「 もはや誰も覚えていないだろうが、この言葉の本来の意味は「取り返しのつかないダメージを与えること、台無しにすること」なのである
映画館に行く前から予期せぬ結末を知って、どうして豊かな鑑賞体験になるだろう?

「ネタバレについて」 J.J.エイブラムス






              
  映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
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スターウォーズ フォースの覚醒    

鈴木さんにもわかるネットの未来  

スキン・コレクター  


 








 「思ったより面白かった」これに尽きるだろう(><;)

 どんだけ期待値を下げているんだと言われそうだが、第1作(エピソード4)からの5作で私のスターウォーズへの評価は限界まで下がっており、実のところもう作られないと聞いてほっとしていたのだ。

 それが再始動、し・か・もこともあろうにディズニー製!これはもっと下(?)もあるのではないかと恐れていたのだ。

 一番懸念していたのはディズニーがこれをファミリーうけを意識して製作するのではないかということだった。
 前の5作はつまらなかったとは言え、ルーカスの趣味が反映した大人向けの映画であったと思う(エピソード1~3はルーカス個人が出資しており「究極の自主映画」と言われていた)
 これにマーケティングとかターゲティングといった大人の事情が介入して、こましゃくれた子供とか愛くるしい小動物とかお笑い担当の宇宙人とか(いや、これは居たなすでに)を計算ずくで出してくるのではないかと思っていたのだ。
 とりあえずそれは無かった、無かっただけで一安心してポイントを付加しちゃうのも何だが私はそれほどにディズニー製スターウォーズに懐疑的だったのだ。

 実際見てみると、出てきたのは見知ったスターウォーズワールド、1~3のようなグダグダな人情話もなくシンプルなSFアクションだった。

 とはいえ、「帝国にとっても反乱軍にとっても重要な情報を握るロボットが帝国軍の手からからくも脱出。そのロボットは砂漠に住む(強いフォースの持ち主だがその力を自覚していない)若者の元に逃げ込む。
 戦闘に巻き込まれた若者は先輩の助力を得て「ミレニアムファルコン号!」で脱出、反乱軍の元へたどり着く。
 若者のメンター(助言者、指導者)となるべき人物は後進の指導に失敗して引きこもっている。
 反乱軍の基地のある惑星は帝国の惑星破壊兵器によって風前の灯火となる。若者と反乱軍は破壊兵器の破壊に向かう(先輩は若者の目の前で敵の指導者に殺される)
 トレンチをくぐり抜けXウイングファイターはついに敵に致命的なダメージを与え、宇宙を揺るがす大爆発、メデタシメデタシ」ってあれ、リメイクでしたかこれ。

(話は変わるが、監督のJ・J・エイブラムスは、「ネタバレ」を激しく非難している『真のダメージは秘密が漏れることではない。それより問題なのは、体験が損なわれることだ。イリュージョンが軽んじられてしまうことだ。別にかまわないという人だっているだろう。でもそれじゃあ、実際に映画やテレビ番組を観る意味は何なのだ?』とも言っている。
 まったく同感で私も公開してすぐの映画のあらすじなどは書かないようにしている・・・通常ならば。
 しかし、この映画のあらすじにそのような秘密がイリュージョンがあるだろうか。
 映画が半分も過ぎた頃には最後の大爆発の絵が容易に想像できてしまうのだが)

 というわけでとりあえずは安心、安定なのだが、20年ぶりに故郷に帰って昔通った定食屋に行ってみたがいつも頼んでいた生姜焼きはやはり旨かったと、いうようなことでいいのかこの映画は!ということはあるだろう。


 更に言うなら「リメイクみたい」ということは、それ自体が問題をはらんでいる。つまりエピソード4から6までのルークやハン・ソロの活躍は何だったんだ、ということだ。

 皇帝を倒しダースベイダーは居なくなりついに宇宙に平和が訪れました、というラストではなかったのかあれは。

 この映画を見るかぎり状況は何も変わっていない。あいかわらず帝国は宇宙を支配していて、資金も潤沢、統制が取れている正規軍であり、トルーパーはピカピカ、タイファイターは新型で戦艦はとてもデカイ。

