「 映画館の中で明るくなる前におかしいなと思われたら作ったほうの負けなんだよ。
映画が終わって、映画館の外へ出て家に帰った頃に、
”アレッ、あのシーンおかしいぞ”と気づいても、
それは映画屋の勝ちなんだよ。

渡辺明撮影美術監督、談


「ゴジラ99の真実」(池田憲章)より






              
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 公開されて半年が過ぎた、公開初日に劇場に足を運びすぐ感想を書こうと思っていたのだが、見終わったあとに迷うところがあって保留していた。
 何故迷ったのかはゴジラがどんな存在かということに関係がある。

 まず私の職業人生の大半は怪獣と共にあって、これからもそうあるだろうと思われるということがある。
 そしてゴジラはそれら怪獣達の始祖である。もしゴジラなかりせばその後連綿と続く怪獣映画はどうなっていたろうか? 果たして円谷プロは?ウルトラマンは?そう思うとゴジラが存在した意味は重い、もちろん私にとって、日本映画界にとって、そして大きく言えば日本の文化にとってさえも。

 大きく出たが何が言いたいのかと言えば、ゴジラ映画は私にとって別格であり「何があっても絶対観にいく映画」ということなのだ、たとえそれがアメリカ製であろうとも、マグロを喰っている大きなイグアナであろうとも。

 それが何を意味するかと言うとこの映画は「予備知識ゼロでも観る」ということだ。

 さて、ここで何度も触れていることだが、私は映画を予断をもって観ないようにしている、ということは予備知識を(なるべく)持たずに劇場に足を運ぶということだ、しかし公開される映画は多く、映画鑑賞に使える時間は多くない、何を観て何を観ないかの判断をするためには最低限の予備知識は必要だ。

 しかしゴジラは違う、ゴジラはゴジラであるが故に無条件で観に行く、よって何の予備知識もいらない、つまり全くの白紙のままで鑑賞する数少ない映画だということなのだ。
 というわけでまったく素のまま劇場に足を運んだのだが、開巻まもなくこれが対決物であることに気づき、どうやらゴジラが「正義の味方」であるのに気づいた。

 本家ゴジラも次第にそういう立ち位置になっていたのは確かだが、そうなるまでにはそれなりの作品数と年月を要した、つまるところ悪役一辺倒では「持たなくなって」新天地を求めたということだ。
 しかしUSA版はこれが2本目だ、実際には1本目の不評を受けてリセットされた新作なのだ、最初くらいソロでいけばいいのに、そしていきなり善玉とは、と私は衝撃を受けた。
 そして、果たしてこれは皆知っていたことだっただろうか?予告編を見たりチラシを読んだり紹介記事を読んだりすれば手に入る情報だったのだろうかと思った。

 感想を書くなら内容について触れないわけにはいかない、しかしこれが公開前に慎重に隠されていた情報であったのなら、公開早々ネタバレするのはまずかろう・・というわけでしばらく感想を上げるのを中止したというわけだ。

 
 というわけで半年遅れの感想である。
 さすがに超大作だけあって、良いところも悪いところもいっぱいあってどこからつっこんでいいかわからない程なのだが見始めてまず気になったのが「これ平成ガメラ1(大怪獣空中決戦)のいただきじゃん!」ということだった。
 まあ映画はパクりパクられするものだし、私が言うと関係者の不当な言いがかりと取られかねないので言わないが(言ったが)大ぐくりなプロットからディティールまで共通点が多く、しかもそれぞれが少しづつ劣化しているように思えるのだ(言ってる)

 それに関連しての事だが、渡辺謙が何の根拠もなく「新怪獣ムートーを攻撃する必要はない、ゴジラにまかせておけば大丈夫」と主張するのに違和感を感じる。
 映画を見るかぎり、つまりこの世界観の中にいるかぎりゴジラが味方であると断じる理由は見当たらない。
 観客は「人類に無差別な残虐行為を繰り返す新怪獣ムートーは敵、ならば対するゴジラは善玉」と思うだろうからそれでOKという判断なのか。
 あるいはゴジラってそういう存在なのは周知だよね?とメタな世界観を元に構成したのかわからないがいずれにせよ間違っている。
 中山忍だってガメラを最初から信用してたわけではない。

 またそういうテンプレートであるからには軍事力を頼みに怪獣打倒を図る軍司令官は科学者の言うことを信じないタカ派であるべきなのだがそうなっていない。
 渡辺謙と対立した時の様子を見ると、狂信的な渡辺謙よりよほど理性的な人物に見えてしまう。

 というような作劇上の瑕疵を他にも挙げると、たとえば主人公の父親である。
 自分の妻を事故で無くし、それは政府が隠蔽している何かが原因で引き起こされたと信じてたった一人で謎を追う男。人生を投げ打ち世間からも息子からも狂人扱いされながらついに怪獣ムートーにたどりつく。ここは彼が報われてしかるシチュエーションだろう。

 ところが執念の追跡の末ついに核心に至った彼は何の活躍をすることもなくムートーに殺されてしまうのだ。妻の敵に一矢報いることも出来ずそれまで蓄積してきたデーターを生かすこともなくただの犬死にである。
 どういう事?

 その息子、今回の主人公は軍の爆破物処理係である。映画の設定にはすべて意味があるわけで、特にそれが主人公の職業であるからにはストーリーに密接に関わりがあるはずで、お話進んでムートーをおびき出すエサとして核弾頭の付いたミサイルが登場した時にはははぁこれか、と思わざるを得ないわけだ。

 そしてクライマックス、弾頭の時限信管が作動し、それを止めることが出来るのは主人公ただ一人となる、予定調和ながら「キター!」と盛り上がるところが。
 彼には解体処理が出来ず次善の策を取るハメになる。
 どういう事??

 サラっと書くつもりが次々に問題点を指摘できてしまう、つまりこの映画は構成・ストーリーが壊滅的なのだ。
 こういうダメさ加減には見覚えがある、ハイバジェットで重厚長大な映画でなおかつ監督が新人な映画で時折見かける切り刻まれた映画だ。

 何が刻まれたかというとそれはプロットでありシナリオであり、誰が刻んだかというとコンテンツホルダーやステークホルダーである、投資したからには口を出しますよということだ。
 結果、シナリオは改訂につぐ改訂がなされ、渦中の人間にはそれが初見の観客にどう受け止められるかの判断が出来なくなる。
 重大なシチュエーションに気を取られ、ディディールがおろそかになる。
 さまざまな思惑が絡み合ったあげくやがて映画はごった煮となりあちこちに素材だけが浮かぶスープになる。

 たとえばこの「素材」の一つがサンフランシスコへの降下作戦だ。
 軍の特殊部隊は核弾頭の起爆を止めるため高高度からのパラシュート降下を行う。暗雲立ちこめる中赤いスモークの尾を引きながら降下していく降下部隊は昨今見ることのなかった映画的な美しさに満ちている。このシークエンスだけ取り上げて言うなら10年に1度の名シーンと言えるだろう。
 問題はそれが映画の中でまったく浮いていることだ、なぜパラシュート降下なのか、陸路ではなぜいけないのかなんの説明もない。
 当初のシナリオでは必然性があったがそのうち無くなってしまったか、カッコいいシーンのアイデアが出たのはいいがうまく取り込むこともできないまま映像化したか、いずれにせよ素材だけが浮いている。 





 監督のギャレス・エドワーズは初監督作品「モンスターズ」で注目された新進気鋭の新人だ。
 この「モンスターズ」という映画だが。宇宙探査機が持ち帰った地球外生命体によってメキシコの半分が支配されているという設定になっている。
 登場人物は取材に入ったドキュメンタリーカメラマンと現地に取り残されていたお嬢様の2人、彼らが危険地帯から脱出するまでのロードムービーといった体の映画だ。

 許可も取らずロケはぶっつけ、プロの役者はこの2人のみでそれ以外は現地に居合わせた素人、エドワーズが監督、脚本、撮影を一人で行うという超低予算映画だが映画に1本スジが通っており全編にただよう緊張感はタダ事でない。

 言ってみればこれは手練れの職人が素材の味を生かしてさっと調理した一品料理といった味わいなのだ。

 この映画1本で抜擢されたエドワーズなのだが、さすがにいきなりの超大作は荷が重かったのかまるで作品がコントロール出来ていない。料理で言うなら一つ一つの素材はいいのに味に統一感がないごった煮となってしまった。

 好意的に考えるなら抜擢されたが故に外野の口出しに対抗できなかったのかもしれない。
 そもそもハリウッドにおいては監督の権限はあまり高くない、シナリオに口を出すことも出来ず、編集権もなく、極端な場合撮影の現場において演出を担当するだけの部門長でしかないこともある(撮影が終わると「次は試写室で会おう」と言われて放りだされる)スピルバーグなどの大物監督は自ら出資しプロデューサーとしても映画に名を連ねる、それによって外部からの干渉を避けているのだが今作で2本目のエドワーズにそれは無理だろう。
 彼は完成後のインタビューで「こういうものを作りたいというイメージや、非常に大きな野心を持っていても、時間的なことや現実的な問題で、少しずつ制御されてしまう」と述べているのはそういうことなのではないだろうか。


 いいところも悪いところもある、と書いておきながら悪いところを書き連ねてしまった。まあお話は良いところが無いということなのでヴィジュアルに移る。

 良いのは何といってもゴジラの造形である、着ぐるみをリスペクトした堂々たる体型と圧倒的な重量感、それでいてCGならではの躍動感やしなやかさを併せ持ち、これぞいいとこ取りと言ってよい。

 ・・・良いところ終わった(--;)

 実のところ私はヤンキーには怪獣というものが理解できないんじゃないかと疑っていたのだ。

 前作のエメリッヒ版ゴジラはでかいトカゲだった。キングコングはオリジナルもギラーミン版もピータージャクソン版もでかいゴリラだった。
 一方、一昨年の「パシフック・リム」は特撮オタク、デル・トロが監督したにもかかわらず(「本作品を本多猪四郎に捧ぐ」という献辞まであったのに)怪獣は怪獣ではなくクリーチャーだった。
 (ちなみにクリーチャーというのはここでは悪魔が創造したかのような生物という風に取っていただきたい)

 というわけで大いに不安であったゴジラが今回まったきの怪獣であるのにほっとしたというわけだ。
 
 とはいえしかし!ムートーはやはり怪獣ではない。はっきり言ってゴジラと同じ世界感に存在する生物とは思えない。

 そう、ムートーは正しくアメリカ製のクリーチャーなのだ。古くは「パラサイト」の、有名どころでは「クローバーフィールド」の、近くは「スーパ8」の、あるいは「カウボーイ &エイリアン」のあるいは「スカイライン-征服-」の『なめし革のような皮膚を持ち、悪魔的な外観で、この世の物で無い怪物』そのままである。最近やつらは高速で移動する際に四つ足で歩くのがトレンドだ(!)
 つまるところそれは怪獣ではない。




こんな奴   
 


 繰り返すが怪獣は異世界の化け物ではない、既存の動物が大きくなっただけのものでもない。
 それは間違いなく我々の世界に属し、しかし人とは隔絶した力を持つ何かである。
 日本人は自分たちに制御できない大きな力を畏怖と諦観を込め荒ぶる神と呼ぶことがあるが怪獣はそれに近い。
 (既存の文化で言うなら龍、八岐大蛇などがそれにあたるかもしれない、彼らは怪獣のルーツといえるだろう)
 私はヤンキーにはこれが理解できていないのではないかと思っていたのだ。

