2026


 


 ここのところ見た映画がイマイチなものばかりだったので「面白かった」と言える映画であったことは大変に喜ばしい。喜ばしいのだが、これがまったく他人にお勧めできない作品だった。これはいったい誰をターゲットに据えて製作された映画なのだろうかと疑問を抱かざるを得ない内容だったのだ。
 ・・・というか、初代「TRON」のファン(私だ)に向けて作られたとしか思えないのだが。

 で、その初代TRONだが。
 天才プログラマーのケヴィンは自分が作ったゲームを巨大企業ENCOMに奪われてしまう、とりもどすためサーバーに侵入した彼はコンピューターを支配するMCP(マスターコントロールプログラム)の反撃にあって、電子空間に閉じ込められる。この電子空間には人格を持ち人の姿をしたプログラム達が多数稼働しているのだが、彼らは邪悪なMCPに支配され奴隷的な扱いを受けている、ケヴィンは監視プログラムTRONと手を組んで自分とプログラム達のためにMCPとの戦いに身を投じる。
 といった内容の映画だった。


 TRON 1982

 21世紀の今日、広大なる電子空間というイメージはごく普通に共有されている、また人格を持つプログラムやネット上のアバターという概念も突飛なものではない。たとえばの話、1995年の「攻殻機動隊」(押井守)の敵役<人形使い>は自分を「情報の海の中で発生した体を持たない生命体」である自称しているし、2009年の「サマーウォーズ」(細田守)では世界中のインフラを管理するオペレーションシステムが人類に反旗を翻し、これを停止するため主人公達はシステム内に進入してアバターの姿となって戦う、といった内容だ。
そして今現在AI開発業界ではAIがシンギュラリティを越え自意識を持つことがあるのかどうかが真剣に議論されている。人格を有するプログラムというのは今や空想の彼方の話ではなく現実的にアリかナシかを論じる時代なのだ。


MCP 1982


 なので、先に述べたような映画の企画は普通にあっていいだろう、21世紀の現在ならば。
 しかし、この初代TRONが作られたのは1982年だ。通信といえば物好きなPCユーザー(私とか)が電話回線を使い、音響カプラを布団にくるんで(←雑音防止で)企業の運営するBBS(電子掲示板 Bulletin Board System)に書き込みをしていた時代だ。インターネットはまだ存在しておらず広大なる電子空間という概念は影も形もない、デジタルの歴史で言えばまったくの原始時代だ。
 そんな時代に人格を有するプログラムが電脳空間に存在し、アバターという姿を持ってマスターコントロールプログラム(今で言うオペレーションシステムのことだろう)と戦うという発想はどこから生まれたのだろうか、この隔絶した時代の先取り加減はもはやオーパーツと言っていいのではないか。
 しかもそれを映像化するにあたって採用されたのがまだまだ実験段階でしかなかった新技術「コンピューター・グラフィックス」だ、この目もくらむような先進性に一部の新しものずきは完全に痺れてしまった。



 保安プログラム Recognizer 2機がライトサイクルで逃げるTRON(奥に見える)を追う
ワイヤーフレームむき出しなのだが当時はこれでも感動した
 作品自体は当然のごとく当たらなかったがカルト的な人気を得て熱狂的なファン(私である)が誕生したのだ。
 とはいえしかし今TRONと言われて、おおあれか!是非観に行かねばと喜ぶ層はそう多くないだろう、何しろ半世紀近く前の作品なのだ。

