上海日記 ー西遊記ー
 




 ハードディスクを整理していたら以下のような文章が出てきました、これは1992年に日テレで製作され、93年に放映された、「宮沢りえ版・西遊記」の中国ロケの日記です、この作品は3時間くらいの特別番組だったはずです。

 ※ちなみに「西遊記」は伝説の夏目雅子版TVシリーズとこの宮沢りえ版、牧瀬里穂版TVシリーズの3つがあり、初代は猪八戒を西田敏行が演じた1期と左とん平の2期に分かれています(孫悟空はそれぞれ堺正章、本木雅弘、唐沢寿明です)

 さてこの作品、西遊記といういかにもな題材でありながら製作開始の直前まで操演をスタッフに加えていなかったという危ない制作体制で始まりました。
 局制作のドラマで「操演」というパートが必要であることはめったにないので失念していたのだとは思いますが、初代「西遊記」は本編班、特撮班の2本立てで制作しており、本編班にも随時操演部が出入りしていたのですから(亀甲船の前身である会社がこれを受けており駆け出しの私も参加していた)知らなかったではすみません。。

 ともかく知り合いの特撮監督がスペシャルイフェクツ・コーディネーターを引き受けたものの操演がいないのに気が付き(!)あわてて操演をスタッフに押し込んだというわけです。
 しかし「操演予算を考慮していなかった」(!)ため中国ロケに参加するのは私一人、機材費も無い(!)ので身一つで来てくれといういい加減なものでした。
 上海電影が全面協力するから機材は向こうにある、というふれこみですが、予算を値切っているときのプロデューサーの「機材はこっちで用意するから」とか「人手はあるから」と言う約束が事実であったためしはないので、「身一つ」に関しては断固拒否、「なにがあってもとりあえずOK」なだけの装備を持って出ることになりました、おかげで4人がかりでなきゃ持ち上げられない風呂桶ほどの木箱を1人で抱えて、私は広い中国大陸を右往左往するはめになったのでした。






1992年 秋


1日目


 JAL791便は成田10時ジャスト発、フライトはわずか3時間である、時差(1時間)の関係もあって12時には我々は上海に到着した。
 「中国って近いねー」なんてのんきな事を言っている我々にたちはだかったのが入国審査であった、日本なら5,6分でクリア出来ると思われるパスポートコントロールが遅々として進まずなんと1時間待ちなのであった。

 山のような機材をチェックしトラックに積み込み、我々上海市街から2時間程はなれた「大観園」に向かう、「大観園」は唐の時代の建物を再現した観光施設である、日本でいう「日光江戸村」と思っていただければ間違いない、ここが上海ロケの中心地である。

 今日はざっとロケハンして終了。

 「大観園」のそばにある宿舎「石化療養院」に着く、ここは中国のコーディネーターが確保した場所であってその実体は誰も知らなかった。

 「ひょっとして石化病とかいう奇病があってそれを治療するところなのだろうか?」などという不気味な想像をしていたのであったが、それは誤り、石化とは「石油化学」の略であり、「療養所」は日本で言う「保養所」を意味する、つまるところこれは「上海石油化学工廠工人療養院」の略であって石油コンビナートの作業員のためにつくられたリゾート施設なのであった。

 各室3人部屋、バス・トイレ・エアコン付きといのはおそらく中国では最高クラスの宿舎であろう、私は後発隊が着くまで一人である。

 さっそく風呂に入ろうとしたところが蛇口がこわれていた、そこで女性服務員を呼んでなんとかしてくれと言う。
 簡単に「言う」と書いたがこれは実が大変である、この大所帯の撮影隊に通訳はたった2人しかいない、彼らは(まあ当然だが)演出部、制作部にかかりきりで、我々一般スタッフのめんどうまでは見られない、我々は仕事上のことはもちろん日常のことまで自力でまかなわなくてはならないのだ。
 もっともなまじ英語圏であれば自分のダメな英語に引け目を感じて腰も引けるが、こと中国語となればこれはもう開き直るしかない、だいたい北京から来た通訳が「上海だと言葉が通じなくて困る」というくらいで話せなくて当然なのだ。

