2025
予告編でゴジラとキングコングが並んで走っているのを見てこいつはヤバイ!と確信した。

映画においてストーリーがもっとも重要なのは当然だが、同じくらい重要なのが登場人物の魅力である、その人間が何を語りどう行動するか、どんなバックボーンがあってどんな性格なのか、それが観客に伝わらないではそれこそお話にならないし逆に主人公に魅力があれば物語に多少の傷があっても問題なかったりする。
「7人の侍」の三船は演技は大根だしセリフも棒読みだが画面から伝わってくるエネルギー、精気がすさまじく観客を魅了する。
リリー・フランキーは「黒蜥蜴」に対し「映画とは、どんなに話がヨレて演技も演出も死んでいようが、主役がキまくっていればそれでイイという、お手本の作品がこれだ」と言っている。
上のような状態を俗に「キャラが立っている」と言う。そして出てくるだけでキャラが立ち映画を支えることができる役者は「大スター」と呼ばれる、しかし着ぐるみやCGといった非実在俳優(?)にその存在感を与えるのは難しい。
ところで私は最近「LOWレベルの満足」という言葉を発明した。映画を観る観客はハデなアクションや特殊効果を見て歓声を上げる一方「これは役者本人ではないにせよ誰かが実際高いところから飛び降りたのだ」とか「ミニチュアかもしれないが実際に建物を爆破しているのだ」と思って興奮する、あるいは「凄いカーアクションに見えるがこれフルCGなのでは?」と思って鼻白む、というようなことだ。つまり観客に真の満足を与えるには表に見える映画表現の他にそれを背後で支えるリアルが必要ということでありそれが満たされた状態を「LOWレベルの満足」と呼ぶということだ。(このことを誰よりもよくわかっているのがトム・クルーズであろう)
なので非実在俳優は難しい、彼等は映画の中だけにしか存在せず真の肉体もバックボーンもない。故に「キャラが立つ」出てくるだけでも拍手喝采となる、のは至難の業だ、そのようなハンデを背負いながら大スターという位置にまで登りつめたのがゴジラでありキングコングなのだ。
もちろんこれには長年に渡る関係者の工夫と努力があってのことだ。そういう意味で言うと今回の「爆走するゴジラとキングコング」には問題がある。。
キングコングが躍動感あふれる走りを見せるのは良い、彼は拳一個でのし上がった髑髏島の王でありその脳筋ぶりが愛されているからだ、しかしゴジラは違う、彼は不死身の肉体を持ち、全ての怪獣にとっての王であり、人知の及ばぬ荒ぶる神である、彼は威厳をもって周囲を睥睨する怪物なのだ。だから彼は焦ってはいけないし急いではいけないし、ましてやキングコングと同等の速度(!)で走ってはいけない。
このカットによってゴジラの神性は失われ、重厚さが剥がれ落ち、まるでゆるキャラのようになってしまった、更に言えば全力で走ってもゴジラと同じ速度しか出ないという絵面によってキングコングの運動能力にもクエスチョンが付いてしまった。つまりは長い努力の末に確立したはずのキャラを一気に失墜させているのだ、登場人物(?)のキャラを立てることが映画にとってどれだけ重要かは映画人であれば骨身にしみて知っているはずなのだがどうしてこのような企画が通ったのか不思議でならない。

ターミネーターがシュワちゃんの映画であり、インディ・ジョーンズがハリソン・フォードの映画であり、バイオハザードがミラ・ジョボビッチの映画であったようにエイリアンはシガニー・ウィーバーの映画だった。しかし、いかなヒーロー、ヒロインといえど寄る年波には勝てず、やがて「いや、これは苦しいだろう」という絵面になってシリーズは終わりを迎える。(ミッションインポッシブルでトムクルーズはまだ頑張っている ^^)
ドル箱を惜しむ映画会社は主役の差し替えを行いあるいは路線変更をして続編を製作したりもするがほとんど成功しない。
エイリアンはリドリー・スコットが30年ぶりにメガホンを取り「プロメテウス」でリブートした。この映画の主人公ショウ博士は行動力のある女性科学者でありリプリーと同等の魅力があった。話は始まったばかりで彼女の冒険はこれからだ!で終わるのだが、このあとリドリー(の内面)に何かあったらしく次作コヴェナントでは彼女はすでに死んでいる(!)リドリーの関心は脇役であったアンドロイドのデヴィッドに移っており、人から生まれた人ならざるものの悲哀という形而上のドラマになってしまったのだ。
この「人から生まれた人ならざるものの悲哀」というのはリドリーが製作総指揮を務めた「ブレードランナー 2049」のメインテーマである。長らくハデなアクションと特殊効果でエンターテインメントの王道を驀進してきたリドリーだが老境に入って(プロメテウスの時に76歳)人とは何か生きるとは何かという深みのある映画が作りたくなったのかもしれない(映画に限らず小説家でもありうる現象ではある)とはいえしかしそれをエイリアンでやるのは悪手である。
デヴィッド君は自分が知性、肉体ともに人間より優れた存在であるという自覚を持っている、しかし「創造主」たる人間には従うほかない。そこで彼は人を超える「完璧な生命体」を作り出し自らが「創造主」となってその頸木から逃れようとしているのだ。