 一方反乱軍はいまだに辺境の惑星の洞窟に隠れ住んでいて装備も古くどうみても手弁当だ。
 状況が第1作と同じって変じゃないのか、つまり世界観がおかしい。

 私は新作の都合で前作の結末を無効にする続編が大嫌いだ。

 たとえばついに自意識を持つに至ったシュワちゃん型ターミネーターが未来テクノロジーの悪用を避けるため自ら溶鉱炉に沈んでいくターミネーター2のラストは希に見る名シーンだと思うのに、続く3作目で実はチップは残っていました、やはりジャッジメント・デイは避けられませんでした、と言われるとあの感動を返してくれといいたくなる。

 同様にジュラシックパーク1で立役者だったT・レックスをかませ犬にしたジュラシックパーク3を私は許さない。

 「状況は変わっていませんでした」で始める時点でこの映画は根本的に間違っていると言わざるを得ないのだ。

 といいつつ実のところ、事情はわからないでもない、つまりディズニーも監督のJ・J・エイブラムスも「スターウォーズ」という名前に位負けしたのだろう、その圧倒的な人気、ファン(信者?)の数、マーケットに対しドラスティックな変化を加えることはチャレンジ過ぎるということだろう、前作から10年経っているというのも注目度が上がるだけに厳しい。

 ここでガラっと世界観を変更するとした場合、それが可能なのはルーカス以外には居ないだろう、たとえそれが不評でもルーカスなら許されるし、そもそもルーカスは誰に許される必要もないのだから。


 ということで、私としては今作については「思ったより面白かった」でいいことにする。

 少なくも主役のレイは清潔感があり颯爽としている、その他の新顔も皆溌溂としていて見て肯定的な気分になれる、なので見て損はないと思う。

 そして希望はある、次回はディズニーも少しは自由度が増すだろう、監督のプレッシャーも減るだろう、エピソード1~3のようにアンハッピーエンドに向かって進まなくてならないというような縛りもない。
 新顔達が新たな世界観の中で未知なる冒険の旅に出ることが出来れば、再び伝説を生まないとも限らない。まさしく「新たなる希望」ということだ、もし次作が「帝国の逆襲」(のリメイク)になったらスターウォーズもおしまいである。

 

 





 川上量生はドワンゴの創設者であり(ニコニコ動画を作った人であり)カドカワ株式会社の代表取締役であり、株式会社ドワンゴの代表取締役会長であり、スタジオジブリでは見習い社員(?!)としてプロデューサーの鈴木敏夫氏に師事する人である。

 肩書きを聞くだけでもすごい人なのだが、この川上氏がインターネット関係にうとい鈴木氏に「ネットとはなにか、僕にも分かるように書いてくれ」と注文されジブリの機関誌に書いたコラムを書籍化したのがこの本だ。

 業界最先端を行く人だけに、プラットフォームとコンテンツについて、広告モデルについて、仮想通貨について、集合知について、テレビについて、ネット民と呼ばれる人々について様々に語ってくれる。

 私としてはそれなりの知識のある分野もあれば、まるで知らない世界の話もあってふんふんなるほどと読んでいたのだが。
 電子書籍についての章に到り、冒頭で「いずれ紙の書籍はなくなる」と断言されたのにはショックを受けた。