 (ついでに言えば私のあまり多くない海外ロケのうち半分は台湾とシンガポールで中国語圏には慣れているということもある、いざとなれば筆談でかなりいけるのだ。
 私はタバコを吸わないので-そして必ずタバコをすぐすすめられるので-台湾で「タバコは吸わない」という言葉を教えてくれと通訳に聞いたことがあった、そしてそれが「プヨウ・シャオエン」であると聞き、それはひょっとして「不用紫煙」と書くのかと聞いたところ「不要紫煙」の間違いではあったのだが、「書けるのになぜ喋れない?」と真顔で聞かれて困ったことがあった、台湾は漢字を省略していないので余計便利ということはある)

 まあさてそのようにして「なんとかしてくれ」と言ったのだが、彼女は社会主義国的無責任風に「私の担当ではないのでわからない」という「じゃあどうなるのか?」と問うと「明日には直る」とこれまた根拠のなさそな返事をするので自分で直すことにする、工具はある、操演は水道屋はもちろんガス屋でも電気屋でも務まるだけの腕がなくては商売にならないのだ。

 お湯をだしてびっくり真っ茶色である、水深わずか20センチで底がみえなくなる、あまり感動したので記念写真を撮って入浴する。





 ここからは国際電話がかけられないことが判明した、我々先発隊は泊まり先の電話番号を知らぬまま「着いたら電話するからね」ということで出発したのだ(いい加減すぎる)
 日本ではいったいどうなったのかと思っているだろう、急用が生じたとしても(あるいは生じていたとしても)連絡不能である、我々は孤立している。


2日目


 我々は孤立している、筈だったのに「宮沢りえと貴花田が婚約したそうだ」という噂が朝から流れる「話がおもしろすぎる、ウソだろ」というのが当時の我々の実感であった、いったいにこの噂はどこから流れたのだろうか?

 市内に機材の調達に出かけたいのだが天皇陛下が上海訪問している、交通規制で仕事にならないだろうというので、周庄という町のロケハンにでる、車で1時間ほどのこの町は淀山湖という湖のそばの運河の町である、ポンポン蒸気(?)がいきかい、油の浮くこの運河で人々は野菜を洗い、ゴミを捨て、米をといでいる。


3日目


 上海市内へ、あまりの喧噪にたちまち頭が痛くなる、まるでおおみそかのアメ横である。
 人と車と自転車が街をうめつくし、車という車がクラクションを鳴らしている、この街の音は昔の映画の街の音だ、昭和30年代の映画を見ていると東京の街には必ずパパパパ~、プププーというクラクションの音が入っている(そういえばその頃の漫画にも東京の遠景となるとプププ~とかいう擬音が書き込まれていた)日本の交通マナーもいつの間にか進んでいたのだ。
 人も車も自転車も信号など完全に無視し我がちに先を急ぎ絶対にゆずらない。
 我々の乗ったマイクロバスの前にも後ろにも右にも左にも自転車がいる、日本人なら1メートルも運転できまいと思われる、前の席に座っていると恐ろしさに目を開けていられない、よく事故にならないもんだ、などと思っている間にバスは自転車をひっかけて転ばしているが運ちゃんは止まりもしない、目の前にいた交通警官もなにも言わない、ひっくりかえったおばちゃんと巻き添えをくって転んだおじさんが口ゲンカを始めた、転んだほうが悪いのだろうか。

 四塩化チタンを買おうと化学薬品の問屋にいくがそれは劇薬なので当局の許可がいると言われる、ウソつけと思うが、面倒くさいので日本から持ってこさせることにする、手近なホテルに入りそこのビジネスセンターから日本のスタッフルームに電話する、一緒にいたスタッフが「日本シリースはどちらが勝ったか?、宮沢りえになにか話題はあったか」を聞けと言う(このとき皆噂はデマだと思っていたのです)

 四塩化チタンを成城学園前のニイナ薬局で買って持ってこいと助監督に指示する、「そんなヤバイものど~やって持ち込むんですか」と泣く助監督に無理を通して道理を引っ込めるのが映画屋の仕事であると言う。
 日本シリーズの結果を聞いて失望し、りえ-貴花田の婚約を確認して驚く。

 うわさは光よりも速く、宇宙の因果律をも無効にする(のだろうか?)


