「それはもう、すごいですよ!見た当時は幼稚園児でしたが、ただでさえ「怪獣がいる」っていうのがおかしなことなのに、そこに同じ大きさの人間もいるというのがさらにおかしかった。(中略) 俺はそれで夢が広がったわけです「これも誰かが作ってるんだ!」と。そのときには、自分でも作れるかなんてことは全く考えてはいなかったですけど。

樋口真嗣

「フェイマス・モンスターズ」誌といったような雑誌を読んで、七才から八才のときに初めてこう思いました。
 「待てよ、これはある人にとってのお仕事なんだ、朝、働きに出てこれで生活しているんだ」

マーク・ハミル







           
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 『可能な限り科学的に正確な描写をこころがけた映画』という話を聞いたので観に行った。

 まずはそのタイトルから、そして舞台が地球の衛星軌道上であるということから劇中多くの無重力表現があると思われた。
 「どうれひとつ見て進ぜよう」というつもりで行ったのだが、冒頭いきなりEVA(Extra Vehicular Activity=船外活動)のシーンで打ちのめされてしまった。

 無重力下で撮ったとしか見えない動き、そして軌道上から撮ったとしか思えないクリアな地球、ドキュメンタリー映像としてよく見る映像そのものである。そしてその中でサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーが演技している。





 どうやって撮ったかなんて気にするのはやめて映画を楽しもうと思うのに時間はかからなかった。

 しかし一方、そのすさまじい(としかいいようはない)映像リアリティとあまりにハリウッド的なストーリー展開に違和感を覚えるのにも時間はかからなかった。

 つまり映像はドキュメンタリー、お話がジェットコースタームービーなのだ。

 ハッブル宇宙望遠鏡と国際宇宙ステーションと中国の宇宙実験室「天宮」がほとんど同一の軌道を回っていて、目視可能なほど近くにあるという科学的に怪しい設定にも違和感を覚えた。
 (実際の天宮の軌道高度は約350Km 国際宇宙ステーションは410Km ハッブル宇宙望遠鏡は560Km、高度差だけでも200Kmあるのだ。軌道高度が違うということは周回速度も違うということなので、たとえ3つの軌道が交差していたとしても200Kmまで近寄るのはほんの一瞬である)


 お話はNASAのスペースミッションでハッブル宇宙望遠鏡を修理していたスペースシャトルがスペースデブリ(宇宙ゴミ)によって破壊され、EVA中だった2名(サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニー)以外は死亡、シャトルも破壊されてしまう。宇宙に取り残された2人は果たして地球に帰還できるのか、というものである。


 まあ、普通に考えて宇宙船を失った宇宙飛行士が生還できるはずもないわけだが、できませんデシタ、では映画にならないわけで、そこには大小さまざまなご都合主義が必要になってくる。その一つが先の宇宙施設がとても近くに集まっているという設定なわけだ。

 まあ、ほとんど奇跡に近いことをリアルに描こうとしてるんだからこのくらいはしょうがないかなと思いつつ観ていたのだが、どうにもありえない描写があって白けてしまった。

 国際宇宙ステーションに残っていたソユーズ宇宙船に乗り込んだサンドラ・ブロックが中国の天宮に向かうというシーンがある。
 (ソユーズは国際宇宙ステーションの救命ボートとして常に最低1機が連結されているのだ。ただし映画ではこのソユーズにもダメージがあって帰還船としては使用できないことになっている)
 サンドラ・ブロックはソユーズを天宮に向けてメインエンジンを吹かそうとするのであるが・・・

 これはありえない!


 近隣の星の重力の影響を(あまり)受けていない状態(宇宙空間に対して静止している状態)であれば、宇宙機はエンジンを吹かせばその反対向きに進むが、軌道上を周回している時はそうはいかない。

 国際宇宙ステーションに接近する「こうのとり」の映像などを見ると双方ともに静止しているように見えるが、実は両者は秒速約8Kmで地球を周回しているのだ。同じスピードで同じ方向へ周回しているので静止しているように見えるだけである。

 映画の場合、ソユーズから天宮が見えるとすれば、それは同一高度を同一速度で同一方向に飛んでいるということだ(そんなことはないのだが、そこは「現実と違う」だけで「科学的に間違っている」わけではないのでアリとしよう)

 では天宮が先行していているとする(映画にはそこがどうなっているかという描写はない)
  そこでソユーズを天宮に向けエンジンを吹かすとするとどうなるかということだ。

 さて、宇宙機の速度を増す時その速度の増分をΔV(デルタ・ブイ)という。
 速度を増すことは軌道を変えることとほぼイコールなので「あと30分でΔVして地球周回軌道から再突入軌道に移行する」などとも使う。

 減速はマイナスのΔVと言い、地球周回軌道から地球再突入する場合はマイナスのΔVを行うことになる(「逆噴射」とも言う)
 地球周回軌道で減速すると地球に引かれてより低高度の周回軌道に遷移する、減速を続ければやがて軌道が地球に接してしまう(地球に再突入)してしまうわけだ。
 (軌道速度がゼロ、つまり地球に対して停止すればレンガのようにまっすぐ落下してしまう、それは地上1mでも大気圏外でも変わりない)

 さてでは映画の場合だ。
 先行する天宮を追う形でソユーズのエンジンを吹かすということはプラスのΔVを行うということだ、すると再突入の逆で、ソユーズはより高い(地球から遠い)周回軌道に遷移する。するとどうなるか、ソユーズの周回速度が落ちるのだ。

 これは『面積速度一定の法則』によって説明される。
 
 具体的に説明すると、国際宇宙ステーションは約90分で地球を一周する、15分だと60度周回するということだ。
 地球の中心からこの60度の軌道を結んだ形は、ちょうどピザを6等分したような扇形になる。

