2022
ゴジラを初めとした東宝特撮映画を観て育った私は日本の特撮最高、ミニチュア技術世界一と単純に信じていた、世間の評判もマスコミも、もちろん東宝宣伝部もそのように喧伝していた時代でもあった。そこに黒船のように現れたのがジェリー・アンダーソン率いる21センチェリープロだ。特にサンダーバードの斬新でユニークで精密なメカ、それらを華麗に操るミニチュアワーク、迫力満点な火薬効果、災害救助専門の組織が陸海空を網羅する専門のメカを用意して、地球上のどこへでも急行するという設定。それを運営するのは世界的大富豪で協力者はイギリスの貴族であるなどといった昭和40年台の少年からすると目のくらむような別世界感に私は完全にやられてしまった。あきらかに次元が違っていたのだ。
私がのちに操演というミニチュアワークと火薬効果を担当する職業についたのはサンダーバードの影響が大きい(と思われる)
技師としてパートのトップに立ったとき私が思ったのはサンダーバードに追いつけ追い越せというものだった。
ここだけの話、と天下のインターネットで言うのもなんだが、サンダーバードを見ていた頃、小うるさい特撮少年だった私は日本特撮の火薬効果が非常に不満だった、つまりは「何が爆発しても似たり寄ったりの効果じゃないか!」というものだ、サンダーバードを見てみろよ鉄塔が破壊されれば火花が散り、爆発が地上で起これば土砂が飛び、石油施設が爆発すれば炎が吹き上がるじゃないか、そうあるべきだろう、日本の火薬はなんで星かナパーム(という言葉を知ったのは後のことだが、要するに手持ち花火の火花のような効果か、ガソリン爆発)の2択なんだよ!と不満を抱いていたのだ。
以来、研究と工夫を重ね火薬効果についてはいいところまで迫ったという自負はあるが、ミニチュアワークに関しては追いついた実感はなく、CG全盛になった今手間のかかるミニチュアワークは絶滅の危機に瀕している。
・・・とまあそのように思い入れのあるサンダーバードがリメイクされたのだという、それも当時とまったく同じマリオネットとミニチュアワークで制作されたと言う、これを観にいかないということがあっていいものだろうか(ない)
と勇んで出かけたのだが。う~~ん? という出来だった。一番問題なのはミニチュア、それもサンダーバードのウリであるはずのゲストメカが出ないことだった。サンダーバードはレギュラーである1号から5号の他にゲストメカと呼ばれる各話専用のミニチュアの活躍が見せどころだった、1話ではマッハ6で飛行する原子力超音速旅客機「ファイヤーフラッシュ」、2話は4本足で移動する全長200m(!)の多脚戦車「ゴング」などだ、彼らは一応の活躍を見せたのちもれなく事故に遭って国際救助隊のお世話になるのだが、そこで救助のために登場するのが特殊救助メカである。着陸脚を出せなくなったファイヤーフラッシュに対しては機体と滑走路の間に入ってクッションとなる「高速エレベーターカー」深い穴に落ちたゴングを助けに向かうのはドリル戦車「ジェットモグラ」だ(※ジェットモグラは救助対象が地下にあった場合に使う汎用の機械だが、高速エレベーターカーは胴体着陸するハメになった航空機を救うためだけの専用メカである、そのようにピンポイントな専用メカまで用意している国際救助隊はどれだけ多くの専用メカを用意しているのだろう?)
TVシリーズ第1話「SOS原子旅客機 」より高速エレベーターカー
サスペンション付の車軸に空気入りのタイヤ
こんなミニチュアは日本の特撮で見たことがない(--;)
そのレギュラーメカも今回作り直したのは1号と2号とペネロープ号だけのようで、その1号2号の出撃シーンも当時のフィルムを流用している、では何が新作なのかという話だが、つまりは「ペネロープ大活躍の巻」というものでしかない。トレーシーから依頼を受けたペネロープが世界各地に起こる怪事件解決に向かう(しかし!意外に無策なので)ピンチに陥る、スコットとバージルが応援に向かう、という話なのだ、せっかく作り直した1号、2号、ペネロープ号はただの足でしかない。メカが活躍しないサンダーバードはサンダーバードではない。ということで期待が大きかったぶん失望も大きかった、これを鳴り物入りで喧伝する人たちの気が知れない。
企画の問題の他に失われたノウハウというものも気になった、映画の初めに監督が顔を出し「トレーシー島のラウンジは当時の映像を3D化しミニチュアのサイズを割り出してまったく同じに作った」と言っている、ラウンジだけでなく新作のメカも、新たに作られたマリオネットも旧作のフィルムと直結して使用して違和感のない出来になっている、相当に正確かつ精密に再現したのだろう。しかし!撮影方法が追いついていない。トレーシー島のテラスで会話する人形たち、背景のホリゾントの下のペラペラする青いビニールシートのようなものはひょっとして海のつもりなのか、ペラペラしているのは波の反射のつもりなのか、というような部分が散見するのだ、もしかするとかつてのシリーズもそうやって撮っていたのかもしれないが、それはしかるべきノウハウ、ライティングだとかフォーカスだとか、の上に成り立っていたのだと思う。
そもそもサンダーバード当時21センチェリープロは油の乗りきっていた時期だ、前身のAPプロダクション設立から10年、「スーパーカー」「宇宙船XL-5」「海底大戦争ースティングレイ」 とマリオネーションとミニチュアワークをウリにした作品を立て続けに作った後でそのためのノウハウが蓄積していたはずなのだ。しかしそれから半世紀が過ぎた、ハードは作り直せてもノウハウは取り戻せなかったのだろう。
やりようによっては残しようもあっただろうノウハウより更に貴重な技術も失われている、それは職人技だ、マリオネーションとミニチュアワークは個人に属する職人技であって体で覚えていくしかない技術だ、なので一旦作品が途絶えると一朝一夕には復活できない、そして今回の作品はまさしく一朝一夕に作られたものだ。かつてフレームインしてきたサンダーバード1号が空中で華麗にターンし揺るぎもせず着地していたことを覚えている私としては、ゆらゆら揺れながら降下してくるミニチュアを見てこれはダメだ!と思ったのだ。
「half-life Alyx」というVRゲームの一つの完成形(ゲーム内に存在するオブジェクト全てに物理演算が適用され、瓶を取り上げれば中で液体が揺れ、机の上のサインペンを手に取れば字が書けるというハイレベルな仮想現実感)をプレイしてしまうともうやってみたいと思えるゲームがない。
Aliyxはもう3周してしまったしせっかく整えたVR環境だしどうしようかと思っていたのだが、前から気になっていたこのゲームがウインターセールで安くなっていた(¥3000→1000)ので購入した。VR専用のゾンビ撃ちゲームである。
これの何が気になっていたかと言うと舞台がアリゾナだということだ、ゾンビ撃ちゲームは山ほどあるがたいていは廃墟だとか地下道だとか暗くてジメジメした場所が舞台だ、しかしこのゲーム、トレーラー映像を見るとどうやら違うらしい、安くなったしダメ元でやってみるかと始めたのだがこれが大正解だった。
なにしろ明るいのだ、抜けるような青空と照りつける太陽と赤茶けた乾いた大地、そこにゾンビがうろうろしているのだ、ゲームでも映画でも見たことがない風景である。そこを主人公が(自分なのだが)アメリカンジョークを飛ばしながらひたすらゾンビを打ち倒して進んでいくのだ、ユニークというだけでは言い尽くせない奇妙な魅力がある。
アクションゲームには自信のない私なのでゲームバランスはEASYを選んだ、このモードの故なのか弾薬が無尽蔵といっていいほど手に入る、路上に放置されている車のトランクを開けると、あるいは民家の机の中で銃の弾がやたらと見つかるのだ、日本ではありえないがアメリカだしアリゾナだしということで違和感はない。その豊富な弾数をたよりに両手にマシンガンを持ち、襲いかかるゾンビを片端から打ち倒す爽快感はいままでのゾンビ撃ちゲームと一線を画す。
舞台はハイウェイから始まって鉱山、山間部、鉄道ターミナル、製油所、放送局と移り変わり、ちょっとしたアリゾナツアーの趣がある、とあるゲームレビューで「VRによるアリゾナ観光であり、観光ついでにゾンビを倒すゲームと思えばよい」というものがあったがそのとおりである。まあフォトリアルなテクスチャーと物理演算のAlyxと違い、とうてい「仮想現実」などと言える環境ではなく「一人称視点の3Dゲーム」でしかないのだが、高い崖の上から谷底をのぞき込むスリルなどはVRならではと言えるだろう。
PlayStation版もあるらしいのでお勧めする、と言いたいところだがPS版は5000円もするので強くは推せないのだった(--;)
追加コンテンツである。お話は本編の前日談、ゾンビを一掃するための核ミサイルを撃たねばならないが通信途絶しているので誰かがミサイル基地に入り発射スイッチを押さねばならぬ、その役はおまえしか出来ないと言われた兵隊さん(プレイヤー)がゾンビだらけのミサイル基地に侵入するお話である。
よく出来ているのだが舞台が暗く狭く陰鬱な地下施設でありアリゾナサンシャインの爽快なテイストはない、主人公もジョークを飛ばしたり余裕でボヤいたりしていた本編と違って、家族のために俺はやるんだなど(フラグ立たせまくりの)危機感ありありで、ゾンビものってそういうものなのではあるが、普通によくできたゾンビ撃ちゲームになってしまっているのは惜しい。
追加コンテンツその2である、ダムがゾンビに占拠され発電が止まってしまった、電力を取り戻すためには誰かが発電区画まで行って再起動しなくてはならない、その役はお前しか出来ない、と言われた兵隊さん(プレイヤー)がゾンビだらけのダムに侵入し・・・以下略というお話である。
途中ダムの側面の狭い通路に出て、あまりの高さに「うひょ~」というシーンがあるだけマシだが(黒部ダムの谷側の側面に身一つで出されたと思っていただきたい)他はほとんど暗く狭い内部施設なのは惜しい、せっかくのVR環境なのだからそんな生理的嫌悪感だけでなく高所恐怖のような本能を刺激するスリルも活かすべきではないだろうか。
小説「火星の人」(リドリー・スコット監督、マット・ディモン主演の映画「オデッセイ」の原作と言ったほうが通りがいいかと思うが)の作者アンディ・ウィアーの新作である。「火星の人」は事故により火星上にとり残された宇宙飛行士が科学的知識を駆使して救助隊が来るまで生き延びる話である。ジャンルとしてはハードSFで知的な面白さに満ちており充分に面白かったが、その科学的な厳密さがお話のダイナミズムをスポイルしている部分があった。言うまでもなく火星は人類には厳しい環境であり準備なしで放り出されれば人はたちまち死亡してしまう、なのでお話にはあらかじめ「絶望的な状況に見えるが頭を使えばなんとかなる」という設定がなされている。アンディー・ウィアーの本業は物理学者であり作家は余技であるので仕方ない部分もあるのだろうが、そのへんの仕掛けが隠しおおせておらず読み進めていくうち「予定調和」という言葉が頭をよぎるようになってしまうのだ。面白いがとても面白くはないというのがこの小説の正直なところだった。
(最近「ラーメン才遊記」という昔のグルメマンガを読み返したのだが、その中でラーメンはフムフムではなくワクワクであるべきなんです、というセリフがあった、この小説は知的好奇心を刺激するフムフム感に満ちているもののワクワクすることがない、現代のロビンソンクルーソーといった冒険小説でもあるのでもうすこしワクワク感があって欲しいと思うのだ)
とうことで本書である。ちょっとお堅いアンディー・ウィアーだが今回はどうかな~と思い読み始めて驚いた。
JAXAの太陽観測衛星アマテラスが太陽の光度が急激に下がっていることを発見する、恒星である太陽は変化するとしても何百万年といった単位で変わっていくはずで数年で観測できるような変化があるはずはない、しかし以後9年で1%、20年で5%太陽の出力が減少することが判明した、級数的に減少しているのだ、このままでは地球はあっという間に氷河期となり人類を含め地球上の生物はほとんどが死滅してしまうだろう。一方太陽と金星の間に赤外線を放射する謎のエネルギー帯が発見され、これから放射されるエネルギーが級数的に増加していることが判明する、明らかにその帯が太陽のエネルギーを奪っているのだ。
人類の存続に関わることでもあり国際的な協力がなされわずか1年で金星に無人探査船が送り込まれる、探査船が金星を周回し採取した試料の顕微鏡映像を見た者全てが驚愕した、試料の中に直径10ミクロンほどの黒い粒がありそれは生きて動いていたのだ、地球外生命体である。彼らは金星の炭酸ガスと太陽エネルギーで繁殖しているのだ。
