなネーミングなのだろう。

 普通、小説や映画でこういう物を見るとがっかりするし腹も立つわけだ。
 たとえば映画「GM」で日本のオヤブン(北野武)の幼い娘が女郎かよと思わせるような赤い襦袢を着て出て着たり、「ベストキッド2」で沖縄の人たちが大勢でデンデン太鼓を打ち鳴らしながら主人公たちのラストバトルを見守っていたりすると(←呪術っぽい)「国辱」などという単語も頭をよぎったりする。

 ところがこの「ニンジャスレイヤー」にはそういった負の感情を覚えない。それはこの小説からニンジャ(と日本文化)に対するあふれんばかりのリスペクトを感じるからだ。
 ニンジャは人が到達できるリアルスーパーマンであり、殺戮マシーンでありながら礼儀と伝統を忘れない戦士でもある。
 日本はハイテクな国であり、暗黒の管理社会ながら庶民は基本的には礼節と和ををもって暮らしている、という設定なのだ。

 「ニンジャの匍匐前進速度はチーターのそれに匹敵する」とか書かれると、どんな超人だよ、つうかその妄想はどこから来たのか教えてよ、と思うのだが、悪意がないことだけはわかる。


 そしてこの小説の最大の魅力は・・というか、日本人が読んだ場合の最大の魅力は怪しいニンジャ観だから2番目と言ったほうがいいかもしれないが、そのまっとうな読後感である。

 この小説は連作短編の形を取っている、中心に据えられているのは主人公フジキド・ケンジの復讐譚だが、各話に登場するゲストがそれぞれ魅力的であり、それぞれのエピソードがけっこう心打つお話であったりする。

 たとえば第6話「キックアウト・ザ・ニンジャ・マザーファッカー」
 ギンイチはセンタ試験に合格しカチグミサラリマンになるため勉強漬けの日々を送っている高校生である。彼は憂さ晴らしに通うゲーセンでたまさか声をかけてもらった美少女イチジクに一発で恋をしてしまう、王道ボーイミーツガールだ。

 そのイチジクがニンジャどうしの抗争に巻き込まれ命に危険が迫った時、助けを求めた公権力もあてにならない(先のマッポ・ステーションのシーンだが)事を悟ったギンイチは「後悔をひきずって惨めに生き続けるよりは、美しい記憶でこの人生を閉じよう。素敵な女の子に話しかけられて、心揺さぶられる音楽に触れた。あとは素敵な女の子のために命を投げ出して、この記憶を永遠にものとしよう」と決意し戦いの場に舞い戻る。

 そして彼がニンジャに繰り出したパンチ、ライオンに噛みつこうとするウサギのような無謀な挑戦だが、その拳に込められた想いが悪のニンジャソウルに取り憑かれていたフジキドを覚醒させるのだ。

 結局ギンイチとイチジクは、ギンイチ達が所属する、ギンイチ自身が嫌っていたハイソな社会階級のおかげで命を取り留める。ヤカタ式救急車の中でイチジクの手を握りながら「明日から始まる世界はどんなものだろう、今までの世界がそのまま戻ってくる筈もない」と思うギンイチでお話は終わるのだが、これは普通に熱い青春小説である。

 あるいは8話「レイジ・アゲンスト・トーフ」
 シガキ・サイゼンは墨絵師になるための研鑽を積みながらトーフ工場で働く労働者だったがトーフ・プレス機によって右腕を切断されてしまう。会社の補償でサイバネ義手を付けてもらったはいいがその義手は戦闘用義手だった。
 力の加減のできない義手によって墨絵師の夢を絶たれ、会社を首になった彼は、元の職場、サカイエサン・トーフ工場へのテロ計画に参加する。

 サカイエサン・トーフ工場の激安4連トーフ「カルテット」が貧民の糧であることも、工場の襲撃に正義がないことも承知していながら、シガキは流されるようにテロに参加してしまう。
 生来、まっとうな倫理観を持つシガキが、奪った金で最新のサイバネ義手を買うのだ、この襲撃で目にした凄惨な光景を墨絵に描くのだと、自分を騙しながら戦闘に参加する様は哀れである。

 実はこのテロはソウカイ・シンジケートの仕組んだ罠でありシガキは人間爆弾として自爆させられそうになるのだが、彼はその際にも仲間の労働者や、フライド・スシ屋台の親父のことを思いソーマト・リコールしてしまう人間なのだ(これが先に紹介した一文である)

 結局シガキはニンジャの戦いに巻き込まれ、一度は手にした金も失い、重傷を負って路上に横たわる。
 章の最後はこう締めくくられている「シガキは死ぬだろうか?それともマッポーの世に生き残って、死よりも過酷な生を再開するだろうか?それはわからない。ただ彼は、トーフ工場の窓から吐き出される墨のような黒煙と、それを背景に二人のニンジャが工場の窓から窓へ飛び渡りながらスリケンを投げつけ合う、暗い躍動的なモチーフを見上げていた。」

 ハードボイルドである。

 ハードボイルドということでもう一つ、11話の「フィスト・フィルド・ウィズ・リグレット・アンド・オハギ」も紹介しよう。

 この話の主人公サカキ=ワタナベは、元警官であるが職務に忠実であるあまり家庭を顧みず、妻子に捨てられ、職も失って今は貧民キャンプの用心棒をしている男だ。また重度のオハギ中毒であり(麻薬のようなものらしい)オハギが切れると禁断症状を起こす。

 妻は再婚しており彼の唯一の楽しみは年に一回、娘の誕生日に娘と面会することなのだ。
 自分の半生を悔いるサカキに対し、フジキドは貧民キャンプを守るのは尊い仕事だ、と話す。

 しかし、ソウカイ・シンジケートはサカキに接触してくる。フジキドにニンジャ軍団を壊滅させられたシンジケートが欠員を募集するためかつての仲間をスカウトしに来たのだ。
 そう、サカキは元ソウカイ・シンジケートのニンジャ軍団のメンバーであり組織から逃げて貧民街に身を隠していたのだった。
 (ここが先のアブハチトラズのくだりである)

 オハギ中毒の治療と引き替えにニンジャスレイヤーを倒すことを請け負ったサカキはフジキドに向かってこう言う「オハギ依存を絶ち、おれはまっとうな人間に戻る。そして家族を取り戻すのだ」と。

 しかしリクルートに来たソウカイ・シンジケートのニンジャは衝撃の事実を告げる。
 サカキは警察官時代、自分の殺人衝動を抑えきれず夜な夜な道行く人をツジギリしていた、そしてその事実に気づいた部下と妻子を惨殺した男なのだ(フジキドに見せた妻子の写真はその部下のものなのだろう)
 やがてニンジャとなりソウカイ・シンジケートに入った彼はオハギ中毒患者となり、偽の記憶、自分は職務に忠実であるあまり妻子に逃げられた男である、という幻想に逃げ込み、それが真実だと思い込んでいるのだという。

 オハギが切れてすべてを思い出し、殺戮マシーンに戻ったサカキが望むことはニンジャスレイヤーのジュー・ジツと自分のタタミ・ケンのどちらが上か確かめることだけだった。
 彼はは嬉々としてニンジャスレイヤーに戦いを挑み、敗北して笑いながら死んでゆく。
 麻薬に頼って偽の記憶にすがり、貧民のために体を張っていた彼と、殺戮マシーンとして欲望のままに生きる彼はいったいどちらが幸せだったのかと言うお話だ。これもまたハードボイルドである。

 

 このように、怪しい単語と怪しい世界観とは裏腹にストーリーはまっとうで心打つエピソードに満ちている、、表現が怪しいだけにかえって感慨深いとも言えるだろう、これがこの小説のもう一つの魅力である。


 というあたりで結論を言うが、この小説はお勧めだ。

 まっとうな小説読みからすれば眉をひそめるような文章であり変化球もはなはだしいが、正当派の速球投手ばかりでは野球はおもしろくない、たまには魔球も見たいという方なら十二分に楽しめるだろう。


ps

 笑いのツボがどこにあるか予想できない本書は、電車の中で読む場合に注意が必要である、私は何度か不意をうたれ、何度か咳払いでごまかした。


 





 映画製作を舞台にしたミステリーだというので少しばかりドキドキしながら読んでみた。
 なぜにドキドキするかと言えば、自分の職場が舞台であるというのに興味があるからで、世間が映画製作をどう見ているかについて興味があるからで、そして多くの場合「イタタ!」になることが多いからだ。

 なぜにイタタになることが多いのかと言うと、映画を舞台にした作品を作ろうとする作家(達)が「これなら特段に取材せずとも書ける」と思ってしまえる点にあると思う。

 これは小説家に限らず多くの一般市民にも言えることだと思うのだが、つまりはTVや小説に登場する「映画の製作風景」を見て「そういうものだ」と信じ込むからだろう。

 しかし、小説家は映画製作の現場を知らないし、TVと映画の製作は同じ映像作品を作っているとは言えないほど別世界なのだ。だから小説やTVで描かれる映画屋の生態は世間一般の人が想像するそれとたいして変わらない。
 結果、嘘つきのプロデューサー、天才肌の監督、頑固一徹なカメラマン、悲惨な助監督にわがまま放題な大女優といったステレオタイプがまかり通る。

 しかも、それをを見て「そういうものだ」と思い込んだ作家がTVで小説でマンガでその世界観(?)を拡大再生産する。
 また「蒲田行進曲」のように世間一般の誤解、盲信を逆手に取って、更に上乗せして娯楽に仕立てる作家がいるからなお始末が悪い。

 昔「モーニング」連載されていた、かわぐちかいじの「アクター」も大変に面白いマンガであったのだが、監督と役者が映画の方法論をめぐって殴り合いをするような「熱い」お話であり、私の職場がこういうものだと思われると困るので人に勧められない作品だった。