 また地球の軌道上には気象衛星ひまわりも周回している。ひまわりは地球1周に24時間かかる、24時間で360度ということは、15分だと3.75度になる、この軌道を先ほどと同じように地球の中心と結ぶと尖った扇形になる。
 ひまわりの軌道高度は国際宇宙ステーションより9倍ほど地球から遠く(3600Km)これがピザだとしたら、幅がえらく狭く、長さだけは9倍あるとんがったピザということになる(ピザを96等分に切った形だ)

 しかし!国際宇宙ステーションが15分で形作る扇とひまわりが15分で形作る扇の面積は同じだ。

 これが『面積速度一定の法則』別名『ケプラーの第2法則』である。

 簡単に言えば、衛星の地球周回速度は軌道高度によって決まっており、低いと早く、高いと遅い。

 では映画の話だ、前進方向に加速したソユーズはどうなるか、加速すると軌道高度が上がり、軌道速度はそれまでより遅くなる。
 つまり「軌道上でプラスのΔVを行うと衛星の速度は遅くなる」ということなのだ。

 ソユーズからの主観で言えば、天宮に機首を向けてロケットを吹かせば自身が上昇しながらバックし天宮から離れていくように見えるだろう。

 映画のように噴射一発、天宮に向かってGO~ということはありえないのだ。
 これは科学的であることを標榜する映画にとっては看過し得ない問題である。


 (ちなみに今述べたのは天宮がソユーズに先行している場合だ。この逆、つまりソユーズが天宮の先を飛んでいた場合はどうなるだろう。
 この時、天宮に機首を向けるということはソユーズは進行方向に対して後ろ向きになるということだ。ここでエンジンを吹かすということは逆噴射するということであり、マイナスのΔVとなる。すると軌道高度は落ち、低い軌道に遷移して周回速度が増し、結果やはり天宮から離れていってしまう)

 SF作家ジェリー・パーネルなら「この映画にはトラックが出入りできるほどの大穴が開いている」と言うだろう。
 (パーネルがこのセリフを言ったのは「ミッション・トゥ・マーズ」に対してのことだ。火星に先史古代文明の遺跡が残っていたというファンタジー要素のある映画であればまだしも、ドキュメンタリータッチがウリの映画でこれはまずいのではないだろうか)


 などと言うと、途中を面倒になって読み飛ばしてきた方の中には「また小うるさい宇宙マニア、原理主義的ハードSFファンが重箱の隅をつつくようなアラさがしをしている」と思うかもしれない、がそうではない。


 以前「ロケットガール・シリーズ」というものを紹介した。女子高生が宇宙飛行士になり波瀾万丈の大活躍するというラノイトノベルだ。
 舞台設定やキャラ立ちはラノベそのものなのに考証は科学的に極めて正確という奇妙な味の小説だが、この中にテロリストがに中国の宇宙船「神舟」をのっとり国際宇宙ステーションに体当たり攻撃を仕掛けるというエピソードがある。

 テロリストは打ち上げに関する最低限の知識と自動操縦装置だよりで軌道高度まで上がってくるが、宇宙船の操縦訓練を受けていないので体当たりを試みるにあたって、機首を国際宇宙ステーションに向けメインエンジンを吹かすという常識的(地上の常識であるが)操作をする。がしかし軌道高度が変わって失敗してしまう。

 こう言っては何だが、たかが富士見ファンタジア文庫である、作家一人で執筆した中高生がメインターゲットのラノベである。そのラノベでさえケプラーの第2法則を作品に取り込んでいるのだ。

 ついでなのでもうひとつ挙げる。先般公開された「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」である。

 映画はヱヴァンゲリヲン2号機が初号機の封印されている「棺」を奪還するシーンから始まる。

 「棺」は地球の軌道上を周回しており、ヱヴァンゲリヲン2号機は更に上の軌道を周回している。

 「作戦最終軌道に投入開始。減速行動に移る」
 「第一段、全エンジンを点火。燃焼を開始」
 というオペレータの声とともに。2号機に取り付けられたブースターユニット4基のロケットが点火する。
 マイナスのΔVを行い「棺」が周回している低高度の軌道に降りていこうというわけだ。
 ロケットの噴射が終了すると2号機は使い終わったブースターユニットを分離するのだが、分離されたブースターユニットは後方の補助エンジンを吹かして加速(プラスのΔV)を行う。

 地上的常識で考えれば、切り離して一旦後ろに下がったブースターユニットが再加速すれば先行している2号機本体に追突しそうなものだが、ブースターユニットは後退し上方に去っていく。
 プラスのΔVによって軌道高度が上昇し周回速度が落ちたのだ。

 さて、使用済みのブースターユニットは離れていったが2号機の周辺には分離で生じたこまかいパーツがただよっている。
 映画では2号機は更なる軌道変更を行うため2段目のブースターを作動させて2回目のマイナスΔVを行う。
 と、周辺をただよっていたパーツが動き始め、後ろ上方に去っていく。






 これらのパーツには移動のための補助ロケットは付いていない、ではなぜ動いたのか。

 これは2号機本体が2回目のマイナスのΔVをおこなったため、更に軌道高度が下がり、周回速度が上がったことによるものだ。

 パーツ類は1回目のΔVで遷移した軌道を回っている。2号機本体はそこから下降し加速したわけだが、カメラ(?)は2号機を正面から捉え続けているのでパーツが後ろ上方に去っていったように「見える」ということなのだ。