その知見を元に太陽系近傍の恒星をチェックするとそのほとんどで出力が低下していることが判明した。宇宙を喰うもの「アストロファージ」と名付けられたこの生命体は他の恒星系でも繁殖しそのエネルギーを奪っていたのだ。しかし地球から12光年離れたくじら座の恒星タウ・セチだけは光量の減少が見られなかった。
タウ・セチにはアストロファージの繁殖を防ぐ何かがあるに違いない、その可能性に賭けて宇宙船「ヘイル・メアリー」が建造され3人の科学者が乗り込む、往復する燃料を積む余裕がないので小型の無人ロケットが結果だけを持ち帰る片道切符の旅である。
※「ヘイル・メアリー」とはアベ・マリアと同義でアメリカンフットボールの試合終了間際、負けているチームが一発逆転をねらって投げるロングスローのことを言う、つまりは「神頼み」、アメフトの中継で解説者が「ヘルメリーパス!!」と叫んでいるのを見ることが出来る。
面白そうじゃないか! 太陽の光度低下、氷河期の到来、人類滅亡の危機、地球外生物、恒星間宇宙船、どれか一つでも充分ワクワク出来るSFチックワードの羅列である、しかも書くのはアンディー・ウィアー、読んでがっかりさせるような非科学的描写があるはずもない、やれば出来るじゃないかアンディ、ラリイ・ニーブンでも降臨したのか(←失礼な話である)
と思って読み進めていくと上巻の半分のあたりで更なる驚きが待っていた・・・・のだが、これを書くわけにはいかない。「ここへ来てこうくるのか?マジか!」という驚きがこの小説の最大の見せ場であろうからだ。作者もこの衝撃を充分に意識しているようで全700頁あるこの長編小説のわずか1頁で急展開が完了するのだ、このドライブ感は見事である、安定感はあるが若干退屈な小説作家とか思っていて悪かったよアンディー。
ということで書けるのはここまでである、お勧めする、特にハードSF好きならば必読と言ってよい。どこかでネタバレを目にしてこの急展開のワクワク感を失ってしまう前に読んだほうがいいだろう。
この映画の存在を知ったのは映画館のロビーに置いてあるチラシだった、そのチラシもロクに目を通さなかったのでこれが誰の作ったどんなタイプの映画であるかまるで情報はなかった、それでも観に行くつもりになったのは「怪獣」という単語がタイトルに入っていたからだ。私は今までに約50本の映画とほぼ同数のTVシリーズに参加しているが、特殊効果・操演という職業柄そのほとんどが特撮物でありその過半数は怪獣物である、そしてTVシリーズは毎週新怪獣が登場するので4クール放映すれば1シリーズで50体の怪獣と顔を合わすことになる(最近は使い回しも多いが)つまるところ私のキャリアは怪獣と共にあったと言ってよい。怪獣はお友達なのだ、マブダチと言っても過言ではないだろう、なので死んでいると聞いてほうっておくわけにはいかないのだ。
さて観にいくと決まれば事前情報など必要ないということで以降何の情報もないままに公開日を迎えた、しかし公開されればどうしても評判、感想は耳に入ってくる、そしてそれはひどいものだった。ちょうちん記事が多くあの映画でこの高評価って何だ!評論家として恥を知れ!!と憤りを感じるほど大甘な映画評ばかりの昨今、この映画は誰も褒めていない。
それどころか。
滑りまくりのギャグや、現実味ゼロの政治・軍事描写。リアリティが全くない脚本、人間描写。一つもお客さんの期待に応えていない
(中略)世界ダメ映画選手権というのがあったら、これに勝てるものがあるとは思えません
映画評論家 前田有一
豪華キャストが学芸会で集められて闇鍋にブチ込まれたようなカオス作品(中略)各方面でボロクソに叩かれている本作をPRしなきゃいけない山田涼介くんや土屋太鳳さん。完全な罰ゲームです。一体彼らは前世でどんな悪事を働いたのでしょうか?
CineMag
など、酷評というだけでは足りず怒りさえ感じる評論が多い。
また「令和のデビルマン」という意見もあった、知らぬ人のために言うと2004年に東映が製作した映画「デビルマン」はその出来の悪さの故にマニアの間で史上最低の映画と呼ばれており「デビルマンのような」というのは最大限の侮辱なのだ、しかしこれと並べてはデビルマンがかわいそうである。
ここまで言われる映画ってどんなだと私はむしろ興味を引かれた、そして早く行かねばとも思った、ここまで悪評だと公開がたちまち打ち切りになる恐れがあったからだ、実際近所のシネコンは公開当時は1日5回上映だったが、観に行こうと思って時間を調べると4回になっていた、次の上映サイクルから3回になるようだ。
さて、あの監督の新作なので、あの俳優が出るので、そのジャンルは絶対見逃せないので、と情報がほとんどない状態でも観に行く映画はあるだろう、しかしそれがどんな映画であるかについて予想くらいはするはずだ、というかそれをするほどの興味も湧かない映画であれば休みの1日を費やして劇場に足を運び、1000いくらかの料金の支払をすることは出来ないだろう。
では私はこれをどんな映画であると思っていたのか。まずはタイトルである、「大怪獣」というからには特撮物であり「あとしまつ」というからにはその怪獣はすでに死んいるのであり、「この死体どうする?」というサブタイトルから、登場人物達が迷惑ゴミと化した怪獣の後処理におわれる話であろうということは読み取れた。
多くの怪獣物は怪獣が人類に(あるいは銀色の巨人に)倒されたところでめでたしメデタシとなって終わってしまいその後のことはスルーだが、たしかにこれは重大な案件である。
目のつけどころはいいかもしれない、きっとこれはシン・ゴジラのような映画に違いないと私は予想した。
シン・ゴジラはゴジラという超大物が出演しているがそれはいわば「特別出演」枠であって主演ではない、これは制御不能な災害に見舞われた政治・官僚組織がなすすべなくもなく空転し、右往左往する様を描いたポリティカル・フィクション(政治的風刺物語)なのだ。
おそらくはこれの二番煎じ、手のつけようもない生ゴミを前にして各省庁がその責任を押しつけ合うお話なのだろうということだ。
その予想は当たっていた、怪獣の死体はきわめて魅力的な観光資源でありインバウンドも○億円見込まれます、というと各省庁が手柄を自分のものにしようと画策し、内部にガスが溜まりそれが爆発すると重大な健康被害の恐れがあると聞けば、みな責任を押しつけ合うという展開は充分に予想されることだった。予想外だったのはこれがポリティカル・フィクションでもなんでもなく、ただひたすらに騒々しいスラップスティックなコメディだったことだ。
私はコメディが趣味ではない、漫才もコントも好きでは無い、しかしこれはコメディと漫才とコントをごた混ぜにした何か CineMagの言説を引用するなら闇鍋のような何かであって1ミリも面白くない。
先に引用した評論を読んでいただければわかると思うが、これは私がコメディが好きではないために面白く感じられないというわけではないだろう、ただただ騒がしく下品なギャグが滑りまくるのだ、これはヒドイと思いついにはどこまでヒドイのか見届ける必要があるだろうと気合いが入ってしまったくらいヒドイ映画だった、ラストのオチも、「そうだと思っていたがやはりそうだったのか!と」思われたいのか、(まさかとは思うが)「おおそうだったのか!」と思われたいのかも判然としない。
まあわかりやすく史上最低の映画だったと言えるだろう。
デビルマンは長く史上最低という名をほしいままにしていたのだがついにそれを下回る作品が登場したのだ。
と言ったところでなんだが、私はデビルマンがそれほどひどい出来だったとは思っていない、デビルマンという最高のネタをあんな下手な映画で消費しやがってという義憤がその評価を歪ませているのではないかと思うのだ、虚心坦懐に観ればあの映画は普通に駄目な特撮映画である。
そして実は、本当の史上最低の特撮映画はアレだ!と私が長年密かに思っている映画がある、そしてそれはなんと私の参加した映画なのだ。『認知的不協和=あれだけ苦労したのだからあれが不出来なわけはない、と思い込み正確な判断を失ってしまう心理』を総動員しても(!!)どうしても最低な映画としか思えない映画があるのだ。史上最低の映画(私的ランキングで)の製作の片棒を担いでしまったと長く思っていたのだがこれでその呪縛から逃れられるかもしれない、私はもはや史上最低の映画のスタッフではないのだ、なので最大限の諧謔と揶揄を込めてこう言おう、ありがとう「大怪獣のあとしまつ」
お台場にあるダイバーシティは(表にガンダムが立ってはいるが)中は普通にショッピングモールである、そのモールの中に2カ所VRを利用したアトラクションが入っている。1つは「hexaRide」、hexaRideは搭乗者をコンテンツの世界へと連れていく空間転送装置。世界で初めて開発されたVRライド型アトラクションは6軸プラットフォームで制御され圧倒的な臨場感を生み出します。とサイトに書いてある。もう一つは「TYFFONIUM」 こちらは VRを超える次世代MRアトラクションを体験できる、世界で唯一のアート・エンターテインメントシアターです。となっている。なんのことかわからないと思うが、hexaRide はVRヘッドマウントディスプレイを付けた観客が前後左右上下に動く椅子に座り(固定され)VR映像を楽しむエンターテインメントである。TYFFONIUMにはいくつかメニューがあるのだがヘッドマウントディスプレイを付けた参加者が実際に自分の足で仮想現実の世界を歩いて回る「corridor」というコンテンツが一番の売りである。
さてVR、ヘッドマウントディスプレイで仮想現実を体験する技術はかなりの域に達している、人は外界を認識する情報の85%を視覚から、10%を聴覚から得ていると言われている。つまり人は圧倒的に視覚優先の生物であり、外界の認識をほぼ視覚、聴覚に頼っていると言ってよい、そして現在VR技術はこの2つをかなりの精度で人工的に生成出来る。私はこのことを2年前に発表されたVR専用ゲーム「Half-Life:Alyx」で実感した。フォトリアルに描写された東欧の街、そのアパートの一室の机の上に置かれたペンは手に取ることができ、キャップを取ればメモ帳にもガラス窓にも字を書くことが出来る、キッチンに入って冷蔵庫を開ければ食料品(だと思う、キリル文字なのでなんだかわからないが)が入っているし手に取れる。ワイン瓶を持って振れば中でワインが揺れ、瓶を机に当てれば固い音がするし強く当てれば割れてワインが床にこぼれる、割れたガラスの破片をつまみあげて投げれば放物線を描いて飛び壁に当たって落ちる。完璧である、世界がそこにあり自分がそこ居るとしか思えないのだ。た・だ・し、移動しなければ。
そう移動が問題なのだ、現在VRゲームではゲーム内での移動を「スライディング」か「ワープ」という技法によって行っている、スライディングは手に持ったコントローラーのジョイスティックを倒すとそちらの方向に移動する方式でモニターを使ったTVゲームと変わらない、しかしこれをVRで行うと酔う、実はTVゲームでも視点を一人称にすると酔う人はいるのだが、ゲームのグラフィックがポリゴンを使ったリアルな表現になってから起こり始めた現象で「3D酔い」と呼ばれている。
吐き気がするので「酔い」と言われているがこれが本当に「酔い」なのかどうかわからない。以前書いたが人は身体感覚と視覚情報に齟齬が発生すると自分が幻覚を見ていると判断し、その幻覚の原因は食べたものによると判断し、原因たる食べ物を排除しようと吐き気を催すと言う説があるのだ、この風が吹けば桶屋が儲かる的考察が正しければ(了承しがたい部分はあるが)これは酔いではない。
ともかく視覚的には自分が移動しているにもかかわらず、三半規管を初めとした身体感覚が移動を感じない場合3D酔いが発生するらしい、これはTVゲームを主観でプレイすると酔う人も客観視点(ゲーム画面に自分が登場しそれを背後から見ているモード)では酔わなくなることからあきらかだ。つまり画面が揺れているとか前進しているということ自体が問題なのではなく、見えている画像=自身の視覚、と脳が判定すると3D酔いにつながるということだ、ならばこれは人の体の生理的/機能的な問題ではなく心理的な問題なのかもしれない。しかしモニター越しのゲームならともかくVRで客観視点はありえない、ヘッドマウントディスプレイ内の映像=自分の視覚というのがVRの本質だからだ、なのでVRでスライディング移動を行うと酔う、TVモニター越しではまったく3D酔いをしない私もVRでスライディングしていると吐き気を感じる、これは重大な問題である。