 あるとすれば「元は初のCG映画だったのだ、カルト的人気のあった作品なのだ」ということを宣伝文句に使えるということだ。なので今更「こんなのTRONじゃない」というマニアを相手にする必要もないだろう。
 ということで私は劇場に足を運ぶ前には「TRONと銘打ってはいるものの名前だけ借りた新解釈版なんだろう」と思っていた。アレとかアレとかアレみたいな奴である・・って何のことかわからないだろうが、たとえばウイル・スミス版の「アイ・アム・レジェンド」みたいなやつだ。これはリチャード・マシスン「地球最後の男」を映画化(映画化3回目)したものだ。
 原作小説では人類はウイルスの感染により太陽光を浴びると即死する生物「ダーク・シーカー」に変異してしまっている。彼らは日中日の差さない場所で睡眠し夜のみ活動する、要するに吸血鬼だ。このウイルスに感染しなかった男ネビルは昼間ダーク・シーカーの住みかを暴いて彼らを殺しまくっている。ダーク・シーカーは知性を持ち旧人類よりむしろ穏やかな社会生活を送っているのだが「吸血鬼」に対する嫌悪感と人類は彼らに駆逐されたのだという怒りでネビルは(読者も)その事実に気づかない。ラスト、ネビルはついに彼らに捕らえられ処刑されることになるのだが集まったダーク・シーカー達が自分を見る目に恐怖が宿っているのを見て自分が間違っていたことに気づく。人々が寝静まった夜、闇に紛れて人を襲う吸血鬼はかつて恐怖の象徴だった。しかし今、日中寝ているうちに忍び寄ってダークシーカーを殺して回る存在は彼らにとっての恐怖であり、自分こそが後世に語り継がれる伝説<レジェンド>になってしまっていたのだと気づくのだ。
 マシスンらしいアイロニーに富んだ傑作なのだが、このウイル・スミス版ではネビルはワクチンを開発し人類を元に戻すことに成功してしまう。最後の最後に価値観の逆転が起こるところがこの小説の核なのだからもはやそれはアイ・アム・レジェンドではない。
 このような、原作は有名だよ、前回は(チャールトン・ヘストン主演で)当たったよ、と製作委員会から資金を引っ張るために名前を使いその実原作などまるで無視という映画は多いのだ、アレとかアレとか・・・
 というわけで今回も宣伝文句にだけ名前を使い原作の精神などないがしろにされた映画になっているのではないかと私は疑っていたのだ。そしてせっかくの名作を改編しやがってと悪態をつきながら帰宅するのだろうとまで思っていた。

 まったくの杞憂だった。

 それどころか私(とその同胞)のためにだけ作られたような映画だった、私は鑑賞中幾度となく「そうそう、これが見たかったんだよ」と思い、同時に「でももし初見の人がこれ見たらどう思う?」と自問せざるを得なかった。

 曰く
 あのライトサイクル(「アキラのバイク」の元ネタと言われている電脳世界のバイク)が現実世界の高速道路を疾走しているところが見られるとは思わなかった。とか
 TRONがMCPの檻から脱出するためライトサイクルで空けた穴がまだ残っていたぜ。とか
 ケヴィン(旧作の電脳空間の生みの親である天才プログラマー)は電子的な存在となって電脳空間で生きていたのか! とかである。


1982年


2025年

 今回の主人公「アレス」は悪の企業ディリンジャー社が世界を支配するために作ったプログラムである、そしてディリンジャー社製プログラムのアバターは全員幾何学模様が赤く光る制服を着ている。アレスもディリンジャー社の手先として動いているときはパターンが赤く光る制服なのだが、彼が正義に目覚め、ディリンジャー社のマスターコントロールプログラムを倒そうと決意すると、それが白い輝きに変わるのだ、ここで私はイエーイと歓声を上げ拳を突き上げた(注:心の中で)がしかしなんのことだかわかりませんよね、つまりこれは初代TRONと同じパターンに変化したということであり彼が自由の戦士になったという象徴でありカルト層のツボを直撃しているわけなのだ。この時私はイエーイの反面「これ初見の人から木戸銭取って見せていいもの?」と思わざるを得なかった、こんな描写があちこちにちりばめられているのだ

 というわけで大変に面白かったが、盛り上がるたびに若干の戸惑いを覚えざるを得ないという不思議な映画でもあった、こんな鑑賞経験は初めてである。
 映画が終わって劇場を見渡すと200人弱のスクリーンに観客はわずが数人、全部おじさん(とおばさん)ばかりだった、つまり心配する必要はなかったわけだが、まあそうだよね。

 




 プレデターというのは気の毒な生い立ちのキャラクターである、落ち武者みたいな髪型に粗末な鎧、顔がキバの上にまたキバというわかりやすい造形で要するに「脳筋」、初代はシュワちゃんの敵役でその後も主役である地球人の引き立て役でしかなかった。星間航行する宇宙船を持ちプラズマキャノンだの光学迷彩だのと科学力高めな文明のご出身としか思えないのだがその振る舞いは粗野粗暴で、つまりは圧倒的な暴力という記号でしかなかったのだ。
 記号には裏も表もなく当然ながら深みもない、それが今回は主役であると聞いて大丈夫か?と思った、基本かませ犬でしかなかったのに。
 と思っていたのがどっこい、ずいぶんまともなお話でした。一人の若者の復讐と成長のお話でした。