 日本には八百万の神がいる。また長年使い続けていた道具や、長生きした動物には神性が宿るといった思想がある、いわゆる付喪神というやつだが、それゆえ姿形が大きく巨大な力を持つ生物は怖れ奉る対象なのだと考える、そんな文化的バックボーンがあって怪獣は成り立っているのだ。
 一神教であるキリスト教圏のアメリカ人に怪獣が理解出来ないのは当然なのかもしれない。
 そもそも「動物に魂はない」という考え方から怪獣は生まれない「クリーチャー」は恐れる対象であると同時にが卑しむべき対象なのだ、それは怪獣とはまったくベクトルが違うものだ。


 などと怪獣論を述べていくと長くなり本題からも離れていってしまうのでここでやめるが、そんなわけで私は今回のゴジラがキチンと神がかっているのに感心したのだった。
 (そういう意味では渡辺謙が狂信的なのもプロットに即しているわけだ、うまくいってないだけで)

 その一方ムートーが安定のクリーチャー仕立て(!)なので安心する(?)と同時に今後の展開に不安を覚えたりもする。

 私は映画を見たあと、ゴジラが正義の味方になり対決物になってしまったからには東宝チャンピオン祭り(または怪獣プロレス)まっしぐらだなと思ったのだった。
 そして時をおかず次回作の発表があったのだが、案の定というべきか更に上を行かれたと言うべきか、次回作にはキングギドラとモスラとラドンが出るという。いきなり『三大怪獣 地球最大の決戦』である。

 ワーナーブラザース飛ばすなあ、としか言いようはないそして大丈夫かと思わざるを得ない。
 なんといってもキングギドラは龍だし、モスラは普通に神なのだけれども。
 


 





 『天使と悪魔』『ダ・ヴィンチコード』『ロスト・シンボル』に続くラングドン教授ものの第4作である。例によって宗教象徴学の権威ラングドン教授が古蹟・古跡を舞台に持てる知識を駆使して謎に挑む。

 今回ラングドン教授はイタリア・フィレンツェにある病院で数日間の記憶を失った状態で目覚める。どうやら自分は銃撃され、弾丸が頭部をかすった衝撃で記憶を失ったらしい。しかしなぜ自分は銃撃されるハメになったのか、しかも記憶では自分はハーバードに居た筈なのに。

 混乱する教授の元に暗殺者が現れる、間一髪病院から脱出した彼はアメリカ大使館に助けを求めるが隠れ家に現れたのは先の暗殺者であった。アメリカ政府も自分の敵なのか、自分が追われる理由もわからないまま、彼は持てる知識を頼りに逃走をし続ける。

 新刊紹介風に導入部を書いてみたが、キャッチーでサスペンスフルなのは相変わらずである。
 
 し・か・し、このサスペンスは全て「都合のいい記憶喪失」の上に成り立っている。
 小説・映画でさんざん使い倒されているが、この「当人の知識・経験・判断力に何の影響も与えず一定期間の記憶だけ忘れる」という記憶喪失って本当にあるのか?

 たとえあるとしても、失った記憶が事件の核心部分だけというのは都合が良すぎないか。更に言えば、お話が進行するにつれ記憶の断片が(サスペンスを補強するように)蘇ったりするのも都合が良すぎないか。

 最終段、記憶が蘇るとそれまで主人公を悩ませていた謎が解け、埋まらなかったピースが埋まり、霧が晴れるように事件の全貌が明らかになって大団円となるのだが。これを予定調和、ご都合主義と言わずしてなんであろう。

 元よりイヤな予感しかしない作品だったので自腹を切ることはせず、図書館で借りて読んだのだが(我が街の図書館にはこの本が17冊あるのだがそれでも1年待ち!)3780円也を出さなくてよかったと思わざるを得ない。

 もう全ての出版社は作家に記憶喪失禁止令を出したほうがいいんじゃないだろうか。


・・・と言ったあとで何だが、この小説、既存のサスペンス小説を全て吹き飛ばすような大仕掛けがラストに控えている。小説の核心に触れるものなので言うわけにはいかないが衝撃的な内容でありここに関しては予定調和とはいえない。

 まあこの小説のストーリーを支えているのは「都合のいい記憶喪失」であることは変わらないので作品の評価は変わることはないのだが、こういうラストってアリなのか!と思うような展開だ。

 それについて誰かと語りあいたい気もするが、そこに至るまでの内容に3780円の価値があるとは思えないのでお勧めしない。


 






 近未来、地球の環境が激変して食料事情が悪化、ほとんどの人間が農業に従事して自分の食い扶持を稼がなくてはならないという状況に陥っている。科学文明は衰退の一途をたどり、このままでは遠からず人類は滅亡するだろう。
 人類が存続することを望むなら、地球の他に居住可能な惑星を見つけて移住するしかない。元宇宙パイロットの主人公は人類の希望を胸に植民可能な惑星を探す旅に出る。

 という話だと聞いて「本気か?」と思った、と言うか「無理だろ!」と思った。

 そもそも、現在我々は太陽系内を航行する技術すらロクに持っていない、人類が到達したのは自分の惑星である月までだ。植民惑星を探すとなれば恒星間航行技術が必要になるわけだが、そのためにはケタの違うテクノロジーが必要になるわけで、それは今のところ影も形もない。

 海に喩えるなら入り江の中を行き来する手こぎの小舟しか持っていないのに大海原に乗りだし、新大陸を見つけに行こうというようなものだろう。

 たとえばの話、地球からもっとも近い恒星はケンタウルス座アルファだが、約4光年離れている。ここに現行のロケットで行こうとすれば数百年かかる。
 推進方式はともあれ、数百年使用可能なロケットの製造や、数百年間乗員を生存させる技術はすでに超科学だと言えるだろう。

 理屈だけで言うならあり得るのがラリイ・ニーブンの大好きな「バサード・ラム・ジェットエンジン・ロケット」である、これは星間物質の水素をスクープ(収集)し核融合して推進するロケットだ。燃料を現地調達(!)するため理屈では永遠に加速しつづけることが可能で光速の何割といった超高速を出すことが出来る。
 充分な水素を集めるためにはスクープする漏斗の大きさが地球サイズ(!)になるとか、スクープした水素を重水素に変換しないと核融合に使えないとか、いくつかの難題を克服する必要があるが、それができればアルファケンタウリまで数年で到達できる可能性がある。
 (実際には道程の半分まで加速し、中間地点でロケットを反転、残り半分は減速しつづけて停止するという手順になるのでアベレージはそう上がらない)

 しかし、光速の何割という速度を出すと特殊相対性理論による時間の遅れ、通称「ウラシマ効果」が発生し、探検隊が戻ってきても地球では数百年どころではない時間が流れ去った後という可能性がある、なんにせよ地球の運命はとうの昔に定まった後だろう。

 一番近いお隣さんなので例に挙げたが、実のところアルファケンタウリに居住可能な惑星は無い。つまり居住可能な惑星を探すならそれより遥か彼方の恒星に足を運ぶ必要があるのだ。
 となればそれは現行のテクノロジーの範囲ではないのはもちろん、夢の技術の更に先、夢のまた夢「ワープ航法」が必要になる。

 ワープ?SFなんだしあってもいいんじゃない?冲田艦長もカーク船長もハン・ソロも普通に使っているし・・・とは言えない。

 なにしろこの作品は、環境が悪化したことで食料事情が悪化している、という現代と地続きな世界観のお話なのだ。
 
 ところで「もしエジソンが電球を発明しなかったら我々は今どうなっていたろう?」というジョークがある、続きは「我々は今、ロウソクの光の下でTVを見ていたに違いない」というものだ。

 つまるところある分野ある技術が発展するためには、それを支える周辺技術の向上が必要な筈で、それはいずれ他の分野にも波及し科学そのものが底上げされていく筈なのだ。
(たとえば青色発光ダイオードは、3原色揃えることでフルカラーのLEDディスプレイを作りたいという目標があって開発が期待されたが、出来てみればLED野菜工場という新分野を生み出した。また小腸の内部を撮影するカプセル内視鏡はこのLED照明なくてはあり得なかった、つまり発光ダイオードの発明は食料事情にも医療の発展にも寄与しているのだ)

 つまり、ワープ航法という超科学を手にしていながら環境の悪化を止められず、食料問題も解決出来ないというのはロウソクの元でTVを見る的なあやうさを感じるわけだ。



 などなど書いてきたが、要するに予告編などを見たところではこの作品はちゃんと成立している話なのか不安を覚えたということだ。

 普通に考えれば。科学技術も物理学もガン無視したスペースオペラにしないかぎりヒーローが他の恒星まで行って帰ってくる(予告編で観るかぎりどうやら娘の元へ)というお話は作りようはない。
 しかしどうみてもこの映画はそのようなテイストではない。
 成立しえない内容を無理矢理放り込んだ映画が空中分解する様は色々観てきた。なので、少なくもこの梗概を聞いただけならまず観に行かなかったと思う、ではなぜ観に行く気になったのかといえば監督がクリストファー・ノーランだったからだ。

 ノーランの映画は「バットマン・ビギンズ」「プレステージ」「ダークナイト」「インセプション」「ダークナイト・ライジング」と観ているが、とりあえず外れがない。
そして「ダーク・ナイト」は私の映画鑑賞史上ベスト10にランクインするであろう傑作であり(訂正、ベスト20以内にしておこう^^;)、「プレステージ」もなかなかの傑作である「インセプション」「ダークナイト・ライジング」はギリギリな感じだがまあ面白かった。つまり傑作があって外したことがない。これはなかなかすごいことだ。

 ならばこのかなり危うい感じのする作品もギリギリ持ちこたえることが出来るのではないか、というか、ノーランがこの無理スジの映画をどう料理してみせるのか、という興味半分で観にいったのだった。


 ギリギリだった!


 ワープ(超科学)あり、超常現象(オカルト)あり、ウラシマ効果(現代科学)あり、ついでに言えば現代ハリウッドの病巣、欠損家庭と家族の再生物語あり(!)と、無国籍料理のような内容ながら、綱渡りし、あるいはアクロバットのように飛び移り、たちまち「映画秘宝」行きになりかねないような映画にかろうじてスジを通し、これ以上トンデモ理論を展開すればSFじゃなくタダのファンタジー映画になるというラインをすれすれで維持して。

 『ヒーローが植民可能な惑星を探す旅に出て、波乱万丈な冒険のうえ現実的な時間のうちに地球に帰ってくる』(家族も再生する!)

