2024
私(プレイヤー)は蛍光灯に照らされた無機質な通路にいる。長さは10メートルほどだろうか、床はツヤのあるタイルと点字ブロック、壁もタイル貼り、壁に行き先掲示板があるのでおそらく地下鉄改札口と地上出口をつなぐ地下通路なのだろう。
先に進むと通路は左に折れ、数メートルの短い通路を経て右に折れる、その先は40メートルほどの通路になっている、左の壁には広告、右壁には従業員専用の扉と消火栓などがある、通路はその先で左に折れている・・とその角を曲がって中年の男が現れた、右手にバッグ左手にスマホを持つビジネスマンらしきその男は速足に近づき、すれ違って後ろの角を曲がって消える。
広告のある通路
反転して来た道を戻る、左に曲がって短い通路、その先を右、そこはスタート時の場所のはずだ、そこには先ほどすれ違ったビジネスマンが立ち止まっていてスマホをいじっている、男を追い越して更に逆にたどる、左、右と曲がる、と広告のある長い通路に出る、しかしその広告は「左側」にある、通路がループしているなら広告のある通路の反対側に出るはずで広告は右壁にあるはずだ、と思うやビジネスマンが前方の角を曲がって現れた、ならばこれはループではない。
ここは前進しようが反対方向に進もうが、必ず最初の通路に最初と同じ向きに戻される閉鎖空間なのだ、いったい私はどうすればこの閉じた空間から脱出できるのだろうか?
というゲームである。
スタート地点
ゲームには脱出ゲームというジャンルがある、主人公がどこかの部屋に閉じ込められているところから始まり、プレイヤーはその部屋を探索してヒントやアイテムを探し出し仕掛けを動かして脱出するといったゲームだ。
この8番出口もそのバリエーションと言ってよい、しかしそのゲームデザインは尖っている、操作はマウスで視点移動、キーボードで前進、後進、横移動というFPSスタイルだが操作するのはそれだけだ、つまりプレーヤーにできるのは「見る」ことと「歩く(走る)」ことだけで「調べる」ことも「取る」ことも「使う」こともできない。
それで一体何ができるのか、ゲームになるのか、そして何より「それで面白くなるのか」ということになるのだがこれが「面白い」
これからゲームをする(かもしれない)人にこのゲームをイチから楽しんでいただきたいので詳細については触れないが、コンピューターゲームが世に現れて半世紀、まだ目からウロコといったゲームが生まれる余地があるのだなあと感嘆したとだけ言っておこう。
まあ、このゲームはリアルな画面描写で有名なUnreal Engine(・・;)という開発ソフトがあって実現できたゲームであり、たとえアイデアがあっても昔なら不可能だったろう、というかフォトリアルなCGがあって初めて発想されたゲームかもしれない。
配信元のSteamにはプレイ時間15~60分と書いてあるが、勘のいいプレイヤーが集中してプレイしても30分を切るのは難しいと思われる、私は細切れでプレイしたのでクリアまでに2時間以上かかってしまった、そしてコツをつかんだ今は1回5分もかからない、つまりこれは初見の1発勝負のゲームなのだ(なのでプレイする前に攻略サイトなどを見ないようにする必要がある)とはいえこれが2度目をやる価値のないゲームであるかというとそうでもないあたりが面白いところで、全てをつかんだはずの私でも何周かしていると「え、今のミス?何でだよ!」となることがあるのだ、そんなあたりもまた秀逸なゲームデザインの証であると言えるだろう。
シンプルなゲームをお手軽価格470円でお楽しみくださいという斬新なこの作品は、ゲームなどやったことがないというあなたにも、超大作コンピューターゲームに飽いたあなたにもお勧めできる1作である。
※このゲームはPC専用でありプレイするためにはゲームの配信サイト「steam」で入手する必要がある。最近口コミで評判になったためか「8番出口がプレイできる」「ダウンロード出来る」と称する詐欺サイトが散見するようになったらしいので注意が必要である
溜池山王にて
このゲームの地下通路にはモデルになった場所があるらしいのだが作者が秘密にしているので「あそこではないか」「いやここだろう」といった探求合戦が行われていたりする。
地下鉄で通勤する私もゲームを始めた途端「これは溜池山王だ!」と思ったくらいで日常的に地下通路を使う者にとってこれは思い当たるフシがありすぎる風景だ、そのリアルな日常風景がシームレスに非日常に切り替わる怖さがウケているのだろう。
昔むかしゲームセンターに「Lunar Lander」というアーケードゲームがあった、月着陸船を操縦して月面に軟着陸させるATARI製のゲームだ。
ゲームをスタートさせると着陸船は月面上空2000フィートに居て自由落下している、そのままだと月表面に激突してゲームオーバーとなってしまうのでプレイヤーはメインエンジンを吹かして制動をかけタッチダウンの瞬間には相対速度をほぼ0にしなければばらない。
