2023

 



 大ヒットした「アバター」の続編となるジェームズ・キャメロンの新作である。前作「アバター」は興行収入世界一位(3700億円)というヒットを飛ばして社会現象と言われるほどのブームを巻き起こした作品だが私はあまり評価していない・・・と「すずめの戸締まり」そっくりの書き出しになってしまったが、つまりはまたしても期待しないままに観に行った作品であるということだ、互いに(?)不幸な映像体験と言えるだろう。

 ではなぜに前作を評価していないのかというと、それは内容が「白人酋長もの」のフォーマットから1歩も出ていないからだ。白人酋長ものというのは「文化的に進んだ集団(つまりは白人)が資源を求めて文化的に劣った地に侵攻して略奪行為を行う。結果戦争になるが装備も未熟な原住民側は劣勢に立たされる、しかし主人公が白人側から寝返ってリーダーとなり、原住民を勝利に導く」というようなお話である。これはバート・ランカスター主演の映画「白人酋長」(1954年ワーナーブラザース)から来た言葉だが、「アラビアのロレンス」「ロード・ジム」「ダンスウイズウルブス」「ラストサムライ」(←「ダンスウイズウルブス」のインディアンを侍に買えただけ)SF映画で「ジョンカーター」至近では「MINAMATA」などがこれにあたる。今は有名どころをあげただけだがアメリカでは1ジャンルを形成するほど多くの作品が作られているのだ。そしてこの「アバター」もその一つだ。




 「アバター」はインディアンVS騎兵隊を架空の惑星パンドラに移し替えただけの物語であり、観客の誤解がないように(?)原住民たるナヴィ族の生活様式、衣装、装飾品などはインディアンを髣髴とさせる仕様になっている。彼らの武器は弓や槍であり対する騎兵隊(地球の資源開発公社)はパワードスーツにマシンガンと白人酋長もののフォーマットをきっちり踏襲している。




 2つの文明が接触すれば軋轢を生むのは必然であり、どちらにも守るべきものがあり、正義は一つではないというのが現代的なドラマだと思うのだがこの映画、地球人は圧倒的な悪、酌量すべきものなど一片もない極悪非道な組織として描かれている。なぜにここまで自虐的な構成になっているのか、といえばこれはなぜにアメリカでは白人酋長ものが1ジャンルを築くほどに作られているのかという事情につながるだろう、要するにアメリカの心ある人々にとっては自国の建国の歴史が侵略と搾取にまみれているのが耐え難く、定期的に「白人わるいやつばかりでない、インディアンうそつかない」という映画を作ってエクスキューズしたくなるのだろう(と思う)問題なのはこうした白人酋長ものには更に「土人を差別しない俺えらい」「劣った側を率い勝利する俺凄い」という意識が見え隠れすることである、まあこのあたりになると余人(余国人?)には理解しかねるのでこれ以上言及するのは避けるが、この最先端技術の映画が手垢の付いたフォーマットにガチガチに縛られているところに違和感があって私はまったく楽しめなかったのだ。
 映画のドラマツルギーとしても体はナヴィ族心は地球人という主人公がその唯一無二の立場を使って、最後は両者を和解に導くというのが正しいエンディングだと思うのだが、最後まで両者は憎しみあったまま殲滅戦を繰り広げて終わる。ターミネーターやエイリアン2でワクワク、ドキドキの末にカタルシスと観客の心を自在に操ってみせたジェームズ・キャメロンとしてはこれまたきわめて硬直していると言わざるを得ないだろう。

 というわけで舞台設定をそのまま引き継いだ続編である本作はまったく観にいくつもりがなかった、方針が揺らいだのは先に観にいった友人に「お話がしょうもないのはもう諦めて最新デジタル映像の技術品評会として観にいくべき、水のCGシミュレーションとハイフレームレートの組み合わせは一見の価値がある」と言われたからだ。
 アナログであろうとCGであろうと複雑微妙な物理法則によって自在に姿を変える水は特撮映画の鬼門である。それを海大好きキャメロン(一人乗りの潜水艇でマリアナ海溝の探索を行ったり、タイタニック号を含め世界各地の難破船の探索を行ったりしている)がCG映画化するというなら最新技術による完璧な水表現が見られるのではないかと思ったのだ。そしてもう一点がハイフレームレートである。
 フレームレートとは1秒に何コマ撮影するかということだ、映画はご存じのとおり1秒24コマで撮影した映像を1秒24コマで映写している、これは映画がトーキー(音付き)になって以来100年続いた方式だが映画にとって最適のフォーマットがどうかは長年議論のあるところだ。
 なぜなら秒24コマというのは早い動きを捉えるには少なすぎるのだ、秒24コマ撮影の場合通常シャッター速度は1/48秒だ、スポーツ写真をスチルカメラで撮る場合1/500秒とか1/1000秒のシャッター速度が必要であことを考えるとこれはあまりに遅い、たとえばモータースポーツ、F1マシンの最高速度は時速350kmなので秒速100m、1/48秒の露光中に2m強進んでしまう、なので映っている映像は横に流れたボケボケの映像となる、これをモーションブラーというのだが車の形も判然としないしチーム名やスポンサーのロゴなど当然読めない。もともと捉えられていないのだから高性能レンズを使おうが解像度を上げようが鮮明な絵にはならないのだ。
 これを解消するために1秒24コマという撮影スピードは変えず1コマに対するシャッター速度だけを早めるという手も存在する、すると1コマ1コマに捉えられた映像はシャープになるがこれを連続映写するとなめらかな動きにならず不自然なパカパカした映像になってしまう、これをストロビングというが、なんというか「止まっている絵が次々に表示される」という印象になってしまうのだ。もともと映画は「止まっている絵を次々と表示する」ことによって動きのイリュージョンを作っているのだが対象の動きが速いとコマとコマの間のジャンプが大きくなりすぎて動いているように見えなくなるのだ、このストロビングはモーションブラーのある絵(流れたボケによって動きの印象を補完してくれる映像)によって軽減される、というわけで映画はディティールが失われてしまうのには目をつぶって1/24コマで運用されているわけだ。
 (余談だがこのストロビングをあえて映像的表現として使った作品もある、スピルバーグの「プライベートライアン」(1998年パラマウント)である。オマハビーチ上陸などの戦闘シーンを撮影監督のヤヌス・カミンスキはシャッター速度を1/96秒、あるいは1/192秒に変更したという、通常より早いシャッタースピードで撮られた映像は、動きが固く硬質で、爆発よって飛んでくる砂や破片一個一個がクリアに見分けられるという奇妙な映像になった。これは極限状態に置かれた兵士の異常な心理状態を見事に再現した撮影効果である)

