2021

  

 
僕とコンピューターの冒険
 

 昨年から今年にかけていくつか印象深いコンピューターゲームをプレイしたのでそれについて書きたいと思う。

 さて私はそこそこのゲーマー Computer Game Player だと思う。廃でもなくライトでもない、しかしplayer歴は長い、コンピュータがまだコンピュータとしての体をなしていないとき、コンピューターゲームがゲームとしての体をなしていないときからの付き合いだ。今回はコンピューターゲームとその周辺についても書いてみたい。

 元からSF者であった私は「電子計算機」あるいは「電子頭脳」(!)という言葉に思い入れがあった、それはお話の中では象牙の塔の奥深くに鎮座して白衣を着た神官にかしずかれパンチカードによって託宣をする人知を超えたなにかであるように描かれていた。
いったいどんなイメージだ!と思う向きもあるだろうが、当時、安田均(作家、翻訳家、コンピューターゲームの伝道師とも呼ばれる)が「SFのおかげで、パソコンは恐ろしい機械だと思っていた」と述べているので時代の共通認識だったと思う。

 それが1970年台の終わり頃、マイクロプロセッサ<演算素子と電子回路が1つのチップに集積されたもの>の発明により個人の手の届くものとなった。コンピューターが自分の手元に来るなんて!と多くの物好きがこれに飛びついた。ビジネス用語で言えばアーリーアダプタ、文字通りの新しもの好きだ。これら小型コンピューターはマイクロ・コンピューター「マイコン」と呼ばれ、もの好き達はマイコン・ホビィストと呼ばれた。私もそのひとりだった。


 ホビイスト 1970~


 彼らの興味はまずはマイコンの仕組みを理解し使いこなすことに向けられた(というか最初は遊ぶための何物も用意されていなかった)やがてこれを使えば「ゲーム」が出来るのではないかと思いつくホビイストが現れた、今までカードでやっていたゲームをコンピューターで、ボードゲームをコンピューター上で、射的をコンピューターで、そして「コンピューターでなければ出来ないまったく新しい遊びをコンピューターで」と。長い歴史を持つ「ゲーム」に20世紀になってから登場した新ジャンル「コンピューターゲーム」の登場である。
 さてしかし、降嫁して庶民の物となったマイコンだがその処理速度は遅く記憶領域も少なく能力的には低性能なものだった。


シャープ/MZ-80K用ゲーム 「DEEP SCAN」(I/O 1980年5月号掲載)

 駆逐艦から爆雷を落として潜水艦を沈めるゲーム。このころのマイコンは能力的にアクションゲームは厳しくこれは「マシン語」(ハードを直にコントロールする言語で実行速度が速い)で組まれていたがそれでも潜水艦を簡易表示しないとゲームが成立しなかった。



 一方、文字によって命令を与え結果を文字で返すというコンピューターの基本機能の故にスピードが重要視されない文字を使ったゲームの開発は容易だった、初期のゲームがまずテキストベースであったのは必然だったといえる。
 そのため黎明期にはアドベンチャー、シミュレーション、ロールプレイング全てがテキストベースという時期があった。下記はその3つの例である。





テキストアドベンチャー「表参道アドベンチャー」
詳細はSCRIPT SHEET 2019年「デラシネ」を参照されたい



シミュレーションゲーム「STAR TREK

 プレイヤーはエンタープライズ号の船長となって期限内に大宇宙全てのクリンゴン戦艦を殲滅しなければならない。
上半分、3桁の*印が並んでいるのが大宇宙マップ、大宇宙は64の小宇宙に分かれている。3桁の***が1つの小宇宙を示し、3桁の数字に変わっているのが探索済の地域、数字はその小宇宙内の「クリンゴン戦艦の数」「補給基地の数」「星の数」を示している。[ ]で囲まれているのが現在エンタープライズ号がいる小宇宙。中央左のスペースがその小宇宙マップ、数字のとおりクリンゴン戦艦「K(LINGON)」が5隻 補給基地「B(ASE)」が1 星「*」が7つ存在する。右は各種ステータス画面、画面下部がコマンド画面で、ここでワープしたり光子魚雷を撃ったりするなどの指示を出す。ちなみに光子魚雷の狙いは周囲360度を1度刻みで指示するので電卓で計算しないと当たらない、ワープも同様でミスると星に激突して船体破損を招く。
 各種のマイコンに移植されたが、元はMike Mayfieldというプログラマーがミニコン用に書いたフリーソフトである、



ロールプレイングゲーム「Rogue」

 知らない人が見るとこれのどこがゲームなのか思うだろうが、これは「戦士ギルドへの加入を希望するあなたは『運命の洞窟』に赴き、その奥深くにある『イェンダーの魔除け』持ち帰って自分の実力を示さねばならない」というロールプレイングゲームだ。
 画面は上から見下ろしの2Dマップで、の壁で囲まれているのが部屋 はドアで###はそのドアから続く通路、. は何もない床 は上下階につながる階段 プレイヤーは @ で H は敵 (画面はHOBGOBLIN、全部でA~Zまでの26種の敵がいる) この他 *金塊 :食料 ?巻物 /魔法の杖 [鎧 )武器 =指輪 などがマップに示される。
 コマンドは8方向の移動の他 . 休息 < 階段を上る > 下る s 隠し扉を探す ^ 罠を調べる d 所持品を落とす e 食料を食べる w 武器を構える t 射る・・・キリがないので全部書くのはやめるが実に細かなもので、見た目の素朴さとは裏腹にきわめて戦略性に富んだゲームだった。
 Rogueの最大の特徴は「自動生成マップ」で同じフロアでも訪れるたび形が変わる。部屋の構造もモンスターやアイテム、罠や食料の位置も全部変わってしまうのだ、これは制作者 Michael ToyとGlenn Wichman(カリフォルニア大学の学生)が「自分で遊べる」ゲームにしようと考えた仕組みだ(アイテムや罠の位置・種類が固定されていては制作者は遊べないので)
 後のスーパーファミコン用ソフト「トルネコの大冒険 不思議のダンジョン」はRogueのゲームシステムを参考に開発されている(チュンソフトの中村光一が「この面白さをコンシューマーの世界に持ち込んでみたいと思うようになった」と述べている)このようなゲームは世に多く存在し「Rogue Like」というジャンルを構成する。



 以上3ゲーム、画面はテキストベースでどれもしょぼい、しかしマイコンホビィスト達はこのようなゲームでも充分に満足し楽しんでいた。もちろんコンピューターゲームとはこういうものだと思っていた時代ということはあるが、ゲームの楽しさはそれが充分な「ゲーム性」を持っているかどうかで決まるという本質が見えていた時代だったとも言えるだろう。
 実際このような画面であってもいつかそれがエンタープライズ号司令室のメインコンソールに見えてくるし、ASCII文字で出来たマップが石造りで出来た薄暗いダンジョンに。@ マークが駆け出し戦士の自分に見えてくる。 : マークを見ると反射的にご馳走だ!と思う(Rogueでは移動するたびに「空腹度」が上がり何も食べずにいると行動不能になってしまうので食料の発見と確保は最重要課題なのだ)

 ゲームとはつまるところ想像力を羽ばたかせるきっかけでしかないのだ。

 と、決めたところでなんなのだが、ホビイスト達がこのようなゲームに不満を覚えないのは他にも理由があった。そもそも当時のゲームはビッグプロジェクトで開発されるものではなく、少人数、または個人で作られるものであり開発者個人の資質が直接ソフトに反映した。そしてその開発者というのはプログラマーなのだ、映画で言うならカメラを所有しフィルムを現像できる技術者が演出と美術と音楽を掛け持ちして作品を仕上げているようなものだ、なのでソフトに多くを望まない(望めない)のは当然なのだ。
 ついでに言えば上記3作などはすべてフリーソフト、簡単に言えばタダだそしてネット環境などない時代なので遊びたければ雑誌に掲載されたコードを手打ちで入力するしかない(「マイコンショップ」に行けばプログラムの入ったカセットセープ(!)が売られていたがショップは都会にしかなく入手できる人間は限られていた)
 つまりこれらを遊ぶ人間はそれなりのスキル持ちだったということだ。この時代プログラムを組めなくてはマイコンを所持している意味がないのでマイコンホビィストはすべからくプログラマーだった、なのでゲーム開発者と距離が近く俺たちの仲間が遊べるゲームを作ってくれて親切にもコードを公開してくれているぜ、という感覚だったので不満など覚えるはずもなかったわけだ。

 ではなぜ制作者達は苦労して作ったゲームを無償で公開していたのだろうか、プレイヤー達はなぜ何百行というコードを1文字の間違いもなく入力するという作業(英単語で構成されるBASICはまだしも16進数の羅列でしかないマシン語の入力は多大の労力を要し、入力ミスで動作しなかった時の絶望感は並ではなかった)をしてまでプレイしていたのだろうか、それは彼らが皆自分たちが何かのスタートラインに立っていると信じていたからだ、コンピューターと共にその道を行けば絶対面白いことが起こるはずだと信じていたからだ、だからそのために行った努力に対価は求めなかった、それに報いる作業を苦労とは思わなかったのだ、恐ろしいほどに楽観的で希望に満ちた時代だったといえるだろう。



 
 そのようにしょぼいものしかなかったマイコンゲームだがそれでもソフトを開発する会社は増え、「市販ソフト」としてリリースされるものも出てきた。それらのゲームが「マイコン雑誌」で紹介されることもあったが入手は容易ではなかった。マイコンショップにしても個人にしても個別にソフトハウスと取引するしかなかったのだ。そこへ書籍の取り次ぎのような仕組みを作りソフトを流通させる会社を立ち上げるという男が現れた。それを聞いた時の私の感想は「面白いことを考える奴がいるもんだ、でもソフトを売るんだろ、なんでソフト銀行なんだよ」というものだった、これがソフトバンクの創業、1981年のことである。


 アドベンチャー 1980~


 70年から80年初頭、世には数多くのマイコンが存在していた 曰く アップル/Apple II、タンディラジオシャック/TRS-80 、コモドール/PET 2001 、IBM/IBM PC、日本ではシャープ/MZ-80K NEC/PC-6001 PC8001 日立/MB-6880 CASIO/FP-1100 ソニー/SMC-70。 
 OSという概念はなく言語はすべてが独自仕様だった、時は戦国嵐の時代である。
 IBMが自社のコンピューターにIBM PC(Personal Computer)と名付けてヒットしたせいもあってこれら家庭用コンピューターはパーソナル・コンピューター、パソコンと呼ばれるようになった(ホビィスト達は「マイコンでいいだろう、なんだそのパサパサした語感は!」と抵抗したがもちろん押しとどめようはなかった^^;) 無線の町秋葉原はパソコンの街となり聖地『ラジオ会館』には多くのマイコンショップが並びその店頭には一種異様な熱気が漂っていた。



シュタインズ・ゲートより「ラジ館」


かつてラジ館7Fにあったプレート




 この時期各社ともパソコンの用途をビジネス向けと謳っていたが実際には音源の同時発音数やカラーの発色数を競っておりホビー向けの色合いが濃かった。テキストベースだったゲームは少し進化し、アドベンチャーはグラフィックアドベンチャーと言われるものになった。


シエラオンライン「MYSTERY HOUSE」1980年


「クランストンマナー」1981年

 これらのゲームはフロッピーで発売されたが、フロッピーには全てのシーンの画像データーを収容できるだけの容量が無かったため、座標データーだけを記録しLINEコマンドでつないで絵を描いている、定規で描いたようなグラフィックなのはそのためだ。
 クランストンマナーでは6色をタイルペイントして疑似21色のカラーになっている。ゲームといえばテキストと思われていた時代これは画期的であり大ヒットした。ちなみにシエラオンラインのこのシリーズは「ハイレゾグラフィックアドベンチャー」(!!)と呼ばれていた。




マイクロキャビン版「MYSTERY HOUSE」1982年    エニックス「ポートピア連続殺人事件」1983年

 MYSTERY HOUSEはシエラオンライン版とは無関係のゲーム、とはいえそのグラフィックも謎に包まれた館を探索してお宝を発見するという内容もシエラオンライン版そのまんまである(^^;)これが日本初のグラフィックアドベンチャーゲームといえる。
 ポートピア連続殺人事件はアメリカでグラフィックアドベンチャーが流行っていると聞いた堀井雄二が製作したゲームでアドベンチャーといえばファンタジーかお宝探しというのが定番であった当時、珍しく社会派ミステリーだった。犯人(「日本一有名な犯人」とも呼ばれる)は意外性に富んでおりヒットして多くの機種に移植された(2006年に携帯ゲームにもなった)


 シエラオンラインはウィリアムズ夫妻(Ken and Roberta Williams)の2人が設立したゲーム会社でMYSTERY HOUSEは妻ロバータがシナリオを書き夫ケンがゲーム化した。ポートピア連続殺人事件は堀井雄二がプログラム・シナリオ・グラフィックをひとりで担当している、市販ソフトといっても家内制手工業の域を出ていない時代だったと言えるだろう。


 シューティング 1978~



 この時期コンピューターゲームに関係ある2つの事件がおこった、一つは1978年の「スペースインベーダー」の登場である。
 この頃ゲームセンターはもぐら叩きのような「エレメカ」(Electromechanical Machine)が主体であり「PONG」(卓球ゲーム)などモニター画面で遊ぶビデオゲームもその一画に並んでいたがさしたる人気はなかった。メンテが必要で物理的な故障も多いエレメカと比べ、手間のかからないビデオゲームはゲームセンター的には歓迎すべき物だったが遊ぶ側からすれば PONG よりはエアーホッケのほうが楽しかったのだ。

 そんなゲームセンターに侵略してきたのがスペースインベーダーである。シンプルで可愛らしいインベーダー、射的と違い敵からの反撃があって、弾をよけ損ねても敵を撃ち損ねてもゲームオーバーになるという緊張感、腕が悪ければ即終了、腕が良ければずっと続けられるというゲームシステム、敵の行動パターンを読むことで生まれる各種戦術など斬新な要素満載なこのゲームは大ヒットし社会的現象と言われるまでになった。
 以降全国に「インベーダーハウス」というゲームセンターが乱立し、インベーダーハウスは「シューティングゲーム」というジャンルの母体となった。
 スペースインベーダーにギャラクシアンが続き、ゼビウス、ダライアスといったフォロアーが生まれ、やがて「スクロールシューティング」という一大ジャンルが生まれたのだ。

特に縦スクロールは
タイガーヘリ
究極タイガー
雷電I
雷電 II
雷電 III
雷電 DX
雷電 IV
式神の城 I
式神の城 II
式神の城 III
首領蜂(どんぱち)
怒首領蜂(どどんぱち)
怒首領蜂 II
怒首領蜂大往生
怒首領蜂大復活
怒首領蜂最大往生
虫姫さま
虫姫さまふたり
斑鳩

 など多くの名作が生まれ一時期ゲームセンターを席巻した。なぜこれほどにスクロールシューティングが流行ったのかといえば、ゲームの構図「ヒーローが単身で大群に立ち向う」というヒロイズムが日本人のメンタリティに嵌まったためではないかと思う「吉岡一門数十人が待ち受ける一乗寺下り松に単身切り込む宮本武蔵」の図である。
 こうしたゲームは英語で「シューテムアップ」(Shoot 'em up=shoot them up)という名前が付けられており、ならばヤンキーだって好きなのだろうと思っていたのだが英語版WIKIで「Shoot 'em up」を見ると

shoot 'em ups became a niche genre based on design conventions established in the 1980s, and increasingly catered to specialist enthusiasts, particularly in Japan.
シューテムアップは1980年代に確立されたデザインをベースにしたニッチなジャンルとなり、特に日本のスペシャリストに対応するようになった
とあるのでどうやら盛り上がっていたのは日本だけらしい。

 さてしかし、スクロールシューティングゲームはミスが無ければワンコインでいつまでもプレイし続けることが可能であり、コアなプレイヤーが増えるにつれてマシンの回転率が下がり次第にゲームセンターから歓迎されなくなっていった。メーカーは回転率を上げるため、そしてコアなマニアを逃がさないために新作を出すたびに難易度を上げていき、つには画面を敵弾が埋め尽くす「弾幕ゲーム」と化してしまった。弾幕ゲームは初心者を瞬殺してしまうので新規参入者が居なくなり、コアプレイヤーのプレイを見て「これは自分には無理だ」と絶望する中級プレイヤーも離脱し人口が減って驚くべき早さでジャンルが消滅してしまった。


「無理!」と叫びたくなる「虫姫さま」の弾幕
(赤紫の光はすべて敵の弾でこれが放射状に降り注いでくる)


 当時「ゲーセンの前を素通りしない男」を自称していた私(!)は雷電のファンでゲーセンの前を通るたびに必ず1,2コインを献上していたがシリーズ後半に至り自分の反射神経ではいくら「連コイン」しても中盤以降に進めず、ゲームが用意した要素を全て楽しむことは不可能と悟ってプレイをやめてしまった。やめてから1年も経たないうちに「あれ、シューティングコーナー寂しくなってないか?」と思ったことを覚えている、弾幕ゲームがゲーセンから姿を消すまでそれからさして時間が経たたなかったところを見ると私は平均的ゲーマーだったのだろう。スクロールシューティングはサーベルタイガーのように進化の袋小路に陥ってしまったのだ。

 アーケードについて語るとつい熱くなるのだが、この稿の目的はコンピューターゲームについて語ることなのでビデオゲームについてはこのへんでやめる。ビデオゲームはコンピューターゲームじゃないのか?と思う向きもあるかもしれないが私はコンピューター上で走るゲームがコンピューターゲームだと思う。そして汎用の入出力装置を持ちソフト次第でワープロにもゲームマシンにもなるプラットフォームがコンピューターだ、そしてビデオゲームは中に「コンピューター」が入っているわけではない。
 ビデオゲームは入力装置がジョイスティックとボタンしかなく電源を入れると組み込みのソフトが走る単機能マシンだ、なのでその基板はコンピューターとは言えないだろう。ではなぜここで取り上げたのかと言うと、コンピューターゲームにきわめて近くコンピューターゲームに多くの影響を与え、時代背景として重要であるからだ。


 ファミコン 1982~


 さて先に2つの事件が起こったと書いた、そのもう一つは1982年の「ファミリーコンピュータ」日本に生まれてその名前を知らぬものはない(だろう)「ファミコン」の登場である。(※任天堂は当時のJIS表記に従って命名したため『コンピュータ』だ)
 「家庭用ゲーム機」というものを定着させたゲーム史上に燦然と輝く金字塔である。
 描画速度、発色数、多彩なサウンド。ヘタなマイコンなど足元にも及ばない高性能なマシンだったが私はファミコンにまったく食指が動かなかった。ホビイストの多くも同様だったように思う、なぜといえばまずはファミコンがあきらかに小中学生向けだったからだ。
 大卒の初任給が11万円だった時代にエンターテインメント向けのPC-6001が8万9000円、ビジネスを視野に入れた8001が19万8000円、10万円程度するモニターも必要と考えるとマイコンはかなり高価だった、ホビイストは趣味に大金を突っ込める大人ばかりだったのだ。小中学生をターゲットにしたファミコンに興味が持てないのは当然だったといえる。
 またファミコンが閉じたアーキテクチャ(architecture 設計思想)だったということも影響している。ソフト次第でゲームもお絵かきも出来るファミコンはコンピューターと言ってよく、市販されるソフトが子供向けのものしかなくとも自作のプログラムが走ればホビイストは興味を持ったかもしれない、しかし内部情報が公開されずユーザー側がまったく手を出せない仕組みだったのだ。
 当時のマイコンはプログラム言語としてのBASICと機械語を入力するための「モニタプログラム」が標準装備され、機械語を使用するために必須な情報、メモリマップやポート番号なども公開されていた、ハードをじかに「叩く」ことが出来る機械語はミスれば何が起こるかわからないがメーカーは自己責任でどうぞという姿勢だったのだ、これを当然と思っていたホビイストにとって自分からは何も手を出せず与えられたソフトを楽しむのみというファミコンに興味を持てないのは当然だった。
 
 私の当時の印象としては、ファミコンで遊ぶのは遊園地に行くようなもの、行き届いたサービスを得られるがそれ以上でも以下でもない。マイコンをいじるのはキャンプ(今ならソロキャンプか)に行くようなもので良くも悪くも自己責任、失敗しても楽しいというものだった。
 
 ファミコンの開発目安の一つに「アーケードのドンキーコングが見劣りなく遊べる程度の性能」というものがあったという。もちろん1台14800円のファミコンが1機数十万円のアーケードマシンに対抗できるわけもなくこの「見劣りしない」というのは同じ名前を付けても問題にならない程度の「さほど見劣りしない程度の」という意味でしかなかった、ファミコンは最初から下位互換狙いなのだ、個人的な事情を言うと、立ち回り先にいくらでもゲーセンのあった私は自宅でプレイすることが出来ないような高画質、高速度なゲームはゲーセンで遊べばよく下位互換の「遊園地」を手元に置く必要はないと思っていた。
 ということで、私はファミコンを所持せず、もちろんソフトを購入したこともなく、人のマシンをちょっと触らせてもらった以上の関わりを持たなかった。コンシューマゲーム機(家庭用ゲーム機)が私の選択肢に入るのはもっとずっと後のことだった。


 アニメちゃん 1984


 1984年、これは記念すべき年である、なんとなれば私が始めて操演技師として映画にクレジットされたからだ。映画の名は「アニメちゃん」アニメーションではなく制作円谷プロ、監督、湯浅-ガメラ-憲明によるコメディで、カネゴン、ピグモン、ブースカという人気の怪獣が出演する人気間違いナシの映画だったが圧倒的に不評だった(!)このあと始まったレンタルビデオブーム、過去のコンテンツは何でもビデオ化され、レンタルを当て込んだ粗製乱造のオリジナルビデオが巷にあふれた時代にあっても無視されいまだに一切ソフト化されていないという希有な作品である (^^;)
 それはともかく主役のアニメちゃんというのは12歳のオタク少女で、劇中コンピューターを使ってロボットを設計しているというくだりがあった。しかし当時コンピューターというものは興味がない人にとってはまったく未知の世界でありモニターに設計図と言ってもどうしたらいいのかという時代だった。
 私がホビイストであることは知られていたため、困ったデザイナーが私に相談に来た、要するになんかそれっぽいものを作ってくれないかということだ、そこで線画で構成された設計図っぽいものならということで引き受けた。
 まずデザイナーが基本デザインを描いた、子供向け作品でもありダンボーみたいな箱を組み上げたようなロボットの平面図だ、私はその上にトレーシングペーパーの方眼紙を乗せて各ポイントの座標を拾った。
 この頃私が所有していたのはNECのPC-8800だったがBASICでプログラムを組んだ。やったことは単純で、まず画面全体に10ドット単位で縦横の線を引いてそれらしいベースを作り、先に拾っておいた座標をLINEコマンドでつないで線を引いていくだけだ、丸い目はCIRCLEコマンドを使う、最後にPAINTでロボット部分だけ色を変え画面隅にデーターっぽい文字を入れて完成である。市民パソコン講座(?)なら初日にやりそうな作業で2時間とはかからなかったと思う。
 現場に自分のPCを持ち込んで劇用のモニターにつなぎプログラムを芝居に合わせて走らせる。いまどきのコンピューターだと一瞬で描画が終わり、用意したCGイラストレーションを表示しただけのように見えるだろうがそこは当時の性能、縦横に方眼が描かれ、各ポイントを線がつないでロボットの形を作って行く過程が目で追えてそれらしい感が出た。
 その場で何かプログラミングしてるっぽい絵も欲しいと言われたので、趣味のプログラムのうちなるべく長いLISTを画面に流す。
 全部終わったあとデザイナーから助かったといって3万円ももらってしまった。
 操演技術の一環としてではなく単独の、いわば納品したプログラムでお金をいただいたのは後にも先にもこれ1度きりである。