 ネットと出版の双方の要職にある人間が言うのだからこれは避けられない未来なのかと思ったのだ。

 しかし! その理由というのを聞いて唖然とした。電子書籍が紙媒体の本にとって替わる理由というのが。

1・電子書籍は紙媒体の本と比べ軽く携帯性に優れている
2・紙媒体と比べ省スペースである
3・文字列の検索が可能である
4・製作コストが安い

 であると言うのだ。

 「は?正気ですか?」というのが直後の私の反応だった。

 ここまでわかってないとちょっともうどうしていいかわからないくらいなのだが。要するに川上氏は読書とは体験であるという事を理解していないようなのだ。

 それはレストランで食事をしている人に「この丸薬なら、持ち運びに便利でどこでも栄養補給ができて、時間も取られず、しかも安いですよ」と言うようなものだ。

 あたりまえだが、食事は栄養補給をするためだけのものではない。その味を楽しむのはもちろん、食事する場所の雰囲気まで含めて楽しむものだ。
 それは高級レストランの上品な内装、銀のカトラリー、物腰優雅なウエイターのサービスだったり、気の置けない居酒屋のくつろいだ雰囲気だったり、家系ラーメン屋の黒いTシャツのお兄ちゃんの威勢のいい挨拶だったりと様々だが、そういった環境を含めて我々は食事の楽しみとして享受する。

 同様にスポーツもそうであって、ジョギングや登山をしている人に「体力維持ならジムでランニングマシンやステッパーを使った方が効率いいですよ」と言っても一蹴されるだろう。

 まあ、おそらくは川上氏といえど食やスポーツに対してそんな事は言わないと思うのだが(・・と言っても、実は「食事なんて石炭と同じだ、食えればいいんだ」という人も世の中には一定数居るのでわからないが)読書に関しては効率が全てのように言うのは何故なのだろう。

 と疑問型で書きはしたが、おそらく氏に取って本は知識を得るツールでしかないのだろう、つまるところ本とは情報のストレージであり、読書はデーターの収集行為なのだ、ならば効率がいい方に決まっている、と言っているわけだ。

 しかし「読書」は作業ではない。

 重厚な装丁の本の分厚い扉を開けると、一転して繊細な薄紙の見返しが目を引き、その後ろでは紙質から、書体、そのポイント数に一分の緩みもないタイトルが読者を迎えいれる、ページをめくると、行間の狭い2段組の本文が現れ、読者にその後の長い旅路を予告する、といった舞台装置まで含めた体験を楽しむものだ。
 なので、遥か昔に読んだ本でも本棚から取り出した時、その表紙に、重さに、手触りから初めてその本を読んだ時の記憶が蘇る。

 こう言っては何だが川上氏は幸福な読書体験をしたことがないのではないか。

 あまりに面白く、寝る暇も惜しんで読みふけり、次第に減っていく残りページを見て「この魔法のような時間もあとわずかで終わってしまう」と悲しい思いをしたことがないのではないか。

 右手は飛ぶようにページをめくり、しかし終わりが来るのを少しでも遅らせようと、その右手を左手で押さえるというようなマネをしたことがないのではないか(この行為、自分だけかと思ったら同じ事をしている人がけっこう居るので驚いた)

 「『姑獲鳥の夏』も異常な厚さと思ったら、出す本出す本、どんどん厚くなっていって、しまいにはコロコロコミックと見まごうばかりの縦横比で、これはどうなるのかと思ったんだが、今度の『塗仏』ちょっと薄くなってないか? え? 前後巻?! これで半分?合わせてこの倍? あはははwwwwwww、京極どうかしてるぜ(狂喜)」というような思いをしたことがないのではないか。

 つうか、きっと無いのだろうな。

 読書とは本を手に取ることから始まる「体験」なのだ。

 カドカワの代表取締役ともあろう人がこれでいいのか、大丈夫かカドカワグループと思うわけだが、まあそれはともかく。

 書籍の未来について語るなら、書痴の意見も聞いてみたらどうなのかと思う、リサーチした上でやはり電子書籍は紙媒体に取って替わるという意見なら耳を傾けてもいい、しかしここまで浅い分析で書籍の未来を語られてもまるで信用ならない。

 そして、ここが重要なのだが、こうなってくると他の項目に関してはどうなのか?と思わざるを得ない、他の考察でも実はこの程度の分析でモノを言っているのではないだろうかということだ。