4日目


 撮影前日である、後発隊・キャストが到着する。
 キャストは上海市内の日航ホテル(超一流ホテルである)泊まりであるという。

 特殊メイクの原口氏、憔悴しきった様子で登場、1週間ロクに寝ておらず今朝も作業中に迎えがきたのでそこらじゅうのものをダンボールにつめこんできたのだと言う。
 もっとも氏は作品に入るといつも憔悴している、始めて会ったときは(「テラ戦士¢BOY」だったか「プルシャンブルー」だったか)「血尿が止まらない」といいながら蒼白な顔をして日活所内を歩いていたのだった。

 氏はまじめすぎるのだ、私は準備が間に合うとか間に合わないとか言う場合は自分が最低限の睡眠時間を取ったとして、という前提でものを言う(といっても修羅場では家に帰って着替えて3時間寝られるかどうか、というあたりがデッドラインとなることも多い) しかし氏は物理的に間に合わない場合に限って間に合わないと言う、たとえばフォームラテックスを調合して焼くのに6時間かかるとすれば、「6時間無ければ間に合わない」と言う、自分の休息時間を全然考慮していないのだ。
 
 多くのスタッフが(キャストもそうだろうが)撮影とは日常生活と一線を画したなにか特別なものだと感じている、宗教的法悦というか、フォースのダークサイドというか、そんな吸引力が映画には働いているのだ、そこでは身を捨てすべてを映画の神に捧げることこそ正しく美しいとされる(ここで「蒲田行進曲」を思い出していただきたい)
 これはもちろん基本的には正しいスタンスだとは思うのだが、時にそれが無能無策無責任な監督・プロデューサーのツケ回しをスタッフがかぶっている、という面がないでもない、規模のわりに予算がない、撮影期間を確保していない、役者を押えていない、スタジオレンタルに余裕がない。
 あるいは撮り切れないことがあきらかになった時に、追加予算を組むか、脚本に変更を加えるかという決断が出来ない、等々。
 我々技術者はそういう問題に関しても無批判、無自覚であってはならないと私は思うのだ。
 まったく悪意がないとしても、たとえば監督とかプロデューサーというのは企画に何ケ月もときには何年もかけ、脚本を詰め、オーディションをし準備期間を経て撮影に入るわけでこれは待ちに待った「ハレ」の期間なのだ。
 特に監督などは炎と燃えていて撮影実数1ケ月くらいなら寝ないでも結構、というくらいの意気込みがあったりするのだが、技術パートである我々はその前にも後にも「似たような状況の」仕事が続いているのである、骨おしみするつもりはないけれど、休みも睡眠もいらないぞ、とばかりに盛り上がられては困るのだ。
(これは、「家を建てるのは私にとって一生に一度の大イベントであるから大工さんも、不眠不休で頑張ってください」というに等しい、こうたとえればその身勝手さがわかってもらえるだろう)
 クランクアップすれば一段落という人たちと違って、我々は日々これ現場であり、どの現場にも確実な技術を提供するためにはバーンアウトしてしまうわけにはいかない、時に我々の仕事は人の命にかかわったりするのだし。

 明日は撮影初日、美術部はおおわらわで大観園を飾っている、原口氏も石化療養院の一室を占拠して作業を続けている、私はヒマである。


5日目


 今日は撮影初日、群衆シーン、騎馬隊の出るシーンなど大物が控えている、石化療養院7時30分出発。

 朝食は6時半、部屋のポットで入れたインスタントコーヒー(夜のうちに備品のポットを廊下に出しておくと朝お湯が詰められている、すばらしい)を片手に広い敷地をテクテクと歩いて食堂へ向かう。
 実のところ食事はあまり楽しくはない、というのは朝のメニューがずっと同じだからだ。
 おかゆ、饅頭1ケ、カステラ(のようなもの)1枚、ゆでたまご1ケ、これが毎日変わりなく出てくる、どうやら滞在10日間このまま変化は無しと思われた、コーヒーを持参するのは飲物がなにも出ないからである。
 