そこでVRゲームでは「ワープ」という移動方法も用いられる、これはコントローラーのタッチパッドに触れるとゲーム内の地面に直径1mほどのリングが現れ、指を滑らすとこのリングが地面を移動していき、指を離すと自分がそのリングの場所に移動するという方式である、短距離ワープというわけだ。これだと3D酔いは起こらない。しかしそこがどのような風景、場所であっても現れる光のリングがリアルな仮想現実感をスポイルするのは明らかだ。
というわけで「移動」はVRにおける重大にして本質的な問題なのである。
これを解決する方法は2つある、1つは本当にプレイヤーが足で移動すること、自分で歩けば酔わないのは当然である。もちろんこれは言うはやすく行うに難い、私は自宅に6畳ほどのVRプレイエリアを確保しているが移動できて数歩である、6畳の何もないスペースというのは個人プレイヤーにしてみればけっこうな贅沢だと思うが、ナイフを振るってゾンビを切り裂いたり、手榴弾を敵にむかって投げたりする都合上(!)体の周囲には充分なスペースが必要でそれを考慮すれば歩ける範囲はきわめて狭くなるのだ。なので自由な移動となればかなりのサイズのプレイエリアが必要となる。
もうひとつの方法はコンテンツの内容を着座で楽しむ内容(乗り物に乗っているなど)にしてその座席を画像に合わせ動かすという方法だ、これも個人で用意するのは不可能である、つまり個人プレイには限度があり今以上にリアルな仮想現実感を得ようとするなら専用の施設が必要ということだ。
そこで TYFFONIUM と hexaRide なのである。この2つは、いち商業施設のいちアトラクション、そこらのゲームセンターよりよほど小さい遊戯コーナーなのだがVRの未来を占う上で重要な意味を持っている(かもしれない)
というようなわけで訪れたダイバーシティだがこれが実に閑散としていた、ショッピングモールとはいえ生活圏にあるそれと違って平日午前中から人が集まる場所ではないのだろう。開放感のある吹き抜けとその回りに連なるファッション中心の店舗というモールらしい風景の中にTYFFONIUMはある、ここでいきなりVRつうて人入るのかと思うが案の定、中にも外にも人影がない、ゴチックな仕様の入り口に「TYFFONIUM MAGIC-REALITY THEATRE」と書かれていても通りすがりのお客さんには何のことかわからないと思うぞ。
中に入って暇そうにしている受付のお姉さんに「コリドールやりたいです」と告げると「 妊娠中、飲酒中、高血圧、体調不良、首・脊髄・心臓・呼吸器系の疾患がある方は××」などとの説明を受け、11時からの回になりますので中でお待ちください。とロッカールームに通される、帽子、カバン、スマフォ、一切持ち込み禁止である。10分程度待ちになるのだが他に客が来ませんようにとVRの神様(!)にお願いする、これは最大4人が参加できるアトラクションなので後から来た客と同時参加になりかねない、そしてこのアトラクションはプレイヤーがプレイエリアの中でバラバラになるとまずい(進行に支障が出る)ので、参加者はリングを介して手をつなぐことになっているのだ、リア充カップルとお手々つなぐハメになりたくない。
神様の加護か過疎さによるものか幸いにもソロプレイとなった、こちらへどうぞと案内されたのは床も壁もデジタルグリーン一色の20畳ほどの部屋だった(8.5 x 4.5 m 24畳だそうな)ヘッドマウントディスプレイ一式は床に置いてあった、ヘッドセットは私のものと同じHTC-VIVE製だが、正面にカメラが2つ付いているHTC-VIVE Pro という上位仕様のものだ、やはりヘビーデューティな現場はHTC-VIVEか、そう思って改めて見回すと天井付近に我が家と同じベースステーションが取り付けられている、これはプレイヤーのヘッドセットがプレイエリアのどこにあってどこを向いているかを計測するために取り付けられたレーザー発振機だ、家のは2台だがここには4台セットしてあった、4台使用すると10m×10mまでのプレイエリアが使えるようになるのだ。
お姉さんにこれを背負ってくださいとメカメカしいバックパックを渡される、これはMSI(台湾のコンピューターメーカー)製の「VR One」という可搬型のコンピューターだ、HTC-VIVEはその駆動にハイスペックなPCが必要でPC本体とヘッドセットはHDMIケーブルとオーディオケーブルの入った太いケーブルでつながれている、通常はこれを引きずりながらのプレイになるのでゲーム中あれこれ体を動かしているとケーブルが足にからんで動きが取れなくなるというトホホな状態になる(私はカーテンレールを流用したケーブル吊り下げ機構を設置したので足にからむ心配はないがケーブルが巻き付いて首を絞められることがある^^;)
VR Oneはこれを解消するためにHTC-VIVE向けに開発されたコンピューターである、歩いて回れるVRアトラクションを実現できたのもこれあってのことだ。
VR OneはPCを駆動するためのバッテリーも内蔵されている、私は気にならないが非力な女性だと負担を感じる重量かもしれない。ついでヘッドセットを装着する、すでにVRは起動しているようで被った瞬間にそこは古びた洋館の一室となる、お姉さんに「ではランタンをお渡ししますが自分の手は見えますか?」と聞かれる、えっ! と思って両手を目の前に持ち上げると自分の手が見える、これには驚いた、通常VRにおける「自分の手」はコントローラーを持った手の位置に表示されるCGの手なのだが、実際に自分の手が見えるのだ、周囲はCGで描写されたVR上の洋館である、お姉さんが前に立つとお姉さんもCG洋館の中に立っている、なるほどこのアトラクションはパートナーがいる(こともある)ので自分以外の参加者の姿が見えていないとまずいわけだ、部屋全体がデジタルグリーン(クロマキー合成色)なのは参加者をヘッドセットのカメラで捉え、背景から「抜いて」VR画面の中にはめ込むための仕掛けなのだ(なので緑色の服を着て参加すると生首だけが浮いている絵柄になると思われる)
そして「corridor」の開始である。説明には「VRの中を歩いて進む絶望VRアトラクション、美しくも恐ろしい廃墟となった洋館へ-」と書いてあるだけでどんな内容なのかわからない。ともかく床に現れる魔方陣に従って洋館の回廊(corridor)を進む、かつては栄華を誇っていたのであろうゴシック様式の洋館だが今は荒れ果てている、ランタンを頼りに進んでいくと怪奇現象が起き始める、かつてそこで起こった悲劇が幻となって蘇るのだ、台詞もナレーションもないので雰囲気でしかないのだが、かつてここの領主の奥方が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて飛び降り自殺をし、以来ここで怪しげなことが起こり始めた、というようなお話であるらしい。
歴史を感じる荘重なデザインの洋館、それがハイクォリティにレンダリングされた舞台、周囲の各種小物にランタンを近づけると明るく照らされ、影も落ちる、雰囲気は最高である・・のだが、なんでずっと左回りなのか。数メートル歩くと廊下が曲がっていて左に90度、また少し歩くと先があるように見えてもそちらには進めず、左に90度、また少し進むと左に、進んでいくと背後の扉が閉まり周囲の意匠も変わっていくので同じ場所に見えるわけではないが、よほどの方向音痴でないかぎり自分が同じところをぐるぐる回されているのは気づくだろう。最初に通されたとき部屋の全貌が見てとれてプレイエリアのサイズがわかっているだけに、あの部屋を周回しているのだと想像しやすいということもある、ヘッドセットを装着するまでカーテンとかで仕切っておけばいいのに。
と思いつつ何周かすると行き止まりの小部屋に行き着き、これは?と思うと立っていた床が斜めに沈んでいく、そこは斜行エレベーターだったのだ、立っている床に振動装置があってまさしく古びたエレベーターに乗って下っている感じがする、エレベーターはやがて地下礼拝堂に到着する、どうやらここは邪神の崇拝場所なのだろう、信者なのか生け贄なのか人の形を失った異形の者たちが天井から吊るされ、あるいは床に転がって蠢いている、やったことのある人にはサイレントヒルのようなと言えば理解されるだろう超グロテスク空間である、これ気の弱い人は先に進めないのではないか。このあたりで進行コースもS字を描いたりして「同じところをぐるぐる」感はなくなっている、あまりの不気味さにそれどころではないということもある、しかしS字コースくらい最初からやればいいのに。最後は屋敷の外に出て壊れかけたベランダで最後のサスペンス、地上に戻ってお疲れ様である、体験時間15分、最初のぐるぐるではどうなるかと思ったがまずまずよく出来たアトラクションだった。
最後にお姉さんに「VR体験はいかがでしたか?」と聞かれたので「ルームスケール(HTC-VIVEではプレイエリアをこう呼ぶ)が広くて良かったです、家のVRではほとんど歩けないので」と答えたところ「えっ?家の?」と言って固まったのでそのまま退出した。(想定問答から外れたのだろう)
ついで3つ隣の「hexaRide」へ向かう、搭乗者をコンテンツの世界へと連れていく空間転送装置というやつだ、3D酔いを解決するための2つめの方法である。
これを実現するhexaRideは座席が4つづつ3方向を向いて設置されている12人乗りのライドだ。正三角形の各辺に座席が4つづつ外向きに設置されていると思っていただきたい(三角の頂点が面取りされ角が6つあるからhexaRideなのか?)この座席が乗っている部分を2つ1組のシリンダー型のアクチュエーター(駆動装置)6本が支えているのがモーションベースだ、シリンダーを精密にコントロールすることで、前後、左右、上下(X,Y,Z方向)の動きと、左右の傾き、前後の傾き、左右回転(ロール、ピッチ、ヨー)の動きを作り出すことが出来る。 説明には「世界で初めて開発されたVRライド型アクションは6軸で制御され圧倒的な臨場感を生み出します」とあるのだが、少し言い過ぎではないか、モーションベースは1980年には航空機パイロットの訓練用に開発されていた枯れた技術である。
hexaRide
コックピット外の映像はCGである
アーガイルシフトの可動筐体
つまりはCG+モーションベースあるいはVR+ライドというアトラクションは以前から公開されているわけで、hexaRideが新しいとすればそれはVR+6軸モーションベースという組み合わせであることだけだ、世界初と大きく出るほどの革新性はないのではないだろうか。
そして私はこのライドの座席が120度づつ向きが違うことに若干の失望を覚えた、本来VRとモーションベースは良い組み合わせの筈なのだ、それは他のどんな仕組みでも実現出来ない疑似加速度を表現できるからだ。固定された座席に座り車や飛行機のVR映像を見せられたら観客は3D酔いを起こすだろう、画像で車体が揺れても実際の振動がなく、前進しても加速度を感じず、旋回しても横Gがないからだ、しかしモーションベースは違う。画像に合わせた振動はもちろんのことだが座席を上に向ければ体が背もたれに押しつけられる、VR上の視界が前進している映像であれば人はこれを加速度と思う、ハンドルを右に切って風景が左に流れるとき自分が左に引き寄せられれば(座席が左に傾けば)これを横Gと感じる、重力に頼っている以上重力加速度以上の疑似Gを与えるのは不可能だが3D酔いを防ぐ以上に効果があるはずなのだ。
しかしhexaRideは観客が120度づつ向きの違う座席に座って(固定され)ているのでこれは不可能だ、A組4人に対して加速度を感じさせるべく座席を後傾させればB組C組は斜めに傾くだけだ、このライドで全席に対して同じ効果を生み出せるのはZ軸(上下)と左右回転(ヨー)、そして特段のGを感じない振動だけだ、ハッタリの効いた外観のために精密な体感を捨てているとしか思えない。
ついでに言えば、これはイチャモンに近いがコンテンツが「進撃の巨人」コラボなのが残念だ、VRとモーションベースの組み合わせに興味があってやってきたものの私は進撃に特段の興味がない。しかしこれって得策なのだろうか?進撃はそれなりに人気はあるがクセの強いコンテンツであって間口広く集客することは出来ないのではないか?進撃マニア向けだけでペイ出来るという判断なのか?
