2023

大ヒットした「アバター」の続編となるジェームズ・キャメロンの新作である。前作「アバター」は興行収入世界一位(3700億円)というヒットを飛ばして社会現象と言われるほどのブームを巻き起こした作品だが私はあまり評価していない・・・と「すずめの戸締まり」そっくりの書き出しになってしまったが、つまりはまたしても期待しないままに観に行った作品であるということだ、互いに(?)不幸な映像体験と言えるだろう。
ではなぜに前作を評価していないのかというと、それは内容が「白人酋長もの」のフォーマットから1歩も出ていないからだ。白人酋長ものというのは「文化的に進んだ集団(つまりは白人)が資源を求めて文化的に劣った地に侵攻して略奪行為を行う。結果戦争になるが装備も未熟な原住民側は劣勢に立たされる、しかし主人公が白人側から寝返ってリーダーとなり、原住民を勝利に導く」というようなお話である。これはバート・ランカスター主演の映画「白人酋長」(1954年ワーナーブラザース)から来た言葉だが、「アラビアのロレンス」「ロード・ジム」「ダンスウイズウルブス」「ラストサムライ」(←「ダンスウイズウルブス」のインディアンを侍に買えただけ)SF映画で「ジョンカーター」至近では「MINAMATA」などがこれにあたる。今は有名どころをあげただけだがアメリカでは1ジャンルを形成するほど多くの作品が作られているのだ。そしてこの「アバター」もその一つだ。

「アバター」はインディアンVS騎兵隊を架空の惑星パンドラに移し替えただけの物語であり、観客の誤解がないように(?)原住民たるナヴィ族の生活様式、衣装、装飾品などはインディアンを髣髴とさせる仕様になっている。彼らの武器は弓や槍であり対する騎兵隊(地球の資源開発公社)はパワードスーツにマシンガンと白人酋長もののフォーマットをきっちり踏襲している。