 ロケなどでは毎食弁当ということがよくある、支給された弁当のおかずが前のものとほとんど変わり無い場合、これは「同ポジ弁当」と呼ばれる。
 (同ポジとは、同ポジションの略で、カメラを動かさないようにして、同じ対象物を長時間、あるいは時間を置いて狙うことである)
 しかしそれにしてもこれは唖然とするほど毎日見事な同ポジなのであった。

 ところで私はもともとムービーの人間である、今回はビデオの作品であるため普段あまりなじみのないVE(ビデオエンジニア)という人々が仲間に加わっている、彼らは我々のいう「同ポジ弁当」を「リピート弁当」と呼んでいた、所かわれば名詞もかわる、もちろんこれを忌み嫌うことに関しては同様であるけれども。

 今日は市場のシーンがある、全体の雰囲気や食べ物屋の屋台から出る煙としてスモークが必要であるがさすがにスモークマシンや発煙筒は持ち込めなかったのでこれは現地調達ということになっていた。
 聞くと見るとでは大違いという今回の体制でこれはどうなるかと思っていたがちゃんと上海電影から応援が2人来た、「スモークを扱える人」と注文を出しておいたのだがこれがなんとスモーク専門の技術者、「白煙師」(パイエンスー)と言うパートなのだそうだ、日本でさえスモーク専門の技術者がいるほど分業化は進んでいない、凄いぞ上海電影。
 現地雇いのスタッフが使えない、働かないと、他のパートでは悪評たらたらの中この2人は実によく動いてくれた、「ここは市場のシーンであるから、食べ物屋の煮炊きの煙があちこちで上がっている風に作ってくれ」と言うだけで(まあこれだけ「言う」のも大変なのではあるが)細かく指示せずとも、カメラアングルを確認し、風の方向を計算して煙を仕込んでくれたのだ。

 ロングショットでは全体のバランスこそが重要であり、具体的にそれが煮炊きを必要とする屋台かどうかなどはどうでも良いのだが、それが判断出来るようになるにはそれなりの経験が必要である、さすがに白煙師というだけのことはあったというべきだろう。

 特筆すべきは彼らはこの煙を薫製用のスモークチップを使っていたということだ、スモークチップを使った発煙という技は初めて見たがこれは合理的である、半割りにして節をぬいた竹の樋の中にほぐしたチップを入れ端から燃やしていくだけなのだが、チップの帯の長さによって持続時間を、厚みによって発煙量を変えていくのだ。
 広い市場のロケセットであれば「本番いきます」と言われてから火を付けて回ったのでは時間がかかりすぎるし、発煙筒などでは最後に点火した煙がいい案配になったころには最初の煙が消えかかっているということにもなりかねない、この方法だとテストの頃から始めて本番にいたるまでずーっと煙を出し続けていられるのだ、本番終了したら燃えている部分のみ払い落としてしまえば無駄が出ることもない。

 グッドアイデアだ、と言ったら別れ際にスモークチップを数個おみやげにくれた、見ればアメリカ製の商品で彼らにとってはそれなりの貴重品ではないかと思われたが、自分たちが役にたてて嬉しいという意志表示であると思われたのでありがたく受け取ることにした、国こそ違え彼らはまさしく映画のプロであった。




白煙師

6日目


  中国に来たからにはやはり食べ物について語らないわけにはいかない(?)だろう

 私としては食に関しては比較的楽観視していたのだった。
 とりあえず中華料理が好きであるし台湾、シンガポールといった中華系の国では不自由はなかったからだ。
(もちろん日本で食べる中華料理が好きということに、実際的な意味があるかどうかは疑問だろう、日本に来るにあたって日本料理が好きかどうかは関係ないし、フランス料理が好きかどうかがフランスに滞在するにあたっての問題になるかどうかは-行ったことが無いのでわからないけど-疑問なのと同様である)
 
 特に台湾ではわずか半月の間に5キロも太って帰ってきたほどであるがしかし、考えてみれば台湾の撮影では日本人は招聘された操演部の2名だけ、食事はたいていプロデューサーか監督の御相伴だったから特別待遇だったのですね、食べにいった店もけっこうなところばかりだったのだろう、うまいのはあたりまえかもしれない。
 
 今回はそういうわけではない、基本的には庶民レベルのお食事ということだ、するとどうなるか?