 さてしかしストロビングを起こさず映像の解像度を上げる方法はないのだろうか、という問題に対する回答がハイフレームレートだ、つまり1秒24コマというフォーマットを捨て秒48コマで撮影/上映するのがこれだ、動きを捉える間隔が2倍になるのでコマとコマの間のジャンプが減りシャッター速度を上げたクリアな映像でもストロビングが起こりにくくなるのだ。あまり話題になっていないのだがこれは従来とはまったく違う「映画」なのだ。
 実のところハイフレームレートの映像作品ははるか以前から存在する、特撮の神様ダグラス・トランブルは40年以上前に70mmフイルムを秒60コマで上映する「ショウ・スキャン」という上映方式を考案していた。トランブル必死の売り込みにもかかわらずこれを採用する映画会社はなく一般化しなかったが、イベント映像、テーマパークのアトラクション映像に多く採用され私自身はこれを85年のつくば科学万博で体験した(東芝館「Let's Go!パル」監督ダグラス・トランブル)これが驚くべきシャープネスとなめらかな動きによる異次元の映像体験であったため私はハイフレームレートが映画に採用されないものかと長年思っていたのだった。
 実は8年前「ホビットの冒険」でハイフレームレートの興行は行われていたのだが、ハイフレームレート上映する劇場が少ないのと3D上映と抱き合わせだったことで(私は反3D教徒である)観にいかなかった、すぐに観に行きたい映画がハイフレームレートで公開されるだろうと思ったからなのだが続く映画はほとんど(「ジェミニマン?」う~ん)なかったのだ。

 今回はフレームレート云々ではなく行かないつもりだったのだが、たしかに最新CG技術による水表現とハイフレームレートの組み合わせには一見の価値があるかもしれない、ということで劇場に足を運んだのだった。

 前置きが激しく長くなったが、そのような心もちで鑑賞に臨んだということは言っておくべきだろう。
 さてではどうだったのか、と言えばもう映像は完璧!水中シーンなどはフツーに海洋ドキュメンタリーの水中撮影を見ているようだし、水上の波も飛沫も本物としか思えないリアルさ、フルCGキャラクターであるナヴィ族の動きも物理シミュレーションされているのかまったく違和感がない(前作は若干重力、慣性の表現に違和感があった)加えてスゲーと思うのは地球人だ、地球人は俳優がそのまま登場するわけだが、舞台は架空の惑星パンドラなのだ、背景たる海も陸も、ナヴィ族を含めた生物もすべてCGな筈なのだがその中になんの違和感もなく溶け込んでお芝居をしているのだ。
 「俺も始めは、これ俳優だよな、ってことは合成だよな、普通にCGキャラクターに混じっているんだけど、どうやって位置や芝居を合わせているんだ?とか思ってたけど、途中であきらめてもうそういうもんだと思うことにしたよ」とT監督も述べている。
 CGキャラクターは登場人物としてそこに存在し、水は水、海は海としてそこにあってそれが実在のものであるかデジタルで作られたものであるか(ハイフレームレートがどうだとか最新CG技術だどうだとか)の議論はもはや意味がないという域に達していたのだこれはビックリである。

 私も最初は「見せてもらおうか最新デジタル技術とやらを」という感じだったが、「すみません見分けがつかなくなればその映像がロケであるかCGであるかに意味はなくなり、その価値に違いはないです」という鑑賞姿勢になってしまった。

 ということでそこは凄いのだが、しかしそうなると残るは(!)映画の内容である。しかしこれが前作に輪をかけてひどい、びっくりなのはパンドラの海に鯨がいて4光年彼方の地球から捕鯨船(!)が来て捕鯨していることだ、それも船首に銛打ち銃をそなえた捕鯨船で鯨を追い、子供連れの母親鯨を殺し、稀少部位だけ取って放置するというベタな残虐表現である。こじらせてるなぁと思ったのだがそういえばキャメロンは反捕鯨運動家だった。しかしエンターテインメントを掲げる超大作でここまで主義主張を押し出していいものだろうか(止める奴はいなかったのか、と思うが興行収入世界1位の監督に物申せる人間はいないかもしれない、新海誠の時にも言ったがやばいでしょこれは)
 騎兵隊たる開発公社もあいかわらずでナヴィ族の子供をさらうわ、虐待するわ、しまいには殺してしまうわと極悪非道の大判ぶるまいである、はっきり言って不快で見ていられない。
 マスコミに露出するのはちょうちん記事ばかりだが(メディアとしては何であれ業界が盛り上がって欲しいし、キャメロンに反旗を翻すのは勇気がいるだろうが)余国人としては映画の内容についてもう少し客観的な評価を下すべきではないだろうかと思う。
 (一般人の感想の中には「あまりの暴力描写に心が苦しく見ていられませんでした」というものがあった、13年越しの続編ともなれば今作から観る人も多いだろう、ラッセンのイラストみたいにキレイキレイなトレーラー映像を見て足を運んだ人の中にはそんな感想を抱く人がいてもおかしくないはずだ)

 ということでこの映画はまったくお勧めできない、ハイフレームレートによる最新CG技術は素晴らしいが、その完成度の高さによって普通に海洋冒険活劇として観ることが出来てしまう、そうなるとこの世界に善と悪しかないような極端な世界観や監督の思想信条の押しつけに辟易するハメになってしまうのだ。


 



 雑誌「東京人」の取材を受けた、私はこの雑誌をまったく知らなかったのだが見本誌をいただいて驚いた、センスのいい写真とエッセイ、一定のテーマに沿った特集記事で構成された遊び心のある雑誌だったからだ、昔はこうした雑誌が世にあふれていた、しかし長引く不況で企業の側にも読者の側にも余裕がなくなり更にはWEBメディアの台頭も相まってそういった雑誌は次々と姿を消してしまった。なのでいまだにこのような趣味の雑誌が発行されていたことに驚いたのだ。
 「東京を舞台にした特撮映画についての特集」に私の仕事がどう噛み合うのかいまひとつ納得がいかなかったのだがインタビューを受けた、実のところ操演という職種がもの珍しいためか取材を受けることは多い(最近「空気人形」是枝裕和監督 2009年、に再び光を当てるという意図の本で取材されたばかりだ)ところがしかし取材を申し込んできながら映画のことも特撮のこともましてや操演についてもロクに知らず冒頭いきなり「操演ってどんなお仕事なんですかー」とくるインタビューアーも居たりするのだが、東京人差し回しのライターはそのようなこともなく、というか映画に詳しい、というかかなりの特撮マニアであって事前準備も怠りなく1時間程度という話だったものが3時間近くも話し込んでしまったのだった。