アメリカのニュース雑誌『タイム』は「その年の出来事に最も影響を与えた」人物をパースン・オブ・ザ・イヤーとして特集し表紙に顔を載せている。1982年に選ばれたのはIBM PCでありこの年に限って特集の名はマシン・オブ・ザ・イヤーとなっている。


 ウイザードリィ 1985~


 そのころマイコン(というかもう「パソコン・PC」が定着していたが)ではどのようなゲームがプレイされていたのだろうか、外せないのが「ウイザードリィ」だろう。
 ストーリーは『「狂王トレボー」は魔法のアミュレットの力によって諸国を制圧したが、魔術師「ワードナ」にそのアミュレットを盗まれてしまう、ワードナはダンジョンを作ってその最奥に身を隠す。トレボーはアミュレットを取り返すために多くの兵士が送り込むがことごとく撃退されてしまう。やむを得ず多額の報酬を用意して冒険者にアミュレットの奪還を依頼する』というロールプレイングゲームだ。プレイヤーは「ギルガメッシュの酒場」で仲間を募りパーティを組んでダンジョンにもぐることになる。
 これはコーネル大学の学生 Robert Woodhead と Andrew C. Greenberg の2人によって製作されたゲームで、狂王トレボー Trebor 魔術師ワードナ Werdna の名は2人の名前を逆に綴ったものだ。


 3D表示されたダンジョン、種族と職業(戦士、盗賊、僧侶、魔法使い 他)それによって違いのある各種パラメーター STR(STRENGTH 力)  VIT(VITALITY 生命力) AGI(AGILITY 敏捷性)などバランスを考えて組むパーティ、その際の前衛、後衛という概念、敵を倒すことでお金と経験値が得られ、経験値を積むことで上級職へクラスチェンジ出来るシステム、罠に仕掛けられた宝箱、強制的に向きを変えられたりワープさせられる床、エンカウント(遭遇)したモンスターのグラフィック表示、コマンド選択式の戦闘、パーティメンバーが死亡したら死体を持ち帰って「カント寺院」で復活、「ボルタック商店」での武器やアイテムの売買、「冒険者の宿」で回復、などなど。日本の「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」も含めこれ以降の全てのRPGの原点となったゲームである。





 と、語っておいて何だが私はこのゲームをプレイしていない(!)
 なぜと言えば移植に異常に時間がかかったからだ、今ならwindowsが乗っているマシンであればソフトは手直しせずに動く、ローカライズも画面表示とセリフの入れ替えだけで済む、ところがこの時代米国内でもメーカーが違えばプログラムの全面的な書き直しが発生する、ましてや日本語化となると、というわけで1981年にAPPLEII用ゲームとして発表されたこのゲームは1982年コモドール64 1984年IBM PC 1985年にやっと日本語版(PC-8801 PC-9801 X1 FM-7 MZ-2500用)の発売と4年もかかったのだ。

 画期的で面白いゲームが出たらしいと聞き、APPLEの所有者が直輸入してプレイした感想も聞き、やってみたーーい! と思っていたがおあずけを食らっていた。さすがにゲーム1つのためにAPPLEは買えない。それに以下のような話も聞いてしまったため日本語版でプレイしたかったのだ。
 当時あるSF作家が直輸入版をプレイしていたがよく理解しないままプレイを始め(やってるうちにわかるだろう的、マニュアル読まない派の人だったのだろう、人ごとではないが)これをダンジョンでモンスターと戯れるゲームと思い込んでずっとダンジョンにこもっていたのだと言う。そして1年以上経ちこれはワードナを倒すゲームだと聞いてやっとワードナに挑んだが、自分のレベルが激しく上がっていたためワンパンチで大魔術師が死んでしまったという。まあこれは極端すぎる例だが、このゲームは各種メッセージやモンスター、武器の名前など様々なものにアメリカンジョークやサブカル由来のギャグがちりばめられていて語学力に不足がある人間が英語版をプレイするとゲームの進行に困難が生じる可能性があったのだ。


壁の目立たない看板には次のように書かれています
邪悪な魔法使いワードナの隠れ家!
営業時間 AM 9:00~PM 3:00
完全予約制
魔術師 在室中


 矢野徹氏によれば冒険者のレベルが400を超えるとワードナを瞬殺できるらしい、氏は400越えに半年かかったということだが、1年もモンスターと戯れていたらそりゃワードナもワンパンで倒れるだろう。
ちなみにウィザードリィにレベルの上限は無い!


ウィザードリィ日記 矢野徹(SF作家、翻訳家)



 というわけで待っていたのだが先に出てしまったのだ日本製の3DダンジョンRPG「ブラックオニキス」(BPS)が。事実上日本初のRPGである。



 「無限の力と富を得られる『ブラックオニキス』を手に入れるためあなたは迷宮に挑む」というストーリー、3D表示されたダンジョン、エンカウントしたモンスターのグラフィック表示、街にある武器屋、鎧屋、楯屋、薬屋、パーティメンバーは街でスカウト、各種パラメーター、コマンド選択制バトル、どっからどうみてもウイザードリィを参考に開発したゲームである。一方日本人向けに簡略化した部分もあった。一番のローカライズは魔法が無いことだろう、つまり戦闘は全て斬った張ったの物理攻撃なのである。RPGに魔法が無いなんて!と思うかもしれないが、それはここから長く続く剣と魔法の歴史を生きた我々だから思うことであって、なにしろこの時はまだドラクエもFFも無かった(!)のだ。(ハリポタが出るのは15年先である)TRPG(テーブルトークロールプレイングゲーム)という基礎もない日本人は「魔法戦闘」になじみがないという判断だったのだろう。



スティーブン・スピルバーグ  E・T

 主人公エリオットくんの兄貴たちがやっているのがTRPG「ダンジョン&ドラゴンズ」だ。
 日本初公開版ではこのシーンがカットされているという説がある、いやそれはTV初公開版の間違いだという話もあるが私はもはやこのSpecialEditionで記憶が上書きされているので初公開時にどうだったか思い出せない、しかしそんなことが本当にあったとすればTRPGについての知識がない日本人には彼らが何やってるのかわからないと判断されたということだろう。

このシーンは SpecialEdotion 版でちゃんと見ることが出来るが実はここでも扱いはあやしい。
サイコロを振ったマイケル兄貴が「5だ」と言うと
スティーブ「お気の毒 10回休み」と字幕に出る、しかしスティーブは「You got an arrow right in your chest」(お前の胸に矢が刺さった)と言っているのだ。
剣と魔法のTRPGも、サイコロを振って行う当たり判定も当時は(今も?)知る日本人は少ないのでこれはもうスゴロクやってる体にしてしまえという判断なのだろう。
このあとも
エリオットが「I'm ready to play now,guys」(ボクも入れてよ)
というと兄貴が「Ask Steve He's game master」と答えるのだが字幕は「”王様”はスティーブだ 彼に聞けよ」と出る、「ゲームマスター」もまたなじみのない言葉と判定されたのだろう。日本人の大好きなRPGも剣と魔法もそう長い歴史があるわけではないのである。


 さて一方、ブラックオニキスで付け加えられた要素もあった、明らかなのはゲーム画面だろう、まずは画面がカラーになった(モニターがカラーでないと伝説のナゾ解き「イロイッカイヅツ」が解けない)疑似3Dダンジョンもワイヤーフレームではなく面になった、冒険者はグラフィック表示され武器を持ち替えると画面に反映する、複数のモンスターが出現しても全て表示され LIFE(ヒットポイント)は数字ではなくバーで、くらったダメージは赤で示されるなど全般としてプレイアビリティが向上していたのだ。




 そしてその見た目だけの問題ではなくゲームとしての出来が良かった。バラエティのある敵、様々な罠とナゾ解き、武器や装備の入手方法、それらの難易度がチュートリアル要素のある序盤から中盤、終盤戦と次第に高くなりプレイヤーを飽きさせず投げ出させもしない。ウイザードリィを横目で見て日本版が発売される前に市場に出そうと開発された(としか思えない)にもかかわらず面白かったのだ(アスキーの雑誌「Login」でソフトウェア大賞も受賞している)

 そして私もそれを始めてしまった、そして嵌まった、けっこう長い間やっていたような気がする、続編「ファイヤークリスタル」にも手を出した(この時にはウイザードリィが発売されていたからか魔法ありになっていた)これにはブラックオニキスのキャラクターをそのまま使うことが出来た・・というより前作の所持が前提だったので続編というより追加シナリオというほうが正しいだろう。
 そしてファイヤークリスタルが終わった時には「ウイザードリィはもういいか」と思ってしまったのだ(!)
 いや、オリジナルやっとけよ世界初のコンピューターRPGだろ、と思う向きもあるだろう、私も今はそう思うがそのときは「もういいか」と思ってしまったのだった。
 私は本業である映画に関しては、これは古典だから見ておかねばとか、原作付きなら先に小説読んでおこうとか、元ネタの映画があるならそっちを観てからにしようとかなるべく本道をいこうと思うが、ゲームに関してはそこまで秩序立ててやろうとは思っていない、1本数千円もしてプレイに1、2ケ月かかる(こともある)ゲームは「念のためちょっとやっておくか」とはいかないということもある。


 パソコン通信 1985~


 さてこのころコンピューターにとってそしてコンピューターゲームにとっても重要な技術が普及し始めた。「パソコン通信」である。念のため言うがインターネットではない。
 ホストが用意したサーバーに参加者が電話回線で直接接続し、BBS(Bulletin Board System 電子掲示板 )を読み書きするもので、クローズドネットワークと言われるものだ。テレホーダイなど定額プランがない時代なので3分10円の電話代が青天井!だった。

 実のところホビイストは80年初頭にはこれに手を出していた、しかし当時は「電気通信設備工事担任者」という国家資格がないと電話回線に通信機器を接続することができなかった、個人が使える通信機器は黒電話しかなかったのだ。そこで使われたのが「音響カプラ」である。


音響カプラ

 黒電話の受話側ににマイクを、送話側にスピーカーを押しつけて「音」に変換したデーターをやりとりする機械。サーバーにダイヤルして「ピー」音が聞こえたら受話器をカプラに押しつける。
 外部の音を拾うとエラーになるので接続が確認できたら受話器ごと布団蒸し(!)にするのが安定した通信をおこなうコツだった。

 それが1985年、電電公社が民営化してNTTとなり電気通信事業法が改正されて個人でも電話回線に通信機器を接続できるようになった、モデム(Modulator Demodulator、 変調/複調機)を使ってデーターを直接やりとりすることが可能になったのだ。
 通信速度も当初1200bpsついで2400bpsと高速になり、文字データーのやりとりだけなら充分に実用に耐えるものとなった、この年アスキーがアスキーネットの実験運用を開始する。
 アスキーはやがてアスキーネットACSとPCSという2つのパソコン通信サービスを開始し私はPCSの会員となって「映画SIG(Special Interest Group 掲示板の1単位、有志が管理する)」に常駐するようになった。

 パソコン通信は急激に普及し、アスキー NIFTY PC-VAN 日系MIX ASAHIパソコンネットなどの大手サービスの他 個人が開設した草の根BBSが200以上と百花繚乱の趣となる。
 インターネットと違い横のつながりがないので他のネットの事情はよくわからなかったがアスキーネットは参加者の仲が良く、月イチでオフ会が開かれ、映画SIGは映画SIGで別途オフ会を開いていた、なんのためのパソコン通信かわからないほどのリアル交流だが、ともかく活発な活動が行われていた、そしてそのようにパソコンを使って何かをすることが楽しい、パソコンを使い倒すのが趣味、という人間はやはりその多くがコンピューターゲーム好きだった。何が言いたいのかというとついにゲーマー同士の横のつながりが出来たということだ。
 これまでゲーマーをつないでいたのはゲーム雑誌だ、しかしそれはリアルタイム性が低い、そして雑誌が取り上げるゲームの記事はメーカーに配慮されたものだ。出版社はソフトメーカーから画像データーを借りたり新作ソフトの試作品を借りて記事を書く、更に言えば広告を出してもらう必要もある、つまりは今でいう忖度が必要なのだ。
 レビュー記事で高評価が付いたゲームをプレイしてみたところ重大なバグが存在し進行が不可能だった(ちゃんとプレイしてレビューしていないのでは?)という事件も時折発生した。また有名キャラクターの名前が冠されいかにもそれらしいパッケージのゲームが実は別な企画で開発されていたゲームのキャラクターだけを入れ替えただけというようなものがあった(営業上の理由から開発の最終段になって急遽突っ込まれた変更だろう)
 当時、ゲームは買ってみないとわからないし失敗したと思ってもそれを他人に知らせるすべは限られていた。そこにゲーマー同士がリアルタイムで情報を出し合い本音を語り合う場所が出来たのだ、数千円なりを自分の財布から出したユーザーの評価はゲーマー達におおいに参考になった。これによってあからさまな手抜きやバグありなど売ってしまえばこっちのものという商売が成り立たなくなった。パソコン通信はゲームの質の向上に寄与したのである。


 ダンジョンマスター 1987~


 1987年になった、この年はコンピューターゲーム史上もっとも重要な年である。なんとなれば「ダンジョンマスター」が公開されたからだ、このゲームは私の選んだコンピューターゲームベスト1なのである、なんだったらコンピューターゲームもコンシューマゲームもビデオゲームも含めてよい、誰がなんと言おうと史上ベスト1なのだ、個人的に(^^;)

 ストーリーは『大魔道士グレイロードはナイアス山麓の洞窟で「炎の杖」を使った大規模な魔法実験を試みるが失敗、炎の杖は失われ自分はロード・カオス(混沌)とロード・リブラスルス(秩序)の2人に分離してしまう。
 炎の杖が邪悪なロード・カオスの手に落ちるのを阻止すべく多くの勇者がダンジョンに挑んだが全て返り討ちに遭ってしまう、しかも上位の24人は鏡に魂を閉じ込められ見せしめとしてダンジョンの入り口でさらし者になってしまった。。
 ロード・リブラスルスは弟子のカロンに勇者を3人復活させる力を与え、杖の捜索を命じる。プレイヤーは3人の仲間とともにダンジョンに赴き炎の杖を持ち帰らねばならない』またしてもダンジョンからお宝を回収するお話だ。
 このゲームは Doug Bell と Andy Jaros という2人の若者が FTL Games社に持ち込んだ企画を元に開発された、またしても2人なのだが革新的なゲームの開発は若人2人で取り組むのが良いのだろうか。
 ということでこのゲームは革新的なのだった、何が革新的なのか細かくいえばいろいろあるがざっくり言うとリアルなのだ。





 このゲーム画面を見るとどこがリアルなのかと思うだろうが、まず時間経過がリアルタイムだ、これまでのRPGは移動にせよ戦闘にせよプレイヤーがコマンドを選ぶとゲームが進行した、逆にいえばコマンド待ちの間はゲームは停止していたわけだ、ところがこのダンジョンマスターはゲームが起動しているかぎり常に時間が経過し状況が変化していく。
 たとえば戦闘だ、既存のRPGだとモンスターとのエンカウントはキャラクターの歩数を数え一定の数値になるとモンスターがPOPし「戦闘画面」に遷移する。そして戦闘画面になるとモンスターとターン制バトルになる。プレイヤーは自分がコントロールしているキャラクターに「たたかう/にげる」あるいは「スケルトン1に魔法のファイヤーボールで攻撃」などとの指示をだす。パーティ全員が行動を行うと次はモンスターのターンになる。そうやって削りあってどちらかが全滅したら終わる(プレイヤー側が全滅すればGAME OVERだ)これはウイザードリィもブラックオニキスも同じで、時代的にはまだ先の話だがドラゴンクエストもファイナルファンタジーも同じシステムだ、ところがダンジョンマスターは違った。
 モンスターはプレイヤーパーティの行動とは無関係にダンジョンに存在し個々のルーティンにしたがってダンジョンを徘徊している、パーティがそれに出くわすと戦闘になるのだ。
 プレイヤーがコマンドを選択しているときでも、別ウインドウで装備のチェックをしていても、画面から目を離して手元のノートにマッピングをしているときでもモンスターは移動しているのでいきなり攻撃を受ける可能性がある。ダンジョンの3D表示は主人公の目線なので後ろからモンスターがやってくればダメージを受けるまで気づかない。
 戦闘はその場所で開始されモンスターはこちらの行動を待ってはくれないのでテキパキ指示を出さないと一方的にやられてしまう。
 戦闘画面に移行するわけではないのでその場から逃げることも可能だ、従来のRPGだと「にげる」というコマンドがあったりするが「しかしまわりこまれてしまった」(byドラクエ)となって成功するとは限らないがダンジョンマスターは踵を返せば逃げられるしプレイヤーキャラクターのほうが足が速い(ことが多い)ので戦闘の回避が可能なのだ、とはいってもモンスターは追ってくるので別なフロアまで逃げるか充分な距離をかせいで振り切るしかない。逃げている最中に別のモンスターに出くわしたら最悪だ。

 さてダンジョンには落とし穴やボタンで開く扉など各種の罠やギミックがある、それはプレイヤーキャラクターにだけに効果があるものではない。なので逃げるフリをしてモンスターを誘導し落とし穴に落とすことも出来るしボタン扉をくぐって待ち構え、閉まってくる扉でモンスターを押しつぶすことも出来る(耐久力のあるモンスターは降りてくる扉で頭をガンガン叩かれながらもくぐり抜けてくるので注意が必要)落とし穴に落ちた奴は落下ダメージで死ななければ下のフロアで(HPが減ったまま)生きているのでいずれ出会うハメになる。
 魔法の行使もユニークだ「パワー」「エレメント」「フォーム」「クラス」という4種のシンボル(象形文字のようなもの、1種について6個のシンボルがある)を順に詠唱する(クリックする)ことで発動する。上記のプレイ画面の右手、ESPカードのマークのような図形が6つ並んでいるのがそれで、現状ではパワーシンボル6つが表示されている。
 パワーシンボルは魔法の強さを決定する(初心者は最弱の魔法ロー「<<」しか使えない)、このひとつを選ぶと画面には次のエレメントシンボル(魔法の効果)が6つ並ぶ、フォーム(魔法の傾向)クラス(善悪)と順に選んでそれが正しい組み合わせなら魔法が発動する。たとえば「ロー(弱い)」→「オー」(空気)「キャス」(衝撃)→「ラー」(光)でライトニングボルト(雷魔法)が出る。
 どの組み合わせで何が発動するかは自分で調べなくてはならない、ちなみに「<<」ロー 「田」ヤー(大地)の2つで回復ポーションが作れるがフラスコを手に持っていないと保存できない(床にこぼしてしまうのだろう)
 ややこしく聞こえるだろうが慣れてくると魔法使いが杖を頭上に掲げ呪文を詠唱している様がありありと想像できる。

 ダンジョンマスターについて説明していると書きたいことがいっぱいあって終わらないので(なにしろベストゲームなので)あとすこしだけ書こう。
 ダンジョンマスターでメンバーが使うアイテムにはすべて重量があり、キャラクターはその体力によって持てる重量が決まっている。持てる数(収納場所)に余裕があっても重量オーバーすると足が遅くなるのだ、メンバーのひとりでもオーバーするとパーティ全体の移動速度が遅くなるので(それはこのゲームでは致命的なので)何を持つかは熟慮が必要だ、体力のあるメンバーが他のメンバーのアイテムを代わりに持つことも出来る。
 収納場所がいっぱいな場合非常手段としてアイテムを投げながら進むという手もある。キャラクターが手に持っているものは投げることが出来る、戦闘時はそれで攻撃することが出来るが平時(?)でも投げられる、なので持てなかったアイテム(足元に落ちている)を拾っては投げ拾っては投げる、たいまつの光が届かない先まで飛んでいくが先に進むと床に落ちているので、また拾っては投げ拾っては投げる、投げたあとガチンという音が聞こえたら先が壁になっているということだ、アイテムは壁際に山積みされている。
 またダンジョン内では1歩歩くごとに喉が渇き腹が減り放置すると行動不能になる。水は泉があちこちにあるので飲むことが出来るし、革袋を持っていれば持ち歩けるが食料は食べられるモンスターを倒して喰うしかない(!)