 大観園では日中はロケ、日没後は建物内部での撮影である(ロケセットと言う)為に昼食・夕食ともに弁当ということになる。
 弁当は毎食宿から運ばれて来るのだが、朝食をすべて同じメニューにして恥じない(?)石化療養院のことこれがまた唖然とするワンパターン、すべていためものをご飯にかけた「ぶっかけご飯」なのである、昼、ほうれん草(だろう)に鶏肉(たぶん)をいためたものだとすれば晩はチンゲン菜(かな)に畜肉(なんだろう)のいためたもの、という具合である。

 いったいに中国人というのはどんな食べ物でも油でいためなければ気がすまないのではないだろうか。
 (アメリカ人が「日本人はなぜなんにでも醤油をいれるのだ」と言っていたのはこういうことかもしれない)

 ここで公平を期して言えば食事はけっして「まずい」というわけではない、否「これいけるじゃん」というものも多くあった、問題は総体としてバリエーションがなさすぎる-油まみれじゃないご飯をたべさせてくれ!-というに尽きるのだ。
 
 朝はパンにベーコン、昼はテンプラそば、夜はイタ飯、などというバリエーションあふれる食事に慣れきっている我々は世界でも例がないくらいぜいたくな国民なのかもしれない・・と思いつつ、冷えた油の海に沈んだ米をすくいだして食べていると実にもの悲しい、せめておかずを別に盛ってくれないだろうか、これじゃお茶づけにもできないのだ。

 (ところで、キャストの食事だけはなんと日航ホテルから運ばれてくる仕出し弁当なのであった、これは許さないぞ!というのは制作側の姿勢のことだけど。
 キャスト様にはとても食べていたたけない食事でも、スタッフならかまわないという差別意識はどっから生まれてきたものだろう?)


7日目


 今日は周庄ロケ、ロケバスに乗って田舎道を行く、道の両側には田んぼがひろがり、ほこりっぽい道を自転車やトラクターがいそがしげに行き来している。
 子供の頃の家のまわりを思い起こさせる風景である、私は生まれてこのかた住むところが50メートルくらいしか移動していない地元の定点観測者だが、今、あたりの工場とマンション群をこの目で見ていると、そこに昔の風景を重ねあわすことはとうていできない、まるで違う国の違う時代の記憶があるような気分だ。
 日本がいかに近年猛烈なダッシュをしたかという証左だろう、こうして子供があぜ道を走りまわっている景色をながめているとついそんなことを考えてしまう。
 だからなんだというわけではないのだけれど。

 日本にも昔、活動屋が肩で風をきって歩いていた黄金時代があったらしい、中国ではまだ映画の撮影というのは特権的な作業なのだろうか。
 ロケ先での人よけを中国人スタッフにたのむとやたら高圧的なのである、よそ様の生活の場で撮影しているのだからもっと低姿勢でのぞむべきだと、いまやどこへ行っても厄介もの扱いの我々は思うのだが、町のメインの通りを平気で遮断し、文句を言う老婦人を突き飛ばしたりしている、たのむからやめてくれ。

 ここは猪八戒が人間であったころ住んでいた村、という設定である。
 欲望に溺れた八戒はやがて妖怪となり村は荒廃する、美術スタッフは撮影すんだ市場のセットをおおわらわで廃墟にかざりかえる、屋台を破壊し、残骸をまちきらす、40体ほどの骸骨をあちらこちらに配置し真綿で蜘蛛の巣を張る、石畳の地面が明るくてそれっぽくないなあ、と日本のスタッフがいったところ中国側美術スタッフいきなり道に墨汁を撒き散らす、いいんだろうか(よくないって)