また月面には峨々たる山が連なっていて着陸出来る平面が少ない(斜面に接触してもゲームオーバーだ)そこでで着陸船の角度を変えメインエンジンを横方向に吹かして着陸場所へ誘導する必要もある。
出来るのは着陸船の角度を変えることとメインエンジンを吹かすことだけという極めてシンプルなゲームだが、月の重力やエンジンの推力 燃料消費率の表現が極めて自然でゲームというよりは着陸シミュレーターといった趣があった。
このゲーム最初は燃料が豊富なので楽に着陸シークエンスを進めることができる、スタート位置から遠い着地地点(得点が高くなる)まで移動するのも楽だし、降下中に何度もホバリングして位置を微調整することも出来る、しかしだんだんと燃料の設定が厳しくなりムダのない噴射をこころがけないと燃料切れで月面に激突するハメになる。
人類初の月面着陸を果たしたのはアポロ11の着陸船イーグルだが、最終段階になって着陸予定地点に大きなクレーターがあることがわかりアームストロング船長は残り少ない燃料を消費しながら横移動するハメになった(タッチダウンしたとき燃料は残り30秒だった)このLunar Landerはアポロ計画を、というかまさしくこのイーグルの着地を念頭に作られている。
さて今月20日深夜、日本の探査機SLIMが月面着陸を果たした、午前0時から始まる実況中継をリアルタイムで視聴していた私はJAXAの提供する「特殊QL画面」を見て「これはLunar Landerだ!」と思った。このQL(QuickLook)というのはSLIMから送られてくる各種データーを視覚的に表現したもので、SLIMの高度、加速度、姿勢、エンジンの出力、燃料およびバッテリーの残量が感覚的に理解できる優れものなのだが、その姿勢、高度のグラフィックが Lunar Landerそっくりなのだ。
着陸シークエンスの最終段階、SLIMはいったんホバリングして着陸地点に障害物がないかどうかのチェックモードに入るのだが、そのホバリングの最中にも燃料は容赦なく消費されていく、0%に向けて減っていくFuelゲージを見ながら私は「この焦燥感はLunar Landerだ、40年の時を超えたリアルLunar Landerだ」と思ったのだ。
Lunar Landerに思い入れがあるのは私だけではなかったようでATARIは Lunar Landerのリメイクである「Lunar Lander Beyond」というゲームを2024年中に発売すると発表した、この発表が19日(時差を考えるとSLIMの月面着陸と同日)だった、囲碁の「アタリ」から社名を取ったATARIのことなのでこの日取りは意外と偶然ではないのかも知れない。
地雷グリコ
同じ主人公が活躍する学園ものの短編5部作、その第1部がタイトルになった「地雷グリコ」である。
都立頬城高校の文化祭に参加する団体にとって出展場所一番人気なのは新校舎の屋上だ、ここには1店舗しか出店出来ないため希望する団体はトーナメント式のゲームに参加し優勝する必要がある。このゲームは「愚煙試合」(馬鹿と煙は高いところが好き)と呼ばれている。
今回の愚煙試合で決勝に残ったのはオープンカフェを開く生徒会とカレー店を開きたい1年4組、行われるのは文化祭実行委員考案のオリジナルゲームだ。
勝負の舞台となったのは学校近くの神社の階段、そこで両者の代表がジャンケンを行い勝った方が勝った手の文字数だけ階段を昇っていって登り切った方が勝ちというつまりは「グリコ」だ。
しかしこのゲームには追加ルールがある、プレイヤーは階段に3つの「地雷」を仕掛けることができ、敵プレイヤーは地雷を踏むと10段下がらなければならないのだ、プレイヤーが申告した地雷の位置は審判が把握している。
聞いてなるほどこれは「カイジ」なのかと思った。既存の伝統的な(あえて言えば子供じみた)ゲームに簡単なルールを追加することでそのゲームがたちまち戦略性に富み、心理戦、騙し合いを含めた知的な戦いになるという作品が今はマンガの1ジャンルを形成してる、その嚆矢となったのが福本伸行の「賭博黙示録カイジ」であり、ブームの引き金となったのがカイジ最初のゲーム「限定ジャンケン」だ。
借金まみれの若者カイジが一発逆転を狙って勝てば一攫千金負ければ命の保証はない(?)という闇ギャンブルに参加するというマンガだが、その最初のゲームがこの「限定ジャンケン」でルールは以下のようなものだ。。
1・参加者達には星型のバッジ3つとグー・チョキ・パーの手が描かれたカードが4枚づつ12枚が配られる。
2・参加者同士1:1でカードを出し合いジャンケンを行う。
3・勝った側は相手から星1個を取得できる。
4・使用したカードは勝敗に関係なく破棄されグー・チョキ・パーそれぞれが場に何枚残っているかはリアルタイムで公表される。