 ダンジョン暮らしはこのような感じだ。
 モンスターを掃討しフロアのマッピングも終わった、俺は(脳内)メンバーに「そろそろ下に降りる頃だろう」と言う、メンバーの一人が(脳内で)「リーダー、しかし食い物がヤバイですぜ」と答える、たしかにちょっと頼りない、次のフロアの探索にどのくらい時間がかかるかわからないが途中で食べ物がなくなったら全滅だ。
 「じゃあ狩りだ」と言う、近くにボタン扉の小部屋があったのでそこを倉庫にしよう、移動して全員アイテムを床に降ろしスロットを空にする。
 上階は様子が知れているので装備は最低限だ「いくぞ!」と全員で走り出す、無駄な戦闘はしない、上層階は狩りのために何度も通ったのでマップなど見る必要もない、モンスターをよけ階段を駆け上がる、勝手知ったる我が家のようだ。


ブロッコリー

 植物モンスター「スクリーム」通称ブロッコリーの湧きポイントに来る。始めはその不気味な鳴き声に震え上がったものだが、今はマジでブロッコリーにしか見えない。とっととお弁当になれ!とメンバー全員でタコなぐりにする。次はミミズの化け物「丸虫」だ、バランスのよい食事は大事、ひととおり倒したがまだ収納に余裕がある。ブロッコリーの湧きポイントに戻って腰を下ろしPOPを待つ。
「丸虫もブロッコリーも悪くはないんだけど、ここまで戻るのが面倒だなあ」
「これから先に食えるモンスターは出ないのかな」
「聞いた話だと下層に出るドラゴンから出るドラゴンステーキは栄養価が高くてなかなか腹が減らないらしいぞ」
「マジか」
「喰ってみてえ」
冒険者というより山賊っぽいなこれ、などと思いながら(脳内)メンバーと雑談する。

 という具合だ、まさしく冒険者となってダンジョンに居る感覚だ。私は今までのRPGはどれだけ抽象化されたものだったのかと思った。いやゲームとはそういうものだという考え方はあるだろう、そもそも「戦闘」や「競争」を抽象化したものがゲームだ、たとえば歩兵だの騎馬だのから肉体性をそぎ落とし抽象化した先にあるのがチェスや将棋でそれこそがゲームなのだと。

 しかしコンピューターRPGの抽象化はゲームの本質に迫るための要請ではない、たぶん、というか確実にマシンパワーやプログラミング技術の限界から決まった仕様なのだ。そもそもロールプレイングゲームは 役(Role)を演じる(playing)ゲームだ。これは剣と魔法の国の住人になりきるというごっこ遊びなのだ。ならば冒険者となってダンジョンの暗闇を歩き、モンスターに剣を振るい、魔法を行使したいという思いを満たすこと以上に重要なことはない。ダンジョンマスターはもしダンジョンというものがあり、そこにもぐったら何が起こるのか、冒険者たる自分は何するか、ということをつきつめて考えたゲームだった。
 格子のドア越しにモンスターと対峙した時、剣を振るってもダメージを与えることはできなかったが、弓を放ったら矢は格子を抜けてモンスターに当たった、この時はかなり感動した。リアルとはそういうことだ。
 このゲームをダンジョンシミュレーターと呼んだ人がいる、ダンジョンで起きるかもしれないことは起きる、ダンジョンでやりたいこと思ったことは出来る。「フィールドは用意した、そこでどう遊ぶかはプレイヤーに任せる」というこのゲームはその後の私のゲーム観に多大の影響を与えた。

 さて、私のパーティはモンスターを倒し、ナゾを解き、ドラゴンステーキを食べてついに「炎の杖」を手にした。勇んで持ち帰って師匠に渡したら一瞬で黒コゲにされ話はまだまだ続くのだがそれはさておき(!)すったもんだの末についにゲームをクリアしたのだった。
 やった!と思ってゲームSigをのぞきにいったらなんと世間は少人数プレイの時代になっていた。 
 制作者たちはこのゲームを4人パーティで進めることを前提に調整したのだと思うがそれ以下で進めるのだという、というか3人プレイの攻略方法はもう確立していて、今や「2人でもぐるダンジョンマスター」が合い言葉なのだとか。4人でもきついのに2人かよ!と思ったがこのゲームシステムなら可能かもしれない、私もさっそくメンバーの選定に入った、そしてダンジョン暮らしはそれからもしばらく続いたのだった。



10 years later 家庭用ゲーム機に2度目の激震が走った、プレステの発表である。

 プレイステーション 1994~


 世はすでに3D、ポリゴンの時代・・と言ってしまえればよかったのだが、まだまだそうでもなかった。1992年にSEGAが発表したアーケードのレースゲーム「バーチャレーシング」はMODEL1というゲーム基板の性能検証用に開発されたものだがあまりに出来がよいので正式にリリースすることになったという代物だ。




 このゲーム初級コースで開始するとピットロードからのスタートとなり始めにピットクルーがタイヤ交換するシーンから始まるのだがこのポリゴンでできたピットクルーの動きを見たゲームデザイナーがこれでポリゴンの格闘ゲームが出来るのではないか?と思い開発されたのが「バーチャファイター」(1993年)だ。





 つまり3D/ポリゴンのゲームはアーケードですら手探りの時代だったのだ。当然家庭用ゲーム機ではまだまだと誰もが思っている時に発表されたのがプレイステーションだった。座標変換チップを始めとした3D処理専用ハードを備えたこのマシンはポリゴン表現に特化しており、ローンチタイトル(Launch Title 新マシンと同時に発売されるゲーム)である「リッジレーサー」のクォリティは世間とあっと言わせた。
 この時期、家庭用ゲーム機は任天堂とSEGAが熾烈な覇権争いをしていたわけだが、割って入ったソニーが少なくも3D性能では一頭地を抜いたわけだ。これによりそれまで他社で発表されていたナンバリングタイトルがソニーに移ってくるケースが出てきた、代表的なのがスクウェアの「ファイナルファンタジー」である。
 1~3まではファミコン、4~6まではスーパーファミコンで発表されていたこのゲームの7番目「ファイナルファンタジーVII」(以降FF7)がプレイステーション版で発売されたのである。




 これが超が2つ3つ付いてもおかしくない大作であり、まるで劇映画を観るようなストーリー/ドラマによって日本のゲーム史に名を残した。「まるで映画だ」「何時間もやってるが先が見えない」「ポリゴン芝居とCGムービーが融合した演出が画期的だ」と賞賛やまない状況をみてついに私はプレイステーションを買った。このFF7をプレイするために買ったのだ、今日に至るまで私が購入した家庭用ゲーム機はこの1台のみである。
 そしてプレイして驚いた、まあ良くも悪くも驚いたのだがまず良い点はたしかに映画もビックリな映像表現と深いドラマ性だろう。お話はざっくり言うだけでも長くなりそうだが可能なかぎり切り詰めて言う。
 『この星に住むすべての生き物は、星を巡る生命の源「ライフストリーム」から生まれライフストリームに戻る。兵器メーカーだった「神羅製作所」はこのライフストリームを汲み上げエネルギーに変える装置「魔晄炉」を開発し都市に供給することで一大企業にのし上がった。
 神羅製作所から名を変えた「神羅カンパニー」は兵器開発もおこなっておりこの「魔晄」を使った生物兵器の開発も行っている。その一環となるのが改造兵士「ソルジャー」だ。魔晄の光を浴びた証拠である青い瞳をもったソルジャー達は超人的な能力を持つ人間兵器なのだ。
 魔晄炉によって都市は発展し暮らし向きも良くなったが、エネルギーを奪われた土地は痩せて貧富の差が激しくなっている。
 世界1の都市「ミッドガル」は神羅ビルとそれを取り巻く8つの魔晄炉で構成された人工の街で高さ80メートルの鋼鉄のプレートの上に建設されている。プレートの下はスラムになっているがその土地には雑草も生えない。
 魔晄エネルギーの使用は星の命を縮める行為だと考える反体制組織「アバランチ」はミッドガルの魔晄炉の破壊を計画する、ここで雇われたのが主人公クラウドだ、彼は元ソルジャーだが今は金次第でなんでもやる傭兵になっている。
 アバランチの中にはクラウドと同じ村の出身である「ティファ」がいる。またミッドガルには花売りで身を立てる女性、もうひとりのヒロイン「エアリス」がいる。この星には今の人間より遙か前に「古代種」と呼ばれる人々が住んでいた、彼らはライフストリームと交感する力を持ちこの星のどこかに「約束の地」という理想郷があるという伝説を持っていた。約束の地とはライフストリームの豊富な土地ではないかという憶測から神羅はエアリスの身を確保しようとしていた。エアリスは古代種の最後の生き残りなのだ。
 一方、遙か古代この星にはジェノバという宇宙生物が来訪していた、ジェノバの目的はその星のエネルギーを食い尽くすことだったが古代種によって北の大地に封印された。神羅はこのジェノバを回収しその細胞を使った人体実験も行っている、ソルジャー達本人も知らないことだが彼らは魔晄エネルギーだけでなくジェノバ細胞の移植もされているのだ。ソルジャーのリーダー英雄「セフィロス」は自分が実験動物になっていたこと知って怒り、神羅を抜けライフストリームを一人占めすることで神に進化しようとしている。星の滅亡を食い止めるためアバランチとクラウドは神羅とセフィロスの両方を相手に戦いを挑むことになる』

 これだけでお腹いっぱいな設定だがこれで序盤である。

 主人公クラウドくんはツンツン頭でイケメンで自分の身長ほどの大剣を振り回して敵をなぎ倒すザ・ヒーローだ。しかしこのクラウドくんに自分を重ねてドラマに入り込んでいったプレイヤーは次第に自分の足元が揺らぐような不安を覚え始める。
 クラウドくんの記憶と現実がくい違ってくるのだ、身に覚えのない過去についての悪夢も見る、いったいに自分は何を信じればいいのか、そもそも「本当に自分はクラウドなのか?」幼なじみであるティファとクラウドの過去について思い当たるフシのあるらしいエアリスはクラウドを見て何を思うのか、疑うことすら考えていなかったことが揺らいでいくめまいに似た感覚。
 おいおいこれに加えてさらにサイコサスペンスかよどれだけぶっこんだら気が済むんだ、という気分になる。

 元祖RPGの、主人公がダンジョンに赴く理由のためだけにあるようなストーリー(ヒッチコックならマクガフィンと言うだろう)と比べると気の遠くなるような遠大なお話である。映画化するならエピソード9まで必要となるだろう。

 このドラマを表現するために力を発揮したのがプレイステーションの3D性能だ、登場人物はすべてポリゴンによって表示され、ムービーと呼ばれるドラマ部分(キャラクターが演技してお話を進める部分)もポリゴンの3Dモデルがお芝居をするのだ、あらかじめCGムービーとして作製され収録されているムービーとの切り替えもスムースでまさしく映画を観ているようだ。

 ・・とまあここまで言うと天下の傑作のようだが実はそうでもない(^^;)

 良い点を補ってあまりある欠点もまた存在しているからだ。
 FF7ではキャラクターはポリゴンの3Dモデルだが背景はCGイラストレーションだ、背景にパースがつけられている場合、ポリゴンのキャラクターがちゃんとパースに合わせて動くのはたいしたものだがこれに難がある。背景のうち通路やドアなど別マップにつながる地点にキャラクターが移動するとマップが切り替わるのだが、そこが極めて見分けにくいのだ。しょせん1枚絵なので視差もなく「こことここの間はすき間があって通路になっている」というのは制作者側の都合で決まっているだけだ。建物のドアもただの背景として描かれているドアと入れるドア(マップが切り替わるドア)の違いは見た目ではわからない(なので行き先に詰まると全てのドアに体当たりをするハメになる!)
 そしてここが問題なのだがそこがモンスターのPOPするフィールドだった場合マップの切り替えポイントを探しているだけでモンスターとエンカウントし戦闘になってしまうのだ。マップの右に進んでエンカウント、こっちじゃなかったのかと左に進んでエンカウント、やっぱりこっちじゃないのか、とエンカウント、先に進みたいときこれにはまると激しいストレスを感じる。

 次にその戦闘だ、戦闘中に使える「召喚」という魔法がある。火の精霊イフリート、氷の精霊シヴァなど、各種能力のある精霊を呼び出して使役する魔法だがこれを使うとそのたびにムービーが流れる。カッコいいエフェクトと共に精霊が顕現しカッコいいエフェクトと共に技を行使して敵に大ダメージを与えてくれるのだがこのムービーが長い。そしてそれを見せられている間は何も出来ない。最初は「おおカッコ良い!」と思って見ているがそのうち飽きる。何より時間がもったいない。メタな話をすればこちらは仕事の合間を縫ってプレイしているわけで戦闘などはサクサク進めたいのだが召喚を使うと戦闘時間が伸びる。このゲームはなにしろ重厚長大なので戦闘も数限りなく行う必要があるわけで、長くプレイしていくうちにはもうムービーで時間取られたくないと思うようになる。


召喚魔法「ナイツ・オブ・ラウンド(円卓の騎士)」
甲冑の騎士が13人現れ剣やら槍やらで敵を斬るのだが、一人づつ順番に出てくるのでムービーが長い長い「これを行使したらトイレに行く」という冗談もあったほどで今回改めてチェックしたところ1分半あった。とても強力なのだがあまりに長いのでナイツ・オブ・ラウンドはなるべく使わないという本末が転倒したことになる。
 この頃ゲームというものはかなり成熟していてプレイアビリティ、プレイヤーにストレスのかからない操作感というものも進化していた、その常識で言うとゲーム中何度も見ることになる(見なくとも問題のない)ムービーはスキップ出来るのが当然になのだがFF7はそうなっていない。

 そしてこのゲームの最大の問題点はこの戦闘がほとんどストーリーと噛み合っていないことだ、戦闘機会は数限りなくあるので召喚獣の一件がなくともそのうち飽きる、先に述べたようにしないで済むのに始まってしまう戦闘も多い、もういいからさっさと先に進もうぜという気分になる、それは戦闘の結果がお話に噛むことがほとんどないせいでもある要するにただの足止めなのだ、終いにはエンカウントといい召喚ムービーといいこのゲームはプレイ時間を引き伸ばすことに注力しているのではないか?という疑いが頭をもたげてくる。これはこの当時「クリアまでに時間がかかるゲーム=大作」という認識があったせいもある。実際このゲームのレビューには必ず「クリアまで○時間必要な大作」という事が語られていた。
 もちろん長く遊べるのはいいことだ。しかしプレイヤーにストレスを与えてまでプレイ時間を稼いでも意味はない。

 FF7はそののち、「ファイナルファンタジーVII インターナショナル」という日本語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語でプレイできるPC版が発表されたのだが。このバージョンは。
マップの切り替えポイントに矢印が付く
エンカウント率を下げる
ムービーを5倍速で見ることができる
などの変更がなされていた、私の不満は多くのプレイヤーに共通のものだったということだろう。

 まとめるとこのゲームは奥深いストーリーがあってやりごたえ充分だが、ゲームデザインやシステムにかなりの問題を抱えていてとうてい手放しでは褒められないというものだ。
 さらに個人的な感想を言うなら、その重たいストーリーのためにゲームの進行はガチガチの一本道で、行く場所、会う人、やることなどは制作者達が仕込んだ通りに進める以外にない。なので自由度の高い「フィールドは用意した、そこでどう遊ぶかはプレイヤー次第だ」というゲームが好きな私にはとうてい評価できずこれなら最初から映画でよかったんじゃないのかと思われるほどである。

 ということで、良い点は多く悪い点もまた多いこの作品は私のゲームランキングでは選考対象にもならず、しかしそのストーリーで登場人物達の造形で深く記憶に残った。
 それは多くの人々も同じであったらしくクラウド達にまた会いたいというファンの希望は20年ののちに叶えられた、ゲーム史上に残るこの奇跡については後で書く。

 その後私がプレステのために買ったゲームは6つある、ここではFF7のみ触れるつもりだったが印象に残るゲームが他にもあるので簡単に書く、どちらも「フィールドは用意した、そこでどう遊ぶかはプレイヤー次第だ」という私のストライクゾーンのゲームで両方ともフロムソフトの作品だ。

 ひとつは「アーマードコア」ガンダムというかパトレイバーというか世代によって思い描くものは違うだろうが人が乗り込んで戦う系のロボット対戦ゲームである。プレイヤーは自前のロボットを所有する傭兵であり依頼受けて戦うのだが、このロボットが頭、胴体、足、腕、肩、武器、戦闘支援装置などが自由に組み替えられる。そしてこのパーツ数が尋常ではなく同じ性能を持つロボットは2つとないといわれるほど自由度の高いものだった。
 そのように細かい違いのあるパーツで組まれたロボットをよくまともに動作させられるものだと思うが、結果はちゃんと戦闘に反映しておりこのゲームはアクションでもシューティングでもなくロボットシミュレーションだと言われるほどだった。

 プレイヤーの戦闘スタイルはそれぞれで、汎用の機体を組んでどんなミッションもそれ一本で推し進め、習熟度を向上させることで各ミッションに対する機体の向き不向きをカバーするというスタイルから、ミッションごとにイチから機体を組み直す派もいる。
 私は上体に関していつも同じで、脚パーツはその時次第で人型から逆関節やキャタピラと使いわけていた。上体を変えないのは両手の武器(左にレーザーブレード、右にマシンガンが基本だった)を持ち替えると間合いが変化して戦いにくくなるからだ。
 さて、あるミッションで出撃したときのことだ、開始地点が洞窟内部だった、高さがロボの倍ほどのトンネル内部である、敵はどこかと思って洞窟出口に向かうと開口部の下に平地が見えてきた。どうやらここはクレーターのような外輪部のある地形で、この洞窟は外輪の上部に開いているらしかった、洞窟の出口付近で下を見下ろすと遙か彼方に敵ロボットらしき姿が見えた、と思った瞬間、爆発音と共に目の前が火に包まれ、HPが尽きてゲームオーバーになってしまった、何が起きたのかわからない。

 再び出撃、洞窟だ、もしかして後ろに敵がいたのかと思い前後を注意しながら進む、問題ナシ、出口からそっとのぞき込む、遙か彼方に敵、と思うやまたしても周囲が大爆発、ゲームオーバー!!

 再び出撃、コックピットの中にいる(はず)の私は五感を研ぎすまして、洞窟を進み敵を視認、大爆発!
 え~~~~と思ったが大爆発の前になにか音がしたような気がする、シュパパパというあの音、あれはミサイルの発射音ではないか。
 わかった!自分の背負っているミサイルが自動で発射され洞窟の上部にあたってそれで自爆していたのだ!!

 私は新たなミッションに向かう時はとりあえず前回の装備のままで出撃する、なので今回は背中に「上空迂回型ミサイルポッド」を背負い、戦闘支援装置として「ロックオン、ミサイル自動発射装置」を積んでいた。敵ロボと接近戦になると移動と武器の使用で手いっぱいになってミサイルのロックオンや発射管制ができないので、ロックオン/自動発射は必須だ。そのミサイルだが接近戦では障害物を利用して敵の飛び道具を防ぎ、ヒット&アウェイが私のスタイルなので、一旦上空に向けて発射しある程度距離ができたところで誘導が始まる「上空迂回型ミサイル」が有効なのだ・・普通は。
  それが今回、洞窟内部なのに敵をロックした自動発射装置がミサイルを発射し、天井に当たり、至近距離にいた自分が自爆してしまったのだ。プレイヤーが上空迂回型のミサイルを積んでいるかどうかなどフロムの知ったことではない、これはあらかじめ仕組まれた罠でもイベントでもなくロボットシミュレーターが正常に機能し当たり判定とダメージ判定機能が働いただけだ。
 プレーヤーを手のひらで遊ばせてくれるような仕組みなどなくクリアまでの道筋も決められているわけではない、これが「フィールドは用意した」というやつである。

 フロムのプレステ用のゲームでもう一つ「キングスフィールド2」
 ゲームを開始すると自分は夜の海の中に立っている、腰高くらいの深さだろうか、なんだこれ?と思って回りを見回すと近くに陸が見える、島だろうか、とりあえずあそこに向かおうと1歩踏み出すとア~~~~~~というキャラクターの(自分の)声が聞こえ、視点は海中に、ゲームオーバー。
 何事?と思い再び開始、夜の海、島、一歩踏み出す、ア~~~~~~~~~~~~~!
 3回ばかり死んで、やっと自分の立っている場所の海の色が周囲と違うのに気づく、なるほどここは浅瀬なのか、そう思ってみると浅瀬が続いている箇所がある、ここをたどっていけばいいのね、と歩いていくと大型の魚に体当たりされ深みに叩きおとされて ア~~~~~~~~~!
 5回ばかり死にやっとの思いで陸に這い上がる、島の周囲にはぐるりと細い道が刻まれている。一方をたどっていくと人の背丈ほどのでかいイカ、これがチュートリアル&レベル上げ用のザコモンスターかと近づくと食腕がびゅーんと伸びてきて海に叩きおとされ ア~~~~~~~~~! もう泣きそうである。

 別な方向に進むと洞窟があり中に直径2~3メートル、厚み50センチほどの緑色の半透明物資、これスライムか!おそるおそる近づいてみるが攻撃してこない、上に乗ってみるとブヨンブヨンという感触で面白い。赤っぽい色のスライムもいるのでボヨンボヨンしてみると視界に赤いエフェクトが走る、なんだ?と思って自分のパラメーターを見てみるとHPが減っていく、毒か!

 というわけで何の説明もなく、チュートリアル的なものもなく、主人公の目的もわからないままプレイヤーは夜の闇に包まれた島をさまうことになる(途中重要なヒントをくれるNPCもいるが攻撃すると殺せてしまう!)レベルが低いうちは遠出できない的な仕組みもないので逃げ隠れしながら進むと分不相応な高レベルモンスターの居るところまで進むことができ、戻ることも出来ずに詰む自由もある。

 またこのゲームでファイヤーボールを撃つと敵を中心に直径数メートルの炎のドームが出来るのだが、炎が消えないうちに中に駆け込むとダメージを受ける、自分の放った魔法でも自分にダメージが来るのだ。しかし直撃をくらった敵はしばらく動けないのでダメージ上等で炎の中に踏む込むとノーガードの敵に斬りつけることが出来る、レベルが上がるとこの炎ダメージは相対的に低くなるで私はこの戦法を多用した。遠距離からの魔法の撃ち合いでもいいし魔法抜きの斬り合いでもいいしこのような合わせ技を使うことも出来る
 つまり「ダンジョンの中の法則は敵も味方もなく適用されそれをどう使って戦うかはプレイヤーにまかされている」のだ。
 ダンジョンマスターの再来である。そこでこれはゲーム史上ナンバー1だった「ダンジョンマスター」の正当な後継者であると(私に)認定されランキング2位の称号が(私から)贈られた。すごいぞフロムソフト。

 このように特段のストーリーはなく、完成された世界観だけでプレイヤーを楽しませてくれるのがフロムソフトウェアだった、それが一昨年の「デラシネ」は語るべきストーリーが先にあり、プレイヤーは制作者達が用意したイベントを用意された順番でたどる以外クリアできないというまったく自由度のない作品になってしまっていた、いくらVR初作品といいそれはないんじゃないのと思う私はフロム原理主義者なのかもしれない。


 MMORPG
 (Massively Multiplayer Online Role-Playing Game) 2002~
 

 ここでまた8年ジャンプする。

 この年またしてもゲーム界に激震が走った、国産初の「大規模多人数同時参加型オンライン・ロールプレイング・ゲーム」ファイナルファンタジーXI(以下FF11)が公開されたからだ。
 
 MMORPGについて何も知らないという向きもないとは思うが、要するにネットを通じて多くの人間が参加するオンラインゲームである。この時すでに海外では「ウルティマ オンライン」などが公開されており、コンピューターゲームの最先端に触れていたい私としては待ちに待ったゲームだった。
 5月にプレステ2で始まり半年後にwindows版のサービスが開始されるという、私はwindows版で参戦すべくこの間じっくりと情報を収集した。どうやらwindows版のFF11はPS2と比べるとより高精細なグラフィックが楽しめるらしいがそれを動かすためには高スペックのマシンが必要なようだった、検証用のベンチマークソフトも公開されたのでテストしてみた結果私の現有マシンでは「動かないこともない」(快適なプレイは望めない)環境であった、そこでFF11用の新マシン(!)の導入を決めた。

 ちょうどと言うべきかこの頃PCは自作ブームでホビイストならメーカーお仕着せのマシンなど買うものではないくらいの空気が流れていた。実際メーカー製のPCで高性能マシンというと全方位に性能向上がはかられていて、バンドルソフトもバカみたいにいっぱい付いており、自分では使わない機能にまでお金をかけている感が強くなる。たとえばグラフィック能力の高いマシンが欲しいと思うとコンピューターミュージックを作製する能力も高いマシンになってしまうということだ、FF11を快適にプレイする要素のみ強化したマシンが欲しい私としてはこの自作ブームは都合が良かったのだ。
 半年の猶予期間中にじっくりとパーツ構成を決め、FF11 Ready(FF11をプレイするに充分な性能を有している)なマシンを組み立て私は満を持してサービスの開始日を迎えた。

 さて先に海外では「ウルティマ オンライン」などが公開されていたと書いた、なので私はMMORPGというものがどんなものか大体理解しているつもりだった。私はまずこれを24時間365日ネット上で起動しているゲームであると思っていた、つまり自分が起動したときだけ動くゲームではなく起動しっぱなしのゲームがあり自分はそれに参加するものであると、これはおおむね間違っていなかった。そして従来のRPGでは自分以外の登場人物はコンピューターが動かすNPC(non player character)であったのに対し、どこかの誰かが操作するなゲームなのだと思っていた。それは間違ってはいなかったが全然足りていなかった。

