私は観る映画のほとんどを題材主導で選び、監督の名前(や役者の名前)で観にいくことはほとんど無い、とはいえ例外的にその名前だけで劇場に足を運ぶ監督はいるわけでその数少ない一人がシャマランだった。
 過去形なのはなぜかといえば枠から外れたからだ。

 そもそもシャマランの魅力はナイーブなばかりの主題の立て方にある。
『畑にミステリーサークルが出来た、家の周囲で怪しい物音がする、宇宙人の侵略に違いない』今どき映画の冒頭でこう提示されて素直に受け取る観客はいないだろう。
『大事故に巻き込まれたのにキズ一つ負っていない男がいる、彼は不死身のスーパーヒーロに違いない』も同様で、特にすれっからしの観客でなくとも文字通りには受け取らない。

 政府の陰謀である、集団幻覚である、概念上の存在である、イドの怪物である、仮想現実の中の出来事だった、まあなんでもいいが、観客はこれを「どう落とし込むのか、お手並み拝見」という気分で観る。

 ところがどっこいシャマランはこれを正面突破するのだ。「サイン」の半分が過ぎたあたりで絵に描いたようなグレイ型宇宙人が登場した時私は思わずのけ反り「マジか!」と叫んだ(心の中で)

 ぽっと出のラノベ作家でもこうはしない、というかエンターテインメントがこれだけ拡散しコンテンツが溢れている現在、ここまで捻りのないお話を作るのは勇気が要るだろう。捻りがないということはバッファがないということだ、少しのミスや緩みがあれば即叩かれる、なので普通は斜に構えたり、多様な見方の出来る余地を残したりするものだ、結末を観客に投げっぱなしにして、どのように受け取られてもそれは観る側の自由ですなどと逃げを打つものもある。

 シャマランはそうではない(そうではなかった)侵略宇宙人(!)も超人ヒーローも人魚も、概念上の存在や都市伝説やイドの怪物ではなく、実際にそのものとして出して押し通す、これが魅力だったのだ。

 おかしくなったのは「レディ・イン・ザ・ウォーター」からだ。プールの底に人魚が居る、と説き起こし、実際に人魚を出すところはシャマランらしいのだが、ストーリー、登場人物全てがファンタジー寄りでこの世の出来事感がない。
 足が地に着いたリアルな世界観の中でトンデモ設定を押し通すところがシャマランの魅力だったのに、これは閉じた世界の中の夢のような出来事として描かれている。 ひょっとして自分のアドバンテージを理解していなかったのか?という疑惑を抱かせる作品だった。

 疑惑を決定づけたのが次作の「ハプニング」だ。風が吹くと突然人が集団自殺を始めるというイントロは緊張感ありまくりでさすがシャマランという演出だったのだが、その後がいただけない。地球環境に対して人間は有害であると認識した植物が、人類を滅ぼすために催眠物質を放出するようになったのだ!、という大上段に振りかぶった設定はさすがシャマランというありえなさだったのだが、後半急速に後退し、そうかもしれないしそうでないかもしれないになり、現象はいつの間にか終了し、結局なんだったのかわからない、で終わってしまう。一大スペクタクルを展開しておきながら起きた事に関してその原因も、それが終結した理由も示さぬまま終わってしまうというのは凡庸な監督の作った凡作の典型である。シャマランとしてこれはどうよ?と思っているとラストで再び現象が始まったことを匂わすカットが挿入されて終わる。
 全てが終わったあと「実は事件は終わってなかった」的なくすぐりを入れ、意味ありげな雰囲気にしてみせるのも今や手垢のついた演出といえるだろう。
 シャマランが堕落した!と私は断じ、以後「新作出たら見に行くリスト」からその名を外したのだった。

 なので「SPLIT」が発表された時も無視を決め込んだ、これは「アンブレイカブル」と同じ世界観の物語であるとらしいとも聞いたが、「監視者」ブルース・ウイリスも、「ミスター・ガラス」ことサミュエル・ L・ ジャクソンも出てこないらしいのでまあいいかと思っていたのだ。

 というところで今回の「ミスター・ガラス」である。どうやら正統な「アンブレイカブル」の続編でブルース・ウイリスもサミュエル・L・ジャクソンも出るらしい、というか原題で「GLASS」と言うからには今回は「ミスター・ガラス」が主役なのだろう。

 ミスター・ガラス。転んだだけで骨折する骨形成不全症という難病を背負い、自分のような虚弱の極みにいる人間が存在するならその対極、何をもってしてもキズを負わない無敵のヒーローのような人間がいなければならないと確信する男である。彼はそのような『アンブレイカブル』を見いだすために大量殺人を繰り返し、ついに見いだした男を正義のヒーローとして覚醒させようと努力する。ブルース・ウイリス演ずる冴えない中年男がついにヒーローとしての道を歩み始めるや、苦しみばかりの自分の人生にも意味があったと満足して自ら罪を告白する。

 目的のためには手段を選ばない冷血と正義のヒーローを世に送り出したいと願う二面性、自分がこの世界にとって無価値なものではないかと怯える純粋さと誰にも理解されないビジョンを持ち続ける強い精神力。ヒーローに対する友情と献身、悪意を持たない稀代の悪役。
 いままで紡がれた無数のエンターテインメントの中の無数の悪役の中でも特異なキャラクターである、もちろんすべての悪役について知っているわけではないが、シャマランはまったく新しい悪役を産み出したのだと思う。

 『アメコミのヒーローは実在したのだ!』という飲み込み難いテーマの故に微妙な評価がつきまとう「アンブレイカブル」だが、私はこのミスター・ガラスのユニークさの故に内心で傑作認定しているのだ(なぜ内心なのかといえば、どうしたってこのテーマが飲み込めない層は居ると思うからで、相手がどんな感性なのかわからない状況ではお勧めできないからで、傑作と口に出していえばお勧めしたと受け取られるかもしれないからだ)


 さてしかし、そんなわけで「ミスター・ガラス」は観にいくこと決定であり、なので「SPRIT」も予習(!)しておくことになったわけだ。


◆SPRIT

 しかし、シックスセンスを予備知識なしで観た人とそうでない人はまるで別な映画を観たような鑑賞体験に違いない。同様にこの「SPLIT」の世界観がアンブレイカブルと同じであると知って観るのとそうでないのでは120度くらい違う方向性を感じるのではないか。
 当時、町山智浩という映画評論家が

「シャマランの新作『スプリット』は彼のある過去作品を観ていないとまったく意味がわからない映画なんですが、その作品を特定するとネタバレになるので『シックス・センス』『アンブレイカブル』『サイン』のうちどれか、とまでしか言えないのです。」 2017年5月12日

 と呟いて物議をかもしたほどである。

 実際にはシャマラン本人が、このツウィートより2週間前に。

My new film is the sequel to #Unbreakable AND #Split. It was always my dream to have both films collide in this third film.
『私の新しい映画は、アンブレイカブルとSplitの続編です。この3作目の映画の中で両方の映画が衝突するのは、私の夢でした。』

 と呟いている(公式ネタバレ?)ので町山氏が呟いたこと自体は構わないと思うのだが「ネタバレがあると言うことさえネタバレだ」と怒る人が出るほど微妙な映画であるのは確かだ。

 さてこの「SPLIT」23の人格を持つ多重人格性障害の男が女子高生3人を誘拐、監禁するところから始まる。映画の大半は犯人と監禁された女子高生が会話することで構成されまったく動きがない、にもかかわらず画面からはピリピリするような緊張感が放射され2時間観るものを飽きさせない。そしてここが重要なところだが、この映画がどこに向かっているのか、どこに着地するのか全く読めない、ここはさすがにシャマランとしかいいようはないだろう。

 映画のキモは入れ替わり立ち替わり現れる人格が口を揃えて言う「ビースト」の存在である、これは世界を浄化するためにやがて現れる24番目の人格で 全ての人格の上位の存在であり畏怖の対象であり、人間がさらに進化したもので体格さえ違うのだという(!)女子高生達はこのビーストを覚醒させるための生贄であるらしい。

 彼(女性人格も存在するが)は定期的に精神科医のカウンセリングに通っているのだが、このカウンセラーは「人格が変化すると体質も変化する」と唱え、学会では異端視されている危ない人だ。しかしもしそれが本当ならビーストとは何者なのか? ビーストが出現したら何が起こるのか。

 これがアンブレイカブルワールドであると知っていれば先は読める(ような気がする)し、知らなければあっと驚く結末に「フザケルナ!」と怒る人も出るだろう、その点で言ってもこれは正統な「アンブレイカブル」の続編である。

 シャマランが公式ネタバレして2年近く経つので私は遠慮会釈なくバレ込みで書いてしまったが、当時であればとうていお勧めできない映画であるに違いない。町山氏の葛藤も理解できるというものだ。

 結論として、シャマランファンならばアンブレイカブルをたとえ観ていなくとも満足する映画であるといえるだろう(まあアンブレイカブルを観ていないシャマランファンというのも考えにくいのだが)
 シャマランのファンではないが、変化球の好きな映画マニアであればアンブレイカブルを観た上で鑑賞すれば充分に楽しめるだろう。

 特にシャマランのファンでなく、アンブレイカブルを観ていないのならこれを観ることはまったくお勧めできない。これはそのようなエッジな作品である。


◆ミスター・ガラス

 さてでは「ミスター・ガラス」である。これがアンブレイカブルとSPRITの続編であることは公式に(監督のツウィートではなく)配給会社が宣伝しているので、ネタバレ問題は生じない。

予告編より、「ミスター・ガラス」「群れ」「監視者」のそろい踏み


 

 とはいえしかし絶賛公開中ということでもあり、内容に触れるのは避けた方が良いと思われる、なので予告編の範囲内だけで言う。

 上の絵は、3人の立役者を前に精神科医が、『あなたたちは自分がアメコミの登場人物のような超人だと信じている、でもそれはただの思い込み、自分の超能力の証拠だと思っている事はすべて合理的な理由が付く』と説いて治療(!)を行っているシーンだ。
 絵的には3人と精神科医が椅子に座って向かい合っているだけの静的なものだが、画面から伝わる緊張感はただごとではない。そしてこの物語がなにか破滅的な終局に向かっていることだけはわかる、どこに向かっているのかまったくわからないのだが、崖に向かって疾走する車に乗せられているようなせっぱつまった危機感が放射されているのだ。

 さすがシャマランという演出である。そもそもこの「アンブレイカブル・ワールド」はアメコミの登場人物のような超人がこの世にリアルに存在するというトンデモな世界観であり通常どうハンドリングしようとバカ映画にしかなり得ない代物だ。
 ところがシャマランはこれを一点の緩みもないサスペンスドラマに仕立てているのだ、これは超絶技巧である。

 シナリオ、演出、カメラワーク、照明、セットデザイン、全てに監督の神経が張り巡らされ、コントロールされて初めて成立する工芸品のような映画がこの「ミスター・ガラス」なのである。

 一見の価値があると言えるだろう(ただし前2作を観てからにすべし)







 リメイク版にオリジナルと同じタイトルを付けないでくれるかな、データーを検索するにも人と話をする時にも混乱するからさぁ、というわけでダリオ・アルジェント版「サスペリア」を40年ぶりにリメイクした新作である。