 このあたりまるでケプラー第2法則の解説ビデオのようである。


 ヱヴァンゲリヲンは「たかがラノベ」なロケットガールズと違う。日本が世界に誇る重厚長大コンテンツでありブレーンも監修も居るだろうとは思う。
 とはいえ神の力を利用して人類を変容させようとする勢力と、同じ力を利用してそれを阻止しようとする組織の戦いを描いた壮大な叙事詩であり、あまりに壮大すぎて監督ですら作品をコントロールできなくなるほどだがそれはさておき、もはや荒唐無稽なファンタジーと化した代物だ。
 そのイントロの背景のブースターユニットなど、枝葉の先の重箱の隅でしかない、しかしそれにさえケプラーの第2法則をキチンと取り込んで作画しているのだ。

 衛星軌道でのスペースミッションを正面から取り扱ったシリアスなティストの「ゼログラビティ」でこれはないんじゃないのかなーと思ったのだった。


 と、書いてきて思い当たったことがある。

 スペースデブリに襲われたあと、ジョージ・クルーニーが「90分にタイマーを仕掛けておけ90分後にまた来るぞ」と言う。
 観ていて「?」と思ったのだが、映画を観ている最中でありこまかいことを考える暇もなくスルーしてしまったのだがこれまた変な話である。

 90分というのはリアルに国際宇宙ステーションが地球を1周するに要する時間である。 
 デブリがその国際宇宙ステーションと90分に1回遭遇するとすればデブリは倍の速度で同じ方向に周回しているということだ。しかし、先ほどから何度も述べているように「同じ軌道高度を倍の速度で周回する」ことはありえない。

 とはいえ両者が同じ軌道高度を回っていないかぎり何度も遭遇するということはない、ありうるのは同じ高度で軌道が交差している場合だ、しかしそれだと地球のこっち側と反対側で2回交差する筈でインターバルは45分になる。

 
 などなどと考えてくると、どうもこの製作者達は国際宇宙ステーションやシャトルが宇宙空間に静止していて、デブリだけが軌道を周回していることにしたいのではないだろうかと思える。

 もちろんデブリが静止していて、主人公達が90分で周回しているのでもいいのだが(いけないのだが)先に述べたロケットを噴射して前方に進むという牧歌的な(軌道力学を無視した)ロケット推進描写と考えあわせると、そのつもりと考えると全てのつじつまが合う。

 しかしこれまた何度でも言うのだが、地球軌道上で何かが「静止」することなどできない。
 国際宇宙ステーションにせよデブリにせよ、地球に対して静止したらそれはレンガのように落下するのだ。
 
 観客にわかりづらいからウソを付いたということだろうが、それはあまりに非科学的にすぎる。


 これに「重力」などというタイトルを付け(原題は「GRAVITY」)科学的に正確などと売り込むのは詐欺に近いだろう。
 そもそも「宇宙に出ると(地球から離れると)無重力になる」と思い込んでいる人は多いのだ、この映画がそれに拍車をかけてしまうのは想像に難くない。
 そこは多少面倒でもキチンと話に取り込むべきだったのではないか。

 監督は「2人をつなぐ命綱は重要な小道具なので無重力下での動きには気を配った」などと言っているがもっと他に取り組むべき課題があったとしか思えないのだ。
 スペースミッションを正面きって扱っていながら科学的に大穴の開いている映画、それにどれだけの価値があるだろうか。





三角錐のトラス状構造物にロケットノズルが15機取り付けられた、エヴァ2号機のブースターユニット。
2号機はこのユニットを1段目のΔVで4基、2段目3段目で2基づつ使い捨てる
(絵は最終段の2基で中央に見える赤い部分に2号機が入っている)
オペレーターが「S-IC燃焼終了」と言っているので、
使われているエンジンはアポロ計画時代サターンV型に使われたロケットであると思われる。
(ロケットダイン社のF-1エンジンを5基束ねたものがS-IC、このブースターはそのS-ICを3基束ねているわけだ)
時代背景からすると前世紀の遺物だが、枯れた技術の再利用ということかもしれない。
ちなみにそのスジのマニアがS-ICの推力と燃焼時間から計算すると、
エヴァ2号機の軌道高度を当初500Kmと考えるとこの強奪作戦に矛盾がないらしい。
さすが。
 


 




 若々しいエネルギーと不安定さ、技術的な欠陥とそれを補うアイデア、新人作家というものはそのような未完成な魅力をひっさげて登場するのが普通だ。

 やがて彼(彼女)はテクニックを身につけ、アイデアと表現を高度に融合させた傑作を次々とものする。

 やがてアイデアは枯渇し作家としてのバイタリティにも陰りが出てくる、が、長年培ったうまさでその弱点をカバーし、そのネームバリューもあって作品を出し続ける。 しかし、て晩年になるとついには・・・いやなんでもない(^^;)
 多くの小説家の経歴ははおおむねこのような経過をたどる。
 
 これは小説家について述べたものだがマンガ家も映画監督も同じような経過をたどるのが普通だ。
 (作曲家も画家もことによって似たような傾向があるのかもしれないが、そのあたりについては何か言えるほどの知識を持ち合わせていない)

 さて法月綸太郎である。すでにベテランの域に達しているのだがいまだに今日昨日デビューしたかのような危うさを感じる作家なのだ。

 ・・・てなことを以前にも書いたなと思って自分の書いたものを読み返してみたところ2012年のScriptSheet「キングを探せ」で。

  法月綸太郎はデビューして20年以上、上梓した著作も20作以上、中堅というより、もはやベテランと言ってよい作家である・・にもかかわらず、いまだに完成された感のない作家である。
 「完成された感が無い」というのは、良く言えば理想主義であり商業主義に毒されていないという意味であり、悪くいえばアマチュアっぽいということで、頑なさが残る作風だということでもある。


 と書いていた、それは未だ変わっていない。


 今回の短編集だが、まずネタがマニアックである。
 まずは表題作の「ノックス・マシン」
 英国のミステリ作家であるロナルド・ノックスは1929年「ノックスの十戒」というものを発表した。これは「推理小説は以下のような規則にのっとって書かれるべし」というルールを定めたものだ。