 やはり普通の/特撮オタク向けでない/雑誌は違うなと思ったのだが、その後の作業も念のいったものだった。チェック用に送られてきた校正原稿からは「て・に・お・は」から単語の並びまで丁寧な作業が行われている様子が見てとれたし、書かれている内容に影響がありそうな変更については私に再確認を要請してくる念の入れようだ(某特撮ムックでインタビューを受けた時はあがってきた原稿の出来があまりにひどく、どこをどう指摘したらまともになるのか見当も付かない代物だったので自分で全面的にリライトしたという事があった^^;)
 これなら期待できる、と思って発刊を待っていたのだが、出来てきたものは期待以上の物だった、今特撮映画について触れるなら話を聞くべき人間はすべて登場しており、写真や各種資料も多く特撮の歴史的側面についても充分な取材がなされ、それでありながら特撮オタク向けのマニアックな印象のないごく一般的な本好き、映画好きな読者向けの記事となっていたのだ。




 さすがいまだに遊び心のある雑誌を発刊しつづけている所は違うなと思ったのだった、一般的な読み物としても、映画好きのための特集としても、特撮マニアのためのbehind-the-scenes(裏話)的記事としても価値のある一冊だと言えるだろう、強くお勧めする。

 



 上で述べた「空気人形」の本である。
 思うのだが映画監督というのは不思議な職業である、クリエイターであることは確かだし芸術家と言われることも希ではないのだが、できあがった映像に関して言えば監督自身が直接タッチしたものは何もない、演技しているのは役者であるし、それを切り取っているのはカメラマンだ、舞台はデザイナーの描いたセットであったり、制作部が見つけてきたロケ場所であったりする。
 文学の場合、読者の手元に届くのは作家自身が紡いだ言葉だし、絵画は画家自身の手で描き上げられたものを鑑賞者は目にする、ミュージシャンもまた同じ。しかし映画監督はそうではない、演技が気に入らないからと言って自分で演じるわけにはいかないし、カメラワークが不満だからといって自分でカメラを覗くわけにはいかない。彼に出来ることは自分のイメージを各パートの技術者に伝えその可否を判断するだけなのだ。
 監督は現場では神のごとき権力があってうんと言わなければ何も進まない、なので理屈で言えば満足するものが出来てくるまでダメだしをすることは可能だ、しかしそれはリアリティのある話ではない。クランクインするということは予算、制作日数のカウントダウンが始まるということで、その先には役者のスケジュール、スタジオの使用期限など絶対的なデッドラインが立ちはだかるのだ。それまでにクランクアップしなければ映画は未完成となり巨額の予算が宙に消える、そのような事態を招いた監督に次があるかは疑問だ。映画が成功したときその栄光は全て監督のものだが、失敗したときの責任も監督のものなのだ。
 さてしかしそのような重責を担っている監督の武器はスタッフとのコミュニケーションだけなのである。監督が自分の意図をどう役者やスタッフに伝えるか、スタッフや役者は監督の意図をいかにして受け止め形にするか、それが映画を作るということなのだ。
 映画のメイキング本は多いがその多くは監督と作品、スタッフの作品に対する思い、という視点のものだ、しかし実のところ映画制作で一番重要なのは監督とスタッフの関係性なのではないかと思う。
 この本は「映画と私」という従来のメイキング本とは一線を画し、是枝監督と私(役者/スタッフ)という視点で作られた映画制作資料的に貴重な一冊である。

 空気人形を見ていないと何が語られているのかわかりずらいのでお勧めするのがためらわれるところだが映画好きな人間には読んでほしい。


 




 私と仮面ライダーの出会いは古い。

 私は操演技術者であるためミニチュア特撮が仕事の主体でありいつもは怪獣やウルトラマンといった巨大ヒーローと一緒に仕事をしている。しかし最初にこの業界に入ったときは戦隊物の小道具係のバイトだった。そしてその戦隊物の撮影が行われている隣のステージでは特撮番組が制作されており、時おり顔を出しては特撮面白そうと叫んでいたら、操演助手のクチがかかったのである。
 ではなぜ小道具係のバイトを始めたのかというと、その作品では小道具を含めた美術一式をヒーローのマスクや衣装、武器を製作している美術製作会社が請け負っていたからだ、私は最初工場で作りものをするバイトとして雇われていたのだが現場で人が足らないのでそっちに回ってくれと言われ小道具係になったのである。
 ではなぜその会社のバイトに応募したのかというと、学校を出たものの仕事がなく(まあ、デザイン専門学校の写真科の卒業生にそうそう仕事はない)バイトでもするかと思い求人誌を見ていたところが「戦隊/変身ヒーロー物の小道具などを製作するお仕事です」という説明があってどうせならすこしでも関わりのある仕事をと思って応募したのだった。
 関わりとはなんであるかと言えばその応募要領に書かれていた作品が石ノ森章太郎原作の番組ばかりだったからだ、私は熱心な、熱狂的な石ノ森章太郎のファンなのである。
 どれほどファンなのかと言えばいままでプレイしてきたゲームで主人公の名前が設定できるものはすべて「島村ジョウ」(※サイボーグ009の本名である)だったほどだ。10年以上やっていたオンラインゲームのFF11も島村ジョウ由来のものだった。そして石ノ森章太郎ファンクラブの創設時からのメンバーでもある。今でこそありとあらゆる役者、ミュージシャン、アイドル、あるいは創作物、作品内人物にまでファンクラブ的なものが存在するが当時マンガ家のファンクラブというのは珍しかった。特にファンが自主的に立ち上げたファンクラブは日本初(1968年創立)かもしれない。
 さてこのファンクラブだが今では信じられないほどマンガ家本人との距離が近かった、例会と称する月イチの会合は石ノ森章太郎がネーム作業を行っている喫茶店で行われていた、迷惑な話と思われるが氏は我々ファンに対しきわめてフレンドリーに対応してくれていた、というか年に一回総会という泊まり込みの集会があるのだが、第一回総会では石森宅が宿泊所だったくらいだ。
 勝手な思い込みではないと信じたいがおそらく氏は歳も出自もバラバラな人間が自分の作品がきっかけで仲良くなり楽しくやっているのを見るのが嬉しかったのだと思う。
 まあこれはファンクラブの創設者が常識をわきまえた大人であったことと石ノ森章太郎自身が若かった(ファンクラブ創立当時は30才である)ことによるものでもあると思う。そしてネット環境などない時代なので基本クチコミでしか入会できなかったというのも大きいと思われる(こういってはなんだが非常識な人間は入会できないのだ)
 というようなこともあってファンクラブのメンツはけっこう石森宅に出入りしていたのだが、そんなある日(私が高校生くらいの時だ)大先生が私に「今度連載が始まるマンガのヒーローだがどう思う」と一枚のデザイン画を渡してきた、見ると元ネタである昆虫むき出しのワイルドなデザインだった、ヒーローと言えば島村ジョウ命の私は「まんまバッタじゃないですか、かっこよくないです」と言い放った、先生は「ウチの息子が一番カッコいいと言ったデザインなんだがなー」とぼやいたのだがもちろんこれが仮面ライダーである。