 さてそのオリジナル「サスペリア」だが1977年に公開されるや大ヒットを記録し。あまりにヒットしたので日本ではアルジェント監督の2年前の作品「Profondo Rosso」(紅い深淵)が「サスペリア2」として公開されたほどである。

(話は変わるが、このような怪しい商法は今なら顰蹙ものだが昔は似たようなやり方がまかり通っていた。
 たとえばスティーブン・セガール主演の「UNDER SIEGE」(包囲下)は海洋冒険ものだということで、当時流行っていたかわぐちかいじのマンガ「沈黙の艦隊」から名を借り「沈黙の戦艦」として公開された。これがヒットするやセガールの次の映画「ON DEADLY GROUND」(死地)は前作とまったく関係のない映画であるにもかかわらず<続編>「沈黙の要塞」という名で公開された。これがそこそこのヒットを記録すると、関連のない次作「FIRE DOWN BELOW」(点火)は<沈黙シリーズ完結編>「沈黙の断崖」として公開された。完結と銘うったはずなのだが次の「THE PATRIOT」(愛国者)は「沈黙の陰謀」という名で公開された、もちろんこれも前作と無関係である。面倒になってきたので詳細は省くが以下「沈黙のテロリスト」「沈黙の標的」「沈黙の聖戦」「沈黙の追撃」「沈黙の脱獄」「沈黙の傭兵」「沈黙の奪還」とこのシリーズ(!?)は続く。
 ちなみに「沈黙の戦艦」には正式な続編「UNDER SIEGE2」があるのだがこれは「暴走特急」という名で公開されている、なんでや)

 さて元に戻ってサスペリアである。
 当時「けっして一人では見ないでください」という宣伝文句とともにブームになった映画だが、これは「美少女が血まみれになって死ぬのを眺めて楽しむ」といった代物で志の高いものではない。まあ「志高きが故に貴からず」という言葉もあり(ない)志が低いからといってつまらないわけでも観る価値がないわけでもなく、つまりはこれは「美少女を鉄条網のプールに落として血まみれにする」(!)などアルジェント監督のフェティシズムを楽しむ映画なのだ。そして志の低さを補って余りあるのがアルジェントの美学である、絢爛なセットデザイン、象徴的なライティング、繊細美麗なゴブリンの音楽、どれを取っても間然するところのないファンタジーである。映画のジャンルとしてはサスペンス/ホラー/スプラッターなのだが、従来そういった映画がグロテスクな演出や不気味なセットなどによってことさらにおどろおどろしい映像を作っていたのに対し、スタイリッシュなホラー、スタイリッシュなスプラッターという新機軸を打ち出したところが目新しく評判になったのだ(と思う)

 ということでこれがウケた理由はわからないでもないのだが、見るべきは表層的なものに留まり、私自身はさほどに感銘は受けなかった、というかむしろ「なんで真っ赤や真っ青な照明なんだ、わざとらしすぎるだろ、舞台照明かよ!」 などと思っていた、つまり評価はあまり高くない映画だったのだ。



これでもか、と言わんばかりのカラーライティング、全編こんな感じである




 さてそのような、スタイリッシュであること(だけ)がウリだった映画がリメイクされるという。あまり期待は出来ないがまあかつて一世を風靡した映画だったし一応観にいくか、くらいのつもりで劇場に足を運んだ。

 驚いた。

 かつて外界から隔絶した、箱庭の中のような、ファンタジーな場所で展開していた物語は様代わりし、1977年のドイツの世相を反映したものになっていた。
 終戦から30年以上経っているのにいまだ第二次世界大戦の傷を抱えて生きる人々、壁によって分断された街、ドイツ赤軍により頻発するテロで揺れる社会などが生々しく描かれている。実際この映画はドイツ赤軍によるハイジャック事件(ドイツの秋)と時間軸を同じくしており、背景として常に事件の推移が語られるのだ。そのような重苦しい空気の中で描かれるのがカリスマダンサーによって主催される舞踊団の閉鎖的で緊張した練習風景だ。

 映画の狂言回しはホロコーストで妻を無くし彼女を助けられなかった自分を責め続けている孤独な老人クレンペラー医師である。
 舞台となっている舞踊団の建物はドイツ分断の象徴、形となって立ちはだかる戦争の傷跡ベルリンの壁に面して建っている。


 え~~~~っと、こういう映画でしたっけ?


 シュラスコ料理を食べにいったら精進料理を出されたような・・ってわからないですかそうですか、あまりに予想外な世界観を提出され戸惑っているうちに映画はどんどん進みあーこういう狙いなのねと思った頃には終わってしまっていたのだった。

 映画はなるべく白紙で観に行くのが吉というのが私の信条だ。しかし誰でも劇場に足を運ぶ際にはその映画が「自分をどんな気分にさせてくれるのか」について一定の期待があると思う。つまり恋愛映画を観にいく人は感動を、アクション映画を観に行く人は爽快感を、そしてサスペリアを観に行く人は血まみれのおもちゃ箱を、なのでその方向性が170°くらいも違う映画を見せられたのでは修正が追いつかないのだ。


舞踏学校外観 before



after

 観終わったあとで世間の評判をあらためて収集してみると、たとえば前項に名前の出た町山智浩氏は『素朴な民間信仰がキリスト教の振興で邪教というくくりに追いやられその関係者がやがて魔女というレッテルを貼られて弾圧されるようになった。この映画は舞台がモダンバレエの舞踊団だが、美しく明るいクラシックバレエこそがバレエであると信ずるゲッペルスによってモダンバレエは弾圧されていた。これは魔女とナチとバレエの映画なのだ』等と述べている。

 クレンペラー医師はナチを憎み自分を責めているがこれはナチが台頭してきた時、それを傍観してきた自分に対する怒りでもある。彼は自分に何の益もないのに舞踊団の秘密を暴こうとし続けるが、これは魔女を信仰するのもナチを信じるのも根は同じで、何かを盲目的に信仰するのは間違いなのだという彼の思いがなせるわざと言える。
 一方映画の背景に「ドイツの秋」が語られ続けるわけだが、社会を変えようとする運動がテロになってしまったというのがまた皮相である(ちなみにこの一連のテロの中でダイムラー・ベンツの重役が殺害されるのだが彼は元ナチスドイツの親衛隊員である)

 というわけでこの映画はきわめて社会的、政治的、宗教的映画なのだ、だがしかし実のところこのような背景が映画を観ている最中に観客に理解できるだろうか(できはしない)町山氏だってどうなのだろうと思う。

 手を止めて考える時間を作ることのできる小説と違って映画は観客の理解が追いつこうが追いつくまいが先に進んでしまう。なのでこの映画の場合、伝わってくるのはこれがきわめて複雑な映画、語源どおりのコンプレックス「衝動・欲求・観念・記憶等の様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡み合って形成された観念の複合体」な作品であるということだけだ。

 ということでこれはスタイリッシュがウリな(だけ)の前作とまるで世界の違う映画である。「アメリカから来た少女がドイツの舞踊団(前作では舞踊学校)に入団したらそこは魔女崇拝の秘密結社だった」ということ以外共通点がないこの映画にサスペリアという名を付ける意味があったのだろうか?

 完全オリジナルというと企画が通らないので、有名作品の続編、あるいはリメイクと銘うって予算を獲得し、しかし監督には前作をリスペクトするつもりなどなく、出来上がった作品は名前だけが同じの別物だったということがよくある(日本の某作品で監督が「前作を見たことがないと」公言していたことがある)
 あまりの路線変更にはこれを疑わざるを得ず、そうならばその作品は評価できない、それは前作の監督を初めとする製作関係者、その作品に思い入れのある多くの観客に対する裏切り行為であると思うからだ。

 そして、ダリオ・アルジェントはこの映画について Luca Guadagnino’s ‘Suspiria’ Remake “Betrayed the Spirit of the Original ”「ルカ・グァダニーノ監督によるリメイク版『サスペリア』はオリジナル版の精神に対する裏切りだ」と述べている.

 更に言うと、これは深読みしすぎなのかもしれないが、この映画、観客がリアルタイムで処理しきれないのを承知の上で各種要素を過剰に盛り込み意図的に「意欲作」「問題作」感を醸し出しているのではないかという疑惑も拭いきれないのだ。


これについては、石上三登志氏の言葉を引用したい

すぐれた映画とは、とにもかくにもまず、すぐれた娯楽から出発する。そして、すぐれた娯楽に徹底しているうちに、それが”何か”を語り、”何か”を訴え出すということがもっとも望ましく、それを実証してみせたのが、ジョン・カーペンターの敬愛するアルフレッド・ヒッチコックでありハワード・ホークスである。

 私はこの言葉に全面的に同意する、ついでに日野啓三氏の言葉も紹介しよう

言わんとすることが、あらかじめあったら、基本的にダメだと思う。何かを外から作品にこめようとしちゃダメだ。作ったものにおのずからこもっていなくちゃ。

 映画とはそういうものだと私は信じている、この映画をお勧めしきれないのはそこのところだ。





 地球以外の天体に初めて足を下ろした男、ニール・アームストロングの映画である。
 宇宙開発に興味のある私は勇んで劇場に足を運んだのだがあてが外れた。

 これは宇宙開発についての映画ではなく「家族の愛の物語」だったのだ。
 まあ、大地が裂け海が割れ地中から宇宙人(?1)が出現しようともテーマは「家族の愛の物語」であり、主人公が職場放棄しようが火事場泥棒しようが家族の為なら問題ナシというのがハリウッド映画であり、これはある程度予想していた(予告編にも葛藤する夫婦の絵はあったし)とはいえこれはその度合いが予想を超えていた。

 この映画は任務のプレッシャーによってストレスのかかる家族とそれを乗り越える夫婦の愛の物語であり、それがほとんど全てであって宇宙開発のアポロ計画のはほとんど背景に過ぎない。
 なんというかカメラは常にニールの周囲数メートルの所にいて、常にニールにフォーカスを合わせ続けているといった感じなのだ。なので彼がどのような任務に就いているのかは彼の背景に見えるものからしか伝わってこない。客観の絵、小説で言えば地の文がないようなもので、これは一種のPOV映画(ブレアウイッチやクローバーフィールド等の主観映画)と言えるだろう。
 主観映画のいいところ(?)は面倒な世界観の構築や物語のつじつまを合わせる必要のないところなのだが、これはそういう映画ではない、にもかかわらずニール本人の立場やアメリカがを取り巻く社会情勢、宇宙開発の現状など広い視野からの背景説明が一切ない。

 宇宙開発の映画と思ったのがそもそもの間違い、これはそういう映画じゃなく家族の愛の物語、人間ドラマなんだよという意見もあるだろうが、それにしても、と思う。
 これだと崇高だが危険と隣り合わせの職業、たとえば消防士とか海難救助隊とかに就いた男が主人公なら代替可能である。しかしニールが取り組んだ月着陸という任務はまさしく前人未踏であり先例のないミッションなのだ、そこに横たわる危険と難題は過去の経験から推測することの出来ないものだ、なぜ「ファーストマン」というタイトルなのか、主人公がニール・アームストロングなのかを考えたら、もう少し彼の置かれた立場を説明したほうが良かったのではないか、「史上初」という言葉が冠せられる男はそう多くないのだ。

 さてところでアポロ計画にはそういう意味で適切なエピソードがある、アポロ1号の地上訓練中にカプセル内で火災が発生し3人の宇宙飛行士が焼死したのだ、この映画でも触れているのだがあまりにあっさりしているので観客には背景が伝わらないと思う。