 私はMMORPGはFF11しかプレイしたことがないので、他のゲームのことはわからないが、少なくもFF11にあっては他人とのコミュニケーションがゲームの全てであったのだ。
 RPGとは何か、それは登場人物になりきること一人の冒険者となって冒険の旅に出ることだと思う。しかしそれを行うにはFF11の世界は厳しいものだった。私は従来のようにフィールドに出て戦闘を行い経験値を積んでレベルを上げ、街に戻ってアイテムを売り買いするつもりだった、その売り買いあたりにオンラインゲームの楽しさがあるのだと思っていたのだがフィールドに出てびっくりした「このゲーム1人では何も出来ない」
 多くのRPGと同じくFF11にも職業というものがあり、大きく分けて前衛、後衛、つまり物理アタッカーと魔法使いが存在する。前衛は剣や拳で戦って敵に物理ダメージを与え、物理攻撃に対しては耐性がある(いわゆる「堅い」)後衛は攻撃魔法や回復魔法を操り遠隔から攻撃できるが物理ダメージに弱い(柔らかい)
 そして前衛だけでも後衛だけでもこのゲームは進められない。前衛は敵からくらうダメージを回復する手段を持たないので、削り合っているとそのうち死ぬ。後衛は回復手段を持ってはいるが、物理攻撃に耐性がないので正面きって戦っているとたちまち死ぬ。
 そしてダメージをまったくくわないような弱い敵と戦っても経験値は入らない。戦闘に勝利して経験値を積みレベルを上げないと始まりの街から出ていくことができない、広い世界を旅して冒険をするというRPGの醍醐味を味わうことができないのだ。
 そこで必要となるのがパーティプレイだ。前衛、後衛、中衛、バランスのよいメンバーでパーティを組み一致協力して戦闘に臨んではじめてこのゲームでは経験値を得られる敵を倒すことが可能になる。

 しかしパーティを組む相手はリアルから参加している本物の人間だ、生身同士であれば年齢、社会的立場、土地柄、人相風体、挙措挙動などによってコミュニケーションのための一定のフォーマットが存在するが、これはヴァナ・ディールという架空の世界のロールプレイだ、相手は獣人、エルフなど人間ですらないキャラクターも多い、年齢も、中の人の性別すらわからない、そういう大げさに言ってみれば人類初のコミュニケーション形態で自分がどう振る舞うのか。これがFF11の本質だったのだ。




 手探りで見知らぬ他人とパーティを組み連携して戦闘を行い協力してイベントをこなすうちにわかってきたことがあった。口に出してみると単純すぎるようだが「他人には親切に」という行動が結局自分の利益になるということだ。
 私はこのゲームで誰かに何かの協力を頼んで断られたことはないし頼まれて(それが自分に出来ることであるならば)断ったことはない。

 ファミ通の編集者が書いた「ファイナルファンタジーXI プレイ日記」という本があるがその中に。

 協力してほしい、ときちんと頼まれたとき、ほとんどの冒険者はそれを断らない。それは、ヴァナ・ディールを旅する多くの冒険者が誰に教わるでもなく認識する、共通の武士道のようなものであるように思う

 とある、FF11は参加者3~4000人ごとに1つのサーバーが割り当てられていて、独立して稼働している、つまり複数のヴァナ・ディールがあったということだ。1つの世界は「ワールド」と呼ばれ 最盛期には40近いワールドが存在した(ワールドにはそれぞれ Bahamut バハムート Shiva シヴァ Leviathan リヴァイアサン Odin オーディン Quetzalcoatl ケツァルクアトルなど、厨二病感あふれる名前が付いていた)だからこの筆者のワールドが私が居住していたワールドと同じである可能性は低いのだが、事情はどこも同じだったらしい。開発元であるスクウェアがこれをどれだけ計算して作ったのかはわからない、おそらくは様々な要因によって偶然に(そして幸運にも)出来た文化ということだろう。




 結果、コミュニケーション能力に自信があるわけでもない私にも多くの友人が出来た。性別も年齢も職業も(というか社会人かどうかも)わからない友人が出来たのだ。そしてこの特に約束をしていなくともぶらりと遊びに行けばそこに友人が居て、つるんで遊びに行ったりことによってはムダ話をするだけでその日が終わるなどという環境は学校を出てからまったく縁のなくなったものだったと気づいた。そんな緩いつきあい方は中高校生でもなかなかあり得ず、小学生くらいまでさかのぼる必要があるかもしれない。それはドラえもんの空き地のようなものだ、ドラえもんの空き地は郷愁の彼方のあったかも知れない(実はどこにもない)一種のユートピアだが、21世紀になってコンピューターの性能とプログラミング技術とネット環境のおかげで、それが再び成立したということだ。

 私はこのFF11を正統なロールプレイングゲームとして、つまり戦闘・レベル上げ・クエスト攻略を楽しみ、ドラえもんの空き地として楽しみ、ごく一部の相手とは個人的な背景も明かして一種のSNS(スマートフォンがまだ普及しておらず(iphoneも無く!)SNSという概念すらなかった時代ではあるが)として楽しんだ。

 気づいたら11年経っていた。

 この間、遊びのために使えるコンピューター稼働時間はほぼ全てFF11に突っ込んでいたためその他のゲームはロクにやらなかった。コンピューター・ゲーム空白期間である。

 さてかくも熱中したFF11だが、コンピューターゲームランキング的にどうなのかというとわたし的にはランクの外と考えている。低評価というわけではなく、評価すべき点が他のゲームと違いすぎて同列に考えられないということだ。そもそもこれはゲームなのだろうか、およそ全てのゲームにおいて「プレイする」というのはそのゲームが用意した要素を楽しんでいるという意味だが、FF11の場合ログインしたもののダラダラとお喋りしているだけという時間も多い、これを「プレイしている」と言っていいのかどうか、これが楽しかったとしてこれを「FF11はよく出来たゲームである」と言っていいものかどうかわからないのだ。



 さて先に「コンピューターの性能とプログラミング技術とネット環境」と述べた、MMORPGがどれだけ高度で複雑な事をやっているのかという話だ。たとえば戦闘中、私を含めた6人のメンバーが1匹のモンスターを囲んでいる。私が左手に持った盾で敵を打撃するシールド・バッシュを行ったとする、するとそのキー入力がネット回線を通じてスクウェアのサーバーに伝わり、当たり判定が行われ、効果アリと判定されるとダメージ判定が行われて、モンスターのHPが減りダメージエフェクトが発生する。それと同時進行で他の5人のパーティメンバー(ことによると日本でない場所からログインしているかもしれない人々)それぞれの行動についても、同様に効果判定や、エフェクト光やら、エフェクト音の発生が行われる、サーバー側のコンピューターが動かしているモンスターはそれらに応じた行動たとえば被ダメージモーションを行う。サーバーはそれらの要素を1つのパッケージにしたデーターを私のコンピューターに送り返し、私のPCは地形データーから作られた背景の上にパーティメンバー、モンスターを乗せてシーンを構成し、それが「私の視点から見てどう見えるか」計算してポリゴンを生み出しポリゴンにテクスチャーを貼り付け、私のモニターに映し出すのだ。これが1秒に数十フレームのスピードで更新されていると思うとその複雑なリンクと膨大な計算量に目がくらむような思いがする。
 更についでに言えば私たちのすぐそばで別なパーティが戦闘していて、それが目に入る位置であるならば、そのメンツ達の行動もリアルタイムで描画されているのだ。
 気が遠くなるというか、キャラクターベースのゲームからスタートして、遙けくも遠くへきたものだと思わず遠い目になりそうだが、パラディンにしてパーティのメイン盾である私は一瞬たりとも敵から目を離すわけにはいかないのだった。 


 V・R (virtual reality)2016~


 ヴァーチャルリアリティ(仮想現実)体感装置はコンピューターゲームに激震(激震ばっかり)を起こした。

 人の左右の目に視差のある映像を送り込み、立体映像を見せるという試みは1970年台から行われていた、しかし世の中の多くの技術がそうであるようにそれを実現するためには充分なコンピューターパワーが必要であり、ましてや「仮想現実」と言うほどのクオリティを得るには21世紀を待たなければならなかった。
 1990年台にVirtuality 2000というヘッドマウントディスプレイを使用したVRゲームがアーケードに出現したのだが、映像が立体感のある3Dであるというだけで、キャラクターも背景もカクカクしたポリゴンでゲーム性も低く、なによりトラッキング(首を振った時にそれに合わせて映像を描画する仕組み)性能が低く開発したイギリスの会社はたちまち倒産した、日本でもロケテストがあったという話だが私は見た覚えがない。
 1995年には任天堂もバーチャルボーイという3Dゲーム機を出したが、赤1色の映像であり、机の上に三脚で置いてのぞき込むというプレイアビリティの悪い仕組みであり、なにより面白いゲームが出なかったため「世界中で売れなかったゲーム機ワースト10」(pc world 調べ)のベスト5に入賞するほどの惨敗を喫した。

 実は私はアーケードで一回だけVRゲームに遭遇したことがある、しかしそれがどこの会社のなんというゲームだったかかまるで覚えていない。覚えているのはそれがガメラ3の準備期間中だったということでありつまり1998年だということだ。
 とあるゲーセンで直径1メートルほどの円形の舞台の上でヘッドマウントディスプレイをかぶった男が据え付けてある取っ手を握ってしきりに左右を見回していたのだ。それがVRゲームであることはすぐに理解できたが、これは時代的に早すぎる(科学の限界を超えてやってきた)のではないかと思った。ゲーム画面は別途モニターに映し出されているのだがそれがポリゴンむき出しのカクカクした映像ではなく、砂漠を進む装甲車から周囲の敵車両を撃つリアルなシューティングゲームだったからだ。
 いったいにいつの間にここまでVR技術が進歩したのかと思いさっそくプレイしてみたのだが。
 限られたリソースを有効活用するためゲーム画面はびっくりするほどシンプルだった、まず舞台は砂漠、周囲は茶色の土で地平線の彼方まで茶色、なのでごく近くの地面を動かすだけで移動感が出る、上を見上げると空と雲が見えるが、これは無限遠なので動かずともOK、自分は装甲車の銃座にいるのだが装甲車自体は自分と一緒に動いているので1枚絵でOK、リアルに動かす必要があるオブジェクトはプレイヤーの動きと連動する機関銃と敵車両のみ、敵車は周囲を取り囲むようにして併走しているのだが、そこそこ遠いのでさほどポリゴン数を要しない。
 なるほど、現状可能であることをギリギリ計算して製作されたゲームなのね、と思いプレイを開始したのだがこれがやばかった、トラッキングが追いついていないのだ。たしかに右を向けば右の景色が見えてくるのだがほんの一瞬遅れるのだ。
 首を右に振る・・・・画面が右に動く、ということだ、これが致命的だった。
 人には三半規管という超高感度な慣性誘導装置があり視覚と連携して働いている。通常この連携について意識することはない、しかしここにズレがあると「3D酔い」を起こすのだ。
 3D酔いとは何であるか、これはVRに限らずリアルな映像のアクションゲームで起こる状態異常だ。元はFPS(First Person Shooter 一人称視点シューティングゲーム)で言われ始めた言葉であり、アメリカではDOOMというゲームがFPSの代表作であったため当初は「DOOM酔い」と言われていた。 
 一人称視点ゲームはモニターの映像が自分の視界でありゲームにのめり込むと自分自身がゲーム内部で走り回っているように感じる、そこで視覚が「走っている、右を向いた」というような情報を上げているのに、三半規管は自分は動いていないと脳に報告するので(プレイヤー当人はモニター前の椅子に座っているので)情報の齟齬が生じるのだ。「酔い」と言うのはその結果が吐き気となって現れるためだ。
 視覚と三半規管の齟齬がなんで吐き気につながるのかと言うと。脳は身体情報と視覚情報が食い違うのは、幻覚を見ているためであると判断し、幻覚を見るのは毒の影響であると判断し、食べたものを排除するため嘔吐しようと試みるためであるとされている(ほんとかしら^^;)

 3D酔いはアクションゲームにとって鬼門である、そもそも人は歩くと頭が上下動する、なので一人称視点ゲームで正確にキャラクターの視界を再現すると移動中視界が上下する、ただ歩いているだけで画面が上下に揺れるのだ、これをヘッドウェイブというのだがこれで酔う人間は多い。なので多くのゲームでは移動中のヘッドウェイブをキャンセルし車に乗っているかのように移動する、これをリアルでないと思うコアゲーマーのためにヘッドウェイブを使うかキャンセルするかを選べるゲームも多い。

 話を戻すがそのゲーセンだ、コンピューターの処理速度に不足があるらしく映像処理に遅れが生じていたのだ、プレイした私は吐き気を感じこれはダメだと確信した、やはりというかこのゲームはすぐにゲーセンから姿を消し2度と見かけることがなかった。ネットで検索してもまったく情報がなくそれがどこの何というゲームだったのかさえわからないので1台きりのロケテスト(試作品を市場に出して反響を見る)だったのかもしれない。

 というわけで、VRがエンターテインメントとして使い物になるレベルとなり個人が手に出来る民生機として市場に出てくるには更に十数年の時間が必要だった。

 さて、この稿の最初の方で、「皆自分たちが何かのスタートラインに立っていると信じていた/コンピューターと共にその道を行けば絶対面白いことが起こるはずだと信じていた」と書いた。初期のコンピューターはそのアーキテクチャも動作原理も手に取るようにわかる代物で、今からすれば笑い話だがその頃の私はずっとコンピューター技術の最前線に立っているつもりだったのだ。しかしもちろんコンピューターはあっという間に私を置いて先に進んでしまった。こちらは灰色の脳細胞であり、あっちは「ムーアの法則 」(集積回路上のトランジスタ数≒コンピューターの性能、は2年ごとに倍になる)によって指数的に進化するシリコンパワーなので当然ではあったがそれでも80年台くらいまではどこがコンピューター技術の最前線であるかくらいは見えていた。
 やがてコンピューターは社会のありとあらゆる分野に浸透し、ユビキタス (ubiquitous 遍在、いつでも、どこでも、誰でもコンピュータネットワークにつながる社会)と言われるものになり、最前線という言葉も意味がなくなってしまった、もちろん今でも最前線はあるだろうが、それはコンピューターグラフィックスで、分子生物学で、社会統計学で、アーチスティックインテリジェンスでそれぞれに最前線がある、そしてその多正面作戦の戦線の一つがコンピューターゲームだ。
 私はもはやゲームの中で何が行われているのか想像もつかずただ遊ばせてもらうだけになってしまったが、今どのあたりが戦場になっているかくらいはわかる。今はVRである。
 コンピューターゲームには今までにもいくつかの大きな技術革新があったがこれはそのどれよりも大きな変化をもたらすものではないかと思う。ということでVR技術については常に情報を収集していた。そして話題が出るたびに夢は広がり、遠足を待ち望む子供のように実用化はまだかまだかと思っていた、2000年初頭にVRゲームが世に出始めた時はキターーーーーーー!と思った。ドッグイヤーと言われるコンピューター技術の進歩からすればその片鱗が見えてから実用化まではあっという間だと思ったのだ。
 VR用ヘッドマウントディスプレイを開発している Oculus社が2012年6月の E3(Electronic Entertainment Expo 世界最大のコンピューターゲーム見本市)に試作品を発表し、クラウドファンディングで300ドル以上出資した人には12月に試作機を提供するというキャンペーンを行うと聞き、やっとキターーーーーーーーーーーーと思ったのだが、バンドルして提供する予定のゲーム(これがまた「DOOM」だ)が間に合わずに延期となり、その試作機というのも市販を前提としたものではなかったらしく、その後何度ももヴァージョンアップが行われ一向市販には至らなかった。

 結局、民生用VR用ヘッドマウントディスプレイが市販されたのは2016年になってからだった。驚くべきことに Oculus Rift と HTC-VIVE という2つのVR用ヘッドマウントディスプレイが同時に発表されたのだ。同じ時期にほとんど同じ機能を持つ商品が別な規格で世に出るということがときおり起こるのだが負け馬に乗らないことは重要だ、問題なのは必ずしも機能的に優秀な方が勝つとは限らないということだ(元ベーターマックス派、談)
 これをして2016年は「VR元年」と言われるのだがしかし、いったいにどちらを買うべきなのだろうか、こういう物は結局個人では計り知れないビジネス上のパワーバランスで決まるものであり、決め手はないので親会社の企業風土で選ぶことにした。Oculusは Facebook の傘下であり、HTC-VIVEは世界最大のコンピューターゲームディストリビューター steam の傘下だ、宣伝戦略を見てもユーザーオリエンテッドな Oculus とゲームオリエンテッドな HTC-VIVE と色が分かれている、HTC-VIVEのほうがゲーマー寄りで高機能で、そのかわりセッティング等は面倒くさいのだ。

私「神よ私はどちらのVRシステムを買うべきでしょうか」
コンピューターゲームの神「お前はコンピューターゲームに何を望む?」
私「コンピューターの性能を極限まで使い切った先にある新世界を体験することです」
コンピューターゲームの神「ゲームを通じて周囲とソーシャルな関係を築こうとは思わないのか?」
私「そんなものは馬に喰わせても構いません」
コンピューターゲームの神「HTC-VIVEにしておけ」

 というようなわけで私はHTC-VIVEの購入に決定した。
 とはいえ、不見転で高額な商品を買うのもためらわれたので試遊してみることにした、秋葉原に「ドスパラVRパラダイス」というHTC-VIVEを体験できる施設があったのだ、これはパソコンショップのドスパラがやっているものでVRゲームを30分無料体験させてくれるのだという。予約してドスパラ秋葉原本店に行ってみるとどうやらいくつかのソフトがあり好きなゲームを遊べるらしい、どれにしようか、とは一瞬も思わなかった。ゾンビ撃ちゲームがあったからだ。


VRゾンビ撃ちゲーム The Brookhaven Experiment


 アーケードにはザ・ハウス・オブ・ザ・デッド(通称HOD)という人気のゾンビ撃ちゲームがある、1997年に登場し 
THE HOUSE OF THE DEAD
THE HOUSE OF THE DEAD 2
THE HOUSE OF THE DEAD III
THE HOUSE OF THE DEAD 4、
THE HOUSE OF THE DEAD 4 スペシャル
THE HOUSE OF THE DEAD EX
HOUSE OF THE DEAD SCARLET DAWN

と、長く続いているのだが、私はこのHODのファンでとりあえず前を素通りしない(!)ことになっている。
 そんなゾンビ撃ちゲームがVRでも、となればそれ以外の選択肢などないのだ。
 ヘッドマウントディスプレイを被りコントローラーを持たされて、ゲームスタート

 激しく怖い! 

 銃型のコントローラーを握りモニター越しにゾンビと相対するゲーセンのゾンビはいかにそれがおどろおどろしくともスプラッターであろうとも所詮は画面の向こう側の話だ。ところがVRゲームはゾンビの居る空間に身一つで放り出されたという空気感がある。アーケードは目の前のゾンビを撃つだけだが、VRでは全方位に気を配らなくてはならない、後ろからヒタヒタという足音が聞こえてきたときの恐怖感、前と後ろからゾンビが迫ってきたときの焦燥感はとうていゲーセンでは味わえない。またそのゾンビが等身大に見えるのも大きい、ゲーセンのゾンビはモニターなりのサイズにしか見えず、言ってみればゾンビの形をしたただの的だが、VRでは自分と同じサイズの化け物として見える、撃ちそこねて組み付かれた時の嫌悪感おぞましい皮膚感覚はこれまでにはなかったものだ。

 コレダ!と思った。

 試遊とは言っても20年近く待っていた機械で、前のめりで乗り込んできたので当然の成り行きというべきだったがプレイが終わるや即売り場に直行しHTC-VIVEを一式購入してしまった。


HTC-VIVE


 ちなみにこのヘッドマウントディスプレイ、当時のプレステ4の4台分以上のお値段である、幸い私のコンピューターはVR Readyだったのでこれで済んだが、接続するコンピューターにもかなりのハイスペックが要求され同時期にHTC-VIVEを導入した友人はグラフィックボードの買い換えが必要だった、もしイチからVR環境を整えようとしたら全部でプレステ4の10台分以上のお値段となるだろう。
 
 ホクホクしながら家に持ち帰ったがPCにつないで即プレイとはならない、HTC-VIVEの場合「プレイエリア」というものを設定しなくてはならないのだ。 「プレイエリア」とは対角線で5m(たとえば 3.5m×3.5m 約8畳)ほどの空間であり、ヘッドマウントディスプレイを被ったプレイヤーはこの中で自由に動けるのだ。そういった空間を用意出来ないプレイヤーのためにプレイエリア無しのモードは用意されているがそれでは充分にVRの恩恵を受けられない。
 さっそくに空き部屋を整理して6畳ほどの空間を確保した(プレイ中は全く周囲が見えないのでこの中に障害物があってはならない)
 そしてベースステーションという赤外線レーザーの発信器を2つ、エリアの対角に取り付ける。キャリブレーション(calibration 較正/調整)を行ってここからここまでがプレイエリアね、とシステムに記憶させたら設定完了だ。
 ヘッドマウントディスプレイを被りコントローラーを両手に持ってプレイエリアに入ると私はゾンビの徘徊する研究所の中に立っている(The Brookhaven Experimentも同時購入した)破壊されつくし瓦礫の散乱する研究所、薄暗い廊下の先、チラチラと燃える火に照らされゾンビが一体近づいてくる、右手の部屋の中割れた窓ガラス越しにももう一体居る、両手を見ると右手にハンドガン、右手にはフラッシュライトを持っている・・といった案配だ、上を見ても下を見てもリアリティ充分なCGに取り囲まれてまさしくそこに居る感覚である。

 この驚異の映像はどうやって生成されているのか。
 まずベースステーションがプレイエリアに向かって赤外線をフラッシュする、これはSync Blinker (同期点滅)といい赤外線レーザーを発信するという合図だ。次にベースステーションはレーザーを平面状に照射しながらプレイエリアを上から下に走査する。ヘッドマウントディスプレイには赤外線の受光器が付いていて、Sync Blinkerの光が来てから水平スキャンのレーザーが来るまでの時間差を測っている、これによって受光器がプレイエリアの水平面のどこにあるかがわかる。
 再びSync Blinkerが信号を発し今度は垂直な面のレーザーがプレイエリアを右から左に走査する、これで受光器がプレイエリアの垂直面のどこにあるかがわかる。水平、垂直2の面の交差する線上に受光器は存在するわけだ。そしてレーザーが発射されてから受光器に届くまでの時間を計測することでヘッドマウントディスプレイがベースステーションからどれだけ離れているかわかる、3つの要素を組み合わせればプレイヤーの3次元的な位置が計算できるのだ。
 別段理解しがたいことではないただ信じがたいのはその精度だ。