というのが「限定ジャンケン」だ。
勝利条件は時間内にカードをすべて破棄することと星3つ以上を手にしていること。
基本的にはただのジャンケンでしょと読者は思うわけだが、読み進めていくとこれが戦略性に富んだ知的で奥深いゲームであることがわかってくる。
実際登場人物が「これこれこういうわけで必勝法がある」と言うと、なるほど!と思ってしまうが「いやそれにはこんな穴がある、これが正解だ」と言われるとやはりなるほど!となってしまう、その都度隙のない(ように見える)理屈に納得し、また更に上をいかれるという「騙される快感」で読者を魅了したこの作品はマンガ界に大きな影響を与えその後多くの派生作品を生み出した。
カイジっぽいな~と思いつつ本作を読み進めていくとやはりこの地雷グリコは単純でありながら奥が深くやがて「これこれこういうわけで必勝法がある」と言われるとなるほど!と思ってしまい「いやそれにはこんな穴がある、これが正解だ」と言われるとやはりなるほど!となる展開になっていく。
カイジの派生作品はマンガしか思いつかないのだが、小説でも知的な推理物に興味があり自信もある作家ならチャレンジしたくなるだろうとは思っていた、私が知らないだけでとっくに発表されているんじゃないかとも思っていたのだが実際に手にしたのはこれが初めてである。
しかしカイジっぽいなーとは思うものの、作家本人にそのつもりはなく似ているのも偶然の産物であるならば影響を受けたと決めつけるのは申し訳ないと思いつつ読みすすめると。
出ました! 第3部「自由律ジャンケン」
そうだよねーカイジにやられてしまった人間なら、それが作家なら、知的ゲームが得意だという自負があるのなら「俺の考えたジャンケン」をやりたいよね。というわけでこの青崎有吾は私にカイジシンパというレッテルを貼られてしまったのだった。
<話は変わるが私が史上最高の短編ミステリーと思うのはハリイ・ケメルマンの「9マイルは遠すぎる」だが、古典部シリーズ(「氷菓」と言ったほうがわかりやすいかもしれないが)の中で米澤穂信は「心あたりのある者は」というオマージュな短編を発表している、これもミステリー作家となったからには俺の9マイルをやりたいよねといった感じではないだろうか>
カイジ派生作品という確信をもって更に読みすすめていくと、政治家、社長、文化人を多数輩出する秘密主義の超エリート校という怪しさ満点の私立高校が出てきた。その高校では生徒会の主導で「実践向上(キャリアアップ)」という名のギャンブルが常に行われており、生徒間で動く金は10億だというのだが、いやここまでぶっちゃけるか?と思った。
政治家、富豪、その他社会的に成功した人間の子女が通う学校で秘密主義、親の影響力で不祥事などはもみ消すことが出来るエリート校、というのはラノベ、ラブコメで512回くらいは見た設定なのだがこれを一般小説でやるか、と思ったのだ。
更に言うと、先にカイジ派生のギャンブルマンガが多数存在すると書いたわけだがその中でもヒットしているのが「賭けグルイ」(作 河本ほむら/尚村透)だ、このマンガの舞台は私立百花王学園「上流階級・政財界の子女が数多く通う名門校」であり生徒会主導で大金を賭けたギャンブルが常に行われている、生徒会への上納金によって生徒はランク付けされ、下位100位になると人権を剥奪され上位の生徒から家畜のような扱いを受けるというお話だ(いずれ社会に出て上流階級になる人間はいざというときの勝負強さと人を使う訓練をする必要があるかららしい)
この「階級制度」はぶっとび過ぎだが、上流階級だけを集めた秘密主義の学校があって内部では生徒会主導の元、生徒同士が大金を賭けたギャンブルを行っているという設定の相似性は偶然とは思えず、カイジが気になる作家は賭けグルイも視野に入れるよねえと私は思ったのだが、それにしてもこれは一線を越えているのではないか、マンガは抽象化の度合いが高いので現実社会とかけ離れた設定でも違和感を感じないしラノベもまたしかり、しかし一般文芸作品でここまでぶっちゃけるとさすがにそれは無いという反応が返ってくるのではないだろうか。
ところでその賭けグルイだが、主人公蛇喰夢子(じゃばみゆめこ←凄い名前である)の最初のゲームが「投票ジャンケン」である、やはりジャンケンなのだ「カイジにやられてしまった人間なら、それが作家なら、知的ゲームが得意だという自己認識があるのなら(以下略)」としか言いようはない。
何が言いたいのかというと、カイジの影響下にある「独自ルールのゲームによるギャンブルマンガ作品群」というジャンルが世の中には確固として存在するということであり、この小説もまたその末裔であるということなのだ。
念のため言うとオマージュとリスペクト(パクリ、パクられ)は創作の常であり、これらの作品群が似た設定を使い回していることは何の問題もない、むしろこの作家はこのネタをどう料理するのかと楽しみになるくらいだ、読む側はそれが歴史の産物であることくらいは知っておいたほうがいいだろうとは思うのだが。