 というわけで私と仮面ライダーの出会いは古い。

 映画監督になりたかったと言う大先生は私が操演技師として一本立ちしたことをことの他喜んでくれ「いずれ映画を撮るからそのときは頼むぞ」と何度も私に言ってくれていた、その時がついに来ることがなかったのが残念でならない。2007年に私は仮面ライダーの映画(THE NEXT)に参加したのだがこれも是非観ていただきたかったと思う。

 というわけで私が「シン・仮面ライダー」を観ないという選択肢はなかったのだが・・・

 うん、特別面白いというわけではないが見所がないでもないし、つまらないということはなく、まあフツー、と思った。

 前説が長かったワリにそれかい! と思う向きもあるだろうがまあフツーの映画ファンから見たときの公平な評価ではないかなと思ったのだが、鑑賞後(封印していた)世間の反響を見て驚いた。
 「ファン必見、原作リスペクトに満ち満ちた大傑作」というものから「見る価値もない駄作」、「原作をないがしろにした失敗作」中には「あまりにも腹が立ったので途中で席を立った」という過激な人間まで存在し、その100%肯定から100%否定の間にも様々なスペクトルの意見があって、それぞれが大きなカロリーで作品を語っていたのだ、そのあまりの熱量に私はおもわずモニターからのけぞった(気分的に)ほどだ

 私は勘違いをしていたのだ、つまり「フツーの映画ファン」はシン・仮面ライダーなど観にいかないのだ。誰が行くのかと言えば熱烈な仮面ライダーファンだ。仮面ライダーそのものというよりその周辺の記憶からくる懐かしさで観ておこうかなどというカロリーの低さで観に行ってはいけなかったのだ。
 とはいえしかし私は当時高校生、ガチのSFマニアで池田憲章などと共にSFに対する偏見をはねのけ正当な評価を勝ち取るのだ!と意気込んでいた青二才であったのだ、バッタの面をかぶったヒーローがハチや蜘蛛といったかぶり物(あるいは着ぐるみ)の悪人と殴る蹴るで戦うという作品に熱中するはずもない。つまるところこれは私が観にいっても意味がない映画だったのだろう、これは直撃世代による直撃世代のための映画なのだ。

 と、一歩引いたところから眺めるとこの映画が全肯定から全否定までさまざまなスペクトルの感想を生むわけがわかる、というのもこの映画がかなりいびつな構成なのだ。
 そも仮面ライダーはトランポリンを利用する以外基本生身の人間(アクション俳優)の肉弾戦が売りの作品だ、それを21世紀の今どう映像化するかは悩みどころだと思う、原作リスペクトで肉弾戦で行くのか。進化したワイヤーアクションなのか、いっそCGにするのかということだ、また原作は能天気な映像と裏腹に石ノ森作品に通底するヒーローの孤独というものが描かれているのだが、これをどこまで掘り下げるのかも難しいところだ。
 という観点で俯瞰するとこの作品どうにもチグハグなのだ、最初はデジタル技術を加味しつつの生身のアクションがウリの映画かと思っていたのだが、2号ライダーとの対決では延々と続くフルCGムービーとなり、重力も慣性も無視した荒唐無稽のアクションでゲームと言われれば納得しそうな映像、と思えばラスタチ(業界ではクライマックスのアクションを「ラストの立ち回り」で「ラスタチ」と言う)は3人の俳優が文字通り素手で戦う完全アナログな長回しである。
 作品テイストも深刻なシーンがある反面コウモリ怪人のシークエンスなどはその造詣(フルCG)といい演出といいコメディでしかない。ロボット刑事のKが登場するが特段の意味はなく、ラスボスの目的であるハビタット計画はまんま人類補完計画であるなどなどとっちらかっている。
 そして熱心なマニアによれば作品の随所に原作リスペクトがちりばめられている(らしい、私はライダー初登場のカメラアングルがTVと同じだ!と思ったくらいである)

 というわけでどこに反応するかで作品への評価が変わってくるのだろう。
 史上最低と言われる作品にも熱心なファンが居たりするのが映画の面白いところだ、それが今回は天下の仮面ライダーである、多くの熱いファンがいてその誰もが自分こそ最大の理解者であると思っているに違いない、もちろんその思いに正誤も強弱もない。

 輪の中に入れない身で人ごとのように言ってしまうと、互いに熱い思いをぶつけ合える映画が出来てよかったねということだ、こんなことを言うと熱い人たち「この映画を否定するやつは許さん!」と拳を握っているような人たちに冗談じゃない!と怒られそうだが、かつて仮面ライダーにダメを出したわかってない人間の言うことなのでお許し願いたい。


 






 明治35年(1902年)ロシアとの戦争は不可避と考えた日本陸軍は、北の地での戦闘を見据え寒冷地における軍事行動の演習として青森第八師団の歩兵210名を八甲田山の田代新湯まで行軍させる「雪中行軍」を行った。しかしこの行軍は折からの荒天に阻まれ210人中199人が死亡するという世界山岳史上でも最悪の遭難事件となった。
 この「八甲田雪中行軍遭難事件」を元に書かれたのが新田次郎の「八甲田山死の彷徨」であり、この小説を元に作られたのが映画「八甲田山」(1977年東宝)である。




「天は我々を見放した」というインパクトのあるトレーラーでヒットした(のか?)