 私自身は川上氏の人となり知識、経験については何も知らない、従って言っていることにどれだけの重みがあるのかはわからない、その手がかりは自分のわかる範囲の事についてどれだけ相手が「わかっているか」で判断するしかない。

 そういう意味で、私としてはこの本は傾聴するに値しない本であると判断せざるを得ない。





 





 リンカーン・ライム、指先以外動かせない四肢麻痺患者ながら、犯行現場に残された微少証拠の分析と天才的な推理力によって連続殺人犯を追い詰める電動車椅子探偵、そのシリーズ第11弾である。

 今回の敵は毒物入りのタトゥーで人を殺すシリアルマーダー。
 ライムの最初の敵、骨に執着する殺人者「ボーン・コレクター」を崇拝しているらしいところから付けられた仮称が「スキン・コレクター」
 被害者の体に刺青で残される謎のメッセージはいったい何を意味しているのだろうか、というお話である。


 このシリーズ、毎回工夫を凝らした敵役が登場するものの、探偵が分析装置のある自宅のラボから一歩も出ず、科学的な証拠と論理だけを武器に戦うというお話の構成上、相手は整理型(知的)連続殺人犯以外にはあり得ず、さすがに巻が進むにつれてマンネリ感が打ち消し難いものになっていった。

 そこで目先を変えようとしたのか前回の「ゴースト・スナイパー」では犯人は船に爆弾を積んで海上石油採掘基地につっこみ爆破しようとする凶悪犯。
 どうみてもジェームス・ボンドかイーサン・ハントの担当すべき物件なところ、ライムがニューヨークの自宅を出て自らバハマに飛び、銃撃戦を含むアクションシーンまで行うというサービスぶりだった。
 しかしさすがに無理があったのか、というかあきらかに無理があって(実際の評判やら売り上げがどうなったのかは知らないが)今作ではライムは再び自宅に引きこもったまま事件の捜査にあたる。

 さてしかし、ライムの佇まいは変わらず、相手は「ボーン・コレクター」を彷彿とさせるシリアルマーダーとなると「いつか見た感」は拭いがたいものになる。

 すると読者のお楽しみはライムシリーズの次なる要素「どんでん返し」のみとなる。

 実のところライムシリーズに限らずジェフリー・ディーヴァーの書く小説にはみなどんでん返しがあるらしい、私自身はライムシリーズ以外をほとんど読んでいないので全てそうだと言うほど確信が持てるわけではないが読んだその4作にはすべてどんでん返しがあった。

 ともかく読者の意表を突くというのがディーヴァーの芸風らしく、それは次のような形式を取る。
 「ライム他捜査関係者必死の捜査によってついに犯人が逮捕される、しかし証拠の中にライム以外では気づかぬような微細な齟齬があり、そこを掘り下げていくとなんとその人物は狡猾な真犯人による偽の証拠によって仕立てられあげた無実の市民であることが判明する。
 その人物を解放し、冤罪を未然に防ぐことができてほっとする捜査関係者、しかし捜査を継続していくとなんとやはりその人物が真犯人であるという証拠が発見される。
 あわてて再逮捕すべく動く警察、犯人は逃れられぬと悟ってか自爆する、ところがその死体を調べた結果自爆した男は犯人ではなかった、真犯人はどのようにして入れ替わり、今どこに居るのだろうか。
 というような具合だ、言うところのジェットコースター感覚である。しかもこのジェットコースター、目先の急カーブをのみ楽しむ室内型暗黒コースターであり、高く上がった時に全体を俯瞰して楽しむようには出来ていない。

 先の例で言うならば読んでいるときは「ほうほう、なんと!なるほど!いやこれは!」とハラハラドキドキしながら読み進んでしまうのだが、よく考えると最初に「犯罪者に仕立てあげられた無実の市民」のフリをして逮捕される必然性があったのか、という疑問に突き当たる。
 要するに暗闇から突然現れる急カーブ、急なアップダウンを楽しむ小説であって多少のつじつまの合わないところは無視すべしということなのだ。