 この十戒は「探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない」とか「探偵方法に超自然能力を用いてはならない」など、今でも通用するもっともな事が書かれている一方、「探偵小説に中国人を登場させてはならない(第5条)」という意味不明な記述がある。
 この一文に関しては多くの研究家やマニアが様々な解釈を加えているが、定まった結論がない。「ノックス・マシン」はタイムトラベルによってノックス自身にその真意をただすという小説である。

 そして次の「引き立て役倶楽部の陰謀」
 「引き立て役」とは探偵小説につきものの脇役達(ホームズに対するワトスン、御手洗潔に対する石岡くんのような)のことだが、彼らは昨今の探偵小説において自分達のような聞き役(伝記作家)を廃する動きがある事に危機感を覚え、伝統を破壊するような作品を書く作家に対し驚くべき陰謀を企てる、というお話だ。

 どちらも マニアによるマニアのためのマニアックな小説である。大学のミステリ研の部員が部誌に投稿した小説だと言われるとしっくりくるようなテーマだ。良く言えばナイーブ悪く言えば青くさい。

 そして、テーマもさることながら記述がまたプロとしていかがなものかというレベルだ。

 ノックス・マシンの舞台は2058年の近未来である。この時代、詩や小説は数理文学解析という手法によって完全に分析されつくし、コンピューターによる自動文学作成があたりまえになっている。
 人間至上主義者の抵抗むなしくオートメーション化された文学は、質・コストともに人間の力がおよばない領域に達し、ついにはノーベル文学賞を受賞するに至った。

 という世界観なのだが法月綸太郎はこれをすべて地の文で説明してしまうのだ。
 このなんでも説明しちゃう感じってどっかで目にするんだが・・などともったいを付ける手間を省いて言うとこれはライトノベルで特徴的な形態だ。

 つまりライトノベルを読んでライトノベルで育ちライトノベルでデビューしたぽっと出の作家は「オレの考えたカッコ良い設定」をそのまま書いてしまう(ことが多い)

 設定を考えることと物語を作ることは違う。
「お話」というのは主人公が動き、話し、見聞きすることで動いていくべきものだろう。

 2112年、日本はシビュラシステムによって社会を管理運営していた。これは人の精神状態を客観的に計測し数値化する技術の総称だ。この数値の中で特に重視されているのが犯罪係数である。
 この数値があるレベルを超えた人間は「潜在犯」と呼ばれ、犯罪を犯す危険が高いとして予防的に拘束・隔離されてしまう。
 また警察官など公務員はこの犯罪係数が一定以下の者しか就くことができない。
 このシビュラシステムによって日本の社会は世界でも例を見ない高い安全性と安定を維持していた。

 というのは2012年に放送されたアニメ「サイコパス」の世界観だ、いかにもなディストピア設定だがさすがに当代一流のシナリオライター虚淵玄はこれを地の文=ナレーションで「説明」したりせず。
 新米刑事、常守朱(つねもりあかね、社会に貢献すべく青雲の志を抱いて着任した20才の女性)の行動、見聞を通じてその世界の危うさを見せつける。
 (たとえば朱ら警察官の所持する銃はシビュラシステムと直結していて容疑者に銃を向けると瞬時に犯罪係数を計測する。数値が高ければ撃つべきであると銃自身が警察官にサジェスチョンを行い、低ければトリガーをロックしてしまう。これによって誤射、誤認逮捕することはなくなるが警察官から判断力も責任も奪ってしまっていいのかと朱は悩む、などという具合だ)
 
 設定を考えることと「物語る」ことは別なのだ。

 ノックス・マシンでは世界観の説明に約4頁を費やし、やっと主人公チンルウ君の行動に移るのだがそれは2頁と持たず、ノックスの話題が出るやまたしても作者が解説を引き取ってしまうのだ、そしてノックスの経歴や十戒について9頁に渡って「説明」がなされる。
 「説明」の多い小説を読んで「あーあ」と思ったことは数多いが、地の文と主人公の描写部分を指折り頁数を数えたのはこれが初めてだ。若い作家ならしょうがないとも思えるが、法月綸太郎がこれでは困るのである。

 
 先の「キングを探せ」で私は

 彼らは筆者の考えたプロット、トリックを展開するためだけに存在しているかのようだ。
 セリフの端々からその人物の性格が伝わってくるなどということがなく、人物像が焦点を結ばない、まさしく将棋のコマのよう。
 (中略)
 作家というのは基本的には作品に奥行きを与えたり、登場人物に血肉を与えたりしたいものなのではないかと思うのだが、どうもそういう気配がない


 と書いた。この作品の感想としてもまったく違和感がない。

 2004年の「生首に聞いてみろ」では

これは法月綸太郎の名があればこそ出版されるが、一般の投稿であれば下読みでさえ通るかどうか疑問な出来でしかない。

 とまで酷評している。

 今回も私は「ミステリ研の部誌のようだ」と思ったわけでこれまた変わらない。

 旨さに頼って人情話に逃げたりせず、マニアックな小説を書き続ける法月綸太郎は好きな作家であるのだが、もうちょっとテクニックを身につけ完成度の高い小説をものしてくれないものだろうか。

 結論を言おう。ミステリ研以外お断り。


 








 前作はアクション&ヒーロー物の映画として必要な要素がきわめて高いレベルでまとまった希に見る傑作だった。それゆえにリメイクと聞けばダメっぽい予感しかしないわけで、私としてはハードルを下げまくって劇場に足を運んだのだった。