 かくいう私も「本番いきます」、という声とともに四塩化チタン(助監督が無事持ち込んだやつ)をあちこちふりまく、骸骨から妖気たっぷりの煙があやしくたちのぼる、刺激性の体によくない煙は周庄の町いちめんにたちこめる。


8日目


 毎日よい天気が続いている、日中はとても暑い、中国は寒いというような印象をもっていたのだがもちろんこれは私の認識不足である、中国は広い、そして上海は鹿児島より南に位置する。
 
 さて上海に着いてからずーっと快晴がつづいている、日本人スタッフはロケというと必ず天気を気にする、第2の本能のようなものであり、予定表にはかならず天候欄がある、晴れの場合と雨の場合の2通りがある時これを「両天がかかっている」と言う、たとえそれが[雨天中止]でも、[不拘](かかわらず、と読んでください)の場合でも、とにかく「雨が降ったらどうするか?」は重要なことなのだ。

 撮影開始当初はもちろん予定表には雨予定が書かれていた、そして皆「明日の天気はどうだろう?」というような話をしていた、ところが中国人スタッフに聞くと必ず「明日は晴れだよ」という答えが返ってくる、「どうしてわかる?」と聞き返すと「今日こんなに晴れているじゃないか」と言う、「ホントかよ?」と始めは思っていたが確かに毎日判でおしたように良い天気がつづくのである、しばらくするとチーフ助監督も予定表に雨予定を書き込まなくなってしまった。
 どうやら中国では、すくなくとも上海では天気はゆっくりとしたサイクルで変わるもののようである。
 
 日本人のやたらと勤勉かつクソまじめといった国民性は、気候風土がつちかったものであろう、人を追いとばすように変わっていく季節や、明日の天気を誰も保証してくれないこの気象が「今日できることは明日になんとやら」ということわざを生むのだ。

 今日晴れなら明日も晴れ、で済む国とは長い年月のうちには大きな違いがでてくるのは当然かもしれない、すくなくとも彼らには「無理なスケジュールでも突貫工事で間に合わせよう」という習慣はないようである。

 毎日遅い、夜1時、2時まで撮影が続いている、深夜になるとさすがに冷える、大観園は夜になると真っ暗である、しかし夜空をみあげても期待したほど星はみえない。





 というところで日記は終わっています、まだほとんど何も起こっていないと言えるでしょう。

 これから後、我々は西安に移動するのですが、乗るはずだった飛行機が落ちた(!)ため、オンボロバスをチャーターして十数時間の苦行の旅に出るはめになります(東京から鹿児島までバスで行くと思ってください)

 そのバスはスタッフ車とキャスト車に分かれており、私は人数の関係でキャスト車に乗ったものの手違いで弁当の数が足りず、スタッフとキャストを異常に差別する制作部が私に弁当をよこさなかったので私が怒り狂ったとか。

 スタッフ車は途中道に迷い、深夜片側は千尋の谷、道幅はバスの全長ギリギリでガードレールもないという場所で方向転換し始めたため原口氏がパニックを起こし窓から飛び降りようとしたとか。
 
 早朝、トイレ休憩と称して街道沿いの集落で停車したはいいけど、共同便所と称するものは腰高のレンガが積まれただけの、屋根もない吹きさらしの場所で、その囲いのなかの地面で大小を適当にするという仕様は男はともかく女性陣にはとても耐えられるものでなかったとか。

 西夏王朝の古墳でロケをしたりとか。

 西安で100種の餃子を喰わせる店に行ったけれど、一個一個が小さくて(相対的に表面積の割に体積が小さい)皮ばっかり食べているのと変わらなくて35個しか食べられなかったとか。

 西安から銀川に飛行機で移動したとき、乗った飛行機では例の救命具の使用説明はあるものの実際には救命具が無い席があるとか、それどころか安全ベルトがない席があるとか、それどころか背もたれが壊れていて体重をかけるとそのまま後ろに倒れてしまう座席があってその席の奴はずっとベンチに腰掛けるように座っていたとか。

 銀川から移動した中衛はゴビ砂漠の南の端で、砂漠のシーンを撮ったいいけれど完全防御の冬支度が必要なほど寒く、羽毛のジャケットに身を包んだスタッフの見守るなか、あ~暑い、なんて芝居をする役者は大変だったとか。