 ヘッドマウントディスプレイのプレイエリア内での3次元的な位置はわかった、しかしそこでヘッドマウントディスプレイがどこを向いているか(私がどっちを向いているか)手にしたハンドガン(コントローラー)をどこに向けているかはどうやって判定しているのだろうか、それはヘッドマウントディスプレイやコントローラーに複数付いている赤外線受光器にどれだけの時間差でレーザーが届いているかで計算するのだが・・・
 ヘッドマウントディスプレイには受光器が30個付いている、上下間の受光器間の距離は一番大きいところで10cmだ、私がベースステーションに対し45度下を向いているとすると上の受光器より下の受光器のほうが70mmベースステーションから遠い、なのでレーザーは70mm分遅れて到達するわけでこの時間差を計算することで角度が計算出来るのだが、70mmデスヨ、地球を七回半回る光が70mm。





 計算しよう、光の速度は秒速30万km、30×10000×1000で秒速300000000mm つまり1mm進むのに1/300000000秒しかかからない、70ミリなら70/300000000 で 7/30000000秒 0.0000002333・・秒だ、それって計測できるんだ、誤差の範囲じゃないんだ、と私は思ってしまうのだがそのスジの人からすれば何を言っているんだ?という話なのだろう。
 ともかくそのように30ある受光器に入射するレーザーの時間差を計算することで、ヘッドマウントディスプレイやコントローラーの向きまでも正確に計測できるのであるらしい。
 このように外部に計測のための器機を置くVRシステムをアウトサイドイン方式という、外部器機を必要とせずヘッドマウントディスプレイ単体で全てをまかなうインサイドアウト方式とくらべるとプレイを開始するまでの設定が面倒なのだが、HTC-VIVE 曰く「この方式は簡単な三角関数でヘッドマウントディスプレイの位置や傾きが計測できるのでPCの負荷が軽い」のだそうな、軽いんだって。
 ちなみに計測の精度は0.1ミリ単位であるらしい。

 ともあれコンピューターゲームに新たな地平を切り開いたVRで私はゾンビと戯れ、グーグルアースで世界を旅し、3次元弾幕ゲームをプレイし、リアルサイズのグラドス(ポータルというゲームのボスロボである)に驚き、等身大初音ミクに目の前で踊ってもらったりした(!)更なる驚きがあったのは6年後だがそれは後で。


 FINAL FANTASY VII REMAKE 2020~

 リメイクの噂は何度となくあった、しかし続編でもアナザーストーリーでもない完全なリメイクなどコンピューターゲームではまず聞かない。だからそのたびにそんなわけはないと思っていた。そしてそのたびに噂は煙のように消えた、でも話を聞くたびに心がざわついた、あの大作感だけあってまとまりのない欠点だらけのゲームの何がいまだに私の心を捉えているのだろうか、イチからまたやってみようかと時々思ってしまうのはなぜなのだろうか。そうして20年近くが経過した。



 そしてついに2015年のE3で公式のトレーラー映像が公開された、ミッドガルの雑踏を特徴ある背中が行くだけの短いカットだったが they are coming back というナレーションを聞いて、やった!と思った。どうやら私はびっくりするほどFF7が好きだったらしい。きっとそんなゲーマーが世界中にいたのだろうE3ではこの映像が流れるとスタンディングオベーションが起こったという。
 スクウェア・エニクスは外注も共同開発もせず内部開発するという、ならばこれがスクウェア・エニクスの社運を賭けた大作になるだろうことは確かだった。

 そして2020年3月ついに公開されたのだがなんと「第1部」だった、内容は旧FF7の紹介の時に語ったミッドガル編のみ、たしかにこれだけでも1本のゲームとしておかしくないやりごたえだったが。

ミッドガル
コスタ・デル・ソル
ゴールドソーサー
コスモキャニオン
ニブルヘイム
ニブル山
ロケット村
ウータイ
古代種の神殿
ボーンビレッジ
忘らるる都
大氷河
北の大空洞

と、舞台は移っていく、ミッドガル編は世界観の説明もあってボリュームがあるのだがそれでも序盤だ、いったい全体で何部になるのか、そしていつ完結するのか。

 そこで私が待ってました!とプレイしたかというとそうではないなぜならプレステ4を持っていないからだ、年末にはプレステ5も出るというこのタイミングでFF7リメイクのためにプレステ4は買えない。いずれFF7リメイクもプレステ5対応になるだろうし年末まで待ちかなと思っていたところが貸してくれる人が居た、ゲームとプレステ本体を別々に借りてプレイすることが出来たのだ。





カット割りからカメラアングルまで旧作と同じというオールドファンを泣かせるイントロ


 何はともあれ超大作!というのが第一印象だ。作り込まれたキャラクターの細やかな芝居、完璧なリップシンクロ、世界観を表現するためのデザインワーク、誰もそこまで寄ってみないだろと思うような背景の細部にまで神経の行き届いた美術装飾品、売れることはわかっているし看板タイトルなのでもう湯水のように予算とマンパワーを突っ込んで作った超贅沢なゲームである。プレイヤーがほとんど意識しない部分まで作り込まれた情報がゲームの質を底上げしていてプレイしていると優雅な気分になれる、めったに無いというか他では見ることができないゲーム体験だったと言えるだろう。



ヒーローにふさわしいイケメン
意志的でありながら一方精神的なもろさも感じさせるクラウドくんの造形は見事の一言

 このゲームをプレイしていて思い出されたのはスターウォーズだ。最初の3部作の後はそれこそ「作る前から当たることが約束され、看板タイトルなのでどれだけ予算やマンパワーをつっこんでも構わない」作品だった、そのかわり長年の思い入れのあるコアなファンからニューカマーまで全ての人を満足させる必要があった。無数のファンがいれば無数の期待があるわけでその全てにマッチする作品を作ることは不可能でそのミッションは元からインポッシブルなわけだ。
 FF7リメイクにも同じことが言える、21世紀にプレステ4で出すという時点でそれはいくら完全と謳っても違うものになる、旧作に忠実であろうとすれば表現的にマッチしない部分も出てくるだろうし新要素を入れればコアなマニアが文句を言う、これは最初から「無理ゲー」なわけだ、しかし驚くほどうまく処理していた。

 制作者側の苦労が忍ばれるのが戦闘である。リアルな世界観に敵が出現するとなれば「右にモンスター、左にキャラクター、交互に戦闘」といった記号的なコマンドバトルはあり得ない。というかモンスターハンターを経験した現代のゲーマーならフィールドを自在に移動して敵の攻撃をかわし弱点に必殺の技を叩き込むアクションバトルを期待するだろう。一方オールドファンならアクションなんてFF7じゃないと思うかもしれない。そこで制作者は「アクション」と「クラシック」という2つのバトルモードを用意した。「アクション」はまさに現代のアクションバトル、「クラシック」はキャラクターが自動でアクションを行いプレイヤーはコマンドに専念して戦闘指揮をするという仕組みだ、このアクションを行わせるAIはなかなか出来がよく各キャラクターの性格、戦闘スタイルに沿った行動をする。弱点攻撃や複数の敵に対する攻略順序などオートでは対処できない部分に関してはターゲットロックというもので対処する。こういった新たな戦闘システムを考案しブラッシュアップすることが出来るのも超大作ゲームならではのことだろう。
 「そのうち使う気がなくなる」と述べた召喚獣が今回は戦闘に参加し肩を並べて戦ってくれるところもよい、旧FF7に存在した問題についてちゃんと目配りしていると思われる。
 もっとも「どこに行けばいいのかわからない」という旧問題に関しては、たとえば移動すべきシーンで時間がかかりすぎるなどして「プレイヤーが迷っている」とシステムが判断すると、誰かが「こっちに行く必要はないだろう」とか言い出すし「どこが通れるのかわからない」問題に関してはもう遠慮なく地面に「<<<」という矢印が描かれていてもう少しアイデアはなかったのかと思う。

 旧作で評判となった「まるで映画を観ているようだ」ということに関してはキャラクターが実写とみまごうばかりの芝居をしてくれるのでますます磨きがかかっている、人物がリアルな造形なだけになおのことお芝居が緻密になって映画っぽくなるのだ。
 私が今回のゲームで一番気に入ったのはクラウドとエアリスが神羅の追跡を巻くため廃墟の屋根伝いに移動するシーンだ。
 シーンとシーンのつなぎで特になんのイベントも起きず、建て増しで迷路のようになった廃墟の屋根を2人がたわいもない話をしながら(というか話しているのは一方的にエアリスだが)歩いていく。見上げればミッドガルを支える鋼鉄のプレート。足元は長く人の手が入らず吹きよせられた落ち葉やジャンクパーツが置き忘れられている廃墟。それらを西日が照らしている奇妙な静けさに包まれた空間がたとえようもなく美しい。「情景」と言う言葉がぴったりきてまさしく映画だ。
 そしてこれを見てしまうと、映画でよかったんじゃないのというかつての疑問が頭をもたげてくる、戦闘が面白くないとは言わないが、この作品って結局はドラマが見せ場なんでしょうと思ってしまう、そして昔も今もFF7の最大の問題ではないかと思うのがそこだ、プレイヤーが必死になってクリアし続けていく戦闘はそのドラマになんの影響も与えない。戦闘はそれに勝利しないと先へ進めないという足止めでしかなく、ストーリーともドラマとも切り離されている。これがアクションゲームならそういうものだとは言える、アクションにおけるストーリーはプレイヤーがなぜ戦闘する必要があるのか説明するためにだけあるマクガフィンだ、しかしFF7はそうではなくストーリーオリエンテッドな作品なのだ。
 どこをどうすればよかったのかすぐには言えないが、進めようによっては戦闘が回避できたり、強制バトルであってもその結果がストーリーと噛み合って何かしらの化学反応を起こすような仕組みであるべきだ(と昔も思ったし今回も思った)
 その戦闘だがどうやらプレイヤーが負けて死に戻りするとステージボス(各シーンの最後に出てくる親玉)は弱体化されるらしい、コアなプレイヤーは敵が弱いと物足りないし、強くするとアクションが苦手なプレイヤーがそこで詰まってしまう。以前なら詰まっても売り上げには影響しなかったが今作はそうはいかない、意地悪く言うならクリアまで進んでもらわないと次が売れないわけだ。その対策として考えられたのがこの弱体システムなのだろうがもう遊ばせてあげる感満載である、私はこういった手の平の上で遊ばせる感のあるゲームが嫌いだ。ゲームにおける「弱体アイテム」という概念はもう遙か昔からあるわけでなんでそれをストーリーに組み込み物語の中でプレイヤーが攻略方法を選べるようにしなかったのか理解できない。

 ということで超大作となって帰ってきたFF7だがかつてその根本にあったなんでゲームでこれをやろうと思ったのかという疑問に対しての答えはなかった。そういう意味ではそれこそ完全リメイクと言えるのかもしれない。そして私は今回もそのようなことをブツブツと言いながらクリアし、まあまあだねという態度を取りながら第2章を待っている、かつてFF7をやるためにプレステを買ったがいずれプレステ5を買いこの1章もやり直すような気がする。なんなのだろうなこの呪縛は。


 Half-Life:Alyx
 ハーフライフ:アリックス






 VRゲームである、実はこの稿はこのハーフライフアリックスが凄いよ、ということを言いたいがために書き始めたのだ。しかしこの「凄い」という思いには私の、初めてやったコンピューターゲームからずいぶんと遠くにきたものだなぁという感慨が多く含まれているので過去にプレイしたゲームについて触れた後にしなければと思って書き綴ってきたのがこれまでの文章だ、つもりとしては簡単に流す予定だったのだが。

 さて Half-Life:Alyx である、これは Valve Software が制作する Half-Life シリーズの第5作目で 1作目から4作目までは FPSだ、1998年の1作目のストーリーは『アメリカ政府の秘密研究所で行われていた実験が失敗し異次元「XEN(ゼン)」に通じるゲートが開いてしまう、その穴からは異形のモンスターが出現し研究員は次々と殺されていく(どっかで聞いたことがあるなと思う向きもあるだろうが、これはスティーブン・キングの「Mist (霧)」がヒントになって開発されたゲームである)地下深くでこの災害に巻き込まれた物理学者ゴードン・フリーマンは仲間と共に脱出を試みようやく地上に出る、しかし救助に来たと思われた海兵隊からは攻撃を受けてしまう、彼らは事故の隠蔽のため研究員を皆殺しにしようとしているのだ。事故を収束するためにはXENに乗り込みモンスターの親玉を倒さねばならないと知ったゴードンは再び地下に戻る、モンスターと海兵隊とゴードンの三つ巴の戦いが始まる』というものだ。


ゴードン・フリーマン、MIT卒、頭良さそうでタフそう
おっさんぽいが27歳

 このゲームは撃って撃って撃ちまくるだけのFPSと違い、謎解きをして罠を解除するなど脱出ゲームの側面があり、モンスターを含めNPCを動かすAIの出来がよく仲間の研究員は回復、援護をしてくれるし、敵は連携して攻撃してくるし、モンスターと海兵隊が遭遇するとゴードンそっちのけで戦闘を始めたりするなど従来のFPSとは一味違った完成度を誇り大ヒットして50以上の賞を獲得した。

以降
Half-Life 2 2004年
Half-Life Episode One 2006年
Half-Life Episode Two 2007年
と続きスピンオフ作品も多い。

 と書いてはきたが私はこのゲームを第1作の途中までしかやっていない。実を言うとこのゲームに限らず手を出しては中途でやめた洋ゲー(というかアメリカ製FPS)は多い。なぜと言えば私はFPSが得意ではないからだ。ならばなんで手を出すのかというとコンピューターゲームの最先端はアメリカ製のFPSである(ことが多い)からだ。
 新たなゲームシステム、ライティング手法、プログラミング手法、あるいはかつてない高精細な3Dモデルやグラフィックの多くはPC向けFPSからやってくる。日本でゲームというと任天堂××かプレイステーションを思いうかべる人が多いと思うが、世界的に見るとエッジなコンピューターゲームはPCだ、わかりやすい例で言えばたとえばVRはまずPC向けとして開発されている。それはコンシューマ機がコストを考慮して開発されかつ数年に一度しか進化しないのに対し、PCはコスト度外視のハイエンドマシンが更新され続けるからだ。ライバルに差をつけうるさ型のゲーマーをうならせるには最先端のスペックのマシンをターゲットにゲームを開発することが必要不可欠なのだ。そしてコンピューターゲームのメッカアメリカでもっとも人気があるのがFPSだ、つまり「今コンピューターゲームはどこまで進んでいるのか」を確認したいなら最新のFPSをやってみろということなのだ。
 そんなわけで私は定期的に「今、これが熱い!」と言われているFPSをプレイしている、確認したらそれでOK、クリアしなくていいやと思っているわけでは全然なく今度こそ最後までいくぜ!と思って始めるわけだがほとんど挫折する(^^;)
 我々日本人がはるか昔から延々と剣と魔法のファンタジーRPGをやり続けている間、彼らは延々とFPSをやり続けていたのだ、そんな彼らの「熱い」ゲームは私には敷居が高すぎる(ことが多い)

 先にエッジなゲームと言った、それがどれだけエッジかというと「現在入手できる最高級のハイエンドマシンでも動かすことが出来ない」という作品が普通にあるのがコンピューターゲームなのだ。歴史的に言うと1998年の「Unreal」が史上初の「当時の最高スペックのPCでまともに動作しないゲーム」だと言われている、もちろんこれもFPSである。
 そんなゲームをどうやってプレイするのかというと設定でパフォーマンスの調整を行うのだ、そもそもコンピューターはCPUの種類、クロック周波数、メインメモリのサイズと速度 グラフィックボードの性能など様々な要素があってプレイヤーごとに性能が違う、なのでコンシューマ機と違ってゲームのパフォーマンスを決め打ちすることが出来ない、なのでゲーマー側でゲームの調整するのだ、ハイエンドマシンのユーザーはゲームの用意したフルスペックな要素を楽しみ、ミドルレンジのユーザーは部分的に機能を制限して楽しみ、ローエンドな人はあきらめる(!)という仕組みになっている。
 この設定は単純なスイッチではなく細かなものだ。windows版FF11の話をすると、空の雲が動く/動かない、背景を描写するとき遠くのオブジェクトにローポリ(low polygon 解像度の低いポリゴン)を使用する/しない、草が風にそよぐ/そよがない、キャラクターの影が光源を考慮した正確な形で地面に落ちる/適当な影(!)になる、同時発音数をいくつにする、など細かく設定できた(プレステ版には当然必要ない)調整の目安はそのマシンで1秒に画面を何フレーム描き変えられるかにある。ゲームの画面出力にはコンピューター側が1秒に何回描画できるかというフレームレートとモニター側が何回画面を描き変えられるかというリフレッシュレートの2つが関係する。モニターは通常1秒に60回画面を描き変える(60Hz)のでコンピューター側が秒60フレーム以上の速度で出力出来ないと、フレームによって絵が描き変わったり前と同じ絵が表示されたりして画面がカク付くことになる、アクションゲームでこのカク付きは致命的なので負荷を調整してフレームレートを上げる必要があるわけだ。ちなみにFPSでは正確な照準をするためリフレッシュレートが144Hzというゲーミングモニターを使い、フレームレート160以上が出る高速なマシンが必須である(らしい、このあたりのコアゲーマーの話は理解不能だ)
 先の「最高スペックのPCでまともに動作しないゲーム」」というのは、入手可能な最速なマシンでもフルスペックではフレームレートが追いつかないゲームだということだ。そんなゲームがなぜ世に出るかというと今はダメでも来年になればフルで動かせるマシンが出るだろうということかもしれず、マシンが追いついてきたときに時代遅れ感をもたれないようにする作戦なのかもしれず、「要素を下げてプレイしている今でも凄いゲームだろう?これがフルスペックになったらどんな凄いか見たくないか、これが動くマシンが出たらすぐに買い換えるのだ!」という悪魔の囁きなのかもしれない。

 ともあれそんなわけで最新ゲーム事情を探るため、あるいは自分のマシンのベンチマークとして私は時折最新FPSをプレイしていたのだ。そんなわけで 初代 Half-Life もプレイしたのだが、まあよくあるFPSだよねえとしか思えず途中でやめて(挫折して)しまった。だからこの Half-Life:Alyx がVRでなかったら手を出さなかったと思う、またVRであっても通常のナンバリングタイトル、つまり Half-Life の最新版であったらプレイしなかったろう(話が見えないだろうから)
 しかしこれは1作目と2作目の間のお話、いわばインサイドストーリーだった。そうなった理由はわかる。 Half-Life には多くのファンが付いているがその全員が新作のために別途VRシステムを買ってくれるわけではない、なのでこれを続編として発表すると購入を断念したファンが次の作品を買ってくれなくなる恐れがある、なのでやらなくても問題のないインサイドストーリーになったわけだ。
 
 お話は1作目の後、ゴードンの活躍によってXENの侵攻は止まったが今度は異次元侵略組織「コンバイン」の攻撃を受け地球は7時間で制圧されてしまう。レジスタンスに所属するアリックス(ゴードンの同僚の娘である)は、コンバインの侵略拠点を叩くべく空中要塞 Vault へ向かう、というシンプルな話である。時間は朝から夜までの半日、アリックスの移動距離はせいぜい1、2キロといったところだろう、大きなイベントがあるわけではなく、アリックスが単身敵の妨害を排除しながら進んでいくだけだ。過去編ということもあり今さら大きなイベントを起こすわけにはいかないので当然なのだが物語的にはたいしたことはない、とはいえデザイナーのDavid Speyrerが

Alyx was not an episodic game or side story, but "the next part of the Half-Life story", around the same length as Half-Life 2
Alyxは一時的なゲームやサイドストーリーではなく、Half-Life2とほぼ同じ長さの「Half-Lifeストーリーの次の部分」である

 と言っているので少なくも2と同様のボリュームのある大作だ、ではその薄い物語の代わり何が詰まっているのか、それが圧倒的なリアリティ、バーチャルなリアリティだ。





 ゲームを開始するとプレイヤーはひと気のないアパートの一室に居る、外に出るとそこはコンバインに支配された東欧の街シティ17、ベランダにはガラクタが散乱している、ガラス瓶が転がっているので取り上げ手すりに打ち付けるとキンキンと音がする、更に力を入れるとバリンと割れてガラスの破片が散らばる、そのガラス片をつまみ上げて壁に向けて投げると跳ね返って下に落ちる。そう、このゲーム内のほとんどのオブジェクトは手に取ることが可能でしかも物理シミュレーションされているのだ。
 物を投げるとそれは手を離したときの手の速度、角度に従って放物線を描いて飛ぶ。ドラム缶を壁に向けて投げるとドラム缶のどの部分がどんな角度で壁に当たったかが計算されて跳ね返る、落ちた後ゴロゴロと転がっていき机に当たる、机が揺れて上に乗っている瓶が落ちてバリンと割れる。ゲームの環境でしかない部分にこの完成度!と唖然とするリアリティである。
 そして更にそのリアリティを支えているのがオブジェクトの作り込みだ、アパートの中にはいろいろな家具があるがその扉は開き、引き出しは引き出せる、キッチンの冷蔵庫を開ければ中に食料品が入っていて一つ一つ取り出してパッケージを眺めることが出来る、ロシア語(キリル文字)なので読めないがそれらしいことが書いてあるのだろう。机の上にはメモ帳とペンが置いてあってペンでメモを取ることもできる。



 アメリカの高校の先生が遠隔授業をこの冒頭のアパートでやっているという映像がある、薄汚れたガラス窓を黒板がわりに授業をしているのだ、筆記用具はそこらに落ちている水性ペンだ、黒板消しも使っているが最初裏表を間違えて(フェルト部分を持っていたのだろう)裏返していたりする、ガラスの向こうにはコンバインの空中要塞が見えている仮想教室、このシュールで世紀末な授業は生徒におおいにうけたと思う。


 私が感嘆するのはこの Valve Software の本気度だ、FF7リメイクの時に「誰もそこまで寄ってみないだろうと思うような背景の細部にまで神経の行き届いた美術装飾品」と書いたがこれはその比ではない、FF7の場合は何はともあれそれはプレイヤーの目に入っている、労力に見合うだけの効果が出ているかどうかはともかくそれは必要なものだ、しかしアリックスはそうではない、水性ペンでガラスに字が描ける必要はなく黒板消しで消せる必要もない、そこにペンがあることさえ目にとめず先に進んでしまうプレイヤーは多いだろう、冷蔵庫を開けることは進行上必要ではないし中のパッケージを眺める必要はない、それらはただただこのバーチャルな世界にリアリティを持たせるために配置されているのだ。私はしばらくゲームを進め、アパートのみならず工場のロッカーも路上に落ちているガラクタもアリックスの世界に存在するオブジェクトのそのほとんどが手に取り、動かし、投げることが出来る事に気づいて驚嘆した。しかもそれらは全て物理法則に従って飛び、跳ね返り、跳ね返った先で他のオブジェクトに干渉するのだ。