 ところで、このアクターで人吊りのシーンがあるのだが、ワイヤーが四方に向かって何本も伸びており想像だけで描いているのがモロバレだった。講談社がバックについているんだから取材しろよ!と思うわけだ。
 
 これが、書く時点では素人であり取材のしようもない場合は、つまり某ミステリー新人賞の受賞作のように、ということだが、全編想像(妄想)だけで描かれることになる。
 するとクランクイン初日に主演女優が初めて相手役と顔を合わせたり、完成台本を渡されないまま演技したりする(それは演技ではない)

 取材ができないとしても、自分の知らない世界の事を書こうとするなら、それなりに資料を集めたり、知った人から話を聞こうとするものだと思うのだが、何しろ映画の製作現場については皆「知っているような気がする」ものだから、思い込みだけで書いてしまう。
 
 まあ、それもこれも映画に対する夢と希望(♪虹の都、光の湊、シネマの天地)ゆえのリスペクト(あるいは盲信)から来ているのだとは思うが、映画製作は世間一般の常識が通用しない世界で奇矯な人たちが行っていることであるように書かれるのは嬉しくないし、2次資料(3次資料?)だけでわかったような気になってしまう作家は痛い人だと思う。

 大森一樹はこう言っている

『映画を作るということは、普通の仕事と違って何か特別のことをやるかのように思っている人も少なくないだろう。(中略)なるほど、映画作りの現場では日常では考えられないようなこともやるが、しかしだからと行って普通でない人がやっているわけで決してない。僕の知っているすぐれた映画のプロたちは、ある意味ですぐれた常識人である。礼儀正しく、筋を通し、時間も守る人たちだ。(中略)要するに、映画を作るということは人を相手に仕事をするということだ。その点では、他の多くの仕事と変わりはない。』(「星よりひそかに」より)
 

 長くなったがなぜドキドキするのかは理解いただけたと思う。

 というわけで、大丈夫かな~と思って読み進めたのだが、驚くべし大丈夫だった。

 お話は、黒沢明を念頭に描かれたと思われる巨匠、大森監督が久しぶりの新作を撮るというところからお話は始まる。
 気心の知れたスタッフ「大森組」が招集されるが、製作環境は巨匠全盛時代とは変わっていた。今は映画は映画会社が製作するものでなく、製作委員会がファンドで資金を集めてリスクとリターンを分け合うのが主流なのだ。

 幹事会社差し回しのプロデューサーはそろばん勘定しか念頭になく、シナリオから配役にまで口を挟んでくる、おまけに監督を補佐する立場であり、製作現場の指揮官でもあるチーフ助監督のクビまですげ替えさせてしまう。
 ぎくしゃくした雰囲気の中それでも映画はクランクインする。しかし事故が続出、ついには殺人事件まで発生した。

 というお話だ。

 ステレオタイプな人物像ばかりではあるが、映画の製作進行の描写に違和感がないのはたいしたものだと思う。美術デザイナーが特殊メイクまでやってしまったりするがこれはご愛敬だろう。
 
 (話が逸れるが、美術デザイナーのもっとも重要な仕事は予算の管理である『このドアは背景でしかないから、有り物(大道具倉庫にある既存品)でいいが、このドアはドラマ上重要だからイチから作れ』というような(地味な)判断が仕事の主体なのだ。
 そして、デザイン画を描いた後の実際の図面引きや進行の管理は部下にまかせるわけだが、誰にどの仕事を割り振るかを考えるのも重要な仕事だ(能力のない奴に任せれば失敗するし、優秀な奴に集中させてもパンクする)最近の言い方に変えれば、つまりデザイナーの仕事はリソースの管理なのだ。自分の手を動かすのが得意なだけの職人では困るし、才能のおもむくまま美麗なデザイン画を描きまくるような芸術家でも勤まらない)

 なかなかまともな映画小説じゃないか、と思って読み進めていたのだが、しかしどうも盛り上がらない。
 日々のルーティンワークに押し流され、映画界に入った頃の情熱を失っていたセカンド助監督が映画に人生を賭ける大森監督に触れて再びやる気を取り戻すというストーリーも重要な柱なのだが、これもまたよくあるお話でしかない、というか最初の数ページで「あーそういう話ね」と読めてしまい、そこから一歩も出外れない。

 そして、ここが重要なのだがこの小説はミステリーではない。

 事故が起こり事件が起こり、探偵役(先の助監督)によって意外な人物が犯人であることが明かされるのだが。

 「主として犯罪にかかわる謎が徐々に、論理的に解き明かされる過程を楽しむ」というミステリーの要件を満たしていないのだ。

 どういうことかと言うと「鍵のかかった部屋で人が殺されていた、犯人は誰か、また部屋を密室にした理由とその方法は何か」というのがミステリーなのであって「部屋で人が殺されていた犯人は誰か」では犯罪小説もしくは警察小説でしかないということだ。

 まあフーダニット(誰が犯人か)を主眼としたミステリーもあるので「犯人が謎というだけではミステリーを構成しない」と言い切ってしまうわけにはいかないが、探偵役(と読者)が次第に事実を入手し、やがて犯人にたどり着くというのではミステリーではない。

 詐欺グループに誘いだされた質屋の主人が留守の間に泥棒に入られました、というのはただの犯罪小説であって、事件の直前に雇った使用人が優秀なので店を空ける気になった、という前段がなければミステリーではないわけだ。

 
 この小説も探偵役は次第に情報を入手していって、やがて犯人にたどり着くわけだが、中段を書き換えれば別人が犯人になっても問題ない。
 読者も同じテンポで情報を入手するわけなので、犯人を指摘された時「なるほど、手がかりは最初から明かされていたのだ!」とか「作者にしてやられた!」というミステリーの醍醐味はない。


 実のところ作者はこれをミステリーのつもりで書いてなどいないというのが本当のところだろう。
 書きたかったのは古典的な映画製作の夢と希望、まさしく虹の都、光の湊、シネマの天地というやつだ。
 登場人物が全員良い映画を作るためなら人生棒に振ってもかまわないと思っている破滅型映画屋であるあたり、映画ってのはこういう人たちがこういう具合に作っているのだろうなあ(作っていて欲しいなあ)という作者の願望が見てとれる。
 そういう意味では、従来からある痛い映画製作話に近いのだが、変人達が閉鎖世界で特殊な仕事をしているとまでトンデモになっていないあたりは作者の力量というべきかもしれない。

 私としてはミステリーでないと理解した時点でモチベーションが下がり、とりあえずおしまいまでは読んでみたという状態であって面白いとはとても言えないのだが。

 ミステリーでないということを承知で、映画製作の裏話的なことに興味がある人なら面白く読める・・かもしれない。
 登場人物が過剰に映画バカばかりであることをのぞけば「そうおかしなことは書いていない」からだ。

 しかしまあ、裏話的な興味というならこの小説を読むよりトリュフォーの「アメリカの夜」を見るべきである。


 

丕諸の鳥(ひしょのとり)
小野不由美






 十二国記シリーズ12年ぶりの書き下ろし短編集である。
 実のところ「イヤな予感しかしない」状態だったが、かつては熱心な十二国記のファンだったので読んでみた。

 そして冒頭の一編、表題にもなっている「丕諸の鳥」の書き出しで「やはりこれは・・」と思ったのだった。


 この短編、主人公である丕諸は十二国のひとつ慶国の下級官吏である、職分は「羅氏」
 
 この羅氏とは何をする仕事なのかというと・・・

 国に新王が立ったとき、即位の儀式が行われるのだがその儀式の一つに「射儀」がある。
 元々は鵲(かささぎ)をはじめとしていろいろな鳥を空に放ち、それを射手が射るというものだったが、王の宰相役である麒麟が殺生を好まないため、やがて陶板で作った鵲の作り物を空に投げ上げそれを弓で射貫くという形に変化した。

 時代は下り、この陶製の鳥「陶鵲」には様々な工夫が施されるようになった、形はもちろん装飾に気を配り、飛び方も工夫され、割れる時の音までも考慮され、ついには順序よく割っていくことで楽曲まで奏でるまでに進化したのである。
「羅氏」というのはこの陶鵲をデザインする役職なのだ。


 細かい!「和紙職人の汗を拭くタオルを作る工場の機械の歯車を磨く人」というジョークを聞いたことがあるが、そのレベルの細かさである。

 新王が王宮に入る時は丕諸も迎えに登庁したが、王の顔など見ることもできないほどの末席だったというくだりがあるがこの話も同様である。

 十二国記は様々な国の話がそれぞれに、あるいはからみあって進んでいくダイナミックなうねりが真骨頂なのだが、そこから遙かに外れた先、メインストーリーが幹であるならまさしくこれは枝葉末節、小枝の先の葉っぱの葉脈をこまかに描写して見せるごとき小品である。

 そして思った、今の小野不由美ならこれを面白くかけるだろうと、そしてそれは私の読みたい十二国記ではないだろうと。


 実のところ、どんな作家にも作風の変化があり、基本はダイナミズムから繊細さに、奔放さから人情にという流れがある。
 「石の血脈」「産霊山秘録」等で伝奇ロマンというジャンルを開拓した半村良も「あまやどり」で直木賞を取ってしまうし。
 亜愛一郎シリーズで華々しくデビューして「日本のチェスタートン」と呼ばれ、あるいは「秘文字」(暗号で書かれた暗号物のミステリーであり解読しないと読めない!)などを次々に発表して世間を煙に巻いた泡坂妻夫も泉鏡花賞を受賞した「折鶴」直木賞を受賞した「陰桔梗」は人情話である。

 小説ばかりではない。サイボーグ009や仮面ライダー産みの親である石ノ森章太郎も後年は「さんだらぼっち」や「ホテル」などの人情話に移っていった。

 これはあふれるばかりにあった(だろう)エネルギーや斬新な発想に陰りが出てきた頃、長年の執筆活動によって培われた語り口のうまさを生かせるジャンルに進むという変遷だろう。
 (剛速球で鳴らした投手が打たせて取るピッチングに変わるようなものであり、そのたとえで言うと島田荘司は最後までどまん中の剛速球を投げてくれそうだったのだが・・・)

 ともあれ「悪霊シリーズ」のリメイクを読んでも、至近の「残穢」を見ても語り口のうまさが際立つ小野不由美であればこれは正常進化と言える方向性とは思う。

 しかし!こう来たってことはもう十二国記終わりなんデスカ?