2つの文明が接触すれば軋轢を生むのは必然であり、どちらにも守るべきものがあり、正義は一つではないというのが現代的なドラマだと思うのだがこの映画、地球人は圧倒的な悪、酌量すべきものなど一片もない極悪非道な組織として描かれている。なぜにここまで自虐的な構成になっているのか、といえばこれはなぜにアメリカでは白人酋長ものが1ジャンルを築くほどに作られているのかという事情につながるだろう、要するにアメリカの心ある人々にとっては自国の建国の歴史が侵略と搾取にまみれているのが耐え難く、定期的に「白人わるいやつばかりでない、インディアンうそつかない」という映画を作ってエクスキューズしたくなるのだろう(と思う)問題なのはこうした白人酋長ものには更に「土人を差別しない俺えらい」「劣った側を率い勝利する俺凄い」という意識が見え隠れすることである、まあこのあたりになると余人(余国人?)には理解しかねるのでこれ以上言及するのは避けるが、この最先端技術の映画が手垢の付いたフォーマットにガチガチに縛られているところに違和感があって私はまったく楽しめなかったのだ。
映画のドラマツルギーとしても体はナヴィ族心は地球人という主人公がその唯一無二の立場を使って、最後は両者を和解に導くというのが正しいエンディングだと思うのだが、最後まで両者は憎しみあったまま殲滅戦を繰り広げて終わる。ターミネーターやエイリアン2でワクワク、ドキドキの末にカタルシスと観客の心を自在に操ってみせたジェームズ・キャメロンとしてはこれまたきわめて硬直していると言わざるを得ないだろう。
というわけで舞台設定をそのまま引き継いだ続編である本作はまったく観にいくつもりがなかった、方針が揺らいだのは先に観にいった友人に「お話がしょうもないのはもう諦めて最新デジタル映像の技術品評会として観にいくべき、水のCGシミュレーションとハイフレームレートの組み合わせは一見の価値がある」と言われたからだ。
アナログであろうとCGであろうと複雑微妙な物理法則によって自在に姿を変える水は特撮映画の鬼門である。それを海大好きキャメロン(一人乗りの潜水艇でマリアナ海溝の探索を行ったり、タイタニック号を含め世界各地の難破船の探索を行ったりしている)がCG映画化するというなら最新技術による完璧な水表現が見られるのではないかと思ったのだ。そしてもう一点がハイフレームレートである。
フレームレートとは1秒に何コマ撮影するかということだ、映画はご存じのとおり1秒24コマで撮影した映像を1秒24コマで映写している、これは映画がトーキー(音付き)になって以来100年続いた方式だが映画にとって最適のフォーマットがどうかは長年議論のあるところだ。
なぜなら秒24コマというのは早い動きを捉えるには少なすぎるのだ、秒24コマ撮影の場合通常シャッター速度は1/48秒だ、スポーツ写真をスチルカメラで撮る場合1/500秒とか1/1000秒のシャッター速度が必要であことを考えるとこれはあまりに遅い、たとえばモータースポーツ、F1マシンの最高速度は時速350kmなので秒速100m、1/48秒の露光中に2m強進んでしまう、なので映っている映像は横に流れたボケボケの映像となる、これをモーションブラーというのだが車の形も判然としないしチーム名やスポンサーのロゴなど当然読めない。もともと捉えられていないのだから高性能レンズを使おうが解像度を上げようが鮮明な絵にはならないのだ。
これを解消するために1秒24コマという撮影スピードは変えず1コマに対するシャッター速度だけを早めるという手も存在する、すると1コマ1コマに捉えられた映像はシャープになるがこれを連続映写するとなめらかな動きにならず不自然なパカパカした映像になってしまう、これをストロビングというが、なんというか「止まっている絵が次々に表示される」という印象になってしまうのだ。もともと映画は「止まっている絵を次々と表示する」ことによって動きのイリュージョンを作っているのだが対象の動きが速いとコマとコマの間のジャンプが大きくなりすぎて動いているように見えなくなるのだ、このストロビングはモーションブラーのある絵(流れたボケによって動きの印象を補完してくれる映像)によって軽減される、というわけで映画はディティールが失われてしまうのには目をつぶって1/24コマで運用されているわけだ。
(余談だがこのストロビングをあえて映像的表現として使った作品もある、スピルバーグの「プライベートライアン」(1998年パラマウント)である。オマハビーチ上陸などの戦闘シーンを撮影監督のヤヌス・カミンスキはシャッター速度を1/96秒、あるいは1/192秒に変更したという、通常より早いシャッタースピードで撮られた映像は、動きが固く硬質で、爆発よって飛んでくる砂や破片一個一個がクリアに見分けられるという奇妙な映像になった。これは極限状態に置かれた兵士の異常な心理状態を見事に再現した撮影効果である)
さてしかしストロビングを起こさず映像の解像度を上げる方法はないのだろうか、という問題に対する回答がハイフレームレートだ、つまり1秒24コマというフォーマットを捨て秒48コマで撮影/上映するのがこれだ、動きを捉える間隔が2倍になるのでコマとコマの間のジャンプが減りシャッター速度を上げたクリアな映像でもストロビングが起こりにくくなるのだ。あまり話題になっていないのだがこれは従来とはまったく違う「映画」なのだ。
実のところハイフレームレートの映像作品ははるか以前から存在する、特撮の神様ダグラス・トランブルは40年以上前に70mmフイルムを秒60コマで上映する「ショウ・スキャン」という上映方式を考案していた。トランブル必死の売り込みにもかかわらずこれを採用する映画会社はなく一般化しなかったが、イベント映像、テーマパークのアトラクション映像に多く採用され私自身はこれを85年のつくば科学万博で体験した(東芝館「Let's Go!パル」監督ダグラス・トランブル)これが驚くべきシャープネスとなめらかな動きによる異次元の映像体験であったため私はハイフレームレートが映画に採用されないものかと長年思っていたのだった。
実は8年前「ホビットの冒険」でハイフレームレートの興行は行われていたのだが、ハイフレームレート上映する劇場が少ないのと3D上映と抱き合わせだったことで(私は反3D教徒である)観にいかなかった、すぐに観に行きたい映画がハイフレームレートで公開されるだろうと思ったからなのだが続く映画はほとんど(「ジェミニマン?」う~ん)なかったのだ。
今回はフレームレート云々ではなく行かないつもりだったのだが、たしかに最新CG技術による水表現とハイフレームレートの組み合わせには一見の価値があるかもしれない、ということで劇場に足を運んだのだった。
前置きが激しく長くなったが、そのような心もちで鑑賞に臨んだということは言っておくべきだろう。
さてではどうだったのか、と言えばもう映像は完璧!水中シーンなどはフツーに海洋ドキュメンタリーの水中撮影を見ているようだし、水上の波も飛沫も本物としか思えないリアルさ、フルCGキャラクターであるナヴィ族の動きも物理シミュレーションされているのかまったく違和感がない(前作は若干重力、慣性の表現に違和感があった)加えてスゲーと思うのは地球人だ、地球人は俳優がそのまま登場するわけだが、舞台は架空の惑星パンドラなのだ、背景たる海も陸も、ナヴィ族を含めた生物もすべてCGな筈なのだがその中になんの違和感もなく溶け込んでお芝居をしているのだ。
「俺も始めは、これ俳優だよな、ってことは合成だよな、普通にCGキャラクターに混じっているんだけど、どうやって位置や芝居を合わせているんだ?とか思ってたけど、途中であきらめてもうそういうもんだと思うことにしたよ」とT監督も述べている。
CGキャラクターは登場人物としてそこに存在し、水は水、海は海としてそこにあってそれが実在のものであるかデジタルで作られたものであるか(ハイフレームレートがどうだとか最新CG技術だどうだとか)の議論はもはや意味がないという域に達していたのだこれはビックリである。
私も最初は「見せてもらおうか最新デジタル技術とやらを」という感じだったが、「すみません見分けがつかなくなればその映像がロケであるかCGであるかに意味はなくなり、その価値に違いはないです」という鑑賞姿勢になってしまった。
ということでそこは凄いのだが、しかしそうなると残るは(!)映画の内容である。しかしこれが前作に輪をかけてひどい、びっくりなのはパンドラの海に鯨がいて4光年彼方の地球から捕鯨船(!)が来て捕鯨していることだ、それも船首に銛打ち銃をそなえた捕鯨船で鯨を追い、子供連れの母親鯨を殺し、稀少部位だけ取って放置するというベタな残虐表現である。こじらせてるなぁと思ったのだがそういえばキャメロンは反捕鯨運動家だった。しかしエンターテインメントを掲げる超大作でここまで主義主張を押し出していいものだろうか(止める奴はいなかったのか、と思うが興行収入世界1位の監督に物申せる人間はいないかもしれない、新海誠の時にも言ったがやばいでしょこれは)
騎兵隊たる開発公社もあいかわらずでナヴィ族の子供をさらうわ、虐待するわ、しまいには殺してしまうわと極悪非道の大判ぶるまいである、はっきり言って不快で見ていられない。
マスコミに露出するのはちょうちん記事ばかりだが(メディアとしては何であれ業界が盛り上がって欲しいし、キャメロンに反旗を翻すのは勇気がいるだろうが)余国人としては映画の内容についてもう少し客観的な評価を下すべきではないだろうかと思う。
(一般人の感想の中には「あまりの暴力描写に心が苦しく見ていられませんでした」というものがあった、13年越しの続編ともなれば今作から観る人も多いだろう、ラッセンのイラストみたいにキレイキレイなトレーラー映像を見て足を運んだ人の中にはそんな感想を抱く人がいてもおかしくないはずだ)
ということでこの映画はまったくお勧めできない、ハイフレームレートによる最新CG技術は素晴らしいが、その完成度の高さによって普通に海洋冒険活劇として観ることが出来てしまう、そうなるとこの世界に善と悪しかないような極端な世界観や監督の思想信条の押しつけに辟易するハメになってしまうのだ。