 VRシステムがどれだけ複雑な計算をしてプレイヤーの位置や、頭と手の向き動きを観測しているかは先に述べた、システムはそこから得られたプレイヤーのモーションデーターを仮想現実下に送り込みそこに配置されたオブジェクトと相互干渉させる、たとえばプレイヤーがワイン瓶に手を近づけ指を曲げる、瓶が手の中にあると判断されればそれは掴んだと判定されワイン瓶は手と一緒に動くようになる、底を上に向ければワインが瓶の中で踊って泡が立つ。瓶を投げれば物理シミュレーションが開始される、飛んでいく瓶の位置を計算しつつ、他のオブジェクト(壁とか)との衝突判定を行い、当たったとなれば瓶の強度計算を行い条件を満たせばそれを破壊し、破片に分解し、破片それぞれに再度ベクトル計算を開始する。その有様をプレイヤー視点でどう見えるか計算し右目用、左目用と視差の付いた画像を秒90フレーム(HTC-VIVEのヘッドマウントディスプレイは90Hzである)で出力しているのだ。



 コンピューターゲームは遙けくも遠くへ来たものだとまたしても遠い目になりそうである、まあ私は目の先数センチにあるヘッドマウントディスプレイ内の有機ディスプレイを見ているのだが。

 さて物理的にリアリティのある世界が構築されたとして、その世界を動かしているルールというものもある。たとえば廃工場の地下に侵入する、倉庫の棚には様々な箱が並んでいる、手にした銃で撃てば段ボールは穴が空き木箱はバラバラになる、バラバラになった木っ端はそばにあったカゴに入れて持ち歩くことができる。歩いていくと薄暗い通路の先にバーナクルというモンスターが居る(XENからの侵攻は止まったがかつて流入したモンスター達は環境に適応して害獣として生きている)バーナクルというのは巨大なフジツボのような生物で天井に張り付き触手を垂らして通りかかる獲物を張っているのだ(暗いところにいるのでうっかりすると巻き付かれてダメージを負う)この触手に持ってきた木っ端を投げつけてやるとシュルシュルと巻き取られていき、上でしばらく咀嚼音が聞こえやがてバラバラになった木片が落ちてくる(食べれなかったらしい)バーナクルはバーナクル自身の生態に従って生きていてその理屈はプレイヤーにのみ適用されるわけではない。つまりバーナクルがはびこるルートを進むときは銃で倒すのもよいが、そこらに落ちているガラクタを投げてやれば通過可能だということだ。
 これは「敵を倒すための一定の決まり事があるわけではなく、ダンジョンの中の法則は敵も味方もなく適用され、それをどう使って戦うかはプレイヤーにまかされている」「フィールドは用意した、そこでどう遊ぶかはプレイヤーに任せる」というやつではないか。
 アリックスの侵攻ルートは一本道でこなすべきイベントも決まっているしかしそれをどうクリアしていくかまでガチガチに固定されているわけではない、この世界なりの法則つまり物理法則は現実世界と同じ、モンスター達はそれぞれの生態に従って行動する、コンバイン兵(コンバインによってサイボーグ化された地球人)は知性ある敵として攻撃してくる、などを理解してプレイヤーなりの攻略方が取れるのだ、ゲームのためのゲームではなく一つの独立した世界、これは私の理想とするゲームデザインだ。





 圧倒的なリアリティとこのゲームデザインがVRの新たな地平に結実したということで私はこれをわたし的ゲームランキングにランクインすることにした、1位は不動のダンジョンマスターで動かないが、キングスフィールド2が繰り下げられアリックスがランキング2位だ。物が物だけにお勧めされたからと言って誰もがすぐプレイできるものではないが環境が手に入ったらやるべきゲームだろう。

 さて別世界といえば私の好きな「ソードアート・オンライン」というSFファンタジー小説がある、現在4エピソード31巻まで発刊されているが基本的にコンピューターでシミュレートされた仮想世界の中での冒険を描いたものだ。小説ではそのヴァーチャルリアリティは「フルダイブ」と呼ばれる仕組みで実現されている。フルダイブとは人の5感を完全にシミュレートし現実世界とまったく遜色ない感覚をプレイヤーに提供するものだ。この小説の大ファンである私はこういうのがあったらいいなーと常日頃から思っているのだが考えてみればこんなヤバイ仕掛けもない、視覚、聴覚だけならまだしも、痛覚まで偽の感覚にすり替えたらリアルな肉体に異常があっても使用者がそれに気づくことが出来ない、筋肉に対する指令、運動神経も遮断してヴァーチャルワールド内のキャラクターの運動にすげ替えるわけだがバグって不随意運動や自律神経に干渉したら使用者は即死ぬ^^; そう考えると完全に別世界の住人になりきるヴァーチャルリアリティは実現不可能だ、とすれば現状のVRシステムはけっこういいところまで来ている。ヘッドマウントディスプレイが重いとか視界が狭い(人の視界は左右約180度だが、現状のヘッドマウントディスプレイは110度程度なので水中メガネをかけているような視界だ)などは技術的な問題なのでいずれ解決されるだろう、手に対する触覚は現在試作品が存在する。それ以外の味覚だとか痛覚だとか、それこそ運動神経をキャプチャするなどはそもそも無理っぽい。つまりVRは実現可能な形での完成形にかなり近いということだ。

 ちなみに Oculus はこんどコンピューターを介しないVRシステムを出す、つまりヘッドマウントディスプレイ型のゲーム機である。それ単体でゲームをダウンロードしプレイすることが出来て外部機器なども必要ない。
 ハイスペックなコンピューターを用意しヘッドマウントディスプレイを接続し外部機器をセットする現状とくらべると極めてライトでさすが Facebook 傘下ライトユーザー指向の Oculusと言えるだろう。このヘッドマウントディスプレイ単体でトラッキングを行う方式、ヘッドセットに付いているカメラで周囲を撮影しその画像を解析して自身の動きを取得する仕組みを「インサイドアウト」と言うのだがこれはCPUに対する負荷が高い、なのでそのライトな使い勝手と引き換えに解像度やプレイアビリティが低下する可能性はある、しかしVRが家庭用ゲーム機のように定着するにはそういった方向もアリなのかもしれないとは思う。
 あいにく Oculus は Valve Software のライバル企業なので Half-Life:Alyx が移植される可能性は低いが、VRはこれから伸びていく分野なので他社から、あるいは HTC-VIVE から手頃なVRシステムが出てくる可能性はある(ベースステーションを必要としない新システムはすでに存在する)VRに興味があって入手することがあったならまずは Half-Life:Alyx を候補に入れて欲しいと思う。なにしろ現状「VRゲームは Half-Life:Alyx 以前と以後に分かれる」とまで言われているのだ。


 さて今 Half-Life:Alyx の面白さについて、物理シミュレーションと作品内ルールについて触れたがもうひとつVRゲームならではプレイスタイルについて語らなけらばならない。
 VRというのはまさしく一人称視点でありFPSの延長にあるゲームだと認識していたのだが突き詰めていくとどうもそうではない。 
 FPSゲームというのは通常、自分(プレイヤーキャラクター)は画面に登場せず走ると画面下から自分の右手と左手だけが交互に現れる。銃を構えると銃と銃を握っている手が画面中央に固定される(銃の照準点は常に画面中央だ)ゲームの操作は右手のマウスで視点移動、左クリックで発砲、左手はキーボードに置きW A S Dキーで移動、スペースキーでジャンプと決まっている。これ一本で30年近くやってきているのだからヤンキーのFPS好きもたいがいだがそれはともかく銃だ。どんな銃でも撃っていれば弾切れが起き再装填「リロード」をする必要が出てくる。FPSの伝統的なキー割り当てでこれは R キーだ、弾切れだと思った瞬間 R キーを押すと画面上の手(自分の手だが)がシャキシャキと動いてリロードしてくれる、たいていの場合それは熟練の技で目にも止まらない。しかしアリックスはそうではない、オートマチックの場合まず右手の親指でグリップ側面のリリースボタン(実際は握っているコントローラーの側面ボタン)を押し空のマガジン(弾倉)を落とす、同時に左手で新しいマガジンを取り出し向きを合わせてグリップの下から差し込む、ついでスライドを引いて一発目を薬室に送り込む、これでリロード終了だ。
 さすが銃社会の国のゲームだと思うが、これはプレイヤーのリアルなスキルがリロード時間に影響するということだ。私は理屈くらいは知っていたがガンマニアではないので最初はリリースボタンを押して~空のマガジンを落として~新しいマガジンをつかんで~と確認しながらやっていた。はじめの頃の敵はチュートリアルであり単身で攻撃してくるのでマガジン一個で倒しリロードはそのあと出来る。しかしそのうち戦闘の真っ最中にマガジン交換をしなければならない状況になる、敵がワラワラとやってくる中でマガジン交換となると気がせく、マガジンの向きが合わずに入らない、焦って取り落とす、先に落とした空のマガジンと区別が付かなくなる、空の方をつかんで装填し弾が出ずにパニックになる、囲まれてやられてしまう、ということが普通に起こるのだ。



コンバイン兵と戦闘中にリロード

 また真っ暗な地下道で戦いながら進むというシーンがある、フラッシュライトが左手の甲に付いているので、敵を照らしながら射撃は出来る、しかし左手に持っているマガジンは照らせない、マガジンを銃に挿入する時も銃は照らせない、なのでリロードは感覚だけで行うことになる。アクション映画で特殊部隊のメンバーが「目をつぶっても銃の分解組み立てくらい出来るようにならなければ」などと言うシーンがあるが、分解組み立てはともあれリロードくらいは目をつぶっても出来るようになっておかないとここで詰む。
 またアリックスには手榴弾というものもある、ボタンを押して投げると時間をおいて爆発するのだがなにしろ物理シミュレーション下にあるので投げる方向、力の入れ具合が成功不成功に直結する(投げたはいいが壁に当たって戻ってきて、落ち着いて投げ直せばいいのにアワアワして吹っ飛ばされたりする)このあたりはプレイヤーのリアルな運動神経や反射神経が問われる場面である、FPSでもそれらは問われているのだが所詮は指先のテクニックであり全身運動ではない、VRの場合足元に転がってきた手榴弾を拾うには実際にしゃがんで手を伸ばす必要があるのだ。
 隔離された部屋の向こう側の敵に対し天窓越しに、山なりに手榴弾を投げ込んで倒したときは思わず歓声を上げてしまったが、これはフィジカルな運動神経に自信のないプレイヤーにとってはキツイゲームシステムかもしれない。

 そして思ったのがバリバリのFPSゲーマーだと何でリロードがプレイヤースキル依存なんだよ!と感じるもしれないということだ。
 先に戦争や競争を抽象化したものがゲームだという話をした、FPSもずいぶんと殺伐しているがそれでも抽象化されている、リロードも武器の持ち替えもコマンド1発だ、FPSとは画面中央の照準点をマウスとキーボードを使っていかに素早く敵に向けるかを競うゲームなのだと言えないこともない。それが好きでFPSをやってきたプレイヤーにしてみればVRは(アリックスは)なんでゲームにまたプレイヤーの肉体性や個人的なスキルを持ち込むんだと思うかもしれない。プレイスペースを必要とし全身運動を行い指先の器用さまでも必要なアリックスを『そんなのはゲームじゃない』と思うかもしれない。

 しかし私はこのゲームを不動の2番だった「キングスフィールド2」の上にランクさせるほどに高く評価した。なので改めてこれらランキング上位のゲームについて考えてみた、そしていままでやってきたゲームについても、私が好きなゲームにRPGが多いのはなぜなのかについても考えてみた。
 そしてダンジョンマスターの時に述べた「冒険者となってダンジョンに居る感覚」という言葉がキーなのではないかと思い至った。
 私はどこかここではない別の世界で冒険者となって生きてみたいだけなのではないか、なのでゲームとして抽象化された世界でなく、プレイヤーに血肉を与えフィールドに可能なかぎりの自由度を与えた世界観のゲームが好きなのではないだろうか。
 そう思うとつじつまの合う部分が出てくる「ダンジョンマスター」は歩くたびに喉が渇き腹が減るのだが、なんでゲームの中でまで水や食べ物のことを考えなくちゃならないんだと思うRPGゲーマーは居たかもしれない。そういうことから自由なのがゲームじゃないのかと。しかし私はダンジョンマスターのそこで生活している感、自分がまさにダンジョンの中に居るかのような感が好きだった。
 アリックスはそういう意味ではまさしく別世界に居る気にさせてくれるゲームだった、モニター越しでなくコントローラーやキーボード越しでなくそこに居る感覚、VRはもとよりそういった感覚を提供してくれる環境だったのだがアリックスでそれが極まったということだ。

 などと考えてくると『実は私はコンピューターゲームが好きなわけではないんじゃないか』という衝撃的な仮説に思い至る。
 私がロールプレイングゲームが好きなのはロールをプレイするのが好きなのであってそれがゲームであるかどうかは実は関係ないんじゃないだろうか。そう考えてみるとFF11を11年やっていたことにも説明が付く。いかに仮想現実感にあふれたゲームといえどそれがゲームであるかぎりプレイを続けていればいずれクリアに行き着く、環境とゲームは不可分なのだ通常は。しかしFF11はそうではない。ヴァナ・ディールではプレイヤーは冒険者として世界を渡り歩くのが一般的なスタイルだがクリアするべき最終目的があるわけではない、レベル上げはそこそこに釣りばかりして過ごしているというプレイヤーも居た、彫金、裁縫、調理などのスキルを上げ冒険者というより商人として生きているプレイヤーも多かった、自宅を調度品で飾り立てるのが楽しみというプレイヤーも少なからず居た、日がな一日誰かとだべって終わるという日は誰にでもあったろう。つまりFF11は最初から環境とゲームが分かたれていて、ここじゃないどこか別の世界に行ってみたいと言う望みを満たしてくれる場所だったのだ、長く続いたのも当然である。

 というような、ちょっとびっくりする仮説を最後になって急に思いついたのだがあまりにもきれいにまとまりすぎるのでどこか間違っているような気がする、それに私がゲーセンの前を素通りしないアーケードマニアでもあることの説明は付かない、なので結論を急ぐつもりはない、しかしなぜ私はコンピューターゲームを営々とプレイし続けているのか、そのゲームの大半がRPGなのはなぜなのかこれからも考えていこうとは思う。なにはともあれコンピューターと共に始まった冒険の旅はこれからも長く続くだろうから。



 




 いまを去ること26年の昔、TVシリーズの第一回で気弱な少年碇シンジくんと高圧的な父親ゲンドウが対面するシーンを見てこれは父と子の物語なのだと喝破するにはミジンコほどの理解力も必要としなかった。



 父と子の物語は多い、というかそれはすべての父と子の間に存在する根源的なドラマだ
それをどう解決していくかはその父と子の数だけあるだろうが物語として開始された場合その結末は一つしかない、父と子が対決し子が父を越えていくのだ、それ以外では終わりようがない。


I Am Your Father!

 話が進んでいくにつれゲンドウの威圧的な態度は自分を守る鎧であり、実は彼は妻の死を受け止められない弱い人間であって、口にするジャーゴンに意味はなく、妻と再び会いたいために行動しているだけではないのかと推察するにはミジンコほどの洞察力も必要としなかった。
 なので、伏線未回収どころではないすべてをぶん投げたエンディングには唖然とするしかなかったが、25話.26話をリメイクした(という体裁になっている)劇場版(旧劇場版)のテーマとそのエンディングには正直感心した。父と子の物語という普遍的にしてよくある物語への回答ではなく、人が孤独であるのはなぜなのか、自己と他を隔てるものは何なのか、他人と理解しあうとはどういうことなのかという人の存在そのものに対する疑問に一つの答えを出しているからだ。

 エヴァや使徒が展開するバリア、ATフィールドの正式名称は Absolute Terror Field(絶対恐怖領域)というものでそれは自己と他者を隔てるもの。人が理解できないもの「他者」に対して抱く恐れが形になったもので、実は人もそれを使って人としての形を保ち精神の独立性を保っている。人はその恐れによって互いに争い傷付けあっているがそれは人が間違った進化を遂げてしまったからであり、TVシリーズでうわごとのように言われていた「人類補完計画」とは人と人の垣根をなくし、単一の生命として争いのない永遠の平安を得るための計画だった。シンジくんは映画のラストでその永遠の平安を選ぶか他者を恐れながら個を保って生きていくかを選ぶ立場になり葛藤の結果後者を選ぶ、本質的に理解しあえないことを受け入れたうえで他人と関わっていこうという決意であったが、理解者たり得るアスカから「気持ち悪い」と言われるところで映画は終わる。残酷でシビアで理性的で近代的な結末だったと言えるだろう。
 この映画はその成り立ちから一個の独立した映画ではなく、普遍的な立場から観てもらえないものだったためあまり話題にはならなかったが、この「人は理解できないものを恐れる生き物であり、また人は他人を真に理解することは出来ず、それゆえ他人は常に恐れの対象であるが、その恐れは自分が自分でありつづけるために必要なものであり向きあって生き続けるしかないのだ」というテーマを描ききった近年希にみる傑作だったと言えよう。
 すごいぞ庵野、ケリを付けたじゃないかと私は評価していたのだが、そんな結末は無かったように序破急ならぬ序破Qと名付けられた劇場版の新シリーズが始まってしまった。制作側はリビルドと称しているが要するにTV版のリメイクである、1作目の序はTVシリーズの原画、動画を再利用しているという話で1から6話までのほぼ完全なリメイクだったが、2作目の破になると新たな登場人物、新たな使徒が出るなどTVとはまったく違う話になり衝撃のラストに至ったとみるや、Qではいきなり14年後(!)の話になっていた(確かに急ではある)これが世界観もなにもかもねじまがった怪作でそもそも登場人物の性格設定すら変わっていてそして完結しなかった。あーまた迷走してるどうなるんだこの先、と思ってから9年(!)ひょっとして着地点がみつからないんじゃないのかと危ぶんでいたところがやっと発表されたのが今作である。

 最初から落ち着いた語り口でジブリの映画ではあるまいかというようなエヴァにあるまじき描写もあり、ねじまがった登場人物の性格はまるでそんなことはなかったかのように元に戻され、シンジくんは立ち直り成長し、ついには父と子の対決へと至る。
 26年かけて、TVシリーズ25本、映画6本かけてそこかよ!という衝撃の結末といってよい。
 観客が映画を観てどんな感想を抱こうと自由であるのと同時に、制作者がどんな映画を撮るのも自由なのであり、こんなのは××じゃないなどというのは勘違いしたマニアの妄言なのだが、でも言いたい、このアニメは既存の価値観、方法論、予定調和にとらわれない新たな地平を見せてくれるはずのものだったのではないかと、そう期待すればこそ我々ファンは初回の空中分解も最終2話の作り直しにも、作り直した作品を更に否定した新シリーズにも、途中登場人物の性格設定まで変えるという暴挙にも、続き物なのに9年も待たせるという仕打ちも肯定してきたのではないか、その結末が既存の物語の枠に収まるいい話で終わっても大団円でよかったとは言えない。
 この映画は1本の映画としてはよく出来ているがもちろん1本の映画として評価できるものではない、シリーズ物のなかには初見の人が観ても理解できるし面白いというものもあるがこれはそうではない、初見でこれを観る人がいるとは思えないがそんな人がいれば絶対に理解できない、というか前作1本を見逃していたらもう理解不能である、これは分割して提示されてはいるが長い長いお話のラストシーンなのだ、作品全体を通して提示され格闘してきたテーマに対してあまりにもあたりまえで穏当でらしくないエンディングではなかったろうか。


 そう、わかってる答えなど捨ててしまえ  (TVアニメ RE:CREATORS 主題歌より)


 




 こんなのは××じゃないシリーズ第2弾(!)こんなのはモンハンじゃない映画である。
確かに based on the video game by Capcom となっているし、ゲームからディアブロスとリオレウスという2大看板モンスターが出演しているのだが世界観が違いすぎる。
 ゲームのモンハンは基本アクションゲームであり世界観はRPGやアドベンチャーほどに確立しているわけではないがそれでもハンターという職業が成立していてハンティングを中心とした市場経済が成り立っているらしいことは明らかである。
 ハンターがモンスターを倒すのは正義のためでも世界を救うためでもなく、仕事であり人生そのものだ。対するモンスターも野生動物でしかない、ハンターは狩らねば生活が立ちゆかないしモンスターは狩られてはたまらないから反撃する、両者の間には善悪、あるいは聖邪の関係などなくあるのは単純な力と力の対決があるだけだ、力こそ正義を信奉するハンターは強大なモンスターに敬意さえ抱いている。このシンプルで前向きで明るいハンティングワールドがモンハンの魅力なはずなのだ。しかし映画のモンハンワールドは違う、モンスターはあまりに強力であり、人はあまりに脆弱すぎて一方的に狩られる存在でしかない。
 火を吐いて空を飛ぶモンスターをフォトリアルに登場させてしまうと1対1(1対少数パーティ)で5分のガチバトルはリアルでないという判断なのかもしれないが、人とモンスターの関係をここまで変えてしまったうえに、主人公が現代米軍のレンジャーとなればもうこれはモンハンではない、異世界に飛ばされた軍人とモンスターの対決という構図は面白いのでせめてはココット村(主人公たるハンターの暮らす村、ギルトなどもある)を登場させハンター達と米国軍人の異文化交流などと描いて欲しかったと思う。

 結論、モンハンと思わなければ普通にアクション/ファンタジー/モンスター映画として面白い。




いくらジョボビッチでもこれは無理!