 前記の3人はそれぞれのジャンルの金字塔を1本どころではなく立てまくった大家であるわけだが、小野不由美はそうではない、そもそもこの短編集は十二国記のインサイドストーリー、アナザーストーリ、スピンオフ小説であるわけだが、その本筋、幹の部分は揺るぎもなくそびえ立っているとは言えない。

 小野不由美が一番力を入れているだろう慶国の陽子にしても、このまま行ったらどれほどのスケールの大ロマンに成長するだろう、という期待をはらませながらも実際は「俺たちの冒険はこれからだ」で終わっているのだ。


 結論として。
 人情話としてそれなりに面白くはあったのだが、メインは終了であとは十二国記ベースの人情話です、これはその第一弾ですと言うことならこれはとうてい首肯するわけにはいかないのだった。 


 





 実は私は「石ノ森章太郎ファンクラブ」の会員でありそれもけっこうな古参だ。
 どれくらい古いのかと言うと、ある時石ノ森邸で大先生からとあるスケッチを見せられ「今度始めるマンガの主役なんだけどどう思う?」と聞かれ、「バッタそのまんまじゃないですか、今ひとつかなぁ」と仮面ライダーにダメを出してしまったくらい古いのである(><;)

 サイボーグ009直撃の世代であり、この映画などはまっさき駆けてはせ参じなければいけないところなのだが、気が進まないまま公開の時期を逃し、結局ビデオでの鑑賞となってしまった。

 なにゆえに気が進まなかったのかと言えば、これがProduction I.Gの作品だったからである。
 Production I.Gが好きでないのか、というとそうではない。

 そもそも私は映画を題材主義で見るので、実のところ監督にすらあまり注意を払わない、俳優が誰であるかなどどうでもよいし、ましてや制作プロダクションがどこであるかなど気にもとめない、普通は。

 しかしProduction I.Gは例外でその名前だけでも見ようかなと思ったりする。
 ざっと思いだすところでも「攻殻機動隊」「BLOOD」「パトレイバー」「東のエデン」のTV&映画のシリーズはほとんどを見ているし、他にも「人狼」「スカイ・クロラ」は傑作だと思うし、最近のTVアニメの中でも「PSYCHO-PASS」「翠星のガルガンティア」は出色の出来だったと思う。
 (その他、共同製作、製作協力まで含めるとおそらく私が面白いと思ったアニメのかなりの部分に参加している筈だ)
 

 ではなぜ、そのようにお気に入りの制作会社なのに気が進まなかったのか、と言えばきっとカラーが合わないだろうと思ったからだ。

 まあProduction I.Gといえど様々な作品を手がけているわけだが、私が好きでよく見るジャンルはSF色のあるリアル指向な近未来ものだ。

 これらに通底しているのは心に傷を負った主人公(達)が、夜の街の片隅で虚構と現実の狭間で苦悩しながら、己の宿命に立ち向かうといった展開だ。

 衒学的なモノローグが流れる中、陰影のある大都会の裏路地、非人間的な人工物、あるいは打ち捨てられ、忘れ去られた古い町並みなどで、独特の雰囲気を出すのがProduction I.Gの得意技なのだが。

 サイボーグ009でそれはアリなのか? 
 というのが最大の疑問だったのだ。

 たとえば猥雑でおもちゃ箱をひっくり返したような士郎正宗の「攻殻機動隊」はProduction I.Gがアニメ化した途端、硬質で精密な工芸品に変貌し、イケイケで、お色気担当だった草薙素子はまったく人間味を感じないアンドロイド美女に変わってしまった。

 私はどちらも好きだが、原作「攻殻機動隊」である必然性はなかったのではないかと思わざるを得ない。サイバーパンクな雰囲気が好きで原作を読んでいたファンなら怒るだろう。

 同じことが起きるのではないか? ということだ。

 そもそもサイボーグ009は半世紀も前に生み出された作品である、日本マンガの揺籃期と言ってよく「熱血冒険活劇」という言葉がもてはやされていた時代でもある。
 そんな時代の、サイボーグ化された9人のヒーローが世界を救うという牧歌的な世界観を現代(近未来?)にもってきて大丈夫なのだろうか?
 それはもはやサイボーグ009でもなんでもない作品になってしまうのではないか、と思い気が進まなかったというわけだ。



足は丸くないと009じゃないなあ、と思う私はオリジナル原理主義者



 きっとProduction I.G的パラダイムチェンジが起こり、主人公達がサイボーグ化された(心に傷を負った)人間であるというだけで、お話も背景もすっかり変わってしまうのだろうなあ、と思いつつ見始めてちょっとびっくりした。

 冒頭009こと島村ジョウが虚構と現実の狭間で苦悩しているのを見て、、やはりこうきたかーと思ったのもつかの間、お話はびっくりするほどオリジナルに近く進む。

 舞台設定としては「神々との戦い編」の冒頭に似ている。
 ブラックゴーストはすでになく、メンバーはそれぞれの国に帰って、自分の暮らし、自分の仕事に従事している、そこへ世界的規模の異変が起こりギルモア博士が再び集合をかけるといったお話である。

 驚くのが背景をまったく説明しないことだ、完全に一見さんお断りなのだ。
 009の加速装置も、004のカメレオン能力も一切説明ないまま画面に登場し、お話に組み込まれていく、サイボーグ009がどんなお話であるか知らないままこの映画を見に行く観客もいないだろうが、スタンドアローンで映画化する場合最低限の説明ってあるもんじゃないのか思っていた私にしてみると衝撃であった。
  「古典としてよく耳にするサイボーグ009、どんなもんだが見てみよう」というニューカマーも少数ながら居るんじゃないのだろうか。

 というわけで、私は「一見さんにはここわかんないよな、これ彼が009の仲間だってことさえ伝わらないよな」などと余計なことまで気にしながら鑑賞することになってしまった、余計なお世話といや余計なお世話なのだが・・・。


 さてしかし、そのようにオリジナルを色濃く残したまま話を進めようとするとこれはいかにも苦しい。
 テロリストによる超高層ビル爆破という現代社会の歪みを真正面から作品に取り込み、なお9人のヒーローが世界を救うという牧歌的なスタイルを維持しようとするのはどうみても無理があるのだ。

 結果、Production I.G的陰影、石ノ森章太郎的なヒロイズムがまだらになった落ち着かない作品となってしまった。
 投げっぱなしで回収しない伏線がいっぱいあるのもいただけない、どちらの作品テイストにしても最後は綺麗に閉じるのが筋だった筈だ。

 結論としては、見て損のない作品であると言えるだろう。ジャパンクールの典型でありクオリティは高く、Production I.Gファンが見ても、オリジナル009原理主義者が見ても、そこそこには楽しめる作品にはなっていると思う。

 まあそのどちらも完全に満足する作品ではないのが問題なのだが。


ps


 と、書いてきて思った、・・てことは、これ意外と私に対してストライクな作品だっのかもしれないな、と。



 






「ロケットパーンチ!」というかけ声とともに、ロケット噴射する巨大な拳が怪獣にめりこんだ時、劇場全体がドッと沸いた。

 すぐ後ろの席の大きなお友達たちが「ギャハハハ」とバカ笑いしていたのは少しばかり煩すぎだったが気持ちはわかる。ロボットプロレスが歴史の彼方に去って久しいこの21世紀に大スクリーンでロケットパンチを見るとは思わなかった。


 まあこの映画は、監督が日本の特撮・アニメの大ファンで、それらをリスペクトして作られたというのがウリであり、実際監督インタビューでも「自分は東宝のチャンピオン祭りやウルトラマンを見て育った、たぶん日本の少年と同じものを見てきたと思う」と言っているのでそのような作品だとは思っていた、しかしこれほどど真ん中に放ってくるとは。




たしかに秋葉に居そうな感じではある






 というわけでこの映画は全編が日本のアニメ・特撮作品のオマージュで出来ている。



(話は変わるが、こういった「日本のポップカルチャー」を昨今では「ジャパン・クール」と呼び慣わすわけだ。今回もこの映画を紹介するにあたってこの言葉を使って解説しているのを見ることがある。
 しかし、今までこういったジャンルをオタク文化、子供だまし、幼稚、低俗とさんざん見下してきておきながら、商売になりそうとみるや「日本が世界に誇る映像文化」などと言い、カッコいいラベルに張り替えて売りだそうとする風潮は見ていていささか業腹でもある。
 さらに言うなら「こういった文化を見直し、官民一体で世界に発信」とか言っておきながら、一方では担い手の手足を縛ろうとする風潮にも腹が立つ、オタク文化の輝いているところだけ欲しい、他はいらないと言ってもそう都合よくはいかないだろう。
 などと言い連ねていると話が逸れるので閑話休題)




イエーガー操縦中

 マジンガーZからエヴァンゲリオンまで「搭乗型」のロボットは数多い
しかし操縦者みずから体を動かしてにロボットを操る「シンクロ型(?)」はそう多くない。
 よく言われる「勇者ライディーン」(画像右)は腕のみ操作しているようだ
 実のところ特撮でシンクロ型で相手が怪獣というと「ジャンボーグA」(画像左)しか思いつかない。


