2020

   



 公開後の各種レビューもイマイチなら興収もぱっとしないらしい。というか、なにより私自身が最初からこの映画に希望を抱いていなかった。

 最終3部作の1作目「フォースの覚醒」は
「帝国にとっても反乱軍にとっても重要な情報を握るロボットが帝国軍の手からからくも脱出。そのロボットは砂漠に住む(強いフォースの持ち主だがその力を自覚していない)若者の元に逃げ込む。
 戦闘に巻き込まれた若者は先輩の助力を得て「ミレニアムファルコン」で脱出、反乱軍の元へたどり着く。
 若者のメンター(助言者、指導者)となるべき人物は後進の指導に失敗して引きこもっている。
 反乱軍の基地のある惑星は帝国の惑星破壊兵器によって風前の灯火となる。若者と反乱軍は破壊兵器の破壊に向かう(先輩は若者の目の前で敵の指導者に殺される)
 トレンチをくぐり抜けXウイングファイターはついに敵に致命的なダメージを与え、宇宙を揺るがす大爆発、メデタシメデタシ
」(SCRIPT SHEET 2016より)
 という第一作の(唖然とするほどの)焼き直しだったし、続く「最後のジェダイ」は
「レジスタンスのパイロット、ポー・ダメロン(イケイケ)とトルーパー崩れのフィン(巻き込まれ型)は今までのシリーズでは見かけなかったデコボココンビでうまく使えば面白い要素になったと思うのだが、今回この2人は本筋とあまり関係のない「暗号解読者捜索エピソード」に放り込まれ、事実上出番はそこしかない。ところがこのエピソードは「何の意味もありませんでした」で終わってしまうのだ。
 向こうっ気の強い若者が頭の固い指導者の言うことを聞かず暴走して、ピンチになって協力者を得て、大冒険して、ついにゴールにたどり着いた結果「その甲斐はありませんでした」ってドラマツルギーとしておかしくないか?
SCRIPT SHEET 2018 より)

 というわけで最初から少なかった最終3部作への期待値はだだ下がりしていたのだ、とはいえまあ、天下のスターウォーズの完結編、観に行かないという選択肢はなくその終焉を見届けようか、というくらいのつもりで劇場に足を運んだ。


 そもそもが内容的に地続きの話を42年越しで作るというのは無茶なのだ、見始める時期が違い思い入れの場所もそれぞれに違う、しかし熱狂的な無数のファンを満足させられる映画など作れる筈もなく、結果これは各世代各層から不満を抱かれることが約束されている不幸な映画だったのだ。

 しかし! そのような諦観を胸に観にいったせいか驚くべきことにこの映画は面白かった、いや面白かったと言い切ってしまうと言い過ぎ感があるのだが、前作、前々作のようにオイオイと思う部分はなく(少なく)破綻している部分は(あまり)無く、1本の映画として成立していたと思う。
 映画として成立しているだけで評価されるのか?と思う向きもあるかもしれないが、この映画は考慮しなければならない無数のお約束ごとや期待、因縁でがんじがらめであり、その無数の特異点に引き裂かれて空中分解しなかっただけでも評価されるべきだと思う。
 そして部分的には見るべきカットもあった、冒頭の連続ワープとか、惑星エンドアのデススター残骸上での戦い(波の表現が素晴らしい)とか。
 わたし的にはラストシーンでXウイングファイターとTIEファイターが並んで着陸しているカットでぐっと来た。

 というわけで製作者たちはこのシリーズをなんとか着地させ得ていた。大成功することが不可能であることが約束されていた映画でこれは奇跡的な大成功(!)なのだと思う。
 

 




 映画館にはわくわくしながら行きたいものだ「これはきっとダメだろうな~」と思いながら観にいく映画などあってはならないのだが、スターウォーズに続き「この門をくぐるもの全ての希望を捨てよ」の2連続である。

 そもそも6作目である、以前私は「ジュラシック・ワールド 炎の王国」で「5作目となれば負け戦だ」と述べたがそれが6作目である、賞味期限切れどころではない。

 スターウォーズのように希望を捨てて観たがゆえに思ったほど悪くないじゃないか、いやけっこう面白いかもと錯覚を抱いてしまう(!)作品がたまにはあって、そこが唯一の望みだったわけだが残念ながら深く静かにつまらない映画だった。

 とにかくシュワちゃんが劣化している、それはただ単に年を取ったということではない、たとえばクリント・イーストウッドも老境だが立ち居振る舞いからにじみ出るものがあり今でも映画1本を張れるだけの凄みがある、しかしシュワちゃんはただただ弛んでいるだけだ、映画のスターという立ち姿ではない。

 サラ・コナーも白髪の魔女のようで(それはそれで凄みがあるが)映画を支える輝きはない。若手の2人、第1作でいうところのターミネーターとリース役の2人は頑張っているが、映画の焦点がレジェンド(^^;)2人に合っているため見せ場が無い感じだ。そもそもこの映画の最大の弱点は何を見せたいのかが曖昧なところだろう、本来ジェットコースター感覚の一大アクション映画である筈のものが主役の2名が「動けない」ため、アクション担当の若手と話を動かす老人に分離して映画の印象が散漫になっているのだ。

 要するに、もはや作られるべきではなかった映画ということだろう。

 