 さてしかしこの復讐と成長というのは1本の劇映画の中で描くのはハードルが高いテーマである。復讐は虐げられた主人公の苦しみが観客に我が事のように伝わってこないとそれが成ったときの喜びがない、なのでまず主人公をじっくりと描く必要があり長く苦しい時というタメをへて(これがないと復讐譚は盛り上がらないので、ちなみにエドモン・ダンテスは25年がかりです)復讐が完成するわけだ、これを映画1本の枠で描ききるのは難しい。
 また「主人公の成長の物語」というのもよく聞く宣伝文句だがこれも難しい。一定のフォーマットの上で成長した風に見える映画もあるがその実その過程が描かれていないという映画は多い。たとえば「千と千尋」、あれは未熟な少女の成長の物語という設定になっているし、たしかに千尋は異次元の湯屋で苦労しながら働いているのだがその労働の何がどう作用して彼女を変えたかを描いているとはいえない。映画(物語)にはいくつかの基本フォーマットがあるが「未熟な若者は苦労すると成長する」や「殴りあったらあとは友達」(!)がただの「お約束」でしかないことがある(多い)それらのお約束は成功した多くの名作によって培われており我々観客に刷り込まれている、なのでそのパターンが出るとつい騙されてしまうのだ。まあ千と千尋は観る者を圧倒する映像美術が全てであってあとのことはどうでもいいのだが(よくないが)
 普通に考えればそもそも人が成長するのはとても難しいことでありその過程をキチンと描かねば成立しないだ、つまり劇映画1本でそれを表現するのは難しい、ギョーカイ用語で言えば尺が足りないのだ

 というわけでざっくりしたあらすじは聞いていたものの私はこれが脳筋プレデターのバカ映画なのだろうと思っていた、まあ頭を空っぽにして楽しむバカ映画ならそれはそれでいいのだが、驚くべきことにこの2つのテーマがちゃんと描かれていたのだ。

 そもそのあの粗野、粗暴さを全面に押し出したプレデターの造形で芝居になるの?と思っていたのがだんだんと人情の機微が伝わってくるところがスゴイ。
 強いものが偉いという単純なプレデター社会の中で主人公のデクは体も小さく腕も立たず、族長たる父親から一族の恥なので粛正すると言われしまう。たしかに堂々たる体躯で押し出し充分な父親や兄と比べると見た目も振る舞いも明らかな格下なのだが本人は回りが見えておらず自己肯定感だけは負けていない、この「裏付けがない自信に満ちていて口先だけ一人前」という残念なチンピラ感があのプレデターでちゃんと表現されているのにまず驚いた、モーションアクター凄いな。
 結局デクを抹殺しようとする父親から自分をかばって兄は殺され、本人はバッドランドと呼ばれる星に逃げ延びる。ここは生物の全てが争う弱肉強食の世界でありその頂点に立つのはカリスクという不死身の生物である。デクは自身の力の証としてカリスクを倒し故郷に持ち帰って改めて父親に戦いを挑もうと考えるのだが当然ながらザコにも苦戦するありさまだ。
 ここで出会うのがウェイランドユタニ社のアンドロイド、エイリアンシリーズの要になるあの人造人間である(プレデターは「プレデターVSエイリアン」でわかるとおり同じ世界観にある)この女性型アンドロイド、テッサは怪物に襲われ上半身だけになっていて基地に戻る手段を探していたのだ、そこで偶然出会ったこの若いプレデターを自分の足にしようと考える。口から先に生まれたようなアンドロイドにとって未熟なデクを丸めこむのは容易なことでデクは「お前を道具として使ってやる」と言いながらテッサの口車に乗せられ彼女を背負って旅をすることになる。
 ここで面白いのはデクを利用することしか考えていなかったテッサがデクの未熟さ、回りの見えなさ、それゆえのまっすぐさにほだされだんだんと親身になっていくことだ。

 デクになついた現地生物の子供も加わり奇妙な3人旅を続けるうちデクにも変化が起こる、自分より弱いものに頼られること、仲間が真に自分のことを案じてくれること、それがどれだけ重要なものかを理解し始めるのだ。
 戦士は一人で戦うものだと教えられ、親子兄弟すべてトップを目指して競い合う敵であると信じてきたデクに「地球の狼のリーダーは一番強いものがなるのではなく、仲間を守れるものがリーダーになるのよ」とテッサは言う。
 そしてその、自分も回りも見えていない未熟者だったデクが絶体絶命のピンチで「俺は仲間を守り地球の狼のようなリーダーになる」と宣言するシーンで私は不覚にも感動してしまった、たしかにデクが成長する姿が描かれていたからだ、プレデターで感動するとは!


どうみて親しみを覚えるようなキャラではないのだが、最後には「デク頑張れ!」という気持ちになるのだから凄い


 ということでこれは普通によく出来た映画であった、今までプレデターを観たことがないという人だとお勧めしかねるところがあるが、そうでないなら観る価値は充分にある良質の娯楽映画だったと言っておこう、こういうことが起こるから映画というのはわからない。