 さてこの映画「ロケットパンチ」や、「パイルダー・オン」(パイロットが一旦頭部に搭乗しその後胴体に合体する)などのディティールはもちろんのこと、お話の骨格、設定も特撮・アニメの総ざらえとなっている。

 敵は異次元からやってくる「KAIJU(怪獣)」であり対抗するのは身の丈数十メートルの巨大ロボット「イエーガー」である。
 地球防衛軍は対費用効果を考え怪獣防御をイエーガーから巨大な壁にに切り替えイエーガー部隊への資金提供を打ち切るが、不屈の精神を持つ司令官はこれを民間組織として温存する。

 それから5年「壁」が破られたとき地球を守れるのはイエーガー部隊しかいなかった。 しかし部隊にかつての偉容はない。

 アメリカ製の最新式イエーガー
 無骨ででかくて力自慢ロシア製イエーガー
 くて人乗りでスピード自慢の中国製のイエーガー
 バランス重視の日本製イエーガー
 の4体しかないのだ、そこで5年前に戦闘で兄を無くし引退したパイロットが呼び戻された。

 主人公はトラウマを負ったロートル、その副操縦士は経験のない若い女。
 最新マシンに乗る若造(エリート意識むき出し)に足手まとい扱いされながら、主人公は戦いに臨む、5年前に乗っていた旧式マシンに乗り込んで。

 燃える設定である、256回くらい見聞きした感はあるが王道である。

 余計なサイドストーリーを一切付けなかった割り切りの良さも好感できる。
 なにしろ怪獣出現についての細かな理屈は一切省き、イエーガーの開発についての説明も一切なし。
 『怪獣が地球侵略にやってきた、地球は巨大ロボットを作ってそれに対抗した』と開巻1分くらいでナレーションして終わりなのだ。

 主人公と副操縦士の彼女がともに持つトラウマも、2人の間の恋愛感情も薄く薄くさらりと流してただただロボットプロレスである。
 『あらゆる映画にとってテーマとはただ一つそれは愛だ』と言ったのは諸星あたるだが(!)「映画」にはラブシーンが必須だと信じている頑なな監督は多い(フォーマットとして強制されているのかもしれない)
 その中で内容空虚と言われるだろうことを一切考慮しないこの割り切りはたいしたものだと思う。

 と、褒めた後でなんだが、この映画一発勝負やったもん勝ち、という側面はある。
 王道といえば聞こえはいいが、それは新味がないということであり、余分な要素がないということは膨らませた部分がないということなのだ。

 ロボットは正義、パイロットはヒーロー、敵は絶対悪、などと言う設定は本来ジャンル創世記の幸せな時代の産物だ。
 日本ではロボットプロレスは様々にソフィスティケートされ、今では「敵の側から見れば宗主国の搾取から逃れる独立戦争(聖戦)である」とか、そもそもコミュニケーションを取ることすら出来ない異質の文化との不幸な遭遇であるとか、純粋な経済摩擦であるとか、少年は神話になるとか様々に進化(適応拡散)していった。

 つまり今や「ロボットは正義、パイロットはヒーロー、敵は絶対悪」だけ、などという企画が通るわけはない。それは今のアメリカで『良いインディアンは死んだインディアンだけだ』的な西部劇が作れるわけがないと同じである。

 ではなぜ今これが通ったか、そしてヒットしたかと言えばハリウッド的にはそこが空白だったからだ、これがやったもん勝ちということだ、しかしこれで空白は埋まってしまった、なので次はない。
 (これは「ブレアウイッチプロジェクト」がそうであり、その「ブレアウイッチ方式」で撮った怪獣映画「クローバーフィールド」がピンポイントで当たりを取ったのと事情は同じである)

 もしオトナの事情で無理くり続編をつくれば目もあてらないシロモノになるだろう(スターシップ・トルーパーズのその後の惨状が参考になるかもしれない)


 まとめよう。これは内容空虚なジェットコースター感覚の映画である。
 しかしジェットコースターにもいろいろあって、たとえアップダウンするだけでも乗ってみる価値のあるジェットコースターはある、と言えるだろう。

 見る価値はあり、お勧めするに足る娯楽大作と言っておこう。
(作った瞬間に袋小路に向き合っているという特異な作品でもあるのだが)


ps





ナイフヘッド(右)はデザイン画では怪獣っぽいのだが、つうかギロンなのだが
劇中ではそもそも「怪獣」らしくない


 全編リスペクトで出来ていると先に述べた、監督はわかっている人だと思うのだが、国民性なのかそこは商売優先なのか、日本人から見ると「?」と思う部分がないでもない。
 ひとつは怪獣である、デザイン画はけっこう怪獣っぽいのだが、出来てきたものはその質感、色、動き、そういった総合表現が「クリーチャー」っぽいのだ、つまりヌメヌメの革のような質感を持つ悪魔的な生物だ。
 怪獣というものがでかくなった動物ではなく、といってこの世の他の生物でもない、という感覚がどうもヤンキーには理解できないようだ。





「エヴァンゲリオン」零号機パイロット、綾波レイと
「イエーガー」ジプシーデンジャーのコ・パイロット、森マコ
どっちもショートボブなのは狙い?

 もうひとつはヒロインである、主人公とコンビを組む若い女とくれば日本なら夢のような美少女が来るところだが、菊地凛子は普通に強そう・・というか怖い。
 アメリカ製のゲームに少年主人公という概念がないのと同様、男の戦いに女子供の出る幕はないという意識があるのかもしれない。
 菊地凛子のメイクも太い眉に濃い目ばり、赤い口紅で日本人というより、ヤンキーの思う日本人女性という感じがする、たとえていうならオノ・ヨーコいう感じだ(ロイター通信の我謝京子さんと言ってもいいのだが、わからないか)
  


 






 映画はなるべく予備知識なしで見るべきだと思う。
 製作者が仕込んだ(かもしれない)作中の謎解きやビックリのネタは何も知らぬまま受け取ったほうがお得だし、間違った先入観を持って劇場に足を運び、鑑賞中「あれ、こういう映画だったのか?!」などと考えてしまうロスは計り知れない。

 これは私の映画鑑賞体験のうち「猿の惑星」の自由の女神や「キャリー」のラストシーンを予備知識なく見た衝撃や、あるいは「未知との遭遇」のマザーシップを不意打ちで見せられてしまったトラウマから来る教訓だ。

 さてしかし、予備知識なしで映画を見ると言っても限度がある、なぜならなんの知識もなければ世の中で数多く公開される映画のうちどれを見に行くべきかの判断がつかないからだ。

 そこでパッシブな情報収集だけを行うことにする、要するに映画の予告編やTVのスポットCMは見る、劇場のロビーのモニター(まあ、これは要するに予告編だが)も見る、置いてあるチラシは表紙だけ見る(!)という感じだろうか、要するにサラっと情報収集するということだ。

 基本的に題材主義である私にとってはチラシのキャッチコピー程度で充分なのだ・・・と言っていたおかげでこの映画、最初は何の映画かわからなかった。

 「ワールド・ウォーZ」というタイトルと、燃える街を見下ろすブラッド・ピットとヘリコプター、「その時、守るのは家族か、世界か?」というあおり文句で近未来戦争物?くらいに思っていたのだった。


 ところで私はハリウッド製のSF色あるアクション・パニック物には激しい警戒感を抱いている、シナリオがボロボロであることが多いからだ。

 たとえば「ジャンパー」
 テレポート能力を得た青年のお話だが、テレポートできるのは自分だけ、余計なものを持って飛ぼうとすれば死に至るという話だったのが、クライマックスシーンで彼女がピンチになると建物ごとジャンプする。

 たとえば「NEXT」
 3分間だけ時間をさかのぼることが出来る主人公が、そのタイムリープ能力でテロリストと対決するハメになるのだがクライマックスシーンで彼女がピンチになると2日前までジャンプする。
 など作品内での決めごとを無視する暴挙に出ることが希ではない。

 というわけでこの映画もレンタル落ちしたら見るかな~くらいのつもりだった。


 ところがTVのトレイラーで「壁」に取り付き積み重なっていくCGアクター達(!)を見てこれがそんな代物ではないことに気づいた、もっとファンタジーだ。
 どっかで見たような気がすると言えばこれはロード・オブ・ザ・リングのオークの群れみたいだ!と思ったのだった、つまりこいつらは人間ではない。

 その瞬間私の中に天啓のようにひとつのひらめきが訪れた(大げさな)ワールド・ウォーZのZって「ZONBI」Zじゃね?と。

 何言ってんだ、と思う向きもあると思うが、実際ポスターとTVスポットだけでそこにたどり着いたのは偉いんじゃないかしらん、何しろ公式宣伝からはゾンビを連想させるものは慎重に排除されていたのだから。


 さてしかしゾンビ映画なら見に行かなくてはならない(なんでだ)


 いきなり鑑賞予定順位のトップに躍り出たワールド・ウォーZ(以下WWZ)だったが、実のところ不安はまだあった。

 「その時守るのは家族か、世界か?」というコピーに不信感がクライマックスだったからだ。

 なにしろハリウッドにとって今や「家族」は聖なる言葉であり、家族を守ると言えば何をしてもいいらしいのだ(「健康のためなら死んでもいい」みたいなものだ)

 たとえば「ダンテズピーク」
 火山が噴火し、その麓にある街では市民が逃げ惑っているのに市長は責務を放棄して母と息子を助けに行ってしまう。
 ラストシーンで炭鉱に逃げ込んだ市長家族が救出され、それを皆で拍手で出迎えているのだが、リーダーの不在によってどれだけ被害が拡大したかと思えば石を投げられてもおかしくないと思う。

 あるいは「デイ・アフター・トゥモロー」
 気象学者のジャックは異常気象を予測し警告を発するが政府は取り合わない。そこへ突然の気象変動、地球は一気に氷河期(!)に突入してしまう。
 今こそジャックは自分の知識を世の人々のために使う時であるはずなのだが、息子を助けるため(というか、息子がピンチに陥っているという情報があるわけではないので、ただ一緒に居るため)吹雪の中をワシントンからニューヨークに向かって出発してしまう。 (そして、なぜかジャックと息子が再会できた途端、氷河期は終わってしまう?!)