 さて「高いレベルでまとまっていた」とは言ったが、それは「過不足ない」という意味ではない、不足があるのではなく過剰なのだ。
 前作の監督であるポール・バーホーベンという人は、露悪趣味というのか、普通にやっていればキレイにまとまる筈の映画の中にグロテスクなシーンを混ぜたがる人なのだ、グロとは何かと言うと具体的には人体の変形あるいは破壊であり、気の弱い人なら目を背けるようなカットを挿入してくる。

 バーホーベンの最高傑作である「スターシップ・トゥルーパーズ」は昆虫型宇宙生物「バグ」による人体破壊シーンが盛りだくさんに出てくるし。「インビジブル」では人が透明人間になる過程を描くにあたって、まず皮膚が透けて筋肉がむき出しになり、次に内臓が見え、最後に骨だけになって見えるという様をじっくり見せてくれる(子どもの時にうっかり見ればトラウマものだろう)

 明るく楽しいバカ映画である「トータル・リコール」でも、女に化けたシュワちゃんの変装(?)が解けるシーンの顔面変形カットは不気味なことこのうえない。

 そして前作「ロボコップ」だ。ここでもバーホーベン節は快調であり、あまりに飛ばしすぎたため様々な残虐シーンカット版が存在し、これについて人と語る場合は劇場公開版、ディレクターズカット版、TV公開版、LD版、DVD版など、どのバージョンについて語っているのか確認する必要がある程である(米国版の108分に対しドイツ公開版は78分しかないらしい)

 主人公であるマーフィーが悪党どもに惨殺されるシーンは、タメてのちに爆発するというヒーロー物の特性上ある程度必要であり、それをどこまで見せるかは程度の問題といっていい(かもしれない)が。

 ラストの廃工場における大立ち回りの最中、悪の組織の下っ端が廃液タンクに落ちて皮膚がただれてずる剥け状態になり、助けを求めて道によろめき出てくると仲間の車に跳ねられて粉々になる(!)シーン(どんな化学薬品か知らないが一瞬で骨まで柔らかくなってしまったと言うのか)などは「え~ このシーンこの映画に必要?」と言いたくなるような過剰さである。

 つまりストーリー的には明るく楽しい、SF・アクション・ヒーロー物である「ロボコップ」なのだが、その端々にちりばめられた残酷描写がこの映画に一種の歪みを与えている。この歪み、良い言葉で言えば「彩り」ということだが、これが特徴的にうまく働きこの映画を特別な何か、一頭地を抜いた存在に押し上げているのは事実なのだ。

 しかしこれを再現するのは難しい、やりすぎればただの悪趣味な映画になるだけだし、明るく正しい部分だけで作れば宇宙刑事ギャバンになってしまう(※ロボコップのデザインは東映の初代メタルヒーローであるギャバンを元にしている)

 バーホーベンの映画が悪趣味でありながらギリギリの線で踏みとどまっているのは、それが当人の趣味嗜好からきているからであり、外部から悪趣味を込めようとすればそのバランスをとるのは極めて難しい作業となるだろう。



 というようなわけでハードルを目いっぱい下げて劇場に行ったのだった。



 ファーストシーンにサミュエル・L・ジャクソン演ずるニュースキャスターが登場し、アメリカの治安維持はロボットにまかせるべきであると主張し、ロボットに人間性がないことを理由にこれを拒んでいる政治家はバカだ腰抜けだと超タカ派的、右翼的、国粋主義的な演説を始めるのを見て、おお製作陣わかってるな!と思ったのだった。

 この、笑いが取れるところまでカリカチュアライズされた右翼はバーホーベンがスターシップ・トゥルーパーズでやったブラックジョークのリスペクトに他ならない。

 また前作の敵役として出色の出来だった2本足ロボットED209がこのファーストシーンに登場し、民間人を保護するという名目でイラン市民を威嚇するという悪役を演じているのを見て、こうこなくちゃ!と思ったのだった。




左:旧ED209、歯をむき出して威嚇するデザインがかわいい
右:新ED209 カッコいいけど無個性すぎるあたりが残念  




 さてしかし、その後のギャング団との銃撃戦でも、マーフィーが爆弾で瀕死になるシーンでも残酷描写がないのを見て、これはグロ方面は放棄かなと思って観ていたのだが、やってくれました。
 爆弾で体の多くの機能を失ったマーフィーはロボコップ化されるわけだが、そのマーフィーに対し、体がどこまで機械化されたかを説明するため主治医が機械部分を外して見せるシーンがあるのだ。

 残っているのは頭部と胸郭のみ、顔以外は脳も含めて内臓むき出しで、何故か全て透明なケースに入っているため肺が収縮し、心臓が拍動する様が丸見えである。喉には気管がありマーフィーが言葉を発するたびに声帯が震えるのが見てとれるという悪趣味ぶりである。インビジブルもリスペクトしていますというあからさまなサインといってよいだろう。

 要するに製作陣は前作の成功が表面的な企画やストーリー、あるいはキャラクターデザインだけでなく、全編にちりばめられたバーホーベンテイストに依っていることを理解しているのだ。

 しかし監督の趣味を理解することと、それを作品中に取り込んで昇華させることは別物である。無理をすると木に竹を接ぐようなものになってしまい作品が壊れてしまうのだが、製作陣はそれさえも理解していて、残酷描写についてはきわめて抑制的に扱い無理はしないのだった。

 結果として前作の香りをうまく取り込んだ、過不足のないSFアクションヒーロー物に仕上がっている。

 が、しかし!「過不足ない」ではいけないのだ。

 前作を意識しつつも逸脱することなく、全てを常識的な範囲に収めまとまりよく作った妥当な映画、これはロボコップではない、これなら前作を観た人間があらためて見る価値はない。

 映画会社としては自社が所有する過去の作品群は宝の山であり、リメイクは金のなる木なのだろう、しかし前作を越えることを最初から放棄したような映画「無難な映画」に観客がつきあって金を落としてあげる義理はない。