雑誌「東京人」の取材を受けた、私はこの雑誌をまったく知らなかったのだが見本誌をいただいて驚いた、センスのいい写真とエッセイ、一定のテーマに沿った特集記事で構成された遊び心のある雑誌だったからだ、昔はこうした雑誌が世にあふれていた、しかし長引く不況で企業の側にも読者の側にも余裕がなくなり更にはWEBメディアの台頭も相まってそういった雑誌は次々と姿を消してしまった。なのでいまだにこのような趣味の雑誌が発行されていたことに驚いたのだ。
「東京を舞台にした特撮映画についての特集」に私の仕事がどう噛み合うのかいまひとつ納得がいかなかったのだがインタビューを受けた、実のところ操演という職種がもの珍しいためか取材を受けることは多い(最近「空気人形」是枝裕和監督 2009年、に再び光を当てるという意図の本で取材されたばかりだ)ところがしかし取材を申し込んできながら映画のことも特撮のこともましてや操演についてもロクに知らず冒頭いきなり「操演ってどんなお仕事なんですかー」とくるインタビューアーも居たりするのだが、東京人差し回しのライターはそのようなこともなく、というか映画に詳しい、というかかなりの特撮マニアであって事前準備も怠りなく1時間程度という話だったものが3時間近くも話し込んでしまったのだった。