 あるいは宇宙連合(?)の意思を体現し、地球人類を抹殺しにきたはずのキアヌ・・じゃなくてクラトゥはたった一組の家族(欠損家族だ)を見ただけで役目を放棄する「地球が静止する日」
 
 宇宙人による地球侵略という大事件でありながら、トム・クルーズのダメ親父が息子と和解し家族の絆を取り戻すだけの話にしてしまった「宇宙戦争」(ちなみにトム・クルーズが家族を取り戻すと同時に宇宙人は自滅する)

 話が歪もうがズレようがお構いなしの「家族至上主義」これがハリウッド流だ。


 となれば「その時守るのは家族か、世界か?」というキャッチコピーに不安を感じるのも無理はないと言えるだろう。

 だいたい「家族」と「世界」って並ぶ概念なのか、そもそもブラピに世界が守れるのか、もう「イヤな予感しかしない」というやつなのだが、ゾンビ映画なら行かなくてはならない(だから何でだ)


 という不安を抱えたまま劇場に足を運んだわけだが驚くべし、面白かった!


 これは映画の出来に対するハードルを下げまくったせいばかりではないと思う。
 何しろブラピが本当に世界を救うのだ、これはある意味ゾンビ映画初、エポックメイキングな作品であると言えるだろう。

 通常、ゾンビ映画は局地戦であり撤退戦であることが多い、地下室とかショッピングモールとか秘密研究所とかミサイル基地とかに立てこもった・・というかいやおう無しに逃げ込んだ主人公達が多勢に無勢のゾンビ相手にひたすら消耗戦を強いられ、最後は当面の危機を脱したというところで終わることが多い。

 たいていの場合、始まりも終わりもなく、グローバルな視点もなく、ただただドメスティックなお話で終始するのが普通だ。

 これはゾンビ好きの監督と特殊メイクアップアーティストが家内制手工業のように作った作品「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」がゾンビ物の聖典であるという事情が大きいと思われるが、そもそもゾンビ物をグローバルな視点で描くのは相当の苦労が必要だ。
 ゾンビが出現してしまったら人類は滅亡するしかないのではないか、これはゾンビものに共通する試練だ。

 戦争に勝利するためには兵隊を育成し、組織し、その軍隊に補給をする必要があると言われている。しかしゾンビ陣営は戦う相手に噛みつけばその人間が即座に自陣に寝返ってくれる。

 通常、戦闘を行えば双方ともに消耗するのだが、人間側の減った戦力はそっくりゾンビ側の増強につながってしまうのだ、つまりゾンビ軍は育成の必要がなく、更に言えば補給も必要としない。

 また、よく「敵の殲滅」などと言うが、通常敵の意思をくじけばそこで戦争は終了なのだ、しかしゾンビの意思をくじくことは出来ない。
 だから本当に最後の1人(1匹?)まで殲滅する必要がある。一方、人間の意思がくじければ人間の負けである。

 普通に考えたら人間に勝利の目はない。だからワールドワイドな視点でゾンビ物を描くということは、人類滅亡を描くということになりかねない、それでは娯楽映画として成立しない、ハッピーエンドにするには相当なシナリオの工夫が必要となるだろう。


 製作体勢をから考えてもグローバルな視点となれば予算も必要だ、役者もいっぱい、ロケも必要、セット1杯(「セットがたくさん」ではなくセット1つという意味です)で映画1本作るわけにはいかない。

 というわけでたいていのゾンビ映画は当面の勝利、撤退の成功というあたりでお茶を濁しているのだ。

 この難題に正面から取り組み、とりあえず(本当にとりあえずと行ったレベルだが)解答を示してみせたこの映画は評価しなければならないだろう。


 世界を救う男がブラピというのはその存在感としてアリなのか、という疑問も抱いていたのだが、元世界保健機関の優秀な調査官であったという主人公が、パニックとなった街で家族を守りつつも「ゾンビに噛まれた人間がゾンビとして蘇るまでの時間」を正確に測っていたり。

 ゾンビと戦った際相手の血が口に入った、と言ってビル屋上のヘリに立って飛び降りる準備をする(感染の兆候が現れたら飛び降りて自分が家族を襲わないようにするため)など、冷静で的確な判断が出来る男であるという描写を重ねたあたりもシナリオが練られている。
 (優秀な兵士だ警官だ、あるいは凶悪な犯罪者だ、などと口では言わせておきながらそのように見せる描写がない映画や小説は多い)

 
 ということでゾンビ映画でありながら、飛ばしすぎ端折りすぎながら、事態の発端から収束(の可能性)までを描いたこの映画はゾンビ映画として一頭地を抜いており一見の価値があると言えるだろう。


 (さてしかし「その時守るのは家族か、世界か?」というキャッチコピーが的を射ていたかというと、やはりそのようなことはなく、そもそもブラピが家族と世界を天秤にかけるようなシーンは無く、家族と言えばウケるかと思った配給会社の浅慮だったようだ)



 思いがけす拾いものだったなーと思いつつあらためてチラシの裏を読んでびっくり、原作があるではないか。





 なるほど映画にしては(!)お話にリキが入っていたと思ったが、なんだ原作があるんじゃないか、妙に飛ばしすぎ端折りすぎな感じがあるのは、原作を時間内に収めるために枝葉を切り捨てたせいだったんだー、と思い、これは読まねばと思って原作を手にして驚いた。

 全然違う!

 暗殺者→ボーンアイデンティティ 
 極大射程→、極大射程/ザ・シューター
 雷のような音→サウンド・オブ・サンダー
 追憶売ります→トータル・リコール

 が原作と映画で違うというレベルをはるかに超えて違う。

 「暗殺者」の主人公は中年のスパイで「ボーンアイデンティティ」のマット・ディモンは坊ちゃん坊ちゃんしてて全然違うし。

 「極大射程」のスワガーは厭世的な孤高の狙撃手だが、「極大射程/ザ・シューター」のスワガーはシュワちゃんのコマンドーのようだ。

 タイムマシンによる恐竜狩りツアーに参加した人間が過去でチョウチョを踏みつぶしてしまったところ、現代が暗黒社会に変わってしまった、責任を感じた男が拳銃自殺する音が「雷のような音」だったという短編が。「サウンド・オブ・サンダー」では過去を改変したおかげで「進化の波」が大津波となって現代社会を襲い(!)昆虫人間や恐竜人間が跋扈する世界に変わるという、大スペクタクルバカ映画に変わってしまった。
 
 「追憶売ります」は、平凡なサラリーマンが自分は秘密諜報員であり火星で大活躍したことがあるという設定の記憶を買いに行ったところ、実は彼は本当に火星に行ったことのある秘密諜報員だったというヒネリの効いた短編だが「トータル・リコール」はシュワちゃん大活躍の超スペクタクルバカ映画である。


 全然違うし、こんだけ変えるなら原作である必要ないじゃんと思えるのだが、それでも「暗殺者」の主人公はどちらも記憶を失ったエージェントではあるし、スワガーはどちらも狙撃手ではある。
 過去を改変したおかげで現代が大変なことになるという1点だけは「雷のような音」も「サウンド・オブ・サンダー」も同じだし、「追憶売ります」も「トータル・リコール」も主人公が偽の記憶を買いにいくまでは同じだ。

 し・か・し 
 WWZに関していえば、そのようなレベルですら違っている、同じな場所を無理にも言うとすればどちらもゾンビ物であるというところまで戻る必要があるだろう。

 つまりはまるで別物だ。



どんな狙撃手だ!

 原作はもちろんゾンビ物で、ワールド・ウォーというくらいだから世界的規模のゾンビ話なのだが、ゾンビとの戦いに勝利した後、筆者が世界各国のいろいろな人にインタビューをして歩いた記録という体裁なのだ。

 ウォーとは言うが実際にはゾンビの発生や、パンデミックに至る展開の描写もなく、戦争がどう推移したかについてのワールドワイドな視点もなく、どのように収束させたかも説明がない。
 ともかく、ただただ各個人がそれぞれの場所で何を目にしたか(どのような目にあったか)というミクロな視点の個別の話が綴られているだけだ。

 こういうタイプの小説もたまに目にすることはある。たとえばデ・パルマが映画化してヒットした「キャリー」もスティーブン・キングの原作は事件を後から振り返ることで何が起こったのかを浮かび上がられるという手法だった。こうした小説の場合インタビュー相手をどう設定するかが作者の手腕なのだが、これがなかなかバラエティに富んでいて楽しい。

 曰く、特殊部隊の兵隊。
偽薬(対ゾンビ薬?)で一儲けした詐欺師。
荒事にはまるで向いていないパパに連れられて逃避行に出た幼い娘。
知的障害者。
ゾンビから逃げる人の密出国を引き受けていたブローカー。
日本のニート(!)
地球に帰還できなくなった国際宇宙ステーションの乗組員。
事態を予測しその対策までも考えていた社会学者。
ゾンビとの戦いを撮ったドキュメンタリーフィルムが思いがけなく自殺者の軽減に役だったというヒットメーカー監督(スピルバーグ?)
完璧な避難場所を用意しておきながら自分が金持ちでどれだけ用心深くて先の読める人間かを喧伝する欲求を抑えられず、インターネットで自分達の生活を公開したおかげで避難民に襲われて元も子も無くしたセレブ・・のボディガード。