 という荒技を成し遂げているのだ。

 見終わって私は深く感嘆している自分に気づいた。しかし、それはどうも主人公の冒険に対してことではなく、製作者たちの険しかったであろう知的冒険のへのそれであるように思われた

 「よくやった、感動した」と某総理大臣なら言ったかもしれない。

 まあ、さすがにノーランだということだろう。
 昨今みえみえの予定調和が多い中「これはいったいどこに向かっているのだろうか、どう終わらせるのだろうか」とハラハラする映画も珍しい。
 お勧めしておく。


 





 「都市探検」の本である。
 都市探検とは何であるか?本文によればそれは「放棄された産業用地、閉鎖された病院、使われていない軍事施設、下水道と雨水排水路網、交通網および電気・ガス・水道網、閉業した企業、差し押さえられた地所、鉱山、建設現場、クレーン、橋、地下壕に無断侵入する」ことだと書いてある。

 それはなかなか面白そうだと思った。

 私自身職業上の要請によって「放棄された産業用地、閉鎖された病院、完成前に建設が中止された観光ホテル、地下雨水排水路網(首都圏外郭放水路)、電気・ガス・水道網(共同溝)、閉業した遊園地、テーマパークのバックステージ、差し押さえられた地所、鉱山跡地、建設現場、一般公開されていない鍾乳洞、採石場、旧日本軍地下壕」などなどに足を運ぶことがあるからだ(※許可を得て、合法的に、である)

 廃墟マニアである私としては、こういった普通立ち入ることが出来ない場所に足を踏み入れることが出来るだけでも映画屋になった甲斐があったと思うほどだ。

 というわけで、これのワールドワイドな話が聞ける(見れる)ならかなり興味深いのではないかと思ったのだ。
 
 思ったのだが、本の冒頭に「自分には行きたい場所はどこへでも出かけ行く自由がある」という思想の上に都市探検はある、という目も当てられない中二病的なアピールが書いてあってオイオイと思った。

 そんなわけはないだろう。

 そして最初に語られるのが普通に活動中の高層ビルに忍び込む話であったのでがっがりした、それはただの(頭の悪そうな)犯罪行為の記録でしかない。

 まあ廃墟ならいいのか、下水道ならどうなのかと言えば、もちろんそれも不法侵入ではあるのだが、その行為が直接他人に害を与えることが無く、結果に責任を負う覚悟があるのならば(つまり死んだり怪我をしても他人を巻き込まないならば)ある程度は At Your Own Risk というものではないかと思う。

 まあ実行犯がどんなに無法をしても施設側が管理責任を問われかねない日本ではそれも大迷惑な行為だが、欧米ならギリギリ有りかと思うのだ。

 しかしそれもこれも、その行為が違法であり無法であることを意識し、他人を巻き込まないとはいえ何か起これば、やはり地域・社会にそれなりの迷惑がかかる、ということを意識しての話であるべきだろう。

 ところが筆者にはそういった抑制的な部分がまるでなく「俺たちは自由だぜ、行きたいところはどこでも行くぜ」といったイケイケ(死語)なノリであり、しかも自身を「民族誌学者(Ethnographer)」と称している、つまり研究者気取りなのである、頭イタイ。

 ということで、侵入した場所の中にはなかなか面白そうな場所もあったのだが、最後まで読み通すことが出来ず放棄した。

 4500円もするので図書館に買ってもらって読んだ(読まなかった)のだが、どうも貴重な予算、税金をムダに使わせてしまったようで申し訳なく思っている。

 






 有人火星探査ミッション「アレス」は6人のクルーが約1ヶ月間火星に滞在し、各種の調査を行うものだ。しかしその第3回ミッション「アレス3」は事前に想定されたものより遥かに強力な砂嵐の発生によって急遽中止となってしまった。
 6人のクルーは滞在1週間で急遽火星から離脱しなければならなくなったのだ。

 帰還ロケットに乗り込もうとしていた植物学者マーク・ワトニーはちぎれたアンテナに脇腹を刺され遙か彼方まで飛ばされてしまう。
 彼が死んだと思い込んだ他のクルーは帰還船に乗ってそのまま離脱し、マークはたったひとり火星に取り残されてしまった。

 空気も水も食料もない極寒の火星で生き延びるためのマークの戦いが始まる・・というお話である。
 いわば火星版ロビンソン・クルーソーといったところだが 作者はこれを科学的な正確さで描く。

 「火星のプリンセス」(SFと言うよりはファンタジー)を嚆矢として火星を舞台にした小説、映画は数多いがこれはガチガチにリアルであり十字チャートで示せばもっとも科学側に寄った作品だろう、つまりハードSFの極致だ。


 さてしかし、いかにハードSFといえどこれはエンターティンメント小説である。生き延びるために戦うマークの前には、当然のごとく乗り越えなくてはならない壁、様々なアクシデントが立ちはだかるわけだが、最初の1/4ばかりまで読みマークが2つ3つと危地をくぐり抜けるのを読んでこの作品の構造的欠陥に気づいた。

 つまりいかなる困難が待ち受けていようと、最後にマークが救出され地球に帰還することがあきらかである以上、越えられない壁もリカバリー不能な事故も起きない、ということなのだ。
 まあ、そんなこと読む前に気づけという話もあるが、ともあれロビンソン・クルーソーと違い環境も手持ちの機材も限定的であるがゆえに、この作品には思いがけぬ事とか運不運とかいうものがほとんど(全然)存在しない、だから生存の為に必須であり火星で手に入らないものは最初からあり、事故があっても修理可能なものしか壊れず、何かを失っても致命的なまでには減らない。

 すべては作者の手のうち、計算されコントロールされた範囲の中でしか事件は起きないのだ。
 最初のころはアクシデントが起こると「これは致命的な事故じゃないのか、大丈夫なのか」と思ったりもするのだが、そのうち「これもきっとマークが解決策を思いついて終わるのよね」と考えるようになってしまう。

 私はやがてこれは脱出ゲームのようなものではないかと思うようになった。
 脱出ゲームというのは、抽象化されたパズルのようなものからアクション要素・物語性のあるものまで様々だが、基本的にはどこかに閉じ込められたプレイヤーが部屋の中にある様々な道具を使い、鍵を手にする、あるいは扉の前まで移動する、といったゲームである。
 ゲームの基本はどれでも同じで、初見では状況は絶望的に見え、様々な道具が用意されてはいてもそれらになんの脈絡もないように見える。
 しかし必要なものは最初から全部そこに揃っていて、視点を変え、発想を改め、それらをどう組合わせて使うのかが発見できればクリアできるのだ。

(ぬるいゲームだと必要なものが全部揃っているのはもちろん、不必要なものは1個もなかったりする、するとロープがあれば必ずどこかで使うし、箱があればいずれそれに乗ると考えればいいことになる、難度が大幅に下がるのだ)

 ところでしかし、ゲームであれば解法を思いつかなければ先に進めない(ので、長く引っかかっていると「これはきっと何かの間違いで、解けない問題が出題されているのだ!!と思うようになる、もちろんそんなわけはないのだが)苦労の末に正解にたどり着ければカタルシスがある。
 ところがこの「火星の人」はまずいことに(?)小説である「どうするんだこれ?」と思っても読み進めるうちにワトニーが解決してしまう。
 しまいにはサスペンスもなにも感じなくなり、地球側で進められている救出ミッションが大失敗に終わっても、もっといいアイデアが出てくるための前フリね、と生暖かい目で見てしまうようになる。

 サファリではなくサファリパーク、ジャングルではなくジャングルクルーズである。

 もし真に迫ったサスペンスを描きたかったのなら、火星に残るのは1人ではなくクルー全員であるべきだったろう。そうすれば死に要員(!)が確保出来るので誰かがいつか死ぬのではないか、ことによって主人公だけが(英雄的に)死亡するというエンドもありうるのではないかと思わせることができる。
 読者にもアクシデントのたびに緊張感が走るだろう。

 まあ、作者がそういったいかにもなフィクション、ハリウッド的なドラマを嫌い、リアリティを重視した科学の物語を作ろうとしたのであろうことはわかる。

 しかし、様々な苦難、アクシデントが次々と起こりながらその全てがギリギリ範囲内に収まっているというのはどうか。
 起きた時にはどれも大事件のように見え、しかしどれも致命的なところには至らないというあまりにも都合のいい展開は、別な意味でリアリティに欠け、作者が嫌ったであろう作り物感に満ちている。

 これは本作が作者にとって処女作であるという事、最初に1章ずつウェブサイトで公開していったという発表形態からくる計算違い(というか、元から計算などなく書きたい事を順番に書いただけではないか)によるものだろう。

 公開前にベテランの編集者の意見が反映されるような環境で制作されれば、SF史に名が残るような傑作に成り得たかもしれないが、現状ではちょっと毛色の変わった佳作というのがせいぜいのところだと思われる。

 読んで損はないが、すごく面白いとも言えない、これはそんな作品である。


ps


 20世紀フォックスがこの小説の映画科権を獲得したという。まあ映画化権を獲得することイコール映画化決定ではないわけだが(ライバル社に作らせないために権利だけ取って塩漬けにしておく作戦かもしれない)作るとなってもこの小説は大長編すぎてまともに映画化出来るサイズではない。よって必然的にエピソードを整理する必要がある。
 普通は、こんなに刈り上げたら似ても似つかぬ物になってしまうじゃないか、ディティールこそが作品のティストなんだぞ、と言うところだが、今作は事情が違う(かもしれない)

 次から次へと(同じ調子で)起こるアクシデントを刈り取って箱庭感を無くし、ハリウッド的なケレンをうまく絡めて、しかも科学的な考証を忘れなければ(そして家族の再生の物語を入れなければ)面白いSF映画になる(かもしれない)


 
 

 



 
 このコーナーを始めて10数年、音楽について書いたことは無かった。もちろん私にも好きな音楽はある、ジャンルも、アーティストも、とはいえそれらについて好き、嫌い以上の何かを言えるとは思えなかったので今まで書かなかったのだ。

 実のところ世の中には、音楽/映画について好き嫌いしか言ってないサイト/ブログも多いわけだ。しかし私はそういう所を見ると「だからどうした」と思ってしまう、もう少し実のあることを言おうぜと。

 なので、私はここで取り上げるもの(映画、小説等)については好き嫌いだけでなく良い悪いを そして良いとすればどこが良かったのか、悪いとすればどうすればよかったのかを言おうと思っている。

 さてしかし、誰かが心血を注いで創った作品を「悪い」と言うには充分な裏付けが必要である。
 ならば褒めるのは楽か、と言えばそうでもない。
 たとえば「オリジナリティが素晴らしい」と褒めたところが実は元ネタがありました、というのでは恥ずかしい。

 つまるところ「卓越した感性の持ち主がたった一つの作品と向き合う」などというのでは正しいことは言えないのだ。ある作品を評価するにはそのジャンルについて網羅的かつ歴史的な知識(幅と深さ)が必要になる。

 私がこのコーナーで偉そうに何か言っているのは、少なくもSF/怪獣/ホラー/サスペンス映画について、小説については本格推理についてはとりあえず見るべきものは見てきたのではないかと思えるからだ。

 さて、間違って褒めるのは恥ずかしいと述べたが、もちろん一番まずいのは間違ってけなすことだろう、他人の作品をディスったあげくに間違いでしたでは筆者の信用は地に落ちる。

 このディスる→間違いました、で現象が鮮やか(?)なのはパクリの前後関係を間違えることだ。これは客観的に証拠が出てしまうので主観の相違だとかいう言い訳がきかない。またこういう主張をする人はドヤ顔で言い立てることが多いのでますますみっともないことになる。

 前後関係の間違いについて思いつくものは多い。たとえば2006年「犬神家の一族」のタイトルが「黒地に白い太明朝の文字をL字に配置されている」のを見てエヴァンゲリオンのファンがパクリだと言った事件などがそれだ、これは元々はエヴァが1976年のオリジナル版「犬神家の一族」をパクったものだ。
 

  

このあたりはまあ有名なのですぐに気づくだろうが


「2001年宇宙の旅」(1968年製作)より
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」(2013年製作)より[



ガイナックス(とその一味)はシレっとパクリ(リスペクト)を入れてくるので充分な注意が必要である。

 さてしかし、こういったピンポイントなリスペクトはジョークと言ってよいが。作品の成り立ちに関して触れる場合にはさらなる注意が必要だろう。


 たとえば。
 「主人公は現在の記憶を保持したまま過去の自分に乗り移ることのできる能力を持っている。
 彼は自分と彼女の間に起こった悲劇を回避しようと、過去に遡り未来に起こる事件を回避しようと試みる。
 しかしいくら遡っても、いくら過去に干渉しても、来る悲劇は避けられない、ついに彼は彼女を助けるため、「自分と彼女が出会う」という事実自体を無いことにしてしまう。 
 ラストシーン、「現在」で彼と彼女は雑踏の中で出逢う、しかし出会いを経験していない2人ははそのまますれ違う」