 第一次世界大戦後期、フランスに侵攻したドイツと守るイギリス・フランス連合軍はベルギーからフランス南部にかけ数百キロに渡って対峙していた。

 航空戦力が期待できないこの時代、有刺鉄線と機関銃座に守られた塹壕は守り易く攻め難いきわめて強固な陣地だった、その結果塹壕に籠もって守りを固める戦法が主体となり当時の戦争は「塹壕戦」と呼ばれていた。
 双方共に塹壕を迂回して背後に回り込もうと試みるため。互いに左右に塹壕を掘り進め、ついにはイギリス海峡からスイス国境に到る数百キロに渡って塹壕が作られたのである。これが西部戦線、あの「西部戦線異状なし」の舞台であり今回の1917の舞台である。



西部戦線異状なし(ユニヴァーサル映画 1930)


 さて当時ドイツ軍は敵にわざと前線を突破させ自陣に引き込んで包囲殲滅する戦法「防御ドクトリン」を得意としていた。この「防御ドクトリン」の拡大版と言えるのが1917年に立案された「アルベリッヒ作戦」である、これは地形的に有利な地域「ヒンデンブルク線」に新たな陣地を築き、前線を放棄してイギリス軍を誘い込むという作戦だった。

 対峙しているイギリス、デヴォンシャー連隊はこの後退をドイツの疲弊による撤退と捉え勝機とみて追撃戦を行おうとしていた。飛行機による偵察でこの罠に気づいた司令部は攻撃の中止命令を出そうとしたが電話線は全て切断されていた、指令が届かなければ翌朝総攻撃が敢行され1600人の将兵は全滅する。

 そこで司令部は2名の兵隊に対し中止命令を届けるという任務を与えた。彼らは敵の支配地域を突破し翌朝までに最前線に命令書を届けなければならない! というのが今作のストーリーである。

 劇中では「アルベリッヒ作戦」や「ヒンデンブルク線」という言葉はなく、そもそも2名の兵隊が伝令に出たという記録は史実になく、これはアルベリッヒ作戦から構想を得たフィクションというべきものだろう。

 最前線で孤立している部隊から1人の二等兵を故郷に帰還させるため1小隊が派遣されるというプライベートライアンに通じたひと味違う戦争映画である。

 であるのだが、まあこの映画のウリはそこではない、さんざん宣伝されているので知らない人もいないだろうが、この作品の最大のウリはこの映画が1シーン1カットであることだ。

 1シーン1カットとは何であるか?それは映画の始まりから終わりまでカットの切り替えがない一続きの映像であるということだ、また観る側と劇中の時間がシンクロしている映画だということでもある。

 映画が基本的には役者の芝居を見せるものでありながら演劇と決定的に違うのはカット割りと編集にある。カットを分けることで映画は観る者の視点を自由に誘導できる、大ロングで状況を説明しクローズアップで見せたいものを強調する、客観<神の視点>から主観<登場人物の視界>の切り替えも自在だ。「一方その頃」と舞台を一気に地球の裏側に持っていくことも可能だ。
 そして時間も自由にコントロールできる、デイ・シーンの後に夕景を一発挟めば一気に時間がジャンプする、「そして10年後」などという大技も可能だ。ハイスピード撮影<スローモーション>によって、刹那(1刹那は0.013秒らしい^^;)の出来事を知覚可能にすることさえ出来る。

 これらは演劇には絶対なし得ないことだ、つまりカット割りは映画の最大の特徴であり武器なのだ、カット割りをしないということはその武器を放棄するに等しい。
 武器を放棄して臨む戦争は負け戦だと思うのだが何のためにそんなマネをするのか。

 考えられる1つ目は臨場感だろう。カットやシーンの切り替えで気分がリセットされることがないため観客は登場人物や作品世界に感情移入しやすくなる。実際、視点が一気に変化したり、時間がジャンプしたりすればそこで観客の意識はリセットされる、そうやって監督は観る者をハラハラさせたり、ほっとさせたりするのだが、サスペンス映画ではむしろ不要と思う監督がいてもおかしくはない。

 ちなみに1シーン1カット映画の嚆矢はヒッチコックの「ロープ」(1948)である。
高学歴で選民意識のある青年2人が友人をロープで絞め殺す。動機に特段の意味はなく、自分たちは人を殺しても動揺することなく、その後の状況もコントロールできる優秀な人間であると自身に証明するための殺人だった。彼らは被害者の恋人や両親を呼び死体を納めた箱をテーブルにしてパーティを開くという映画だ。
 確かにリアルタイムで進行するこの映画の緊張感は並ではない。そこがヒッチコックの狙いだったとは思うのだが、リアルタイムに加えて1カットである必要があったかどうかは疑問だ。

 そしてそもそもここが最大の問題なのだが、映画は1カットで撮影することが原理的に不可能なのだ、というのもムービーフィルムの長さは最大1000フィートしかなく、映画は1フィートに16コマ記録するため、1秒24コマで撮影すると666秒、フィルムをセットする際前後にムダが出るため実際の撮影可能時間は10分強しかない。
 つまりムービーはどうあっても10分に1回はロールチェンジがあってカメラを止めるしかないのだ。ロープでは登場人物の背中のアップで画面を覆い、背中つながりでカットの存在を隠すといった方法で1カットに見せかけている。