ともあれ乗らないという選択肢はないので搭乗を申し込む、私の他1組のカップルが参加したが、3人はバラバラに3方向の座席に配置された、バランス良く乗せろという機構上の要請なのだろうが常に3で割れる参加者がいるわけでもあるまい、12人1トンを越えるペイロードがあるモーションベースなら1:2:0人の不均衡など誤差の範囲ではないのか、並んで乗せてやればいいのに、とか思っていると頭上に掛かっているヘッドマウントディスプレイを装着せよとアナウンスがある、歩き回るわけではないので有線である。
さてこのアトラクション、進撃を知らない人はなんのことかわからないと思うが、プレイヤーが調査兵団の1員となってウォールマリア奪還作戦に参加するという設定だ、プレイヤーは巨人と遭遇するや立体機動装置(兵士の腰にはワイヤーを巻き付けたドラムが装着されており、ガス圧でワイヤーを発射、先端のアンカーが巨人なり建築物なりにくい込んだところでワイヤーを巻き取って空中移動する仕掛け)を駆使して巨人と空中戦を行うのだ。このアトラクションでは参加者が自分でコントロールする部分は無くただのお客さんでしかないがリヴァイ兵長に罵られながら巨人の周囲を飛び回る感覚はなかなか爽快ではある、モーションベースも(先に述べたように画面に合わせた精密な動きは望めないので)揺動するだけだがプログラムの出来がいいのかよく空中を舞う感覚を引き出している。
映像はポリゴンによる3DCGなのだが原作諫山創のマンガがそのまま立体化されている、あの迫力はあるものの到底うまいとは言えない絵柄がそのまま立体物として動いているのだ、マニアは喝采するだろうが私としてはこれどうなの?と思わざるを得ない仕様である、まあそんな奴はこれに乗るなということなのだろうが。
巨人を倒して終了、7分間のアトラクションだった。
ということで2つのVRアトラクションを続けて体験した、TYFFONIUMはまずまずの出来だったが、このhexaRideはイマイチである、エンターテインメントとしてはそこそこの出来なのだがVRである理由がない、観客は椅子に座って映像を見るだけでその世界に一切の干渉が出来ないのだ、ならばそれは3D映画を観ているのと変わらない、鑑賞のみのVR映像に3D映画にまさる部分があるとすれば全天全周の視界があることだ、つまり振り返れば後ろが見えるというようなことだが、hexaRideでは観客は椅子に固定されているので視界の自由度は低い、そして見せられているのは激しい空中戦なのでいきおい視線は前方に誘導される。つまりこれはモーションベース付きの3D映像でしかないのだ、すでに世の中には3D映像+可動座席+風+水飛沫+煙+匂いなどの4DXがあるわけでこれはその下位互換、大きなスクリーンを用意する必要がなくショッピングモールにも設置可能な体感シアターでしかない。それもまたVRの使い方と言えるのかもしれないが、せっかくのVRヘッドマウントディスプレイがただの立体メガネになっている。それは私の望むものではない。
TYFFONIUMもまずまずの出来とは言ったが、すごく面白かったとは言えない、そしてここが重要だが料金が高すぎる、メニューによって値段が違うのだがcorridorは2800円である、3倍出せばディズニーランドで1日アトラクション乗り放題であることを考えれば15分でこの値段は高すぎる。hexaRideの1300円で7分も映画などと比較したら高すぎる。私はVRに入れ込んでいる物好きだから高いと思いつつ払うがまあフツーに考えてこれはありえない。ジョイポリスのようなお祭り騒ぎをしに行く場所のアトラクションの一つならどうかわからないが向かいにミキハウス、並びにユニクロがあるようなショッピングモールに来た客が支払う値段ではない。
つまりは微妙なのだ、VRは私が長年夢見ていた技術でついにやっと実用的なものが世に出てきた!と喜んでいたのだが、出てきたコンテンツがビミョーなものだと先行きが不安だ。最先端のエンターテインメント技術といえどバラ色の未来が約束されているわけではないからだ、そのいい例が映画における3D技術である。今から10年ほど前、映画は3Dブームに湧き立っており2010年は「3D元年」と呼ばれていた。公開される映画のほとんどが3D同時公開でおよそ3D向けではない映画まで3D版が製作されていた。
さてしかし、corridorはそういった意味ではまさしく「仮想現実」、まさしくそこにあるように感じ、その中を自分の足で歩いて回れる「別世界」を提供するアトラクションだったのだが、場違いとしか思えない所で営業しているのもお値段が正気を疑うほど高すぎるのもヤバイ気がする。コンパクトながらも新技術を導入してそれなりの本気を感じられるのだが、そのコンパクトさに「こんなもんだろう感」もまた感じられるのだ。映像的には高い天井の大広間でも無限の遠景でも表現出来るVRなのに、リアルのプレイエリア(24畳!)をプレイヤーに認識させてしまうデザインなのはなぜなのか? 私はそこに「広いプレイエリアを確保するのはたいへんだし、映像製作の難易度も上がる、VR初心者向けならばこれくらいやっておけば充分だろう」というような見切りがあるように感じるのだ。そんな「こんなもんだろう感」は先に述べた見た目は派手だがお手軽な体感型3Dゲームセンターと同じである、しかしそうやってそこそこのVRアトラクションが提供されているうちに世間のVRへの見方が固定し、開花すれば大きなマーケットになったかもしれない市場が閉じていくかもしれない。「元年」から6年、VRは岐路に立っているのではないか。
今から4年前、私は「ハリー・ポッター・アンド・ザ・フォービドゥン・ジャーニー」というアトラクションを体験するためにUSJに行った。「VR元年」から2年、世間ではVR人気をあてこんだ遊戯施設があちこちに開設されていた時期だ、私はUSJのXRライドに乗り、ジョーズのボートに乗りながら以下のようなことを考えていた。
アトラクションのヴァーチャルリアリティ化はHMDが世に出てすぐ可能性の一つとして提唱されていたものだ(中略)プレイヤーは広大な大地を進んでいるように感じるが実は柵で仕切られた狭い通路を歩いているだけ、というようなイラストを見てうむむ?と思った。
観客はモーションベースに取り付けられた椅子に座ってHMDをかぶりCG映像を見せられるばかりになるかもしれない。そこに映し出されるものがいかに迫真の映像であろうとも、それがビニールの質感の恐竜ではなく、硬直したサメではないフォトリアルなモンスターであろうとも我々が今のゴッコ遊びより楽しいと思えるかは疑問である。
(Script Sheet 2018 「ハリー・ポッター・アンド・ザ・フォービドゥン・ジャーニー」より)
これからVRの利用は加速する一方であり、テーマパークへの導入も不可避であろうがそればかりになってはイヤだなあ、というような思いだったのだが現状そうなってはいない。
しかし米ウォルト・ディズニー社はTYFFONIUM の運営会社 Tyffon Inc に出資しているらしい、やはりVR技術については興味があるのだろう、なので、私は今やテーマパークレベルの規模とクォリティのVRアトラクションをディズニー自身が提供してくれないかと思っていたりする。
「大怪獣のあとしまつ」でも書いたことだが、私は「操演」という特殊な映画技術者であるため参加した作品の大半は特撮映画であり、その大部分は怪獣映画であり、そのうちの多くがウルトラマンである。昭和のウルトラマンが一旦途切れ、16年後に「ウルトラマンティガ」で再起動してから今年までに17シリーズ、私はそのうちの16本に参加している、また劇場版ウルトラマンは25作あるのだがその23本に参加している。つまり至近のウルトラマンTV/映画のほとんどに関わっているのだ。この間多くのプロデューサー、監督、あるいはカメラマン、デザイナーと仕事をしたが彼らが久しくとどまりたるためしはなく私だけがずっとウルトラマンと一緒だった。つまるところ日本で(世界で?)もっとも多くのウルトラマンと(怪獣と)関わっている人間は私であると言って過言ではない(「過言だし」というつっこみが入るのがお約束なところだが、いやマジで)
そんなウルトラマンがCGになるのだという、まあ等身大のウルトラマンが戦う全編フルCGのTV番組とか、ウルトラマンの最終形態がフルCGである映画版ウルトラマン(劇場版 ウルトラマンR/B)などCGウルトラマンというもの自体は初めてではないのだが、役者の芝居部分を撮る「本編班」とミニチュア特撮を行う「特撮班」のうち「特撮班」部分だけがCGに置き換わる作品はこれが初めてである。
う~~む、長年培ってきたアナログ特殊効果技術だがついにCGに取って変わられる時がきたのか!みせてもらおうかフルCGとやらを!!と、鼻息荒く劇場に足を運んだのだが・・・
※以降ネタバレはありませんが感想を聞いただけでバイアスがかかる恐れはあります、なのでこの作品を観に行くつもりがありかつ未見である方は以下を読み飛ばすことをお勧めします※
・・・鑑賞後の印象「え~~~と、普通?」
まずは「本編」を含む映画全般についてだが、私はこの映画をウルトラマン(異星人)とファーストコンタクトをした人々の人間ドラマといった映画なのではないかと思っていたのだった。これは「シン・ゴジラ」からの類推だ。シン・ゴジラは自分達の手に余る災害に見舞われた日本政府を風刺的に描いたポリティカル・フィクションで、その切り口に関していえば傑作なのだが、怪獣映画でもゴジラ映画でもないじゃんというのが不満だった、勝手にどんな映画か決めつけてそれと違ったからと不満を訴えるのは筋違いではあるのだが、天下の大スターであるゴジラを登場させタイトルでゴジラと銘打っておきながら、ゴジラはただの舞台装置、焦点は人間ドラマに合わせてますという構成はいかがなものかと思ったのだ。