 





 朝露が日の出とともに消えるのは太陽が露を引きつけるためであることを見抜いた主人公は、月旅行をするため日の出前に草木の露を瓶に詰め身体中にくくりつけて日の出を待つ、日が昇ると予想どおり主人公の身体は空高く舞い上がるが目的地の月には向かわず太陽に向かってしまったため(←当たり前である)瓶を少しづつ割って地上に戻る、しかし降りたところは見知らぬ土地であった、彼はフランスから出発したのだが身体が空中にある間に地球が自転しカナダに着陸していたのだ。というのがシラノ・ド・ベルジュラックの「月世界旅行」である。(※1) 
 南北戦争で大砲の開発を行っていた技術者達は戦争終結後その技術を生かして月世界旅行を企てる、直径2mのアルミ製砲弾を作って人が乗り込み、地面をくりぬいて作った長さ270mの大砲で撃ち出すのだ。カプセルは無事に打ち上げられるが月へ向かう途中急接近した彗星の引力で軌道が変わり月を周回して地球に戻ってしまう。というのがジュール・ベルヌの「月世界旅行」である。(※2)
 実業家である主人公はマッドなサイエンティスト、ケイバーの発明した反重力物質ケイヴァーリットに商業的価値を見いだし彼と共に宇宙船を作る。ケイヴァーリットの反発力でカプセルを推進させるのだ。2人は無事月世界に到着するが月人に捕らえられ主人公だけがやっと地球に帰還できる。というのがH・G・ウエルズの「月世界旅行」である。
 SFの黎明期ーというかまだSFという言葉もなかった時代だがーは宇宙旅行というものへの憧れに満ちていた。




 その後、今や古典と化したSFの多くも宇宙を舞台にしたものだった、曰くエドモンド・ハミルトンの「天界の王」「スターウルフ」「キャプテン・フューチャー」E・E・スミスの「レンズマン」「スカイラーク」 アイザック・アシモフの「ファウンデーション」ロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」 フランク・ハーバートの「砂の惑星」、思いついたものをざっと書いただけだがどれも宇宙を舞台にしたものであり、宇宙旅行や他の惑星上での生活を希望と憧れをもって描かれたものばかりだ。なので古いSF者は宇宙への憧れというものを基調として持っていた、そもそも宇宙/宇宙旅行というものに対して前向きな嗜好がなければSFとして読めるものはほとんどなかったろう。
 当然古いSF者である私も宇宙開発に対して前向きだった、小学校時代の自分を鑑みるに講談社の科学名作シリーズ(全15巻ですり切れるほど読んだ)と学習まんが「宇宙ロケットのひみつ」とかの区別は無かったように思う。以降もSFと宇宙開発は不可分な興味の対象であり、ニール・アームストロングの「That's one small step for man, one giant leap for mankind.」もリアルタイムで見た(もちろん聞き取れなかったし、そもそもノイズだらけのコントラストの強い映像は何が映っているのかよくわからなかった)



 その時は「ついにここまで来た!ならば21世紀には地球軌道に宇宙ステーション、月面には恒久基地、ことによると火星探検くらいまでは実現しているだろう」と思ったものだが。その後のことは承知のとおり(わたし的に言わせてもらえば回転して人工重力を発生していない構造物は宇宙ステーションではない^^:)

 さてそのように大きな目標物の他にも科学に対する小さな夢と希望もあった、その一つがイオンロケットエンジンの実現だ。
 はやぶさで一躍その名が知れるようになったがその技術的可能性は遙か昔から知られており、それ故にSF的な歴史も古い、「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号はイオンロケットエンジンだし、スターウォーズの帝国軍戦闘機タイ・ファイターのタイ(TIE)はTwin Ion Engineの略だ、なぜにハードSFの2001年にもスペースオペラのスターウォーズにも登場するのかといえばそれが極めて優秀な推進システムだからだ。ここでそもそもロケットとは何かという話になる、日本人は宇宙を飛ぶ飛翔体、「宇宙機」のことをロケットと呼ぶと思っている(人が多い)が本当はロケット推進という推進方式の名前だ。これは質量のあるものを1方向に噴射しその反作用で逆方向に進む推進方法を差す。
 現状、宇宙機のほとんどはこれを採用しているので宇宙機=ロケットという認識になるのはやむを得ないが2010年にJAXAが打ち上げたイカロスなど太陽風を利用して飛ぶ「ソーラーセル宇宙船」もごく小数存在している為 ”ほとんど” であってイコールではない。
 そしてこの「ロケット」のほとんどは化学燃料を使用している、つまり燃料を爆発的に燃焼させ発生する燃焼ガスを一方向に噴射して飛ぶ。アポロ計画のために作られた人類史上最大のロケットエンジン、S-IC(ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qの冒頭でアスカが初号機強奪作戦で使用していたやつだ)も縁日の空を飛び交うロケット花火も同じ原理だ。というわけで日本人にかぎらずおそらく地球人類ほとんどがロケットとは火と煙を噴いて大空に駆け上がるものだと思っている(と思われる)がそれは間違っている。ロケット推進には噴射する物質「推進剤」とそれを噴射するためのエネルギーが必要で化学燃料はそれをひとまとめに担っているので火と煙が発生するが、推進剤とそれを噴射するエネルギーは本来別物だ。簡単な例として挙げられるのがペットボトルロケットだ、水を入れたペットボトルにゴム栓をして逆さに立て、ゴム栓に通した管から空気を注入する、内圧に耐えきれずゴム栓が外れると空気圧で押し出された水が噴き出してペットボトルは空高く舞い上がる、まさしくロケット推進であるのだが、推進剤=水、推進エネルギー=空気圧 とこの2つは別ものだ。つまりロケット=火を吹き煙の尾を引いて飛んでいくもの、というのは”ほとんど”がそうだというだけでイコールではない。
 では化学燃料を使用しないロケットとは何かということだがそれこそがイオンロケットエンジンなのだ。ではイオンエンジンとは何であるか、はやぶさで言うとエンジン内にキセノンガス噴射しマイクロ波を使ってこれを陽イオン化する、エンジンの一方に負電極を設置すると陽イオンは負電極に向かって移動する、この電極が板であれば陽イオンが衝突して終わり(何ごとも起こらない)が、穴の空いたグリッドであるため陽イオンは穴を通って宙空間へ放出される、結果質量のあるものを一方向に噴射することになりロケット推進が成立するわけだ。
 この方式の何が優れているかというと燃料の消費効率が高いのだ、これを「比推力」と言うが燃料と同じ重量の物質を何秒支えることが出来るかという意味だ、たとえば1tの燃料が1tの物体を100秒地球上で浮かしておけるとすれば比推力は100であると言う。
 一般的な液体燃料の場合この比推力は300~400だが、イオンエンジンは千から万という単位になる、簡単に言えば極めて燃費がいいエンジンなのだ。
 燃料を多く積むと宇宙機自身の重量が増し、重い機体を動かすためにより多くの燃料を必要とするという悪循環に陥ってどんどん非効率になる、したがってこの比推力は宇宙機にとってきわめて重要だ。




ロケットの父、フォン・ブラウンとS-ICエンジンを5器束ねたサターン5型ロケット1段目(比推力263)
総重量2,280tの大半は燃料なので打ち上げ初期は燃料を持ち上げるために燃料を消費していることになる



 さて古今多くの宇宙機が宇宙に送り出されがその軌道や機体設計はミッションの策定段階から極めて厳密に計算されている、積載する燃料にも余裕はない、発射時期も「このタイミングで発射できないと次のチャンスは○年後」などということになる。なにが言いたいのかというと従来の宇宙機は厳密に決められたコースを厳密にたどることしか出来ない自由度のない飛行を強いられているということだ。

 それはつまらん、というのがSF者たる私の思いだった、大宇宙を自在に飛び回ってこそ「宇宙ロケット」ってもんだろう。

 ということでケタはずれの比推力を誇るイオンロケットの登場を待ち望んでいたのだ、イオンロケットなら余裕のある飛行が可能な宇宙機が出来るのではないか、ということだったのだがそれが結実したのが初代はやぶさであったと思う。
 初代はやぶさは2003年に発射され2005年にイトカワにランデブー、2007年に帰還の予定であったが、サンプル採取時のトラブルで通信が長期間途絶し、再び管制可能になった時には軌道をはずれ、化学燃料は喪失、バッテリーも放電していた、厳密な飛行を前提としている従来の宇宙機であったら完全にミッション失敗である、しかしはやぶさは予定より3年遅れで地球に帰還した。それははやぶさがイオンエンジンを搭載していたこと太陽系内を航行する宇宙機として設計されていたことが功を奏したのだ。
 イオンエンジンの場合、推進剤であるキセノンは余裕を持って搭載することが可能で、推進に必要なエネルギー「電力」は太陽電池によってまかなう、つまり燃料に余裕がありエネルギーはタダ&無限ということだ、これが宇宙機としてどれだけアドバンスがあるかは説明の必要はないだろう。

 初代はやぶさは瞬発力のある化学燃料を喪失していたため、カプセル投下のために地球突入軌道に入ったあとそこから離脱することが出来ず燃え尽きてしまったが、2代目はカプセル分離の後で軌道を変更し第2のミッションとして「小惑星 1998 KY26」へと向かった、この目標は帰還途中で決定されたのだが、ミッションの途中で次の目標策定出来るということ、その旅に更に10年を要することなどは従来のロケットでは考えられない、比推力が高くエネルギーが現地調達(!)出来るイオンロケットは太陽系内では夢の宇宙機なのだ。



 ・・・というようにイオンロケットに入れ込んでいる私にとってこの本は何の新味もなかった。私はNHKのはやぶさ関連の番組は可能なかぎり見ていたし、この本はその番組が取材した情報を元に書かれているので当然なのだが、もうすこしTVでは触れられなかった専門知識や科学的知見について触れられていると思ったのだ、しかしそこから1歩も出ていなかった。
 そんなこともあろうかと図書館で借りて読んだのは正解だったと言えるだろう。はやぶさ2に多少なりとも興味があった人間なら同様の感想を抱くのではないだろうか。




※1 物語の終盤、主人公は火薬を使った多段ロケット(!)を開発しついに月に至る、そしてその際「地球に引力があるように月にも引力があるようだ、月の質量が小さいので近くまでこないとその影響を感じ取れないのだろう」などと言う、ファンタジーというにしても無理のある冒頭とギャップがありすぎるのだが、まあ最古のSFと言われる代物だけに科学と空想のバランスが取れていないのはやむを得ないのかもしれない。

※2 大砲で撃ち出されたカプセルに乗って月旅行、というあまりの非科学性のためバカ話、ホラ話風にとらえられているこの小説だが実はそうでもない。
 ロケット発射場はどの国でもその国の低緯度(赤道に近い方)な場所に作られている、それは地球の遠心力を利用してロケットの発射速度を稼ぐためだ、日本で種子島、アメリカでケープカナベラルにあるのはそのためだ、フランスはフランス領ギアナに発射場を作っている。またロケットの目標が低緯度方向(たとえば月)である場合、軌道変更に燃料を使わないで済むという利点もある。この小説の大砲はフロリダ州タンパに作られたことになっているが、タンパはケープカナベラルに近く更に低緯度な場所だ。
 この打ち上げられたカプセルは彗星が近くを通過したため軌道がずれ月に周回軌道に乗ってしまう、搭乗者たちは逆噴射をして速度を落とし月への突入軌道に入ろうと試みる。速度変更による軌道変更を航空力学ではΔv(デルタブイ)と言い、速度を落として低軌道に遷移することをマイナスのΔvという、減速量が多ければ軌道は突入軌道になる、アスカが奪還作戦において40機のサターンVエンジンを使って行ったのもこれだ。21世紀の今、ヱヴァンゲリヲンはこの部分を正しく描いているのだが、ベルヌが月世界旅行を書いた時(1865年)を考えるとこの描写は驚異と言っていいのではないか。


 




 東宝の「キングコング対ゴジラ」は小学生の時リアルタイムで観た、『ゴジラ勝つか!コング勝つか!』と東宝はさんざんに煽っていたがコングはアメリカから借りてきたヒーローであり勝敗を決めるわけもなく、双方花を持たせて最後は痛み分けだろうと私は思っていた(←いやな子供である)




 もちろんそのとおりだったわけだが映画は面白かった。北極海で復活し帰巣本能で日本に戻ってきたゴジラと製薬会社の宣伝のためにソロモン諸島から連れてこられたキングコングは闘争本能によって互いを認識し迷うこと無く激突するのだ。地上最強は自分であるというプライドのみで戦う2大怪獣の対決は前へ前へと進むダイナミズムにあふれていて当時の映画の宣伝文句「娯楽超大作」に恥じない出来だった。

 それから半世紀、再び両者が対決するとなって観に行かないということがあっていいものだろうか(無い)ということで初日の1回目に馳せ参じた。配給会社の宣伝文句は相変わらずだがこれが前作と同様に勝敗が付くことがないのは明らかだ。




 では何をどう期待して観に行くのかといえばこれはもうお祭りに参加するのと同じである、お祭りは祭り囃子が聞こえてくればもう心が浮き立つのであって、屋台の明かりが並んでいればもう楽しいのだ、出し物が去年と同じであるから行かないというようなものではない。

 公開から間がなくこれから観にいく向きもあるだろうから細かい話は避けるが私としてはおおいに満足した。怪獣映画というのは基本予定調和なものであり、特にこれら客演vsものはその典型であるのだが、予定調和を承知の上でも面白い、むしろ予定調和こそ楽しいという映画はある(東宝映画で言えば、スポーツクラブの主将である若大将が青大将の妨害にもめげず全国大会で優勝し、すれ違っていたヒロインとの仲も元サヤに収まる、というストーリーで17本作られた若大将シリーズなどはその典型である)観ている側は全体のストーリー展開について気を揉むことなくディティルを楽しむのだ。その意味でいうと今作は出色の出来であるといって良いだろう、思ったとおりにお話は進むのだがその展開が思ったより早く思ったより思ったより上(ナナメ上)を行く、先に使った言葉で言えば前へ前へと進むダイナミズムが怪獣映画に必須な非日常感、祝祭感(?)をもり立てているのだ、これは浮世の憂さを一時忘れて楽しもうという「娯楽映画」の本道と言っていいだろう。

 細かいことを言うならコング頭良すぎだろう(もはや怪獣ーモンスターではなく大きなお友達である)とか、地球上の全ての怪獣の王として君臨しているはずのゴジラが妙に小物化している(前作でキングギドラに勝っていることを考えれば、大きな猿でしかないコングと「良い勝負」していてはいけない)とか、いろいろ言いたいことはあるがまあ言うだけヤボだろう。
 ちなみに今作を観て、東宝オリジナルを観てない方へ、コング輸送作戦とか、ビリビリ作戦とかはオリジナルへのリスペクトであり、こまかいお遊びもあるので機会があれば東宝版も観て欲しいと述べておこう







 



 内容はわからぬがとりあえず劇場に足を運ぶ映画というものがある、今まで観てきたシリーズの最新作だからとか、これはお祭りなので踊らにゃ損損とか、そのジャンルの映画が無くなっては困るので投げ銭のつもりで観に行くというような。そしてその中には「内容は知らないがこの監督ならまず間違いはないから」という映画も存在する。しかしそんな信用のおける監督も少なくなった、その数少ない監督の一人がシャマランだ。
 シックスセンス以来ほとんどの映画が傑作から佳作で、ちょっとダメな映画、ハプニングとかレディ・イン・ザ・ウォーターとかもまったく見所がない映画ではない、映画という水ものでこのハイアベレージは素晴らしい。
 
 ということで、多分どんな映画であっても内容をまったく知らされていなくても観に行ったと思うのだが残念なことに配給会社が壮大にネタバレ宣伝をしてしまった。

曰く
『そのビーチでは、一生が一日で終わる。』(ポスター)

たった一日で老いて朽ち果てるバカンスに隠された、衝撃の真実とは?
休暇で人里離れた美しいビーチを訪れた複数の家族。
楽しいひと時を過ごしていた矢先、ひとりの母親が突然姿を消した息子を探している??

「私の息子を見かけませんでしたか?」
「ママ、僕はここにいるよ!」

母親が息子の姿に気付かないのも無理はなかった。なんと6歳だった息子は、
少し目を離した隙に少年から青年へと急成長を遂げていたのだ。
一体このビーチで何が起こっているのか?』
(公式サイト)

 というものだ、この「6歳だった息子は、少し目を離した隙に少年から青年へと急成長を遂げていたのだ。」というカットはこの映画の重要なショックシーンでそういう演出をあまりやらないシャマランが珍しく焦らして引っ張るカット構成だったのだが、なぜこんなことをするのだろうか!

 公式がここまで言ってしまっているのでもはやこれがどんな映画なのか説明する必要もないし、これ以上何か語れば映画のヒットポイントがゼロになりかねないので内容に触れることは出来ない、なので今回は結論だけ言って終わりにする。

 奇妙な現象とそれに巻き込まれた人々の心理描写はさすがの切れ味である、いったいにお話はどこに向かって進んでいるのだろう、この話に納得できるエンディングが存在するのだろうかと観る者の足元が揺らぐようなサスペンスは見事である。

 ここでは言えないいくつかの要素のおかげで、大傑作だ!観にいかなくては損だ!とまでは言い切れないのだが、観にいっても損はないのは確かとだと言える。
 シックスセンスがホームランであり、サイン、ヴィレッジ、ガラス、がセンター前に抜ける快打であるなら、これは内野安打だ、しかしアベレージヒッターの技を観に行くのも映画の楽しみの一つと言えるだろう。


 





 卑金属を貴金属に変換する「錬金術」その下位互換であり物質の状態/形状を変化させる「変成術」そういった神秘の力を持つ錬金術師、変成術師が存在する世界のミステリーである。
 舞台は列車や車が蒸気で走り携帯電話などない世界、スチームパンクと言いたいところだが最新型の車は蒸気で発電しモーターで走行するらしい(!)のでファンタジーといった方が正しいだろう。
 錬金術師は世界に7人しか存在せずその能力は国家間のパワーバランスにも影響するほど大きい、そんな強大な力を持つはずの錬金術師が殺された、果たして犯人はそしてその方法は?というのがこのシリーズである。
 探偵は天才肌で絶世の美女で傲岸不遜な錬金術師とちょっとヘタレでまきこまれ型の変成術師のコンビ(ハルヒとキョンと言いたいところだがもう通じないかもしれず)である。

 さて先にこれはミステリーであると言った、ミステリーにもいろいろなジャンルがあるわけだがこれは本格推理だ、本格推理とは何であるか、それは「主として犯罪にまつわる謎が徐々に、論理的に解かれていく過程を楽しむ」小説である、ここで重要なのは論理的ということだ、つまり本格推理小説にあって探偵は明快な事実をつなぎ合わせて謎を解明する必要があり、奇跡や偶然、勘など頼ってはならない。しかしこれをファンタジーで行うのは難しい、通常のミステリーは当然ながら作者が特に触れていない事柄については通常の物理法則や一般的な常識が通用するという前提があるが、超能力が存在し社会の成り立ちがこの世のものと違っている世界では何が可能で何が不可能かは作者の胸先三寸である。超常的能力、超常現象を描写しながらこれは犯行のトリックとは無関係、これは犯人を指し示す重要証拠と切り分け、読者に納得させてお話を進めるのは現実社会を舞台にしたそれよりはるかに難易度が高い。しかし本作はそれを見事に成立させている。

 ゲーム理論に「完全情報ゲーム」というくくりがある。将棋や囲碁など状況が全てさらけ出されていて運や偶然に左右されないゲーム、競技者の思考力だけが物を言うゲームのことだが、本格推理はいわば完全情報推理ゲームだ。作者は犯人を指し示すすべての情報を作品中に書きしるし、しかし関係者には(読者には)犯人が誰かもそれがどうやって行われたかもわからない、というのがまず本格推理が成立するための最低条件なのだ。そして探偵が関係者を集めて「この中に犯人がいます」というのがクライマックスなわけだが、関係者が(読者が)目の当たりにしていながらその意味に気づかなかった事柄が探偵によってつなぎ換えられるとアラ不思議、疑問の余地なく鮮やかに犯人とその手口が明らかになるというのが本格推理の醍醐味だ(もちろんこれは容易なことではなく、作品によっては必要な情報が書かれていないとか、推理に偶然性が入っているなど怪しいものが存在し「アンフェア」と言われたりする)

 さてしかし、多くの本格推理はそこで終わっている、それらの作品において人の命は綿のように軽く、犯行の動機は紙のように薄い(新たに出来た建物のせいで窓から富士山が見えなくなったので殺人、などといった名探偵コナンは本格推理そのものと言ってよい)作者が論理のアクロバットを踏み外さないよう書き進めるのに精一杯でそれ以外の要素(たとえば「納得出来る動機」)を込められなかったのだろう、しかし時に登場人物の内面までも描写され深い読後感を与えてくれる一枚上手の推理小説も存在する。

 また別な意味で一枚上手といった推理小説もある、犯人もその手口も見当が付かないという状況で探偵役が見事な推理を披露し、なるほどそれは気づかなかったと読者がヒザを打ったあとで、いやそれは間違っている、本当の犯人はこっちで手口はこうなのだとまったく別な推理が披露され、なるほど確かにそれが正しい先の推理は間違っていたと思わせてくれる作品が希に存在するのだ、この第一段目だけで多くの作者は汲汲としているのだからこれが超絶技巧であることは言うまでもない、そして本書がそれだ。
 超常現象がありうる世界を有効に使い、しかしその超常現象を推理と完全に切り分け、読者にアンフェアを感じさせることもなくどんでん返しまでしてみせた作者の筆力は並ではない。おおいに推薦する。

 作者は電撃文庫でデビューしたライトノベル作家である。ライトノベルというのは玉石混交で時に小説として最低レベルに達していない作品も散見する(登場人物の心の動きを地の文で説明する、神の目と人物視点が混在する、同ジャンルでよく使われる設定を説明抜きで使用する、上流社会における敬語がバイト敬語であるなど)そんな中でこの作者の筆力は突出していたのではないか、というわけで次にはこの作者のラノベを読んでみたいと思う。


 





 元がTVシリーズである作品の劇場版は見ないことにしている、それが現在進行形で進んでいるシリーズである場合は特に、なぜと言えばたいていロクなものにならないからだ、なぜロクなものにならないのかと言えばTVと違い木戸銭をいただく映画の場合はそれに見合う大作感をださねばならず、といって映画を観ない視聴者を置き去りにすることは出来ないのでお話に新要素を付け加えることは出来ない、また大作感にもかかわることだがファンサービスとしておなじみのレギュラー陣を登場させそれぞれに見せ場を割り振る必要もある、二重苦三重苦である。
 映画にかぎらず創作物というものはまず創作意欲が先にあるべきと思うのだがこうしたスピンオフは先に営業上の要請があって制作が決定される、これで面白い作品が作れるわけはない。

 コナンやドラえもんの劇場版が毎回クリーンヒットを飛ばしているのは見事だが、それはこの2作が元々単発話の集合体であって、劇場版はその拡大版で済むからだろう。しかしソードアート・オンラインはそうではない、現状TVシリーズは止まっているが原作小説は絶賛進行中なのだ、なのでこれがロクなものにならない可能性は高い、にもかかわらず私は今回足を運び、前作の「劇場版ソードアート・オンライン オーディナルスケール」も観た。「劇場版は見ないことにしよう」というのはいつそう決めたのかわからないほど昔から続いている決まり事だが近年このシリーズだけは続けて観てしまって(!)いる。
 なぜと言えばそれは私が原作者川原礫のファンであるからだ。今作の原作である「ソードアート・オンライン」は現在34巻、川原礫の別シリーズである「アクセル・ワールド」は25巻、気が遠くなるほどの物量である、そして私はこの両シリーズを愛読しており59巻を全て所有している、当然ながら作家別所蔵冊数ダントツの一位だ。

 これらの作品群について特筆すべきはこれが1冊ごとあるいはショートスパンで終了する独立したお話の集合体ではなく、大きな構想の元に前に進んでいることだ。ライトノベルの場合人気が出たため当初の構想を終えた後もズルズルと続き、やがて勢いを失っていつの間にか新刊が出なくなる、という経過をたどる(ことが多い)。アメリカのTVシリーズがそんな感じだが、つまりは目前の次の一作を上梓するのに精一杯で長いスパンの物語が考慮されていない(ことが多い)しかし川原礫のシリーズはそうではない、大きな構想のお話を最初から何巻にも分けることを前提にして語っていくのだ、このような小説はライトノベルという枠を外してもめったに(まったく?)ない、たいていの小説は売れれば次があるし売れなければそれまでだ、10巻をめどにワンエピソード(ソードアート・オンライン、アリシゼーション編は10巻、現在進行中のプログレッシブ編は既刊8巻で先は長そうだ)などという執筆方針が取れる作家はまずいない。

 ってそれは原作小説の話ではないのか、映画を観る理由になっていないのではないかと思う向きもあるだろうが まったくそのとおり(!)これは川原礫とソードアート・オンラインというシリーズに対する賞賛と敬意を示すために投げ銭をしているようなものだ(推しに課金とも言う)
 