 この小説および映画に多大な衝撃を受けた私は以降資料を漁るなどして八甲田雪中行軍遭難事件に関してはそれなりの事情通(!)になった。
 そして本書である、これは新聞の広告で始めて知った作品なのだが雪中行軍遭難事件を元にしたミステリーなのだという。

 ミステリー好き&山岳遭難ドキュメンタリー好きの私は「読まねば!」と思ったのだが一方「本当に?」という思いもあった。

 この八甲田雪中行軍遭難事件は最悪の山岳事故ではあるが見方を変えれば日本陸軍にとっては貴重なデーターだったとも言える(実際日清戦争ではそれなりの数がでた凍死者が日露戦争では1名も出ていないという)つまりこの事件は徹底して調査され研究されているのだ、そこに謎など入り込む余地はないだろうというのが私の感覚だったのだ。

 そりゃうまく行けば面白いだろうが、と思って読み始めたのだが・・・


 大手出版社の歴史物を扱う月刊誌「歴史サーチ」は発行部数が伸び悩み廃刊の危機に瀕している、そこで起死回生のネタとして八甲田雪中行軍遭難事件を取り上げることになった。本書の主人公菅原誠一はこの特集で「解明されていない謎」を担当することとなったのだがそもそも解明されるべき謎があって始まった話ではないためこれは無理筋である、しかし社長の裁定が下されてしまい貧乏クジを引いた菅原は単身青森に向かう、というのがイントロである。

 菅原は現地で雪中行軍遭難事件に詳しいガイドを雇い、進軍ルートをたどりつつ当時の状況を考察するのだが、この菅原の行動と平行して120年前の事件が当事者目線で語られる、というか実のところこの事故再現ドラマ(?)が本書の大部分を占めている、しかしそれは当然と言えるだろう、八甲田遭難事件についての世間の認識はせいぜい「昔大勢の兵隊さんが山で遭難した(らしい)」という程度だと思われる、しかしそれではミステリーも謎も入り込む余地がない、なのでまずそこで何が起こったかを読者に知ってもらう必要があるわけだ。
 しかしこれが新田次郎の「八甲田山死の彷徨」そっくりなのだ、なぜといえばこの事件は軍が情報を独占し関係者には箝口令を敷いたので軍が発表した以上の情報がない、同じデーターから再現ドラマを創るしかないので同じようなものになるのは当然といえよう。

 結果この過去編が始まると「あーそれ知ってる、昔読んだ」という気分になってしまうのだが、とりあえず問題はそこではない、問題なのはその再現ドラマの中にミステリーを挿入することだと思う、この事件は歴史的事件でありながら当事者のほとんどが死亡するという特異なもので、当然ながら誰がどこで何をして何を言ったかというような個別の事情の記録がほとんどない、なので当事者目線のドラマというのはフィクションなのだ「これって結局創作だよね、もちろんただのミステリーであればそれがフィクションの上に乗っていることに何の問題もないのだが…」と思いつつ読み進めていた私は自分の誤解に気づいた。



毎日新聞広告より

『世界登山史最大級の山岳遭難事故の「謎」に迫る!』
『歴史時代小説の名手による渾身の長編ミステリー』


 というハッタリの効いた宣伝文句によって私はこれを歴史ミステリーだと思い込んでいたのだがそうではなかったのだ。
 歴史ミステリーとは何なのか、これは歴史上謎として残っている事件に新たな視点を提示してみせる小説と言えるだろう。しかしこれが成立するためには「史実」が存在する必要がある、たとえばあまりに古い時代のお話であると担保されるべき事実がない(ほとんどない)ので事件の舞台も登場人物たちの設定も作者の創作に依る割合が多くなり、歴史上有名な人物が登場するだけのファンタジーになってしまう。逆に近代であれば詳細な事実がそろいすぎていて新たな視点を提示することが難しくなる。そういう意味で言うとこの八甲田雪中行軍遭難事件はまったく歴史ミステリー向きではない、外形的事実は調べつくされている一方当事者の個別の事情は藪の中(雪の中)であって事件の詳細な描写をしようとすれば創作するしかない。
 私が「八甲田山てミステリーに向いていないんじゃないかなー」と漠然と思っていたのはこれを歴史ミステリーだと思い込んでいたためだった、そうでないのなら語られる内容が創作であろうとなんだろうと(極端に言えば史実に則っていようといまいと)何の問題もないわけだ。
 しかし!『謎に迫る!』とか『歴史時代小説の名手による、ミステリー』という文言は歴史的事件に新たな視点を与えるといった印象を与えるし、読者にミスリードさせる気まんまんの怪しい宣伝文句じゃないだろうか。

 というわけで、だいたい小説の中間あたりで、私はテンションだだ下がりになってしまった。これがただのミステリー(!?)だとしてもこの八甲田山が「向き」ではないことはあきらかだからだ。ミステリーというのは始めに提示された謎を小説全体を通して解決に向け徐々に、論理的に進んでいくものだ、一方八甲田雪中行軍遭難事件は青森第八師団の歩兵210名の3日間の雪との戦い(と敗北)を描写しないでは取り上げる意味がない、しかしそれには多くの枚数を(小説の大部分を)費やす必要があり、小説全体をもって謎解きに向かって進んでいくミステリーのあるべき形にならない、そして背景であるはずの事件は語るだけで壮大なドラマになってしまうのだ、そのすき間に作者があとづけで考えた謎をどう詰め込もうと対抗できるわけはない。
 相手が悪すぎたんじゃないの?というのが本書を読んだ私の感想だった。

 あと、これは私の個人的な趣味ではあるのだが、探偵役の人生がじっくりと語られるのも興を削いだ。主人公菅原は性に合っていた報道畑から歴史物の編集部に回され、そこの副編集長に収まるはずだったものが立ち回りのうまい同僚にその座を奪われ、出したネタは他人の手柄にされ、私生活では奥さんからは離婚を求められておりと何もかもうまくゆかず、自分はどこで何を間違ってしまったのかと思い悩んでいるのだが、私自身はミステリーに探偵側の内面ドラマなど不要と考えている。私がミステリーに求めるのはフーダニット(誰がやったか)とハウダニット(どうやってやったか)であり、それが「幻想的なまでの謎」であればなお良く、それらが論理的に解き明かされていく様が楽しいのだ。作品の構成上ホワイダニット(なぜやったか)については触れざるを得ないので犯人側の事情が描写されるのは仕方ない(!)が、それも「目の前に立ったビルのせいで自宅から富士山が見えなくなったのでそのビルのオーナーを殺した」(名探偵コナン)と言う程度で充分だ(←制作者たちが「動機なんてどうでもいいんだよ」と言っているとしか思えない)
 菅原は八甲田遭難事件を調べるにつれ、運に見放され下すべき判断を間違え、道を見失い自分達がどこに居るのかわからずただただ雪の山をさまよう兵隊達にシンパシーを感じるようになるなど、探偵の内面ドラマが進展していくのだがこのあたりはもう読んでいてつらかった。