シン・ウルトラマンもまたそういった映画かもしれないと危惧するのは当然だろう、何しろ同じ人達が制作しているのだ。・・と思っていたのだがどっこい、フツーにウルトラマン&怪獣映画だった。お話の焦点は最初から最後までウルトラマンに合っているし原作へのリスペクトにも満ちている、政治風刺部分もあるにはあるが現代社会を舞台にウルトラマン映画を作って政治/国際情勢をまったく無視してしまうわけにはいかないのは当然だろう、基本的には「ちいさなお友達」向けであるTVシリーズとは訴求対象が違うのだ。
結果、TVの初代ウルトラマンから印象的なエピソードをいくつか抜き出して一種のオムニバス形式とし、舞台を現代に置き換え洗練を加えて1本の映画に仕立てたものとなっていた。私はクリストファー・リーヴのスーパーマンを観たときと同じような印象を受けたのだが、要するにごくフツーのリメイク映画ということだ。シン・ゴジラのコンビがたずさわったからには何か斬新な切り口があるのだろうと思って身構えていた私としては肩透かしと言ってよい。
昨今ハリウッドでも日本でもまったくの新作という映画は少ない、特にビッグバジェットとなるSFXバリバリのエンターテインメント映画はその傾向が強く、バットマンにしてもスパイダーマンにしてもアベンジャーズにしても過去のTVシリーズあるいはコミックのリメイクである、レジェンダリー・エンターテインメントのモンスターバースシリーズ(東宝と提携してキングコングとゴジラを同じ世界世界観で取り扱う)も同じだ。日本で公開される邦画の多くもリメイク、コミック原作、あるいはTVシリーズの映画版である(今、近所のシネコンの上映スケジュールを見たのだが、公開中の邦画18本のうち12本がそれだった)ハイリスクハイリターンな映画業界にあっては大ゴケする心配が(比較的)少なく、当たればでかく、最低でも一定のリターンが見込まれる映画はお宝なのだ、なのでそういった映画は特段のチャレンジをする必要はない、ごくフツーにリメイクすればまずます当たるのだから。
とはいえしかし、このシン・ウルトラマン、この制作者たちならそんなことはあるまい何かしらぶっこんでくるだろう良かれ悪しかれ、という期待(と不安)があったのだがごくフツーなリメイクだった。こういってはなんだがこれなら円谷プロが内製してもよかっただろうというほどの内容である。
樋口、庵野というビッグネームを起用したのは何のためだったのか、シン××と名付ければ期待を膨らませた観客が押し寄せるだろうという読みなのか。
さて、そしてフルCG特撮である、私は樋口真嗣がアナログ特撮では不可能だったカット(アングル、アクション、舞台設定)をここぞとばかりに展開するものと思っていた。氏はこれまでにアナログでは予算的に/物理的に/時間的に出来なかったアイデアというものを数多く抱えている筈だからだ、ところがどっこいこれもまた特段に斬新な絵面はなかった、というかウルトラマンvs怪獣の対決場というと必ず登場する不自然な空間がこのフルCG世界にも登場したのには驚いた。着ぐるみ特撮の場合視界が悪いキャラクター達(「目」の下にのぞき穴のあるウルトラマンは斜め下しか見えないし四つ足怪獣は四つん這いになると地面しか見えない)は足元が見えないので格闘が始まればそこがビル街であろうと山中であろう平らで障害物のないクリアな舞台が必要となる、またビル街の場合、東京のリアルな町並みを再現すれば大立ち回りをするスペースなど取れない、そこで都会のど真ん中に広大な空き地が出現してしまうのだ。これは特撮ものの中でも格闘のあるウルトラマンにおいて特に顕著であるため「ウルトラ広場」と呼ばれているのだが、このあたりもフルCGであればリアルに描写できたはずである。マニアックな視点ではあるが私は樋口真嗣であればウルトラ広場のない格闘を見せてくれるのではないかと密かに期待していたのだ、しかし!!ものの見事にウルトラ広場があった。山中の戦い、スーツアクターの体術に頼る必要がないフルCGならそこが斜面でも山あいでも可能だと思うのだがものの見事に(足場の良い)平地なのだ。それは街中も同様だった、CG特撮であれば東京の狭苦しいビル街で巨大ヒーローが戦ったらどうなるかという絵が見せられたのではないか、それがCGのアドバンテージではないのか。
ということでCG特撮は悪くはなかったのだが、びっくりするほど斬新な絵は無くアナログ特撮がそっくりデジタルに置き換わっただけだった、これを樋口、庵野というバイアス抜きで見せられたら、職人だよりで予算ばかりかかるアナログ特撮をCGで代替した新作なのね、まあ特に新味はないなーと思うのみだろう。
ということで結論、よくあるフツーのリメイクもの、面白くないこともないが庵野、樋口という名に惹かれて観に行くと肩透かしをくらうある意味での怪作。過大な期待を抱いて観にいくのでなければお勧めする(でも過大な期待をするような人しか観にいかないよなこの映画^^;)
図書館におけるリファレンスとは利用者が必要としている資料を探し出すサービスのことである。これは福井県立図書館が本の題名を間違って、あるいはうろ覚えのまま、来館した利用者に正しい本を紹介した記録である。
私はこれを少ない(間違った)情報から、利用者が本当に必要とする本の題名を推理する知的な本だと思っていた、これを紹介していた新聞の読書欄からはそのような印象を受けたし、実際本のオビにも「司書さんの検索能力にリスペクト」と書いてあるのだから私の一方的な思い込みではないと思う。しかしこれはそのような本ではなかった。そもそも「100万回死んだねこ」が「100万回生きたねこ」の間違いであることは自明であって「検索能力」というほどのものではない。
A 夏目漱石の『僕ちゃん』お借りできますか? Q 『坊ちゃん』でよろしいですね?。
A 『下町のロボット』ってありますか? Q 『下町のロケット』ならございます。
も同様である。そしてこれは『利用者さんの覚え間違いに爆笑』(オビより)するほどの事でもない。
このレベルの問答集が90例載っているのだが、気の利いたつもりらしいコメントもうすら寒くナナメ読みして5分で終わった。たしかにまったくつまらないというわけでもないのだがこれは書籍化して世に問うほどのものなのか。講談社はこの本に「空前絶後のエンターテイメント」(!!)というコメントを付けているのだが恥ずかしくないのか、今後の信用に関わるのではないか。
・・といった、面白い/面白くないの部分は感性の問題でもあるので一旦置いておくとして。福井県立図書館、他人には特定できないとは言えユニークな間違いは当人には自分のことだとわかるのではないか、つまりある個人にあなたの問い合わせは「爆笑」ものだと言っているわけなのだがいいのか? 「下町のロボット」はあるあるな間違いだしただの言い間違いということもありうるが、「漱石の僕ちゃん」はこの古典を知らない人がいるんですよ笑えますねと言っているわけだ、人の無教養を笑いのタネにするのはきわめて下品な行為である、ましてや公共機関たる県立図書館がやっていいことではない。
どういうきっかけで坊ちゃんを知らない人がこれを借りようと思ったのか多少なりと考えてみたらとうてい出来ない行為と言えよう。
最近の図書館は資料の貸し出し履歴を返却と同時に廃棄し当人ですら照会できないようになっている、それほどまでに個人情報にうるさいわけだ、それと比べると福井県立図書館のリファレンスサービスは利用履歴の扱いが緩すぎではないかと思う。
もし地元の図書館が私のリファレンスサービスを記録し、こんな資料請求を受けました「面白いですね」と公開したらもう行かない、あの司書はあの時の私の相談をこんな風に見ていたわけ?となるからだ、これ怖すぎだろう。これは個人が特定できるからアウトで出来ないからセーフという話ではない。
正気か福井県立図書館、と講談社。
「漢方専門の薬剤師が異世界に転移し、持っている知識と経験で怪異を祓う」という小説、新潮文庫nexから発刊された新刊である。
新潮はこのレーベルを『新潮文庫nexは、ライトノベルレーベルではありません。』と言っているが、『キャラクターと物語の融合がコンセプト』と言っている時点ですでにラノベではないのだろうか。
さて異世界転移ものはラノベの一大ジャンルであり今までに1024シリーズほどは出ているに違いなく、転移/転生/召喚された主人公が現代日本人の持つ知識と経験で無双するというお話も512シリーズくらいは出ているに違いない。なので今そこに参入する作家はひとひねり加えてくるのが常道である、なので太宰治が転生するとか、大山倍達だとか、ホームセンターの職員だとか、ひとひねりどころか縦2回転&横2回転みたいな作品も多くなり着地に失敗して目も当てられない結果になるものもある(多い)
しかし紺野天龍は違う。電撃出身で『第23回電撃小説大賞受賞者の先生方全員を勝手に神のように崇拝しています。』と言っているし、自身の「無自覚チートの箱入りお嬢様、青春ラブコメで全力の忖度をされる」は驚愕すべきことに「涼宮ハルヒ」のリメイクだし、ラノベ事情には詳しいはずなのに、今さらまったくの王道、この10数年の流れもまったく無視した正統派の転生ものを出してきたのであった。
主人公は専門分野に関しては優秀だが要領が悪く人付き合いも苦手、ついでに言えば女性から寄せられる好意にまったく気づかないいわゆる「鈍感系主人公」、ヒロインはキリリとした美人の巫女さんで刀を取れば天下無双、自己表現が得意でなく真面目が過ぎて不器用なポンコツ(ラノベ界隈ではこれを「素直クール」という)その妹は主人公の言うことなすこと全て手放しで褒めてくれる元気で明るい「ひとをダメにする全肯定少女」つまりは「癒やし系」、そのほかにも幽世(かくりよ=異世界)で起こる全てを見通す目を持つ齢800才の美少女など今さらいいのかこの配置でという王道である。そして問題なのはこれでこの小説の出来がいいことだ(問題でもなんでもないが)
紺野天龍は人生経験のある30過ぎの社会人(薬剤師!)であるからかそこらのぽっと出のラノベ作家など足元にも及ばない表現力、構成力がありともかく1本の作品として充分な完成度がある。とはいえしかし新味と言える部分がほとんどない小説をその完成度だけで評価していいのかという話なのだ。「作品」というものはそれ自体で評価されるべきなのかもしれないが出尽くしたフォーマットに丸乗りしていることをどう考えるべきなのか?