 まとめよう。前作を見てない人は前作を観るべし、見た人でもそれがディレクターズカット版でないなら(一番過激だ^^;)探して見るべし、そのほうが何層倍も有意義な時間の使い方となるだろう。

 結論、リメイクは難しい。


ps
 リメイク作品を前作とまったく同じタイトルで公開するのはやめて欲しい。
 今はWeb上から自動でデーターを収集してくるデーターベースがあるわけだが(こういったサービスはいずれ必須になってくると思うのだが)将来収拾がつかなくなるぞ。


 






 小田嶋隆のエッセイは面白い。

 私は氏がBugNewsにコンピュータ関連の記事を書いている頃(80年代)からの熱心な読者であるがその文章は我が意を得たというか、的を射たというか「お前は俺か」というか、ともかくいちいちごもっともで、著書を読むと1頁につき1回は激しく肯いてしまう(しない)←というヒネりを時々使わせてもらっているが、これも小田嶋由来だったりする。

 さて氏は、世間に対して斜に構え、権威を引きずり降ろして、巷間言われていることの裏を読み、あるいは小さな部分を拡大してみせて、寸鉄人を刺しまくるのを芸風にしている。

 しかし斜に構えると言っても右前で構えるか左前で構えるかが違っていればケンカになるし、同じ構えでも微妙に角度が違っていればそれも気になる。つまり言ってることは正しいがお前の突っ込みは甘いとか、その言い方は大げさすぎて鼻につくなど同族嫌悪が起こるのだ。

 しかるに、捻りに捻り捩りに捩っているにもかかわらず私は1頁につき1回は激しく肯いてしまう(しない)小田嶋は私の波長にぴったりなのだろう。

 もっとも、あまりにぴったりすぎて「自分の思っていることが他の誰かに活字化されただけ」のような気がして新味がなく、啓発されるということがほとんど無いため、氏の本は数年に1冊程度しか読まなかったりする(なんのこっちゃ)

 私が買った初エッセイ集「我が心はICにあらず」が1988年の発行であり、以後27冊が上梓されている中読んだのが9冊だから3年に1回くらいの割で読んでいることになるわけだ。

 さて本書である、今回氏は原発再稼働反対デモ、あるいはいじめ問題、あるいは全柔連の暴力事件など昨今の社会問題をいつに変わらない切れ味で刻んでみせるわけだが、表題作だけあってトップの「ポエムに万歳!」がいちばん面白い。

 要は今や世間は明晰で論理的な言葉でなく、曖昧で言葉たらずで、受け取る側がどうとも捉えることの出来る情緒的な言葉「ポエム」にあふれているということだ。

 プロレスの実況アナであった古館が、その観客・レスラー・レフェリーも含めた総合芸術であるプロレス向けの「針小棒大羊頭狗肉大言壮語」な「実況ポエム」をF1に持ち込んでF1を別な競技にしてしまい、更にその「成功」を買われてニュースまでもポエム化してしまった、とか。

 子どもに詩を書かせると評価されるのはどちらかというと勉強の出来ない子どもである。なぜなら、前後のつじつまが合っていなかったり、舌足らずでちゃんと説明しきっていない散文として不出来な作品こそが評価されるからでありこれは、優等生-訓練された受験戦士-には出来ないからだ、など、快調に飛ばしていく。

 小田嶋に言わせると「ポエム」とは「詩」になりそこねた何かであり、詩を書く人がポエットであるなら、ポエムを書く人はポエマーだという。
 そして現代には偉大なる2大ポエマーが居てそれが相田みつをと尾崎豊だという。
 (尾崎は生前はEXILEくらいの立ち位置だったものが、波瀾万丈の人生と謎の死に方と本人のイケメンさによって「伝説化回路」が発動し今や「永遠の青春」になりその言葉は「ポエム」と化したと言うことらしい)

 両者の立ち位置は補完的であってファンはかぶらない、どちらも偉大な先人として日々、エピゴーネンや賛美者を生み出し続けていると言って。

 バイク盗んだっていいじゃないか、にんげんだもの

 と締める、小田嶋隆サイコー。

ps

 最初に小田嶋のエッセイと書いた。当人曰く「私」が中心にあるのがエッセイで、社会・事件に寄り添うのがコラムである。ので自分の文章はコラムと呼んで欲しい、ということなのだが・・本当に?!


 







 原作小説が手元にありそれを映像化した作品が公開される、どちらも未見だがさてどちらを先に見るか?

 最近の映画は洋画、邦画を問わず原作付きか続編かリメイクばかりで完全オリジナルな作品などめったになくそんな状況は多く存在する。

 以前にも述べたが私は原作優先派だ。
 この映画で言うなら先に映画を観てしまえば、小説を読んでも主人公はトム・クルーズで脳内再生されるだろうし、作品中重要なアイテムであるパワードスーツも映画のそれが頭に浮かぶだろう、それは映画の別バージョンを脳内で観るに等しい、それは「想像力を羽ばたかせる」という小説の醍醐味を否定する行為だろう。

 ・・という原理原則に従って先に原作を読んではみたのだが、その必要がないことはある程度予想できていた。
 なんとなれば、まずそもそもこの小説がライトノベルのレーベルである集英社スーパーダッシュ文庫から発刊されており、「強力なエイリアンの侵略を受け地球は絶望的な戦いを強いられていた。機動兵士として初出撃した主人公は、戦場での振る舞いを覚える暇もなくあっけなく戦死してしまう、しかし彼は気がつくと出撃前日に戻っていた」
 というものであることは承知していたからだ。
 ピカピカのルーキーであるラノベの主人公とトム・クルーズではキャラクターが違いすぎとうてい同じお話にはならないだろう。