 結果としてこの映画は数分に1回妙なカメラワークが挟まる奇妙な作品となってしまった。ヒッチコックは後年『わたしは1本の映画をまるまる1カットで撮ってしまうという、じつにばかげたことを思いついた。いまふりかえって考えてみると、ますます、無意味な狂ったアイデアだったという気がしてくる』(「ヒッチコック映画術」より)と述べている。

 そんなことは撮る前からわかっていたことだろう、と思うのだが、この「ヒッチコック映画術」の中でフランソワ・トリュフォーもこう述べている「1本の映画の構成要素をワン・ショットでつなげて撮ってみたいという夢想を抱かなかった監督はいないと思います」、つまりは技術的な挑戦として「やってみたかった」ということなのだろう。



550円で買えるDVD(画質的にブルーレイである必要はない)

 考えられる動機にはもうひとつある、それは長回しによる緊張感によって役者から演技以上の何かを引き出そうとする演出方法だ。通常の、つまり長さ数秒長くても1分以内というカットでさえNGが出れば役者は緊張する、ミスが何度か続くとミスをした役者のみならず現場全体が緊張しそれが元で出来ていたはずのことさえ出来なくなって「ちょっと休息いれま~す」になることもマレではない。
 ロールチェンジがネックになる1シーン1カット映画となれば1ショットを出来るだけ長く撮ろうと試みるのは間違いない。しかし長回しのカットの終盤「ここまできてミスるわけにはいかない」というプレッシャーは過大なものだろう。そのように役者を追い詰め演技を越えた何か、役者の素、人間性からにじみ出る何かを捉えようとする監督もまた一定数存在するのだ。

 (長回しではないが「シャイニング」においてスタンリー・キューブリックはジャック・トランスの妻ウェンディが夫をバットで殴るカットで127テイク回したという。尋常な話ではなくどう考えても過大なプレッシャーをかけ、シェリー・デュヴァルの素の怒りを引きだそうとしたとしか思えない、これも似た演出方法と言えるだろう)

 日本で長回しといえば相米慎二が有名でたとえば「ションベンライダー」の冒頭は8分の長回しである。中学校の塀の外からシーンが始まり、カメラがクレーンアップして塀の上に到るや画面がぐらぐら揺れる(カメラをマウントから外しているらしい)そのまま不安定に横移動(カメラを手持ちで移動している)どうやら空中で隣りのクレーンにカメラを移したらしい、とみるや塀の内側のプールにクレーンダウンし、カメラはプールの上を移動していくシーンなど、長回しのための長回しとしか思えない。
 しかしラストで中学生の主人公たちが踊り狂うシーン、演技ではなく極限状態からくるトランスとしか思えないそれを観るとこの映画の長回しはほとんど初出演だった子役達から(稚拙な)演技を剥ぎ取り、彼ら自身の内部から何かをすくい取る手法だったのだろうと思われる。

 1シーン1カットという通常ではありえない映画を作ろうと試みる監督は、長回し大好き監督と同じく一種の極限状態での演技を越えた化学反応を期待しているのではないかとも思惟されるわけだ。


 というわけで、ならばの1917はどんな映画なのか?いったいに何をを狙って「狂ったアイデア」とまで言われた1シーン1カット映画を製作したのだろうか?ヒッチコックから半世紀、撮影技法はどう変わったのだろうか?

 これは知りたい、一映画ファンとして一映画人としてこれは知りたい。という通常とは違う動機で私は劇場に足を運んだ。



 まあ、普通に面白い映画だった。



 とはいえ、この面白さはやはり1シーン1カットの技法あってのものだったという気もする。観客の体内時間とシンクロして進んでいくドラマ、カット割りやシーンチェンジによってリセットされない緊張感、そこからくる劇中空間への没入感、それらの相乗効果で見終わったあとに充足感を感じるので良い映画だったという印象を抱くのだが、よ~~く考えるとたいした話ではないな(!)と思えてくるのだ。

 そもそも、戦争の帰趨に影響する程の大損害が想定される事態に兵隊たった2名を派遣して終りはないんじゃないの?と見ている最中にさえ思った。また飛行機による偵察で敵の罠が判明した、というそばから前線と連絡する手段が無いとくるのだが、その飛行機は連絡に使えないの?とも思った、着陸できなけりゃ通信筒をおとせばいいじゃない?



メッセンジャー犬ってのもいたわけだし

 たった2名の決死隊にすべての希望がかけられた!という設定はドラマチックではあるものの、それを成立させるための設定がちゃんと作り込まれていないのだ、話の根幹がしっかりしていない映画はやはり弱い。

 メイキングを見ると監督、カメラマン、プロデューサー、デザイナーが全て、準備が大変だった、準備が全てだ、準備に通常の映画の何倍もの時間がかかったと述べている、たしかに余った時間を切り捨てられないのだから、役者が移動しながらセリフを言う場合セットの長さはセリフの長さぴったりに作っておかなくてはならない。
 