 これはカプセル内に純酸素が満たされていたことによって引き起こされた事故だ。純酸素内は通常燃えないものまで発火してしまう極めて危険な環境だ、なぜそのような仕様になっていたかというとカプセルの設計と重量のためである。

 我々が普段呼吸している大気はその大半を窒素が占め酸素は20%ほどしか含まれていない、これを酸素分圧は1/5気圧であると言う。
 人間は吸い込んだ空気を肺に取り入れてガス交換を行うのだが、そこで問題になるのがこの酸素分圧である、肺内部の酸素分圧「肺胞気酸素分圧」が「動脈中血酸素分圧」より高ければ酸素が血中に溶け込むのだ。通常、人は1気圧の(窒素込みの)大気を吸入しこの酸素分圧1/5気圧を確保しているわけだが、吸い込む気体が純酸素であれば1/5気圧でも人は呼吸出来るのだ。

 宇宙船の設計においては船内を1気圧より低くすることで得られるメリットは大きい、気密を維持するのも楽だし窒素を持って行く必要がないのも重量的にお得だ、なので宇宙船は大気圏外を飛行する場合は1/3気圧の純酸素で満たされている(※他の要因によって1/5ではなく1/3になっている)
 問題は発射時だ、この当時のアポロ司令船のハッチは2枚の扉で構成されていたが、内開きになっている内層のハッチの密閉状態を維持するため、発射から大気圏を出るまでは外気圧より高い約1.2気圧に維持することになっていたのだ。

 1気圧の純粋酸素でも怖いのに更に高圧である、NASAがなぜこの危険を看過したのかわからないがここでまさしくマーフィーの法則 Everything that can possibly go wrong will go wrong.「何事であれ失敗する可能性のあるものは、いずれ失敗する」が発動して3人の宇宙飛行士は焼死したのだ(原因は配線のスパークによるものだろうとしか判明していない)
 これこそがアポロ計画が前人未踏のミッションであることの象徴だろう、消防士や海難救助隊と違って関係者はまず何が危険であるかを探りだし、次にその問題の解決策を編み出す必要があるわけだ、そこに前例は存在しない。そしてその問題の洗い出しと解決策のどちらかにミスがあれば即座に人が死ぬのだ。ニールが全編を通じてテンパっているのも当然と言えよう。
 このニールがテンパっていることが奥さんの不安を呼び家庭の危機につながるのであるからたとえばこの事故などはもう少し背景を説明してもいいのではないかと思う、しかしこの映画はあっさり流してしまう、なぜと言えばそこにニールが居なかったせいだ、しかしこれではただ同僚が事故で死んだというだけである。

 この事故についてもう少し書く。
 司令船で火災が発生した場合どう対処するかについては前もって手順が定められていた。それによればハッチ正面に座る副操縦士がハッチの開閉操作を行い、向かって右座席の船長はそれを補佐し、左座席の飛行士は外部との通信を担当し、2人の操作をジャマしないようシートに座ったまま身動きせず待つ、ということになっていた。 
 事故後ハッチが開けられたところ、副操縦士のホワイトと船長のグリソムはハッチを開こうとした状態で死亡し、飛行士のチャフィーはシートベルトを締め天井を向いたまま死亡していた。3人は炎に巻かれながらマニュアル通りの行動を取っていたのである。
 あまりに悲惨なこのエピソードを映画に盛り込むことは出来なかっただろうが、この当時の宇宙飛行士がどれほどの覚悟を持って任務に臨んでいたかの証左にはなるだろう。
 主人公の置かれた環境や背景を描かずにおいて真の人間ドラマは描けないと私は思うのだがなにゆえここまで主観映画にこだわるのか。

 この異常なまでのこだわりは月面着陸シーンにも遺憾なく(?)発揮されている。
 ニールの献身と努力によってついに彼が月面に降り立つシーン、この映画のハイライトである、にもかかわらず月着陸船が月面に着陸する客観の絵がないのだ。
 映し出されるのは着陸船イーグルからの絵のみ、実際にニールが見たであろう逆噴射で月表面の砂が飛ばされている映像だけだ。


当時16ミリカメラで撮影されたこの動画は今でもYouTubeで見ることが出来る


 これはニール・アームストロングという男の人間ドラマなのだ、という関係者の意気込みは伝わってくるのだが、過剰なこだわりがかえってその効果を減じているようにしか見えない。

 私は結局「なんでだよ、見せろよ!」とか悪態を(内心で)つきつつ脳内で補完して見てしまったのだが、宇宙開発について特に興味のない人がこれを観てどう思うのか、真に主人公の思いに触れることが出来るのかはなはだ疑問と言わざるを得ない。

 結論、お勧めできない。

 トム・ハンクスの「アポロ13」は宇宙開発、家族の愛の物語、宇宙飛行士同士の友情物語など様々な要素がいい案配にミックスされた傑作である。「ファーストマン」を観るくらいならこの「アポロ13」を観たほうが幸せな映像体験となるだろう。




 以前にも何度か言ったことなのだがヤンキーは『怪獣』というものを理解していないし、ことによると理解できないのでないかと私は疑っている。

 昨今ハリウッドから日本のサブカルチャーに影響を受けたと自称する監督の怪獣映画(?)が公開されることがある。監督自身も「子供の頃、東宝の怪獣映画が大好きで」てなことを言っていたりするのだが登場するモンスターはどうみても『怪獣』ではない。
 怪獣はでかくなった野生動物ではないしクリーチャー(この世のものならぬ化物)でもない、しかし、たいていの場合出てくるのはそのどちらかだ。

 そして「どちらか」ならばまだマシで時にはその2つが共存することさえある。たとえば2017年の『キングコング 髑髏島の巨神』では出てくるのはでかいゴリラであるコングを筆頭に、でかくなったタコ、でかくなった蜘蛛、でかくなったバッファローなどでかくなった動物シリーズである。まあそれはそれで最後まで押しとおせばよかったのだが(よくないが)コングの仇敵、最終ボスとして出てくる「スカル・クローラー」はまさしくクリーチャー、この世のものならぬ化物である。
 同じ天をいただく生物とはとても思えない、というかこれは生物なのか?と思ってしまうほどに異形な、世界観の違う代物だ。これをキングコングと共演させて平気な感性はヤバイ。


 さて怪獣の始祖にして王たる「ゴジラ」がハリウッドに進出したのは1998年、トライスター・ピクチャーズ版『GODZILLA』だが、このゴジラは足が逆関節でマグロを喰い、放射能炎を吐くこともなくビルの谷間を逃げ回り、ついには通常兵器で倒されてしまう、つまりでかいトカゲでしかなかった。

 東宝のゴジラというリファレンスがあってさえ彼らはそれをでかくなったトカゲとしてしか視覚化出来なかったのだ。認識阻害の呪いでもかかっているのだろうか。

 これはアメリカではゴールデンラズベリーの「最低リメイク賞」を受賞してしまった。 東宝では『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』内で登場人物が「アメリカにもゴジラに酷似した巨大生物が出現し『ゴジラ』と名付けられたが、日本の学者は同類とは認めていない」と発言させているし『ゴジラ FINAL WARS』ではX星人総督に「やっぱりマグロ食ってるようなのはダメだな」とまで言わせている。

 この映画の圧倒的不評を糧としたのかハリウッド版ゴジラ第2作レジェンダリー・ピクチャーズ版「GODZILLA ゴジラ」の造形はかなりマトモである、東宝ゴジラの発展版としてでかくなったトカゲでもクリーチャーでもない圧倒的な力を持つ生物として描かれている。

 やればできるじゃん、と言いたいところだったがどうもこれは先に言ったリファレンス、着ぐるみゴジラのお手本があったから出来たことのようだ。
 なんとなれば仇役怪獣の「ムートー」の造形がダメダメだからだ。古くは「クローバーフィールド」以降「スーパー8」「スカイライン 征服」「カウボーイ&エイリアン」などに出てくる化物に共通の、悪魔的な風貌、ナメシ皮のような皮膚、手を使って歩行する邪悪な化物である。


左 『GODZILLA ゴジラ』の「ムートー」  右『キングコング 髑髏島の巨神』のスカルクローラー


下左は『クローバーフィールド』 右は『カウボーイ&エイリアン』どいつも、これでもかと言わんばかりの邪悪顔(?)だ

そしてこいつらは皆、前足を着いて歩行する、なぜ4つ足歩行と書かないかと言えば、スカルクローラーは前足しかないからだ


 怪獣は怖いものだが、それは邪悪であるという意味ではない、悪夢から生まれ出たものでもない、彼らはその生態が人と相容れないために時として我々と対立するが、それは同じ生物として互いの生存を賭けて戦っているだけだ。

 日本人には大いなる力は恐れるものであると同時に畏れを抱く対象でもあるという思想がある、人智の及ばぬ自然現象に対するアニミズムだ、怪獣はその延長にあると私は思っている。

 そこがどうやらヤンキーとは違っている、彼らにとって怪獣は悪しきものであって滅びるべきものであると思っているらしい、つまり怪獣には常に正邪という概念がつきまとうのだ。
 ゴジラは今や東宝版のそれと同じく善悪を超越した存在となり、悪の範疇から出外れたようだが、それ以外の「敵役怪獣」に邪悪な要素が付加される傾向に変化はない。

 現在そのような映画を作り続けているのがレジェンダリー・ピクチャーズだ。

 レジェンダリーは今般東宝映画と提携して『モンスターバース』というシリーズを発足させた。そして『キングコングvsゴジラ』を実現すべく、両者をを同じ世界観に取り込んだ(『キングコング 髑髏島の巨神』の最後にキングギドラの壁画が登場する)

 その日米の大スターが激突するメインイベントの前哨戦として組まれたのが今回の映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』だろう。

 さてしかし、キングギドラ、モスラ、ラドンはゴジラと並び子供の頃の私に重大な影響を与えたスターである。彼らは私の職業選択に重大な影響を与えている。
 さらに言えば私はキングギドラを飛ばし、その3つ首を操演した現状最後の操演技師である(『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』)今の特撮事情を考えれば今後着ぐるみのキングギドラが映画に出演する可能性は低く、私がそのまま最後の操演技師になる可能性は高い。
 往年の大スターであったた彼がハリウッドでどういう扱いをされるだろうか。モスラ、ラドンはともかくキングギドラはあきらかにゴジラの仇役である、レジェンダリーは我らのキングギドラを邪悪なクリーチャーとして描くのではないだろうか、私はかなりの不安を感じていた。

 なので公開初日の初回上映に劇場に駆けつけたのだった。


面白かった!