 よくある事だがアイデアだけいただいて別な話に仕立てる作戦、あるいは(もっと言うなら)「原作付きですよ(リスクの大きいオリジナルじゃないですよ)と投資ファンドに言うためだけの原作小説なのではないかと思惟するのにはさほど洞察力は必要としないのだった。

 こういう映画であればどちらを先に見ても、それぞれが別な作品として認識され(別なフォルダに保存され?)小説が映画のイメージで上書きされる影響も少ない筈だ。

 と思いつつ読み始めたのだが予想は当たっていた。まずは舞台が日本、エイリアンを迎え撃つ「ボーソーフラワーライン前線基地」だ(つまり千葉県) 主人公は明日が初陣というルーキー、高校で司書のお姉さんに岡惚れしていたが、彼女が結婚してしまってヤケになり、そこに行けば「自分らしい何か」が発見出来るんじゃないかと思って軍隊に入ってしまったという、いわば厨2病発症真っ最中の青二才だ。設定がジャパンローカルすぎてそのままハリウッドメジャーが映画化するような代物ではない。

 とはいえこの地続き感こそがラノベなのだ、メインターゲットである中、高校生の生活感から乖離したお話はそれがどのようなタイプの小説であれラノベとして売り出されはしないからだ。

 さてしかしそういった地続き感+シチュエーション(日常的主人公+非日常的状況)で出来ているラノベはどれも似たり寄ったりであり、売るほどあるわけでというか一山いくらで売られているわけで、ハリウッドメジャーがあらためて注目し版権料を支払う筈もない、そこにそれなりの何かがあるはずだとも思った。
 そして、これがまずは普通にSFであり青春小説であることに気づくのに枚数は必要としなかった。
 
 この小説は、死ぬとその記憶を持ったまま出陣前日に戻ってしまうという異常な状態に陥っている新兵のお話であることは先に述べた。
 主人公が放り込まれたのは状況が絶望的な戦線であり、彼は開戦するや何をする暇もなく戦死してしまう。ループしていることに気づいた彼はこのままでは自分が永遠に時の狭間に取り残されてしまうことに気づき、そのループから抜けるためには死ぬまでのわずかな時間に知識と経験を積み上げ、前進していくしかないと悟る。

 あれを試して死に、これを試して死に、彼はひたすら死にながら自分を鍛えあげていく、自分も死に、戦友の死を何度となく目の当たりし、孤独で先の見えない絶望的な戦いを繰り返していくうちに彼は見た目はルーキー、しかしその中身はいかなる猛者でもたどりつけないほどに経験を積んだ歴戦の勇士になっていく。

 頭でっかちな青二才が戦場で鍛え上げられやがて戦士になっていく、というのは戦争文学の一パターンだがこれはまさにそれだ。これは別段ラノベじゃなくとも売れるだろうと思ったのだが、これを一般小説として出版社に売り込み出版にこぎ着けるには途方もない努力と幸運が必要になるだろう、間口の広いラノベが才能をすくい上げる窓口になったと言えるかもしれない。
 (昨今のミステリーが「推理小説」という枠組みから逸脱し、謎さえあればファンタジーであろうとSFであろうと構わず、犯罪を取り扱っていれば謎解きさえいらない風になっていて若手がデビューしやすい環境になっているのに似ている)

 つまりこれは絶望に耐えひとり戦い続ける孤高の男のお話なのだ、目指せハードボイルドといったところだろうか。まあ、ハードボイルドというのはウエットな情感を廃したという体裁を取った感傷的なお話であるわけで、このお話もナイーヴなティーンエイジャーがひたすら空回りする感傷的なお話であるわけだ。



 さてパワードスーツを着てエイリアンと戦う機動兵士というのはハインラインの「宇宙の戦士」(つまり「スターシップ・トルーパーズ」だが)以来、1024回くらいは小説化、映画化、アニメ化されていると思う。時間ループ物というのもたぶん256回くらいは作品化された筈である。しかしそういったありがちな道具立ての中で、大きな戦いに放り込まれたちっぽけな少年の感傷をサッっと切り出して見せたこの小説はきわめて小品ながらその切り口の鮮やかさで一見の価値があると思う。

 もっとも、ラノベらしくないこの小説に筆者がなんとか「萌え」を挿入しようとしたのか、あるいは編集者から何らかの圧力でもかかったのか、作中登場する「ドジっ娘整備兵(MITをトップで卒業しているが、手元足元が危うく、××ですよぅ、という喋りかたをして、フィギュアのコレクターで、ムダにグラマーである)は余計である。


 というところで映画である。





 原作の、頭でっかちで経験不足な青二才と、トム・クルーズ(オーバー50才のこわもておじさん)どうするんだこれ?と思って観にいったのだが、映画の主人公は広告代理店から横滑りしてきた実戦経験皆無の公報担当将校だった。
 最前線でPR映画を撮れと言われ拒否したところが命令違反で逮捕され一兵卒として最前線に放り込まれる。
 頭でっかちで経験不足なルーキーという設定は継承されているわけでこれはうまい!と思ったのだが、うまく移植されているのはそこまでであとはハリウッド的な目がチカチカするようなデジタル映画になってしまっていた。

 そもそも映画の焦点がループして永遠の時を繰り返す主人公の内面でなくループが持つ面白さに当たってしまっているのだ。

 つまり、ループするたびに敵の位置や動きを覚えていくため、すこしづつ死ぬポイントを先に進めていけるというテクニカルな側面が前面に押し出されているのだ。

 私はこれを観ていて、ニコラス・ケイジの「NEXT」を思い出した(観ている最中に別な映画を思い出させる映画は絶望的である)これは記憶を保持したまま2分前の自分に戻れる男の話だが、劇中テロリストと戦うハメになった主人公は激しい銃撃の中、弾をひょいひょいと避けながら敵に近づいていく。要するに「弾に当たったらそのタイミングを覚えて2分前に戻り次の回では避ける」を繰り返しているわけだ。今作も理屈はまったく変わらない。