これがエイリアンの前日談である以上その創造物があのエイリアンなのだろう(劇中「創造物」が登場するたびにだんだん初代エイリアンに近くなる)
ところで、エイリアンは「完璧な生命体」「宇宙最強」とよく言われるのだが、実際は生殖本能と攻撃本能しかない半端な生物ある。1作目で手こずったのはノストロモ号の乗組員が戦闘員ではなかったことと、腐食性の体液が宇宙船と相性が悪かったからだ、2作目にいたっては宇宙海兵隊が油断しただけである、普通に銃が効くのだから飛び道具のないエイリアンなど本来軍隊の相手にならないはずなのだ。そしてここが最大の問題だが自分の知性に自信がありそれゆえ自分が人類より上にいると自覚するデヴィッド君だがその創造物には知性のかけらもない。これでは地球上にいくらでも居る猛獣と同じである。そんな動物をいくら生み出したとしても「創造主」とはなり得ないだろう。このシリーズの行き着く先が初代エイリアンならリドリーの新シリーズは間違った方向に進んでいるとしか思えない。
止めるやつはいなかったのか、と思うのだが天下のリドリーに物言える人間はいないのかもしれない。
この拗らせたリドリーに危機感を覚えたのかどうか 20th Century Studio はシリーズ進行中であるにもかかわらず別なエイリアン映画を製作した、これが今作エイリアン:ロムルスである、初代から分岐したアナザーストーリーと言えるだろう。
外面はパチパチした絵面ながら内容は思索的であるという道迷い中のリドリーエイリアンから一旦離れ、初心に返ってエンターテインメントで勝負ということなのだろう。
だろうとは書いたものの、これが原点回帰を第一目標に作られているのは明らかである、見たような道具立てにシチュエーション、既視感のある絵面のオンパレードなのだ。そのため破綻しているところは特になく観ている最中はまあまあ楽しめるのだが後に残るようなものはなく、劇場を1歩出ると何を見たのかまるで覚えていない。今回感想を書こうと思ったのだが何も思い出せないので何も書けなかった。思うのは1作目のエイリアン(46年前!)は傑作だったのだなあということだけだ。
この映画について「1作目を観ていない最近の映画ファンにもお勧めできる映画」という映画評論を散見するのだが、これのために劇場に足を運び1800円なり払うなら自宅のTVモニターで1作目を観たほうがよほどマシ、というのが良心的な態度というものだろう、まあそんなことは死んでも言えないのが映画評論家のつらいところなのかもしれないが。

映画においてストーリーがもっとも重要なのは当然だが、同じくらい重要なのが登場人物の魅力である、その人間が何を語りどう行動するか、どんなバックボーンがあってどんな性格なのか、それが観客に伝わらないではそれこそお話にならないし逆に主人公に魅力があれば物語に多少の傷があっても問題なかったりする。
「7人の侍」の三船は演技は大根だしセリフも棒読みだが画面から伝わってくるエネルギー、精気がすさまじく観客を魅了する。
リリー・フランキーは「黒蜥蜴」に対し「映画とは、どんなに話がヨレて演技も演出も死んでいようが、主役がキまくっていればそれでイイという、お手本の作品がこれだ」と言っている。
上のような状態を俗に「キャラが立っている」と言う。そして出てくるだけでキャラが立ち映画を支えることができる役者は「大スター」と呼ばれる、しかし着ぐるみやCGといった非実在俳優(?)にその存在感を与えるのは難しい。
ところで私は最近「LOWレベルの満足」という言葉を発明した。映画を観る観客はハデなアクションや特殊効果を見て歓声を上げる一方「これは役者本人ではないにせよ誰かが実際高いところから飛び降りたのだ」とか「ミニチュアかもしれないが実際に建物を爆破しているのだ」と思って興奮する、あるいは「凄いカーアクションに見えるがこれフルCGなのでは?」と思って鼻白む、というようなことだ。つまり観客に真の満足を与えるには表に見える映画表現の他にそれを背後で支えるリアルが必要ということでありそれが満たされた状態を「LOWレベルの満足」と呼ぶということだ。(このことを誰よりもよくわかっているのがトム・クルーズであろう)
なので非実在俳優は難しい、彼等は映画の中だけにしか存在せず真の肉体もバックボーンもない。故に「キャラが立つ」出てくるだけでも拍手喝采となる、のは至難の業だ、そのようなハンデを背負いながら大スターという位置にまで登りつめたのがゴジラでありキングコングなのだ。
もちろんこれには長年に渡る関係者の工夫と努力があってのことだ。そういう意味で言うと今回の「爆走するゴジラとキングコング」には問題がある。。
キングコングが躍動感あふれる走りを見せるのは良い、彼は拳一個でのし上がった髑髏島の王でありその脳筋ぶりが愛されているからだ、しかしゴジラは違う、彼は不死身の肉体を持ち、全ての怪獣にとっての王であり、人知の及ばぬ荒ぶる神である、彼は威厳をもって周囲を睥睨する怪物なのだ。だから彼は焦ってはいけないし急いではいけないし、ましてやキングコングと同等の速度(!)で走ってはいけない。