ということでこの地雷グリコはカイジ派生作品と決まった(!)わけだが、1作品として俯瞰してみると、先人たちのそれと比べてやや弱い。主人公の造形がイマイチで魅力を感じないという問題はあるものの、ルールとゲーム進行については充分に練られていて不足はない、しかし読後の印象が薄いのだ。なぜなのかあれこれ考えてみた結果これは読書スピードの問題なのではないかという結論に至った。
こうした作品は最初の見た目とは違って中身が濃く奥が深いので一般小説のスピードで読み進めていくと理解が追いつかず「これこれこういうわけで必勝法がある」と言われるとあ~なるほどね~と真の理解をすることなく先へ進んでしまうのだ。作品内部には作者の用意した言ってみれば落とし穴のようなものが多数存在するのだが、穴に完全に落ちる前に先に進んでしまうという感じだろうか、なので騙される快感が弱く結果インパクトが弱くなるわけだ。
またカードゲームのようなものはいくら口で(文章で)手札の内訳を説明されてもそう記憶できるものではない。
本当を言えば紙と鉛筆を用意して、ルールを書き止めゲームの進行状況を図にしておくのがいいのだろうが通勤途中に読書することが多い私にはそんなことは出来ない、もっと恵まれた読書環境にある人間でもそこまでする人間は多くないだろう。
ではマンガであればどうなのか、いきなり書籍化されるマンガはまず無いのでたいていのギャンブルマンガは(カイジも賭けグルイも)週間連載である、なので1つのゲームが終了するまでに何週間もかかる、読者は強制的にブレーキをかけられているわけで内容を咀嚼する前に先に進んでしまうという問題が起こりにくい。また当然ながらゲームの進行状況、手持ちの札などの情報はグラフィカルに表示されているので理解しやすく記憶に残りやすい。
つまりカイジワールドはマンガ向きなのだ、小説で今まで目にしなかったというのも私が寡聞に過ぎただけではないのかもしれないと思う。
(なのでこの地雷グリコはコミカライズしたりアニメ化したりすれば大化けする可能性がある)
結論としては「面白い試みの小説ではあるが内容と表現形式(小説!)にミスマッチがある、どうにもならない部分ではあるが惜しい」といったところだろう。
お勧めできるかどうかは微妙だ、これを読むならカイジ的ギャンブル物ではないが学園物として似たテイストの古典部シリーズ(氷菓)を読んだほうがいいだろう、こちらの方がキャラが立っているし理解、記憶すべき情報の量と読書スピードのバランスが良いからだ。
これだけ持ち上げて肝心の「カイジ」はお勧めしないのかと思う向きもあるだろうが、このマンガは凶器のように尖ったカイジの造形などクセのある画風なので万人に手放しで勧めることは出来ないのだった。
前作アリゾナサンシャインの続編でVR専用のゾンビ撃ちゲームである。
ゾンビというと廃墟、廃屋、地下道といった暗くてジメジメした場所に出現するのが通例だがこのゲームは舞台がアリゾナ、照りつける太陽、抜けるような青空、乾いた風の吹く赤茶けた大地、雄大なグランドキャニオンにゾンビの群れという一風変わったテイストになっている。更に言うと主人公が喋りまくるのもこのゲームの特徴だ。一人称視点でもモニターの向こうで事が起こる通常のゲームならこれにさほどの違和感はない、しかしVRではプレーヤーの視点=主人公の視点である、プレーヤー自身がゲーム内世界に存在しているという感触がある中でその「自分」が勝手にあれこれ喋るのは違和感ありまくりだ、しかしこのゲーム、プレイしていくうちにだんだんと主人公と一体化していき仕舞にはこれもアリと思えるようになる。
喋りまくる言葉の端はしから想像するに主人公は建設業に従事する冴えない中年のおっさんらしい、しかし「ピンチの時ほどジョークを飛ばせ」というヤンキーらしいライトスタッフの持ち主で群がるゾンビの群れに対しても下品でブラックなジョークを飛ばしまくるのだ、そんないかに絶望的な状況にあっても臆することのないスピリットに感化されこちらもだんだんと楽しくなっていく。私はまあ標準的な日本人なので基本慎重で何事も確実に事を進めようとする小心者なのだがこの向こう意気だけで生きているような主人公と共に荒廃した世界を旅していくと自分が勇気満々のヒーローであるように思えてくる、これは今までになかった感触である、これもまたロールプレイングゲームなのだろう。
ロールプレイングゲームはゲーム内のロール(役割/職業)を選択しそれに沿ったプレイをするものと思われているが「ダンジョン&ドラゴンズ」のデザイナー、ゲイリー・ガイギャックスは、それはもっと根源的なものであり「自分が未来永劫決してなることができない何者かを演じること」がロールプレイングだと言っている。この私がゾンビの群れにむかって2丁拳銃で立ち向かい呵々として笑えるようになるこのゲームは多分本当のロールプレイングゲームなのだ。