 とはいえしかし、前作の「オーディナルスケール」は悪くはなかった。
 この「ソードアート・オンライン」というのは五感すべてがシミュレートされた仮想現実ゲームの名前であり、剣をたよりにモンスターと戦うゲームなのだが、サービス初日にログインしていた1万人のユーザーがゲームからログアウト出来ずゲーム内で死亡すると現実世界の体も死ぬという陰謀に巻き込まれるというお話だ。
 オーディナルスケールはこのソードアート・オンライン事件で娘を失った科学者がその喪失に耐えられず、コンピューターシミュレーションでもいいから娘の人格を蘇らせようするお話だ。 彼は事件が解決したあと拡張現実機器を悪用してかつてのゲーム参加者から娘の記憶を引き出そうとする、その過程で相手の脳に障害が起きようが死亡しようがお構いなしだ。
 愛する者の喪失に耐えられず死者を蘇らせようと試みる話は洋の東西を問わず数多く存在するがかならず悲劇に終わる(オルフェウス、イザナギ、あるいはペットセマタリー、猿の手 etc)そしてこの映画は21世紀にふさわしいデジタル版黄泉比良坂だ、大作感のあるなかなかに深いお話ではあるのだがソードアート・オンラインおなじみのレギュラー陣が総出で活躍するあたりに商売上の都合が見え隠れして微妙に違和感がある(これはここでやる話じゃないんじゃないかなー、と思っていたところこの監督の次の作品が現実をそっくりシミュレートしている仮想現実世界に干渉し、恋人が死ぬルートを改変しようとする話「HELLO WORLD」だった。仮想現実であろうとなかろうと愛するものの死を無いものにしたいというあたりが同じで、監督はやはりこのネタはスタンドアロンな映画でやったほうがいいと思っていたのかもしれない。ちなみにこの「HELLO WORLD」はデテイルがボロボロでかなり残念な出来となっている^^;)

 というわけで、このオーディナルスケールは映画なら大作感あるものにしないとという強迫観念によって総花式になり、頑張った結果はそれなりに評価は出来るのだが、メインストーリーが進行中にそれに影響を与えない番外の大作を作品を作るのはやはり無理があったとしか言いようのないものだった。

 というような状況を踏まえ「今回はどうかな~」といった若干イジワルな気持ちもあって劇場に足を運んだのだが驚くべし、実に小品な映画だった、ストーリー的には主人公キリト君とヒロインアスナが出会ってパートナーとなるまでの短いお話だ。
 ハードゲーマー(業界用語で言う「ガチ勢」)であり破天荒な性格のキリト君とゲームに触ったこともないいいとこのお嬢さんであるアスナがぶつかり合い反発しながらお互いを認め合うまでのそう長くない期間を映画らしい手間をかけた絵作りで描写したものだ。
 原作小説でもその原作を元にしたTVシリーズでもそこはあっさりしていたのだが、以後長く続く強力なコンビの出会いをもう少し描いて欲しかったと思うファンは多かったと思う、これはそのための映画と言えるだろう。
 さてしかし独立した一個の映画というよりTVシリーズの1エピソードといってもいいこの映画は一見さんが観に行っても理解不能だしそもそも観に行くという選択肢は出ないだろう。
 話はズレるが今年ガンダムシリーズの映画版「閃光のハサウェイ」という映画が公開された。私はガンダムをまともに観たことがないので観に行っても理解不能だろうし観に行こうとは思わない、これはガンダムファンのためのガンダム映画なのだ、これは「 星なき夜のアリア」と同じ構造である。
 劇映画というものはかつては盆と正月に家族総出で押し出して楽しむ万人向けの娯楽だったのだが、だんだんと間口が狭くなりついには一見さんを視野に入れない作品が作られるようになったということだ、これは劇場で公開されてはいるものの一部ファンのためのスペシャルコンテンツである。そして「星なき夜のアリア」はガンダムよりもっと閉じている。映画の中でも特に労働集約的な(予算、手間暇のかかる)アニメーション映画がここまで閉じていても成立しているということには驚かざるを得ない。
 これが成功したなら今後もメインストーリーですっ飛ばしたデテイルをファンサービス的に描写して見せるという映画が多く制作されるだろう、それは劇映画というものの意味や立ち位置を変えていくかもしれない。ほんとうに変わっていくかその先に何があるのかはわからないが私としては映画が多様であるのはいいことだと思う、それがどんなコンテンツであれ大きな画面と良い音響で見る体験を多くの人に味わってもらいたいからだ。


 まとめ「一見さんお断り」

 





 早川の「錬金術師シリーズ」で非凡な筆力を見せた紺野天龍によるライトノベルである。こういっては何だが必ずしも質の高い作品ばかりではないラノベにあってこの作家の筆力は貴重ではないかと思い読んでみた。

 まずは奇妙な(と一般の本読みなら思うだろう)長いタイトルと萌え絵の表紙、ザ・ラノベである。星の数ほどもあるラノベにあって表紙とタイトルは重要だ。人気作家の新作とかネットで評判になった作品の書籍化ならともかく駆け出し作家の新作には競争力がない。ネットで情報を集めたり出版社のサイトを見たりする熱心なファンは別として暇潰しの本を求めて書店を訪れるライトなラノベファンに対してはその場に置いてある本の表紙とタイトル以外の情報はない、そこで台頭してきたのが長いタイトルだ、その本のジャンルと傾向を本の表紙だけで説明しようという苦心の策なわけだ。
 そしてこの表紙からはこれが学園ものであり、自分の才能に自覚がない天然のお嬢様に主人公が振り回されるラブコメディであることはわかる。そこまでわかるのか?!と思う向きもあるだろうが、ジャンルが熟して作品の微妙な差異が重要になってくると言葉の選択一つ一つに意味が出てくるという事だ。もっともそれで言うとこのタイトルはあまり出来が良くない、最大限読み取っても上記の内容が精一杯であり「忖度される」という尊敬を含んだ受け身の助動詞の座りが悪い、忖度にはされている対象の他に忖度している主体があるはずなのだが、それが「僕に忖度される」なのか「クラスから忖度される」なのか、あるいはもっと大きなくくりなのか読み取れず不完全な印象を拭えない、これはこのような独立した短文で使うべき言葉ではないのではないか。
 (ついでに言えば「忖度」というのはモリカケ問題で散々使われた言葉であり、今や政治的なうさんくささがまとわりついているように思うのだが、この本のメインターゲットである若者は気にしないという判断なのだろうか?)

 というわけでこのタイトルは長いわりには情報が少ない。情報が多いとはどういうことかというと「俺だけレベルが上がる世界で悪徳領主になっていた」(ファミ通文庫)などというものだ、このタイトルからは「本書は現実世界で死亡したゲーマーがやっていたゲームそっくりな世界の登場人物として転生した異世界転生ものである、しかし彼が転生したのはゲームの主人公ではなく、敵役たる悪徳領主だった、このままでは自分はゲームの主人公に滅ぼされる運命にある。しかしなぜか世界にレベルというものが存在すること、レベルアップする方法があることを認識しているのは自分だけだった、これはそのアドバンテージを使ってゲームの進行を変え破滅から逃れようとする元ゲーマーの物語である」ということがわかる。そこまでわかるのか?!と思う向きもあるだろうが、これにはジャンルの歴史というものも関係している。
 そもそも今、異世界転生ものというのはラノベの一大ジャンルである、かつては不当な理由(神様のミス等)で死亡した主人公が神から第2の人生を送るチャンスを与えられ、おわびのチート能力を与えられたうえで剣と魔法の世界に転生するというのが主流だった。
 人を遙かに超える能力を持った主人公が異世界で無双するお話が量産され「俺Tueeee(俺強え~)系」というジャンルを形成したが、やがて飽和しチート能力が剣と魔法の能力ではなく、
防御力のみ主人公「痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。」(カドカワBOOKS) 
収納魔法(異空間になんでも収納できる魔法)のみ主人公「『収納』は異世界最強です正直すまんかったと思ってる 」(アルファポリス)
鑑定スキル(人の能力や武器の性能を見抜く能力)のみ主人公「転生貴族、鑑定スキルで成り上がる ~弱小領地を受け継いだので、優秀な人材を増やしていたら、最強領地になってた~」(講談社)
など変化球が増えこれも飽和してついには「「攻略本」を駆使する最強の魔法使い」(GAノベル)というゲームの攻略本を持っている主人公(!)まで登場した。

 ついで現れたのが悪役側に転生するジャンルである。これは「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」(一迅社文庫アイリス)という女性向けラノベでブレイクしたジャンルと思うのだが、要するにゲーム世界の登場人物として転生したはいいが、それはゲームの主人公ではなく敵役であってそのままではやがて主人公に断罪される運命である、というお話である。
 このジャンルまだ飽和したとは言えないが「弱気MAX令嬢なのに、辣腕婚約者様の賭けに乗ってしまった」(ビーズログ文庫)という、乙女ゲームの登場人物に転生したがそれはヒロインではなく、悪役令嬢でもなく、元のゲームではイラストさえ描かれていなかったモブ(その他大勢)で、しかしなぜか元のゲームでは主人公(プレイヤー)の攻略対象だったイケメン(主人公が並み居るイケメンを攻略していくゲームだった)の婚約者という立場になっていた、このままいけば婚約者はやがてヒロインと恋に落ち、自分との婚約は破棄されるはず、ならば傷が浅いうちに婚約破棄してもらおうと画策するお話、という変化球まで登場している。

 というような歴史と背景を元にすれば、タイトルからおおよそのジャンル、内容を類推するのは難しくない話だということなのだ、そして浜の真砂ほどもあるラブコメの中に割って入るにしては本書のタイトルの情報量はあまりに少ないのではないか、というお話なのだ。
 ちなみにラブコメジャンルでの情報量の多いタイトルには「お見合いしたくなかったので、無理難題な条件をつけたら同級生が来た件について」(KADOKAWA)などというタイトルがある(ほとんどあらすじである)

 ついで表紙イラストだ、このイラストレーション萌え絵としては悪くない(ラノベは小説5割イラスト5割といわれるほどイラストの出来が売り上げに影響するらしい、ラノベはキャラ立ち優先のジャンルでありイラストはそのキャラのイメージを固定する重要な要素なのだ、これは従来の本読みからすると信じられない話だが、映画を思い起こしてもらうと理解しやすいかもしれない、映画はお話は二の次で役者を見に行くという見方が普通にありうる世界だ、つまりはキャラ優先である。またレコード全盛時代には「ジャケ買い」という言葉があった、内容も知らぬままジャケットのデザインだけでレコードを買うということだ。バラ売りされている音源をネットで買うということが当たりまえになった今、音楽メディアを音楽とは無関係な要素で買うという行為は奇異に思えるだろうがそういう文化は存在したわけだ、それと比べれば表紙のイラストに惹かれて手に取ってみる行為は「信じられない」というほどのことではない、これは読者が小説に、というか「本」に、求めるものが違ってきているということなのだろう)

 と、イラストの重要性について語ったあとで言うとこの表紙もイマイチである、かわいい女の子が描かれていてまずは読者(候補)にアピールするという最低限の要素は満たしているが、作中で言われている「いいとこのお嬢さんで箱入り娘な和風美少女」には見えない、あえて言えば、生まれた病院では並んで保育器に入っていた幼なじみで、以来小中高ずっと同じクラスにだった隣の家の女の子、といった親しみ安さを感じるのだ。小説内で「超絶美少女、綺麗に梳かれた長く艶やかな黒髪の深窓の令嬢」などと描写されるとそのミスマッチ感が大きい、キャラのイメージ固定に悪影響があるレベルとさえ言える。

 とまあ、表紙について語るだけで長くなってしまったがこれは紺野天龍の力量とはあまり関係ない部分であるので内容に触れよう。

 本書の主人公湊琥太郎くんは特段の取り柄も特技もなく、悪目立ちせずに心穏やかな高校生活を過ごすのが望みだという自称アルティメット凡夫(!)である。しかしある朝「パンをくわえて走ってきた」少女と出会い頭に衝突する、彼女こそこの小説のヒロイン天津風撫子だ、体が弱くて中学校にほとんど登校できなかった彼女は高校生活に過剰な夢と希望を抱いており、入院生活の間に読んだラノベやアニメに影響されてそれが奇行であることは認識しつつもパンをくわえ「遅刻、遅刻」と叫びながら走ってみたいという誘惑に耐えられなかったのだ。結果、希望どおりの衝突を果たした彼女は主人公湊琥太郎を運命の相手と認識してしまう、というのがイントロだ。

 数多ある異世界転生ものにおいて主人公の大半は子供を助けてトラックにはねられるかブラック企業の過重労働で過労死する、お約束でしかないのでバリエーションを考える手間を省いているとしか思えない、「本来ここでトラックにはねられて云々というくだりを書くべきなのだろうが面倒なので省く」と限界を踏み越えてぶっちゃけた作品までも存在する。
 本書もボーイミーツガールはもはや日の下に新しきものなしと1週回ってパンをくわえさせたのだろうが、メタ表現な感じも否めない。と思っていると、このヒロイン、青春を謳歌するための謎部活を立ち上げたいと言い出す、謎部活とは「何をやるための部活なのかもわからない放課後集まって遊ぶだけの部活」なのだという、ここでたとえばという話として「隣人部」「SOS団」という名前が挙がるのだが「隣人部」は「僕は友達が少ない」(MF文庫J)で主人公が所属する部活、「SOS団」はS世界を、O大いに盛り上げる為の、S涼宮ハルヒの団、ということで「涼宮ハルヒの憂鬱」(角川スニーカー文庫)由来の単語だ、ラノベの中で他のラノベについて触れるメタ発言だがこれいいのか?と思う。権利云々の話をしているわけではない、この単語を見た読者のうち該当作を知っている者は(どちらもヒット作なのでその数は多いと思われるが)現実世界に引き戻され、羽瀬川小鷹や三日月夜空、涼宮ハルヒや長門有希といった登場人物を思い起こすかもしれない、それは小説という別な世界に心を飛ばして楽しむ娯楽の障害ではないのか、ということだ。
 う~む?と思って読み進めるとそれどころではなかった。

「笑えばいいと思うよ」新世紀エヴァンゲリオン
「朝から元気だなあ、何かいいことでもあったのかい」化物語
「はろろ~ん」ひぐらしの鳴く頃
「アイエエエ ママ委員長!? ママ委員長ナンデ?」ニンジャスレイヤー
「ゆうべはお楽しみでしたね」ドラゴンクエスト
「僕、またなんかやっちゃいましたか」賢者の孫

 など、聞いたことのある台詞のオンパレードだ。
 念の為言っておけばこれらは全てメジャーな作品であり、メジャーの中でもベストナインクラスのヒット作からの「いただき」だ。ここで私は作者の狙いを悟った、つまりはこの作品はジョークと内輪ネタで構成されたメタな作品であるという主張だ、ベストナインを使っているのはうっかりマイナーな作品からネタを引っ張ってきて読者が気づかず作者オリジナルだと思われてはマズイという判断なのだろう。狙いはわかった、しかしそれでいいのか紺野天龍!?と思いつつ読み進めていくとこれを越える衝撃が待ち構えていた。

 ヒロイン天津風撫子は「青春という掛け替えのない時間を、得がたい友人らと共に過ごし健やかな情緒を育むとともに、地域に密着した奉仕活動を志し、郷土愛を向上させることを目的とした同好会」『青春部ーアオハルパーティー』を設立する、設立メンバーは凡夫の主人公琥太郎くん、クラスの委員長、爽やかなイケメン、学校のアイドル的美少女、というメンツだ。しかしここで委員長(面倒見がよく付いたあだ名がママ委員長)から、衝撃的な事実が告げられる、ヒロイン天津風撫子は本人が認識していないが実は超能力者でその力は物理法則を無視し、時間の流れをねじ曲げ、事象の因果律さえ無効化できる超絶能力なのだという。そして彼女の気分一つで世界が滅ぶ可能性があるため監視、保護するために未来から送り込まれた工作員が自分なのであるという。

 涼宮ハルヒの憂鬱じゃないかー

 涼宮ハルヒは記録的大ヒットを飛ばした作品であり、アニメの成功もあって社会的現象とまで言われたモンスターシリーズだが、なにしろ初出が2003年であり、今や知らない/忘れた人もあるかと思う、なのでざっとおさらいしておくと、彼女は物理法則を無視し、時間の流れをねじ曲げ、事象の因果律さえ無効化できる超能力者だが、本人にその自覚はない。無意識のうちにその力を解放すれば世界が滅びかねないので監視保護のため未来人、宇宙人、超能力者がそれぞれの組織から派遣され彼女の設立したSOS団に入って活動している、というお話だ、物語の語り手であるキョン君(最後まで本名不明)は何の特技もない一般人だがなぜがハルヒに気に入られ彼女に振り回される運命にある。
 
 つまり本書はそのまんまハルヒなのだ、更に言えば青春部の他の2人は未来人と超能力者だった。これうっかり似たってレベルじゃないよなーと思っていると、ついには琥太郎くんが「現に未来人がいるのだ。宇宙人と異世界人と超能力者くらいはいてもいいだろう。」と言い出す。この宇宙人、異世界人、超能力者というのは涼宮ハルヒがクラスの自己紹介で「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。」と言い放つパワーワードであり、つまりはこの作品はベースドオン「涼宮ハルヒの憂鬱」ですという紺野天龍の宣言に他ならない。

 本の出版にあたっては企画会議とか編集会議とかを通過する必要があると思うのだが、よくこれ通ったな!

 そうか~ハルヒのパクリ(!)なのか~と思っていると、シチュエーションの相似にも気づいた、本書では主人公琥太郎くんはママ委員長の自宅に無理矢理つれていかれそこで彼女が未来人であることを明かされるのだが、その自宅というのは高級マンションで、彼女は一人暮らしだ、そしてまず紅茶を煎れてくれるのだが、飲み干すや即座におかわりをついでくれるので「わんこそばスタイルか」と琥太郎が思うというくだりがある。これ見たことあったなと思って書庫から「涼宮ハルヒの憂鬱」を持ってきたのだが、ハルヒにあっては宇宙人こと長門有希が自分が宇宙人であることを明かすため、キョンくんを自宅に連れ帰るのだが、これが高級マンションであり、彼女は一人暮らしであり、お茶を煎れてくれるのだが飲み干した瞬間に次を注いでくれる、というシーンがある。枠組だけでなくディティルまで同じなのだ。

 ここまで寄せてくるということは、これはもはや設定を「いただいた」などという話ではなく、リメイク、紺野天龍の「僕の考えた令和のハルヒ」なのだと思わざるを得ない。

 (紺野天龍はハルヒとキョン的なものが好きなのだろう、本書を読む前にその趣味志向を見抜き「錬金術師の消失」でこの主役2人はハルヒとキョンだと喝破した私はなかなか偉くないだろうか?)






 そもそもハルヒはいびつな物語である、ハルヒの力-万能というもおこがましい天地創造すら可能な神のごとき能力-があまりに超絶すぎてお話の中で取り扱えないのだ。なので「彼女が自分の能力を自覚すると何が起こるかわからず、ただ気分を害するだけでも世界が滅びるかもしれない」ということにして、そのわがまま、無茶振りに振り回されるSOS団の愉快な仲間達のお話になってしまっている。ヒロインなのに彼女は常にカヤの外なのだ。ついで言えばハルヒの言動が奇矯すぎる、SOS団の結成のため文芸部の部室をのっとる。書道部所属だった「未来人」みくるちゃんを無理矢理SOS団に入部させ書道部を退部させる、いやがるみくるちゃんにメイド服を着せる、その服をはだけさせて写真を撮る、更にはバニーガールの格好をさせてビラ撒きをさせる、更にはみくるちゃんを使ってフェイクのセクハラ写真を撮りコンピューター研を脅迫してパソコンを強奪する、SOS団の集会の際、喫茶店の支払いを全てキョンくんに押しつける、休みの日相手の都合もお構いなく集合の電話をかけてくる、などセクハラ、パラハラし放題なのだ。暴力系ヒロイン全盛だったという時代背景にあっても「これはない」と当時私は思っていた、今読み返してみるともはや狂人、犯罪者の域であって不快感しか感じない。
 つまり本書は、「ハルヒって面白かったんだがいろいろ残念な部分が多かったんだよな、そうだここは一つ『僕の考えた令和のハルヒ』」を書こう」ということなのではないだろうか。本書のヒロイン天津風撫子は「青春」という言葉に過剰なこだわりがあるものの、いいところのお嬢様らしいおっとりとした性格で青春部の誰からも愛される癒やし系の少女だ、大枠からディティルまでハルヒそのままな本書の中でヒロインの性格だけが180度違っていることを考えると、この本の執筆動機はそのようなものであったと想像せざるを得ない。

 さてしかし本書はラブコメディがダラダラと続くだけの日常系ではない、ハルヒと同じく主人公をめぐる重大事件が起こって事態は急転する。なるほど!と思ったのがヒロインの関わり方だ、何が起こってもハルヒは常にカヤの外でありその力を振るうどころか時には事件が起こっていることすら気づかない立場に追いやられている。しかし本書では天津風撫子はちゃんとストーリーの中心にいてお話と噛みあっているのだ、このあたりもさすがリメイク「僕の考えた令和のハルヒ」だけのことはあると言えるだろう。

 さて、ここでこまかい話をすると、本書には随所にかつてのラノベで使われまくったテンプレエピソードが挿入されている。
曰く、
お嬢様は毎日黒塗りのリムジンで送り迎えされている。
お嬢様には家から重箱に入ったお弁当が届く(中身は和洋中3人のシェフが作った3段の重箱である)
デートすると残りのメンバーがこっそりと後を付けてくる。
人目を避けようとして下着姿の女の子と用具箱に閉じこもる。

 など、もはやテンプレが過ぎて使われこともなくなった代物だ。
 更に言うとお嬢様が廃病院での肝試しを思いつくと彼女の実家が建物の使用許可を取り、専門家を派遣して危険箇所のチェックを行い、ホラー演出までやってくれるというエピソードがある。かつてのラブコメにはこういった超絶お金持ちのテンプレ描写があった、お買い物をするのにデパートを貸し切りにします的なものだがさすがに手垢が付いて見なくなった。電撃文庫出身でサブカルネタを連発する紺野天龍がそれを知らぬはずもない、つまりワザとだ。どうやら筆者はこの小説を「僕の考えた令和のハルヒ」以外の部分からオリジナリティを抜き、既存のパーツ-それもなるべくベタで読者がすぐわかるネタ-を組み合わせて小説を完成させようとしているらしい。そのトリッキーさに賭けた努力は認めるがそれにどんな意味があり、どんな価値があるのかまるでわからない。

 結論、サブカルネタに明るくなければ作者の狙いがどこにあるのかもわからず相手を選ぶ小説である、狙いがわかったところで面白いと思えるかどうかは別なので「とうていお勧めできない」





 1作目が「僕の考えた令和のハルヒ」であることはわかった、そしてかつてのハルヒが持っていた問題-ヒロインがカヤの外-に斬り込んでいたことだけは評価した、このシリーズはひょっとしてそういった諸問題をを解決するチャレンジなのかもしれないと思い2巻目を読んでみた。
 今回、ヒロインの天津風撫子は完全に脇役に追いやられ、クライマックスではその現場に居もしなかった!
 更に言えば、今回の中心となるストーリーはバック・トゥ・ザ・フューチャーからのいただきだった、何がしたいんだ紺野天龍・・・