これは紺野天龍につきまとう問題と言ってよい。先に述べたように「無自覚チートの箱入りお嬢様、青春ラブコメで全力の忖度をされる」は、ハルヒを読んだことのない読者なら面白いと思うかもしれない。しかしこの小説は「世界を改変できる神のごとき超能力がある少女(自分ではそのことを知らない)がヒロインで、なぜか彼女に気に入られた一般人が主人公で、彼は彼女の力が間違った方向で発揮されないようにハラハラしながら見守っている」というハルヒの核となるアイデアを令和の時代に落とし込んだものだ(ハルヒはパワハラ、セクハラし放題の傍若無人な性格で今読みかえすと正視に耐えないほどコンプライアンス的にヤバイお話である)「無自覚お嬢様」を面白いと思った読者もこのことを知ったら評価が変わるのではないか。作品はそれ自体でのみ評価されるべきというのは絶対の原則ではないのではないか。ということなのだ。
1作品としてはそれなりに面白い、ただラノベを知るものとしてはこれを独立した一個の作品として面白いとは言えない。なんというか「駄菓子もちゃんとした料理人の手にかかればこんなにも上品な味になるのですね~」的な良さなのだ。
紺野天龍はどこへ向かっているのか、いったいになにがしたいのか。
30年以上も前の映画(1986年公開)の続編が同じ俳優の主演で作られるというのもなかなか凄い話である。
しかし前作「トップガン」がそのような素晴らしい映画だったかというとわたし的にはそうでもなかったりする。戦闘機に乗ることにしか興味がなく、戦闘機乗りとして優れているということ以外ではアイデンティティーを保てないアタマの空っぽな男たちが、いかに自分が優秀であるかを誇示してマウントを取りあうイケイケ(←死語)な映画としか思えず、nerd(オタク)の私にはその体育系なノリにはついていけなかったのだ。
まあトム・クルーズはイケメンだし、F-14はかっこいいし、音楽はノリノリ(←死語)であったとは思うが内容は空虚で、映画の最後のとってつけたような空中戦など、相手はどこの国だよ国際問題じゃないのかこれは、というような疑問を一切スルーするという思い切りのよさ(!)であり1本の映画としての体裁さえ整っていないこれはせいぜいアメリカ海軍のプロモーションビデオかはミュージックビデオにしか思えなかったのだ。
それが証拠にこの映画は各種映画賞を受賞しているが、そのほとんど音楽、音響部門なのである。
※エーペックス・スクロール賞(サウンドエフェクト)
※ASCAPフィルム&テレビジョン・ミュージック賞 (歌曲『Take My Breath Away』)
※アカデミー賞 (歌曲『Take My Breath Away』)
※ブリット・アワード(サウンドトラック)
※ゴールデングローブ賞 (歌曲『Take My Breath Away』)
※ジョルジオ・モロダー、トム・ウィットロック(歌曲『Take My Breath Away』)
※グラミー賞 (歌曲『Top Gun Anthem』)
※トップ・インストゥルメンタル・パフォーマンス (歌曲『Top Gun Anthem』)
※音響効果監督組合賞
※ゴールデン・リール賞 (最優秀音響編集部門/サウンドエフェクト部門)
というようなわけで今回の続編は特段に観にいきたい映画でもなかったのだが、体を張って映画のデジタル化(仮想化)の流れに立ち向かっているトム・クルーズを応援したいし、F-18戦闘機は大画面で観てみたいしということで投げ銭くらいのつもりで劇場に足を運んだ。
アタマ空っぽでマッチョだったマーヴェリック(トム・クルーズ)は最先端ジェット戦闘機のテストパイロットで今もエッジな仕事をしてはいるが、人生経験を積み挫折も味わったらしく深みのある人間となっている。そんな彼に舞い込んだのがF-18戦闘機の教官という任務である。
ある国の原子力施設が核爆弾の製造を開始する、施設の稼働まであと3週間、君はチームを訓練し3週間以内にその施設を破壊せねばならないという話なのだが、ある国ってどこだよ、戦線布告もなしにいきなり戦闘機で乗り込んで爆撃していいのか、国際問題じゃないのかこれはというような問題をいっさいスルーするあたりは前作を踏襲している(戦闘自体を映画のストーリーにからめるところだけはマシになったと言えよう)
さてこのために各地から集められたのがトップガン、かつてのマーヴェリック達のようなイケイケでアタマ空っぽな戦闘機乗りである。
ここで『ヤバイ、教官はガラではないが、こいつらこのまま戦場に出したら死んでしまう、どうすりゃいいんだ』と困惑するマーヴェリックの有様はなかなか楽しい。この向こうっ気だけで生きている若者達にしてみると自分の父親ほどの歳であるマーヴェリックは時代遅れのロートルであって、ひっこんでろおっさん、という相手に見えるのだが『ひとつ空中戦の稽古を付けてやろう、2:1でいいからかかってこい』となるとまさしく子供扱いされるというあたりが爽快である。
鍋の番をしている師匠に弟子が隙アリとばかりに打ちかかると刀は鍋ブタでハッシと受け止められてしまうというのは東洋趣味だと思うのだが、ルーク・スカイウォーカーとヨーダという先例もあるのでヤンキーにも充分ウケる展開なのだろう。そしてそういう役を演じて違和感のないあたりに映画界を体を張って支えているトム・クルーズのリアルが反映されていると言えるかもしれない。
さてこの映画、登場人物が戦闘機に乗っているシーンは実際に役者をジェット戦闘機に乗せて撮っているのだという(俳優は実際にF-18に乗っていると喧伝されているので複座のF/A-18B/D機なのだろう)前作でも同じことは試みられたらしいがトム以外の役者は吐いたり失神してしまったりで使いものにならず合成処理になったらしい。なので今回の役者は3ヶ月間きつい飛行訓練を受けさせられたのだというがこの訓練プログラムを組んだのがトムだという。
(俳優が実際に戦闘機に乗っているという謳い文句と並んで飛行シーンはCGを使っていないと宣伝されているが、いくらなんでもこれは無理というカットもあれば、実際にこれはCGと制作者が明かしている部分もあるのでこの宣伝は誇大広告である)
『トム・クルーズが乗っている戦闘機はトムの所有する機体である』という紹介記事を目にして、ウソだろと思ったのだが、これは劇中に出てくるP-51という第二次世界大戦の戦闘機のことなのであった。とはいえそんなもん買えるんだ、骨董品としか思えない機体を飛べるように維持管理出来るんだという意味では驚異である。そしてそのおかげで大空を舞うP-51とそれを操縦しているマーヴェリック(トム・クルーズだとはっきりわかる)がリアルに大画面に映し出されるのは嬉しい。
ということで充分に楽しめたのだが、私のこの楽しさの中にはあのマーヴェリックがずいぶんと大人になって(^^)という視線が混ざっているわけで前作を観ていない人間が初見でこれを観たらどう思うのかはわからない。そもそも30年前以上前に公開された映画の完全な続編で前作を観てないとわからないディティール多数などという作品はあったためしがないからだ、なのでとりあえず前作を知る者にはお勧めとは言っておこう。
(観客全員が前作を観ているはずもなく、しかし全世界的にヒットしているらしいので観るべき部分は存在するのではないかとは思うのだが「このザルのような映画のどこがよくてヒットしてんだ?!」という映画もタマには時々けっこうあるのでヒットしているという1点をもって万人にお勧めすることは出来ない)
前作「ジュラシックワールド 炎の王国」でこのシリーズは賞味期限切れであると言った。5作目で賞味期限切れならばこれはもうだしがらであろうとは思ったのだが観にいった、前作のように期待のハードルを下げれば(地面に置いた縄くらいまで下げれば)面白いかもしれない(!)と思ったわけではない(!!)第1作は私の映画鑑賞史上暫定ベスト3くらい面白かったのでその最後を見届けてやろうと思っただけだ。残念ながらというか予想どおりな映画であった。
さてこのシリーズ、4作目の「ジュラシックワールド」までは少なくも恐竜は映画の主役だったが前作からそうでなくなった、前作は恐竜の闇オークションで一儲け企む悪人とその秘密を知ったため消されそうになる主人公のアクション映画であり、恐竜を核ミサイルに置き換えればそのままミッションインポッシブルかOO7に転用できるシナリオだ。そして驚くべきは今回もまったく同じ構成であることだ、ジュラシックシリーズは基本倫理観に欠けた大企業が金もうけの為に恐竜の人権(?)も環境にもたらす危険も顧みず暴走し、ことによっては殺人も犯すという構造でできている、第1作だけが傑作であるのはそこに悪意がないからだ、ジュラシックパーク社長のハモンドは金もうけが第一義であるには違いないだろうが「みんな生きた恐竜を見たくないか?私は見たい、子供達にも見せてやりたい」という夢と希望を持って事業に取り組む人物だった、彼の問題は「生態系を人間がコントロールできるわけないだろう」(byマルコム博士)という事実に気づかなかったという無知だけだ。しかし以降は恐竜をコントロールしようとする組織=倫理観のない悪、という図式が固定してしまった。いい加減それはやめとけよと思ったのだが今回も「恐竜の管理はある巨大企業に一任されました、悪でした」なのには呆れてしまった。恐竜が遍在するようになった時代、一営利企業にその管理を任せることが危険であることは社会が認識してもいいのではないか。
ラプトル調教師オーウェン、ジュラシックワールドの運営管理者だったクレアのレギュラー2人に加え、初期シリーズの3博士を登場させたのは良かったと思うのだがおかげで全員にピンチと見せ場をつくり最後は全員揃って大活躍という縛りが生じて映画が散漫になってしまった。まあとにもかくにも賞味期限切れ、だしがらのシリーズ完結編というべきだろう。
当然ながらお勧めしない。
※完結編とは言っているがこれが本当に最後とは限らない、というか最後であるはずはない、というか何年か後にはシレっと「再起動、待望の新シリーズ!」とか銘打った映画が作られるのは間違いない。
ラプトルのブルー(かその子供)を主人公にした子供向けアニメが制作される(公開はネトフリ?)に10ガバスくらいなら賭けてもいい。
話は変わるが(変わってないが)昭和30年台、講談社から「少年少女世界科学冒険全集」というシリーズが出ていた、今で言うジュブナイルSFだがジュブナイルという言葉はもちろん Science Fiction という言葉自体知られていなかった頃の話である。
全34巻の中にはハインラインとかベリヤーエフとか後の世に名の残った作家はいるもののほとんどは「誰?」という執筆陣ばかりであった。私はこのうちの10冊を所有していたが小学生の私にとって書籍は「良い子」にしているとたまに買ってもらえる貴重品であり何回も(いまどきのゲーム用語でいえば何周も)読み返した、中でもお気に入りだったのはカポン作「謎のロボット星」だ。
国会図書館のデジタルコレクションから(現物はとうに散逸してしまった)
かつて火星に住んでいた火星人は遙か昔に宇宙のどこかへ移住してしまった、その際、移住計画の補助のために作られたのが15個の人造衛星であり、現存する2つの衛星の一つがフォボスだった、倉庫でしかなかったダイモスと違いデーター収集を目的として作られたフォボスは今も稼働しつづけており、近年ラジオ放送の電波を発振しはじめた地球に着目し研究、観察のために人間を捕獲したのだ。