やはり普通の/特撮オタク向けでない/雑誌は違うなと思ったのだが、その後の作業も念のいったものだった。チェック用に送られてきた校正原稿からは「て・に・お・は」から単語の並びまで丁寧な作業が行われている様子が見てとれたし、書かれている内容に影響がありそうな変更については私に再確認を要請してくる念の入れようだ(某特撮ムックでインタビューを受けた時はあがってきた原稿の出来があまりにひどく、どこをどう指摘したらまともになるのか見当も付かない代物だったので自分で全面的にリライトしたという事があった^^;)
これなら期待できる、と思って発刊を待っていたのだが、出来てきたものは期待以上の物だった、今特撮映画について触れるなら話を聞くべき人間はすべて登場しており、写真や各種資料も多く特撮の歴史的側面についても充分な取材がなされ、それでありながら特撮オタク向けのマニアックな印象のないごく一般的な本好き、映画好きな読者向けの記事となっていたのだ。

さすがいまだに遊び心のある雑誌を発刊しつづけている所は違うなと思ったのだった、一般的な読み物としても、映画好きのための特集としても、特撮マニアのためのbehind-the-scenes(裏話)的記事としても価値のある一冊だと言えるだろう、強くお勧めする。

上で述べた「空気人形」の本である。
思うのだが映画監督というのは不思議な職業である、クリエイターであることは確かだし芸術家と言われることも希ではないのだが、できあがった映像に関して言えば監督自身が直接タッチしたものは何もない、演技しているのは役者であるし、それを切り取っているのはカメラマンだ、舞台はデザイナーの描いたセットであったり、制作部が見つけてきたロケ場所であったりする。
文学の場合、読者の手元に届くのは作家自身が紡いだ言葉だし、絵画は画家自身の手で描き上げられたものを鑑賞者は目にする、ミュージシャンもまた同じ。しかし映画監督はそうではない、演技が気に入らないからと言って自分で演じるわけにはいかないし、カメラワークが不満だからといって自分でカメラを覗くわけにはいかない。彼に出来ることは自分のイメージを各パートの技術者に伝えその可否を判断するだけなのだ。
監督は現場では神のごとき権力があってうんと言わなければ何も進まない、なので理屈で言えば満足するものが出来てくるまでダメだしをすることは可能だ、しかしそれはリアリティのある話ではない。クランクインするということは予算、制作日数のカウントダウンが始まるということで、その先には役者のスケジュール、スタジオの使用期限など絶対的なデッドラインが立ちはだかるのだ。それまでにクランクアップしなければ映画は未完成となり巨額の予算が宙に消える、そのような事態を招いた監督に次があるかは疑問だ。映画が成功したときその栄光は全て監督のものだが、失敗したときの責任も監督のものなのだ。
さてしかしそのような重責を担っている監督の武器はスタッフとのコミュニケーションだけなのである。監督が自分の意図をどう役者やスタッフに伝えるか、スタッフや役者は監督の意図をいかにして受け止め形にするか、それが映画を作るということなのだ。
映画のメイキング本は多いがその多くは監督と作品、スタッフの作品に対する思い、という視点のものだ、しかし実のところ映画制作で一番重要なのは監督とスタッフの関係性なのではないかと思う。
この本は「映画と私」という従来のメイキング本とは一線を画し、是枝監督と私(役者/スタッフ)という視点で作られた映画制作資料的に貴重な一冊である。
空気人形を見ていないと何が語られているのかわかりずらいのでお勧めするのがためらわれるところだが映画好きな人間には読んでほしい。