 結論としてこの小説と私がミスマッチだったのは明らかだ、しかしそれ以前に八甲田雪中行軍遭難事件とミステリーがミスマッチだったと思う。
 これを面白く読めた人もいるかもしれないが、本書に組み込まれたミステリー部分はそのために割かれた頁数の少なさゆえ『長編ミステリー』(!)としてとうてい満足できる仕上がりになっていない、つまるところその「面白さ」は遭難事件そのものが生み出すドラマ部分が担っているのではないだろうか、ならば新田次郎を読んだほうがいいと思うのだ。

 

ps
 <広告の『あの雪中行軍は人体実験だったのか?』という華々しい売り文句だが、別段新しい切り口ではない。それは八甲田雪中行軍遭難事件界隈(!)では散々に言われてきたことなのだ、そして「そんな証拠はないし、そうではない(だろう)」という結論が出ている。先に述べたように全てのデーターは軍が管理掌握したわけで人体実験で多くの兵隊を死なせたなどいう不都合な証拠が残っているはずはないのだ>


 





 私の映画賞味期限理論によれば映画のシリーズ第5作はおおむね凡作、あるいは凡作を越えた(下回った)駄作となる。
 理論とは書いたもののこれはなにかしらの推論の上に構築されたものではなく実際の映画鑑賞の経験から導き出された統計のようなものだ。
 では第5作と言えば何であるか、スターウォーズなら「クローンの攻撃」 ターミネーターなら「新起動/ジェニシス」 ジュラシックパークなら「炎の王国」 バイオハザードなら「リトリビューション」 スーパーマンなら「リターンズ」 エイリアンなら「プロメテウス」 スパイダーマンなら「アメイジング・スパイダーマン」ということになる、いずれ劣らぬ凡作(!)と言えよう。
 とはいえそれも当然でどんな制作者も初めに全力を投入する、映画の第1作目はストーリー、人物配置、舞台設定、配役が最適化されているのだ、なのでそれを維持したまま2作、3作と続けていくのが無理ゲーなのであって5作目ともなれば出し殻になってしまうのは必然と言える。
 (スパイダーマンの「リターンズ」はそれまでの4作を無かったことにして最初から始めるリスタートだし、エイリアンの「プロメテウス」は前日談である、つまりこの2本は製作順で言えば5作目というだけで「シリーズ第5作」とは言えない、それほどに続編としての5作目の製作は難しいということだろう)

 というところでインディジョーンズ第5作「運命のダイヤル」である。リスタートでも前日談でも(若きインディジョーンズ)でもない正当な続編だ、これに期待できないことは言うまでもない、とはいえしかし観に行った。
 (期待出来ないとかイヤな予感しかしないとか言いつつ結局観にいくよね、と思う向きもあるだろうが、パイレーツ・オブ・カリビアンの第5作「最後の海賊」はさすがにイヤな予感が勝って劇場に足を運ばなかった、上記の7作と違って初期作のワクワクドキドキ値が低かったせいと言えよう)

 地面に置いた縄の縄跳びほどに期待値を下げたのでいくらなんでも期待を上回るだろう、と書けば「それでもダメだった」と来たいところだが(!)これが意外にも面白かった。

 それを手したものに人知を超えた力を与えてくれる遺物、祖国の栄光のために(自分の欲望のために)それを入手しようと画策するナチスドイツ、わがままで活動的で自分の欲望に忠実なヒロイン、世界を股にかけたアクション&カーアクション、古代の秘密を解き明かす謎解き、神秘の洞窟の奥でついに発見される聖遺物、しかしそれは敵に奪われてしまう、勝ち誇った敵の手でついに発現する奇跡の力!しかしそれは小悪党の願望など吹き飛ばす超常現象だった・・とまあインディジョーンズのよくあるネタの詰め合わせであったが丁寧に作られていて出来が良い。
 観ていて安心できて、飽きさせることもなく、けっこう面白い、これでいいんだよという定番のお味である、詰め合わせとはいえ一流料亭の松花堂弁当といったところだろうか。

 思うのだが古典落語のようにストーリーどころか話の流れからキメのセリフまで知っているにもかかわらず面白くて何度も見にいく(聞きにいく)ものがある、違いはそのときどきのわずかなディテール違いしかないのだがそれでも面白いのだ。
 つまりはネタバレしようがマンネリだろうが面白いものは面白い。
 落語を引き合いに出すまでもなく日本映画界には燦然と輝く金字塔がある、ギネス『世界最長の映画シリーズ』に認定されている「男はつらいよ」全50作である(30作目でギネスに認定された)
 この映画、冒頭は寅さんの夢から始まる、基本は自分がヒーローとなってとらやの皆を助ける夢だが、アラビアのとらんす、など映画ネタも多く、ジョーズが流行った年には人食い鮫、未知との遭遇の時はUFOネタなど、松竹の看板映画としてどうなのと思うような突き抜けたギャグも多い。夢から覚めた寅さんは柴又の親類を改めて思い出し帝釈天参道にある団子屋とらやに戻る。久しぶりに帰った寅さんはとらやの皆の大歓迎を受けるが酒の席で調子に乗って言わんでもいいことを口走り、おいちゃんあるいは印刷屋のタコ社長と大げんかをして2度とここには戻らねぇとタンカを切って旅に出る。その旅の途中で今回のヒロインと出会った寅さんは彼女を連れてとらやに戻る、初めはいい感じだった2人だが寅さんの暴走によってその恋ははかなく終わり失意の寅さんは再び旅に出る。
 という基本フォーマットでこのシリーズは出来ている、形が定まっていなかった初期8作と寅さんが甥である満男の恋を応援する立場となる42作目以降を除いて中間の33作はまったくこの形を変えていない、驚くべきことはそれが面白いことだ、数えてみると私はこのうち25作を観ている、この映画は年に2回製作されるのだがその時期(8月と12月)になると「何回観ても中身おんなじだし、お金ももったいないし」とかつぶやきつつ劇場に足を運び毎回幸せな気分になって戻ってくるのだ。
 私は基本人情話に興味はなく足が地に着いていない、いっとき浮世の憂さを忘れさせてくれるスペクタクルなエンターテインメントが好きなのだがこの映画だけは違った、あるいはこの映画は人情劇のように見えて実は足が地に着いていないファンタジーであったと言えるのかもしれない。

 ハリウッドの大作とプログラムピクチャーである寅さんが同列では困るのだが、この「運命のダイヤル」はキチンと作り込めば映画は必ずしも「前作を越える」物でなくてはならないわけではない、と思わせた1作だった。そのようなことをつらつら思いながら帰途についた私にはインディアナ・ジョーンズが渥美清に見えてくるのだった。