 映画の冒頭、戦線の後方で休んでいる2人が呼び出されて塹壕に入り、塹壕の中を長々と歩いて司令室に入り、指令室で命令を受け、外に出てからふたたび塹壕を歩いて前線に到るという一連の映像がある。通常なら必要な芝居を撮ったらカットして、次は塹壕、必要なカットを押さえたら、次は司令室前から、と絵を「つまめる」、ところがこの映画の場合シチュエーションの始めと終わりが全てシームレスにつながっているので、演技と舞台の物理的空間/距離は完全に一致している必要がある、これはたしかに大変な準備が必要だろうと思う。この映画はそこに関しては間然するところがなく、素晴らしい映像となっていると思うのだが、その労苦の何分の一かをもう少し設定やシナリオに割くべきだったろう、思うにこの映画を1シーン1カット映像で撮りきるという困難に関係者が気を取られすぎて足元がおろそかになってしまったのではないだろうか。

 アカデミー賞で視覚効果賞、美術賞を取りながら、作品賞も監督賞も取れなかったと聞いてまあそうだよねと私は思ったのであった。

 一方撮影技法は凄いの一言に尽きる。この作品はビデオ収録なのでロールチェンジによる10分の壁は存在しない、とはいえ「ロープ」のように1部屋の中の出来事ではなく、舞台がどんどん移っていく以上カットが分かれていることは明らかだ、しかしそれが見えない。まあファーストカットの終端、露天である塹壕から屋根のある掩体壕に入る際にあからさまに画面が暗転するなどバレバレである箇所も散見されるのだが、多くはどこでつないでいるかわからない。

 メイキングで主役のジョージ・マッケイが「カットなしで6分も撮影を続けていると、完全に我を忘れ役になりきる」とわざわざ数字を挙げているので、最大でも数分でカットの切り替えが行われているのだと思う。しかしわからない。

 カット隠しだけではない。たとえば荒野を主人公達が進んでいく、カメラは2人の後を追って移動していく、あ~手持ちカメラかな不整地だしと思っていると、やがて行き先に砲撃の跡らしいクレーターが現れる、底は水が貯まって池になっている、2人は池を迂回するためコースをそれる、しかしカメラはパンして2人を画面に捉えつつまっすぐ前進し池の上を滑るように進んでいくのだ、えっなんで、どうやってるの??と思う。頭の上にクエスチョンマークを付けている私を置きざりにカメラは移動し、クレーターを越えて進み再び2人に密着する。などという映像が連続するのだ、ビックリである。

 もうひとつ挙げる、主人公は途中で友軍の幌付きトラックに同乗する、荷台の両側にベンチがあり兵隊さん達が座っている、彼もベンチに座る、続けて荷台に乗ったカメラは奥で反転し兵隊さんたちの後ろに回り込む(!)え~?みんな幌に背中くっつけて座ってるよね?幌と背中の間にカメラとカメラマン入れないよね?などというシークエンスもある、ここまでくるともはや視覚効果とか演出とかではない遊び心、「やってみたかった」のだろうとしか思えない。

 また、改めていうまでもない事だが、トラックに乗る場所はスタートから切れ目ない映像と共に主人公たちが到達した地点である、トラックが発進し荷台の中では芝居が進み、やがて乗せてやれるのはここまでだ、と降ろされた場所から次のシークエンスが切れ目なく始まるのだ、これにどれだけの準備と計算が必要であったか思うと気が遠くなる。

 などなど映像は驚くべきものであって目からウロコが何枚も落ちるほどだ、これを見るためだけにでも劇場に足を運ぶ価値のある映画だと言えるだろう。

 強くお勧めする。


ps

 以下は映画本編とは関係ないことだが、言っておきたい。

 予告編には「全編1カット」と大きく出る。




 これについては「本当だったら申し訳ないがそれはどう転んでも不可能だろう、誇大広告じゃないの」と観る前から思っていた。

 鑑賞後、やっぱり1カットじゃないじゃん、と思いながら公式サイトを見ると「全編を通して1カットに見える映像」と表記されていて、配給会社をあげて観客を騙すつもりでもなかったようだ、とはいえこの予告編の煽り文句はまずいのではないか。

 そして、ここが問題なのだがこの映画はそもそも「全編を通して1カットに見える映像」ですらない。誰が観ても別に映像の専門家でなくても「カット割り」としか見えない箇所が1ヶ所存在していて「全編を通して2カットに見える映像」なのだ。このカット割りをごまかす手立てはいくらでも思いつくのだが、製作者達はあっさりきっぱりカットを割っている、ということは製作者側としては、1カット風映像はあくまで臨場感を強調するために採用した技法であって目的ではなかったということだ。(1カット自体を目的とし、あるいは映画のウリにしたいと思っていたなら、ここはどうあっても1カット風に編集したろう)
 
 つまり製作者達がそこまでこだわっていたわけでない1カット風映像を、1カットだとウソまでついて宣伝材料とするのは間違っているのではないか。「全編1カット」と聞いて(予告編だけ見て)観に行く観客(私だわたし)に、なんだよカットあるじゃん、と思わせるのも悪手ではないかと思うのだ。


 余談

 ヒッチコックのロープを今回改めて見直したのだが、途中2ヶ所歴然と映像がジャンプしていた「すわ1シーン3カット映像だったか!」と思ったが、もちろんそんなわけはない(だったらなんのための苦しいカット隠しなのか)これは原版の保存状態が悪くてフィルムが切れていたのだと思う。

 この作品の舞台はニューヨークのマンハッタン、高層アパートの一室で窓外には摩天楼(の書き割り)が見える。事は午後7時半から始まり9時15分に終わる。窓外も室内の照明も夏の午後の日差しが残る状態から始まって、やがて夕景となり、完全な夜に到るまで変化していく。これはロールチェンジのたびに少しづつ変化させていったらしい、空には糸で吊った雲が浮かんでいるが、これもそのたびに少しづつ動かしていったという(端まで行って画面から切れた雲は次のロールでまた反対側から現れるらしい)