<ロボット星「THE ROBOT PLANET」と名付けられているが、フォボスは自立して稼働する1個の機械であって別段ロボット『生物に似た外見をしており、生物の動作や機能を模倣できる機械』が出てくるわけではない、なのでここは COMPUTER PLANET というべきなのだが、コンピューターという言葉もまだ定着していなかった頃のお話なのだった>
遠い昔に主人から受けた命令をその主人達がいなくなった後も忠実に実行しつづける人造生命とか、人間を遙かに超える知性を持ちながら感情を持たず理解も出来ない人工知能といったものは後のSFで数えきれないほど登場する装置だが、SFの黎明期にあった当時としては革新的な概念ではなかったかと思う、思うのだが、しかしそれは今から振り返ってそう思うのであって当時の小学生がそんなことに感銘を受けるはずもない、では何に食いついたのかと言うとそこに出てくる宇宙食だった。
3人が空飛ぶ円盤に捕獲されると、6時間に一回「重さも見かけも、銀紙につつまれた半ポンド・バターのようなもの」が壁の穴から出てくる、どこからともなく聞こえてくる「抑揚のない人間とは思えない声」によればそれは「含水炭素、たんぱく質、ビタミン、その他、人間をやしなうのにひつようなものをふくんでいる」のだという。
半ポンドは226gなので、まさしくそれは今も我々が手にするバターのような代物なのだと思うが、私はそれがまったく味がしない食べ物であるという描写に感銘(!)を受けたのだった。趣味、嗜好を理解しない機械生命の作った必要にして充分、余計な要素は一切ない完全栄養食 これもまた後の世にいくらでも出てくる概念だが当時の私はこれに完全に「やられて」しまった、むつかしく言うならそこにセンス・オブ・ワンダーを感じたと言うべきだろう。
そんなものがあるなら食べてみたい!と私は強烈に思ったがもちろんそんなものはどこにもなく、いつしかそのことも忘れてしまった、思い出すのはそれから10年以上先「2001年宇宙の旅」(1968年MGM)を観た時である。
月面で発見されたモノリスの謎を解くため3人の科学者と2人のパイロットを乗せた宇宙船ディスカバリー号は木星に向かう(※「2001年」は長大にして難解な作品なので内容説明は省く)
数年かかるミッションなので科学者達は人工冬眠しており活動しているのはボーマン船長とプール副長そして人工知能(!)のHAL9000だけである。
そしてパイロット達の食事シーンがあるのだが。
観た時かつての興奮が蘇った、あれだバターみたいな味気のないやつだ!と
左がメニューでランプが付いているのが選択した食い物である
この「木星ミッション」は長期間娯楽のない狭い空間に閉じ込められ、緊張を強いられるきわめてストレスの高い生活だ。寝るのもこの廊下に置いてある睡眠カプセル(透明!)なのでプライバシーもない、となれば食事はそのストレスを解消する数すくない機会だと思うのだがこのありさまである。
ではこのブラックな食事風景がキューブリックの狙いだったのかと言うとそうではないようだ、なぜならこの映画は科学者による諮問機関が科学的な正確さを担保していたし、この「宇宙食」はNASAが提供したものだからだ、つまりこの食事は当時としては科学的にまっとうな「未来」の記号だったのだと思う。
(当時NASAはアポロ計画の追い込みで「宇宙食」の開発に余念がなかった、ここで開発されたフリーズドライという技術は社会に貢献したが、宇宙飛行に対して実際必要な技術だったかどうかは疑問である、水があればたちまち元の風味が戻る乾燥して清潔で軽量な宇宙食は未来を予感させる新しい食べ物ではあったが、今の国際宇宙ステーションのように尿をリサイクルするシステムがあったわけではないので「戻す」ための水は一緒に持っていくのだ、なので重量的に得するわけではない、乾燥していれば長持ちするだろうがアポロ計画のミッションは全体で8日ほどで終了するので長期保存する必要もない。つまるところこれは宇宙という特別な場所には特別な食べ物が必要だろうというNASA(やキューブリック)の夢と希望の象徴なのだと思う。ちなみに記録映像を見ると宇宙開発でしのぎを削っていたソ連の宇宙飛行士たちはボルシチの缶詰を缶切りでキコキコ開けて喰っている)
さて鋼鉄の意志を持つ(と思われる)ボーマン船長はこの無味乾燥っぽい食い物を黙々と喰っているのだがこれを見て(フォボス宇宙食に感銘を受けていた)私はきわめて強い印象を受けた、食べて見たい!ということだ。
食べてみたいと思ったかどうかはともかく庵野秀明も強い印象を受けたらしい
そして1969年ついにアメリカは月に人類を送り込んだ、2001年の公開の翌年(!)である、世間は宇宙ブームに沸き、ブームをあてこんで「宇宙フェア」を開催したデパートがあった、宇宙少年であった私は当然フェアに出向いたのだがそこで衝撃的なブツを目撃した、NASA謹製、本物の「宇宙食」が販売されていたのだ、これを喰わないという選択肢があるだろうか、いやない。中学生のお小遣いには限りがあるので散々に逡巡した結果私は「ストロベリー・アイスクリーム」を購入した! 輝く銀色のパッケージ、科学と合理性と機能美の象徴「宇宙食」と嗜好品の極みであるアイスクリーム(それも苺味!)の組み合わせに未来を感じたのだ。
家に帰って開けてみると中にはピンク色の、乾燥した、軽くてもろい物体が入っていた、説明によれば水で戻してもいいし、そのまま食べてもいいらしい、なので私はそれをそのまま口に放り込んだ。何がどうあってもこれはアイスクリームではあるまいと思ったのだがアイスクリームだった。
もちろん冷たくはなく溶ける食感もないのだが、その物体が溶けると口の中に広がるのはストロベリーアイスが口の中で溶けたあとの味と香りそのものなのだ、驚くのはそれによってアイスクリームを食べたような感覚が生じるということだ、おそらく私の中には過去に食べた数多くのアイスの冷感、食感、味、香り、などの記憶があり食べたものの味、香り、のどごしなどがマッチすると「これはアイスだ」という感覚が生じるのだろう。
思えばこれは他の感覚にもあてはまる現象だ、たとえば視覚、人は網膜に映ったものをそのまま「見て」いるわけではない、網膜に映ったものが何であるか判定する前処理が意識下で行われそれが既知のものであると判定されると自動的に補正がかかるのだ、なので空は人が思うほど青くないし、人肌はピンク色ではない、そのためカメラが数値的に正しい画像を表示すると色が悪いと感じる、そこで今のカメラはAIが自動で「記憶色」に合わせた色補正を行っている。また人は敵を素早く認識する必要があるため見ている(網膜に映っている)画像から素早く「顔」を見いだすパターン認識システムがそなわっている、なので丸が横に2つ並んでいるとそれを目と認識し、顔だ!というアラートを出す、これは正確さよりも速度重視なので誤動作することも多く天井の木目が人の顔が見えたりする。おそらく同様のことが口の中で(というか情報処理の過程なので頭の中で)行われておりいくつかの要素がマッチすると今食べたものはアレであるという情報(誤情報だが)が上げられてくるのだろう。
ならばディスカバリー号の宇宙食は見た目ほど味けのないものではなく、ボーマン船長はあれでステーキを食べた気分になっているのかもしれないと思ったのだった(とはいえ、歯ごたえが食感の重要部分を占める食べ物は再現不能だし、ペーストばかり食っていたら顎の力が弱まり歯に悪影響があるのは確かである)
さてこの頃まではそのように「未来」は夢と希望の象徴だった、21世紀になると車は空を飛び、人はロボットにかしずかれ、疾病から解放された人間は健康で文化的な生活を謳歌しているに違いないと思われていたのだ、しかし雲行きは変わった。
未来は人口爆発あるいは環境汚染で住環境や食料事情が悪化、格差は拡大し庶民はスラムのような場所に住んでいる、というような世界観が台頭してきたのだ、当初これは「暗黒の未来」と呼ばれていたがやがて「ディストピア」という単語に置き換わった。
これを取り扱った映画が「ソイレントグリーン」(1973年MGM)である。人口爆発によって生活環境が悪化したニューヨークで人々はスラム、もっと貧しいものは路上で生活している。食料は週に1回配給されるソイレント社の合成食料だ。
というお話だ、当時問題作として話題になった作品なのだが、うるさ型のSFマニアの高校生(私だ!)はまったく感心しなかった、なんとなれば収支が合わないからだ、人体を5~60年間維持するのに必用となったエネルギーと死後その体を再利用して得られるエネルギーではケタが違いすぎる、映画を観るところソイレントグリーンの原料は人体100%なのであきらかに縮小再生産(?)である、すくなくも食料事情の改善には役にたたないだろう。
この映画が問題作となったのは神の子である人と人に供されるために作られた動物というキリスト教圏的考え方に衝撃を与えたからではないだろうか。
映画では原材料たる人間は安楽死施設から供給されているのだが、そこは自分の意思で死を願った人が自主的に足を運ぶ施設で強制は一切ない、死に方も丁寧な問診のあと希望どおりの死に方を選べるのでかなりホワイトである。
そもそも無神論者の私としてはいよいよ切羽詰まったらそれもアリじゃないの、としか思えない、それが肉の形をしていたらイヤだし、個人が特定できてもイヤだが、分解され栄養素としてリサイクルされるなら、そして多少なりとも残された人のためになるならギリギリ許容できそうな気がする、それは臓器提供の先にあるひとつの考え方でしかないと思うのだ。
(ディストピアを描いた映画というと誰もが思いうかべるのが「ブレードランナー」だ、圧倒的ビジュアルイメージによって大ヒットした映画だが公開はソイレントグリーンの10年後である、いかにこの映画が先駆的であったのかということだ)
そしてこの映画に触発されたのか、以下のようなシチュエーションの創作物が増えてきた、曰く、紛争地帯の最前線で兵士が配給された戦闘糧食を喰いながら「お偉いさんたちは本物の肉を食ってるってのに、俺たちにはゴミみてえな人造肉しか回ってこねえ!」と罵るといったものだ。そしてそのような最低の食事に「ディストピア飯」という名前も付き、さらには「ディストピア飯ごっこ」という遊びも生まれた、要するにわざわざ工業製品っぽい無味乾燥な食べ物を作って終末感を味わうという遊びだ。
グーグル先生に「ディストピア飯ごっこ」と画像検索をかけるとマニアの手による怪しい食べ物の画像が多数見つかる(中にはディスカバリー風ペーストご飯もあるが、先に述べたように制作者たちは当時あれをそのような文脈で使ったわけではない、まあ原典を知らないマニアによるエヴァンゲリオンご飯のつもりなのかもしれない)しかし私は原典第一主義のうるさ型SFマニアなのでこれを「ソイレントグリーンごっこ」と呼んでいる。
さて私は職業柄ロケ弁というものを喰うことが多い、そして低予算作品のロケ弁には肉片が見当たらない牛丼とか白いご飯の上に冷凍ハンバーグが1枚乗っているだけ(ほんとうにそれだけ)のハンバーグ弁当などリアルなソイレントグリーン体験をすることがある(多い)某作品で中国に行った時は役者さん達は日航ホテルの幕の内弁当であるのに対し、スタッフは現地弁当屋による「油の海に沈む米粒をすくって食べるほど炒め油たっぷりの野菜炒め弁当」という格差付きリアル・ソイレントグリーン体験もした。
怪しい宇宙食、未来食が好きな私であればそこでソイレントグリーンごっこが出来て願ったりかというとそうでもない、なぜかと言うとそこには重要な要素「人造肉」が抜けているからだ。
ただ貧しいだけではだめ、工業製品っぽいだけでもダメ、格差があるのも当然でそこに更に「偉いさんたちは本物の肉なのに、俺たちは人造肉かよ!」という質的な格差も必用なのである。