このカットによってゴジラの神性は失われ、重厚さが剥がれ落ち、まるでゆるキャラのようになってしまった、更に言えば全力で走ってもゴジラと同じ速度しか出ないという絵面によってキングコングの運動能力にもクエスチョンが付いてしまった。つまりは長い努力の末に確立したはずのキャラを一気に失墜させているのだ、登場人物(?)のキャラを立てることが映画にとってどれだけ重要かは映画人であれば骨身にしみて知っているはずなのだがどうしてこのような企画が通ったのか不思議でならない。

ターミネーターがシュワちゃんの映画であり、インディ・ジョーンズがハリソン・フォードの映画であり、バイオハザードがミラ・ジョボビッチの映画であったようにエイリアンはシガニー・ウィーバーの映画だった。しかし、いかなヒーロー、ヒロインといえど寄る年波には勝てず、やがて「いや、これは苦しいだろう」という絵面になってシリーズは終わりを迎える。(ミッションインポッシブルでトムクルーズはまだ頑張っている ^^)
ドル箱を惜しむ映画会社は主役の差し替えを行いあるいは路線変更をして続編を製作したりもするがほとんど成功しない。
エイリアンはリドリー・スコットが30年ぶりにメガホンを取り「プロメテウス」でリブートした。この映画の主人公ショウ博士は行動力のある女性科学者でありリプリーと同等の魅力があった。話は始まったばかりで彼女の冒険はこれからだ!で終わるのだが、このあとリドリー(の内面)に何かあったらしく次作コヴェナントでは彼女はすでに死んでいる(!)リドリーの関心は脇役であったアンドロイドのデヴィッドに移っており、人から生まれた人ならざるものの悲哀という形而上のドラマになってしまったのだ。
この「人から生まれた人ならざるものの悲哀」というのはリドリーが製作総指揮を務めた「ブレードランナー 2049」のメインテーマである。長らくハデなアクションと特殊効果でエンターテインメントの王道を驀進してきたリドリーだが老境に入って(プロメテウスの時に76歳)人とは何か生きるとは何かという深みのある映画が作りたくなったのかもしれない(映画に限らず小説家でもありうる現象ではある)とはいえしかしそれをエイリアンでやるのは悪手である。
デヴィッド君は自分が知性、肉体ともに人間より優れた存在であるという自覚を持っている、しかし「創造主」たる人間には従うほかない。そこで彼は人を超える「完璧な生命体」を作り出し自らが「創造主」となってその頸木から逃れようとしているのだ。
これがエイリアンの前日談である以上その創造物があのエイリアンなのだろう(劇中「創造物」が登場するたびにだんだん初代エイリアンに近くなる)
ところで、エイリアンは「完璧な生命体」「宇宙最強」とよく言われるのだが、実際は生殖本能と攻撃本能しかない半端な生物ある。1作目で手こずったのはノストロモ号の乗組員が戦闘員ではなかったことと、腐食性の体液が宇宙船と相性が悪かったからだ、2作目にいたっては宇宙海兵隊が油断しただけである、普通に銃が効くのだから飛び道具のないエイリアンなど本来軍隊の相手にならないはずなのだ。そしてここが最大の問題だが自分の知性に自信がありそれゆえ自分が人類より上にいると自覚するデヴィッド君だがその創造物には知性のかけらもない。これでは地球上にいくらでも居る猛獣と同じである。そんな動物をいくら生み出したとしても「創造主」とはなり得ないだろう。このシリーズの行き着く先が初代エイリアンならリドリーの新シリーズは間違った方向に進んでいるとしか思えない。
止めるやつはいなかったのか、と思うのだが天下のリドリーに物言える人間はいないのかもしれない。
この拗らせたリドリーに危機感を覚えたのかどうか 20th Century Studio はシリーズ進行中であるにもかかわらず別なエイリアン映画を製作した、これが今作エイリアン:ロムルスである、初代から分岐したアナザーストーリーと言えるだろう。
外面はパチパチした絵面ながら内容は思索的であるという道迷い中のリドリーエイリアンから一旦離れ、初心に返ってエンターテインメントで勝負ということなのだろう。
だろうとは書いたものの、これが原点回帰を第一目標に作られているのは明らかである、見たような道具立てにシチュエーション、既視感のある絵面のオンパレードなのだ。そのため破綻しているところは特になく観ている最中はまあまあ楽しめるのだが後に残るようなものはなく、劇場を1歩出ると何を見たのかまるで覚えていない。今回感想を書こうと思ったのだが何も思い出せないので何も書けなかった。思うのは1作目のエイリアン(46年前!)は傑作だったのだなあということだけだ。
この映画について「1作目を観ていない最近の映画ファンにもお勧めできる映画」という映画評論を散見するのだが、これのために劇場に足を運び1800円なり払うなら自宅のTVモニターで1作目を観たほうがよほどマシ、というのが良心的な態度というものだろう、まあそんなことは死んでも言えないのが映画評論家のつらいところなのかもしれないが。