 というとこれを「シュタインズゲート」(TVアニメ版)だと思う人は多いだろうが、実はそっくり「バタフライエフェクト」(ニューライン・シネマ)の概要である。
 バタフライ・エフェクトの日本公開は2005年であり、シュタインズゲートはゲーム版2009年、アニメ版2011年なのだから、「前後関係」は明らかである。


  

左「バラフライエフェクト」、右「シュタインズ・ゲート」 それぞれのエンディング
「いただき」であることを隠す気は毛頭ないようだ




 これは作品に挟まれたちょっとしたジョークではなく、根幹に関わるネタであり、ここだけ見るなら明白なパクリといっても過言ではない。
 とはいえ実のところ私はこれを問題視していない。

 どんな作品も過去の作品の影響を受けている、つまりパクりパクられながら作品は進化していくのだ。
 作品中のパクり成分(?)が多い場合は、更に付加価値を付けるのが難しくなるだけでそれが成功するなら問題はない。
 簡単に言うなら「もらった分より多く返せ」と言うことだ。

 そこでバタフライエフェクトだが、この作品は主人公をはじめとして登場人物が全員精神的な問題を抱えており、物語が進行するに従って(主人公が過去に干渉するにつれて)どんどん不幸になっていくという陰々滅々とした話である、そして先に述べたように最後は悲劇で終わる。

 翻ってシュタインズゲートは秋葉原を舞台として「オタクが世界を救う」という破天荒な(夢のある)テーマを正面きって描く。

 そしてラストの「時を隔てた『同一人物同士』による問答」

 未来の主人公「確定した過去を変えずに結果を変えろ、最初のお前を騙せ、世界を騙せ」
 現在の主人公「やってやる、俺は狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真、世界を騙すなど造作もない」

 という中二病全開なセリフの掛け合いの末、それまで何をしても避けられなかったな悲劇の回避に成功する。これはアニメ史上に残る名シーンである(後で述べるがSF史上でも特筆されるべき名シーンである)。

 「バタフライエフェクトをベースにしているけど、とりあえず色々と積み増ししている点は評価すべきか」などと思いつつ観ていた私はここでこの作品がネタ元を遥かに越えたことを確信した。
 おそらく、制作者たちには「基本のネタはいただきだが、こっちはもっと上を目指す」という志があったのだろう、シュタインズゲートの評価すべきポイントはそこだ。

 つまるところ、バタフライ・エフェクトを知らなければシュタインズゲートの正しい評価は下せない。
 幅と深さのある知識を持たなければ的はずれな事を言いかねないということだ。


 <余談だが、時間とは過去から未来に向かう1本の道であり、過去を変えると未来が変わる、というのは「タイム・マシン」から「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に至る古典的タイムトラベル観である。
 それに対しタイムトラベルとは時間を移動するだけではなく、確率論的平行世界を移動することでもあるのだというタイムトラベル観があり、これをはじめて正面きって取り上げたのはジェイムズ・P・ホーガン の「プロテウス・オペレーション」ではないかと思う。

 この「プロテウス・オペレーション」は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦に勝利してしまった暗黒の未来(連合国側から見た場合だが)から、歴史を変えるという任務を負った特殊部隊が第二次世界大戦のまっ最中にタイムトラベルしてくるというお話である

 しかし過去世界で工作を始めてみると、歴史にない事件が発生するなど予期していなかった障害が発生する。
 実行部隊はこれをタイムマシンが動作する理屈について正しい理解が出来ていなかった為ではないかと考える。
 実はそのタイムマシンはドイツから盗み出してきた代物で、理論的な裏付けや研究が済んでいないまま作戦「プロテウス・オペレーション」を実行していたのだ(ジャンプの飛び幅は50年と決まっているので、研究に時間を費やしていると第二次世界大戦が終わってしまう)

 困った彼らは過去世界における最高頭脳アインシュタインに助けを求める。
 アインシュタインは様々な考察の末、タイムトラベルとは、時間を遡るだけでなく、可能性の数だけ存在する平行世界を移動することでもあると結論する。

 つまり実行部隊が過去世界に干渉すればするほど、元の時間軸から離れていってしまう、そもそも彼らが過去に着いた時点でそこは彼らの知る世界とは違う場所だったのだ(ゆえに過去世界でどう活動しても彼らがやってきた世界を救うことはできない)。
 というのが「プロテウス・オペレーション」の概要である。


 さて、このプロテウス・オペレーションによってタイムトラベル物最大の課題であった、タイムパラドックス(親殺しのパラドックス等)はついに回避出来ることになった。

 たとえば親Aを殺そうと子aが過去にタイムスリップすると

時間軸α「Aに何の事件も事故もなく子どもaをもうけた世界」
時間軸β「どこからともなく現れた人物(a)によってAが殺された世界」

に世界は分岐する。

 aがその後現代に戻ってもそれはAが若くして殺された世界であり、aの居場所はない(その世界にとっては知人もなく経歴もない人物が突然現れたように見える)

 つまるところタイムトラベルは可能だし過去に干渉も出来るが「それでは何も解決できない」というのが確率論的平行世界タイムトラベル観なのだ。

 これは以降のタイムトラベル物に多大の影響を与えている。
 バラフライエフェクトにもそれが色濃く出ているのは理解できると思う。

 シュタインズゲートもその流れの中にあるわけだが「何も解決できないわけあるか!」と果敢に挑み、成功したというあたりはSF史からも特筆すべき出来事だろう。


 ちなみに「プロテウスオペレーション」で、特殊部隊が使用し、アインシュタインが原理を解明したタイムマシンの名前は「ゲート」シュタインズ・ゲートの名前の由来はここから来ているのではないかと私は思っている。



 ・・・・音楽について書く筈だったのだが、話のマクラに手慣れたジャンルの話を始めたらついつい長くなってしまった。

 音楽の話である。

 私の好きな音楽グループにエマーソン・レイク・アンド・パーマー(以下ELP)がある、まあとうの昔に解散してしまったので、好きだったというべきかもしれないが。

 ジャンルはプログレッシブ・ロック、通称プログレだ。代表作と言うと「恐怖の頭脳改革(Brain Salad Surgery)」がすぐ挙げられるが。私は「展覧会の絵(Pictures at an Exhibition)」と「タルカス(Tarkus)」が双璧だと思っている。

 ではプログレとは何であるか。
 それは前衛的 先進的、独創的であり、技巧的であるロックであり
 クラシックやジャズなどとクロスオーバーしたロックであり
 シンセサイザーなど最新テクノロジーを積極的に取り入れたロックである
 という特徴の他、
 「アルバム全体を一つの作品として捉え、統一した世界観の元に楽曲が作られている」
 という重要なポイントがある。

 さてそこで「タルカス」である。

 これはプログレの代表的なアルバムであり、LPのA面は20分を越える表題曲「タルカス」で占められている
 この組曲タルカスは

「遠い未来、地上は遺伝子改造と突然変異によって生まれた怪物達が争い戦う戦場と化している。
 火山から生まれた怪物タルカスは並み居る怪物を次々と撃破していくが、ついにマンティコア(体はライオン、顔はヒト、コウモリの翼に、サソリの尾)に敗北し、崖から落ちて海に沈む」

 というコンセプトの上に成り立っている。そしてそのタルカスがこれ。



 「恐竜戦車だー!」と当時の怪獣ファンなら思いますわな。




ウルトラセブン第28話「700キロを突っ走れ!」より、恐竜戦車
 ウルトラセブンのオンエアは1967年、タルカスの発表が71年なので、見事にパクられたと当時私も思いました。


 さて、先日ELPやらプログレやらについてネットサーフィンしていたところプログレに関する個人サイトにたどり着いのだが。
 当然のようにタルカスについて触れられいた
 (まあ、プログレといやELPかイエスかピンクフロイドかであり、ELPといや「タルカス」か「恐怖の頭脳改革」かなのだから当然なのだが)
 書かれていることはまっとうな事でELPはタルカスが最高というサイト主の主張はまったく納得できる話だったのだが。グーグルの検索上位にあるだけにそれなりに評価の高いサイトなのかもしれなかったのだが。

 残念なことにタルカスの造形について触れ、恐竜戦車との相似についても触れ、最後にシャレたつもりか『円谷プロが「タルカス」を参考にしたかどうかは定かではありません。』と〆めていた。

 ELPとウルトラセブン、双方のファンとしてはこの文章的ドヤ顔にカチンときて「シャレたつもりかもしれませんが、誰かをディスるならちゃんと調べてからにしたほうがイイデスヨ」とコメントしてしまった。

 コメントは承認式ではなかったので即反映し、サイト主はメンテをやってないのか、批判コメントも受けてたつ男らしい性格なのか、しばらく経った今も掲載されたままなのだが、wikiでカチカチッとやれば第三者の検証も容易な昨今、これはかなり恥ずかしいのではないか。


 ということで、何が言いたいのかというと人の作品をディスっているばかりの私も充分に気をつけねばという話なのだった。



 ここで話は変わってゴジラである。これを読む人は、あ、また映画に話を戻すつもりだ、と思うかもしれぬがさにあらず、音楽の話である。

 2004年の「ゴジラファイナルウォーズ」はゴジラ生誕50周年、東宝特撮を総括する集大成として製作された作品であり、登場怪獣15体、制作費20億円、製作日数100日、4班編制という超大作である(といわれても映画関係者以外にはどのあたりが大作なのかわからないと思うが、まあびっくりするほどの大作である)

 私はおもちゃ箱をひっくり返したようなこの娯楽大作が大好きであり、歴代ゴジラ映画の中でも上位に評価する作品なのだが(これについては別途書いているのでそれをお読みいただきたい)歴代の作品とはあきらかに毛色が違い、熱心なゴジラファンからそっぽを向かれ興業収益はゴジラ映画中ワースト3という結果に終わっている。

 さてこの映画を例によって何の予備知識もなく観にいった私は「これは傑作だ!映画のすみずみから、なにがなんでも観客を楽しませようという監督の心意気が感じ取れる」と思いつつエンドロールを観ていたのだが。
 流れるサウンドがどこか聞き慣れたものであることに気づいた、しかしそれが誰の何であったかしばらく思い出せなかった。

 会うことなどまったく想定していない知り合いに、まったく違う場所で出逢うと(近所の郵便局のお姉さんに観光地で会うなど)顔こそ知っているものの、どんな知り合いであったか思い出せない、ということは無いだろうか。

 この時がそれだった、この音は知っている、でもなんで知ってる?どこでいつ聞いた音だ?
 たぶんここでなければ(ゴジラのエンディングテーマでなく、タワレコの店内とかなら)一発で思い出した筈だが、私はしばらく混乱した、そして気づいた。これはまごうことなきELPサウンド!

 四半世紀の時の流れも無視した安っぽい、ケロケロ(としかいいようない)オルガンの音。これはエマーソンの音だ!