 ここまでハリウッド版怪獣映画をディスっておいてなんだと思われるだろうが、まあ普通の怪獣映画だった。
 怪獣映画を含めSFやパニック物、非日常を扱ったいわゆる「特撮物」はいろいろなウソや無理で構成されており関係者の努力にもかかわらず壮大に(あるいは深く静かに)壊れてしまうことも多い。なので内外を問わず「普通に面白い」映画として成立することは希であり貴重なものなのだ。
 これは私が地面に置いた縄の縄飛びほどにハードルを低くして鑑賞したため評価が激甘になっているためかもしれないが、世間の評判も実はそう悪くない。


 まあしかし「面白い映画」だったからと言って、これが「出来の良い映画」だったというわけでない事は言っておこう。

 出来の良い映画は面白い映画とイコールだが、その逆は必ずしも真ではない。

 映画監督牧野省三は映画を構成する要素として「1 スジ、2 ヌケ、3 ドウサ」という言葉を残した。 映画にとって一番重要なのはスジ(ストーリー、脚本)であり、次に重要なのはヌケ(映像美)であり最後はドウサ(演技、役者)であるという意味だ。そのデンで言うとこの映画はヌケしかない。
 圧倒的な映像が映画全体を支配し、あとの2つはそのおまけである。

 私は「シン・ゴジラ」について触れた時、これは怪獣映画ではないと述べた、なぜなら映画の中心に怪獣が居ないからだ。それで言えばこれは圧倒的な怪獣映画である、映画の中心にはゴジラを含む4大怪獣が居て最後まで焦点が合いつづける。

 お話は4大怪獣が激突する必然性を作るために最小限存在するだけで、映画の周囲をクルクルと舞っているだけだ。薄っぺらいお話のゆえに登場人物の性格描写や行動原理も説得力がなく、主役の科学者など途中何度か人格変わってないか?と思われるほどである。 役者とその演技は語るに足るお話あってこそのものだ、お話が映像の接着剤程度にしか扱われていないこの映画ではそこに見るべきものはない。

 最近のハリウッドのステレオタイプ「欠損した家族と再生の物語」風の設定があったのでお話をそっちに振られたらヤダなあと思っていたのだが、そんなものには目もくれない映像オリエンテッドな映画だったのもよかった(のか?)

 ではその映像がどのように良かったのか、という話をしたいところではあるのだが、この映画は今絶賛上映中なのであまり詳しく言うのははばかられるのでポイントのみ言おう。

 ゴジラは前回に倣った造形で「神」がその名に含まれるだけある堂々たる押し出しである。その位置づけも人智を超えた偉大な存在であるという東宝ベースなものになっていて安定した作りになっているといって良いだろう。

 心配されたキングギドラは大きなトカゲあるいは異形の生物ではなく、オリジナルと同じ中国の「竜」をベースにした怒れる神的な造形になっていた。
 モスラは幼虫が若干キモチ悪かったが成虫は聖なる昆虫というアイデンティティ(元々インファント島の守護神なので)を保っていた、まあ終始発光しててもうすこし見せろと思わないでもなかったが。
 ラドンの何も考えてない野良怪獣(!)ぶり、つまり生存原理が人類と相容れないから対立するが本人(!)に悪意などはない感もちゃんとしていたと思う。

 つまるところ造形もさることながら、怪獣それぞれの性格づけも立ち位置も東宝版に対するリスペクトが感じられるのだ、これが私がこの映画を好感する最大要素である。

 ついでに言うと、死にかけたゴジラが復活する際伊福部昭のゴジラのテーマがかかった時は不覚にも感動してしまった。

 人間ドラマも家族愛も深淵はテーマもなく、見せどころが映像しかないトンデモ映画を132分、最後まで飽きさせずに見せきったという点で成功と言えるだろう。
 ハリウッドの大作だと思えばいろいろ突っ込みどころもあるが、かつての東宝のチャンピオン祭りが復活したのだと思えばこれで充分と言ってよい。

 来年はいよいよ「ゴジラ対キングコング」実に60年ぶりの再戦である、ハードルを可能な限り低く維持して待っていよう。



PS

 リスペクトは随所に感じられるのだが、特に多いと感じたのが『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(私が参加したやつ)である。
 アナログ版キングギドラとモスラが登場した最後の映画だから参考にする部分が多かったのかもしれないが、これリスペクトを越えたパクリじゃね?と思われるカットまで散見する。
 話のもって行き方もさることながら画面構成がまるで一緒というカットがいくつかあるのだ。神谷特撮監督に突撃取材したが(最近ご一緒したので聞いてみたのだが)「あれ同じカットだよねえ」と本人が言っていたことをここに報告しておこう。
(なので、今回の映画が面白と思った方は『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』も鑑賞いただきたいと思う)





 Déraciné「デラシネ」はプレイステーション4のゲームソフトである
 そしてVR専用のソフトでもある、つまりプレイヤーがヘッドマウントディスプレイを付けて行うゲームということだ。

 ではそのVR(virtual reality、仮想現実)とは何だろうか? 現状それはヘッドマウントディスプレイを付けることで得られる体験の事を言うのだが、それを仮想現実と呼ぶのはいささか「言い過ぎ」感が否めない。

 たしかにヘッドマウントディスプレイをかぶると視界の全てはゲーム内の景色となり、上を見ればその仮想空間の上が、左を向けば左が見えるのだが、言ってみれば「それだけ」でしかない。嗅覚も味覚も仮想化されていないし、温感、触感などの各種皮膚感覚もない、加速度も感じないのだ、これを「現実」と言われてもというものだろう。
 その視覚にしても目を覆われている感じ、重たい被り物が頭に載っている違和感は消しようもなく、目に映る仮想現実なる映像は解像度の低いもので自分が別な世界に来たと思い込めるほどのものではない(さらの言うとこのPSVRを含めほとんどのヘッドマウントディスプレイは有線であり、仮想現実の中で遊びつつも引きずっているコードが体に絡まないように気を配るというトホホな現実がある)
 つまり今のところVRシステムというものは全天全周3Dモニターでしかない。

 ならば言うほどたいしたデバイスではないのか、といえばそうでもない、フライトシミュレーターやFPS(プレイヤー目線射撃ゲーム)など主観映像でプレイするゲームは多くあるわけで、視点の移動にジョイスティックやマウスを介さないヘッドマウントディスプレイが大いに有効であることは間違いはない。現状では「仮想現実」という言葉が先走っているというだけだ。

 私はパソコンに接続したヘッドマウントディスプレイでゾンビ撃ちゲームもやっている、このゲームはシステムも解像度もアーケードゲームの「××オブ・ザ・デッド」とほぼ同じだ、ポリゴンは大きいしテクスチャも粗い、つまりはゲームゲームしている(?)しかしいかに大型筐体といえど所詮はモニター越しでの対戦であるアーケードと違い、ゾンビの居る世界に身を置いている感のあるVRゲームはかなり怖い、視角もリアルな立体映像であるためゾンビが等身大に見える、なので組み付かれた時の恐怖感、嫌悪感は半端でない。友人はジュラシックパーク風恐竜撃ちゲームをやっているとき、ラプトルに襲われ無我夢中でハンティングナイフ(実は手に持ったポインティングデバイス)を振り回し窓ガラスを割ったという、笑うなかれ、現状のとうていリアルではないCG映像ですら人のエモーションをこれほどに刺激するということなのだ。
 視覚は人間の最大の情報収集器官でありそれをそっくり置き換えることの出来るヘッドマウントディスプレイの潜在能力は高い、将来的にこれが小型軽量化し、リアルと見間違えるほどに解像度が上がれば用途は劇的に広がるだろう。


PSVR


 ・・っとVRの話は置いといてデラシネである。

 そのように現状では若干微妙なヘッドマウントディスプレイであるが、プレイステーション用のVRゲームをプレイするのは初めてであるし、開発元がフロムソフトであるというのも私としては興味のそそられるポイントだ。
 私はパソコンがまだマイコンと呼ばれていた頃(家庭用ゲーム機がまだ無い頃)からのゲームマニアだが、いままでやってきたコンピュータゲームのベスト10を挙げるなら必ず入るのがフロムソフトの「キングスフィールド2」なのだ。ベスト1は揺るぎなく「ダンジョンマスター」であり、「キングスフィールド2」は次点なのだが、下位には同じくフロムソフトの「アーマードコア1」も入るだろうということでフロムソフトには一定の信頼感がある。

 そのフロムが満を持してリリースしたVR専用ゲーム、果たしてどのようなものなのだろうか期待と不安と共にヘッドマウントディスプレイを被ったのであった。


 すると

 「あなたはこれから時の止まった世界の妖精になるの」というナレーションが流れる。

 妖精?時が止まった世界? ナニソレと思うと間もなくプレイヤーはゲームの中に放り込まれる。移動やアイテムの使い方などのチュートリアルはあるが背景説明などは何もない。

 不得要領のまま世界を見回すとそこは生徒6人と年老いた校長先生の7人が暮らす山の中の寄宿学校であることがわかる。古びてはいるが石とレンガと木で出来た校舎は堂々たる作りであり、礼拝堂、音楽堂なども併設された立派なお屋敷である、電気やガスはなく、明かりはランプで煮炊きは薪でおこなう質素な生活は産業革命前後といったあたりだろうか。外は清冽な川と針葉樹の林、美しい風景だが冬の厳しさも感じられる山間部だ。ことによるとスコットランドの高地なのかもしれない(なぜそう思うかは後述)彼らはその閉ざされた楽園でひっそりと暮らしている。

 そしてこのゲームの最大の美点はこの舞台の美術デザインにある(というかそれしかないというか・・・)
 お屋敷の立派な外観から各部屋の片隅の置かれている小物まで全てが時代考証を感じさせる物で埋め尽くされ、寄宿学校の中を歩きまわるだけで充分に楽しい。



素晴らしいデザインワークである


 さてしかし妖精たる主人公(プレイヤー)はこの世界の住人には見えないらしい。彼らに声を掛けることも直接触れることも出来ない、出来るのは小さな物を移動させることくらいだ。
 そんな中、生徒の一人から「もし妖精さんがそこに居るなら他の人たちに妖精の存在を信じさせて」と頼まれる、妖精の存在を信じていない生徒達の中で彼女だけは何故か確信があるらしいのだ。
 そこでプレイヤーは最初のクエスト「ハーブ探し」をすることになる、そのハーブは前もって彼女が他の子供達に配り、隠しておくよう指示したものだ、それを探し出し、夕食のシチューに投入してみせれば皆も妖精の存在を認めるだろうというわけだ。

 ここで私はこれが古典的アドヴェンチャーゲームなのだと悟ったのであった。

 アドヴェンチャーゲームとは何か、それは推理&探索ゲームである。世界初のアドヴェンチャーゲームはDECのPDP-10というメインフレーム(大型汎用コンピュータ)上の「コロッサル・ケーブ・アドベンチャー」(コロッサル洞窟の冒険)である。これがアドヴェンチャーゲームというジャンルの名前の元となった。


PDP-10

 内容はケンタッキー州の国立公園内にあるコロッサル洞窟を探検するものだが、エルフ、トロールなどが出没するファンタジー要素のあるエンターテインメントだった。 形式はテキストアドヴェンチャーというものでモニター表示されるテキストに対し、プレイヤーがテキストを打ち込むことで進行する。時は1975年、ファミコンが世に出る8年前でありパーソナルコンピュータという概念すら無かった頃のことである、当然のことながら市販ソフトではなく、一部のコンピュータ技術者達だけがプレイできるものだった。

 80年台にApple II、コモドール64、IBM PCなどパーソナルコンピュータが世に出ると「ミステリーハウス」「ゾーク」などのテキストアドヴェンチャーが市販された(「ミステリーハウス」はラインコマンドで描かれた稚拙なグラフィックこそ付いているが、形式はテキストアドヴェンチャーである)
 コンピュータの能力的に美麗なグラフィックや高速処理の必要なアクションゲームなど出来なかった時代、ゲームといえばテキストアドヴェンチャーより他になかったと言えるだろう、つまり世界初のパソコンゲームはアドヴェンチャーゲームだったということだ。