このゲームの特徴その2として言うべきは相棒として軍用シェパードが登場することだろう、犬は人間の最良の友と言われているが主人公がバディと呼ぶこの犬はまさしく賢くて忠実で強い。私がゾンビに襲われると飛んできて引き剥がしてくれるし、指示すれば遠くにあるものを取ってきてくれるし、遠くに居るゾンビも倒してくれる(なので弾丸が乏しくなってきたときは自分は物陰に隠れて(!)バディあれ倒してちょうだいという作戦も取れる)落ちているボールを投げると喜び勇んで取ってくるし、時に倒したゾンビの腕を咥えて戻ってくる(褒めてもらいたいらしい)歩けばついてくるのだがただ付き従うのではなく、何かに気を取られて付いてこないこともあり置いていかれたことに気づくと走って追いついてくる、かと思うと先行してゾンビを威嚇したり、暇になるとそこらにマーキングをしたりする、つまりこのバディの行動AIが極めて優秀なのだ。
一仕事したのでボールで遊んでほしい犬
アポカリプスな世界に一人とり残された時絶対に自分を裏切らない仲間がいるということがどれだけ心強いか、前作の自分がどれだけ孤独であったか改めて思い知る秀逸な追加要素である(作中このバディが怪我をして動けなくなるシークエンスがあるが主人公はバディを腕に抱えて激しく取り乱す、つまりはプレイヤーを無視した激しい感情表現なのだがまったく違和感がない、シナリオ、ゲーム進行が極めて優秀な証左である)
話は変わるがこのゲーム、ゾンビを倒してもその死体(?)は消えてなくならない、多くのRPGでは倒したモンスターは粒子となって消えてしまうのだが、そうはならずゾンビが群れとなって襲ってきた場合それを倒せば無数の死体がいつまでもそこにある、そこを歩けばゾンビが押しのけられて動く(当たり判定が生きている)のでただの背景と化したわけではない、これはリアルではあるがゲーム制作上難しい問題をはらんでいる、つまりあるシークエンスが終了した後でもゾンビのポリゴンやテクスチャのデーター、どこにでどういう姿勢で死んでいるのか(位置/モーションデーター)を記録し処理しつづける必要があるからだ。長いストーリーのゲームの場合これはいずれリソースの不足を招くだろう。なのでこのタイプのゲームは一区切りごとに後戻りが出来なくなってそれ以前のメモリを開放していく、つまり連続した長いストーリーのゲームのように見えてもこのタイプのゲームは面クリ(クリアすると次の面に進めるショートゲームの連続)なのだ、とはいえこれをあからさまに行うと興を削ぐのでうまく処理する必要がある、よく使われるのが渡った橋が落ちる、使った乗り物が壊れる、高いところから飛び降りる(登り返せない)というものだ。
という話をしたところでこのゲームの優秀な所をもう一つ上げる。
ゲーム中深い谷に架かった天然の岩の橋を渡るシーンがある、橋の中央まで進むと前後からゾンビの群れが現れ挟撃されるのだがこれが実に難関なのだ、アサルトライフルで弾をバラ巻きどちらかのゾンビを先に殲滅しようとするもダメ、交互に射撃してもダメ(振り向くロスタイムで殲滅速度がむしろ減る)携行している手榴弾を使ってもダメ(安全ピンを抜いて投げる動作に時間がかかりすぎて殲滅が間に合わない)何度かやってみてこれは力押しではダメなのだという結論に至った、つまりは何かしらのアイデアが必要なパズル要素があるシーンなのだろうということだ。
夜景が美しいのでスクリーンショットを撮ったのだが、まあ、きっと先々あそこでなにかあるとは思っていたよ
そこで気づくのが死に戻りだ、このアリゾナサンシャインでは死ぬと少し前に戻される、この地点というのが面クリ直後の場所、つまりそのシーンの冒頭だ、しかしこの橋のシーンに関してだけはもう一つ前のシーンの冒頭に戻されるのだ、これには何か意味があるのだろう・・というか、ここは崖から飛び降りた所(面クリの直後)が橋のたもとなのでここでシーンの頭である橋のたもとに戻されたら多くのプレーヤーは詰んでしまうだろう。つまりこれは「前のブロックからやり直してみろ」というヒントなのだ(と思う)
そう思って前のブロックをプレイするとここには「武器製造装置」があったことに気づく、このゲームは道中武器を初めとしていろいろなアイテムを拾うことが出来るのだが、その中には爆発物の素材もあって道中ときどき見かける「武器製造装置」に放り込むと手榴弾などが作製できるのだ。中には「地雷」というものもあるのだがこれは小型のマンホールほどもあり手に持つ以外持ち運びが出来ない、手が塞がっていると突然現れたゾンビに対処できない(地雷を放し、ホルスターから銃を引っこ抜く間があく)なので普通は使わないのだが。コレダ!