 映画の細部に観る側が気づかないほどの細工をほどこし、しかし気づかないままにも観客の心に残るだろうなにかを伝えて映画に奥行きを与えようと試みるのは映画製作者の心意気である。ロープのような、1917のような撮影技法が映画の表現に直結しているテクニカルな映画ではその傾向は顕著になる、それが半世紀以上隔たった今でも、フィルムがビデオになっても少しも変わっていないと思えたことは私としては望外の収穫だったと言えるだろう。


 




 カミュの「ペスト」が読み直され品薄になっているという。
 私は書庫から小松左京の「復活の日」を掘り起こした、聞けばやはりこの本も売れているらしい。
 災厄が降りかかってきた時過去を振り返るのはどういう心理なのだろうか。





「人々がうろたえはじめた時、災厄は、すでにアクセルをいっぱいふんで、
恐怖の傾斜を、前のめりにつっこみはじめた。」

記憶に残るこの一節を今回あらためてチェックしたのだが一言の間違いもなく覚えていた、
中学時代の記憶力ってすごい。

 ということで「CONTAGION」である、9年前の映画であるにもかかわらず、まるで今のコロナ禍を予言したかのような内容で評価が高まっていると聞き観てみることにした。
 古い映画なので当然レンタルである、定期利用しているWEBレンタルで借りようとしたところ、噂通り人気作となっておりしばらく待たされた(アマゾンプライムでも観れるのだがプライムビデオの画質は最低なのでブルーレイで観たかっのだ)

 観て驚いた。この数ヶ月ですっかりウイルス感染症の権威となってしまった我々(!)の目から見てほぼ違和感がない。病理の面だけではない、未知の感染症に対する対抗策は患者に接触した人間を遡り、感染ルートを特定し、感染者を隔離するしかない、といった疫学調査がきっちりと描かれるし、感染者が出た学校が閉鎖される様子や、感染を恐れた市民が他人との接触を異常に恐れる様、都市がロックダウンされる様子も描かれる。
 集団感染(クラスターという言葉も使われている)が起こり病床が足りなくなって体育館を臨時の病棟に使用するというシーンもある。医療関係者が「武器もなく」感染者と向き合い、結果自身も感染してしまうというシーンもある。

 まるで今起きていることをそのまま映画化したような映画と言えるだろう。
 よく映画の宣伝で「未来を予言したかのような」といった文言を見かけるのだが、多くの場合充分な知見さえあれば予測可能な事柄以上のものではない。ところがこの映画はメインストーリーからディテールまで今回の災厄のドキュメンタリーであるかのような内容なのだ。

 ところでしかし、2020年の我々が観るとこれは迫真のサスペンス映画なのだが、9年前にこれはどう受け取られたのだろう、というか半年前の我々だったらこれをどう見たろうか? 重苦しいだけで爽快感がなく盛り上がりに欠ける映画と受け取った可能性は高いのではないか。

 私は感染映画(というジャンルがあるかどうかはともかく)をよく観る、有名どころでは「アウトブレイク」「アンドロメダ・・・」と言ったところだろうか、日本では「震える舌」、そのものズバリで「感染」という映画もある、しかしどれも映画的なスペクタクルにあふれたエンターテインメントだ。

 「アウトブレイク」はエボラ出血熱を描いた映画だが、はっきり言ってエボラはどうでもよく(!)血清を作ってアウトブレイクを防ごうとする主人公と細菌兵器の存在を隠蔽するため主人公と感染した住民をまとめて抹殺しようとする軍部のアクション映画だ。
 「アンドロメダ・・・」は宇宙探査機が持ち帰った細菌が赤ん坊とよっぱらいの爺さん2人を残して町ひとつを壊滅させてしまうところから始まる。映画は細菌の正体とこの2人が生き残った理由を解明しようとする科学者達を淡々と描いたもので硬質な印象のある知的な映画だ。しかし!研究所の隔離が無効になったと判断したコンピューターが核による自爆装置を起動させたあたりからいきなりアクション映画になる。
 人間味を感じさせないカウントダウンと焦る人間、その後多くの映画で使われたシチュエーションの原型だが(ノストロモ号を自爆させようとするマザーとリプリーとか)ここに来てアクションかよ!と高校生の私(←ウルサ型のSFマニアである)は罵った(ような気がする)まあ、マイケル・クライトンの原作がそうなのだが。

 「震える舌」は破傷風の映画である、原作小説は作者の娘に起こった事を元に書かれたもので映画自体もドキュメンタリータッチなのだが描写がほとんどホラーだ。
 破傷風の患者は音や光で刺激を受けると痙攣発作を起こしてしまうのだが、これが悪魔に憑かれたリーガンもかくやというすさまじさなのである。まあキャッチコピーが「新しい恐怖映画」であり、ポスターには「彼女はその朝、悪魔と旅に出た」と書いてあるので制作会社はこれをホラー映画として作ったのだろう。
 