 これはつまり「死にゲー」「覚えゲー」である。

 ゲームに詳しくない方のために説明するが、これはコンピューターゲームをある種の切り口で分類した呼び方だ。
 ゲームのジャンルはアクションでもシューティングでもアドヴェンチャーでもあり得るのだが、要するに初見ではいかなる反射神経/判断力の持ち主でもクリアすることは不可能なハードなゲームをゲームオーバーを繰り返し、リトライしながら、敵の動きや罠の種類を覚えて進めていく、といったタイプのゲームだ。
 コンピューターゲームはそういったシステムも含めてゲームなのでそういう楽しみ方も充分にあり得る。
 しかし映画でそれはどうなのか、プレイヤー当人が知識経験を積むことで先に進むという当事者感、手応えがあればこそゲームは面白い。しかし映画は「ループしたので経験が積めたのです」という理屈をハタから見ているだけだ。つまるところそれは「理に落ちすぎている」

 「NEXT」はその理屈だけで映画を1本見せきってしまったわけだが、この「オール・ユー・ニード・イズ・キル」はそういうお話ではなかったのではないか、少なくともそれだけではなかったのではないか、というかやはりこれは空回りする青二才の内面を描く感傷的な映画であるべきだったのではないだろうか。

 昨今のハリウッド製のSF/アクション映画には、小ネタ一発で出来ている小品「軽SF」とか「軽アクション」とでも呼びたい作品であふれている。
 SFやアクション映画は大予算を要するため、かつてはそれなりに腰を据えた大作ばかりだったのだが、今やデジタル技術の発達で小ネタ一発と顔の売れたスター(トム・クルーズやニコラス・ケイジやマット・ディロンや・・・)の組み合わせでプログラムピクチャーのように生産されているのだ。

 ニコラス・ケイジと2分かぎりのタイムスリップというネタで出来ている「NEXT」 
 デンゼル・ワシントンと4日前の過去を見ることだけが出来るタイムマシンというネタの「デジャブ」
 ヘイデン・クリステンセンとワープ能力ネタの「ジャンパー」

 どれもこれもびっくりするほど似ている映画である。そして今作もその一つだ。
 あまり良く言っていないように見えるだろうがが、これらはそれなりに面白い作品でありレンタルで借りてくるなら見て損をするような作品ではない。

 しかしこの原作をその仲間、ワン・オブ・ゼムとして売ってしまうのは惜しいと思う、普通に日本でアニメ化したほうがよほど建設的であったろう。まあ、原作者に入る映画化権料はケタが違うだろうけれども。


 





 主人公は「①」を失った欠損家族の長である。 その主人公の住む街を「②」という天災が襲う。
 「③」という職にある主人公は、その地位、経験、知識をもって市民の生命、財産を守る義務があるはずだが、自分の息子が「④」から逃げられずピンチに陥っていると知るや、職務を振り捨てて息子の救出に向かってしまう。
 当初、世界規模ほどの広がりをもって始まった映画は、その後どんどんと主人公視点のドメスティック話に収束していく(そのため主人公の行動によってどれだけ被害が拡大したかはわからない) 
 主人公が家族を救出する頃には事態は終息しており、映画は主人公が家族の絆を取り戻す様を描きハッピーエンドな空気を醸し出して終わる。

 この空欄を ① 夫 ② 火山の噴火 ③ 市長 ④ 山小屋 とすれば「ダンテズピーク」であり ① 妻 ② 異常気象 ③ 気象学者 ④ 図書館 であれば「デイ・アフター・トゥモロー」である。

 今回のお話は、
 主人公は妻を失った欠損家族の長である。その主人公の住む街を巨大竜巻(風速135メートル!!)という天災が襲う。
 高校の教頭という職にある主人公は、その地位、経験、知識をもって生徒の生命を守る義務があるはずだが、自分の息子が壊れた廃工場に閉じ込められ、ピンチに陥っていると知るや職務を振り捨てて息子の救出に向かってしまう。
 当初、全米規模の広がりをもって始まった映画は、その後どんどんと主人公視点のドメスティック話に収束していく(そのため主人公の無責任な行動によってどれだけ被害が拡大したかはわからない) 
 主人公は息子を救出し事態は終息する、映画は主人公が家族の絆を取り戻す様を描いてハッピーエンドな空気を醸し出して終わる。


 昔ホイチョイプロが「東宝の若大将シリーズは、若大将の所属する運動クラブの名前が違うだけで、同じ脚本を元に書かれていた、若大将シリーズが終わったのは、東宝に保存されていたオリジナルの脚本が古くなり読めなくなってしまったからだ」というギャグを飛ばしていたが、ハリウッドにも共通脚本があるのではないかと思うほどの類似性である。
 話をわかりやすくするためここではあまりと言えば似すぎている作品を挙げたが、ハリウッドでは「家族の再生」という言葉の前にすべてのドラマがひれ伏すという異常な状況が長く続いている。

 スピルバーグの「宇宙戦争」もその一つだ。
 「宇宙人による地球侵略」というジャンルを創設したH・G・ウエルズの原作は人類の至宝である、それを「家族の再生の物語」に改変してしまったこの映画は面白いつまらないを越えた暴挙だと私は思っている。
 しかし一方、主人公であるトム・クルーズはただの港湾労働者であり、彼が息子を取り戻すため全てを振り捨てたとしてもそれによって社会が損失を被ることはない、そう思えばあの映画は先に述べたいくつかの映画より少しはマシだったかもしれない(わけはない)