人造肉は必須。
ということで次に私が食べてみたいと思うようになったのは人造肉だった、しかし当時これに特段の必然性はなく実現までには時間がかかった、事が進み始めたのは21世紀に入ってから、ベジタリアン、ヴィーガン、動物の権利を標榜する団体の隆盛、地球温暖化、そしてリアルさを増してきた食料危機によって開発が促進されたのだ。
<2006年国際連合食糧農業機関は「畜産業はもっとも深刻な環境問題の上位2、3番以内に入る」と発表した、また世界経済フォーラムは2019年に代替肉についての報告書を出し、今後の増加する人口のタンパク質需要を満たすためにはタンパク質システムの変革が必要だろうと述べている。穀物を動物に食わせその肉を食べるより穀物を直接食べたほうがカロリーベース的に合理的なのは明らかだが食文化というものがあり、人は合理性でのみ生くるにあらずというわけで、肉を食べるのはやめましょうと言っても現実的ではない、ならば人造肉が必用だということだろう>
そしてついに2015年日本でもモスバーガーが大豆由来の人造肉、ソイパティを使ったソイモスバーガーが発売された。 ××研究所で開発に成功しましたとか、どこそこで実験的に売られていますではなく大手ハンバーガーチェーンのメニューに乗ったのだ、人造肉がついに社会に定着した! と思って食べに行ったのだが・・う~~ん、けっしてまずくない、旨いと言ってもいいかもしれない、しかし牛100%のパティにはちょっと及ばない。歯ごたえもそれっぽい、だが明らかに同じではない。ということで、「これで人類は肉を喰う必用がなくなった!」と言えるほどの完成度ではないが「こんもん喰わせやがってお偉いさんは(以下略)」と罵るほどでもない、つまりはビミョーで、これではソイレントグリーンごっこは出来ないのだった。
それから7年、大手ハンバーガーチェーンで穀物由来人造肉をメニューに掲げていないところはない、それほどに人造肉は浸透したわけだが、それがパティであるあたりに限界を感じるとも言える、つまりは相手が挽肉なら食感や見た目がごまかしやすい(!)ということだ。結局見た目も歯ごたえも肉なのに人造肉、真の意味で俺たちには人造肉を喰わせやがって、と言えるような肉はまだない。これはやはり穀物由来の人造肉ではなく培養肉、本当の肉を組織培養して作る肉を待たないといけないのかもしれない。
実際、培養肉もすぐそこまで来ていてシンガポールでは世界初の培養鶏肉の製造販売が始まっている。そして日本では日本ハムが次のようなニュースリリースを出している。
培養液の主成分である動物血清を食品で代替することに成功
~培養肉の商用化実現に向けて前進~
日本ハム株式会社(本社:大阪市北区、代表取締役社長:畑佳秀)は、培養肉の細胞を培養する際に必要となる「培養液」の主成分を、これまで用いられてきた動物由来のもの(血清)から一般的に流通する食品由来のものに置き換えて、ウシやニワトリの細胞を培養することに成功しました。今回の成功により、培養液のコストで大きな割合を占める動物血清を、安価かつ安定的に調達可能な食品に代替できることになり、将来的な培養肉の社会実装に向けて前進しました。
https://www.nipponham.co.jp/news/2022/20221004/
ニワトリ細胞から作った培養肉(3.5cm × 2.5cm、厚さ5mm)
ニュースリリースに付属の写真より
日ハムは近くシャーレによる培養からタンク培養に切り替えると言っている。明るく清潔でひとけの少ない工場に並ぶ透明な培養タンク、中に浮かぶのは肉、というSFチックな光景が見られるのもそう遠くではないだろう。それをブラックと思う向きもあるだろうが動物の肉を食べながらと屠殺という行為から目をそらしている現状よりよほどマシだと私は思っている。
私はいつかその肉を喰いながらこうつぶやくつもりだ「知ってるか?昔は動物を殺して喰っていたんだぜ」と、これがソイレントグリーンごっこの最終形態である。
補遺
その1
人造肉は穀物由来のタンパク質で作られている、多くは大豆タンパクだ、しかし原材料が植物だからといって植物=健康的、動物=不健康というような二元論では考えてはいけない、植物性タンパク質を肉っぽい味と色と見た目と歯ごたえに変更するため多くの添加物が使われているからだ、またその添加物には動物性のものが使われている可能性があるのでベジタリアン、やヴィーガンは成分にも気を配る必要があるだろう。
その2
今のところ「ソイレントグリーンごっこ」を行うにはマクドナルドの「ビッグブレックファスト」のセットがお勧めである。これはビーフ100%のソーセージパティ、スクランブルエッグ、ハッシュポテトにマフィンのセットでドリンクにミルクでも付ければ人工的な要素のきわめて少ないお食事で内容的にはソイレントグリーンからほど遠いのだが見た目の終末感が半端でない。
メニュー写真だけ見るとずいぶんとまっとうに見えるのだが
実際にはこうである
焦げ焦げでパサパサのマフィン、粘土を型抜きしたような薄べったいパティ、入っているのは安っぽさを極めた紙トレー。このトレーは仕切りがなく大きさの割に強度がないのでテイクアウトするとスクランブルエッグが中でバラバラになってこれが人の食い物だろうか的な絵面になってしまう。
要するに雑な食い物なのだがマクドナルドだしお値段がお値段だしそこに文句はない、この3者で出来ている「ソーセージエッグマフィン」はサンドイッチなので手づかみなわけだがそこにも違和感はない。それはそのようなポップでライトな食い物だからだ、違和感があるのはこのビッグブレックファストにはフォークとナイフが付いてくることだ、これまた原価を限界までそぎ落としたようなプラスチック製のフォークとナイフを目にするたび私は「四畳半なのにシャンデリア」という言葉が頭をよぎるのだ、これはフォークとナイフにマナーという言葉を想起してしまう私の自意識過剰な感覚なのだろうか。
ともあれ、何かがひどく間違っているような感覚を覚えながら、紙の皿の上でフォークとナイフを使ってソーセージパティを切っていると「俺たちには人造肉を喰わせながらお偉いさんは今頃本物のビーフってやつを喰ってるに違いねぇ」という言葉が頭をよぎるのだ。
ちなみに見た目最悪なこのビッグブレックファストだが実は味はかなり良い(私は定期的に食べる)なのでなんちゃってソイレントグリーンごっこには最適である、お勧めする。
その3
「人間がいっぱい」は映画ソイレントグリーンの原作、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」はブレードランナーの原作である。どちらも人口爆発/環境破壊で住環境が悪化し街はスラム化しているが上流階級は優雅に暮らしているという格差社会を描いたディストピア物である。どちらも主人公は刑事でその生活水準は市民よりは上だが上流階級から見ると遙かに下の位置にある、彼は上流階級が殺された事件を追い混沌とした救いのない世界の中で孤独な戦いを続ける、というストーリーである。どちらも原作と言われながら出来た映画はまったくの別物になっている。
大ヒットした「君の名は。」から2作目となる新海誠の新作である。「君の名は。」は日本映画歴代3位という驚くべき興行収入を打ち立て社会現象と言われるほどのブームを巻き起こした作品だが私はあまり評価していない。若い男女の心が入れ替わるというのは日本のサブカルチャーでは鉄板のネタだがこの作品で新海誠はもう一つのネタを仕込んだのだ、ラブコメディかと思いきやファンタジーSF&サスペンスという仕掛けだったのだがこの仕込みに大いに問題があった、作品内論理に穴が空いているのだ、ジェリー・パーネルなら「トラックが出入りできるほどの大きな穴が空いている」と言うだろう、その穴以外にもつっこみどころは多くどうみても「ちゃんと考えていない」としか思えない作品だったのだ。
これが小説のように個人の資質がそのまま表れるメディアであるならわからないでもない、作家本人がこだわる部分は細密に関心薄い部分はいい加減になりやすい、しかしシナリオに関与できるプロデューサーや製作指揮という役職のある映画はそうならないはずなのだ普通は。また資格のあるなしに関わらず監督の信頼するメインスタッフであればリコメンドくらいはするものだろう、ところがなぜかこの作品には大穴が空いている。なぜか、といえばこれはもう誰も口を出せない体制であるからだとしか思えない、原作・脚本・監督・絵コンテを一人で兼任しているので現場に降りてきたときにはもう手が出せる状況ではないのかもしれない。
つまりは新海誠が面白いネタ思いついたというところで製作が開始され、シナリオを補強する第三者の目が入っていないのだ、なので新海誠がこだわる部分の出来は素晴らしく考え落ちしている部分は穴となり、こだわり薄い部分はつっこみどころとして残るといういびつな映画になってしまっている。
この傾向には覚えがある、大宮崎、大友克洋、押井守、庵野秀明等々葛藤している時代には傑作があるが大家になって他人が口を出せなくなると得意な部分と不得意な部分が先鋭化してどんどんプライベートフイルムになっていくパターンだ。
これはいかんでしょということで次作「天気の子」は観なかった、今作も観る予定ではなかったのだが新海誠にしては珍しくストーリーに勢いがある、論理的破綻はない(そういう仕込みはない)明確な震災追悼映画であるという話を聞いて観に行った。
たしかに勢いはある、九州に住む女の子が好きな男を助けるため延々日本を北上していくという一種のロードムービーであり、ついには彼女の原点、震災被害の地にたどり着き過去の自分と向き合うという話だ。細かい仕込みがないので作品内論理が破綻するということもないが破綻がないというだけで賞賛できるわけもない。そもそも破綻しないのは首尾が一貫しているからではなく作品内論理が存在しないからだ。新海誠内部にはなにかしらの設定、裏付けがあるのかもしれないが、観ている側には伝わらず作品内で理屈の切れ端が語られるたびに「え、そういう仕組みなの?」「急に出てきた理屈だけどそういう世界観なの?」と思わざるを得ない。またロードムービーなわりには挿入エピソードのたびに話が止まるし、重要キャラクターがドラマの終盤に急に現れるしで映画の着地点が見えない。観客は次々に出てくる新事実に翻弄されただただ流されていくのみだ、なのでラストでこれが最終到達地点、すべてが解決した世界、と言われてもカタルシスを感じることができず消化不良な思いを抱えて劇場を出ることになる。
たった2作を観ただけで断定するのもなんなのだが、どうも新海誠は作品に理屈を通すのが不得手なのではないか(「君の名は。」を観るかぎり1+1が2になるという理屈さえ通っていない)ストーリーを思いつくと、あとは得意な情景描写、感情表現に気を取られ筋が通っているか、それが観客に正しく伝わるか考えないのではないかと思わざるを得ない。そもそもストーリーテラー、シナリオライター、演出家、美術監督を全て一人でまかなえる人間がいるとは思えない。ストーリーを考えたらあとは信頼出来るシナリオライターに任せるというくらいでないと新海誠の映画はいつまでもプライベートフイルムに収まってしまうだろう。
ということで今作は「面白くないこともない」程度に留まる、たぶん次作は観ないだろう。
当然だが人にお勧めはできない。もしあなたがアニメ好きであり新海誠という名に興味があるなら「君の名は。」こそ観るべきだろう、穴が空いていようとなんだろうとその映像美には一見の価値があるからだ。