 「感染」はただのスプラッター映画だ。




原作は「アンドロメダ病原体」である

 なにが言いたいのかというと、映画はエンターテインメントであり感染映画(!!)といえどその軛からは逃れられなかったということだ。

 そうした視点から見るとこの映画は特異である。感染が広がっていく様を現実に即して描写するだけでヒーローもヒロインもおらず、劇的なクライマックスもない。ハリウッド映画お得意の家族の愛と再生の物語もない。
 今の我々が見ると発熱している人物がドアノブを握ったり、クレジットカードを手にしたりするとゾクゾクするし、具合の悪そうな人物がエレベーターで咳をするシーンなどホラーなのだが以前は(多分)そうではなかった筈なのだ。むしろ握手したりハグしたりするだけ汚染がどんどん広がり、充分に対策しているはずのCDC調査官まで感染し、死体が積み上がる様をみて「またまた~、盛り過ぎでしょ」と思った可能性は高い。

 とはいえ、実のところ大きなパラダイムシフトが起こった後、以前に何をどう感じていたか思い出すのは難しい。

 たとえば日本人は3.11の後、地震・津波・原発・放射能についての認識が変わった。
以前は。
地震= 雷、火事、親父(怖いけど一過性)
原発= 危険はあるだろうけど日本の科学力があればそう決定的なことは起こらない。
津波= 映画の最後を〆るスペクタクル。ディープインパクトのビルを飲み込む津波ハデだったよね、コナンの津波シーンもよかったよね。
 というものだった(筈だ)しかし全てが変わってしまった。
 私も特撮映画で何度となく津波の効果を起こす「水落とし」を行った、しかしもはや津波をエンターテインメントとして見ることは出来ない、今後日本映画で津波を娯楽として扱うこともないだろう。

 なのでこの映画を2011年に観たらどう思ったか正しく想像するのは無理だし、意味のないことだ。しかしやはりどうしても、これは今観ているからこそ面白く思えるのではないか、映画の出来とは無関係な部分に自分は反応しているのではないかと思えてしまうのだ。
 もしこの映画が2020年に急遽作られた映画であったとすれば私は安易な企画だ、時代と踊ってるだけだと酷評したかもしれない。

 2011年に観たら重苦しいだけの盛り上がりに欠ける映画。
 2020年に観たら一流のサスペンス映画
 2020年に作られていたら安易な映画

 いつ作られたかで価値が変わる映画ってのはアリなのか、いつの知見で観たかで面白さが変わる(という疑いが拭えない)映画はアリなのか。
 私は良い映画というものには普遍的な何か、時代背景に関わりなく人の心を打つ何かが存在するはずと考える、ならばこの映画はどう評価すべきなのだろうか。
 しばらく考えたが結論が出そうにない、なので緊急事態宣言が解除されたのを機に、まとまらないままにこの章を書いてみることにした。

 一応「一見の価値のある映画である、強くお勧めする」とは書いておこう、観て損のない映画であることは間違いないからだ。



ps

 三ヶ月前-いや二ヶ月前、この時間にあふれるばかりだった乗客の数が、妙にまばらになって来ている
 (中略)
 車内をちょっと見わたせば、花びらのように白いマスクが点々と見え、
人々はあらためて、このガサガサにすいたラッシュの上り電車の中で、
隙間風の吹くようなうそ寒い感じにおそわれるのだった。

『復活の日』より第三章の3「日本」
 

 




 2013年7月21日、山口県周南市の人里離れた集落で2軒の家が放火され、村人5人が殺されるという事件が起こった。犯人、保見光成は山狩りによって発見、逮捕されたが「集落から悪い噂を立てられ、嫌がらせを受けていた」と供述したことによりこの事件は『平成の津山30人殺し』などと呼ばれるようになった。

 『津山30人殺し』は1938年岡山県津山市で起こった事件で、結核にかかっていたことで徴兵されなかった男が村人から馬鹿にされかつ疎まれて、ついに暴発して30人を惨殺したという犯罪史上まれにみる大事件である。
 横溝正史がこれを元に「八つ墓村」の32人殺しを書いたこと、それを映画化した際の山崎努の演技が鬼気迫るものであったことなどでこの事件は広く知られていた。


松竹映画『八つ墓村』 「祟りじゃ~~」で有名

 マスコミが2つの事件の類似点を取り上げ、面白おかしく取り上げたのも当然と言えるだろう、当時は『現代の八つ墓村』などという扇情的なタイトルを付けた記事も散見した。
 周南市の事件では犯人が自宅に『つけびして煙喜ぶ田舎者』という奇妙な張り紙を出していたというビジュアルも話題作りに一役かっていたといえる。



撮影日が2月前のストリートビュー

 この五七五の歌は暗喩なのか、犯行予告だったのか、あるいは何者かに向けた告発だったのか(以前この村で放火事件が何件かあったという)

 というわけで一時は世間の注目を集めた事件だったのだが、やはりというか何というか、ことが裁判に移行して新たな事実が出てこなくなると飽きられ、忘れられてしまった。

 かくいう私も当時は興味深く見ていたもののだんだんと新聞、雑誌が取り上げなくなり、識者(!)のコラム、コメントもありきたりなものとなって、やがてすっかり忘れてしまったのだった。


 思い出したのは昨年この本が出てからである。見ればかなりのボリュームがあり突っ込んだ取材がなされたと思われた、また事件から数年経ってからの出版というのも当時の狂騒から縁が切れていて良いのではないかと思われた。