  何で? ホントに? と焦ってタイトルロールに注目したのだが、早目に気づいたため、キース・エマーソンの名が読み取れたのは幸いだったと言えよう。

 あとにも先にも、そのつもりもないのにサウンドからミュージシャンが特定できたのはこれが最初である(私の音楽鑑賞歴はその程度ということでもある)

 そののち調べたところによると、キース・エマーソンはゴジラの音楽を担当したことについて「光栄であった」と述べている。

 (ちなみに「タルカス」はエマーソンの発案で出来た曲なのだが、最初メンバーに提案した時は「ソロでやれ」と言われたというエピソードがある)


 はは~ん


 エマーソンといえばELP時代、ライブ演奏時にはエマーソン自身がクレーンで空高く持ち上げられ、回転装置によって「グランドピアノと共に前方回転しながら(!)」演奏する通称『回転ピアノ』(←意味不明)とか。
 演奏中興奮のあまりナイフを持ちだして楽器を破壊する(よく見ると安いハモンドオルガンだとキーボードにナイフを刺すが、お高いモーグシンセサイザーだと被害の少ない木製パネルに刺している)(日本公演の時はナイフの代わりに日本刀を使うなどのサービスも)などの前衛的パフォーマンスをウリにしていたのだが。

 家に帰ればウルトラセブンを見ていたのだ。


 




 映画のジュラシックパークシリーズは続編、続々編とどんどん出来が悪くなっていったため今回はまったく期待していなかった。
 それでも木戸銭を払って劇場に足を運んだのはこういった大エンターテインメント映画は大スクリーンといい音響で見るべきだろうと思ったからだ(まあ見たのは通常の2D版で噂の4D版ではなかったのだが)

 ハードルを相当程度に下げていったのでそこそこ見られるのではないかと期待していたのだがダメだった(だから期待するなと…)

 いろいろダメなところはあるのだが、一番気になったのが私が「悪しきハリウッドフォーマット」と呼ぶドラマ構成である、つまりは「家族のためなら何をしてもいい」という切り口だ。
 もちろん家族は大事であり優先的に守ってしかるべきものだが、責任ある立場の人間がその責務を放棄し、他人の犠牲を顧みず、身内のことだけを考えた行動を取るというのはアリなのか?ということだ。

 これについては過去何度も触れているが現象が一番鮮やか(?)なのが「ダンテズピーク」である。

 火山の麓にある街「ダンテズ・ピーク」その名前の由来となった火山がついに噴火し市民はパニックに陥る、しかし女市長は山小屋に取り残された母親と息子を助けるため職場を放棄して救助に向かってしまうのだ。

 陣頭指揮に立つべき人間として許されるべき行為ではないのだが、映画はどんどんドメスティックな視点に移行していき最後は市長とその家族が助かってメデタシメデタシという雰囲気のまま終わってしまう。
 最高責任者が不在であることで助かるべき命、救えるはずの財産がどれだけ失われたかと思えばとうていハッピーエンドとは思えないのだが、ハリウッド的ドラマ作法ではこれはアリらしい。

 同様に「デイ・アフター・トゥモロウ」では異常気象が発生し地球は突如氷河期(!?)となる。
 主人公はこの事態を予測していた唯一の気象学者であり、事ここに至ったからには政府に対して今後の見通しなどの意見を述べる立場にあると思うのだが、彼は息子がニューヨークで孤立したと知るや単身ワシントンからはるばる助けに行ってしまう。

 火山どころではない地球規模の大災害なのに、お話の視点をどんどんと矮小化し、最後は父と子が無事再会してメデタシメデタシと終わってしまうのだ。

 さらに言えば、なぜかこの父と子が再会した途端に異常気象は去って危機は去り、明るく太陽が輝いてしまったりするのだが、これは市長家族が危地を脱した途端火山の危険が去った(らしい)ダンテズピークの街と同じ状況である。

 要するにマクロな視点で始まるパニックは危機感をあおるためにだけに存在しており、その解決にも主人公の職業倫理にも目をつぶって、家族愛の勝利というミクロな「メデタシメデタシ」を映画に投影して終わらせてしまうきわめて怪しいドラマ作法なのだ。



 さて私はこの「映画全体を俯瞰する視点を途中で放棄する」「職業倫理に目をつぶる」というのがどうにも許せないわけで、そういう展開になると(そういう映画がまた多いわけだが)評価はだだ下がりとなる。
 お話と映像は無関係なのだが見る目が厳しくなっているのでアラも目につくし、大目に見るつもりも失せているので当然映像的側面の評価も悪くなる、お芝居について言えば、これは登場人物の行動が理解できないのでそもそも評価出来ない。


 さてマキノ省三という人がいる、明治の終わりから昭和初期にかけて時代劇300本を撮り日本映画の基礎を築いて「日本映画の父」と呼ばれた大監督だが、この人が映画にとって重要なのは「1スジ 2ヌケ 3ドウサ」であると言っている。
 要するに映画にとって重要なのはまずは脚本、次に映像、そして演技ということだ。

 この伝で行くと、つまりはお話が限度を超えてダメだと映画は救いようがないということになる。


 この映画はそんな映画である。





 と〆て終わってしまってはあんまりなので、いちおう内容について触れる。

 映画は「ジュラシック・パーク」から22年後、インジェン社は新たな出資者を得ており恐竜テーマパーク「ジュラシック・ワールド」が開園しているという設定だ
 舞台は昔と同じイスラ・ヌブラル島、この「ジュラシック・ワールド」は1日2万を超すゲストが訪れるという大人気パークとなっている。

 ここで恐竜の研究、開発(!)を行っているインジェン社はあいかわらず企業倫理に欠けた組織で、スポンサーに請われるまま遺伝子工学を利用してアトラクション用の「でかくて、歯がいっぱいの恐竜」を作りだしたり、ヴェロキ・ラプトルを軍用に飼育できないか検討したりしている。

 主人公クレアはパークの運営責任者だが、これまた責任感の欠けた女性である。自分の姉からパークを訪れる甥っ子たちの面倒を頼まれているにもかかわらず(姉には自分が面倒を見ると約束しているにもかかわらず)甥っ子2名が島に着くや自分の秘書をあてがってノータッチを決め込む。
 そしてお約束、人工的に作られたハイブリッド恐竜インドミナス・レックスが檻から脱走して警備員を瞬殺、翼竜ドームも破壊したため肉食翼竜が人を襲い始めて島は大パニックとなる。

 悪ガキである甥っ子たちは避難指示を無視して行動し行方知れずとなってしまう。するとクレアは最高責任者の立場を放棄して自分で甥っ子たちを探しに行ってしまうのだ。

 2万人のゲストは?!
 
 「もしも~し、職業倫理とか責任感とかどっかに投げ捨ててきましたか~」と言いたくなる展開である、この瞬間この映画は私にとって評価の外となった。

 甥っ子たちと合流した後もクレアは指揮に戻ることをせず、元恋人であるラプトルの飼育係と行動を共にしてインドミナス・レックス退治に奔走する、あなたのやるべきことはそれじゃないでしょうが。

 そのほかにもこの映画はパニック物やホラー物特有のご都合主義にあふれている。
 昔むかし「ディープブルー」という映画があった。海底にあるサメ研究所が遺伝子改造によって頭が良くなったサメに襲われるという映画だが。このサメたちは「水圧」とか「防水」とか「人は空気が無いと生きられない」ということを理解しているのだ。

 ある場所では水圧で隔壁のボルトが飛んで浸水する(ボルトが飛ぶほど高水圧がかかっている)という描写をやっておきながら、別場所では床に水が貯まっているだけ(サメが侵入してくるのだから海とつながっているはず)みたいな描写をして平気な映画の製作者たちよりサメの方がよほど頭がいいと言えるだろう。

 遺伝子改造で頭は回る(?)のだとしても、このサメたちの「知識」はどこから手に入れた?と思うのだが、要するにいろいろとご都合主義ということだ。

 さてこの「ジュラシック・ワールド」だが、敵役インドミナス・レックスが異常に頭がいい。
 まず飼育されている檻の壁にキズを付ける、次に体表面の温度を下げて赤外線カメラから隠れ、監視している警備員に自分が檻から脱走したと思い込ませる。警備員が状況を確認するため檻に入ってきたところで姿を現して逃げ道を塞ぎ、警備員が逃げようとして非常口のロックを外したところでそこから逃げ出すのだ。
 ソリッド・スネークもビックリの脱出トリックである。

 その後、体に埋め込まれたGPS発信器を利用して追ってくるハンターを欺くため、自分でGPS発信器をえぐり出してハンターを罠にかけたりする。

 頭がいいというのはとりあえずアリとしよう(そんなことは劇中語られていないが)、しかし飼育されている恐竜が赤外線監視装置やGPS発信器の存在や動作原理を何故知っているのか。
 我らがヒト族の犯罪者の中には監視カメラやNシステムの存在をまるっと無視して犯罪を犯し、あっさりつかまる阿呆がいるがそれよりよほど頭がいい。

 こういう限度を超えた頭のよさやカンの良さ(「犠牲者が広いお屋敷を闇雲に逃げ回ったあげく、とある一室に逃げ込むや扉の影からジェイソンが出てくる」的な)は緊張感あるドラマに必須な必然性をスポイルする。

 こういう頭の悪いことをする製作者はほかの部分でもやらかすわけで、たとえばこのパークには2万人のゲストが居る筈なのだが途中でその姿が消えてしまう。

 一瞬「港にフェリーが来るぞ」というセリフはあるのだが、着いたという描写も乗船して一安心という絵もない(クイーンエリザベスですら定員2千人なのに何隻船が来たというのか)
 また、翼竜が人を襲っている描写をしている以上ケガで動けない人、室内に避難して助けを待っている人などパークの各所に多くのゲストが取り残されている筈なのだがそれは一切無視されている。その翼竜も野放しのままなので脅威は去っていないはずなのだが、いつの間にかインドミナス・レックスさえ倒せばハッピーエンドという風になってしまっている。

 要するに翼竜もゲストもパニック描写を盛り上げるためだけに存在する背景のような扱いなのだ。
 クライマックスの2大恐竜激突のシークエンスに邪魔になるから居なくなって欲しいのはわかるのだが、ウソでもいいから(!)片付けておいてくれないと見ているほうは気になるのだ、こういう観客の気がかりというものを理解しない製作者(監督、シナリオライター、その他)は2流だし、映画はB級だと思うのだ。

 
 さてここまでドラマ部分の欠点をのみ語ってきた。しかしドラマが全然ダメでも圧倒的な映像で観客を最後まで飽きさせないという映画もないではない。
 お話に問題があったとしても、現代に蘇った恐竜が人を襲い、最新テクノロジーを敵に回してなお一歩も引かない大暴れ、という映画は面白いはずなのだ、理屈では。

 しかしそうなっていない。

 これはCGの発達が映画の特殊効果への緊張を削いでしまっている、ということがあるだろう。つまりは「CGがあればなんでも出来る」という製作者たちの緩みだ。

 初代ジュラシックパークはCG黎明期であり、スピルバーグは寸前まで恐竜をフィル・ティペット(人形アニメーター)のゴーモーション(コマ撮り撮影の一技法)で撮るつもりだった。
 テストショットのCGレックスが思いがけず良かったため、急遽全面的にCGが取り入れられたが、全てお任せというほど気を許していたわけではなく、実物大のアニマトロニクスTレックスや着ぐるみラプトル(!)なども用意され、CGで何をどう見せるか計算し尽くした演出、カット割りとなっている。

 今やそうではない、どんなカットでも実現可能だと思うからか、画面構成に緊張感がない。しかし「CGがあればなんでも出来る」というほどにCGの出来もよくないのだ。

 CG技術はテクノロジーの発達に従って飛躍的に良くなっていき、しまいには現実と見分けが付かなくなってくると私は思っていた。
 実際ピーター・ジャクソン率いるウエタデジタル製のCGは飛躍的に良くなっていき、「第9地区」の宇宙人、「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラム、最近ではロボットの「チャッピー」などでCGキャラクターが主役/準主役を演じている。