地雷を右手と左手に1個づつ持ち途中のゾンビは相棒に倒してもらって崖の上まで進む、そこで地雷をポイポイと崖下に投げる(安全ピンが刺さっているので爆発しない)戻ってまた地雷を2個製造、これもポイポイして崖を飛び降りる。崖下に落ちている地雷のピンを抜き橋の上にセットしながら先に進む。中央まで進むと現れるゾンビの群れ、私は前方のゾンビに向かって乱射開始、背後の群れは地雷を踏んで次々に吹っ飛んでいく、まあ見えないし見ている余裕はないのだが一定の間隔で爆発音が聞こえ、たまにゾンビの破片(!)が飛んでくる。そうして前方の群れを殲滅、反転して地雷4つで処理しきれなかったゾンビを始末して終了である。
やったぜ、正解!と思っていたのだが、ゲームをクリアしたあと人のプレイ動画を観たところあるプレイヤーはここでゾンビの群れを見るや右手に斧、左手にマチェーテ(山刀)を持って奇声を上げながら前方の群れに突撃、両手の武器を狂ったように振り回しながら中央突破して反対側に突き抜け、あわてて(?)反転してくるゾンビを今度はライフルの精密射撃で倒すという技でこれをクリアしていた(一発づつ装弾するライフルは射撃速度が遅く挟撃されると対処できないが群れを抜けてしまえば後退しながら撃てるのだ)
これを見てなるほどこれは良いゲームだ、と改めて確信した、それが制作者側の想定した方法であろうとなかろうとゲーム内ルールに沿ったものであれば多様なプレイスタイルを許容するというのはゲームの完成度の高さを示すと思うからだ(フロムソフトのゲームが優秀なのはそういうところだし、フロムのVRゲーム「デラシネ」が失敗作なのもそういうところである)
もっともこの配信者は他のどうってことのない(銃があればなんなくクリアできる)シーンでも「ここはやはり斧でしょう」とか言いだすので近接戦闘マニアらしい(ガンゲイルオンラインという銃社会が舞台のVRゲームに参加しながらレーザーブレードを振り回して戦うキリトくんのようなものなのかもしれない、って何のことかわからないですかそうですか)
そして改めて思うのはVRはフィジカルなゲームだということだ、従来のコンピュータゲームの場合それがどんなハデなアクションゲームであっても実際にプレイヤーが使っているのは指先だけだ、しかしVRの場合、たとえば銃なら手と腕で銃をコントロールし目で見てエイム(狙いを付ける)しなければならないし手榴弾なら腕を振る速度、方向、手を離すタイミングすべてが適切でないと威力を発揮しない、つまりプレーヤーのリアルスキルに依存すること大なのだ。それでも銃や手榴弾ならその連射速度や破壊力は固定だ、しかし近接武器となれば全てがプレーヤー依存となる、つまりどれだけ速く武器を振り回すことが出来るかで攻撃回数は変わり、どれだけ正確に武器をコントロールしているかで攻撃力は変わるのだ。
このゲームは通例に従ってゾンビは頭を破壊しないと無力化できない、奴らは手など落とされてもまったく頓着しないし、足を切れば倒れるものの腕を使って這い寄ってくる、先の近接戦闘プレーヤーについて「武器を狂ったように振り回し」と表現したが、彼は乱戦のさなかにあっても頭を唐竹割りにするか首チョンパするかなど的確に攻撃を当てているのだ、終わったあとはゼイゼイ言っていたがこれは達成感があるだろう、これはモニター越しでは決して得られないVRならではの喜びだと思われる(私は等身大ゾンビと近接戦闘などごめんだが)
ちょっと振ってみたマチェーテ
などなど思いつくままに書いてきたが言うべきはこれがアドヴェンチャー要素もRPG要素もあるすぐれて面白いそして一風変わったゲームであるということだ。FPSが好きなゲーマーにもゾンビものが好きなゲーマーにもお勧めしたい、まあVRということで敷居が高いのが難点なのだが最近はプラットフォームも広がりPSVRでもプレイできるので若干間口が広がったとは言えるだろう、しかしあのゴア表現(残酷描写)はゾンビ好きの私ですら若干引くレベルなのだがプレイステーション版は完全移植なのだろうか?