 砂漠の真ん中で突然の吹雪に襲われて遭難しかけたとか。

 砂丘のなかに、高さ1~2メートル、幅数メートルのあきらかに砂漠の砂とは質感の違う石が積み重なった帯が延々と、それこそ地平線の彼方から連なっており何だと思っていたらこれが万里の長城の南の果の、とうの昔に朽ち果てた名残であったとか(そのかけらを数個ポケットに忍びこませたとか)



左奥から右手手前までつづく長城の残骸、右手の小高い丘は砦の跡です、諸行無常


 黄河の上流をいかだを使った渡し船を利用して渡ったとき、船着き場の脇にひなびた店が1つあって、そこは十畳一間の片隅にショウケースがあって袋菓子とビールが置いてあり、部屋の中央にはいろりがあってあって火がおこされており、窓の少ない壁際には寝台がしつらえてあり、ようするにそこはそこに住む老夫婦の店であり居間であり、台所であり寝室であったとか。
 そこになだれ込んだ我がロケ隊は店の全ての商品を食べ尽くし、ビールを飲み干し、多分何日分の、あるいは何週間分の売り上げを一気にもたらしたと思うのだけれど、この傍若無人な仕業をこの枯れたような老夫婦がどう思ったか心配だったり。

 中衛のホテルはそれなりの立派なところではあったけれど、例によって出される食事はみな油で炒めたもので、ある日皆で相談しコックに「目玉焼き」を出してくれと注文したのはいいが、彼にとって単に卵を割って焼いたものは料理に見えなかったのか、翌朝我々の前に現れたそれはしっかりと甘酢あんかけになっていたとか。

 深夜屋台で食べるジンギスカンはさすがにうまかったとか。

 沙悟浄出現のエフェクトで窒素ボンベを現場に持ち込みごぼごぼというカットを撮ったものの、案の定、行きは(無いと困るから)手伝ってくれた人間がバラシになるといなくなり、黄河のほとりで窒素の9000リットルボンベをかかえて私は途方にくれたとか。

 ロケがすべて終了して美術部が機材をトラックに積もうとしたら、トラックの運ちゃんが上海で売って小遣いを稼ごうと買い込んだ米が荷台の1/3ほども占拠していてもめたりとか。

 殺陣の二家本氏(ウルトラマンシリーズの殺陣師ですが)は向こうで雇ったアクションチームになめられちゃいかんとばかりに張り切って、吹き替えで肋骨にヒビが入るほどの怪我をして、それでも弱音を吐いたら恥とばかりに無理をして、立ち上がるとき自分の助手2人に抱えあげられるほどにもかかわらず、最後まで陣頭指揮をしていたとか。

 日本に帰って、ブルーバック撮影に入った時、キン斗雲のシーンで人手が足りなくなり特撮監督が樋口真嗣を騙してスタジオに呼び寄せ、絵コンテ仕事だと思って(その前に「ウルトラQザ・ムービー」の仕事をしたばかりだったのですな)スケッチブックと鉛筆を持ってやって来た樋口氏にジェットファンを持たせたものだから目一杯ムクれていたとか。



 ちゃんと書けば面白い話は山のようにあるのですが、なにしろ大移動を含めたロケーション主体の作品であるところへ持ってきて、一人所帯の操演部で、おまけに制作体制がなってないという3重苦のため記録などまともに取れる状態では無かったのです。

 他にも、砂に埋まった寺院とか、人力車とか、地下道の見せ物小屋とか、地平線まで続く道路と電信柱とか、踊る人形のついたラジカセとか、北京ダックとか、人力の自動ドアとか、印象深いところが泡のように、前後の脈絡なく、浮かんでくるのですが、それらがいつ、どこで出会った物であるかも定かでなくなっているのが残念でなりません。

 ひどい目にあった作品は面白い話もまた多いということです、今後はこりゃひでえというような作品に出会ったときには、せめては「操演日記」化してやるぞと思って記憶に刻み耐え忍ぶことにしたいと思います。