 もしあなたが4作目まで観ていたならばゆるく構えて観にいくといいだろう。


ps

 「運命のダイヤル」とは1901年にギリシャの沈没船から発見された不可思議な機械のことである。これは近くの島の名前から「アンティキラ島の機械」と名付けられたが、長年の研究によりダイヤルによって日時を指定すると、その時点における太陽と月、5個の惑星の位置を示す天文計算機であることが判明した。
 問題はそれが紀元前3世紀、天動説の時代に作られたということである、地面は平らで星は空を覆うドームの内側に固定されて光っている(ドームは実は地面の裏まで続いている球体でありその球は1年で一回転する)という天動説では太陽と月、および太陽系内惑星(水、金、火、木、土)の動きが説明できない、なのでそれらは固定されて動かない星:恒星 の中にあって放浪する者:Planet と名付けられた(日本では 惑う星:惑星 あるいは 遊んでいる星:遊星と呼ばれる)
 当然ながら天動説でもそれら惑星の動きを説明することは出来るのだが、依って立つ地平が間違っているのでその理屈は複雑怪奇なものだ、しかしこのアンティキラ島の機械はそれを72個の歯車によって可能にした(火星が462年、土星が441年で天体の同じ位置に戻ることも正確に再現できるらしい)この事実だけでも驚嘆に値するのだが、そのような、時計に匹敵するような精巧な機械は1000年ほど後になって初めて可能となった(筈の)技術だというのが謎である(実は1000年後、10世紀ころの時計はまだまだ大型な機械であってアンティキラ島の機械は懐中時計レベルの精密さを持つ、しかしそれは18世紀以降の時計技術なのだ)
 よってこの遺物はムー的にはオーパーツと呼ばれている。

 インディジョーンズ4作目に登場するクリスタルスカル(水晶を削り出して作った髑髏)はインカ、マヤ、アステカ文明時代の考古遺物だが当時の技術で水晶をここまで精密に削りだすことは出来ないので長くオーパーツと呼ばれてきた。しかし近年電子顕微鏡によって工作機械による研磨の痕跡が発見され遺物のフリをした贋作であることが判明した。
 しかしアンティキラ島の機械は違う、放射年代測定によって紀元前のものであることが明らかになっているのだ、なのでこれがオーパーツでないとすれば古代ギリシャの文明は(少なくとも機械加工技術に関していえば)通説より2000年も進んでいた(そして失われた)ことになる、文明のうち機械加工技術だけが突出しているわけもないと考えればこの機械は地球の歴史、文化の通説を覆す大発見となるのだ。
 私としてはこのネタを取り上げたからには映画の中で(ファンタジーでいいので)この機械がなぜその時代に存在したのか説明して欲しかったしするのではないかと期待していた、完全スルーだったのは残念だ。





Μηχανισμός των Αντικυθήρων


 




 前作「シン・ゴジラ」は傑作ではあるものの、これゴジラの映画か?というかこれ怪獣映画なのか?と思う代物だった。
 たとえて言うなら、その貫禄に期待して引っ張りだしたはいいが、実際には凄んで見せるだけで特段の見せ場のない「エンゼル・ハート」のロバート・デニーロのようなものだ(フォーカスはミッキー・ロークにしか合っていない)。
 シン・ゴジラは処理しきれない事態に右往左往する政治体制を風刺する映画であり、映画の構造は東京湾炎上(原作「爆発の臨界」)と同じで、ゴジラの役どころは東京湾炎上におけるテロリスト(原油満載のタンカーを乗っ取り東京湾で自爆テロを計画する)と変わらない。

 怪獣が出てくればマニアは喜ぶんでしょといった怪獣映画ではなく、1本の映画として面白いものを作ろうとすれば人間ドラマの充実を図らねばならないのは当然だがその案配ががうまくいっている映画は少ない、そしてシン・ゴジラは明らかに人間側に寄っている。
 ハリウッド版ゴジラは怪獣に対する理解が圧倒的に足りないので期待できないし、国産ゴジラ(?)でもう少しバランスの良い映画が観たいと思っていたところなのでこの-1.0には少なからず期待していたのだった。

 期待して映画を観にいくのは危険な行為(!)なのだが驚くべし(驚いてはいけないのだが)期待以上に面白かった。この映画は「戦争が終わっていない男たち」の映画なのだった。
 このジャンルで代表的なのは「ディア・ハンター」だが他にも「エクスタミネーター」「ザ・シューター」など多くの作品が存在する、実は「キング・コング 髑髏島の巨神」も戦争が終わっていない男達4人の物語だ(キング・コングはむしろ影が薄いと言ってよい)
 アメリカはベトナム戦争、湾岸戦争と争いが絶えないので心を病んだ兵士の物語が現代劇として成立可能なのだが、日本は戦後80年を数えそういった物語に共感を得るのは難しくなっている、しかしこの映画はそれに成功している。
 これは怪獣映画であり、戦争によって壊れてしまった男の苦悩と再生の物語でもある。
 お話は特攻帰りの主人公敷島に焦点が合い続けるのだが、戦争が終わっていない男の抱える苦悩の象徴としてゴジラが鎮座している、ちっぽけな庶民と荒ぶる神ゴジラががっちり噛み合って映画を支えているのだ、これは見事である。

 ここで再びシン・ゴジラに話を戻すと、シン・ゴジラの主役である矢口は自身がゴジラの脅威にさらされたことはない、目視しても遙か遠方である、彼はその政治理念からゴジラと対決しているだけで身体感覚として怖いとは思っていない、なので観客にとってもシン・ゴジラのゴジラはまったく怖くない(「脅威」ではあっても「恐怖」ではない)
 それと比べると今回の敷島は常にゴジラの至近に居る、大戸島では十数メートル、掃海艇で追われる時では数十メートルにまで接近している、相手は身長50メートルを超える怪獣でありながら手を伸ばせば触れる距離に居るのだ、これによって観客は皮膚感覚の恐怖を感じる、映画の設計が巧みであったと言えるだろう。

 CGの完成度も過不足のないものであり水表現などはアナログを遙かに超えている(水の質感表現はアバター2でキャメロンが自慢たらたらだったところだがそれと同等以上の出来と言えるだろう)あとは私の言うLowレベルの満足感(つまり出来のいいCGと実際にカメラ前で行われている破壊のどちらにカタルシスを感じるか、というようなメタな部分)が問題となるくらいだろう。

 結論としてこれは観にいくべき作品と言える。怪獣映画好きやゴジラファンのみならずフツーの映画ファンにも観て欲しい、そこには怪獣を抜きにしても伝わってくる何かが存在すると思うからだ。


 