Windows10から11にアップグレードした、2年前11が発表された直後に怖い物見たさ(データーが消えるなど恐ろしいバグがあった!)で一度アップグレードしたものの特段に新味を感じなかったので10に戻していた。今回再びアップしたのはそろそろ10のサポートが切れること、そしてなによりCopilot(副操縦士)という機能が実装されたからだ。
このCopilotとは何であるか。Copilot当人(?)に聞いてみると
『Microsoft Copilot(マイクロソフト コパイロット)は、Microsoft社が提供している生成AIツールです。このツールは、文章・コード・画像などを生成することができます。』
というものだそうだ。実際の機能としては生成AIとユーザーの間を取り持つ仕組みと言えるだろう。
今世間には各種の生成AIが存在しているがその機能は統合されていない、あいさつ文を生成しようとするならOpenAI社のChatGPT、画像生成するならMidjourney、既存の画像の加工ならアドビのPhotoshopといちいち立ち上げなければならない。更に言うなら画像生成AIの多くはどんな絵を描いて欲しいかを説明する『プロンプト』に英語しか受け付けずしかも単語の羅列ではなく文章が望ましいとされているので細かい指示を出そうとすれば翻訳ソフトも必要になる。これはいかにも煩雑であり迂遠である。生成AIをビジネスで使おうとする企業(か私のようなボビィスト)ならそれでも手を出すだろうがまだまだ世間一般に広まる状況ではない。
そこでCopilotである。Copilotは検索(いわゆるググる)は当然として、CopilotとChatGPTの違いは何?というような検索条件に悩むような、あちこちのサイトを見比べて自分で答えを探さなければならないような問にも自然言語で答えてくれる。「高校の卒業式で生徒代表として読む文章を考えて」と言えば『尊敬する先生方、親愛なる後輩の皆さん、あなたたちのおかげで我々はこの日を迎えることが出来ました、高校生活は、私たちにとって大切な時間であり、多くの思い出と成長の場でした・・・』というような(ありきたりながら自分で考えたらそれなりに時間のかかりそうな)文章もたちまち生成してくれる。画像検索機能も取り込んでいるので映っているものが何だが分からない写真をチャットウインドウに放り込むと『それはアネモネです、アネモネはキンポウゲ科の植物で・・』などと回答してくれる。またDALL-E(ダリ)という画像生成AIと連携しているので「無表情な女性型アンドロイドの画像を生成して」と言うとプロンプトを英訳した上でDALL-Eに受け渡してくれる。つまりCopilotは生成AIとユーザーの仲立ちをしてくれる機能なのだ。
コンピューターはこれからますます我々の生活に溶け込み日常生活の助けとなっていくだろうがそのためには現在のように個別の機能が存在するだけではだめだ、我々は結果が欲しいのであって生成AIが使いたいわけではない、そこで自然言語に対応しユーザーの要求を振り分け、結果をとりまとめてくれる仕組みが必須なのだ、Copilotその第一歩となるのではないかと思いWindowsを11にアップグレードしたというわけだ。
使ってみてどうかというと使い勝手はかなり良い、Microsoft製であるだけにWindowsとの親和性もよく起動も簡単で音声入力/出力もできるので。
「おはようCopilot」
『おはようございます、何かお手伝いすることが出来ますか?』
「明日の東京の天気を教えてくれるかな」
『もちろんです、明日の東京の天気をお伝えしますね。
日付: 2024年5月2日
最高気温: 20℃
最低気温: 13℃
天気: 部分的に晴れ
朝は雨が降る予想ですが、午後は雨がやむでしょう。気温は比較的穏やかで、過ごしやすい一日になりそうです。
お出かけの際は、傘を持っていくことをおすすめします!』
などと音声でやりとりしているとついにHAL9000がやってきた感がある。
さてしかしそんなお遊び部分はともかくとして肝心なのは自然言語によって行われた質問を理解する解析力、答を探す能力、その結果を自然言語で返す生成能力なのだがこれもかなりいけると思われる。
試しに「日本の過去の作家、文豪とか巨匠と呼ばれるような有名な小説家が「全然」という単語を肯定的に使っている例を教えて」という質問を投げてみた。
というのも私は全然は「全く然り、まったくそのとおり」から来た言葉なのでむしろ肯定にこそふさわしいという積極肯定派なのだが世間には「否定につながるべき全然を肯定に使う人間が増えてきた、これは若者言葉と言うべきであって嘆かわしい」と言う人がいるわけだ。まあ面と向かって言われることもないのだがもし言われた時になんと反論すべきか前から考えてはいた、それが「虎の威を借りる作戦」(!)である。過去の文豪、巨匠が作品中で全然を肯定的に使っていた記憶はあるのだが(なので肯定派なのだが)じゃあ誰がどこでどう使っていたかというと即答できない、いつか調べなきゃな~と思っていたのでCopilotに聞いてみたのだ。
すると。
『もちろんです!日本の文豪たちが「全然」という単語を肯定的に使った例をいくつかご紹介します。
夏目漱石の小説『坊っちゃん』(明治39年)では、「一体生徒が全然悪いです」という表現があります。
森鴎外の論文『日露戦争論』(明治37年)には、「全然関知せざるもののごとく装い」というフレーズが使われています。
芥川龍之介の短編小説『羅生門』(大正4年)には、「全然、自分の意志に支配されている」という文言があります。
これらの例からも分かるように、日本の文豪たちは「全然」を肯定的に使っていたことがわかります。
「全然」は時代や文脈によって意味が変化することがあります、否定でも肯定でも、文法的には正しいです。しかし「肯定的な表現は誤用だ」という認識を持つ人がいるのも事実です、相手の反応を見ながら適切なタイミングで使うことが大切ですね。』