 ならばさっそくに買って読んでみたかというとそうではない。私はルポルタージュにひどく懐疑的なのだ。
 以前はルポもそれなりに買って読んでいた、しかし「これは面白かった、買って読む価値のある本だった」と思えるものはほんの一部しかなかった。
 なぜかと思ううちに私は一つの結論に達した。つまりルポライターはそこに世間に問うべき何か、事件なり事実なりがあるからルポするのではなく、それが自分の仕事であるからルポするのだ。
 意地悪く言うなら書いて収入を得なければならないから書くのである、なのでネタになりそうなものなら何にでも食い付くし、食いついてみたもののたいしたことがなかったとしてもそこで止めれば無収入になってしまうので膨らませて書く、火のないところに煙を立てるようにして書く。
 時には内容空虚を超えて倫理的に問題のありそうなものまである。かつて読んだ物だが、ライターがアル中を装ってアルコール依存症者のための自助サークルに潜入し、参加者の生態を面白おかしく書くといったものもあった。

 もちろんすべてのルポライターがそうであるとは言わないが新宿東口で石を投げればライターに当たると言われる今、よほど名のしれた作家のものでないかぎり怖くてお金を出す気にはなれないということだ。

 なので図書館で借りて読むことにしたのだが出遅れた、それなりに話題になった事件だけに注目度もあったらしく予約をしたところがすでに40人待ち、1人2週間の貸し出し期間を考えるといつ回ってくるか予想もつかないという状況だったのだ。
 そして1年と2ヶ月、予約していたことすら忘れていたところへやっと順番が回ってきた。

 なんかもうどうでもよくなっていた(!)のだが読んでみた。そんなダウナーな気分で読み始めたからか内容が頭に入らず読み進めるのがつらかった、途中、なんでこんなにつまらないのかと思い初心に返って(?)読み返してみてこれは内容が薄いんじゃないのかと思い至った。

 たしかにすごい量の書き込みなのだが事件そのものに関してのデーターはたいしたことがない。犯人の生い立ちや村の成り立ち故事来歴が事細かに書き込まれているのだがあまり意味がない。
 もちろんそういった背景が重要な意味を持つ事件/犯罪もあるだろうが、実のところこの事件は実は底が浅い、簡単に言ってしまえば犯人、保見光成には「妄想性障害」という精神障害がありそれが昂じて犯行に及んだのではないかというのが結論なのだ。

 この「妄想性障害」は裁判所が一審でも二審でも認めた事実である、調べてみたところ

『証拠がないのに、騙されている、嫌がらせを受けている、毒を盛られているなどの被害妄想が出現する』というものであるらしい。

 保見光成は自分が『村人から悪口を言われていた、犬の餌に農薬を入れられたり草刈機に火を点けられるなどの嫌がらせを受けていた、カレーに毒を盛られた』などと主張しているわけでたしかに当てはまる。
 ちなみに本書の筆者は保見が本当に草刈機を持っていたのかどうか疑問だし、カレーに至っては作り置きしたものを1ヶ月も食べていたので腐ったのではないかと述べている。

 筆者は拘置所で保見と何度も面会しているのだが保見は『これはでっち上げで、事件は刑事が起こした』などという主張を一方的に述べるだけで会話が成立しない。保見から来たハガキも公開しているのだがそのくねくねとした踊るような字を見ているとたしかにこの人物は別な世界に生きているのだと思う。
 
 こうなるともう本人の生い立ちや村の来歴などは無関係だ。


 ここで若干微妙なのは、村人から悪い噂をたてられた、いじめを受けていた、という主張がまるで根拠のないものではないという事だ。

 この全8戸12人(事件当時)という集落は当初「皆が家族のように仲良しだった、家に鍵をかける者もいなかった」と報道されていたが、やはりというかそのようなことはなく陰湿な噂話、陰口が飛び交っていたという。

 村には公共交通機関がなくスーパもコンビニもない(8戸12人しかいないのだから当然ではある)年配者ばかりで足も無いため「コープやまぐち」というものを作って週一回生活必需品を共同購入していたという、そして取り寄せた物を分配を行う際に噂話が始まる。そもそもこの山中の貧しい村にあっては噂話くらいしか娯楽がないのだ。そしてそういった噂話が良いものであるわけはない、事件はこの「コープの噂話」が元凶だと話す村人もいたという。

 この本には「古老」の言葉というものがかなりの頁をさいて掲載されている(つっこんだ事が書かれているので実名を出せなかったのだろう)そこには以下のようなことが書かれている。

 『戦争が終わって、金峰もずいぶん様変わりしたが、なくならんものもあった。この村には昔からいじめがあったんじゃ。
 (中略)根も葉もない、何の根拠もなしに、皆その、誰かがひとりを叩きあげて悪者にしてしもうた、ちゅうことじゃ、
 (中略)ここの特性じゃなこれは。特性ちゅうのは……貧乏人の揃い、ちゅうたら大変失礼じゃけど、ここは、そんなに裕福な人が少なかったために、自分中心にしかものが考えられんかったちゅうことじゃな』


 つまりはよく言われる田舎の古い体質がそのまま残った村だったということだろう。
 そうした場所では家に鍵をかけると「周囲に泥棒がいると思っている証拠」として白い目で見られるという話だが、この集落では「カーテンを閉めるだけで悪い噂を立てられた」という(もはや意味不明だが「人に見せられないものを持っている」「周囲に隔意を抱いている」ということなのだろうか)。