Mystery_House                                 表参道アドヴェンチャー


 日本初のアドヴェンチャーゲームは1982年ASCIIが発表したPC8801向けの「表参道アドベンチャー」である、これは月刊アスキーの別冊「Ah!Ski!」に掲載された8Kバイトの16進数を手入力することでプレイするものだった。内容はアスキーのライバル編集者が当時表参道にあったアスキー編集部に侵入して爆弾を仕掛ける(業務妨害?)というジョークっぽいものだったが、英文テキストのメッセージに対し英文のコマンドを入力するという本家アドヴェンチャーゲームと同じシステムだった、そして先行のゲームのそれと同じ問題を抱えていた。

 問題とは何か、当時のゲームは小規模なもので個人もしくは少人数のプログラマーが開発していた(「表参道アドヴェンチャー」はアスキー編集者他1名で開発されている)テキストアドヴェンチャーは文章で状況を説明し文章を受け付けてゲームを進行させるのでプログラマーの言語センスがゲームの出来不出来に関わるのだ、、そして彼らは言葉の専門家ではない(というかプログラマーだ)何が起こるかというと、ゲームが「コマンド探しアドヴェンチャー」になってしまうのだ。本来謎を推理し探索を進めるゲームであるはずのものが、受け付ける単語が何であるか推理するゲームになってしまうということだ。
 この「表参道アドヴェンチャー」に関していうと私はドアを開けるコマンド「OPEN SESAMI」が思いつかず挫折した。それまでのドアは全て「OPEN DOOR」で開いたにもかかわらず社長室のドアに限って「OPEN SESAMI」なのだ(これが「開けゴマ」でなければならないという必然性はなくヒントもない)開発者はちょいとシャレたつもりかもしれないが、思いつかなければそこで終わりである。

 その後パソコンは若干グラフィック性能が向上し、グラフィック・テキストアドヴェンチャーというものが世に出回るようになった、「クランストンマナー」(クランストン屋敷)もその一つだ、お金持ちのお屋敷を探索して16個のお宝を手に入れるという典型的なアドヴェンチャーで日本語(カタカナ)入力のテキストアドヴェンチャーである。
 私は探索を続ける中クローゼットの中にロープが垂れているのを発見した、ロープを登るとありましたよ札束! やった~とばかり「サツタバ トル」と打ち込むが受け付けない。「サツタバ テニトル」駄目、「サツタバ オトス」駄目「テ ノバス」駄目、これは札束じゃないのかと「オカネ」 に変えて打ち込み直すが駄目、「カネ」でも駄目、ダメ元で「オタカラ」にしてみるが駄目 他にも思いつくかぎりの単語を打ち込んだが駄目。半日ほどの格闘の末ついに私はPC8801のリセットボタンを押した。
 ヤケになったわけではない、コンピューターはソフトリセットしても上書きされるのはOS部分だけでメモリーの内容はそのまま残る。当時の8801はメモリ空間 8400hからFFFFhまでがユーザー領域と決まっていたのでロードされたゲームプログラムはリセットしてもそこに残っているのだ。
 これを機械語モニタ(メモリの内容を読み書きするプログラム)で読み込み、1バイトを半角1文字として表示する(アスキーダンプと言う)、メモリの中身の大半は機械語のプログラムなので意味不明な文字の羅列となるが、ゲーム中に表示されるメッセージや、プレイヤーが打ち込んだ文字がコマンドとして有効かどうかチェックするデーターは意味のあるカタカナとして表示される、ゲームが受け付ける単語が一覧出来るのだ。

 そしたらありました 「ロープ ユラス」 揺らすかよ!わかるかそんなの!! と思ったのを覚えている。デラシネほどの精細美麗なグラフィックならいざしらず絵の下手な小学生が描いたようなこのグラフィックで「揺らさないと手が届かない」などと思うわけもない。

機械語モニタの例 左がアドレス 中が16進ダンプ 右がアスキーダンプ                           フツーに手が届きそうでしょ?

 ほかの受付コマンドも全部見えてしまったわけだが、大半のコマンドが「タンス アケル」とか「コイン トル」などピジン言語的な単純さであるにもかかわらず。キーポイントで「ボート フクラマス」とか「キ トビウツル」などレベルが違うコマンドを要求しているのもわかった。
 ボートとはゴムボートなのだが、このゲームなら「ボート トル」の後は「クウキ イレル」だと思う。
 「タンス アケル」の後が「タンス ミル」とシンプルなのに対し「トリカゴ トル」の後が「トリガゴ アケル」ではなく「トリカゴノフタ アケル」なのは恣意的すぎなだろうか?
 「アガレ サケブ」 (「上がれ と 叫ぶ」)と目的語が名詞ではないコマンドもある(また何故「言う」でなく「話す」でもなく「叫ぶ」でなくてはいけないのか説明はない)

 つまり言葉使いがデタラメなのだ。開発者の国語能力の問題もあれば、故意に推測しにくいコマンドを要求して時間稼ぎをしようという意図らしい部分もある。高いお金を出して買ったゲームが開始30分で終了してしまってはユーザーが不満を覚えるだろうということなのかもしれないが、理不尽なコマンド探しをさせられたあげくに行き詰まったら不満どころではない。
 当時はインターネットもなく、行き詰まった時に助けを求める場所がないので詰まったらそれでオシマイなのだ。

 私は表参道アドヴェンチャー以来数本のアドヴェンチャーゲームをプレイしてきたのだが(メモリダンプというチート行為をしたのはこれが初めてだが)ここで「テキストアドヴェンチャーって駄目だ」と思い知った。
 そのように思ったのは私だけでなく、日本だけの問題でもなく、コンピューターゲーマー全ての思いだったらしくテキストアドヴェンチャーは急速に終わりを告げた。

 次に現れたのがコマンド選択式アドヴェンチャーゲームである、コマンド選択は今でも普通に使われている形式なので理解されやすいとは思うが、これはこれで純粋なアドヴェンチャーゲームには向かない形式だった。アドヴェンチャーゲームとは表示されたメッセージ、グラフィック、それまでに手に入れたアイテムなどを元に次になすべき行動を推理する、つまり頭を使って進んでいくところが面白いのだが、コマンド選択式は総当たりでゲームを進行させることが可能になる。詰まった時あれこれ考えて正解を導き出すのではなく、適当にコマンドを選んでみる、うまくいかなければ戻って次を試す、でゲームは進行してしまう、しまいには頭を使うこともなく選択肢が出るたび上から順に試してみるようになる、ゲームが作業になってしまうのだ。
 知的な興奮がウリだったゲームが作業になったらオシマイである、ゲームはクリア出来るかもしれないが面白くない。そしてアドヴェンチャーゲームというジャンルそのものが衰退した。

 <アドヴェンチャーゲームはその後日本に限ってギャルゲー(Girl Game 主人公が女の子にアタックして仲良くなる)として生き残った。ギャルゲーは進化しやがてノベルゲームというものも生まれた、これはゲームというよりコマンドを選択しながら読む小説のようなものだ(コマンドの選択によってエンディングが変化したりする点で従来の小説とは一線を画していた)
 内容はその出自(?)から恋愛小説風のものが大半だったが、下手な小説よりボリュームがあり読み応えのあるストーリーをウリにする作品も出て「泣きゲー」なる名称も生まれた、要するに感動的で泣けるお話がウリのゲームというわけだ。コマンド選択はほとんど意味をなさずヒロインのセリフが若干変化するだけのようなものも増えた。
 ここまで来るともはやアドヴェンチャーゲームではないと思うのだがジャンル分けの際には今でも「アクション」「RPG」「パズル」などと並び「恋愛ADV」(恋愛アドヴェンチャー)と分類され名前だけは生き残っている>

 何が言いたいのかというと、アドヴェンチャーゲームはプレイが用意で、理不尽さがなく、それなりの難度があるが知的推理を押し進めることでエンディングにたどり着く、という良質なゲームを作るのが難しいということなのだ。

 これが最新のVR専用ゲームとして復活したらどうなるか、天下のフロムが料理したらどんなものになるだろうか、私は俄然やる気になってクエストに臨んだのだが・・・

 う~む

 ハーブはお屋敷各所に隠されているのだが、その場所についてのヒントはほとんど無く、大半はポイントのしらみつぶしだ、つまりは技術は最先端プレイスタイルは往年の「コマンド総当たり」方式なのだ。
 移動方法にも問題がある、これはVRゲームにとって常について回る問題だがプレイステーションVRのプレイアブルゾーン(VRシステムがプレイヤーの動きを認識してくれる範囲)は3×1.9mしかない、左右が1.9mなので成人男性が両手を伸ばしたらギリギリである、つまりプレイヤーが自分で動き回るということは最初から想定されていないのだ。
 しかし当然ゲーム内で主人公が移動する必要はある。そこで多くのVRゲームが採用しているのがワープ式だ、ゲーム内の移動可能な場所にマークがありそこを向いてボタンを押すとワープする仕組みだ。デラシネもそれを採用しているのだが、フォトリアルな舞台が用意されているのに移動方法はリアルではないショートジャンプの連続だ。
 またこれが抽象度の高いいかにもなゲーム画面ならまだしも、重厚なお屋敷の床に移動サークル(デラシネのワープポイントは青く輝くリングである)が並んでいるのはリアリティを損なう。
 この方式は自由に屋敷内を散策するという楽しみも奪う。たとえばすごく凝った家具が置いてあるので近くで見てみたいと思っても移動サークルがそばにないと寄れない。夕陽が差し込む窓がありそこから外を眺めたらさぞかし印象的な山の夕暮れが見られると思うのだが近寄れない。
 通常ゲームをプレイするにはモニターやマウス、コントローラーといったデバイスがプレイヤーとゲームワールドの間に介在する、集中するとそれらの存在を意識しなくなるのだが、その段階を飛び越してゲーム世界に没入できるのがVRの良いところだ、それがこのようにゲームシステムを意識せざるを得ない制限がかかるとせっかくの没入感が薄れてしまうのだ。


左、クランストンマナー(1983年)の台所、

右、36年後、デラシネ(2019年)の台所




 そしてもう一つ。詳細に描写された舞台を用意してしまったため探索を完全総当たりにしたらゲームは1歩も進まないという判断だろうが、調べる必要のある物が近くにある移動サークルは他のサークルと形が違う。つまり「ここはただの移動ポイントで周囲を調べる必要はありません」 「はい、ここは何かあるので回りをよく見てください」と言われているようなものだ。たとえば図書室には多くの本が並んでいるわけで、これらすべてを調べていたら日が暮れてしまうだろう、なのでゲーム上調べる必要がある本の前には印があるわけだ。やむを得ないとは思うが興ざめな仕組みである。
 見た目だけで言うなら仮想現実まであと少しといえるほど完成度の高い世界を構築しただけに、「ゲームシステム」が生で見えてしまうところが気になるのだ。


 次に内容について触れる。

 さて、妖精(プレイヤー)の存在を信じた生徒達は歓迎会として演奏会を開くという。校長先生に内緒で音楽堂を使うために、パーツの揃っていない楽器を使えるようにするために、プレイヤーはいくつかのアイテムを探すことになる、第2のクエストである、私はここで、なるほどこの牧歌的な世界で生徒達と楽しく探しものごっこをするゲームなのねこれは、と思った。