という答えを十数秒で生成してきた、本来の問いに対する回答に加え質問の背景まで察したかのようなサジェスチョンまで付いている、これは凄い。
これで『全然を肯定に使うとはけしからん』という人が居た場合『君は漱石や芥川に向かって「お前の日本語の使い方は間違っている」と言うつもりなのか』と例文付きで反論できるわけである。
<ちなみに生成AIは時おりウソを付くので回答を何かに使うつもりならウラを取っておく必要がある。
坊ちゃんは『一体生徒が全然悪いです。どうしても詫らせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。』
羅生門は『下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。』
という一文を確認できた、日露戦争論は手近なところで入手することが出来なかったので鴎外を引き合いに出すのは当面やめておいたほうがいいだろう>
というわけでCopilotの解析、検索、生成能力はかなりの水準にあると思われる、ちなみにChatGPTは時に真っ赤なウソをつくというので有名だが(「北千住の駅近くに24時間営業のサウナはありますか?」という質問に対し『北千住駅から最も近い24時間営業 のサウナ施設は、「スーパー銭 湯・天然温泉いっぱい 北千住店」 です。約600m程度の距離にあ り、徒歩8分程度でアクセスでき ます。』と答え、そこまでの経路を道の名前からランドマークまですらすらと答え「その全てがウソだった!」という話を聞いたことがある)そのChatGPTに同じ質問を投げてみたところ。
『日本の過去の作家や文豪、巨匠が「全然」という単語を肯定的に使った例を見つけることは少ないかもしれません。なぜなら、「全然」という言葉は否定的な意味合いを持つことが一般的であり、肯定的な文脈ではあまり使用されません。ただし、時代や文脈によっては、言葉の使い方が異なることもありますので、個々の文学作品や文章を探すことが必要です。』
と当たり障りのない、というか質問の意図からずれた答えしか返ってこなかった。う~むと思い。
『○○駅(←地元の駅)の近くにあるレストランを教えてください。』としたところ。
『申し訳ありませんが、私は地理的な情報を持っていません。○○駅周辺のレストランを検索するなら地元の口コミサイトやレストラン検索アプリを利用すると良いでしょう。』
という回答しかしてこなかった、いや調べてくれよ北千住の時の勢いはどうした!と思うわけだが「ウソばかり言う」という悪評に開発サイトの腰が引け修正を加えたのではあるまいか、単純な検索で拾える筈の情報でこれでは役に立たない。
というわけで今検索アシスタントとしてのAIはその敷居の低さから言ってもCopilotが頭一つ抜けていると言えるだろう。
さて生成AIの機能は多岐に渡り「ビジネスでの活用が強く期待」されていたりするわけだが私はその機能のうちのごく一部を私的利用しているだけだ。つまるところ検索アシスタントとホビーである、そのホビーユースの中で特に注目し期待しているのが画像生成だ。
ということで画像生成について触れる、実のところCopilotが連携している画像生成AI、DALL-EはOpenAI社の製品でMicrosoftとは直接関係がないのだが、ユーザーにDALL-Eは「見えていない」しCopilotに発注すると出てくる画像であるからにはCopilotの機能の一部としてとらえてもよいだろう。
そしてその画像「無表情な女性型アンドロイドの画像を生成して」というプロントによって生成されたのが、この項トップの画像と上記の画像である。完成度も高くこちらの要望は100%実現している、素晴らしい!・・と言いたいところだが、なんというか高性能グラフィックボードのパッケージイラストのようだというか、未来というキーワードの付属品として描かれるイメージイラストのようだというか、あ~あるある感というか、既視感100%しかない画像である。
これは個人の感想ではあるまいと思ったのでこの画像を「Bing画像検索」に放り込んでみた(BingはMicrosoftの検索エンジンである)すると出るわ出るわ。
検索結果として表示された類似画像のほんの一部。
あまりに似ている画像が多いのでDALL-Eが生成した画像ばかりが引っかかったのかもしれないが、そしてそれがDALL-Eオリジナルと言えるほどの独自性があるならいいが、ちょっと著作権的にヤバイ気もする。
画像生成AIは生成の元となる「学習データー」を一般に公開されている画像から機械学習している(らしい)、そして文化庁は生成AIの機械学習について
AI開発のような情報解析等において、著作物に表現された思想又は感情の享受を目的としない利用行為 は 、原則として著作権者の許諾なく利用することが可能
と言っているので、それをどこから拾ってきていても違法ではないのだが。
生成された画像等に既存の画像等(著作物)との類似性(創作的表現が同一又は類似であること)や依拠性(既存の著作物をもとに創作したこと)が認められれば、著作権者は著作権侵害として損害賠償請求・差止請求が可能であるほか、刑事罰の対象ともなる。
とも言っている。簡単に言えば「何を参考にしても構わないが、出来たものが既存の著作物そっくりだったら違法だ」ということだ、つまりこの多くの似通った画像の中に「元絵」があるならヤバイということだ、しかし現状ユーザーにそれを判別する方法はない。
MicrosoftはCopilotが出力した画像に対し「著作権を主張しない」と言っているのだが、それは「ユーザーの著作権を担保するという」という意味ではない(問題から逃げているだけと言える)
画像生成AIにまつわるモメごとはすでに見聞きしているのだが実際自分でやってみてやはりこれはまだまだグレーな部分のあるジャンルであると確信した、考え方は人それぞれなので強く主張するつもりもないが私はこれを自分の作品であると主張する勇気はないということは言っておきたい。
DALL-E出力おまけ「月面に立つモノリスとその前に立つアンドロイド」
月面?