 「4dx」とは映画に合わせて座席が動き、風が吹き、水しぶきが飛び、煙が発生し、あるいは何しらの香りが漂う体感上映システムの名称である。映画をアトラクション化させるものと言ってもよい。日本では2013年に初登場したのですでに10年の歴史があるのだが私は今まで一度も体験したことがなかった。アトラクション好きなのになぜといえば映画がそれに特化しているわけではないからだ。
 テーマパークのアトラクション映像はその上映システム込みでデザインされている、なので映像だけ見たのでは制作者達の意図もその面白さも伝わらないだろう。しかし映画は違う、多分おそらく映画監督は4DXのことなど念頭に置かず映画を演出している、日本には700以上の劇場(スクリーン数は3600)がある中で4DX対応のスクリーンは60ほどしか無い、4DX向けに映像を作るわけもないのだ(4DXスクリーンの座席は一般上映に対してかなり少ないので座席数比で言えばさらに少なくなるだろう)

 そもそも私は映画に関しては映像原理主義なのでそれ以外の要素、たとえば音響ですら、重要視していない(録音部さん済みません^^;)なので鑑賞のノイズになる座席の振動やスモーク、水しぶきなどは積極的にノーサンキューなのだ。
 それが今回なぜ鑑賞する気になったのかと言えば、あまりに今回のゴジラが気にいったのでもう一回観ようと思ったこと、どうせなら他のフォーマット(今回のゴジラ-0.1は、通常上映の他 IMAX、MX4D、4DX・ScreenX・4DXScreen、Dolby Cinemaと様々な方式で上映されている)で観てみようと思ったこと。そして「あの緊張感ある映画が4DXになった途端に一転し大エンターテインメントになるんですよ」という話を聞いたことでこれを初4DX体験にしようと思い立ったからなのだ。

 というわけで期待に満ち満ちてイオンシネマに足を運んだのだがやはり期待して映画を観にいくのは危険な行為だった!
 4DXのせいではないのだ、ゆっくり揺動したと思えば、激しい衝撃も伝えるモーションシート、洋上では風が吹き、水しぶきがかかり、機銃が発射されれば弾が風を切り、爆発が起これば劇場内に煙がただよう(←映写効果を損なうのでこれは善し悪しだが)とアクションシーンになれば劇場全体がアトラクションとなって楽しいことこのうえない。ゴジラ-1.0だと映画の目指すところとこのぶっちゃけたエンターテインメント性の隔たりが大きく若干違和感があるが、ハデな効果が見せ場の娯楽大作ならこれはアリかと思える出来だった。それは良かったのだが。
 映像が最悪だった、とにかく画面が暗いのだ、上映前の「鑑賞に際してお願い」テロップで真っ白である筈の背景がグレーだったのでイヤな予感がしていたのだが、映画本編も輝度が足りない。夜間シーンのゴジラなど黒くつぶれて何がどうなっているのが分からない。ゴジラが機雷をくわえているシーンは口の中が暗く初見だと機雷が判別できないのではないかと心配になるほどだ。これはもはやクオリティの問題ではなく、状況の理解に支障が出ているわけで事故と言えるレベルの上映環境といえるだろう。せっかく4DXはよかったのになんで上映中に初見の観客の心配をせにゃならんのか。
 私は一般上映をMOVIXで観たのでイオンシネマがすべてこうなのか、4DXスクリーンが悪いのか、あるいはこの劇場だけの問題なのかわからない、しかしもう2度とイオンシネマに行かないのは確実である。



 


 ヤンキーに怪獣は理解できない、これはハリウッド版ゴジラを観るたびに思うことだ。
怪獣はでかくなっただけの動物ではなく異次元からやってきたクリーチャーではない、彼等は同じ天をいだだく生物であり畏怖することはあっても嫌悪すべきものではない。
 彼等は龍や鬼などと同じく天変地異/自然災害のアニミズムであり、荒ぶる神である。
 しかしこれは森羅万象に敬うべき存在を見いだす日本人には自明であるが一神教たるアメリカ人には理解しがたい概念なのかもしれない。

 というところで本書である、グリーンランドに異次元に通じるゲートがありその向こうにはもう一つの地球が存在する、そこは怪獣『KAIJU』が闊歩する平行世界だった。しかしその怪獣は『パンダと同じく頭が切れる奴ではない』ので子孫の残し方を教えてやらないと絶滅しかねない、そこに手を差し伸べているのが怪獣保護協会だ、というようなお話である。

 う~む微妙な設定だな怪獣=排除すべきもの、でないだけマシなのかなと思って読みはじめたのだが、主人公が初めて怪獣と遭遇したときその形態を「ラブクラフトがパニックを起こしたような」と描写するのを読んでこれはダメだと思った。つまりそれはクトゥルフとかヨグ・ソトースとか人間が直視すればたちまち正気を失うような、名状しがたい何かであると言うことでそんなものを怪獣と呼ぶのはこの作者が何もわかってない証左である(怪獣の父、円谷英二は怪獣は不気味なものであってはならないと明言している)

 日本のサブカルの理解者だと自称する映画監督は多く、たとえばパシフィック・リムのデル・トロは「日本の漫画、ロボット、怪獣映画の伝統を尊重している」と述べている、しかしパシフィック・リムに登場する怪獣(KAIJU)はどうみてもクリーチャー(人間の理解の及ばない嫌悪すべき生物)である。
 この作者もつまりはわかっていない、この異世界には怪獣保護協会の基地がいくつかあるのだがそれをホンダ基地、イシロウ基地、タナカ基地と名付けているのもその一環である、主人公の同僚がこれはゴジラの制作者の名前から取っているんだと教えてくれるのだがツブラヤ基地が無い時点でお察しである。作者は映画はまずはプロデューサーのものであり、ついで監督のものであるというハリウッドの常識で書いているだけで日本の怪獣映画の歴史をまったく理解してしない。たしかにゴジラのプロデューサーは田中友幸であり監督は本多猪四郎だが日本では誰もこれを田中の映画、本多の映画だとは思っていない(この2人の名前を知らない人も多いだろう)これは「キングコング」はメリアン・C・クーパーの映画であるとか「アルゴ探検隊の大冒険」はドン・チャフィの作であると言うようなものだ。(言うまでもないがキングコングの父はウイリス・オブライアンでありアルゴ探検隊の大冒険はハリー・ハウゼンの映画である)
 
 よくわかっていないジャンルの事をよく調べもせずちょっとシャレた(一周回って新しい?)企画だと思って手を出すのはやめてもらいたいと怪獣の友である私は思うのだ。



宅配BOXの鍵とハンコを持って玄関に立つ我が家のベムスター