 違っていた。

 最初から多少違和感はあったのだ、なぜたった7人で山の中で暮らしているのか、生徒達が全員孤児でこの寄宿学校から外に出たことがないらしいのは何故か、なぜ彼らは校内で飼っている犬と猫とネズミ以外の動物を見たことがないのか。

 牧歌的な孤児院とおもいきや背後に巨大な謎と恐怖があるってどこのネバーランドと思うわけだが、クエストが進むにつれて点在していた違和感が線になり面となり、やがて大きな闇が立ち上がる描写は見事である。



牧歌的な孤児院と思いきや、実は塀の外は・・という「約束のネバーランド」(少年ジャンプ)





 さてここからは内容に踏み込みのだが、このゲームをやってみようと思っている方はここでやめたほうがいい一応と述べておこう。

 闇がその姿を現すや事態は急坂を転げ落ちるように悪化し、生徒達は次次死んでいく、いっぽう妖精は人の命を奪い、奪った力を使って過去にタイムリープ出来ると存在であることもわかる。
 奪える命は生徒6人と校長先生しかない、主人公はその命を使って過去に戻り、全ての悲劇を回避しなくてはならない。

 なんとこれは過去改変もののSFではないか!、これは見誤った、面白そうではないか、こうくるならゲームシステムの不満などは脇に置いといてもかまわないぞ(!)と思ったのだが。

 う~~~む

 このシナリオがまたイマイチなのだった。
 現在(あるいは近未来)の悲劇を回避するため主人公がタイムリープするという過去改変ものは小説、映画、アニメ、ゲームでいくつも存在するが、どれにあっても重要なのは作品を貫く明晰な論理である。たいていの場合主人公は失敗を繰り返しながら悲劇の元となる因子を発見して変更を試みるわけだが、この因果関係は観客/プレイヤーに正しく伝わり納得できるものでなければならない。タイムリープというのは大きなファンタジーだが、それがありうる世界だと仮定した作品内論理は維持されないとお話が崩壊してしまうのだ。

 <ニコラス・ケイジの「NEXT]という映画がある、2分だけ過去に戻れる男がテロリストと戦う羽目になるというお話だ。史上もっともジャンプ幅の少ない過去改変物だろう。凶悪なテロリスト集団相手に2分戻れたからといって何ほどのことが出来るかと思うわけだが、そこを工夫するのがこの映画の見せどころだ、ところが主人公はラストで絶体絶命のピンチに陥るや何時間も前にもどって事態を解決してしまうのだ、なぜそれでいいと思ったのか製作者達を小一時間問い詰めたいほどの論理崩壊である>

 自分で状況を進行させていくゲームの場合は特に、アレをこうしたらこうなってしまった。ならばコレをこうすればよいのではないか、と理詰めで行動の選択が出来る必要がある。それがピタリとはまった時の快感こそがこの手のゲームの報酬なのだ。何をすべきかを理詰めで決められなければ、プレイヤーは選択肢を総当たりするしかなくなる、先にも言ったとおりそれはアドヴェンチャーゲームではなく、そもそもゲームですらない。

 とはいえそんなゲームを作るのは難しいのではないか?と言われればそのとおり、しかしこれには「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」という名作がある。これは1996年にPC-98版が発売され、97年にセガサターン、2000年にはwindows用にに移植され、その後リメイクされて2017年には PS4 PSVita版、今年になって Nintendo Switch版も発表されたという歴史に残る作品である。何がそんなにうけているのかというと透徹された作品内論理である。
 主人公(プレイヤー)は現在の悲劇を回避するため何度となくタイムリープし過去改変に挑むのだが、最初は当然のようにうまくいかない。しかしよく練られたシナリオとゲームシステムのおかげで、自分が何を間違ったのか、何をどうすれば良かったのかが理解できる。主人公を取り巻く状況は1回過去に戻って1回答えを出せば解決するというような単純なものではなく、何度となく現在と過去を往復し、それぞれを改変しながら正解に近づいていくという複雑なストーリーなのだが、緩みのない作品内論理のおかげでプレイヤーは最後まで自分の立ち位置を見失うことなくゲームを進めることができる。

 要するにまあ、傑作なのだ。
 (ちなみにゲームデザイナーにしてシナリオライターの剣乃ゆきひろ(後に菅野 ひろゆき)は、この作品におけるタイムリープ理論の設定のため「事象科学」という疑似科学論文まで書いたという)
 初版が発売されて20年の今年、現在進行形で新作アニメがオンエア中だが、自分の頭で考え試行錯誤するところがキモだったゲームを「見ていれば終わる」アニメにするというのは疑問である、というかフツーにつまらない(時代設定が20年前のままであり、主人公の後輩が主人公を「おやびん」(!)と呼んだり、釘宮理恵が声をあてているツンデレお嬢様が縦ロールだったりするあたりにめまいを覚えたりする)


 YU-NOの話しをするとつい長くなってしまう(剣乃ゆきひろのファンなので)デラシネである。

 過去の名作と比べるのはどうかという話ではあるのだが、ひとつの理想型というものが存在するわけだ。他にも過去改変SF映画「バタフライエフェクト」の改良版である「シュタインズ・ゲート」という傑作もある。

 それらが発表された後に出てきた過去改変物にもかかわらずこのゲーム、プレイヤーが自分の行動を選択するにあたってより所とする論理性が無いのだ。
 そもそも、こういうと驚く向きもあるだろうが、この作品実は「何が起きているのかわからない」
 プレイヤーの前に唐突に放り出された悲劇があるだけで、何がどうなってそうなった、ということが明らかではない、なので論理的に正解を導きだすことが出来ない、というかゲーム自体が正解を求める作りではない、正しい選択肢と間違った選択肢があり、間違えるとバッドエンドということもない。

 ではプレイヤーは過去に戻ってなにをするのかというと、ゲームが要求する選択肢を拾っていくだけだ、そのステージで全部拾えれば次に進む、過去と未来を何度となく往復するのだが、基本は一本道だ、このゲームの場合コマンドが出るわけではないのでプレイヤーの選択は行動選択なのだが、行けるところに全部行き、調べることの出来るものを全部調べれば「何が起きているのかわからない」ままでもエンディングに到達する。これは過去の亡霊、21世紀のコマンド総当たりではないか。

 このゲームとプレイステーション4とVRシステムは実は借り物で、私としては早いとこ終わらせて返さねばという思いがあった。なので細かい探索は抜きでゲームの進行を急いだ感がある。そして終わってみればば多くの謎が解明されていないままであることに気づいた。
 曰く、6人の孤児はどこから来たのだろう、何のために山の中の寄宿学校に集められたのだろう、何故彼らは学校の外に出たことがないのだろう、何故彼らは犬と猫とネズミ以外の動物を見たことがないのだろう、学校の外はどうなっているのだろう(世界は破滅している??)校長先生は生徒をどうするつもりだったのだろう、彼の正体は何だったのだろう、設立当時の写真に写っている女性は校長先生の奥さんだったのだろうか、彼女は何故死んだのだろうか。等々いくつもの疑問の答えを得られないまま私はエンディングに達してしまっていたのだ。

 これはまずかった、さすがに急ぎすぎた、ゲームが提供するヒントや情報をキチンと拾って進めるべきだった、と思って私は2週目を開始した。実のところこれらの謎が解明できていないプレイヤーがエンディングに達してはいけないのではないか、謎解きとゲームの進行はシンクロしているべきではないのかとも思ったのだが、まあ始めた。
 そして可能なかぎり探索し、先に進めるフラグが立ったあとでも「調べるものがあるポイント」は丁寧にチェックした。

 驚くべしそれでも「何が起きているのかわからない」!

 上に挙げた伏線(?)はやはり回収されないままで終わってしまったのだ。

 え~これでも見落としがあったってこと?と、私はそれまで封印していた考察サイトの閲覧に踏み切った。たった2週しかしていない私と違い、何度となくプレイし微に入り細にわたって分析をしたマニアが集うサイトが1つならず存在するのだ、しかしそこですら「あれは××ということかもしれません」とか「やはり○○だったということでしょうか」という言葉が並んでいた、やりこんだマニアですら状況が理解できていないのだ。まあ製作者が背景も全体を貫く論理も説明するつもりがないのだから当然ではある。

 このゲームは暗闇を手探りのまま彷徨うような「奇妙な味」味わうための物であって、理に落ちる達成感を得るためのゲームではないということかもしれないが。
 そりゃあないだろう、というのが私の気持ちだ。そもそもゲームのパッケージに「アドヴェンチャーゲーム」と書いてあるではないか。アドヴェンチャーとは推理し探索する面白さを追求するゲームではないのか、製作者の力足らずしてそれが実現できなかったとしても、目指すのはそこではないのか。ゲーム中に謎を提出すればプレイヤーがその謎を解こうと努力するのは明らかではないか、それがわかっていながら答えを用意するつもりのない作品にアドヴェンチャーゲームと名付けるのはユーザーに対する裏切りではないのか。大丈夫かフロムソフト。

 私はかなりの失望を感じた。しかし世間の評判はそう悪くない(まあ深く静かに失望したユーザーは沈黙するだけだし、マスコミやプロの評論家はソニーにケンカを売らないのでそう見えるだけかもしれない) 
 先に述べた考察サイトでも絶賛している(でなければサイトは開設しない)

 さてそのようなサイトでよく聞くのが「フロム脳」という言葉だ。これはゲーム内にちりばめられたわずかな情報、ヒントからプレイヤーが勝手に想像を膨らませ独自の世界観を作って楽しむ境地、といったような意味だ。
 フロムソフトのゲームは昔からそのような作りになっていた、私がコンピューターゲーム史上ベスト2に推す「キングスフィールド2」(1995年)はフロムが製作したゲームの2作目だが、ただのアクションRPGとしてこれをプレイするとなぜこのゲームの名が「王の領域」なのかわからないままで終わってしまう。
 「アーマード・コア」では負けが込むとプレイヤーは強制的に「強化人間」というものにされてしまう、戦闘用のサイボーグ化手術といったものらしいが(実のところはアクション下手なプレイヤーの救済処置だと思うのだが)ゲーム中に詳しい説明はない。
 どちらもフロム内部では設定資料があると思うのだが、それをほとんど開示しないのだ、背後に何かある感は伝わってくるのでプレイヤー側が想像をたくましくする余地が出てくるわけだ。

 フロムのゲームは基本的にゲームを「舞台は用意した、そこでどう遊ぶかはプレイヤー次第だ」という作り方をする。情報が少ないのは「プレイヤーはその世界にいる一個人であり、個人が知りえる範囲でしか、世界を知ることはできないと」いうスタンスであるからだという考察がある。まあそれも一つの方法論だとは思うが、それで問題ないのは上記2つがアクションゲームであるからだ(アクションゲームの到達点は謎を解くことではなく、戦闘で勝利することだ)しかしそれをアドヴェンチャーゲームにまで適用するのは間違いではないか。

 若干の疑惑もある、フロムソフト自身がこの「フロム脳」を前提にしてゲームを作っているのではないかということだ。
 先の「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」で言えば、剣乃ゆきひろは自分が掘り下げ構築した世界観を出し尽くしている、プレイヤーは世界の謎を解き明かして満足するわけだが、これをして底が浅いという人間が居るかもしれないし、肝心の「事象科学」に誤りがあると言い出す人間が出るかもしれない。
 一方情報を絞ってしまえば作品内論理に誤りがあるかどうかなど検証のしようはない、底を見せなければフロム脳のユーザーが勝手に深読みをして用意した以上に掘り下げてくれるだろう。
 結果として出てきた筈の「フロム脳」を今やそうやって利用しているのではないかと思うのだ。