などよくこんな設定を思いついたと関心するばかりのインタビューが次々に出てくるのだ。
 次はどんな設定のどんなとんでもない人物がどんなWWZの側面を語ってくれるのだろう、これはゾンビ物の新機軸だ、とわくわくしながら読み進んでいたのだが、中途で若干不満を抱くようになった。

 これってつまりは「ドメスティック視点」ではないか。
 私は最近ドメスティック視点をハリウッドの病巣とまで言っているのだが、大きな話を扱いながら面倒なリサーチや綿密な構想を省くことが出来、思いつきやひらめきなどイメージの欠片だけで作品を仕上げることが出来る、要するにいいとこ取りなのだ。

 こういったタイプの作品はどれだけ面白くとも「うまいことまとめた」という以上の価値しかないのではないかと私は思う。

 どうあれここは正面切って世界の危機を描き、願わくば世界を救うヒーローまでも描いて欲しい。たとえ失敗しようと破綻しようとそういったお話にこそエンターテインメントの神髄があると思うのだ。

 とくに「ワールドウォーZ(世界ゾンビ大戦!)」と大見得を切ったのだからそうあって欲しいのだ。

 結果として切り口は斬新で、お話は面白いし、読む価値はありありと言えるだろう。

 しかし、破綻気味であろうが急ぎすぎであろうが、ともかくゾンビの発生を描き、主人公が事態を収束させる(糸口をつかむ)までを真正面から取り扱った映画のほうが作品としての志が数段上と思う、ということで今回のまとめにしたいと思う。


 さて、小説がそのようなインタビュー記事の集大成であるからには、映画のベースとなるエピソードが含まれていると思う向きもあるだろう。
 私も小説が映画とはまったく違う代物であると悟ったあとでも、きっとネタになったお話、主人公の雛形が含まれていると考えていたのだ。

 し・か・し、無かった、いったいこの小説のどこが原作なのだろうか。




 



 アナザーの続編が出ると聞いて「ふうん?」と思った。
 本を手に取ったところ『もはや伝説となった名作ホラー』とオビに書いてあるのを見て「それほどのもんじゃないだろう」と思った。

 たしかに昨年アナザーが話題になったのは確かだが、それはメディアミックスが図に当たったせいであり、つまりはアニメが出色の出来だったせいだし、もっと言ってしまえばヒロイン見崎鳴の魅力が半端なかったせいである。

 詳しいことは昨年書いたのでそれを読んでいただくとして、ともかくアニメ版はホラーでありファンタジーであり、青春群像劇であり萌えであり(!)いろんな仕掛けがかみ合った傑作だったのだ。

 実のところ日本に傑作アニメは多いし、小説を原作とするアニメも多いのだが、原作である小説に即したシナリオでありながら原作を越えたアニメというものは数少ない。
 (たとえば「未来少年コナン」は傑作だが原作の「残された人々」とはほぼ無縁の作品になっている)

 「数少ない」と言ったばかりだが、今私の灰色の検索システムで「原作に即していながら原作を越えるアニメ」を調べたところ「ガンバの冒険」しか出てこなかった(検索時間0.5秒なのでもう少し考えれば出てくるかもしれないが)それほどにアニメ「アナザー」は傑作なのだ。

 それと比べて原作たる小説はそれなりによく出来たホラーだったが、それなりという以上のものでは無かったと思う、つまるところこれはブームが去らないうちにもう一稼ぎってことじゃないの、と私は思ったのだった。




前作              アニメ             今作

ヒロイン見崎鳴ちゃん、カバーイラストもアニメ寄りになった、今回は一人舞台である。
なんだよキャラ人気かよと言うなかれ、芝居は元々役者オリエンティッドなものだし、映画だって多分にそうだ
バーチャルアイドルがプロジェクトの牽引役になることだってあるだろう。



 さて話は変わるが、というか変わらないのだが、切り口が変わるだけだが。

 昔むかし、私がまだ中学生だった頃、私は今よりよほど本の虫だった。SFが多かったのは確かだが今のようにジャンルや系統などというものには注意を払わず、エドモンド・ハミルトンも小沼丹も一緒くたに読んでいた、要するに乱読だ。

 さてしかし本の読み方もよくわかっていなかった中学生にもやがてあるジャンルの本は「読むに耐えない」ということがわかってきた、それがノベライズだ。

 映画、アニメ、時にはマンガなどから書き起こされた「それら」はなぜか決まってつまらない、それも同じ感触でつまらないと思うようになったのだ。
 遙か昔のことなのでその「感触」というものを正確には思い出せないのだが、どんな小説にもあって面白さの核になっている「何か」がノベライズには無いということだったように思う。

 確かに舞台設定は原作通り、人物の描写も過不足なく、ストーリーは原作以上に波瀾万丈、感動的なエンディングもちゃんと用意されている、し・か・し、何か肝心なものがこの小説から伝わってこない、なぜだ、そして足りないものは何だ、「小説の魂?」と当時の私は思ったように記憶しているのだが、ともあれその理由についても意味についても突き詰めることはなく、今後はノベライズには手を出さないことにしようと決めただけで終わった。

 今にしてみれば、その理由が少しはわかるような気がする、まずは理屈として言える部分を述べる。

 そもそも映像→小説では情報量が違う、小説を映画化する場合、過不足なく内容を盛り込むなら原作は短編、せいぜい中編がいいところで長編となれば相当な改編(つまりは切り捨て)を必要とする
 (『映像化不可能と言われたあの小説がついに』とかいうキャッチコピーをよく見るがたとえば「指輪物語」はその内容の濃さ故にそもそも映画化は無理なのだ、たとえ3部作にしようとも)

 つまりこれは映画を小説化しようと思えば短編か中編にしかならないということを意味する、これを単行本化(長編化)しようとすれば、内容を水増ししなくてはならないということだ。

 いくら高画質化回路があろうと720×480ドットのDVDを1920×1080のハイビジョンTVで見たら眠い絵になるのと同様と言っていいだろう(そうか)


 次は「なぜ映画の続編が前作を越えられないか」問題と同じだ、これは過去何度も述べていることなのだが、映画の第1作というのはそのネタ/ストーリー/仕掛け、を最高に生かすための人物配置、時代背景、舞台設定で始められる。しかし2作目以降はそれらの設定を引き継いだ上でお話を考えなくてはならない、言ってみれば手足を縛られた状態から始めなくてはならないのだ、これで1作目を越えろというのはそもそも無理なのだ。

 映画を小説化する場合でも同じことが言えるだろう、映像化を念頭に作られたストーリーをそのまま文章化したのではつまらない、といって設定その他を踏襲した上で読んで面白くアレンジしろというのは無茶だということだ。

 ・・・などと書いてはみたが、実のところノベライズが真に「何か足りない」のはそのような技術的な側面ではないのではないかと私は思っている。

 それは、やむにやまれぬ表現意欲、衝動、あるいは情熱、何と言えば正鵠を射ることが出来るかわからないがともあれ作家が「これが書きたい」「これを伝えたい」と思う創作意欲を支える「核」、それがあるかないかということではないのだろうか。

 作家というのは「書きたい、表現したい」という衝動があって始めた職業であり、それがあってこそ可能な創作活動であると思うのだ。よってその衝動によって書かれた小説にはなにかしらの核が存在する、それこそが人に何かしらのエモーション呼び起こすトリガーなのだ、昔私が漠然と思った「小説の魂」というのもそれだろう。

 となればノベライズが面白くないのは当然である。
 執筆者は出版社、あるいは映画会社から依頼されて書くわけで「やむにやまれぬ衝動に突き動かされ」て書いているわけではないのはあきらかだ。
 内容に縛りがあり、期限も決められた小説、大きな枠組みのピースの一つとして書かれる小説、ビジネスとして誕生する小説、期待できないのは言うまでもない。

 というところで話は元に戻る。

 アナザーSについて書きはじめた文章でなぜノベライズについてくだくだしく書いてきたのかということだが、つまりはまあ、そういうことだ。

 




 ミステリーのジャンル分けはいくつかの切り口がある。
 テーマで分ければ「社会派ミステリー」とか「日常系ミステリー」となり、トリックで分ければ「時刻表トリック」とか「メカニカルトリック」となる。

 小説の構成によって「倒叙もの」と呼ばれることもあり、お話の舞台から「法廷もの」とか「警察もの」というくくり方もある。同じように「青春ミステリー」とか「トラベルミステリー」などという分け方もある。

 これらはまったく次元の違う切り口であるので、社会派ミステリーだがメイントリックは時刻表トリックであるなどということも当然ありうる。

 さてそういったくくりのひとつとして「アームチェア・ディテクティブ」もの、というジャンルがある、日本では安楽椅子探偵。

 これは探偵自身は捜査をせず、相談者から話を聞くだけで解けない謎をさらりと解いて見せるという知的なミステリーだ。

 いつもカフェの片隅に座り、女新聞記者から事件の話を聞くだけで真相を言い当てる探偵「隅の老人」シリーズをもって嚆矢とするとされており、日本では「退職刑事」シリーズなどが挙げられる、「リンカーンライムシリーズ」を挙げる向きもある・・が。

 『安楽椅子探偵原理主義者』(私だわたし)に言わせると、それらは安楽椅子探偵ではない、なんとなれば彼らは相談者から聞いた情報だけでなく追加捜査をしているからだ。

 記者から迷宮入りになった事件について聞き、自身の推理を披露するという形式の「隅の老人」は形はアームチェア・ディテクティブものだが、自分でも追加調査をしていたりする。

 退職刑事は引退した元刑事が現職の息子から難事件について聞き、真相を推理する話だが息子に追加捜査の指示を出すこともある。

 リンカーン・ライムは四肢麻痺患者であり安楽椅子ならぬ電動椅子から離れられないが、言ってみれば「椅子つながり」なのはそれだけで、多くの部下を手足のように使って科学捜査をする。