 私は当初は「なんとCGが主役とな?実在しないキャラクターが主役を張れるものかどうかひとつ見て進ぜよう」という気分で劇場に足を運んだのだが(イヤな客である)
 実際にはそれが現実に存在するがどうかなどは「どうでもいい」だけのリアリティがあった。

 さてしかし、一方ジュラシック・ワールドのCGはそうではない、まあ恐竜と言われればそう見えないこともないというレベルだ。
 つまりそこに本物の恐竜が居て役者と一緒にカメラに収めましたという絵には全然なっていない。






これは「ロストワールド(ジュラシックパーク2)」の絵だが、人と恐竜が同じ地平に立っているようにはとうてい見えない
ジュラシックパークに限らず、ハリウッド映画のCGはほとんどこういうレベルである(

 ニュージーランドとハリウッドでそこまで技術に差があるとも思えないので(というかカナダのイメージエンジン社などはどちらにもCGを提供しているので)ことによるとハリウッドではCGはもはや費用効果の話になっているのかもしれない。つまりリアリティをとことん追い求めると、最後にはほんのちょっとしたクオリティの上昇のために多額のコストをかけなければならなくなってしまう。なので「この程度まで出来ていれば観客は文句を言わないだろう」という見切りで作っているのではないだろうか。

 このあたりは根拠あって言っているわけではないのが、ともあれこの映画のCGは「そう言われればそう見える」という程度でしかなく、見せ方に工夫もないのでそれだけで映画を引っ張る推進力はない。

 唯一感心したのが、飼育係が4頭のラプトルを従えて、バイクでジャングルを疾走するシーンだ。1作目の恐怖の象徴たるラプトルが人の仲間となって敵に挑むというこのシーンはその設定にも、画面の躍動感にも思わず「超カッコ良い」と思う(そう思った途端、劇中で悪ガキ兄が「超かっこいい」と言うのもツボである)これこそ映画である。




ラプトル4姉妹が可愛い


全編125分の大スペクタクル映画の中でこのたった数分だけがエキサイティングだというのも情けない話なのだが、もはや恐竜が画面の中で歩いていても「誰も驚かない」、「映像化不可能と言われた!」などというお話ももう無い。観客は「驚異の映像」を目の当たりにしても「あーCGね」と思うだけだ。

 「CGがあればなんでもできる」時代となっても、ドラマ、必然性、演出が無ければ観客を感動させることは出来ない。「1スジ 2ヌケ 3ドウサ」はいまでも映画の原理原則なのである。




ちなみに、初代のCG恐竜だが、動きは人形アニメーターだったフィル・ティペットが付けている。
なので恐竜が獲物に襲いかかる時、一旦首を引いてタメを作るティペットアニメ特有の動きはCG恐竜にも受け継がれている。
形が作れればいいというものではない「ドウサ」は重要なのだ。




 






 予告編の映像が綺麗だったので、久しぶりにIMAX3Dでも見てみようかと劇場に足を運んだ。
 いつもの事なのだが見ると決めた映画については事前に情報を仕入れないので、これがどんな映画であるのかまるで知識がなかった、冒頭にこの映画は実話に基づくと出た時も「またまた~」と思ったくらいだ。
 しかし、これは1996年に起こったエヴェレスト大量遭難事故の忠実な映画化であったのだ。

 この事故では8人の登山者が死亡しており、英語で「1996 Mount Everest disaster」と特別に呼称されるエヴェレスト登山史上最悪の遭難事故である。
 遭難者の一人が難波康子という日本人女性だったこともあって発生当時日本でも大きく取り上げられた(難波はセブンサミット<7大陸の7つの最高峰>のうち6つを制覇しており、エヴェレストに登頂すれば世界で7人目の女性セブンサミット踏破者になる予定だった)

 もっとも、エヴェレストが難攻不落であったのは装備も技術も未熟であった20世紀前半までのことであり、この頃には公募隊あるいは商業登山隊と呼ばれるツアーが一般的になっていた。
 公募隊は日本円で数百万円の参加費と引き替えに登山にかかわる面倒事をすべて代行してくれるビジネスである。
 参加者は登山に関わる申請ごとや機材の準備、シェルパの手配を自ら行う必要がなく、実際の登山にあたっても荷揚げ、ルート工作、固定ロープ張りをする必要もない、このビジネスによってアマチュアに近い登山者でもエヴェレストに登頂出来るようになっていたのだ。

 実際映画の中でも、ベースキャンプに着いてから参加者にアイゼン(登山靴に装着する金属のツメ)の使い方を説明している公募隊があるという様子が描かれていて「アマチュアに近い」どころかド素人まで連れてくるような公募隊まであったらしい。

 小さい頃に冒険談などでエヴェレストという名前に崇高なイメージを抱いていた私としては「今やエヴェレストの南東陵ルート(ネパール側から登るルート、ノーマルルートとも言う)は誰でも登れるようになっていて、登山者で渋滞が起こるほどである」と聞いて鼻白む思いであったのだ。





エヴェレストノーマルルートの実際の様子、ひと夏で500人登頂することもあるらしい


 したがってその夏、エベレストで大量遭難が起こったと聞いていささか驚いたのだった、誰でも登れる「ちょっとキツい観光登山じゃなかったの?」と。

 ということでその後この事故について書かれた本(参加者の一人であるジョン・クラカワーの「空へ」、ガイドだったアナトリ・ブクレーエフの「デス・ゾーン8848M ~エヴェレスト大量遭難の真実」など)は目を通すようにしていたのだが、映像は始めてだ。

 もちろん実話をベースにしてはいるがこれは劇映画であり役者をデス・ゾーンとよばれる8000m超の地点に連れていけるわけもないから作り物には違いないだろうが、なにしろ媒体が映像オリエンティッドなIMAX3Dである、ドキュメンタリー映像に勝るとも劣らない山岳映画になっていることが期待された、これは思いがけない掘り出しものであった。

 映画は期待に応える出来となっていた。

 実は映画を見たあとで各種批評、感想を見たのだが、登山が始まるまでが退屈であるとか、話がまるで動かないという人が多くいた、まあそうかとも思う。

 なにしろ公募隊「アドヴェンチャー・コンサルタンツ社」の参加者がカトマンズに着くところから映画は始まり、各所の寺院で高僧から祝福を受け、ベースキャンプにたどり着き、高所順応をしながらキャンプを前進させていくまでをじっくり見せていくわけで「開始○分で登場人物の紹介を済ませ、○分で最初のイベントを起こす」という最近のハリウッド映画のフォーマットをガン無視した構成なのだ。

 なぜそうしたのかと言えばそれは事故を忠実に映像化しようとしたためだろう。
 登場人物が(難波康子、クラカワーを始め)全員が実名で出ているため、ヘタなドラマを付け足すわけにはいかなかった(訴訟沙汰にもなりかねない)という側面もあったかもしれない。

 しかしこれが史実(?)にどれだけ忠実か理解していない人にとっては、これを「事実に基づくたって、所詮はスペクタクル山岳映画よねぇ」と思っていた人にとっては、いつまでも「大自然の猛威に立ち向かう冒険者達の勇気と感動の物語」が始まらないことに物足りなさを感じたとしても不思議はない。

 しかし私は長く知識としてだけ持っていたこのいきさつを映像で見ることが出来て満足だった。
 もちろん絵の多くは「作り」なのだろうが、事の進行を事実に沿って描くことにこれだけ注力している製作者ならばその映像もまた可能なかぎり事実に近づけよう努力した事は間違いないわけで、実際ドキュメンタリー映像を見ているかのような臨場感があった。
 (しかし、ヒラリーステップ<頂上直前にある最大の難所>のセット丸だし感はもう少しなんとかならなかったものか^^;)

 ということで、私にとってはこの映画は金を払ってでも大画面で見るべき映画であり、見て損のなかった映画だったのだが、これをスペクタクル山岳映画として見にいった場合どう見えるか保障の限りではない。
 「1996 Mount Everest disaster」について知らず、知っていてもさして思い入れのない人にとってはあるいは「話の動き出しの遅い」映画でしかないかもしれないからだ。


 
 さてしかし、今金を払ってでも見るべき映画とは言ったが、IMAX3D特別料金2300円也を払って見るべきだったかというと若干の疑問がある、そもそも私は「映画に3Dは不要だ」派の人間だ。
 理屈は単純、映画に3Dはなじまないと思うからで、なぜなじまないかと言えば、映画で見るような絵は現実社会でも我々は3D(立体視)していないからだ。

 立体視の理屈はこうだ、目の前に箱があったとする、これを両目で見ると右目からは箱の正面と右側面が見える、左目からは正面と左側面が見える、つまり右目と左目では見えるものが違う、これを脳が処理して箱を立体物であると認識する。
 また背景の手前にある箱は背景の一部を隠しているが右目からみた場合と左目から見た場合では、背景の隠れている部分が違う、これをもって脳は箱が背景の手前にあると認識する。

 この見え方の違いを「視差」という、視差は人の2つの目が離れていることで発生する、理屈で言えば人は見ているものすべてに視差があり、すべてを立体視していることになるが、なんと言っても眼間距離はわずか数センチである、文字通りの「目と鼻の先」にあるものならともかく遠くのものにはほとんど差が出ない(十数メートルで事実上視差は無くなるという研究もある)

 つまりは、人はある程度遠くの物は立体視していない(出来ない)ということなのだ。

 したがって事が全て室内で起きるようなドラマであれば3Dは有効だが、視覚的効果がウリになるような一大スペクタクル巨編では「引き」の絵が多くなるはずで、そうなると3D効果は意味をなさなくなってしまうのだ、本当ならば。

 しかし今劇場の入場料金は各種ダンピング合戦のおかげで形骸化し一般1800円という入場料金は建前になっている。
 なので劇場/配給会社は映画に付加価値を付けようと躍起になっている、3D興業は入場料を元に戻しさらにプレミア料金まで徴収する絶好の口実(!)なのだ。

 しかしこうなると「立体映画!」と銘打って2300円徴収し(各種割引からすると倍以上である)実際に見てみたら3D効果など感じませんでしたでは済まない「本当はこう見えるんデスヨ」などと言っても観客は収まらないだろう。

 なので本当はどう見えるかは無視して引きの絵にも立体感を付けることになる、この映画でいえばベースキャンプ目指して進む登山者達が吊り橋を渡る俯瞰映像がある、カメラから吊り橋まで百メートル以上、これを肉眼で見ても右目と左目はほぼ同じ映像を捉えているから立体視できる筈はない。ところが映画では橋は谷底から浮いて見える。

 この映像が後処理で作られたものか「1発撮り」なのかはわからないが(本物にしか見えないので)今やデジタル技術の進歩によって、立体効果のない映像にも3D効果を付加することが可能なのだ(これを「なんちゃって3D」と呼ぶ)

 これをスペクタクルだと言うべきか不自然な立体感というべきかは議論の分かれるところだろう。
 私は「背景から浮いて見えるものは、目から近いものを見た時にだけ起こる現象である」ということを経験的に知っている脳がこれをリアルと受け取らないのではないかと思っている。
 つまりこれを見た人が「お!大迫力」と表面的には思ったとしても、知覚の奥底では「でも、なんかヘン?」と捉えているのではないかと思うのだ。