 エンディングのスタッフロールを見ているとこのゲームにはヘタなハリウッド映画でもここまでだという程の数の人間が参加している。この集団製作体制にあって本筋が「何が起きているのかわからない」では何ごとも進まないだろう。なので、キッチリした設定、背景はあると思われる。底の底までさらけ出せとは言わないが、それらをもう少し前面に出しそういう世界観であるが故に主人公はこうあらねばならない、と行動原理が規定できるよう作ればこのゲームはもう少し、アドヴェンチャーゲームとしてマシになったのではないだろうか。
 これを「いつもの世界観でいけるだろう、むしろファンはそれを喜ぶだろう、謎めいた世界観は話題づくりに一役買ってくれるだろう」という考えで作っていたのだとしたらそれは間違いだ。


 最新VR技術を駆使した精細にして豪華な美術デザインとイマイチなシナリオの目も眩む落差、それがこのデラシネである。
 見るだけでも楽しいデザインワークを体験するだけでもこのゲームをプレイする価値はある(かもしれない)


 と書こうかと思ったが、VRシステムはプレイステーション4を所有した上でなお4万弱の追加予算が必要なのだ、他にどうしてもやってみたいソフトがあるならまだしも、このソフトのために出して見合う金額ではない。
 なので、VRシステムをすでに持っている人に限ってはお勧め(しないこともない)




 PS

 私がなぜデラシネの舞台がスコットランドだと思うのか。
 それは「妖精さん歓迎音楽会」で演奏されるのが「スカボローフェア」であるからだ。これはサイモンとガーファンクル版で有名になったが、元は英国のバラッド(風刺/歴史物語)であり、これはスコットランドのさらに古いバラッド「妖精騎士(The Elfin Knight)」がベースになっている。
 デラシネの寄宿学校には電気がない、当然TV、ラジオもない、そのような時代背景なら、演奏されるのはその地方に伝わる歌ではないか、というわけでデラシネの舞台はスコットランドかもしれないと思ったのだ。

 このスカボローフェアはエンディングでも演奏されるので作品中重要な意味を持っていることは間違いない。というかそもそもこれが妖精の歌なのだ。
 「妖精」は日本では無垢にして良きもののように思われているが、本家英国では悪霊の一種で時に人の命を奪う害あるものである。
 このスカボローフェアでは、死んだ騎士が妖精となって旅人のところへ現れ スカボローの市へ行くのかい? と呼びかける
 妖精に関わると命の危険があるので旅人は パセリ、セージ、ローズマリー タイム とハーブの名を唱える、妖精はハーブが嫌いなのだ。
 以降
糸も針も使わずシャツを縫って欲しいと伝えてくれ、それが出来れば彼女は私の恋人
 枯れた井戸でそれを洗って欲しいと伝えてくれ、それが出来れば彼女は私の恋人
 などと謎めいた言葉を投げかけてくる妖精に

海と波打ち際の間に1エーカーの土地を見つけてくれればあなたは私の恋人
 羊の角でそれを耕してくれればあなたは私の恋人
、とまぜ返して取り合わない、というような歌なのである。

 まあ古い童謡、民謡の常でバージョン違いが多数存在し、元の意味が拡散しているため諸説あるわけだが、少なくもデラシネはこの解釈の上に製作されていると思われる。なぜならデラシネにおいてはプレイヤー妖精(?)以外の妖精は人を見るやものも言わず命を奪うまさしく悪霊だからだ。


ニルスくんも最初はこう言っている、あながち間違っているとも言えない

 街一つが消滅したという話もあるくらい妖精はこの世界の脅威である(らしい)
 校長先生もヒロインのユーリアもそのことを知っている(らしい)
 だから寄宿学校に立てこもってるのだろうに彼ら2人は最初からプレイヤー妖精だけは味方だと知っている(らしい)
 でなければ「妖精さん歓迎音楽会」でスカボローフェアを演奏するわけはない、勧めたのはユーリアだ。
 そしてユーリアはなぜわざわざ「妖精さん」にハーブ探しを頼むのか?、自分の前に現れる妖精はハーブ嫌いでないと何故知っているのか?
 あるいはこのスカボローフェアはフロムの仕込んだ世界観の裏設定であって、生徒らはただの民謡だと思っているのだろうか? 
 本当のことはわからない。
 先に述べたようにプレイヤー側があれこれと解釈してみるというのがフロムの策略なのだろう。
 もしこの大作でフロムが何も考えておらず、自然天然に話のつじつまが合っていないのだとしたらそれはそれでホラーと言えるだろう。





 社会現象にまでなった新海誠の「君の名は。」は、その圧倒的な情景描写の美しさと、SFとして一つの物語としてあまりに穴のありすぎるシナリオの杜撰さが同居する極めて微妙(←?)な作品だった。
 しかしその大ヒットによってオリジナルなアニメ、つまり原作付きでなく、続編でなく、さらに言えば大宮崎の作品でもないアニメが世に出やすい環境が出来たと考えれば充分にエポックメイキングな作品であったと言えるだろう。

 ということでオリジナル・青春・ファンタジーSFアニメ「HELLO WORLD」である。
 キャッチコピーは

『たとえ世界が壊れても、もう一度、君に会いたい』

というわけでこの作品も一種のタイムトラベルものだ。

 さてところで、タイムトラベルものは過去改変ものであると言ってよい。ジャンルの嚆矢であるジュールベルヌの「タイムマシン」が例外的に「未来改変」ものなのだが、いずれにせよ一旦定まった歴史をタイムトラベラーが改変しようと試みる構成に違いはない。それは古典、ロバート・A・ハインライン「夏への扉」からレイ・ブラッドベリの「雷のような音」マーク・トウェインの「アーサー王宮廷のヤンキー」、時代が下がってジャック・フィニイの「ふりだしに戻る」ジェームス・P・ホーガンの「プロテウス・オペレーション」広瀬正の「マイナス・ゼロ」、映画ではロバート・ゼメキスの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がそのものズバリの名作だ、私が最近取り上げたものでは「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」「シュタインズ・ゲート」(ともにゲーム原作、のちにアニメ化)皆そうだ。

 というわけでこの作品も例外なく過去改変ものなのだが.

 京都に住む主人公「堅書直実」は本好きで引っ込み思案で、自分に全く自信の持てない冴えない高校生だ。その彼の元へ突然「10年後の自分」と称する男が現れこう言う「君は3ヶ月後には同級生の「一行瑠璃」と恋仲になる、しかし初デートの当日彼女は雷に打たれて死亡してしまう、自分はこの悲劇を回避するため10年前のこの場所にやってきたのだ」と。
 瑠璃は図書委員でクソ真面目で他人と関わりを持ちたがらない凜とした美人である。直実からみればとうてい手の届かない高嶺の花であり、お近づきになることさえ想像出来ない相手だ。しかし10年後の自分は「経験者の自分の言うとおりにやれば大丈夫」と言う、腰の引けまくる直実だが、ここが自分の時間でなくそれが自分の瑠璃でなくとも死を回避した幸せな彼女を見たいのだという10年後の自分に共感し、彼女とお近づきになるための特訓を開始する。


 ほほー、およそ大抵のタイムトラベルものは過去を改変すべく時を跳ぶタイムトラベラー視点なものだが、これは珍しく改変される側のお話なのかと思った。この視点で思いつくのは「ターミネーター」くらいだがターミネーターはアクション要素が作品のほとんどを占めていて過去改変ネタは添え物にしかなっていない(なので先に述べたタイムトラベルものに含めていない)なので、これはひとひねりしてきたなと思い、次にはタイムトラベルの理屈に注目した。

 どんなタイムトラベルものでも「いかにして時を跳ぶか」についての言及はある。もちろんそれは山本弘的ハードSF、つまり「現代科学で検証しても無理のない理屈」を挙げるものから、ジャック・フィニイのように「跳べると思えば跳べる」的ファンタジーまで様々だが作品内理論として筋が通っている必要がある。なぜならタイムトラベルは野放し(!)のままでは「失敗したら元に戻ってやり直せばいいじゃない」というドラマを無効化する超能力だからだ、なので何が出来て何が出来ないかを明確化する必要がある、そのためにはどうやって時を跳んだかについて触れる必要があるのだ。

 「10年後の自分」がどう説明するか?と思って観ていると驚くべし、主人公の暮らすこの世界は実は現実ではなく、コンピューター内で実行されているシミュレーションだと言う。そういえば映画の冒頭で京都の文化を保存するため京都をすべてコンピューター内に再現する計画があるという話がついでのように語られていたのだった。
 その計画「クロニクル京都」はやがて街の景観、文化財といったハードだけでなく、そこに住む人々までも取り込んだシミュレーションとなり、直実が現実と思い暮らしているこの世界はそのコンピューターシミュレションであり、直実もその中でシミュレートされている人格の一つだというわけだ。

 10年後の自分はこのシミュレーターの責任者であり、心残りである瑠璃の死を回避した世界を見るためにシミュレーションに介入してきたのだと言う。

 おおっとタイムトラベルものと見せて実は仮想現実ものか、コンテンポラリーなアイデアだなと思ったが、そういえばこの伊藤智彦という監督の前作は「劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-」という仮想現実ものだった。
 この「ソードアート・オンライン」(以下SAO)というのは川原礫によるシリーズ累計2200万部(現在28巻)という超大作SFファンタジー小説で、大きく4エピソードに分かれているが基本的にはコンピューターでシミュレートされた仮想世界の中での冒険を描いたものだ。そしてスピンオフであるオーディナル・スケールという映画は娘を亡くしたマッドなサイエンティストが仮想現実内で娘に関わったことのあるプレイヤーから娘に関するデーター(記憶)を引きだし人工知能として復元/再生しようというストーリーだった。

 実のところ私はスピンオフを見ない(読まない)物語の背景、人物設定は変えられず、読者お気に入りのレギュラーは漏れなく出演させたうえでそれぞれに見せ場を作り、現在進行形で進んでいる原作に影響を与えない独立完結したストーリーとくればこれは2重苦3重苦であってまともなドラマになりようがないからだ。
 といいつつ、私はSAOを刊行当時から読み続けている熱心なファンでありこのオーディナル・スケールをつい(!)観にいってしまっていた。そして「やっぱり縛りの多い総花式のお話はダメだな」と結論づけて終わったのだが、ただ1点「愛する人間が死んだことに耐えられず、たとえシミュレーションでも蘇らせたい」という妄執は現代の黄泉平坂として面白いと思った。

 死者への想いを断ち切れず冥界から呼び戻そうとする男はイザナギノミコトの他オルフェウスがいるがこれはおそらく人の根源的な願いであるのだろう。なるほど伊藤智彦はこのネタを縛りの多いスピンオフでなくオリジナルアニメで再挑戦したというわけかと思ったのだった。

 面白いじゃないかと思ったのも束の間、映画は激しい違和感を覚える進行となる。つまり主人公直実くんは「自分が現実と思っているこの世界はシミュレーターの中の仮想現実であり、自分もそのシミュレートされた仮想人格にすぎない」という事実をあっさり受け入れるのだ「君にとってはここが現実でもシミュレートされた世界でも何の違いはない」「なるほど」で終わってしまうのだ。いやいや同じじゃないでしょ、そこは葛藤しようよ。