 要するにこれらの作品は、捜査役と推理役が役割分担しているだけで、一人の探偵が捜査し推理する「普通の」探偵ものと大差はない。

 真のアームチェア・ディテクティブはそうではない(はずだ)

 依頼者が事件について語った情報だけですべてを推理する純粋な頭脳ゲーム、それこそがアームチェアディテクティブの心髄ではあるまいか。

 つまり、相談者も探偵も同じだけの情報を入手している、しかし相談者には(そして読者にも)は事件の真相が見えない。ところが探偵が手にしたデーターを組み合わせ、あるいは別な視点から見直してみせることによってアラ不思議、それまでまったく闇の中であった事件が白日の元に曝される。「なんでこんな事に気づかなかったのか!」と思うあたりが醍醐味であると思うのだ。

 もちろんこれが極めて難しい仕組みであるのは言うまでもない。

 旧家にまつわる血塗られた歴史とか、からくり人形とか、隠し部屋のある洋館とか、あるいは次期社長の座をめぐる暗闘とかのそれらしい背景もなく、最初からすべてのカードを読者に晒し、それでいながら謎は深く、しかし探偵が解説を加えた途端にすべてが腑に落ちるなどというのは、知的ミステリーの中でも最高峰の難度と言ってよい。

 というわけで原理主義者が認定するアームチェアディテクティブものは作品数そのものが少なく、一応の水準に達したといえるものすら希で傑作はほとんどない、というか一つしかない。それはここでも何度か取り上げたことのある「九マイルは遠すぎる」という ハリイ・ケメルマンの短編である。

 これは全部で8作ある「ニッキイ・ウエルト教授シリーズ」の中の1作であり、発表後40年を過ぎても誰も追いつけない珠玉の1作だが、このシリーズの他7作がイマイチであることを考えるといかにアームチェアディテクティブが難しいかという証左にもなっている。





 ちなみに米澤穂信は「古典部シリーズ」のひとつ「心あたりのある者は」という短編で「九マイルは遠すぎる」にチャレンジしている。
 その志はよしとするが「九マイルは遠すぎる」が友人の発した何気ない言葉から重大事件の存在とその犯人の動向までもあぶり出すのに対し、「心あたりのある者は」は犯罪を予感させる校内放送からしょぼい犯罪の存在をあぶり出すというあたりに、大人と子供くらいの貫禄の差を感じさせる。

 

 さてそろそろ本題に入ろう、なにゆえにこのようにアームチェアディテクティブについて語っているのかというと、なんと今回の「終物語」は手法がアームチェアディテクティブだからだ。

 多分おそらく西尾維新はアームチェアディテクティブ向けのネタを思いつき、てっとり早く物語りシリーズで実践してみたのではないだろうか。というのは、今回のお話は怪異とも吸血鬼とも無関係だからだ。

 そもそも全15作を数えるこの「物語シリーズ」正しく怪異譚であったのは初期の2部作くらいで、あとは登場人物たちがとボケと突っ込みをくりかえすだけのコメディであったり、自分たちがアニメ化されたとき誰が声をあてるかについて話し合ったりするメタ小説であったり、自分の人生について延々と内省する私小説であったり、かと思えば一転タイムトラベル&タイムパラドックスを取り上げたSFだったりとまったきのカオスになっている

 つまり今やなんでもありなのだ、だから今回ミステリーネタの発表の場になっても別段違和感はない。

 そして今作だが、今回は2部構成となっており主人公阿良々木暦くんは前後編で1つづつ謎を解いていく。特筆すべきなのは暦くんがその「謎」を当初「謎」と認識していないことだ。

 彼は新キャラである謎の転校生、忍野扇ちゃんに、問われるままに自分が過去経験した出来事について語り、語るうちに実はそれが当時自分が思っていた通り、表面に見えていた通りの出来事ではなく、背後には「事件」があり、謎があり、犯人が居たことに気づくのだ。

 彼は時を超えて当時の真実に迫ろうとするわけだが、手には何の証拠も資料もない、あるのはたった今、自分がそのことについて語ったとき「何をどう語ったか」「何を言い、何を言わなかったか」、それを言うときなぜ「その単語」を使ったのかという事だけ、つまり「自分の言葉」しかないのだ。


 ところで、先ほど私は自分を「原理主義者」と言ったが、実のところ私に言わせれば先に述べたのはアームチェアディテクティブとして最低限の条件でしかない、つまりこれが満たされればとりあえずアームチェアディテクティブものと言っていいだろう、というだけのものだ。

 実のところ私は本当のアームチェアデデクティブは「物的証拠を吟味してはいけない」と思うのだ。

 まあこれに賛同者がいるかどうかはわからない。
 「隅の老人はアームチェアデデクティブではない」とはよく言われているので前の条件について意見を同じくする人は居るはずだが、これは更に先鋭化したいわば極論であるからだ。

 しかしなぜこのようなことを言うかとかといえば、証拠が集まるタイミングだけでアームチェアデデクティブが成立したり不成立だったりするのはどうか?と思うからなのだ。

 つまりたとえば退職刑事の場合、息子が父親に相談する前に証拠調べが終わっていればアームチェアディテクティブ、追加捜査すればアームチェアディテクティブではない、というのは本当なのか?ということだ。

 先に「追加捜査をするならそれは捜査役と推理役が役割分担しているだけだ」と述べたが、それを言うなら先に捜査が終わっていたとしても捜査する人間と推理する人間が分離しているだけだという事情には変わりない。

 読者の前にいちどきに手札を晒すか逐次投入するかの差だけでアームチェアディテクティブの本質が変化するものだろうか?
 
 証拠の開示が段階をおって行われたとしても、すべての証拠が出そろったときに相談者が真相に気付いておらず、探偵がそれをたちまち解いてみせるならそれはアームチェアディテクティブなのではないか。

 ・・などと演繹していくと一気にアームチェアディテクティブの範囲が広がってしまう、それこそヘタをすると金田一も御手洗潔もリンカーン・ライムもそれだ、ということになってしまう、しかしあきらかに彼らはアームチェアディテクティブではない、ならば前提が間違っている。

 ということで私はアームチェアディテクティブものの醍醐味、手がかりから手がかりに飛び移っていく感覚(論理のアクロバット)についてあらためて考察してみたわけだ。

 ここはミステリーについて語る場ではないので結論を言ってしまえば、人の常識や思い込みこそが謎を謎として成立させていたのだ、とか、言葉が内包する多様な意味が手がかりになったのだ、といういわば形而上の推理こそがアームチェアディテクティブの本質ではないのかと思うに至ったのだ。

 つまり凶器がどうとか、指紋が一致したとかしないとか、現場の移動手段がどうとかなど物理的な証拠を元に探偵が推理するのなら、それがたとえいっぺんに提示されたものであっても、アームチェアディテクティブとはいいがたいということだ。

 もちろん読者としてはすべての証拠を手にしていながら自分では見抜けなかった謎を探偵が一気に解き明かすという形式にある種の快感があるのは認める、それがアームチェアディテクティブの魅力の一端であることも確かだ(証拠の形式はなんであれ)しかしピュアではない。

 物的証拠にたよらず、相談者が事件について何をどう語ったか、何を言い、何を言わなかったか、ああ言うのではなくこう言ったのはなぜか、という言葉だけで真相を言い当てる探偵、それそこがアームチェアディテクティブが目指すべき真の探偵像なのではないのだろうか。

 極論ではある。といって私がそのように主張するのはそれが「九マイルは遠すぎる」でほとんど成功しているからだ。

 「九マイルは遠すぎる」は語り手である私と英文学の教授であるニッキイ・ウェルトが、朝食のあと職場への道を歩きながら会話するという形式であり物的証拠を集めたり吟味したりすることはできない、そして推理のベースとなるのは「私」が何気なく発した11語からなる短文でしかない。

 私が「心あたりのある者は」をよしとするのは探偵折木くんとえるちゃんの2人が古典部部室で聞いた校内放送だけをたよりに推理をするからだ。

 「九マイルは遠すぎる」を「ほとんど」成功というのは「私」が途中で地図を見てしまうからである。
 「心あたりのある者は」ではえるちゃんが校内放送に出てくる「巧文堂」が文房具屋であり学校から離れた場所にあると「知って」いることが瑕瑾だ。




推理中の二人(アニメ版氷菓より)

 金字塔「九マイルは遠すぎる」にしてこれなのだから私が言う「真のアームチェアディテクティブ」が果てしない夢であることは確かだ、しかし完成形はすぐそこにある。

 これが真に完成した場合、私はそれをアームチェアディテクティブならぬ、ダイアローグ・ディテクティブと呼ぶべきだと提案したい(無いものにラベリングしてどうする)


 さて本筋にもどした筈の話がまた逸れていってしまったが今作「終物語」だ。つまりこれがかなりこのダイアローグ・ディテクティブに近いということなのだ。

 物的証拠を吟味しまくりながらも証拠の提示が一回だけの「ギリギリアームチェアディテクティブ」から「ダイアローグディテクティブ」に迫る幅の広いグラデーションの中で今作はかなりゴールに近い。

 たとえば今回の前篇は教室に閉じ込められてしまった阿良々木くんと忍野扇ちゃんの会話だけで話が進む。

 そして扱っているのはるか昔に阿良々木くんが経験した出来事、証拠を集めることはもちろん誰かの証言を得ることもできない、そこにあるのは阿良々木くんがその体験をどんな言葉で扇ちゃんに語って聞かせたかということのみ。

 そして阿良々木くん当人はその「事」を事件とも謎とも思っていないのだ。

 それを扇ちゃんのつっこみによって、自分の言った事、あるいは言わなかったこと、こう表現したが、そうとは表現しなかったこと、の中に当時は気付かなかった謎が含まれていることに気付き、自分の発した言葉をたよりに真相に迫るのだ。
 