 筆者に言わせるとそれでもこの村では示し合わせて犯人にいやがらせをしたり、陰口を叩いた様子はないという。何もなかったということではなく、村唯一の娯楽として噂や陰口が飛び交っていて、犯人保見光成も(他の人と同じく)その俎上に上がっていただけだということだ。
 聞くだに気の重くなる陰湿な話だが、それが村の日常なのであって特別な何かではなかったのだろう。

 しかし相手が妄想性障害を負った男であれば話は違ってくる、妄想性障害の患者に情報を与えるとそれを鍵にして更に妄想が拡大する「鍵体験」ということが起こるらしい。コープ山口の分配場は保見光成の向かいの家だったという、向かいの家に集まって村の噂話に興じる人々を見るうちに妄想が亢進し、皆で自分の悪口を言っていると思い、ついには自分の周り全ては敵だと思い込んでもおかしくないということなのだ。

 こう書いてみると、犯人も殺された人々にとっても不幸な出来事だったと言うしかないが、実際それが全てである。

 これだけのネタをよくこの分量に仕立てたなと思いつつ読み進めていくと

 『前章までの原稿は、2017年1月から、私が金峰について、そして保見光成……ワタルのついて取材をして、同年秋までにまとめていたものである。』
 という話になる。

 そしてノンフィクションの賞に応募したが賞は取れなかったとか、何人かの編集者に原稿を送ったが返事が無かったとか、これだけ取材して原稿を書いて収入ゼロは正直苦しいとか、ついには取材に行く際に子供を預けていた夫も怒っている、などといった個人的な事情が明かされる、それ事件とまったく関係ない話だよね?と私は思ったのだが、やがて村の人から干し椎茸をもらっていたのだが夫が椎茸嫌いなので料理に使えなかった、などという個人的な話になる、取材についての苦労話ならともかくさすがにこれは乖離しすぎだろう。
 ここに至って私はついにこのルポルタージュに漂う違和感の正体に気が付いた。

 つまりこれは筆者のドメスティックな話なのである『周南市郷集落で起こった5人殺しのルポ』ではなく『5人殺しと私』といった関係性のお話なのだ、ルポルタージュ文学とでもいえるだろうか。

 思えば初めて村を訪れる冒頭からやけに感傷的な記述があるなとは思っていたのだ。
 『すぐにまた道の両側を山に囲まれ、先ほどまで快晴だったのが嘘のように空が曇り始めた』などは取材に向かう自分を投影した心象風景だろう。更には『突如として銀色のUFOと巨大な像が目に飛び込んでき、その脇には「宇宙ステーション」という看板が立っている』という不気味なアミューズメントスポットの話になる。。

 事件の舞台となった場所についての印象ならともかくこれは道中に過ぎないのだ。

 村に入るとさらにセンシティブな情景描写がつづく

 『ごくたまに、9号線を大型トラックが轟音を立て猛スピードで走る以外は、ほとんど車も通らない。村人も誰ひとり、歩いてはいない。
 道沿いに流れる小川のせせらぎと、山の葉の擦れる音がざわざわと鳴りつづけているだけだ。空は晴れたかと思うと雲が広がるというせわしない状態を繰り返しているが、晴れているときでも山が太陽を遮り、道が陰る。路面は、やはりところどころ濡れていた。空気は刺すように冷たく、湿っぽい』

 実は最初にここを読んだ時、私は『アッシャー家の崩壊』の冒頭を思い起こしていたのだった。

 『冷たく暗く風も騒がぬ冬のひと日を私はひとり馬に揺られ、奇妙な山野をゆき、夕闇ようやく迫るころ、ついにアッシャー家の屋敷にたどり着いた、どうしてなのか私にもわからないがその屋敷を一目見て、私は耐えがたい憂いを覚えた』

 というものだ、ちなみにこの一節は初めて読んだ時にあまりの名調子に感動し、今もソラで書いたものだ、中学生の記憶力てすげーと思うが閑話休題。

 つまりはこれは『その場所に着いて私は耐えがたい憂いを覚えた』という文学的表現なのだがあまりにも似ていないだろうか。
 そう思って読み返すと(結果として何度も読み返しているのだが)

 『そして、なんといっても虫が多い。歩いていても、止まっていても、走っても、身体中に小さな羽虫がまとわりついてくる。何をしていても虫たちが耳元で小さな羽音を響かせ、とくに顔に集まってくるから堪らない。小さな叫び声をあげるが、周りには誰もいない』とか
『心細くなりながら、小川沿いの道をゆっくりと進む。気温が低すぎるせいか、手に持っていたスマホは突然電源が落ち、動かなくなった』などという描写が目に止まる、中心にあるのはつねに『私』である。

 なるほどね、というのが結論であった、私が本書をつまらないと思うのは当然だったのだ、力作ではあるし「たいしたことがないので膨らませて書いた」凡百のルポルタージュとは一線を画す、とはいえ私はこれを『周南市5人殺し』のルポだと思って手に取り、事実が知りたいと思って読み始めたのだ、感傷的な私小説を読みたいわけではない。これを純然たるルポルタージュ(晶文社によれば『調査ノンフィクション』)として発表するのはいささか問題なのではないだろうか。