 古今のSF小説、映画でも自分がクローンであることを知らされて衝撃を受ける登場人物は多い、古典ではトワイライトゾーン(ミステリーゾーン)の「おのれの影」(1959年)最近では「バイオハザードファイナル」(2016年)どちらも自分がクローンだったことを知って激高した男がオリジナルを殺してしまう。
 SAOで現在進行形の「アリシゼーション」編では自分がコンピューター内のシミュレーションであると知らされた仮想人格は例外なく発狂、人格崩壊してしまうというエピソードが語られる。
 自分が誰かのクローンだというのはショックが大きいだろう、更にそのクローニングが生身ではなく、コンピューター内のシミュレーションであるとなれば次元の違う衝撃があるだろう。それは自分を含めた世界の全てが誰かの管理下にあるということであり、電源が切られれば全ては無に帰すということでもある、これを知った人間が衝撃を受けないわけはない、SAOのように人格崩壊してしまうと言われても違和感がないほどだ、観ている観客さえいささか心がざわめくのにごくフツーの高校生がこれをスルーしていい筈はない、大丈夫か伊藤智彦!というのが疑惑の第一点。

 直実くんが攻略本を見るようにして瑠璃との仲を進めていく様はラブコメそのものだ、これを観ながら私のSF脳(!)は更に重大な欠陥に気づいた。
 『これ京都の外はどうなってるんだ?』
 そもそも2027年の京都を住人ごとそっくりシミュレートするってことは、その時点の住人の知識、経験、思想、感情をすべて吸い上げたということで、それだけでもブラックな話なのだが、その世界をリアルと変わりが無いようにシミュレートしつづけるということは、それ以降の外部とのやりとりもシミュレート出来なくてはならないということだ。ブロードキャストされているTV番組やニュース、ネットでつながっている世界、それから切り離された世界などリアルなシミュレーションではない、つまり京都をシミュレートするということは世界をシミュレートするということなのだ、いや、そもそもそのようなデーターではなく誰かが京都の外に出ようと電車に乗ったら何が起こるのか?

 SAOで現在進行形の「アリシゼーション」編は、コンピューター内にひとつの世界を作り、多数の人工知能を持つ住民を配置し、何世代もの長い年月そこで生活させることによっていつか真の知性「魂」を持つ存在が生まれることを期待するというお話だ。
 この世界「アンダーワールド」の住人はもちろんそこがコンピューター内に構築された人工の世界であることを自覚していない。監督伊藤智彦がこれを意識していない筈はないが、このアンダーワールドが成立しているのは、世界創設の初期「中身が人間」である住民が人工知能の子供たちに「世界は『果ての山脈』とよばれる山で囲まれており、その外側は魔物の住む世界で人が立ち入ることが出来ない」と教え込んだからだ。

 しかし私は人を人とならしめている資質の一つに知識欲があると思う、人は放っておけば何故林檎が落ちるのかを考え、山の向こう、海の果て、空の彼方には何があるのかと思い、その根源的な渇望によって外へ出ていくのだ。
 なので何世代を経ても果ての山脈を越える人間が出ないほど、知識欲にロックがかけられているようなら「アンダーワールド人」が真の知性を獲得できるとは思えないと「アリシゼーション」を読みながら私は思っていたのだが、それはともかく。

 当然ながら21世紀の日本に生きていることを自認している京都の住民にそのような認識を与えるのは無理だ、256歩ゆずってそのようなバイアス(世界は京都だけ?)をかけることに成功したとすれば、その住民は現実のそれとはかけ離れた(それこそ人間として欠陥のある)存在になってしまう。

 10年後の自分が過去の自分の恋愛を手助けできるほどシミュレーション京都は完璧に稼働していることになっているが、そんなマネは不可能なのである。
 ・・・というようなことを私はたちまち思い描いてしまったのだが、映画はそこをまったくスルーして進んでいく。

 え~~~(--;)と思いながら観ているとやがて直実くんの周囲に「狐面をかぶった警備員」といった風体の怪人が出没し始める。どうやらシミュレーターの監視プログラムが瑠璃の死という事実(現実世界では確定している事実)を書き換えようとしている事に気づき修整プログラムを作動させたらしいのだ。
 この修整プログラムがシミュレーション世界内では「狐面の警備員」として認識されるということらしいのだが、


う~ん何と言ったらいいのか、この唐突な、自分勝手な、良いアイデア思いついちゃった風な、俺たちセンスいいでしょう的な、つまりは自己満足感ありまくりな映像美術は。

 自分がシミュレーションであること知っても頓着しない、共感しにくい主人公とか、およそ実現可能性のないシミュレーション京都とか、違和感しか覚えない狐面警備員とか、せめてもうすこし観客が飲み込める形にしたらどうかと思う事を放置しながら進む映画に私はいささか苛立ちを覚えた。

 いや、メインストーリーは面白いのですよ、仮想現実による過去改変というアイデアは出色だし、瑠璃ちゃんは可愛いし、ダメ男だった主人公が女の子を好きになることで次第に頼りがいのある男になっていく過程もちゃんと描かれている。ただ、メインストーリーからちょっとはずれたディテールにまるで無頓着なのは何故なのだろうかと思うわけなのだ。


この娘を死なせてなるものか、と観客も共感できる瑠璃ちゃんは素敵

 どんな物語であってもその舞台の果てまで見透かせば矛盾や欠けは存在するだろう、特にSFものは実際にはありえない状況でのお話であることも多く、科学的な破綻や、各種矛盾がメインストーリーのすぐ近くにまで迫っている場合もある。とはいえまともな作者であれば観客の手の届くところにある破綻については対処しておくものだ。ところがこの「HELLO WORLD」は、メインストーリー以外にまるで注意が払われていない。自分たちが言いたいこと、語りたいものから少しでも外れたものにはまるで興味がないかのようだ。
 そのため進行中のドラマだけは成立しているが、その前後あるいは画面のちょっと外(?)には作品世界を壊しかねない矛盾、破綻に満ちているのだ、これほど視野の狭い映画はめったにない。

 甘酸っぱい青春ファンタジーSFかと思われたこの映画はやがて急転直下して大スペクタクル映画となり、さらに2転3転とするのだが、どの局面にあってもメインストーリー以外は放置という姿勢で描かれていて私は相当のストレスを感じた。

 結論として言えば観客を甘く見過ぎということだろう、つまり制作者たちは観客の視点、興味を完璧に誘導することが出来ていて、その他の視点を考慮する必要がないと思っているのだろう。

もちろん当然間違っている

 公式が発表したり予告編で観られる範囲だけで語ろうとするとこのあたりまでしか言えないのだが、この映画はその先駆であった「君の名は。」と同じく、見るべき部分と目も当てられない多数の穴が共存する極めて微妙(!)な映画だと言えるだろう。

 見るべき部分が情景描写であった「君の名は。」と違うので必ずしも劇場に足を運び大画面で見るべしとは言えない。まあ暇があったらレンタルで観るくらいの価値はあるだろう。

ps


 観たあと調べたのだがこの監督の経歴に「サマーウォーズ(助監督)」とあるのを見てソレダ!と思った。
 この観客置き去りな雰囲気、各局面は成立しているがその前後や周辺の矛盾にまったく無関心なストーリー展開はどこかで観たことがあると思っていたのだが細田守の「サマーウォーズ」だった。

 サマーウォーズについては以前に触れたので2、3挙げるだけにとどめるが、たとえば映画の冒頭、数学が得意な以外まったく冴えたところのない高校生小磯健二くんは、学校イチの美人であこがれの先輩、篠原夏希にバイトとして雇われ長野の本家に同行する。
 本家では夏希の曾祖母、陣内栄の誕生日が行われるのだが、夏希が「おばあちゃんが生きているうちに婚約者を紹介する」言ってしまったためニセ彼氏として健二を雇ったのだ。
 「ニセ彼氏」というのは各種メディアで512回くらいは見たことのある定番のラブコメネタであり今更持ち出すならそれなりの工夫が必要と思うのだが、細田守はまったく無頓着だ、それどころか夏希は健二を「ニセ彼氏として雇った」という話をしないまま栄の前に連れ出すのだがそれはおかしい
 おばあちゃんから突然結婚について問われ、へどもどする健二という絵づらは面白いが、その一局面の面白さのためにお話の整合性を放棄しているのだ。

 後に明かされるのだが、この栄ばあちゃんは長く続く名家のご当主で、昔はかなり鳴らした女傑らしい、それがどれほどのものかというと今でも日本の政財界の重鎮をアゴで使うほどの人物なのだという。ならばそもそもヘタレな男子高校生が騙せるような相手ではない。夏希はこのばあちゃんに心酔していると言う設定なのだからこのニセ彼氏作戦が成功すると思うのもおかしい。

 整合性が取れていない部分は他にもある(というか無数にある)がその一つ。
 世界の情報インフラを一手に引き受けている基幹システム「OZ」がハッキングされ世の中大パニックというのがこの映画のメインストーリーなのだが、信号のコントロールも奪われ道路は大渋滞という描写がある。夏希のお母さんに「道路が渋滞していて今日中には着けないわ」とまで言わせているのだが、この事態を収拾するにはスパコンと電源が必要という話になると漁師のおじさんが長野から新潟の漁港まで行って、たちまちイカ吊り漁船の発電機を持ってくるのだ、「スパコンとイカ吊り漁船」も絵づらとしては面白いがストーリーとディテールが噛み合っていない。


大渋滞
夏希「この先60キロ渋滞してる!」

万助おじさん「新潟からぶっとばして2時間だ」



 つまりメインストーリーから少しでも出外れたもの、画面の外にある要素にまるで無頓着なのだ。

 キャラクターについても触れる、物語の終盤、電脳空間(!)内で陣内家とハッカーの対決というシチュエーションがある、面倒なので昔書いた文章を使用すると

 ハッキングプログラムをオズ内部に作った「お城」に閉じ込める、というシーンがある。
 これはハッキングプログラムの実行環境を外部と隔絶したメモリ空間に押し込め、通信を絶つというアナロジーとして了解可能だが、その閉じ込めたお城に消防隊員のおじさん(のアバター)が駆けつけてきて「水を流し込む」というのはどうか?

 何の説明もないんだけどその水は何なのよ?というか、そもそも消防隊員がハッカー同士の戦いに一丁噛んでくるって無理がないか?
 ヴァーチャルワールドでも消防士の格好をしているおじさんが消防ホースを持って駆けつけてくる、という絵づらの面白さの為に論理的な整合性を無視してしまったとしか思えない。

 ということだ。狐面の警備員を見たとき感じたデジャヴュ、面白い絵考えちゃった、俺たちセンスあるでしょ、で終わって説明皆無な感じ、観客置いてけぼりは感じがそっくりなのだ。

 ひょっとして伊藤智彦氏はこの「サマーウォーズ」で細野守の演出手法を学んでしまったのだろうか。

 映画は観客に観られて始めて完成する、と言った人がいる。映画に限らずどんな作品でも物語を語りだせばそこに新たな世界が出来る、観客は受け取ったそれを膨らませ、語り手が語った以上の世界を膨らませていくのだ、つまり映画はフィルムの幅しかない一方通行の道ではない、どうもこの人達はそこのところに理解が足りないのではないだろうか?