 元より3D映画に懐疑的な私などはカットごとに「リアル、リアルじゃない、許す、変過ぎ」と思いながら見てしまう。

 そ・し・て ここが重要なのだが、思わず映画に引き込まれるようなスペクタクルなシーンでは3Dかどうかなど「どうでもよくなる」ということだ。

 そういうわけで私はまずもって3D映画を見ない「通常の倍もするようなプレミア料金を払って違和感のある映像を見に行くなど愚の骨頂だ」と思っているからだ。

 そこまで言うなら、たまにとはいえなんで3D映画を見にいくのかというと、嫌っていて見ないでいるうちに意外にも3Dは見られるものになっていた、ということがあるといけないと思うからだ。
 そして今回それがなぜこの映画だったのかというと、この映画が私のよく観るSFやホラーやファンタジーなどこの世にない物が登場し、この世ではありえない現象が起こるデジタル映画ではないからだ。

 良く出来た特撮映像は本物と見分けが付かないが、いかに良くできていても怪獣やロボットやレーザー光線が本物である筈はなく、我々はそういった映画を見る時「リアル」とか「現実味」とかの採点基準を無意識に甘くしている可能性がある(というか、まあ相当にヘンでないかぎり「これはこれでアリ」としている筈である)
 
 3D効果の違和感もそういったデジタル映画では緩和されている可能性がある。

 なので、真にリアリティが求められるドキュメンタリータッチの映画で3D映像がどう扱われているか見て見ようと思ったのだ。

 そのことに関していえば、映画に3Dは不要という私の従来の意見に変わりはなかった。
 先に「IMAX3D特別料金2300円也を払って見るべきだったかというと若干の疑問がある」と述べたのはそういう意味である。

 今のところ3D上映しかしていないようだが、2Dの興業を希望したい。



 






 見た時すぐに「これについては是非書かねば」と思ったのだが、書きたいことはネタバレせず書ける事ではなかった。「ネタバレまっぴら御免」を標榜する私としては悩ましいところだったが、これは言っておかねばと思う事も多く、折衷案として(?)半年待って書くことにしたのだった。

 

 さてこの映画、舞台は南アフリカ/ヨハネスブルク、主人公ディオンは兵器メーカーに勤めるロボット工学者である。会社は彼が開発した軍事ロボットを警察官の代わりとして政府に納めている。
 会社は利益を追求するあまり倫理観に欠ける組織(まあ兵器メーカーだし)であり。ディオンはよくいえばイノセント、悪く言えば学者バカで自分の研究にのみ興味があって、それが社会でどう使われるかにまったく興味がない。

 ディオンは学習機能を備えた完全自立型の人工知能を新たに開発したが無用の機能であるとして会社からは実機(ロボット)へのインストールが許可されなかった。
 
 あきらめきれないディオンは1体のロボットを盗みだし実験を強行しようとする。
 しかしその時彼はギャングによってロボット共々誘拐されてしまう。
 街はブラックなブラザー達が裏社会を牛耳っているのだが、そのギャング団の下部組織である3人組は警察ロボットに対抗できる自分達用のロボットの入手を目論んでいたのだ。

 ディオンの新しい人工知能をインストールされたロボットが赤ん坊のような純真さと学習能力を持っていることに気づいた3人組はロボットに「チャッピー」と名づけ手下となるよう教育を施す。
 優秀な学習機能を持つチャッピーはたちまち一人前の犯罪者となってしまう。
 ディオンは人工知能の進歩への興味もあって事態を静観し、結果として犯罪に荷担してしまうのだ。

 さて、会社にはディオンのライバルとも言えるロボットの開発者ムーアがいる。
 傭兵あがりの彼は大型の攻撃ロボット「ムース」を開発していたのだが、必要以上に大きな攻撃力が敬遠されて警官ロボットとしての採用は見送られていた
 彼は正式採用を勝ち取ったディオンを逆恨みしている。

 ニュース映像から自社のロボット・チャッピーが犯罪に荷担していることに気づいた会社は事件をもみ消すためチャッピーの破壊をムーアに命じる。
 ムーアは「ムース」を操縦しギャングのアジトを急襲、ディオンは軍事ロボと武装ギャングの壮絶な戦いに巻き込まれる。

  この近未来アクションロボット物という私好みの映画のクライマックスの真っ最中に私は激しいデジャヴに襲われていた。
 というか、まあデジャヴではないのだが…





イメージエンジン社のCGはすさまじいとしか言えない出来であり、チャッピーがそこに居るとしか思えない



 さてこの映画の監督ニール・ブロムカンプは2009年公開の映画「第9地区」でブレイクした人だ。
 そして「第9地区」あらすじはこうだ。

 南アフリカ/ヨハネスブルク上空にある日巨大なUFOが飛来する、人類は固唾を飲んで見守ったが乗員は姿を見せなかった、仕方なく乗り込んで調査したところ中にいたのは知的レベルの低い(宇宙船を操る能力などない)大量の宇宙人たちだった。

 宇宙人たちは難民として扱われ、ヨハネスブルク郊外の隔離施設「第9地区」に住むことになる。
 そしてそれから28年、宇宙人の人口は180万人にふくれあがり「第9地区」はスラムと化している。
 宇宙人(甲殻類に似た外見から「エビ」と蔑称されている)は街でひったくりや強盗といった(チンケな)犯罪を犯すので、市民との摩擦が大きくなり「第9地区」を管轄す組織MNU(Multi-National United)は宇宙人達をより遠くの施設に移送しようとする。

 主人公ヴィスカスはこの移送計画の現場責任者である。MNUのやっていることは人種差別であり、隔離政策なのだが典型的は小役人である彼は自分の昇進にのみ興味があって、その仕事の結果には無関心である。

 そしてこのMNUだが軍事産業が母体であり兵器メーカーとしての側面もあって倫理観に欠ける組織である、彼らは「第9地区」を管理する一方その立場を利用してエビの持つ兵器の研究をしているのだ。

 さてこの「第9地区」はブラックなブラザー達によるギャング団がスラムを牛耳っている。
 彼らはエビ達をも支配下に置き、キャットフードと交換にエビの兵器を集めている。

 何故かれらがエビの兵器に執着するかと言えば、これら異星の兵器は地球のテクノロジーを遥かに越えたハイパー兵器だからだ。しかしそれらは全てエビ以外では起動出来ない仕掛になっている。MNU、ギャング団が共に悩んでいるのがそこだ。

 隔離事業に邁進していたヴィスカスだが、不注意から宇宙人の化学薬品を浴びてしまう、その液体は人のDNAに影響を与える物で、ヴィスカスの体組織は次第にエビのそれに入れ替わっていく。やがてヴィスカスはエビの武器を扱えるようになる。

 ヴィスカスがエビの兵器テクノロジーの解明に役立つと見なしたMNUは彼を捕らえ解剖しようと試みる。
 かろうじて逃げ出したヴィスカスは「第9地区」に逃げ込むが、MNUは元傭兵のクーバス大佐とその武装集団を派遣してヴィスカスを追う。

 一方ヴィスカスはギャング団からも命を狙われるようになる、彼らは彼らでヴィスカスを殺して喰えばエビの力が取り込めると信じているのだ。

 侵攻してきた傭兵部隊と武装ギャング団はスラム内部で戦闘を始め、いやおうなしにヴィスカスも巻き込まれる。

 
 おいおいと思うわけで、そして一旦そう思ってしまうと、この「第9地区」と「チャッピー」の間に作られたブロムカンプ2013年製作の映画「エリジウム」も思い出されてしまうわけです。

 エリジウムは以下のような話だ。

 22世紀地球は環境汚染が広がり、富裕層は軌道上のコロニー「エリジウム」に移住して安全、快適な生活を送っている。

 地上はスラムと化し、人々は支配階級が運営する工場の下働きに従事している。

 多くの人々がケガや病気で苦しんでいるが、まっとうな設備のない地上の病院ではそれを治療できない。一方エリジウムには各家庭に一台、自動万能治療器があってほとんどの疾患を瞬時に完治することができる。
 そこでスラムを牛耳るギャング団はエリジウムへの密航を請け負っている。

 偽装がバレれば輸送機はエリジウムの雇った傭兵によって撃墜されてしまうし、着陸に成功してもすぐ逮捕/強制送還されてしまうのだが、逮捕される前に手近なエリジウム市民の家に駆け込んで万能治療器に入ればケガも病気も直るのだ。

 この片道切符と引き替えにギャング団は多額の料金をスラムの住民から巻き上げている。
 
 さて主人公マックスはしがない工員だが、勤める工場の事故で致死量を越える放射線を浴び余命5日と診断される。
 生き延びるためにはエリジウムに行くしかない、しかし彼に金はない、するとギャング団のボスから金持ちの頭からデーターを盗みだす仕事を持ちかけられる。

 地上にいる支配層の誰かを誘拐し、脳と脳を直結する装置を使って銀行のパスワード、各種ログインデーター等を自分の頭にコピーしてこいと言うのだ。

 後がないマックスはこれを引き受け、自分の努めていた工場のCEOであるカーライルの誘拐を実行する。データーのコピーには成功したがエリジウムの設計者でもあったカーライルの頭脳に格納されていたのは銀行のパスワードどころではない貴重なもの「エリジウムの再起動プログラム」だった。

 このプログラムがあればエリジウムを自分の好きなように再編成することが可能だ。カーライルはエリジウムの防衛庁長官デラコートと組んでクーデターを計画し、密かに再起動プログラムを製作していたのだ。

 誘拐を阻止しようと介入してきた傭兵との戦闘によってカーライルは死亡、貴重な再起動プログラムはマックスの頭の中にだけ存在することとなった。

 マックスはエリジウムにとってもギャング団にとっても価値ある男になってしまったのだ、デラコートは彼を捕らえるため傭兵を派遣する。

 ・・・・・

 エリジウムで終わっていれば(?)気にならなかったのだが、3つ並ぶとドラマの構造の類似性にいやが応でも気づいてしまう。

 白くて、ハイテクで、支配的地位にある冷酷な企業
 黒くて、猥雑で、むき出しの暴力で他人を支配する地域密着のギャング
 企業には表の顔と裏の顔があり、裏の仕事のために傭兵を雇っている
 自分が生きている世界の仕組みについて無頓着な主人公
 主人公はその無頓着の故に、はからずも2つの勢力にとって重要なキーマンになってしまいギャング、傭兵の双方から付け狙われる

 あの手この手で作品を作っているように見えても実は作品全て同じテーマという監督は居るものだが(押井とか押井とか)舞台設定、人物配置、性格設定などパーツまで同じという人はあまり(というかまず)居ない。

 今「テーマ」と言う言葉を出したので改めて言うと3作全てに共通するのは「人間らしさとは何か」ということだ。

 「第9地区」ヴィスカスは自分の昇進にしか興味のない小役人だったものが、自分の身に危険が迫って初めて社会の歪みと直面し、最後は自分の身より宇宙人を優先させる真のヒューマニズムに目覚める。

 「エリジウム」のマックスは先のことなど何も考えていないチンピラだが、自分の身に危険が迫っ初めて社会の歪みと直面し、最後は自分の身より地上全ての住民の幸せを考えるようになる。

 「チャッピー」のディオンは自分の研究にしか興味のない学者バカだったが、犯罪に巻き込まれて初めて社会の歪みに直面する。
 (まあ、「チャッピー」の最後は、前2作と違って改心したディオンが社会のために身を捧げたりはしないのだがこれは「チャッピー2」を作るための大人の事情のような気がする)。

 ということで、パーツはもちろんドラマの構成も似たり寄ったりなのだ。

 ついでに言えばこのドラマ構成によって3作とも鑑賞中の壮快感が無い。
 主人公が改心するまで作品中に感情移入できるようなまっとうな人間がいないのだ。
 出てくるのは
 状況に流されて生きている視野の狭い人間(主人公)
 上流社会に身を置き、他人の命を奪うこともためらわない冷酷な人間(支配者)
 人を狩り暴力を振るうことに快感を感じるような人間のクズ(ギャング、傭兵)
 しかいない