 (たとえ話をするとA君について「彼は野球部員だった」と言いB君については「彼は野球部のひとりだった」と言ったとすれば、いったいになぜ自分は2人について言葉を使い分けたのか?、ということを自問自答するというような事だ)

 語り手が相談者であり探偵でもある。推理のベースは当人の言葉だけ、アームチェアディテクティブとしても先鋭的な作品と言ってよいだろう。

 惜しいのはこのお話、聞き役の忍野扇ちゃんが的確なつっこみをするからこそ成立しているという点だ。
 実のところ、その的確さ加減というのは、およそ千里眼の持ち主でもないかぎりありえそうもなく、彼女こそ怪異そのものかもしれないと思わせるレベルであり、実際そうなのかもしれず、と考えてみれば先に述べた「今回は怪異とも吸血鬼とも無関係」というのは間違いで「物語シリーズ」であってこそ成立したお話なのかもしれない。

 なにはともあれ作者が「台詞だけで成立するミステリー」にチャレンジし、かなり成功しているという点だけは評価しなくてはならないだろう。

 さすがの才気、西尾維新すげえ。



 






 特に予備知識を仕入れなかったのだがなんとなく悪い予感がしたので劇場には行かなかった。
 とはいえ主演がトム・クルーズでありチープな映画ではあるまいと思われたし、なによりSF映画(らしい)のでレンタル落ちしたところでBD鑑賞した。

 さてその内容だ。

 『2017年地球は異星人「スカヴ」の侵略を受ける。60年にわたる戦闘の末ついにこれを撃退したが激しい戦闘の結果地球は放射能汚染され居住に耐えない世界になってしまった。人類は現在宇宙ステーション「テット」に避難し、木星の衛星タイタンへの移住計画を進めている
 地表では移住用の資源確保のため無人プラントが稼働しているが、スカヴの残党がこれを襲撃してくるので無人戦闘マシン「ドローン」を配備してこれを守っている。
 主人公ジャック(トム・クルーズ)とヴィクトリアのペアはドローンのメンテナンスとパトロールのため地球に滞在している』

 というような背景が語られるが、なかなか面白そうじゃないか、とは思わなかった。なぜなら冒頭いきなりジャックが「記憶を抹消されて5年」と独白するからだ。

 「あ~~(やっぱり?)」と思った。


 記憶喪失ものの映画、小説は数多いがおおむね同じような経過をたどる。
 記憶のない主人公は断片的に蘇る記憶の断片に苦しみ、隠された自分の正体について悩み、最後にはすべてを思い出して大団円に至るというものだ。
 ドラマはたいがい「中途半端に蘇る記憶」の上に成り立っている。
 
 しかし「何を忘れ、何を思い出すか」は製作者の胸先三寸だ。
 極端な話、何も覚えていなければお話が生まれないし、すべてを思い出したらそこで話は終わってしまう。結局サスペンスを維持できるように都合よく記憶が蘇っていくわけで、つまりはご都合主義。

 この冒頭を見て、私は即座に「マイノリティ・レポート」を思い出した。
 これは、超能力者が殺人事件を予知し、犯行以前にその犯人を逮捕してしまうという世界を描いた近未来SFである。
 トム・クルーズ演ずる犯罪予防局のジョンは犯罪者を逮捕するチームの隊長であり何の疑問も持たず自分の任務に邁進していたが、ある日自分が殺人事件を起こすと予知されてしまう。
 そのような犯罪を起こすつもりのない(!)ジョンは逃亡し、一転当局に追われる立場となる。

 というようなものだ、この映画の「キモ」はこの予知が完全ではないことだ、つまり予知能力者は犯罪を映像の断片としてしか見ることが出来ないし、見たい場所を選ぶこともできない。

 なぜそのような設定になっているかと言えば、事件の一部始終を見ることが出来ればこのような冤罪は発生しないし、あまりに断片的すぎれば予知による犯罪防止などというシステムが成立しないからだ。つまりこの映画は、このお話が成立するために都合よく作られた世界観の上に始めて成立している。

 『見ているぶんには面白いがよく考えてみるとご都合主義であり予定調和でもある』映画たち。

 
 まあ、どんな映画のどのような設定もそのお話のために都合よく作られているのは確かなのだが、普通はそこから先はその世界なりの必然性と論理性の上にお話が転がっていく。
 ところがこのたぐいのお話はその過程までもが、記憶喪失もので言えば「どのタイミングでどの記憶が蘇ることにするか」までもがご都合主義なのだ、これは必然的でも論理的でもなく「おいおい」と思うことが多々ある。

 「あ~(やっぱり?)」と思ったのはそこのところだ。

 さらに気になったのが侵略SFものであるのになぜに記憶喪失という設定が必要なのかということだ。

 これはつまりは冒頭に語られた内容、それはつまりジャックが信じている(教え込まれている?)歴史ということだが、それが事実ではないということに他ならない。

 ということは。

 『地球が異星人「スカヴ」の侵略を受けたのは2017年ではないか、そもそもそれは侵略ではないか、戦闘が続いたのは60年ではないか、ついにこれを撃退したというのは間違いか、地球は放射能汚染されていないか、人類は宇宙ステーション「テット」に避難していないか、木星の衛星タイタンへの移住計画はウソか、 地表で稼働しているのは移住用の資源確保のための無人プラントではないか、これを襲撃してくるのはスカヴの残党ではないのか』の「どれか」あるいは「その全部」であるわけだ。

 この謎解きに関してヘタな引っ張りをしないで欲しいなあとも思った。

 チャイナ服を着たマジシャンがどこからともなくいろんな品物を取り出し、最後には大きな金魚鉢までも取り出して見せるマジックがある。
 体に見合わないだぶだぶの服を着ていて、もう舞台に出てくる時からおかしな歩き方で(股の間に金魚鉢を吊しているので)観客もこれから何が行われるか知らない筈もないのだがうまい演者がやるとそれなりに面白い。
 問題はネタを知っているかどうかではなく、どう見せるかなのだ。


 さて公開してから日の浅い映画は通常ネタバレしないようにしているのだが、今回は話の流れで言ってしまうと。

 「パトロールするジャックを遠方から観察している何者か」もちろん映画文法的にはこれが「スカヴ」なのだが、これを本当に「異星人スカヴ」であると思ってくれる観客っているのだろうか。

 「テット」上からジャックとヴィクトリアに指示を出してくる「映像だけの上司」これが実在する人物であると誰もが思うのだろうか?

 ジャック達の住まいの生活感の無さ(とんでもなく高い塔の上のガラス貼りの住居だ)まで含めて「ここにあるのは壮大なフェイク」と声を大にして言っているようにも思えるのだが。製作者たちは実際にはどれだけ自覚的なのだろうか。





この空虚な感じ、足が地に付いていない、まさしく絵空事な空気感は見事


 「謎を秘匿したまま話を進め、最後にビックリ仰天の種明かしをする」つもりならジャックは自分が記憶操作されていることを知らない、という設定も可能だったわけで、それをせず開巻いきなりバラすからには、謎と秘密があるのは承知で、それが次第に明かされていく過程をお楽しみくださいという話になるはずなのだが本当に大丈夫だろうな、などと余計な心配までする私なのだった。


 さて、そのような観点から見ると・・などと言うとまるで私が深読み上等のすれっからしのSF者であるかのようだが、まあすれっからしのSF者ではあるのだが。これは普通に映画好きなら当然思うレベルであるとあらためて言っておく。そしてそのような観点から見ると、やはり謎の明かされ具合や記憶の蘇り具合に不満が生じるのであった。

 特に途中で登場する2人の人物の扱いだ。

 1人はジャックの夢に現れる美人だ。記憶を抹消されている筈のジャックだが、彼はその女性とエンパイアステートビルでデートする夢を頻繁に見る。
 そもそも記憶以前の問題として、それはスカヴの侵略前、60年以上前でなければありえない光景でありジャックが経験しているはずのない出来事なのだ。
 そして、その彼女が不時着してきた宇宙船の中から現れる。記憶操作されている様子のない彼女はジャックの知らない事情を知っている筈なのだが何も言わない。

 もう1人はモーガン・フリーマン演ずる謎の老人である(モーガン・フリーマンはもはや作品を越え「普遍的な正義」であるという記号になっている、顔に「善」と描いてないのが不思議なくらいだ)この人物はジャックの抱く疑問のすべて、ひいてはこの映画に関する謎のすべてを知っている(と思われる)人物なのだが、何も言わない。

 なんでだよ、言えよ、普通言うだろう、と観客に思わせてはいけないと思うのだが思ってしまう。
 まあ「言うと映画が終わってしまうから」とは言えないのはわかるが、そこのところが見透かされるようではいかんのではないだろうか?

 とまあそんなこんなで、映画の中盤がビミョーな進行なのだった。

 クライマックスにかけての怒濤の展開、全ての謎があかされ、ジグソーパズルの最後の数片がピタリピタリとはまっていくような快感はそれなりの面白さと言えるが、途中のビミョー感を上書きしてしまえるほどではない。

 どのように評価するか難しいところなのだが、言ってしまえばレンタルBDで見るぶんには充分に面白いと言えるだろう。
 ここでは特に触れなかったがこの映画、荒廃した地球が実に美しいのだ、人類が立ち去り地表には生けるものも無くただただ広い空。この美しく悲しい風景がこの映画の印象を相当に底上げしている、この映像だけでも見る価値がある(かもしれない)





1800円也を支払って半日つぶして劇場に足を運べとまでは言えないが。BDで大画面モニターでレンタル鑑賞できるなら充分におつりがくるだろう。


 大傑作でもないが、つまらない映画ではない、これはそのような映画である。
(マイノリティ・レポートに似てるなそこも)