 このあたり目先のサスペンスのみに注力し、全体のつじつまなど最初から合わせるつもりのないアメリカの連続TVシリーズを彷彿とさせる。
 しかし、着地地点を定めることなく始め、放映しながらお話を考え、人気あるかぎり続けて、視聴率が落ちれば(伏線が回収できていなくても)打ち切るというのはアメリカのTVシリーズ特有の製作体制なので、最初から着地地点が決まっているはずの小説で同じようなことをやられても困るのだが。

(話は逸れる。「アメリカのTVシリーズ特有」と言ったものの以前NHKでオンエアしていたイギリス製のTVシリーズ「プライミーバル」も似たような作りだった。
 時空の裂け目から過去の生物(恐竜)が現代にやってくる、というSF仕立てなお話で最初は入れ込んで見ていたのだが、シリーズが進むにつれて、いや最初はそういう話ではなかったろうとか、そいつはそんな性格ではなかった筈だとか、シリーズの連続性や過去の蓄積を無視したお話になっていき、ついには唐突に主人公を殺すに至って呆れてしまったことがある。なのでこれはアメリカだけの問題ではないようだ)


 話はディーヴァーに戻す。
 ライムが科学的、論理的に推論し、読者にこいつで犯人間違いなしと思わせておいてひっくり返すというのがディーヴァーの芸なわけだが、すでに10作も読んでいる熱心なファンであれば最初に指摘された人物が真犯人だとはもう思うわけもない。
 ならばどこを楽しむかと言えばライムが(ディーヴァーが)ここまで証拠を固め、隙なく犯人であることを証明しておきながら、どうやってひっくり返して見せてくれるのかという技を見るわけだ。
 つまり一見ガチガチに固まっいるように見える証拠にも、神の視点から語られる犯人の犯行の状況にも、何かしらの仕込みがなされていて、見方を変えればこのとおり、実はそうではなかったのだーという一種のカタルシスを楽しむものなのだ、パズルのようだと言ってもよい。

 しかも、それをディーヴァーは2段3段構えに仕込む。
 「実はそうではなくこういうことだったのだー」「なるほど!」
 「と思ったろうが、実はそうではなく、こういうことだったのだー」「なるほど!!」「と思ったろうが、真実はこうだったのだー」「なるほど!!!」という仕掛である。
 
 これを11作も続けているのだからディーヴァーも天才である、私が新作が出ればディフォルトで購入するのも、多少のキズには目をつぶってあげる(!)のも、この天才の故である。

 
 さてリンカーン・ライムシリーズの楽しみはその仕込み、どんでん返しを楽しむものだということが理解されたと思う、つまり小説を読み進めながら、これで底か?いやディーヴァーのことだからもう一つ裏があるのではないか、などと思うところが楽しいわけで、私のようにディーヴァーのプロ(?)になると残りのページ数(全体の分量に対しての割合)を見て、あと1回はひっくり返る筈だなどという予測までつく。

 これが的中したりしなかったりするのがお楽しみというものなのだが。





 3回ひっくり返るとオビに書いてあるのだ、まあ最低3回ということだが、残りページ数(とあとは当然小説の内容)から、終盤にもなればどこが底か読めてしまう(登場人物が少ないので真犯人候補も限られているのだ)いったいに編集部は何を考えているのか、リンカーン・ライムシリーズの読者が何を楽しみに読んでいるのか理解していないのだろうか、猛省を促したい。
 
 というところで、今作の総括。

「ディ-ヴァーのプロ専用」


 ところで思うのだが、ディーヴァーが真に読者の意表を突きたいのなら、次回はライムが緻密にして科学的、論理的に指摘した最初の人物が実は本当に真犯人でした、というのはどうだろうか、私を含めてファンがひっくり返って驚くと思うのだが。