 アクション映画の場合、見ている観客が思わず頑張れ!と声援を送りたくなる人物が必須だと思うのだが、3作ともに(少なくも終盤までは)登場人物が不快な人物ばかりで感情移入できないのだ。

 いい人が見つけられない映画って意外とキツイなと私は思ったのだがこれを3作並べられるとさすがに評価は厳しいものになる。

 ニール・ブロムカンプは作品のテーマ、ドラマ、パーツに他のバリエーションがないのだろうか。

 ここで私は某H口真嗣監督のセリフを思い出さざるを得ない。

 曰く「引き出しはいっぱいあるんですがね、入っているものが皆同じなんですよ」


 ブロムカンプ次の作品は「エイリアン5」だという、さすがにエイリアンでソレは無いと思うのだが心配である。




ちなみに「第9地区」で、人が良いだけが取り柄の主人公ヴィスカスを演じたシャールト・コプリーは
「エリジウム」では極悪非道の傭兵クルーガーを演じており、「チャッピー」では、チャッピーの中の人(モーション・アクター)をやっている
なんでやねん、と思ったのだが、監督の高校からの友人であるらしい、きっと「エイリアン」にも出るだろう





 








 アメリカによるアポロ計画-有人月面探査計画-はアポロ20号まで予定されていたが、予算削減によって17号で打ち切られた。

 しかし! 実はアポロ18号が密かに打ち上げられ、2人の宇宙飛行士が月面に降り立っていたのだ。
 NASAは、アメリカはなぜそれを秘匿し今もなおその事実を隠し続けているのだろうか、という映画である。

 

 私はこの映画の予告を劇場で見た。




どうです、ドキドキでしょう、見たくないですか


 絵に描いたようなB級ホラー! これは見たい! 見ねばならない! 見よう!
と私は強く思ったのだが、全面に地雷が埋まっていそうなこの映画に1800円也を出す勇気はなかった、そこでレンタルが始まるのを待っていたのだが、なんとこれはTUTAYA独占のレンタルビデオになってしまったのだ。

 私は「ぽすれん」と「DMM」の2つのWebレンタル会員になっており、それぞれに定額の料金を支払っている、なのでこれ以上レンタルビデオにお金を使いたくはない、よほど見たい映画であれば別だが、この映画はそれほどでもない(何だよ)

 なので放置していたのだが、近所のスーパーでお買いものをしたところがTUTAYAのレンタルビデオ無料券というのをくれたのだ。これはアポロ18を見よ!という映画の神の啓示であろうと思い(たぶん違うが)さっそくに借りてきたのであった。



 さて私は大作である「ゼログラビティ」とか「ジュラシックワールド」などをケチョンケチョンにけなしている(前者はその非科学性で後者はそのドラマの非倫理性で)
 そこまで映画を厳格に評価しているのに、なぜこんな無理筋の破綻間違いナシの映画を好き好んで見るのかということだが、それにはこの言葉が有効だろう。

 つまり「人はパンのみに生くるにあらず」

 これは人は主食ばかりでなくおやつも食べないといけないよねということだが(違う)レストランに行ってクロスのかかったテーブルで食べるメインディッシュと、縁日の屋台の焼きそばは同じ基準で評価するわけではないということだ。

 今「無理筋」という言葉を使ったが私はこの手の映画が大好きだ、普通に考えたらまずまとまりっこないお話を製作者達はどう料理したのか、その工夫の過程を見たいと思う。 発想の転換とか、機転とか、王道を行く映画であれば必要のない知恵がそこに発揮されているのかどうか、それが成功しているのかどうか知りたいと思ってしまうのだ。

 メタな楽しみ方だが意外な傑作に当たることもある。
 たとえば「悪魔の密室」だ、これは「エレベーターが人を襲う」という無理筋感がハンパでない映画である。
 「なぜ」そしてなにより「どうやって」エレベーターが人を襲うのか?、その方法にどれだけバリエーションが作れるのか?これはアイディア勝負の映画だ、これは見ねばなるまいと思い(!)1800円也を支払って(!!)劇場に足を運んでみたところこれがなかなかの傑作だったのである
 (この作品、リメイクまで作られたことからしても面白いという感想が私の捻くれた感性の産物でないことの証左になると思われる、ちなみにリメイクのタイトルは「ダウン」オリジナルの原題は「リフト」)

 普通に考えたらダメに決まっている映画が、思いもかけないアイディアによって「見られる」それどころか「傑作」になる瞬間に立ち会った感動(?)は王道の映画が予想通り面白かった時とは違う楽しみを与えてくれるのだ。まあたいていは不発なのだが。



 そしてアポロ18である「2011年、24時間もの極秘映像がインターネットにアップロードされた、これはそれを編集したものである」と初めに語られる。つまりノンフィクションであるという建前だ。

 このようにノンフィクションの体裁を取ったフィクションをフェイク・ドキュメンタリーという、フェイク・ドキュメンタリーの歴史は古い。

 ルーツをたどればそれは1938年にオーソン・ウェルズがラジオ番組で行った「宇宙戦争」だろう、ウェルズは火星人の襲来を実況中継の形式で放送したため多くの市民がパニックになったと言われている。

 映像として確認できる最初のフェイク・ドキュメンタリーは1977年にイギリスのアングリア・テレビが制作した「第3の選択」だろう。
 これはイギリスの天文学者が死ぬ前に友人に送ったテープを元に制作されたという体裁を取ったものだが「地球が温暖化によって居住不能になるのを見越しアメリカとロシアが密かに手を組んで、火星をテラフォーミングしていた(もう住める!)」という壮大な内容である。
  <信じる奴はどうかしてると思うのだが、日本ではフジテレビが矢追純一の番組でノンフィクションとして扱ったため物議をかもした>

 同様の番組に仏独共同出資のアルテ社というTV局が作った「Operation Lune」という番組がある。アポロ11号の月面着陸は虚偽であり、その映像はスタンリー・キューブリックが撮ったという途方もないホラ話である。
 <実はこれは本物のドキュメンタリー映像と偽のインタビューを組み合わせることでどれだけ真実っぽい番組が作れるかという実験番組であり、番組内にはそれがジョークであることが分かるようなネタがちりばめられていたのだが、テレビ朝日が2003年「ビートたけしの世界はこうしてダマされた!?」でオンエアした時にドキュメンタリーとして扱ったため「月着陸捏造論者」を作り出してしまった>


「ビートたけしの世界はこうしてダマされた!?」より



イヴ・ケンドール:ヒッチコックの「北北西に進路をとれ」の女スパイ ジャック・トランス:キューブリック「シャイニング」の主人公 ディミトリー・マフリー:キューブリック「博士の異常な愛情」のアメリカ大統領




デヴィッド・ボーマン(キューブリック「2001年宇宙の旅」の主人公)は編集でカットされた、有名だから?!



 これら全てが宇宙ネタであるあたりフェイク・ドキュメンタリーは宇宙と親和性がいいのかもしれない。

 ところで、こうしたフェイク・ドキュメンタリーを作るにあたって重要なことがある、それはその作品の打ち出した世界観をキチンと守るということだ。

 今フェイク・ドキュメンタリーと言うと「パラノーマルアクティビティ」が引き合いに出されることが多い。これは同棲中のカップルが「夜寝ている間、寝室で不思議な音が聞こえる」ことに疑問をもち、定点カメラを設置したという設定であり、映画はそのカメラの映像だけで出来ている。
 こうしたカメラ目線だけで出来ているフェイク・ドキュメンタリーのルーツが「ブレアウィッチプロジェクト」だ。
 魔女伝説のドキュメンタリーを作るため森に入った3人の学生が行方不明になり、後にビデオテープだけが発見されたという体のこの作品も当然のことながらハンディカメラの主観映像だけで出来ている。

 さて我々が映画を見る時「視点の主」というものはお約束として無視されている。
 なので無人の部屋の内部が映し出されても「これは誰が見ているの?」とは思わないことに「なっている」
 つまり、見えているものはカメラで写し取られた何かではなく、世界の一部が切り取られてそこにあると見なすわけだ。

 それに対しカメラ目線型フェイク・ドキュメンタリーは「これは1年後に発見されたビデオテープを編集したものである」などと宣言し、その宣言を裏付けるような撮影技法(手持ち)や画質(悪い)で補強し、見る者に強烈にカメラとその撮影者を意識させる仕掛になっている、それによって見ている自分(観客)が撮影者自身であるかのような錯覚を起こさせるわけだ。

 簡単だが効果的で虚実を曖昧にするうまい技法なのだが、それが成立するためには今言った世界観をキチンと守る必要がある、しかしそれは綱渡りのようなバランスの上に成り立っていてちょっとでも破綻したらアウトなのだ。

 というような観点からこの映画を見るとそもそも設定からして危うさ満点なのだった。
 始めに「これは国防総省の極秘ミッションで、月に行くことは家族にさえ秘密なのだ」と宇宙飛行士当人のナレーションが入り、そのミッションが当人たちに伝えられた時の様子(焼き肉パーティ)のビデオが映し出される。

 これはたまさか撮っていたホームビデオで後に国防総省が回収したのだと解釈しておくことも出来るが、いったいに誰がインタビュー音声を別な映像にだぶらせナレーションにするというような演出をしたのか?

 怪しい編集だなあ、と冒頭から不安を覚える私なのだった。

 やがてお話は進みミッションを撮影した様々な映像が挿入されてくる。





 アポロ11号の時に生放送で見たようなコントラスト強く走査線とノイズだらけの映像は電送されたTVカメラのつもりだと思われるのだが。

 その他にビデオ品質ながらノイズの少ない録画と思われる映像があり、あきらかにフィルム画質のクリアな映像がある。





 
クリアな映像、宇宙飛行士が胸元に付けているのが16ミリカメラ





 様々な映像を編集をしたという設定に添った構成であろうと思うのだが、これ大丈夫か後で破綻していたなんてことないのかと不安に思いつつ(!)見て行くと、やがて「ヒューストンとつながらない」と言っている電送画質映像が挿入される、じゃあ誰が見ている映像なんだこれ!

 これはダメな映画かもしれないと思いつつ見ていくと、ラストシークエンスあたりでは生きているカメラは1台(16ミリ)しかない筈なのにパニックに陥っている宇宙飛行士をカット割りで見せていく、誰が撮っているんだこれ!

 がっがりだよ君たち(誰だ)と思いつつ見ているとさらにビックリ、なんと彼らは誰一人として生還できないのだ。つまりは録画テープも16ミリフィルムも回収できていない、録画映像や16ミリフィルムの映像はどこから手に入れたんだよ!

 というわけで激しい脱力感に襲われる映画なのであった。

 ブレアウィッチをルーツにした宇宙ホラーなのだろうが、地上の話であれば(そして何が起こったのか結局わからない不条理な話ならば)後にそのビデオテープが出回ってもおかしくないが、この映画の場合そこを詰めないまま作っちゃいかんだろう。

 インターネットから拾ってきましたと言えば、多少の怪しさは許される世相ではあるのだが、現場に人が一人しか居ない状況で、その人物を撮っている主観カメラの映像がカット割りになっているという本質的な矛盾まで消えるわけではない。

 そこんとこがちゃんとしていれば面白そうな映画だったかもしれないと思うが、これはタダで見たので評価が甘くなっているだけかもしれない、というか多分そうだ、これに1800円出していたら私は血も凍るような感想文を書いていただろう。